この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

楠木氏

NHK「その時歴史が動いた」で描かれた湊川の戦い

南北朝時代の1336年に、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市)で、光厳上皇の院宣を奉じて九州から東上して来た足利尊氏の軍と、後醍醐天皇の勅命によりこれを迎え撃った楠木正成の軍との間で「湊川の戦い」という合戦が行われました。

湊川の戦いについては、昨年3月11日の記事昨年9月25日の記事でも述べた通りなので、ここではその詳細は割愛しますが、先日たまたま、かつてNHKで放送されていた歴史情報番組「その時歴史が動いた」の中で、この湊川の戦いが取り上げられていたという事を知り、動画投稿・共有サービスの「YouTube」(ユーチューブ)にアップロードされていたその動画を視聴しました。
平成15年2月12日に放送された「乱世を制するリーダーの条件 ~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~」と、平成17年2月23日に放送された「我が運命は民と共に ~悲劇の英雄 楠木正成の実像~」の2回で、湊川の戦いに至る経緯が足利尊氏、楠木正成それぞれの視点から描かれており、なかなか面白かったです。

まず以下は、「乱世を制するリーダーの条件 ~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~」の動画です。45分の番組ですが、4本に分割してアップロードされています。
尊氏の立場に立って、尊氏の苦悩と、尊氏はいかにして乱世を勝ち抜き新たな時代を切り開くリーダーとなりえたのか、という事が描かれています。







 

そして、以下は「運命は民と共に ~悲劇の英雄 楠木正成の実像~」の動画です。こちらも45分の番組ですが、ここでは7本に分割してアップロードされています。
正成は従来、忠誠・知謀・勇猛が強調される事が多かったですが、この放送ではそれらに加え、正成の活躍の土台には、正成と民衆との緊密な連携・ネットワークもあったとしており、その点も興味深かったです。















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桜井の別れ

本年3月11日の記事では、南北朝時代を代表する武将の一人である楠木正成(くすのきまさしげ)を取り上げましたが、その正成と、正成の息子・正行(まさつら)の二人に関するエピソードの中でも特に代表的なものといえば、何といっても「桜井の別れ」です。

この「桜井の別れ」というエピソード(「桜井の宿の別れ」もしくは「桜井の駅の別れ」とも云います)は、ある一定以上の年齢の方を除くと現在では知らないという人の方が多いのではないかと思われますが、正成・正行親子が「忠臣の鏡」として持て囃されていた戦前・戦中であれば、老若男女を問わずまず知らない人はいない程、全国的に広く知られたエピソードでした。
なぜなら、戦前・戦中の学校教育に於いては、「桜井の別れ」は必ず歴史や修身(道徳)の授業で取り上げられ、教師達は涙ながらにその情景を子供達に熱く語っていたからです。
下の肖像画は、「大楠公」と称される正成に対して「小楠公」と称される、楠木正行です。

楠木正行

「桜井の別れ」とは、桜井(現在の大阪府島本町)の駅(古代の律令制度下で駅逓事務を取扱うため設定された町場の事で、鉄道の駅とは関係ありません)での正成・正行父子の今生の別れを情緒的に描いた、太平記の中でも特に有名なシーンの一つで、一言でいうと忠義の心を問いかけるエピソードなのですが、まずは、「桜井の別れ」に至るまでの当時の国内情勢の流れを、大雑把に以下にまとめてみます。

全国の武士達の間に満ちていた建武の新政(中興)に対しての不満・失望(建武の新政が武士達から支持されなかった最大の要因は論功行賞の失敗に因ります)や、再び武家政権の復活を望む武士達の思いを背景に、鎌倉で後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏は、後醍醐天皇が差遣された新田義貞率いる追討軍を箱根で破り、そのまま京都へと進撃して、一度は京都を占拠して後醍醐天皇の親政を躓かせます。この時後醍醐天皇は比叡山へと逃れられました。

しかし尊氏の勝利も束の間の事で、その後、楠木正成や北畠顕家らの目覚しい活躍により尊氏は京都で大敗し、後醍醐天皇方の軍が再び京都を奪還して、尊氏は海路九州へと敗走して行きました。
九州へと落ちた時、尊氏の手勢は僅か500という惨めさで、後醍醐天皇は再び京都へと還幸されて天皇の親政が復活しました。

