この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

足利尊氏

足利尊氏の顔だち、ついにこれで決まり? 肖像画の写しが発見される

先月27日にニュースとして報道された、毎日新聞や朝日新聞等の記事によると、室町幕府初代将軍・足利尊氏の没後間もない14世紀末に描かれたとみられる、尊氏の肖像画の写し(下の画像)が発見されました。

尊氏_01

今回確認された「足利尊氏像」は、個人が所有しているもので、栃木県立博物館の本田諭特別研究員や鎌倉歴史文化交流館の高橋真作学芸員などが、資料調査の際に発見しました。
大きさは縦88.5センチ、横38.5センチで、軸装された画の下側に正装して着座する人物が描かれており、上方には十数行にわたって画中の人物の来歴が文章で綴られています。
その文章の中に、尊氏を示す「長寿寺殿」という言葉があり、また、尊氏の業績として知られる国内の66州に寺や塔を建立した旨が記されている事などから、この度、尊氏の肖像画であると判断されました。
下の画像は、その尊氏の肖像画写しの、顔の部分を拡大したものです。大きな鼻と垂れ目が特徴的ですね。

尊氏_02

室町時代以前に描かれた事が確実な尊氏の肖像画は、他には広島県の浄土寺が所蔵している「絹本著色(ちゃくしょく)足利尊氏将軍画像」(下の画像)があるのみで、また肖像画以外では、室町幕府第2代将軍の足利義詮(よしあきら)が14世紀に京都の東岩蔵寺に奉納したと云われている「木造足利尊氏坐像」(大分県安国寺蔵)があるだけで、そのため尊氏の顔だちを巡っては今まで意見が分かれてきました。

しかし今回の発見により、今まで分かれていたそれらの意見がまとまる可能性も高く、専門家達は以下のようにコメントしています。
「尊氏の顔がこれではっきりした!」
「垂れ目や大きな鼻の特徴が、2つの作品(前出の、浄土寺蔵の尊氏肖像画や、安国寺蔵の木造の足利尊坐像)と似ている。尊氏はこの通りの顔つきをしていたのでは。意見が分かれる尊氏の顔立ちを伝える貴重な資料だ」
「木像の顔貌(がんぼう)と似た肖像画が出現したのは、尊氏像の議論にとっても重要な発見」

足利尊氏(浄土寺蔵)

ちなみに、今回発見されたこの肖像画の写しは、宇都宮市の栃木県立博物館で今月29日まで公開されるそうです。


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足利尊氏の書き残した書状

室町幕府を開きその初代将軍となった足利尊氏という人物の人柄・評価・魅力などは、平成26年4月20日の記事同年5月4日の記事昨年10月12日の記事などで詳述しましたが、今回の記事では、その尊氏が直筆し今も残っている書状等の一部を、以下に紹介させて頂きます。
必ずしもそうとは言い切れないのでしょうが、大凡の傾向として、尊氏の直筆文書は、あまり豪快とは言えない線の細い文字が多い、という印象を受けます。

足利高氏願文
▲ 足利高氏自筆 願文

1333年4月、尊氏は、鎌倉幕府の命令により、西国の討幕勢力を鎮圧するため幕府方の司令官として鎌倉を発して上洛しますが、自身の所領である丹波の篠村八幡宮に到着した際に、後醍醐天皇方に転じて討幕する意思を内外に明らかにしました。この文書は、その時に源氏再興を祈って尊氏が奉納した願文です。
ちなみに、尊氏は、北条氏の得宗から偏諱を受けるという足利氏の慣例に従い、鎌倉時代は、得宗・北条高時の偏諱を受けて「高氏」と名乗っていましたが、鎌倉幕府の滅亡後は、後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受けて「尊氏」に改名しており、この文書での自身の署名は、当初名乗っていた「高氏」となっています。

足利尊氏御判御教書
▲ 足利尊氏自筆 御判御教書

1336年1月、尊氏は楠木正成と宇治川で戦いましたが、同年7月になっても、南朝方の残党がまだ宇治橋辺りにいたらしく、この文書は、そういった状況から、尊氏が越中四郎左衛門尉に対して宇治橋に馳せ向かい軍忠を致すべきよう命じたものです。

足利尊氏自筆清水寺奉納願文
▲ 足利尊氏自筆 清水寺奉納願文

1336年8月17日に、尊氏が清水寺に奉納した願文で、意訳すると以下の通りです。
この世は夢のようなもの。もはやこの世で望むものはありません。私は出家しますので、来世の幸福をお与え下さい。現世の幸福は、弟の直義に譲ります。直義をお守りください。」
尊氏はこの年の5月に湊川の合戦で楠木正成を敗死させ、6月に光厳上皇や豊仁親王を奉じて入京し、そして、8月には豊仁親王を光明天皇として擁立し、その2日後に、この願文を奉納しています。当時、政治権力が尊氏に集中しつつある時に、尊氏はその権力に執着を見せるどころか出家を望み、後生の安穏を願い、今生の果報は弟の直義に与えて下さいと祈願しているのです。尊氏の優しさと、心の弱さを垣間見る事が出来る文書です。
そして、後に尊氏と直義は激しく対立して争う事になりますが(観応の擾乱)、この時点ではまだその片鱗は全く見えず、当時は非常に仲の良い兄弟であった事も伝わってきます。
ちなみに、ブログタイトルの「この世は夢のごとくに候」は、この願文の冒頭の一文から拝借しました。

足利尊氏寄進状
▲ 足利尊氏自筆 寄進状

1343年7月12日に墨書された、吸江庵(きゅうこうあん)という庵に対して、土佐国稲吉村地頭職を寄付するという内容の寄進状です。吸江庵は、夢窓国師が土佐国に建てた庵で、この寄進状は、夢窓国師が吸江庵のために尊氏に所領の寄進を願い出て、与えられたものと見られています。
ちなみに、前出の書状「御判御教書」や「清水寺奉納願文」で使われている年号は、いずれも「建武」ですが、この書状では、北朝でだけ使用された「康永」という年号が使われています(但し、南朝は建武2年で終わっているため、建武3年と同4年は北朝でしか使われていません)。

足利尊氏花押文書
▲ 足利尊氏自筆 花押文書

1353年4月2日に、結城三河守に宛てた、尊氏自筆の感謝状です。この文書でも、北朝で使用された「文和」という年号が使われています。

足利尊氏自筆の梁牌
▲ 足利尊氏自筆 梁牌

1354年12月8日に、尊氏が天下泰平を祈って自ら謹書した梁牌(りょうはい)です。梁牌というのは、仏殿の天井などに掲げられる棟札の事です。

足利尊氏直筆の八幡大菩薩の文字
▲ 足利尊氏自筆 八幡大菩薩の文字

尊氏が書いた「八幡大菩薩」の文字です。八幡大菩薩は、源氏一門の氏神である八幡大神という神様の、仏としての呼び名です。
そういえば、昔、大河ドラマでの合戦シーンで、主人公(甲冑を身につけた源氏方の武将)が、馬上より「南無八幡大菩薩!」と叫び、八幡大菩薩に武運と御加護を願ってから敵陣に突進して行く、というシーンを見た事があります。戦乱の世では、八幡大菩薩は武の神、弓矢の神として、多くの武将達から信仰されていたようです。
ちなみに、「薩」の下には、他の文書同様、尊氏の花押(サイン)が書かれています。

足利尊氏自筆の地蔵菩薩像
▲ 足利尊氏自筆 地蔵菩薩像

尊氏は地蔵信仰が厚く、地蔵菩薩像を多く描きました。尊氏は、悲しい事が起きると地蔵菩薩の絵が描きたくなるという変わった癖があった、とも云われています。まぁ、特に迷惑というような癖ではないので、別に構わないと思いますが(笑)。


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もしかするとあなたも、足利将軍って無能なヤツばかりだとか思っていませんか!?

