この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

書籍紹介・書評

等持院発行の冊子と、建武中興十五社会発行の冊子を読み比べる

先月28日の記事今月4日の記事では、足利将軍家の菩提寺である京都の等持院を取り上げましたが、その等持院でかつて頒布していた冊子(私がその冊子を入手したのは今から10年程前に等持院を参拝した時の事なので、現在も等持院でそれを頒布しているかどうかは分かりません)に、足利尊氏についての詳しい解説が載っていました。

等持院

今改めて読み返してみると、いかにも等持院らしいなと思える、なかなか興味深い内容の解説だったので、以下にその文章をそのまま転載致します。


足利尊氏

仁山妙義という法名で祀られた足利尊氏は、先にも述べたように、決して武断一辺の武人ではなかった。その法名からでも衣笠の山容が連想されるほど、尊氏という人は豊かな人間味の満ち溢れた温情家であった。

延元一年(建武三年、一三三六)五月二五日に、新田義貞の大軍を兵庫に撃破し、義貞敗退のあとに小勢を以て踏みとどまった楠木正成が湊川に討死にをされた時も、ただ一すじに後醍醐天皇のご安泰を願って行動をつづけていた正成の真情に、いたく同情して、その首級の供養堂に五〇町の寺領をそえているばかりでなく、天龍寺所蔵の光厳上皇宛のお伺い書にも、正成を直接取り囲んで窮地に逐いこんだ美濃・播磨の党には、希望どおりの恩賞を与えることを差控え、これらの者が義貞討伐に功をたてた上で改めて賞賜の沙汰をいたしたいと記しているほどである。

その年の八月一五日に清水寺の観世音の宝前に捧げられた願文には、世のはかなさを述べて、尊氏自身に仏心を起こさせるようにと観世音の済度を哀願し、一刻も早く世のわずらわしさから抜け出したいと念じて、現世の果報よりも後世の安隠に、ひたすら祈願をこめる旨が美しい筆蹟で記されている。

かって、元弘三年(正慶二年、一三三三)五月、足利高氏(尊氏)が京都六波羅の北条勢を攻め、新田義貞が鎌倉を陥れたにもかかわらず、建武中興の後、またまた鎌倉に北条氏の残党が活発な動きを見せだした時、尊氏は後醍醐天皇の勅許をまたずに征東将軍と称して関東へ下った。建武二年(一三三五)八月二日のことである。尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである。殊に、武蔵・相模・伊豆は尊氏が朝廷から与えられた知行国であり、八月九日には、おくればせながら尊氏を征東将軍に補任する旨が発令されたのであるから、決して、尊氏自身が叛逆の意図をもって鎌倉へ向かったと非難することはできない。つまり、義貞の鎌倉征めの不手ぎわを後始末をつけに行かれたと見るべきである。

しかし、この尊氏の行動は、却って義貞の思うつぼに陥ることとなった。尊氏が鎌倉におちつき、北条の再起を抑え関東の平穏を願って奥羽を警戒されたことが、義貞をして尊氏を謀叛心ありと言わせる口実となった。

尊氏は、義貞や公家たちが王朝政権を掌握することをあやぶんで、幕府の再編を図ることを良策とされたが、新田・足利両氏共に源氏の正統であり、将軍職に就いて政権を樹立する資格を持っていただけに、義貞・尊氏の対立は、ここに至って一そう激しさを加えた。かくて義貞は、尊氏朝敵なりと強張した。

楠木正成は、ひたすら天皇のご安泰を祈って行動された人であるから、王朝勢力を背景にしようとした義貞側にあると言えるわけではあるが、尊氏の考え方にも大いに同調して、義貞らの確信の持てない政治よりは、むしろ尊氏の幕府政治の方が、天皇はご安泰であるとさえ考えておられた。

北条氏の失政を憎まれて討幕を企図された後醍醐天皇にお味方した義貞も、源氏の名門として天下を握ろうと念願していたことは事実である。しかし、尊氏ほどの政治力がなかった。

そこで、楠木正成が朝廷の軍議で、尊氏との和睦を主張されたという梅松論の所伝も、正成が、鎌倉時代のような朝幕関係に立ち戻ることの賢明さを、よくわきまえておられたことを明らかにしていると言える。