ところが、京都で大敗して九州まで逃げてきた尊氏は、九州でたちまち勢力を盛り返し、僅か四ヶ月の間に兵力を整えて大軍となり、再び京都への進撃を開始しました。
足利軍は、尊氏が率いる海路を進む軍と、尊氏の弟・直義(ただよし)が率いる陸路を進む軍の二手に分かれて京都を目指し、それを迎え撃つため後醍醐天皇も軍を差遣されますが、義貞の率いる追討軍は劣勢で、勢いのある足利軍に圧されてじりじりと兵庫まで後退していきました。

このため、後醍醐天皇は正成を召して、急いで兵庫へと下って義貞と合流して戦うようにと命じますが、これに対して正成は、以下のような提案を献言しました。以下の正成のセリフは太平記からの口語訳です。

尊氏卿が九州の兵力を率いて上洛して来たとあっては、定めてその数はおびただしい事でございましょう。味方の疲れた小勢で、この勢い付いた大軍と尋常の戦い方をしたのでは敗北は必至、ここはひとまず新田殿を都へ呼び戻し、彼をお供に、帝は前と同様比叡山にお移り下さい。私も本拠地である河内へ下って畿内の兵力を集めて、淀川尻を封鎖致しましょう。
このようにして新田殿と私で都に入った足利勢を挟み込み、兵糧を費やさせれば、敵は疲れて戦力が低下し、一方味方は日を追って集まって参りましょう。その上で新田殿は山門から、私は河内側から攻め寄せれば、敵を一戦で滅ぼす事ができると思います。
新田殿も多分そう考えておられるのでしょうが、途中で一戦もせずに退却してはあまり不甲斐無く思われるのではないかと、それを恥じて兵庫で防戦しておられるように思われます。しかし合戦は中途はどうあれ、最後の勝利が大切でございます。よくよくお考えあって御決定を下されますよう。

当時、京都の台所の過半は琵琶湖と淀川の水運が支えていた事から、京都の糧道を断つ事はさして難事ではなく、このため正成は、尊氏に京都を一旦明け渡し、兵糧が尽きるのを待って挟撃し、一挙に殲滅しようという作戦を献言したのです。
実際、正成のこの献策は、劣勢にあった後醍醐天皇方がこの状況下で勝機を生み出しうる唯一の作戦であり、諸卿も「まことに、合戦の事は武士に任せるべきだ」と正成の意見に従う決定がなされかけました。
しかし、諸卿の中の一人である坊門清忠が、以下のように正成の献策に対して異議を差し挟み、結局正成の献策は否定されてしまいました。以下の清忠のセリフも太平記からの口語訳です。

正成の言う所ももっともではありますが、勅命を受けて出発した将軍の義貞が一戦も交えないうちに、我々がいち早く都を棄て、一年のうちに二度までも帝が比叡山に避難されるというのでは、帝の威厳が失われ、かつ官軍の面目も失われてしまいます。尊氏がいくら筑紫の兵力を率いて上洛して来るといっても、よもや昨年関東八カ国の軍勢を従えてやって来た時以上の事はありますまい。
この度の合戦にあっては初戦から敵が西国へ敗走するまで、味方は小勢ながら常に大敵を破っております。これは武略が優れているのではなくて、ひとえに天皇の御運が天意に叶い、その助けを得られているからでございます。されば敵を都へ引き入れず、都の外で滅ぼす事も容易いはず。時を移さず、楠木は兵庫に罷り下るべきであります。

つまり、官軍の体面や面子のため、正成の献策した唯一の必勝の戦略は簡単に退けられてしまったのです。
清忠の見解は全く非現実的であり、客観的に考えても、勢いづいている圧倒的な大軍の足利軍に対して、地の利がある訳でもない兵庫の地に於いて僅かな小勢で当たれというのは、正成に対して「死ね」と言っているようなものなのですが、しかし正成は、「この上は異議を申しますまい」と言ってもはや反論はせず、自らの死を覚悟して五百余騎を率いて兵庫へと向かいました。

そして正成は、決戦の地となる兵庫の湊川へと向かう途中、それまで行動を共にしてきた11才の嫡子・正行を河内の本領へと返すのですが、この時の正成と正行の別れが、俗に「桜井の別れ」と称されているのです。
正成は既に死を覚悟しているだけに、正成・正行父子の別れは感動的でもあります。以下は、戦前の小学校で使われていた日本史の教科書「尋常小学国史」からの引用です。