突然ですが、「将軍」と聞くと、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。ちなみに、パットン将軍とかロンメル将軍とかではなく、我が国の征夷大将軍のほうですよ(笑)。
あまり日本史に詳しくはない人でも、とりあえず中学校で習った歴史を何となくは覚えている、という人であれば、例えば坂上田村麻呂、源頼朝、徳川家康、徳川家光、徳川吉宗といった有名な将軍は、直ぐに思い浮かぶかもしれません。しかし、直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かべるという人は、恐らく、あまり多くはないと思います。
その要因のひとつとしては、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、室町幕府や、室町幕府の歴代将軍というのは、いまいち存在感が薄い、という点が挙げられると思います。

ちなみに下の写真は、一昨年8月4日の記事にアップしたものを転載したもので、足利将軍家の菩提寺「等持院」境内の霊光殿に奉安されている、歴代足利将軍の木像の一部です。手前から、室町幕府第7代将軍の足利義勝像、第6代将軍の足利義教像、第4代将軍の足利義持像です。義勝は、赤痢のため僅か10歳で没した幼い将軍だったため、木像の表情も、子供らしさが強調されたものとなっています。

歴代足利将軍木像

鎌倉幕府といえば、源氏の嫡子ではあっても当初は流人に過ぎなかった源頼朝が、その実力によって、当時の中央政権であった平氏政権を打倒して開幕し、頼朝の没後も、幕府の実権を掌握した北条氏らは、承久の乱での勝利によって朝廷の権力を無力化させて幕府権力を更に拡大・絶対化させ、また、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を次々と輩出した、質実剛健な武家政権というイメージがあります。

江戸幕府も、幼少期には人質として生活するなどした徳川家康が大変な苦労と忍耐の末に開幕し、関ヶ原の合戦や大坂の陣を経て全国全ての反徳川勢力を一掃し絶対的な安定政権となり、その後、家光・綱吉・吉宗など実力を持った将軍や、新井白石や松平定信などの有能な幕臣を多数輩出し(西国雄藩が台頭してきた幕末の混迷期ですら、小栗上野介や中島三郎助のような優れた幕臣達がいました)、300年近くにも及ぶ、戦争の無い太平の世の中を築いた武家政権というイメージがあります。
つまり、鎌倉幕府や江戸幕府は、マイナスイメージも当然あるものの、全体的にみると、一般的には大凡プラスイメージで評価される事が多いのです。

それに対して室町幕府はどうかというと、トップである将軍が、家臣に暗殺されたり、家臣に追放されて諸国を放浪したり、また、将軍自身が当事者能力に著しく欠けていたため応仁の大乱が始まって京都を廃墟にしてしまったり、更に、その大乱によって将軍や幕府の権力が低下した結果、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、結果として、将軍の権威を更に失墜させてしまい、末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国すら維持出来なくなるなど、幕府全盛期の義満の時代を除くと、室町幕府は、世間一般に“は統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージがあると思います。
そのため、室町幕府の歴代将軍の中には有能で実力のある将軍はほとんどいなかったのではないか、というマイナスイメージがどうしても付きまとってしまう事になります。将軍と聞いても直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かぶ人は少ないのでは、と前述したのも、そういったイメージに因る所がかなり大きいのではないかと思います。

実際、歴代の足利将軍の中で、世間にそれなりに知れ渡っていると思われる名前は、初代将軍の尊氏、3代将軍の義満、8代将軍の義政、あとは、最後の15代将軍である義昭くらいではないでしょうか。これらの名前は、一応、中学校で習う歴史の教科書にも登場していますから。
しかし、そのうち8代将軍の義政は、優柔不断で無責任極まりない将軍で、はっきり言うと、明らかに無能な将軍でした(但し、政治家としては無能でしたが文化人としてはかなり優秀な人でした)。政治には全く興味を示さず、そうであるならとっとと将軍を辞めればいいのに、その決断すら出来ず、政治的な野心も実力も無いのに、無意味に将軍の地位にしがみつきながら、只管趣味に生きた人です。
また、15代将軍の義昭も、政治に対しては強い執着を見せるものの、残念ながら実力が全く伴っておらず、臣下からの支持も薄く、結果的に、世間一般に対しては「室町幕府最後の将軍」「織田信長に利用され、最後はその信長に追放された人」というイメージだけを残した将軍、と言ってほぼ差し支えないでしょう。

足利氏系図

では、室町幕府の歴代将軍は、やはり無為無策で無能な人ばかりだったのでしょうか。
実は、私自身はそうは思っておりません。無能で実力の無い将軍が多く見えるのは、単なる結果論です。つまり、後期以降の室町幕府がグダグダで、どうしようもなかったから、結果的にそう感じてしまうだけで、前半の頃、具体的にいうと、病弱のため十代で早世した5代将軍の義量を除くと、初代将軍の尊氏から6代将軍の義教までは、いずれも実力もあって、しかも、かなり有能、もしくはそこそこ有能といえる将軍ばかりだったと私は解しています。

「くじ引き将軍」とも称された6代目の義教については、万人恐怖と云われる独裁政治を行ったり、些細な事で激怒し厳しい処断を行った事などから、世間での評価は今もあまり芳しくはなく(苛烈で横暴な暴君として捉えられている事が多いようです)、私も、その人格についてはかなり問題があったと思っていますが、しかし人格と、政治家として有能であったか否かは基本的に別問題であり、落ちかけていた幕府の権威・権力を高める事に成功し、九州平定や関東制圧など義満すら出来なかった事を成し遂げて最大領土を獲得した、その政治的手腕は見事であり、歴代の足利将軍の中でも相当に有能な人物であったと思います。
そもそも、単に人格だけをいうのであれば、政治家としても軍人としても極めて有能であった、日本史の偉人のひとりであるあの織田信長も、相当に問題がありました。

というわけで、今回の記事では、室町時代前期に活躍した、室町幕府の初代・第2代・第3代・第4代・第6代の、5人の将軍それぞれの功績・長所・特徴などを、改めてざっとまとめてみようと思います(5代将軍の義量については、前述のように早世しており、将軍としての実績はほとんど無いので省略します)。
ちなみに、今回の記事では取り上げませんが、第13代将軍の義輝も、時代が違えば(例えば室町時代の前半頃に生まれていれば)、恐らくは有能で実力のあった将軍として、もっと後世に広く知れ渡っていたのではないかなと思います。


【初代将軍 足利尊氏】

室町幕府を開幕し、その初代将軍となった
尊氏が幕府を創った事は、今更あえて言うまでもない、日本史の“常識”ですが、しかし、何千人、何万人といる“日本史の偉人”とされる人物の中で、幕府を開幕してその初代征夷大将軍となった人物はたった3人しかおらず、尊氏はそのうちの一人なわけですから、これはやはり凄い事です。
源氏の嫡流が源実朝で絶えて以降、足利家はそれに代わる源氏の棟梁の家柄と見做されるようになり、また、後述するように尊氏には人を惹きつける個人的な魅力もありましたが、しかし、そのようにいくら血統や人柄が素晴らしくても、やはりそれだけでは、武士達は自分の命や一族郎党の将来を懸けてまで付いてはいきませんし、あの激動の戦乱の世を生き抜き、更に幕府まで開く事などは出来ません。そう考えると、室町幕府を開幕し、その初代将軍になった、という事実だけを以てしても、尊氏は確実に有能な人物であったと推定出来ます。少なくともそれは、同時代の他の人には誰も出来なかった事なのですから。
ちなみに、尊氏の生涯を辿ってみると、尊氏は特に、軍人(指揮官)としての才能はかなり高かったように思えます。政治家としての資質は、弟の直義のほうが優秀だったようですが、直義には、逆に軍人としての才能はやや欠如している面がありました。