延元一年(建武三年、一三三六)二月一一日に、尊氏の大軍が京都の戦いに敗れて九州に走った時も、正成は摂津の西宮まで追いながらも、夜には兵をまとめて京都に引きあげ、その後も、勝利に酔いしれている公家たちの振舞いを快しとせず、後醍醐天皇に対して、義貞を討って尊氏を召し返し、尊氏と和睦されるのが何よりの得策と考えるから、その使者は自分がお引受け申したいと献言し、更に、朝権回復ができたのは尊氏の功績によるところで、義貞が鎌倉を攻めおとしたとは言っても、その後の天下の武士が尊氏に伏しなびき心服していることを見ると、尊氏は武力ばかりでなく人徳によって敵を随従させる人である。つまり、尊氏は戦争と政治とを併せ行っている。それに反して、義貞にはその徳がない。義貞につき従うべき軍勢すなわち尊氏に降って官軍に参加した京都の武士までが、尊氏について九州へ走っている。これを思えば、尊氏がやがて九州の大軍をまとめて京都に征め上ることは明らかなことである―と、時の情勢を見通し、人心の動きを見抜いた意見を述べられたのである。

源氏の主流でありながら、尊氏に政権掌握の機先を制せられたと考えて、巧みに尊氏を朝敵に仕立て、独り尊王家をよそおっていた義貞が、正成を低い旗頭程度に扱って、湊川の死地に陥れたことを、尊氏が天下国家のために大いに憤慨されたのは当然である。それが、光厳上皇へのお伺い書でも感じ取れる。

後に正成の子の正儀が、足利方の細川頼之らと工作して南北朝の合体を実現し、正成・尊氏の霊に報いたのである。


足利将軍家の菩提寺であり境内に尊氏のお墓もある等持院の立場からすると当然の事なのでしょうが、やはりこの冊子では、尊氏の事はかなり高く評価されています。冒頭から「決して武断一辺の武人ではなかった。その法名からでも衣笠の山容が連想されるほど、尊氏という人は豊かな人間味の満ち溢れた温情家であった」と惜しみない賛辞を贈っている事からも、それは明らかです。
私自身も尊氏の事は高く評価しているので、その姿勢には特に異論は無いのですが、ただ、どうもやや過剰に高く評価し過ぎているような気もします(笑)。

それは兎も角、一般的には、敵対している二つの勢力の一方を主人公として高く評価すると、それに反比例して、もう一方の勢力は低く評価される傾向がありますが、等持院発行のこの冊子に於いては、尊氏の事を極めて高く評価しつつも、尊氏と敵対した楠木正成に対しても、同様に高い評価が与えられています。
つまり、尊氏を高評価しているとはいっても、この等持院の冊子の立場は、北朝方の人物のみを高評価しているという単純な“北朝史観”ではないのです。

しかし、味方と敵、双方の武将が、共に政治家としても軍人としても優秀で、あまつさえ人格も優れていたとしたら、そもそも最初から戦いなどは起こらないような気がします。
というわけで、誰かを悪役にする必要があったから、とまで言ってしまうとさすがにそれは私の邪推かもしれませんが、恐らくは尊氏と正成を高く評価したしわ寄せとして、結果的に、この等持院の冊子では新田義貞が随分と低く評価されているように感じられます。
戦前や戦中の、所謂“皇国史観”の全盛とされた時代(特に明治時代末期頃から終戦頃までの時期)は、後醍醐天皇は歴代天皇の中でも屈指の名君と評され、5月4日の記事で詳述したように、その後醍醐天皇に叛いた尊氏は朝廷に弓を引いた逆賊として極悪人扱いされましたが、戦後は一転して、後醍醐天皇こそが南北朝動乱の混乱を招いた当人として、堂々と後醍醐天皇を批判する歴史学者や歴史作家等も多くなってきましたが、この等持院の冊子ではさすがに後醍醐天皇への批判は控えており(「建武の新政」ではなく「建武中興」という言葉を用いている事から、むしろ後醍醐天皇の政治姿勢は評価していると思われます)、結果としてその分、(もしかするとこれは私の曲解かもしれませんが)義貞が批判の全てを背負わされてしまったという感も、無くはありません。