この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰へるのを待つて、一度にうちほろぼさうという謀を建てたが、用ひられなかつた。それ故、正成は、おほせに従つて、ただちに京都を立つた。
途中、桜井の駅に着いたとき、かねて天皇からいただいてゐた菊水の刀を、かたみとして子の正行に与へ、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した時は、天下は足利氏のものとならう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあつても、自分に代つて忠義の志を全うしてもらひたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。
それから、進んで湊川に陣を取り、直義の陸軍と戦つたが、その間に尊氏の海軍も上陸して、後から攻めかかつて来た。正成は大いに奮戦した。
けれども、小勢で、かやうに前後(まへうしろ)に大敵を受けてはどうすることも出来ず、部下はたいてい戦死し、正成も身に十一箇所の傷を受けた。そこで、もはやこれまでと覚悟して、湊川の近くにある民家にはいつて自害しようとした。
この時、正成は弟の正季(まさすゑ)に向つて、「最期にのぞんで、何か願ふことはないか。」とたづねた。正季は、ただちに「七度人間に生まれかはつて、あくまでも朝敵をほろぼしたい。ただそればかりが願である。」と答へた。正成は、いかにも満足そうににつこりと笑ひ、「自分もさう思つてゐるぞ。」といつて、兄弟互に刺しあつて死んだ。
時に、正成は年四十三であつた。今、正成をまつつた神戸の湊川神社のあるところは、正成が戦死した地で、境内には徳川光圀の建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」としるした碑がある。実に、正成は古今忠臣のかがみである。

太平記によると、正成は正行に対して、「獅子は子を産んで3日も経てば、数千丈の谷底へ蹴落とす。もし子にその気力があれば、谷底から這い上がってくるという。お前は既に11歳である。この教訓を心の底に深く留めておくように」と言ったとも記されています。
また、河内へ帰るように諭す正成の説得に対して、正行は「父上を見捨てて帰る訳にはまいりません。どうかお供をさせて下さい」と涙を流しながら訴える場面も、ドラマや小説などではよく描かれています。

こうして、正行と別れた正成は、弟の正季と共に湊川で壮絶な最期を遂げたのですが、正成が特に立派とされたのは、敗戦必至と予測したにも拘らず(実際その通りになったわけですが)、あくまでも忠臣としての道を貫き、息子・正行にもその道を説いて、後醍醐天皇の皇恩に応えるために死を覚悟して出撃したという点です。
京都で尊氏を迎え撃つ献策が退けられ、兵庫への出陣を命じられた時、正成は、その勅命を無視して河内へ引き上げる事も可能だったはずですが、忠に生き義に殉じる覚悟を決めていた正成は、いなかる命令であれ勅定に意義を唱えるつもりはなく、死を覚悟して即座に出陣を決意したのです。

もっとも、戦前・戦中は正成のその点ばかりが過剰に喧伝されたために、戦後はその反動から、正成は一転して“皇国史観を象徴する人物”として日陰に追いやられてしまったのですが。
天皇に対する帰趨性を何としても打ち砕きたかったGHQにとっても、正成・正行の事跡を教科書から削除する事は必須だったようです。ちなみに、下の絵が、その「桜井の別れ」を描いたと伝わる絵です。

桜井の宿訣別図

そして、以下は戦前の小学校で使われたいた道徳の教科書「尋常小学修身」からの引用で、この「桜井の別れ」の後日談です。成長した正行のその後の様子が描かれています。

家に帰つてゐた正行は、父が討ち死したと聞いて、悲しさのあまり、そつと一間に入つて自殺しようとしました。
我が子の様子に気を付けてゐた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしつかりとおさへて、「父上がお前をお返しになつたのは、父上に代つて朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。
正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守つて、一日も忠義の心を失わず、遊戯にも賊を討つまねをしゐました。
正行は大きくなつて、後村上天皇にお仕へ申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかはして正行を攻めさせました。
正行は、ただちに一族四十人ばかりをつれて、吉野にまゐつて天皇に拝謁し、また後醍醐天皇の御陵に参拝して御暇乞を申し、如意輪堂の壁板に一族の名を書きつらねて、その末に、