不屈の闘志があり、どんな困難からも何度でも蘇る
尊氏はその生涯のうちに何度も何度も、権力闘争や武力闘争を経験し、滅亡寸前の窮地に追い込まれた事も一度や二度ではありませんが、その度に有能な部下達に支えられて復活し、戦場では自ら先頭に立って戦い続け、ついには幕府を開きました。これは、武家の棟梁として戦う自負を失わず、どんな逆境にも負けない不屈の闘志があったからこそ達成出来た事といえるでしょう。
しかし、その一方で尊氏には、「不屈の闘志」とは明らかに矛盾する一面もあり、例えば、重要な局面では決断力にやや欠けるという優柔不断な所があって、部下達から強く勧められて漸く重い腰を動かしたり、また、精神的にも不安定な所があって、後醍醐天皇に叛いてしまった事を悔やんで出家しようとしたり、戦いが劣勢になると「切腹する」と言って部下に止められたり、悲しい事が起きると地蔵菩薩の絵が描きたくなるなどというちょっと変わった癖もありました(こういったネガティブな所が、あと2人の初代征夷大将軍である頼朝や家康とは、決定的に違う所でもあります)。
これは推測に過ぎませんが、もしかすると尊氏は、現在でいう双極性障害(躁鬱病)か、もしくはそれに近い気があったのかもしれません。もしそうであるのなら、部下達を鼓舞しながら武家の棟梁らしく颯爽と戦場を駆け巡る時は躁(そう)の時で、消極的になって問題を先送りしたり、悲観的になって落ち込む時は鬱(うつ)の時だったのかもしれません。
しかし、そうであるにしろ違うにしろ、結局の所、尊氏は常にどんな困難からも立ち上がって最終的には勝利してしまうのですから、やはりそれは凄い事です。

人を惹きつけてやまない人間的な魅力がある
南朝側からも、北朝側からも、立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた頼朝と尊氏を比較して、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方、尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と褒め称えています。
更に疎石は、尊氏について、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」と絶賛し、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。疎石のこういった言葉から、尊氏は戦勝に驕る事なく“我”を控えた、調整型の政治家だった側面が窺えます。
尊氏という人物は、後世の天下人である信長・秀吉・家康などのような、自ら果敢に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではなく、むしろ、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある、所謂“おぼっちゃん”タイプの武将であると言ってよいでしょう。
しかしその割には、傲慢な所や私利私欲は無く、育ちが良いだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、敵に対しても慈悲と尊敬の念を忘れず、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確実に持っている、という武将でした。
動乱の世で、しかも「ばさら」が流行したあの時代に、尊氏に傲慢さや私利私欲がほぼ全く無かったという点は、特筆されるべき事だと思います。尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権などによる失政の受け皿となったから、という理由だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所も少なくはなかったでしょう。
ちなみに、尊氏が生きていた同時代に北畠親房によって記された「神皇正統記」では、親房自身が尊氏とは敵対する南朝の公卿であったため、当然の事ながら尊氏については酷評されているのですが、尊氏はそれを知りながら、自分が非難されているその神皇正統記を焚書にはしておらず、こういった事からも、尊氏の大らかな人柄がみてとれます。
もっとも、弟の直義や息子の直冬が最終的には尊氏に造反したり、尊氏の部下である高師直や佐々木道誉などが所謂“ばさら大名”としてどんどん増長していったり、尊氏とは敵対していた南朝が勢力を弱めながらも壊滅する事はなく暫く存続し、その結果として初期の室町幕府がかなり不安定な政権となってしまったのも、全ては尊氏個人の大らかさや寛容さに起因していると言えない事もないため(冷徹な処断はほとんど出来ない人でした)、この項で述べた尊氏の人間的な魅力というのは、実は長所であると同時に、武家政権を束ねる最高権力者としては、時には短所として現れてしまう事もしばしばありました。

兎に角、気前が良い
これについては前段で述べた事とも重複しますが、尊氏は「出し惜しみ」をする事が一切無く、後醍醐天皇と敵対する事になった時には、「褒美が少ない」事に不満を持っていた武士達を味方に付けるため、後醍醐天皇が与えられたものよりも多くの褒美を武士達に与えました。そしてその事が、多くの味方を付ける原動力にもなりました。
端的に言うと、ただ単に「味方を増やすためにエサで釣った」だけの事ともいえますが、しかし、それが有効な手段と分かっていながらも現実にはそれが出来ないリーダーが昔も今も多い中で、尊氏はどんな時も常に“気前の良さ”を貫きました。別の言い方をすると、尊氏は「周りに対して常に気配りの出来るリーダー」で、それ故に、有能な人材を引き寄せる事が出来たともいえます。
もっとも、室町幕府が後に弱体化していった大きな原因のひとつは「守護大名が強くなり過ぎた」事ですが、ではなぜ守護大名が強くなり過ぎたかというと、その遠因のひとつは、尊氏が部下達に出し惜しみせずにどんどん領地を分け与えた事にあるので、見方によっては、尊氏の「気前の良さ」というものは、単純に長所としてだけ評価する事は出来ないかもしれませんが。


【第2代将軍 足利義詮】

幕府による天下統一を推し進め、室町幕府を軌道に乗せる
有力大名同士の争いにつけ込んで片方を失脚させ、失脚した側の土地を幕府が奪う事で強大な財力や軍事力を手に入れるなど、義詮は政治的・外交的な手腕に優れていました。特に、有力大名の大内弘世と山名時氏を帰服させた事は、幕府の力をより強固なものとし、仁木義長、桃井直常、石塔頼房らの大名も幕府へと降参させる事となり、将軍の権力を一層高める事となりました。
義詮は、幼少の頃よりずっと戦場に出続け(幼時より将器がありました)、時には敗れる事もありましたが屈せず、将軍になって以降も、幕府による天下統一を目指して各地で反乱分子と戦い続けてきましたが、その甲斐あって、晩年の頃には全国各地の有力大名達の力が大分弱まり、漸く政情が安定するようになってきて、内乱で衰退していた社寺領の再建を命じたり、新たな内裏を造営したり、かつての旧敵である北条高時の33回忌法要を行うなど、内政にも目を向ける事が出来る状態になっていました。
義詮の跡を継いだ3代将軍の義満は、将軍の権力を絶対的なものにしましたが、そのお膳立てをしたのは義詮だったともいえます。

南朝を弱体化させて、南北朝合一への道筋をつける
義詮は、当時日本を二分する勢力だった「北朝」の指揮官として、もう一方の勢力である「南朝」側の諸勢力と幾度も戦い、南朝の重要な基盤である紀伊を制圧したり、南朝の後村上天皇を金剛山中へ遁走せしめるなど、決定的に南朝の勢力を減じる事に成功し、北朝の後光厳天皇を盛り立てました。そしてそれは、尊氏の時代にはまだ盤石とは言えなかった幕府を、次第に安定化させていく事にもなりました。
義詮は軍の指揮官としても優れており、南朝に奪われた京都を何度も奪還するなどの功績も挙げています。もっとも、何度も奪還したという事は、逆に言うと、何度も南朝側に京都を奪われていたという事でもありますが。
また義詮は、京都を南朝に制圧された際、北朝の光厳上皇・光明上皇・祟光上皇・直仁皇太子を南朝に拉致されてしまい、北朝の存続が一時困難になるという大失態を犯してしまった事もあるものの、その一方で、南朝の有力大名を次々と北朝に寝返らせる事にも成功しており、その手腕には目を見張るものがあります。

再評価される義詮
以上の事から、義詮は、室町幕府を創設した初代将軍の尊氏と、絶大な権力を手に入れて幕府の最盛期を築いた3代将軍の義満の間に挟まれて将軍としてはあまり目立たない地味な存在かもしれませんが、実は、父・尊氏の期待に見事に応えた、あまり華麗な所は無いものの秀才タイプの将軍だった、ともいえます。
近年では、義詮の果たした役割は決して小さくはなく、太平記が義詮の死を以て閉じられているのもそれなりの理由がある、とする見方も出ています。世代的にみても、鎌倉幕府を倒幕した戦い以来の第1世代は、義詮が亡くなる頃にはほぼ姿を消しており、義詮の死は室町幕府の形成史上に於けるひとつのターニングポイントといえます。
ちなみに、私の個人的な主観としては、義詮は、江戸幕府の将軍の中では特に知名度の高い、初代将軍家康と第3代将軍家光の間に挟まれた、やはり第2代の将軍である秀忠と、何となくイメージが重なります。秀忠も、地味で華麗さはほとんどなく、“天下分け目の合戦”である関ヶ原の合戦に遅参するという大失態も犯していますが、全体を通して見ると、確実に有能な将軍でしたから。