特に、以下の文章などには、尊氏への高評価と義貞への低評価が凝縮されています。これが歴史的に真実であるか否かは別にして、少なくとも南朝史観の立場に立つ人達にとっては、これをそのまま認める事は出来ないでしょう。
「尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである(中略)義貞の鎌倉征めの不手ぎわを後始末をつけに行かれたと見るべきである」
「巧みに尊氏を朝敵に仕立て、独り尊王家をよそおっていた義貞が、正成を低い旗頭程度に扱って、湊川の死地に陥れたことを、尊氏が天下国家のために大いに憤慨されたのは当然である」

また、何かと内輪もめを繰り返していた北朝(幕府)側に比べて、南朝は、勢力としては小さくても忠臣揃いで、常に団結し、皆、心を一つにしていた、という南朝史観を抱く人にとっては、その前提を覆す事になってしまうためなるべく触れて貰いたくはない、南朝から幕府に寝返った楠木正儀(後にまた南朝に帰順しますが)についてあえて文末で触れているのも、些細な事ながらもこの等持院の冊子の特徴の一つと言えるかもしれません。


さて、ここでもうひとつ、全く別の文章を紹介致します。
これは、1月20日の記事で紹介した冊子「建武中興六七〇年記念 南朝関係十五神社巡拝案内記 -附・十五社御朱印帳-」に掲載されていた、建武の新政についての解説文で、内容的には、等持院発行の冊子に書かれている文章とはほぼ“正反対”の立場を採っています。
ちなみに、下の画像は建武の新政を行なった後醍醐天皇で、日本史の教科書にも掲載されている特に有名な肖像画です。

後醍醐天皇

等持院の冊子に掲載されていた文章は足利尊氏について書かれたものですが、こちらの文章は建武の新政について書かれたもの(尊氏についても触れられていますが、尊氏について限定して書かれてものではありません)なので、テーマは異なるのですが、同時代という事もあって取り上げる範囲についてはかなり重複する部分が多いので、長文になりますが以下にそのまま転載致します。


建武中興について

第九十六代後醍醐天皇は後宇多天皇の第二皇子で、文保二年(一三一八)に異例の三十一歳で即位され、延元四年(一三三九)に崩御されるまで、二十一年間の永きにわたって在位せられた。その間、幾多の苦難をたどりつつ、天皇親政による国家中興への力をつくされ、その強い御決意の実現となったのが「建武中興」である。しかし、足利尊氏の謀反によって、わずか二年余で中断されることとなるが、この建武中興は、わが国の歴史において、実に重要な意義を有するのであった。

源頼朝の武家政治に始まる鎌倉時代には、注目すべき二つの事件があった。その一つは承久三年(一二二一)の「承久の変」で、後鳥羽上皇による討幕計画が失敗に終って、上皇は隠岐に流され、崩御された。いま一つの事件は、蒙古襲来である。二度にわたる強大な国家を誇る蒙古の襲来は、政治・経済などに多くの影響を与えた。かつてない外圧に国民は悲観絶望の感を深くするが、この二事件を通じて“わが国は「神国」(天照大御神の皇孫たる天皇を大君とあおぐ国)なり”との思想・信仰を深め、やがて政治を顧みて、わが国中興の機運が高まってゆくのである。
そんな中で後醍醐天皇は、御父帝・後宇多上皇の院政を廃止され、朝廷内での天皇親政を実現された。天皇は、かつて延喜・天暦の御代の盛時を思われ、醍醐・村上両天皇の善政を理想とし、国家の中興を志された。もって御在世のときから「後醍醐」と称せられ、その心を継いで盛時を復古する目標を示されたのである。
そして意欲的に親政の徹底を図るよう、人材の登用、朝儀の復興、因習の廃止、記録所の復活など、果敢に改革を進められたが、その理想実現には、どうしても幕府打倒が不可欠、且つ、喫緊の課題となり、専横を極めていた鎌倉幕府を倒して、政治の一元化を図る決意を示されたのである。
よって倒幕に向けて、正中元年(一三二四)と元弘元年(一三三一)の二度にわたり計画が進められたが、残念にも失敗に終わった。