かへらじとかねて思へば梓弓、なき数にいる名をぞとどむる

といふ歌を記し、死を決して河内に帰り、賊軍と大いに四条畷で戦つた。
この時、正行はどうかして師直を討取らうと考へ、たびたびその陣に迫つたが、身に多くの矢きずを受け、力もつきはてたので、たうたう弟の正時を刺しちがへて死んだ。ときに、正行は年やうやく二十三であつた。

正行は父の遺言通り、正成や義貞亡き後は南朝の支柱として戦い続け、狭山池尻の戦い、藤井寺の戦い、爪生野の戦いなどで相次いで幕府軍を撃退させ、目覚しい活躍を見せました。
そのため、事態を重く見た幕府は足利家の有力な武将である高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の率いる大軍を正行追討のため出陣させ、正行は四条畷(しじょうなわて)に於いて、幕府軍を迎え撃つ事になりました。

当初、正行は「敵の大軍が押し寄せて来たら金剛山に立て籠もって戦え」という父・正成の遺言に従って戦うため東条、赤坂、千早の各城の防備を固めていたのですが(実際、楠木一族は平地で大軍同士が正面切ってぶつかり合う正攻法的な合戦よりも、篭城城、山岳戦、ゲリラ戦を特に得意としていました)、その正行の戦術を理解しない公卿の北畠親房がなかなか出陣をしない正行を叱責した事から、正行は僅か二千余騎の小勢で、四国・中国・東海・東山から動員された二十ヶ国もの幕府の大軍と四条畷で戦う事になったのです。

かつて正成が、兵庫で戦う不利を説いて京都で足利軍を迎え撃つという必勝法を説いたものの、結局その献言が受け入れられなかったのと同様、正行の採ろうとした戦法も、また受け入れられなかったのです。
このため正行は死を覚悟し、出陣するとすぐに、「今生の別れに今一度竜顔(天皇のお顔)を拝したく、参内つかまつりました」と言ってまず吉野の御所を訪れました。
伝奏からその言葉を聞いた南朝の後村上天皇は、御簾(みす)を高く巻かせて正行を近くに召し寄せ、「前二度の戦いで敵軍を挫いた事を嬉しく思っている。いや二代にわたる武功、返す返すも神妙である。大敵と聞けば戦の安否が気遣われるが、機に応じて進退を決めるのが勇士の心掛けと聞いた。早まらずに命を全うせよ。お前は私の股肱の臣だ」と言われました。

しかし、勝手知ったる金剛山に篭って得意の山岳戦を挑めない以上、兵力の差が余りにも大き過ぎるこの状況下で、正行が生きて帰る事はまず望めませんでした。こうして正行は、後村上天皇に最後の挨拶をした後、後醍醐天皇陵を参拝し、その後、御陵の北にある如意輪堂に立ち寄って、その板壁に「かへらじとかねて思へば梓弓、なき数にいる名をぞとどむる」という一首をしたためて、討死を誓った143人の名を矢じりで刻みました(この歌の「なき数にいる」とは過去帳に入るという意味です)。

そして、正月5日の早朝、四条畷で、正行にとっては人生最後となる合戦の戦端が開かれ、正行達は幕府の大軍と死闘を展開しました。
正行は、討死を誓った143人と共に高師直の本陣へ駆け寄って師直の首を狙いますが、上山六郎左衛門が師直の身代わりとして討たれて師直を逃がしたため、ついに師直を討ち取る事はできず、正行達は激戦の末に敗れました。
そして正行は、父・正成と全く同じように、弟(正時)と刺し違えてその生涯を終えたのです。正行は、父・正成の精神の余りにも忠実な体現者として生き、もう一人の弟・正儀(まさのり)が正行の死後才智ある政治性を発揮したのに対し、愚直な程真っ直ぐに忠義を貫いたのでした。

現代人の一般的な感覚からは、「桜井の別れ」や、正成・正季・正行・正時ら楠木一族の生き様には、「天皇への絶対的な忠誠」というものがひしひしと感じられ、それだけに“時代錯誤”的な違和感を感じてしまう人も少なくはないようですが、しかし私としては、そういった「忠誠」や「七生報告」に象徴される楠木一族の忠臣としての一面よりも、むしろ、楠木一族の持つ絶対的な律儀さや自己犠牲の精神のほうこそ注目・強調されるべきではないかなと思っています。