【第3代将軍 足利義満】

有力大名の力を弱めて幕府の権力を絶対的なものにした
室町幕府が強固な統一政権となるためには、強くなり過ぎた家臣達、つまり守護大名を弱体化させ、それによって将軍の権威を高める必要があり、それは、父である前将軍の義詮が推し進めた政策でもありましたが、義満はその政策を更に強く進めて全国各地の守護大名の力を相当弱める事に成功し、それによって幕府の全盛期を築きました。
当時日本の6分の1を支配するまでに強大化していた守護大名・山名氏に対しては、その後継者争いに介入し、義満は、失脚した後継者候補を支援するような動きを見せて、あえて有力後継者を怒らせました。そして、その有力後継者は幕府に襲いかかり、義満は総力を結集して山名氏を撃退すると、幕府に反乱を起こした罰として山名氏から領土の7割を奪って、功績のあった大名に分け与えるなどしました。義満は、これとほぼ同様の方法で、多くの守護大名達を弱体化させていきました。
ただ、幕府の全盛期を築いたとはいっても、その義満時代の幕府も、実は、後の世の豊臣政権や徳川政権などの非常に強力な中央政権に比べると、まだ不完全な点もあり、完全に全国の全てを支配下に置いていたわけではありませんでした。しかし、それでも義満以前の過去の政権と比べると、義満の時代の幕府は、当時としては史上最大とも言える程の、非常に強大な権力を持った政権でした。

南北朝に分かれていた朝廷を統一した
前将軍の義詮や、義満の優秀な側近らの功績により、幕府に抵抗を続けてきた南朝は既に有名無実化していましたが(強硬派であった長慶天皇が和睦派の後亀山天皇に譲位されてからは、南朝による軍事行動もほぼ無くなっていました)、義詮の時代から何度かあった和睦の話はいずれも折り合いが合わず、形の上では依然として南朝は存在し続けていました。
義満はこの問題を解決するため、南朝に使者を送って和睦についての話を進め、そして、義満の将軍就任から24年後、義満が示した和睦条件を南朝側が受け入れる事でついに和睦が成立(事実上、南朝が降伏)し、南朝が奉っていた「三種の神器」を北朝へと譲らせて南朝は北朝に合一され、皇室は再びひとつになりました。
これにより、後醍醐天皇の吉野還幸から60年近くも続いた南北両朝の並立(同時代に二人の天皇が在位するという極めて特異な事態)は終了し、漸く日本は、各地にまだ火種を残しつつもとりあえずは室町幕府の下に全国が統一されました。もっとも、南北両朝の合一を認めない旧南朝の残党はその後も度々騒動を起こすなどしており、「後南朝」とも称されるそれら旧南朝の抵抗運動は、次第に勢力を失いながらも暫くは続いていく事となりました。

北山文化を生み出した
義満が明との貿易で手に入れた豪華な品々は、貴族文化に武家文化が融合した、豪華で華麗な「北山文化」を生み出す事に繋がりました。一層が寝殿造、二層が武家造、三層が禅宗様式の鹿苑寺金閣は、その代表格とされています。
義満の時代には、田植神事と農耕歌舞が結合した「田楽」や、平安時代の猿楽が発展した舞台芸術「猿楽能」なども花開き、観阿弥や世阿弥などの逸材を輩出した他、庭園、絵画、文学などの各分野でも、多くの逸材が活躍しました。
またこの時期は、義満が南宋の官寺の制に倣って五山十刹の制を整えたりするなど、仏教界でも大きな動きが見られました。特に臨済宗は、将軍家・幕府の帰依と保護により大いに発展し、曹洞宗も、地方の武士に広まって北陸で発展するなどしました。


【第4代将軍 足利義持】

幕府の権勢を維持する
義持は、粗暴な所もあって失敗も少なくはなかったようですが、室町幕府の将軍としては最長の在位となる28年間、有能な補佐役達に支えられて幕府を無難に運営した事は、それなりに高く評価されています。
前将軍である父の義満は、征夷大将軍として武家の頂点に立ち、太政大臣として公家の頂点にも立ち、出家した立場から社寺(宗教勢力)の頂点にも立ち、更に、当時の中国の王朝である明に対しては自ら「日本国王」を名乗り、一説によると「治天の君」の地位すらも狙っていたとも云われる程、兎に角絶大な権力を誇っていました。しかし義満が没した後は、それまで義満が力で抑えていた、地方を支配する大名達が再び勢力を盛り返しはじめ、義持はその圧力に悩まされながらも、関東で起こった「上杉禅秀の乱」に対しては、鎌倉公方・足利持氏からの要請に応える形で大軍の幕府軍を派遣し鎮圧するなどして、幕府の権勢維持に努めました。
その後、義持は鎌倉公方の持氏と対立するようになり、その対立は次項で述べる義教の時代に継承されていく事になるため、義持の時代には幕府と関東の確執は解消されませんでしたが、それでも近年では、義持の治世が室町幕府の再安定期だった、という評価もされるようになってきています。

実は水墨画の達人
義持は、決して政治を疎かにしていたわけではありませんが、政治よりも、特に文化・宗教などの方面でより才能を発揮しました。文化の方面では田楽や水墨画を愛好し、現在国宝に指定されている水墨画「瓢鮎図(ひょうねんず)」は、義持が自ら発案し、制作も指導して描かせたものとして伝わっています。義持自身が直接筆をとった水墨画も現存しておりますが、それはいずれも素人離れした高い完成度を誇っています。


【第6代将軍 足利義教】

管領の力を弱めて、将軍が強い実権を持つ政治形態に変えていく
義教は、前述のように「万人恐怖といわれた独裁政治を行った」とされる将軍ですが、なぜそのような政治を行ったのかを理解するためには、当時の時代背景も併せて知っておく必要があります。
義教が将軍に就任した直後、旧南朝勢力の反乱である北畠満雅の乱が起こり、また同時期には、「日本開闢以来、土民蜂起之初めなり」と記された正長の土一揆を切っ掛けに畿内各地で土一揆が起こるなどし、京都周辺は騒然とした状況にありました。地方でも、九州では大内家と大友家の戦が勃発し、関東では、鎌倉公方の足利持氏があからさまに幕府に反発するようになるなどしていました。
そういった騒然とした状況から、義教は将軍の権威を高めて幕府の統制力を強化する事を目指しました。具体的には、廃止されていた評定衆や引付頭人を復活させ、賦別(くばりわけ)奉行を管領直属から将軍直属に変え、政務の決済は将軍臨席の場でする事とし、また、訴訟審理の場からは管領を締め出しました。
管領以下の諸大名の意向を聞きながら政治を行うというそれまでの幕政を変え、将軍が自ら実権を持つ政治形態へと変えていったのです。

将軍独裁による恐怖政治を進める
義教は、くじ引きで選ばれた将軍ではありましたが、将軍としては優秀で、経済や軍事の改革に成功した他、大名や宗教勢力を弱め、将軍に対して不満を言う者は暗殺したり謀殺したり攻め滅ぼすという「恐怖政治」の手法で、将軍の権力を強大化させていきました。そして、幕府の重鎮だった斯波義淳、畠山満家、三宝院満済、山名時煕らが相次いで死去すると、義教の専制政治化は更に進んでいきました。
義教は、上杉禅秀の乱鎮圧の際には幕府と協調した、鎌倉公方の足利持氏に対しても、関東管領の上杉憲実に攻めさせ、更に後花園天皇に持氏討伐の綸旨を出させるなどして、最終的には自害に追い込み、その持氏の遺児である春王丸らも殺害しました。
義教は朝廷に対しても厳しい態度で臨み、男女別室の制度を設けるなどして風紀を正しました。義教は、公家・武家の別や身分等には拘わらず、特に男女関係の不祥事には厳罰で臨みました。また、一揆に対しても、主力大名を投入するなどして次々と鎮圧していきました。