後醍醐天皇は、ひそかに御所を逃れられ、笠置山に入られた。笠置山に義旗が上がったのに呼応し、お召しを受けた楠木正成公が赤坂城にて挙兵、智謀をつくして幕府の大軍と戦われるのである。やがて笠置山は落城し、元弘二年(一三三二)天皇は幕府(北条高時)によって隠岐の島に配流される。楠木正成公は赤坂城を逃れ、一時姿を隠され、のち千早城にたてこもられることとなる。同様に身をひそめつつ活動を続けられる大塔宮尊雲法親王(護良親王)は、正成公と連絡をとられつつ吉野に挙兵、しかしまもなく吉野城は陥落、北条の大軍は孤城千早を一挙に落すべく激しい攻撃をかけた。だが智謀・策略の手段をつくされた正成公の必死の戦いには、幕府大軍勢といえども、数ヶ月かかってもなお、陥れることができなかった。この間大塔宮は、北条軍の糧道を絶つなどの活躍をされるとともに、全国の武士に令旨を発して決起を促された。
楠木正成公が千早城で幕府の大軍と戦っておられる間に、後醍醐天皇は、元弘三年(一三三三)ひそかに隠岐を脱出、名和長年公を召されて、伯耆国(現鳥取県)船上山にお入りになった。天皇の非常な危険を犯してまでの行動から、国家中興の理想実現へのなみなみならぬ決意が推察される。
船上山に義旗がひるがえると、名和氏・千種氏の活躍に呼応する者も出て、赤松円心が義軍に加わるなど、また九州の菊池武時公も義兵をあげられた。
足利尊氏は、幕府の督促を受けるが、謀反して義軍に加わり、六波羅を攻撃。これと時を同じくして新田義貞公は、結城宗広公等と連絡をとりつつ関東に兵をあげられ、鎌倉幕府の本拠を攻撃、元弘三年五月、ついに鎌倉を手中におさめられた。北条高時は自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡した。このような東西義軍の奮起を促したのは、大塔宮の御活躍の功によるところ大きく、そしてその宮の御活動を支えたのは、実に楠木正成公が千早城に拠って半年間も戦い続けたことによるものといえよう。
かくて元弘三年(一三三三)六月、後醍醐天皇は船上山から京都に還幸され、皇位に復帰、天皇による新しい政治が行われることとなった。そして翌年年号は、「建武」と改元された。

中興が実現すると、国内の安定と治安の維持に向けて、各方面の新しい政策が進められた。まず交易流通を円滑にして経済の発達をはかるため関所を停止し、その他商業を保護する方策や貨幣の鋳造・紙幣の発行を行い、奢侈を禁止し、所領安堵を図り、徳政を実施するなど、新しい政治が取り進められたのである。
だがそんな中興政治が進められる中、足利尊氏は、武士の関心を集め、次第に武家勢力を拡大させ、それに乗じて護良親王を鎌倉に幽閉、やがて反尊氏勢力の中心となった新田義貞公と対立を深めることとなる。尊氏は武家政治を実現しようとするのに対して、義貞公は幕府を否定して天皇を中心とした国家の姿を維持しようとする点で、根本的に異なる立場にあるからである。
そんな中、建武二年(一三三五)、北条氏の残党、北条時行が兵をあげて鎌倉を占拠(中先代の乱)。これがもとで尊氏は、義貞公を討つことを名目に、公然と朝廷に反旗をひるがえした。これによって世は再び混乱に陥り、建武中興はここに瓦解の已むなきに至るのである。
その後叛逆の尊氏は、北畠顕家公等の朝廷軍に敗れて、九州へ敗走する。九州では足利軍に対して、菊池軍が奮戦されるが、敗退を余儀なくされた。
やがて足利尊氏は、弟直義と共に、大軍を率いて上洛して来る。これを阻止しようとする新田・楠木両軍は、兵庫・湊川でこれを迎え撃つが、多勢に無勢で力つき、義貞公は敗走、正成公は「七生滅賊」を誓い、討死された。後醍醐天皇は再び比叡山に逃れられた。足利尊氏は、建武三年(一三三六)入京、光明天皇を践祚させる。これをもって事実上の幕府再興となり、同時に建武中興の御代は、二年半ばで終わることとなった。楠木正成公の戦死によって事実上の崩壊となった、と言えよう。