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皇居外苑の楠木正成騎馬像

今から9年も前になりますが、当時私が東京を旅行した際に見学・撮影してきた、皇居外苑南東の一角に立つ楠木正成騎馬像の写真をアップします。
全国にある楠木正成像の中では、恐らくこの騎馬像が最も有名ではないかと思います。像本体の高さは約4m、台座も加えると約8mもあります。御覧のように、躍動感溢れる実に力強い銅像です。

楠木正成騎馬像_01

楠木正成騎馬像_02

楠木正成騎馬像_03

楠木正成騎馬像_04

この楠木正成騎馬像は、住友の別子銅山開山200年を記念して、明治23年に住友家(住友財閥)が献納したもので、別子銅山で産出した銅で鋳造されています。
製作は東京美術学校が担当し、複数の美術家が部分毎に分担して作成していきました。像の要となる正成の顔は、当時東京美術学校の職員でこの像の製作主任であった、仏師・彫刻家として高名な高村光雲が担当しました。
ちなみに、上野恩賜公園のシンボルとなっている西郷隆盛像も、高村光雲が製作したものです。


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湊川神社と楠木正成

私は北海道の札幌に住んでいますが、年に数回程度は関西へ行く機会があり、毎回ではないものの関西へ行った際は神戸にも足を運ぶ事が少なくありません。
そして神戸に行った際には、これも毎回ではないものの、大抵、湊川(みなとがわ)神社へお参りに行きます。

湊川神社は、神戸最大の繁華街である三宮からは少し離れていますが、JRや神戸高速鉄道の神戸駅とは目と鼻の先の一角に鎮座しており、「忠臣の鏡」「稀代の英雄」などと評され「大楠公」という尊称でも知られている、南朝方の武将・楠木正成(くすのきまさしげ)を主祭神としてお祀りしています。
神戸市民からは“なんこうさん”とも呼ばれて広く親しまれている神社で、同社は、生田神社長田神社と共に神戸を代表する大社の一社です。

湊川神社_1

その湊川神社の主祭神としてお祀りされている楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代初め(但し南朝の天皇や武将を御祭神としてお祀りしている神社では、この時代の事はあえて「南北朝時代」とは云わずに「吉野朝時代」もしくは「吉野時代」と称しているようです)にかけて活躍した河内(現在の大阪府)の武将で、鎌倉幕府を倒すに当っては足利尊氏や新田義貞を上回る程の、武功第一とも云える軍功を残した名将です。
特に、金剛山の千早城という小城に篭城して、これを攻め落とそうとする幕府の大軍を多彩な計略を用いて翻弄させた事は、当時80万と云われた幕府軍が小城一つ攻め落とす事が出来ない様を日本中に知らしめ、全国の反幕府分子を奮い立たせました。
鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇による親政「建武の新政」(但し南朝こそが正統であるという歴史観からは「建武の中興」と云います)が成ったのは、偏に正成の突出した活躍があったからこそと言っても過言ではありません。

楠正成
しかし新政が成ってみると、公平とはとても言い難かった土地の分配策に全国の武士が一斉に失望し、その失望や不満を源氏の貴種である足利尊氏が吸収した事から、尊氏は後醍醐天皇と決別するに至り、そのため建武の新政は僅か2年程で挫折し、鎌倉幕府を攻め滅ぼす際には味方同士であった正成と尊氏は、それぞれ「建武の新政を継続しようとする者」と「建武の新政を否定して武家政治を復活させようとする者」として、必然的に対峙せざるを得なくなりました。
そして、鎌倉幕府滅亡3年後の1336年5月、正成と義貞の率いる軍は、現在の湊川の地に於いて、陸と海に分かれて九州から東上してくる足利尊氏の大軍を迎え撃つ事になったのです。これが、世に言う「湊川の戦い」です。

ところが、尊氏側の優れた戦略により、というよりも、決戦以前の朝廷(南朝)側の数々の戦略的な失策(そもそも尊氏を京から追い出した時にすぐに追いかけて討ち取る事を怠り、更に、赤松則村の白旗城攻撃に50日も費やして尊氏に軍の再起を許した新田貞義の二重の失策があり、また、「天皇は比叡山に行幸して戴き、自分は河内へ下って義貞と共に尊氏を前後から挟み撃ちにする」という旨の進言をした正成の献策を体面を気にした公卿らが突っぱねた事など)により正成・義貞の軍は敗北を喫し、義貞は丹波路を落ちて行き、正成は、一時は尊氏の弟の直義(ただよし)の軍を苦戦させる程の活躍をしますがついに力尽き、弟の正季と刺し違えて壮烈な戦死を遂げました。
その場所が、現在の湊川神社境内の西北隅だったと云われています。