それまでタブー視されてきた勢力に対しても一切容赦しない
比叡山の焼き討ちといえば、織田信長が行った“悪行”のひとつとして古来から有名ですが、実は、信長に先駆けて初めてそれを行ったのは義教です。
平安時代以来、比叡山延暦寺は治外法権状態にあり、歴代の権力者達は比叡山には手を出しませんでしたが、義教は、荘園の境界問題や坂本の土倉の金貸し問題などで悉く比叡山に不利な裁定を下し、更に、鎌倉公方の持氏と内通していたという嫌疑をかけて所領も没収するなど、比叡山には強硬な態度で臨み、ついには、延暦寺追討を宣言して、幕府軍に比叡山を包囲させて山麓の坂本に火をかけるなどの行動を起こしました。
このため、延暦寺は和睦のため4人の使節を義教の元に派遣するのですが、義教はこの4人も殺害したため、怒った比叡山は、延暦寺の本堂に当たる根本中堂に火をかけて、そこで24人の宗徒が自害する事で、抗議の姿勢を示しました。
比叡山に対しての義教のこういった対応は、義教の治世が恐怖政治と云われる由縁のひとつにもなっていますが、しかし当時の比叡山は、現在のように世の中の平和や人々の平安を願う、純然たる宗教組織だったわけではなく、宗教勢力であると同時に強大な武力を持った一大軍事勢力であり、その武力を背景に朝廷や幕府に対して強い自己主張を行う圧力団体であったという事も、差し引いて考える必要があります。
しかも義教は、10歳に満たない頃から、将軍に就任する直前の30年代の壮年まで、僧侶としてずっと比叡山におり、その間には天台座主という比叡山のトップの座にも就いていました。それだけに義教は、比叡山の世俗化に伴う拝金主義、宗教的堕落、過激化する僧兵などの実態を誰よりも正確に把握しており、それが延暦寺への徹底的な弾圧に繋がったとも云われています。

義教の施策とその死は、幕府混迷への大きな転換点となった
義教の恐怖政治には当然反発もあり、最終的に義教は、義教の次の標的が自分である事を察知していた播磨の大名・赤松満祐により、関東平定の戦勝祝いの宴の席で暗殺されました(嘉吉の変)。宴の席で猿楽が始まって間もなく、義教の背後の障子が開き、そこから甲冑姿の武士数十人が乱入して、たちまち義教の首を刎ねたのです。
そして、義教のそのあっけない最期により、幕府の権力は将軍の手を離れていき、室町幕府の衰退が始まっていく事になります。


…というわけで、こうして5人の足利将軍の功績・長所・特徴などをまとめてみましたが、こうしみてみると、足利将軍は決して、無為無策・無能で実力も無かった人ばかりだった、などとは言えない事がお分かり戴けたかなと思います。
しかし、こうして改めてみてみると、同時に室町幕府の抱える大きな欠陥も見えてきます。それは、将軍が有力大名達を抑え付けて幕府の権勢を高め、政情を安定化させても、その将軍が亡くなって代替わりすると、また有力大名達が力を付けてくる、という事です。つまり、室町時代前期に於ける幕府の安定というものは、将軍個人の力量に依拠している部分が大きいのです。
後の江戸幕府が、将軍が誰であるかに関係なく長期に亘って安定政権であり続けたのは、室町幕府のそういった欠点やその結果を反面教師として体制を整備していったという面もあると思います。


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栃木県足利市と足利尊氏の関係

私は先週、1泊2日の日程で、東京・栃木方面を旅行してきました。
今回栃木県へ行ったのは、前々から一度は訪ねてみたいと思っていた、同県の足利市を訪問し、市内にいくつかある足利氏所縁の場所や物等を見学するためです。

足利市は、関東平野突き当りの、楓の葉のように広がる山と裾野に位置する、清和源氏 義家流四男・義国からの足利氏所縁の地です。
かつて足利荘と称されたこの辺りは、平安時代末期に足利義兼が源頼朝の縁戚として鎌倉幕府創設に尽力して以降、有力御家人となった足利氏の本貫地として発展し、南北朝時代に足利尊氏が京都で幕府を開いて以降は、足利将軍家発祥の聖地として、幕府の直轄地となりました。
絹の産地として、近世近代に於いては織物業が発達した街でもあります。

しかし足利は、確かに足利氏所縁の地ではあるのですが、歴史的にみると、実は足利尊氏所縁の地とはいえません。尊氏自身は丹波国(現在の京都府綾部市)で生まれ、鎌倉で育ち、建武の新政以後はほぼずっと京都に拠点を置いており、彼自身は一度も足利を訪れた事が無いからです。
戦の都合とはいえ、尊氏は九州など、鎌倉や京都からみるとかなり遠い所にも行っているのですが、鎌倉と同じく関東地方であるはずの足利には一度も足を踏み入れていない事から、尊氏自身も足利という土地には特に強い思い入れは無かったのかもしれません。

つまり足利という地は、尊氏個人や足利将軍家所縁の地というよりは、尊氏の父・貞氏以前7代の足利家所縁の地、と云ったほうが、より正確かもしれません。
勿論、前述のように室町幕府も足利を特別な地として保護し、将軍家から足利の社寺への寄進等も行われてはいましたが、実際には、その立地関係から、むしろ足利は、足利将軍家よりも鎌倉公方足利家との関わりのほうが深かったようです。

というわけで、現在の足利には、本来であれば尊氏所縁のものは然程多くは無いはずなのですが、なぜか足利市内には、尊氏に関するものがいろいろとあります。
今回の記事では、私が足利市内で見てきた、それら尊氏と関係のあるものを紹介致します。


まずは、束帯姿の足利尊氏像です。
足利市のランドマークともいえる、日本最古の学校で日本遺産にも指定されている「足利学校」の直ぐ近くに立っており、台座には「征夷大将軍足利尊氏公像」と記されています。
日本史の偉人の一人ではあっても、足利という郷土の偉人というわけではない尊氏のこの像を、足利市民はどのように思っているのでしょうか。

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足利学校の近くには、平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」の放送を記念して建てられた「太平記館」という観光案内所・お土産屋さんがありました。
この建物の名前を見た時、「あれ、足利って太平記の舞台になっていたっけ?」という疑問が一瞬過りましたが、そういう細かい事は言わない約束です(笑)。

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太平記館の中には、NHK大河ドラマ「太平記」で主人公・尊氏の役を演じた真田広之さんが、劇中で実際に着装していた甲冑一式が展示されていました。これが足利市に置いてある必然性については兎も角、これはこれでなかなか興味深い展示物でした。

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太平記館では、足利市のイメージキャラクター「たかうじ君」のグッズも売られていました。
足利市の公式ホームページによると、「足利学校の学校門と足利尊氏公の兜(かぶと)をかたどった帽子をかぶり、手には織物を持ち、足利市章を盛り込み、足利市をキャラクター全体で表現しています」との事です。
足利市が足利氏と歴史的に関係が深いのは確かなので、足利一門を代表する人物を市の象徴として使いたいというのは分かりますが、尊氏よりも前の世代の足利さんだと、誰を起用した所で知名度ではやはり尊氏に負けてしまうため、ここでも、あえて尊氏の名前を使う事にしたのでしょう。

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ちなみに、前出の「足利学校の学校門」というのは、下の写真の門の事です。今回、私は足利市には約3時間半滞在し、足利学校も見学してきました。
学校門に掲げられている扁額「學校」の文字は、明人の蒋 龍渓(しょうりゅうけい)が弘治元年(1555年)に来日した時の書を、当時の国史館の狛庸(こまやすし)が縮模したものだそうです。たかうじ君の額に記されている「學校」という旧字は、この扁額からきています。

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足利市中心部を東西に走るメインストリートのひとつである中央通り(旧国道50号)には、「尊氏通り」という愛称が付けられていて、尊氏通りの歩道には、その名称と尊氏の花押が刻印されたプレートが数メートルおきに埋め込まれていました。
室町時代なら、尊氏の花押の上を通行人が歩く(場合によっては踏みつける)なんて当然許されなかったでしょうね(笑)。

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というわけで、現在の足利市に、直接尊氏に関する史料・史跡等はほとんど残っていないものの、比較的最近になって作られた、尊氏に関するものはいろいろとあり、今回の旅行ではそういったものについても楽しみながら見てきました。
ちなみに、「足利氏宅跡」として国の史跡にも指定されている、足利市内の鑁阿寺(ばんなじ)というお寺には、足利家歴代大位牌、尊氏を含む歴代足利将軍15人の木像、尊氏直筆の書状など、直接尊氏に関わるものが現在もいろいろと保管されている事も、最後に一言補足しておきます。


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勇猛果敢な足利尊氏!?