後醍醐天皇は、この年の二月に元号を「延元」と改められたのであるが、のち十二月には吉野へ遷られて再起を期されることとなった。「吉野ハ延元元年、京都ハ建武三年也。一天両帝南北京也」と言われたように、南北両朝に二人の天皇が、二つの年号を用いて、南北朝分立の時代を迎えたのである。
かかる窮地へと追われても後醍醐天皇は、理想実現にはいささかも揺ぐことのない堅い御決意をもって、京都回復への策を進められた。新田義貞公は、越前・金崎城に拠って足利軍と戦われる。天皇は陸奥の北畠顕家公に上京を命じられる。また東海道・遠江には尊澄法親王が下向される。尊澄法親王は、延元二年還俗せられて、名を“宗良”と改められた。九州では菊池氏が奮起され、もって九州義軍の活動もさかんとなった。
天皇の命にこたえ陸奥の北畠顕家公が京へ向って霊山を出発されたのは、延元二年(建武四年・一三三七)、この報をきっかけに、各地義軍の京都進撃が促された。霊山を発した北畠顕家公は、南下されて鎌倉から遠江へ。ここで宗良親王の軍と合流、足利軍と戦われながら摂津に至り、一挙に京を衝く態勢となった。しかしその矢先、大将顕家公が戦死されて敗退。新田義貞公の義軍も京都回復が絶望となり、義貞公は、越前の藤島で討死されたのである。
京都回復の計画は、京都を目前にして、失敗に帰した。しかし後醍醐天皇は、これにもくじけられなかった。義良親王を奥州に下され、結城宗広公が護衛となられ、北畠親房公も同伴された。また宗良親王は遠江に向わせられ、その皇子がこれに従われるなど、天皇は、京都中心の勢力を奥州へ移されるとともに、九州へは征西将軍として懐良親王を派遣された。だが、計画は困難を極め、成功するに至らなかった。
後醍醐天皇が吉野に遷らせられて二年有余、ひたすら京都を回復して国家中興を図ろうとされた雄図は、あいつぐ武将の戦死、計画の挫折によって、実現の途は遠くなり、後醍醐天皇は、悲痛のうちに延元四年八月十六日、御歳五十二歳で崩御せられたのである。
「玉骨はたとえ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕を望まんと思う」と、最後まで国家中興を願われた。天皇親政による神国理想の国づくりのため、不撓不屈の御精神をもって闘われ、尊い御生涯を閉じられたのである。

後醍醐天皇の大いなる御志は、後村上、長慶、後亀山の三代の天皇とその皇子達に継承され、更に幾多の忠臣、義士の純忠至誠をもって、以後の幕府政治に対して、大義をかけた永い闘いが続けられてゆくのである。一門一家をあげて忠義を貫いて已まず、楠氏にあっては一族全滅して痕跡を残さぬまでに至った。ここに楠公精神があり、これに象徴される多くの忠臣義士の尊い精神が、時代を超えて全国に伝わり、幾多の志士を奮起せしめることとなるのである。
「太平記」「神皇正統記」をはじめとして、「日本外史」などの普及と共に、山崎闇斎等儒学者によっても、建武中興への忠臣義士の精神が広められ、また南朝を正統と定めた「大日本史」の編纂と、その他水戸光圀公の楠公景仰に伴う事蹟は、後世へ多大の影響を与えた。更に幕末志士は、水戸学の影響を受け、西郷隆盛、橋本景岳、吉田松陰など会沢正志斎の感化も大きく、また真木和泉守は、のち明治天皇の治世に大きな影響を及ぼしたと言われる。
こうして江戸幕末の一大国難に直面して、幕末の志士は、わが国の真姿回復に向け、明治維新を断行した。王政復古がなり天皇親政が実現したのは、建武中興から数えて、実に五三〇年もの永きを経てからのことであった。
わが国の本義は、「神国」にあり、建武中興において、わずかにでも曙光を歴史に留められた意義は大きい。日本民族の奥深く流れる思潮等は、やがて重大国難に著しくその姿を現わし、もって明治維新を招いた。そして明治の御代、明治天皇の鴻業によって、近代日本の理想国家への道が開かれたのである。


この冊子を発行している建武中興十五社会が、南朝の天皇・皇族・公卿・武将を御祭神としてお祀りしているお宮(言い方を変えると、北朝や足利将軍を是としない立場にあるお宮)により構成されているという事情から、当然の如く、南朝に対しては好意的で高評価な文章で、逆に、尊氏に対しては厳しい内容となっています。
楠木正成に対しての評価が高い点以外、先に紹介した等持院発行の冊子の文章とは、基本的にほぼ真逆の内容といえます。