湊川神社は、神戸という大都市の都心の一角とは思えない程の、楠の深い緑が印象的な広大な神域を有する神社で、境内には、1692年に水戸藩主の徳川光圀が筆をとった「嗚呼忠臣楠子之墓」の八字を刻んだ石碑や、同藩の佐々木助三郎が監督して建てた墓碑などがあり、また、正成所縁の品々が多数収蔵されている宝物館もあります。

湊川神社_2

上の写真の御社殿が、同社の現在の拝殿で、かつての拝殿は昭和20年3月の神戸空襲により本殿と共に一旦烏有に帰しましたが、正成を敬慕する多くの人々の赤誠によって昭和27年に再建されて、現在に至っています。
外部は鉄筋コンクリート造、内部は桧木造、屋根は銅板葺の、権現造に似た社殿で、拝殿の天井には当時の著名画伯による奉納画が埋められています。
ちなみに、この写真で拝殿前の石畳に赤いカーペットが敷かれているのは、この時たまたま結婚式が行われていたためです。

同社は明治5年、初めての「別格官幣社」として、正成・正季兄弟最期の地である湊川に、正成を主祭神とする神社として創建され、当時(戦前・戦中)の忠君愛国の風潮にのって広く国民の崇敬を集め、正成の誠忠を貫いた精神と、一篇の叙事詩のような正成の爽やかな生き様は、当時の人々に大きな影響を与えました。
かつて正成が弟と刺し違えて壮絶な最期を遂げた地でありながら、現在はその凄惨な状況からは程遠い清浄な雰囲気が漂う、とても清々しい空気に包まれた神社です。


ところで、室町時代から江戸時代にかけては、水戸藩の歴史観や幕末の混乱期などを除くと、一般には北朝が正統な朝廷と見なされていたため(実際、南北朝期の年号は、ほとんど北朝のものが使われていました)、南朝の武将であった正成は、必ずしも高い評価は受けていませんでした。
しかし、それまで磐石であった江戸幕府の権威が揺らぎ始めた江戸時代の後期以降は、正成は“倒幕のために働いた先輩”として、倒幕を目指す志士達から絶大な人気を集めるようになり、更に、明治維新が起こって武家政治が否定され、皇室を中心に据えた近代的国家建設が目標とされると、幕府や武家との結び付きが強かった北朝はその正統性が疑問視されるようになり、南朝こそが正統とされ、それに伴い、南朝方の武将として後醍醐天皇に殉じた正成の精神は“天皇に忠誠を尽くして命をも顧みずに戦った忠君愛国の手本”として更に高く評価され、全国的に広く称賛されるようになっていきました。

そういった当時の状況を背景として、明治元年、大楠公創祀の沙汰が兵庫県に伝達され、翌2年、正成の墓所や殉節地(最期の地)を含む7,232坪(現在は約7,680坪)が神社の境内地に定められ、明治5年に勅使を迎えて鎮座祭が斎行されて、前述のように湊川神社が創建されたのです。
また明治13年には、正成には正一位が追贈されています。

しかし、正成は明治になってから「忠臣」と「勤皇」の面ばかりが強調され、それに基づいて過大ともいえる程に高く評価されたため、その反動から戦後、正成は一転して“戦前の皇国史観を象徴する人物”と見なされ、学校の歴史の授業では正成の事績はほとんど教えられなくなってしまい、現在では、正成とはどんな人物であったのかよく分からない、という人のほうが多くなってしまいました。
尊氏もそうですが、正成もまた、時代によって著しくその評価が変動する人物といえます。

なお、湊川神社で発行している同社の由緒などを読むと、「大楠公は、後醍醐天皇の目指す親政を阻止せんとする鎌倉幕府の勢力や、また武家の政権を新たにたてようとする足利尊氏と戦い、正義と忠誠を示されました」と書かれています。
御祭神を尊氏に攻め滅ぼされた湊川神社の歴史観や、南朝こそが正統であるという立場に立つのであれば、確かに正成は「皇室に忠義を尽くした第一の功臣」であり、それに対して尊氏は「皇室に弓を引いた逆賊」という見方になるため、この書き方(正成を“大楠公”と尊称で書き記しているの対して尊氏の事は呼び捨てにして、しかも尊氏と戦った事を正義を言い切っている事)は当然であろうと思います。