確か一昨年頃だったと思いますが、私は、朝日新聞出版から順次刊行されていた全50号の「週刊 マンガ日本史」というシリーズの、足利尊氏(13号)、足利義満(14号)、足利義政(15号)の3冊を書店で購入しました。
この「週刊 マンガ日本史」は、日本史の偉人のうち特に50人をピックアップして、各号で一人を特集し、その人物の生涯(大まかな概要)や主要エピソードなどをマンガで再現するというシリーズで、このシリーズで室町幕府の将軍は、前記の3人が取り上げられていました。個人的には、足利義詮、足利義教、足利義輝、足利義昭なども取り上げて貰いたかったですが、まぁ、世間一般の評価としては、尊氏・義満・義政以外の足利将軍は、やはりマイナーな存在なのでしょうね(笑)。

週刊マンガ日本史_13号表紙

週刊マンガ日本史_14号表紙

週刊マンガ日本史_15号表紙

この3冊それぞれのマンガを一読したところ、義満と義政の2人については、世間一般が恐らく両者に抱いているであろう通りのイメージにほぼ沿った描かれ方でした。
即ち、義満は、「室町幕府の最盛期を築いた将軍」「絶対的な権力者」「有能ではあるが傲岸不遜」な人物として、義政は、「文化人、もしくは文化を支援する立場としては一流の人物、但し政治家としては限りなく無能」「応仁の乱の原因をつくった張本人のひとり」として、それぞれ描かれていました。

それに対してし、尊氏の描かれ方は、私にとっては意外でした。
昨年11月6日の記事で書いたように、私は尊氏に対しては、「気弱で優柔不断で決断力にも欠ける、どことなく頼りない武将」「信長・秀吉・家康のように自ら積極的に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではない」「元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある“おぼっちゃん”ではあるけれど、その割には傲慢な所や私利私欲は全く無く、育ちがいいだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容」という人物像を抱いています。

足利尊氏とは、武家の棟梁の割には、性格や言動はあまり英雄らしくはなく、しかし、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確実に持っており、その魅力や人望、そして強運によって、幾度となく訪れた困難を乗り切り、環境や運命に半ば強いられる形で表舞台に立ち続けた複雑で屈折した人物である、と私は解釈しているのですが、「週刊 マンガ日本史」13号のマンガで描かれていた尊氏は、私のイメージとはほぼ真逆で、強力なリーダーシップを発揮し、自ら果敢に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの猛将でした(笑)。
以下に、このマンガの一部を転載します。尊氏のビジュアルも、何だか今風の若者です(笑)。


週刊マンガ日本史_足利尊氏01

週刊マンガ日本史_足利尊氏02

週刊マンガ日本史_足利尊氏03

週刊マンガ日本史_足利尊氏04

週刊マンガ日本史_足利尊氏05

週刊マンガ日本史_足利尊氏06

週刊マンガ日本史_足利尊氏07

週刊マンガ日本史_足利尊氏08

…というわけで、兎に角このマンガでの尊氏は勇ましく、「この鬼の刃が足利の時代を斬り開く!」「乱世に挑む気概のある者は我とともに戦え!!」なんて勇ましいセリフも言っちゃいます。凄くカッコイイけれど、私の知っている尊氏ではありません(笑)。

あと、上に転載したマンガにも登場していますが、このこのマンガでは、後醍醐天皇も何だか凄いです。過剰なまでにダークな面が強調されていて、まるでゲームでいう“ラスボス”のような、あるいは、全てを意のままに操るフィクサーであるかのような、独特・異様な雰囲気を醸し出しています。こちらも、私の知っている後醍醐天皇ではありません(笑)。

「週刊 マンガ日本史」シリーズでの、義満や義政についての内容は私の予想の範囲内でしたが、尊氏については、私にとっては何とも斬新でした(笑)。


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等持院発行の冊子と、建武中興十五社会発行の冊子を読み比べる

先月28日の記事今月4日の記事では、足利将軍家の菩提寺である京都の等持院を取り上げましたが、その等持院でかつて頒布していた冊子(私がその冊子を入手したのは今から10年程前に等持院を参拝した時の事なので、現在も等持院でそれを頒布しているかどうかは分かりません)に、足利尊氏についての詳しい解説が載っていました。

等持院

今改めて読み返してみると、いかにも等持院らしいなと思える、なかなか興味深い内容の解説だったので、以下にその文章をそのまま転載致します。


足利尊氏

仁山妙義という法名で祀られた足利尊氏は、先にも述べたように、決して武断一辺の武人ではなかった。その法名からでも衣笠の山容が連想されるほど、尊氏という人は豊かな人間味の満ち溢れた温情家であった。

延元一年(建武三年、一三三六)五月二五日に、新田義貞の大軍を兵庫に撃破し、義貞敗退のあとに小勢を以て踏みとどまった楠木正成が湊川に討死にをされた時も、ただ一すじに後醍醐天皇のご安泰を願って行動をつづけていた正成の真情に、いたく同情して、その首級の供養堂に五〇町の寺領をそえているばかりでなく、天龍寺所蔵の光厳上皇宛のお伺い書にも、正成を直接取り囲んで窮地に逐いこんだ美濃・播磨の党には、希望どおりの恩賞を与えることを差控え、これらの者が義貞討伐に功をたてた上で改めて賞賜の沙汰をいたしたいと記しているほどである。

その年の八月一五日に清水寺の観世音の宝前に捧げられた願文には、世のはかなさを述べて、尊氏自身に仏心を起こさせるようにと観世音の済度を哀願し、一刻も早く世のわずらわしさから抜け出したいと念じて、現世の果報よりも後世の安隠に、ひたすら祈願をこめる旨が美しい筆蹟で記されている。

かって、元弘三年(正慶二年、一三三三)五月、足利高氏(尊氏)が京都六波羅の北条勢を攻め、新田義貞が鎌倉を陥れたにもかかわらず、建武中興の後、またまた鎌倉に北条氏の残党が活発な動きを見せだした時、尊氏は後醍醐天皇の勅許をまたずに征東将軍と称して関東へ下った。建武二年(一三三五)八月二日のことである。尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである。殊に、武蔵・相模・伊豆は尊氏が朝廷から与えられた知行国であり、八月九日には、おくればせながら尊氏を征東将軍に補任する旨が発令されたのであるから、決して、尊氏自身が叛逆の意図をもって鎌倉へ向かったと非難することはできない。つまり、義貞の鎌倉征めの不手ぎわを後始末をつけに行かれたと見るべきである。

しかし、この尊氏の行動は、却って義貞の思うつぼに陥ることとなった。尊氏が鎌倉におちつき、北条の再起を抑え関東の平穏を願って奥羽を警戒されたことが、義貞をして尊氏を謀叛心ありと言わせる口実となった。

尊氏は、義貞や公家たちが王朝政権を掌握することをあやぶんで、幕府の再編を図ることを良策とされたが、新田・足利両氏共に源氏の正統であり、将軍職に就いて政権を樹立する資格を持っていただけに、義貞・尊氏の対立は、ここに至って一そう激しさを加えた。かくて義貞は、尊氏朝敵なりと強張した。