例えば、等持院の冊子では、「尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである」と書かれ、尊氏はあくまでも建武の新政を守ろうとしていた、という事が強調されていますが、建武中興十五社会の冊子のほうでは、建武の新政については、「足利尊氏の謀反によって、わずか二年余で中断されることとなる」「これがもとで尊氏は、義貞公を討つことを名目に、公然と朝廷に反旗をひるがえした。これによって世は再び混乱に陥り、建武中興はここに瓦解の已むなきに至るのである」などとあり、建武の新政が崩壊した元凶は尊氏にあるかのように書かれています。
今日、日本の歴史学では、建武の新政の崩壊は、建武政権による論功行賞の失敗が最大の原因と解されており、それはつまり、その論功行賞を実行した後醍醐天皇にその原因があるという見方なのですが、十五社会の冊子は、その見方とは全く相反する見解となっているのです。

そもそも、建武中興十五社会に加盟しているお宮で御祭神としてお祀りされている公家や武将(北畠親房、北畠顕家、楠木正成、新田義貞、名和長年、菊池武時、結城宗広)や、南朝に理解のあった人物(徳川光圀)については、文中では「公」という敬称が付けられており、それに対して、それ以外の人物については呼び捨てにしている、という時点で、十五社会の冊子の立場は至極明らかです。
ちなみに、播磨の守護・赤松円心は、大塔宮護良親王に従って鎌倉幕府の討幕に大きな功績を挙げ、幕府崩壊後も暫くは大塔宮と行動を共にしたため尊氏とは対立的な関係にありましたが、その後、尊氏の陣営に加わり南朝と敵対するようになったため、十五社会の冊子の中では呼び捨てにされています。もし最後まで大塔宮と運命を共にしていれば、円心は御祭神として神社にお祀りされ、十五社会の冊子でも「公」という敬称を付けて貰えた事でしょう。しかし、途中経過はどうあれ、円心は最後に北朝に付いてしまったため、もうダメなのです。
北朝方の人物は、兎に角全く評価するに値しない、というのがこの十五社会の冊子の立場で、これはまさに典型的な“南朝史観”です。

「一門一家をあげて忠義を貫いて已まず、楠氏にあっては一族全滅して痕跡を残さぬまでに至った。ここに楠公精神があり」とも書かれていますが、前出の楠木正儀(先程紹介した等持院の冊子に掲載されていた文章の文末で取り上げられています)については、いなかったという扱いになっているのでしょうか。
正儀は、「忠臣の鏡」とされた大楠公・正成の三男で、「桜井の別れ」で知られる小楠公・正行の弟に当たる楠木一族の武将ですが、南朝から北朝へ投降し、一時は室町幕府方の武将となった人物です。私自身は、実は正儀の事は高く評価しているのですが(卑怯者と謗られながらも最後まで南北朝和平を貫こうとした人物であると私は解しています)、少なくとも十五社会の冊子が言う、南朝に只管忠義を尽くすという意の“楠公精神”には、あまり合致しない人物であろうと思います。

あと、「幕末の志士は、わが国の真姿回復に向け、明治維新を断行した。王政復古がなり天皇親政が実現したのは、建武中興から数えて、実に五三〇年もの永きを経てからのことであった」とも書かれていますが、明治の王政復古というのは、建前としては兎も角、実態としては、天皇親政がその言葉通りに実現したわけではなかったと思います。
大日本帝国憲法が施行され内閣が誕生するようになって以降の日本は立憲君主制ですから、当然、天皇親政ではありませんが、それ以前についても、つまり、江戸幕府が崩壊してから憲法がつくられるまでの明治時代初期についても、明治天皇による独裁が行われていたわけではありませんから、天皇親政と言い切ってしまうのは、少なくとも実態としてはやはり語弊があるような気がします。


等持院発行の冊子と、建武中興十五社会発行の冊子を読み比べてみてはっきりと分かるのは、結局、どの立場に立つかによって、足利尊氏という人物や南北朝時代に対しての評価は、全く異なるものになってしまう、という現実を、今更ながら改めて再認識させられるという事です。