しかし、北朝こそが正統であるというもう一方の歴史観(前述のように江戸時代後期に至るまではむしろこの歴史観の方が主流でした)や立場に立てば、(正平一統という北朝への裏切り行為があった事を考慮しても)尊氏こそが朝廷に忠義を尽くした大忠臣であったという考え方になります。
当然、北朝が正統であると一般に認識されていた江戸時代中期以前は、尊氏が逆賊視される事は少なく、逆に、(戦前の皇国史観の教育を受けられた方には信じ難いかもしれませんが)当時は正成のほうが朝敵として逆賊視されていたのです。

ですから、「大楠公は後醍醐天皇に忠義を貫いた天下の大忠臣であるが、その大楠公を死に至らしめ後醍醐天皇に叛いた尊氏は、史上最大の憎き逆賊である」という解釈や、それとは全く正反対の「足利尊氏公は源氏の棟梁として室町幕府を開いた英傑であるが、正成は、名将の器を持ちながら建武の新政以後は結局は時局に影響を与える事ができなかった悪党」(ここでいう悪党とは勿論歴史用語としての悪党であり、現代用語の悪党の意味ではありません)などという解釈は、どちらも客観的な解釈であるとは言い難く、あくまでも一定の歴史観や価値観に基づいた主観的な解釈であるといえます。

私個人としては、正成も尊氏も、共に人を惹き付けて已まない程の優れた魅力を持った武将であったと思っています。
また、正成を熱烈に敬愛する人達の中には、平成の御世となった現在に於いてもなお尊氏を逆賊・朝敵として非難する人が少なからずおり、私としては正直びっくりさせられますが、私は尊氏の生涯からは、逆賊どころかむしろ、「尊氏自身は熱烈な勤王家であり、後醍醐天皇と戦う事には常に精神的な苦痛を感じていた」という一貫した態度を感じています(これはかなり不思議な事でもあるのですが、しかし尊氏の生涯を辿ってみると、私にはそうとしか思えないのです)。

ちなみに、尊氏が後醍醐天皇の御霊を慰めるために建立した京都の天龍寺(臨済宗天龍寺派大本山)では、平成19年に「足利尊氏公六百五十年忌」の法要が営まれ、尊氏の功績を讃える内容の記念講演が行われるなどし、また翌20年は、京都の東寺(東寺真言宗総本山)に於いて尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要が厳修され、法要後、同宗の砂原長者は「戦時中、尊氏公は賊軍扱いだった。資料を調べたら、東寺に大変な御苦労をされた方で、位牌をつくるのは当然の事と思う。千二百年続いている東寺だが、尊氏公の功績を千年後まで伝えたい」と語っておられましたが、こういった見方(尊氏に対して「公」の尊称を付けたり、尊氏の功績を讃えたりする事)は、尊氏を未だ逆賊視する湊川神社などの立場からはまず考えられない見方であり歴史観であると言えます。

京都の三大祭りの一つとして知られる平安神宮の時代祭でも、「尊氏は逆賊である」という神社側の歴史観の下、室町幕府や足利将軍は常に行列から除外されていたのですが、平成19年に初めて室町時代の幕府執政列が行列に加わり、足利将軍も晴れて堂々と都大路を闊歩するようになりました。
しかしこれについて当時の平安神宮の宮司さんは、「各時代の風俗を展覧するという意味では、室町行列があって不思議ではない」と一定の理解を示しながらも、「時代祭は祭神の桓武天皇と孝明天皇に、今の京都をご覧いただくのが本旨で、行列は両天皇のお供。お供に足利氏がいるのはおかしい」とも語られており、天皇を御祭神としてお祀りする神社の宮司として、複雑な心境を覗かせています。

ちなみに、神戸には湊川神社の他に、湊川公園(私はまだ見ていませんが正成の騎馬像があるそうです)、蓮池(湊川の戦い最大の激戦地)、会下山公園(正成の本陣跡)など、正成に関する史跡はいくつもありますが、湊川の戦いでのもう一方の大将である尊氏の足跡を偲べる史跡は特に何も無く、神戸での尊氏の不人気ぶりが窺えます。


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