楠木正成は、ひたすら天皇のご安泰を祈って行動された人であるから、王朝勢力を背景にしようとした義貞側にあると言えるわけではあるが、尊氏の考え方にも大いに同調して、義貞らの確信の持てない政治よりは、むしろ尊氏の幕府政治の方が、天皇はご安泰であるとさえ考えておられた。

北条氏の失政を憎まれて討幕を企図された後醍醐天皇にお味方した義貞も、源氏の名門として天下を握ろうと念願していたことは事実である。しかし、尊氏ほどの政治力がなかった。

そこで、楠木正成が朝廷の軍議で、尊氏との和睦を主張されたという梅松論の所伝も、正成が、鎌倉時代のような朝幕関係に立ち戻ることの賢明さを、よくわきまえておられたことを明らかにしていると言える。

延元一年(建武三年、一三三六)二月一一日に、尊氏の大軍が京都の戦いに敗れて九州に走った時も、正成は摂津の西宮まで追いながらも、夜には兵をまとめて京都に引きあげ、その後も、勝利に酔いしれている公家たちの振舞いを快しとせず、後醍醐天皇に対して、義貞を討って尊氏を召し返し、尊氏と和睦されるのが何よりの得策と考えるから、その使者は自分がお引受け申したいと献言し、更に、朝権回復ができたのは尊氏の功績によるところで、義貞が鎌倉を攻めおとしたとは言っても、その後の天下の武士が尊氏に伏しなびき心服していることを見ると、尊氏は武力ばかりでなく人徳によって敵を随従させる人である。つまり、尊氏は戦争と政治とを併せ行っている。それに反して、義貞にはその徳がない。義貞につき従うべき軍勢すなわち尊氏に降って官軍に参加した京都の武士までが、尊氏について九州へ走っている。これを思えば、尊氏がやがて九州の大軍をまとめて京都に征め上ることは明らかなことである―と、時の情勢を見通し、人心の動きを見抜いた意見を述べられたのである。

源氏の主流でありながら、尊氏に政権掌握の機先を制せられたと考えて、巧みに尊氏を朝敵に仕立て、独り尊王家をよそおっていた義貞が、正成を低い旗頭程度に扱って、湊川の死地に陥れたことを、尊氏が天下国家のために大いに憤慨されたのは当然である。それが、光厳上皇へのお伺い書でも感じ取れる。

後に正成の子の正儀が、足利方の細川頼之らと工作して南北朝の合体を実現し、正成・尊氏の霊に報いたのである。


足利将軍家の菩提寺であり境内に尊氏のお墓もある等持院の立場からすると当然の事なのでしょうが、やはりこの冊子では、尊氏の事はかなり高く評価されています。冒頭から「決して武断一辺の武人ではなかった。その法名からでも衣笠の山容が連想されるほど、尊氏という人は豊かな人間味の満ち溢れた温情家であった」と惜しみない賛辞を贈っている事からも、それは明らかです。
私自身も尊氏の事は高く評価しているので、その姿勢には特に異論は無いのですが、ただ、どうもやや過剰に高く評価し過ぎているような気もします(笑)。

それは兎も角、一般的には、敵対している二つの勢力の一方を主人公として高く評価すると、それに反比例して、もう一方の勢力は低く評価される傾向がありますが、等持院発行のこの冊子に於いては、尊氏の事を極めて高く評価しつつも、尊氏と敵対した楠木正成に対しても、同様に高い評価が与えられています。
つまり、尊氏を高評価しているとはいっても、この等持院の冊子の立場は、北朝方の人物のみを高評価しているという単純な“北朝史観”ではないのです。

しかし、味方と敵、双方の武将が、共に政治家としても軍人としても優秀で、あまつさえ人格も優れていたとしたら、そもそも最初から戦いなどは起こらないような気がします。
というわけで、誰かを悪役にする必要があったから、とまで言ってしまうとさすがにそれは私の邪推かもしれませんが、恐らくは尊氏と正成を高く評価したしわ寄せとして、結果的に、この等持院の冊子では新田義貞が随分と低く評価されているように感じられます。
戦前や戦中の、所謂“皇国史観”の全盛とされた時代(特に明治時代末期頃から終戦頃までの時期)は、後醍醐天皇は歴代天皇の中でも屈指の名君と評され、5月4日の記事で詳述したように、その後醍醐天皇に叛いた尊氏は朝廷に弓を引いた逆賊として極悪人扱いされましたが、戦後は一転して、後醍醐天皇こそが南北朝動乱の混乱を招いた当人として、堂々と後醍醐天皇を批判する歴史学者や歴史作家等も多くなってきましたが、この等持院の冊子ではさすがに後醍醐天皇への批判は控えており(「建武の新政」ではなく「建武中興」という言葉を用いている事から、むしろ後醍醐天皇の政治姿勢は評価していると思われます)、結果としてその分、(もしかするとこれは私の曲解かもしれませんが)義貞が批判の全てを背負わされてしまったという感も、無くはありません。

特に、以下の文章などには、尊氏への高評価と義貞への低評価が凝縮されています。これが歴史的に真実であるか否かは別にして、少なくとも南朝史観の立場に立つ人達にとっては、これをそのまま認める事は出来ないでしょう。
「尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである(中略)義貞の鎌倉征めの不手ぎわを後始末をつけに行かれたと見るべきである」
「巧みに尊氏を朝敵に仕立て、独り尊王家をよそおっていた義貞が、正成を低い旗頭程度に扱って、湊川の死地に陥れたことを、尊氏が天下国家のために大いに憤慨されたのは当然である」

また、何かと内輪もめを繰り返していた北朝(幕府)側に比べて、南朝は、勢力としては小さくても忠臣揃いで、常に団結し、皆、心を一つにしていた、という南朝史観を抱く人にとっては、その前提を覆す事になってしまうためなるべく触れて貰いたくはない、南朝から幕府に寝返った楠木正儀(後にまた南朝に帰順しますが)についてあえて文末で触れているのも、些細な事ながらもこの等持院の冊子の特徴の一つと言えるかもしれません。


さて、ここでもうひとつ、全く別の文章を紹介致します。
これは、1月20日の記事で紹介した冊子「建武中興六七〇年記念 南朝関係十五神社巡拝案内記 -附・十五社御朱印帳-」に掲載されていた、建武の新政についての解説文で、内容的には、等持院発行の冊子に書かれている文章とはほぼ“正反対”の立場を採っています。
ちなみに、下の画像は建武の新政を行なった後醍醐天皇で、日本史の教科書にも掲載されている特に有名な肖像画です。

後醍醐天皇

等持院の冊子に掲載されていた文章は足利尊氏について書かれたものですが、こちらの文章は建武の新政について書かれたもの(尊氏についても触れられていますが、尊氏について限定して書かれてものではありません)なので、テーマは異なるのですが、同時代という事もあって取り上げる範囲についてはかなり重複する部分が多いので、長文になりますが以下にそのまま転載致します。


建武中興について

第九十六代後醍醐天皇は後宇多天皇の第二皇子で、文保二年(一三一八)に異例の三十一歳で即位され、延元四年(一三三九)に崩御されるまで、二十一年間の永きにわたって在位せられた。その間、幾多の苦難をたどりつつ、天皇親政による国家中興への力をつくされ、その強い御決意の実現となったのが「建武中興」である。しかし、足利尊氏の謀反によって、わずか二年余で中断されることとなるが、この建武中興は、わが国の歴史において、実に重要な意義を有するのであった。