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室町期を舞台となっている短編小説「バサラ将軍」

何年か前に、直木賞作家の安部龍太郎さんが著した「バサラ将軍」(文春文庫)という本を買って読みましたが、先日、この本を数年ぶりに読み返してみました。

この本は、建武の新政の時代から4代将軍足利義持の時代にかけて(南北朝時代~室町時代前期頃)を舞台とした短編小説を一冊に纏めた本で、「兄の横顔」「師直の恋」「狼藉なり」「知謀の淵」「バサラ将軍」「アーリアが来た」の6編から成っています。
作中で描かれている足利尊氏や足利基氏などは、私が抱いているイメージとはかなり違う点もあり、そのため私としては、その描写には全面的には賛同しかねる所もあるのですが、しかし、そもそもこの時代が舞台の小説は少ない上、時代考証などはかなりしっかりしているように思えるので、そういった意味では貴重な作品だと思います。

バサラ将軍

兄の横顔』は、足利尊氏の弟・直義を主人公としており、直義の生真面目な性格と、尊氏との政治思想の違いや、尊氏に対しての直義の屈折した感情などが描かれています。
尊氏は、常に飄々としていてあまり深くは考えていないようでいて、実は全てを計算しているかのような腹黒さもあったのではないか、と思わせるような描き方をされており、尊氏が、掴みどころの無い、まるで鵺のような存在として描かれているのが興味深かったです。

師直の恋』は、太平記の中ではよく知られているエピソードのひとつでもある、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕するという話を、師直の視点から取り上げたものです。
一般に師直は、「武将としては足利軍には欠く事が出来ない、極めて有能な猛将であるが、その一方で、好色で、傍若無人で、専横な振る舞いも多かった」と解されていますが、この作品での師直は、まさにそのイメージ通りに描かれていました。

狼藉なり』は、これも太平記の中ではよく知られているエピソードのひとつである、光厳上皇の牛車に対する土岐頼遠の狼藉事件を題材としている作品です。
「師直の恋」同様、この「狼藉なり」も主人公は高師直で、頼遠は勿論、尊氏や直義も登場しますが、あくまでも師直の視点からストーリーは進んでいきます。頼遠の斬首を主張する直義に対して、最後まで頼遠を庇い続ける師直の姿は、従来の悪役一辺倒のイメージとは異なり少し新鮮でした。

知謀の淵』は、はっきり言って非常に後味の悪い作品です。しかし、主人公・竹沢右京亮の心理や彼の境遇についての描写が残酷な程に生々しく描写されており、これをこの本の表題作にしたほうが良かったのではないかとも思える程、かなり力の入った秀作でもあります。
畠山国清の命令により、新田義貞の子・義興を多摩川で奸計によって謀殺した竹沢右京亮が、敵から非難・軽蔑されるのは当然としても、味方からも卑怯者と蔑まれ、どんどん不幸になっていく、転落と悲劇の物語です。

バサラ将軍』は、室町幕府の全盛期を築き上げた3代将軍 足利義満を主人公とした作品で、この本の表題作でもあります。
絶対的な権力者である義満と、後円融帝の寵姫との不義事件を題材としながら、生まれながらにして統治者である義満が帝に対して抱く劣等感やその深層心理が描かれています。

アーリアが来た』は、足利義持に献上するため、南蛮のスマトラ島を治める太守から贈られてきた象のアーリアを、義嗣派(義持と対立している足利義嗣を支持する勢力)からの襲撃を警戒しながら、若狭の小浜から京都まで運搬する馬借(馬を利用して荷物を運搬する輸送業者)のお話です。主人公は、今津の馬借・源太です。
歴史物としては珍しく動物を題材としており、他の5編とはかなり趣きの異なる作品ですが、陰湿な展開は全く無く、この本の中では最も軽快に読み進んでいく事が出来る作品です。

私としては、読後に後味の悪さが残るものも何編かはあったものの、どのエピソードも、かなり興味深く読む事が出来ました。
ただ、南北朝時代・室町時代や室町幕府に興味を持ち始めたばかりの、所謂“初心者”の方々には、個人的には、この本はあまりオススメ出来ません。登場する人物が余りにも俗物や小物ばかりで(それが悪いと言っているわけではありませんが)、そのくせに、傍若無人であったり奸計を謀ったりするので、この時代や室町幕府に興味を持ち始めたばかりの“初心者”だと、そういった事に新鮮さを感じるより、むしろ、室町幕府や、幕府を支えている武将達の言動に勝手に失望して、この時代や室町幕府に呆れるか興味を無くしてしまうのではないか、という懸念を感じてしまうからです(笑)。


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