源頼朝の武家政治に始まる鎌倉時代には、注目すべき二つの事件があった。その一つは承久三年(一二二一)の「承久の変」で、後鳥羽上皇による討幕計画が失敗に終って、上皇は隠岐に流され、崩御された。いま一つの事件は、蒙古襲来である。二度にわたる強大な国家を誇る蒙古の襲来は、政治・経済などに多くの影響を与えた。かつてない外圧に国民は悲観絶望の感を深くするが、この二事件を通じて“わが国は「神国」(天照大御神の皇孫たる天皇を大君とあおぐ国)なり”との思想・信仰を深め、やがて政治を顧みて、わが国中興の機運が高まってゆくのである。
そんな中で後醍醐天皇は、御父帝・後宇多上皇の院政を廃止され、朝廷内での天皇親政を実現された。天皇は、かつて延喜・天暦の御代の盛時を思われ、醍醐・村上両天皇の善政を理想とし、国家の中興を志された。もって御在世のときから「後醍醐」と称せられ、その心を継いで盛時を復古する目標を示されたのである。
そして意欲的に親政の徹底を図るよう、人材の登用、朝儀の復興、因習の廃止、記録所の復活など、果敢に改革を進められたが、その理想実現には、どうしても幕府打倒が不可欠、且つ、喫緊の課題となり、専横を極めていた鎌倉幕府を倒して、政治の一元化を図る決意を示されたのである。
よって倒幕に向けて、正中元年(一三二四)と元弘元年(一三三一)の二度にわたり計画が進められたが、残念にも失敗に終わった。

後醍醐天皇は、ひそかに御所を逃れられ、笠置山に入られた。笠置山に義旗が上がったのに呼応し、お召しを受けた楠木正成公が赤坂城にて挙兵、智謀をつくして幕府の大軍と戦われるのである。やがて笠置山は落城し、元弘二年(一三三二)天皇は幕府(北条高時)によって隠岐の島に配流される。楠木正成公は赤坂城を逃れ、一時姿を隠され、のち千早城にたてこもられることとなる。同様に身をひそめつつ活動を続けられる大塔宮尊雲法親王(護良親王)は、正成公と連絡をとられつつ吉野に挙兵、しかしまもなく吉野城は陥落、北条の大軍は孤城千早を一挙に落すべく激しい攻撃をかけた。だが智謀・策略の手段をつくされた正成公の必死の戦いには、幕府大軍勢といえども、数ヶ月かかってもなお、陥れることができなかった。この間大塔宮は、北条軍の糧道を絶つなどの活躍をされるとともに、全国の武士に令旨を発して決起を促された。
楠木正成公が千早城で幕府の大軍と戦っておられる間に、後醍醐天皇は、元弘三年(一三三三)ひそかに隠岐を脱出、名和長年公を召されて、伯耆国(現鳥取県)船上山にお入りになった。天皇の非常な危険を犯してまでの行動から、国家中興の理想実現へのなみなみならぬ決意が推察される。
船上山に義旗がひるがえると、名和氏・千種氏の活躍に呼応する者も出て、赤松円心が義軍に加わるなど、また九州の菊池武時公も義兵をあげられた。
足利尊氏は、幕府の督促を受けるが、謀反して義軍に加わり、六波羅を攻撃。これと時を同じくして新田義貞公は、結城宗広公等と連絡をとりつつ関東に兵をあげられ、鎌倉幕府の本拠を攻撃、元弘三年五月、ついに鎌倉を手中におさめられた。北条高時は自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡した。このような東西義軍の奮起を促したのは、大塔宮の御活躍の功によるところ大きく、そしてその宮の御活動を支えたのは、実に楠木正成公が千早城に拠って半年間も戦い続けたことによるものといえよう。
かくて元弘三年(一三三三)六月、後醍醐天皇は船上山から京都に還幸され、皇位に復帰、天皇による新しい政治が行われることとなった。そして翌年年号は、「建武」と改元された。

中興が実現すると、国内の安定と治安の維持に向けて、各方面の新しい政策が進められた。まず交易流通を円滑にして経済の発達をはかるため関所を停止し、その他商業を保護する方策や貨幣の鋳造・紙幣の発行を行い、奢侈を禁止し、所領安堵を図り、徳政を実施するなど、新しい政治が取り進められたのである。
だがそんな中興政治が進められる中、足利尊氏は、武士の関心を集め、次第に武家勢力を拡大させ、それに乗じて護良親王を鎌倉に幽閉、やがて反尊氏勢力の中心となった新田義貞公と対立を深めることとなる。尊氏は武家政治を実現しようとするのに対して、義貞公は幕府を否定して天皇を中心とした国家の姿を維持しようとする点で、根本的に異なる立場にあるからである。
そんな中、建武二年(一三三五)、北条氏の残党、北条時行が兵をあげて鎌倉を占拠(中先代の乱)。これがもとで尊氏は、義貞公を討つことを名目に、公然と朝廷に反旗をひるがえした。これによって世は再び混乱に陥り、建武中興はここに瓦解の已むなきに至るのである。
その後叛逆の尊氏は、北畠顕家公等の朝廷軍に敗れて、九州へ敗走する。九州では足利軍に対して、菊池軍が奮戦されるが、敗退を余儀なくされた。
やがて足利尊氏は、弟直義と共に、大軍を率いて上洛して来る。これを阻止しようとする新田・楠木両軍は、兵庫・湊川でこれを迎え撃つが、多勢に無勢で力つき、義貞公は敗走、正成公は「七生滅賊」を誓い、討死された。後醍醐天皇は再び比叡山に逃れられた。足利尊氏は、建武三年(一三三六)入京、光明天皇を践祚させる。これをもって事実上の幕府再興となり、同時に建武中興の御代は、二年半ばで終わることとなった。楠木正成公の戦死によって事実上の崩壊となった、と言えよう。

後醍醐天皇は、この年の二月に元号を「延元」と改められたのであるが、のち十二月には吉野へ遷られて再起を期されることとなった。「吉野ハ延元元年、京都ハ建武三年也。一天両帝南北京也」と言われたように、南北両朝に二人の天皇が、二つの年号を用いて、南北朝分立の時代を迎えたのである。
かかる窮地へと追われても後醍醐天皇は、理想実現にはいささかも揺ぐことのない堅い御決意をもって、京都回復への策を進められた。新田義貞公は、越前・金崎城に拠って足利軍と戦われる。天皇は陸奥の北畠顕家公に上京を命じられる。また東海道・遠江には尊澄法親王が下向される。尊澄法親王は、延元二年還俗せられて、名を“宗良”と改められた。九州では菊池氏が奮起され、もって九州義軍の活動もさかんとなった。
天皇の命にこたえ陸奥の北畠顕家公が京へ向って霊山を出発されたのは、延元二年(建武四年・一三三七)、この報をきっかけに、各地義軍の京都進撃が促された。霊山を発した北畠顕家公は、南下されて鎌倉から遠江へ。ここで宗良親王の軍と合流、足利軍と戦われながら摂津に至り、一挙に京を衝く態勢となった。しかしその矢先、大将顕家公が戦死されて敗退。新田義貞公の義軍も京都回復が絶望となり、義貞公は、越前の藤島で討死されたのである。
京都回復の計画は、京都を目前にして、失敗に帰した。しかし後醍醐天皇は、これにもくじけられなかった。義良親王を奥州に下され、結城宗広公が護衛となられ、北畠親房公も同伴された。また宗良親王は遠江に向わせられ、その皇子がこれに従われるなど、天皇は、京都中心の勢力を奥州へ移されるとともに、九州へは征西将軍として懐良親王を派遣された。だが、計画は困難を極め、成功するに至らなかった。
後醍醐天皇が吉野に遷らせられて二年有余、ひたすら京都を回復して国家中興を図ろうとされた雄図は、あいつぐ武将の戦死、計画の挫折によって、実現の途は遠くなり、後醍醐天皇は、悲痛のうちに延元四年八月十六日、御歳五十二歳で崩御せられたのである。
「玉骨はたとえ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕を望まんと思う」と、最後まで国家中興を願われた。天皇親政による神国理想の国づくりのため、不撓不屈の御精神をもって闘われ、尊い御生涯を閉じられたのである。

後醍醐天皇の大いなる御志は、後村上、長慶、後亀山の三代の天皇とその皇子達に継承され、更に幾多の忠臣、義士の純忠至誠をもって、以後の幕府政治に対して、大義をかけた永い闘いが続けられてゆくのである。一門一家をあげて忠義を貫いて已まず、楠氏にあっては一族全滅して痕跡を残さぬまでに至った。ここに楠公精神があり、これに象徴される多くの忠臣義士の尊い精神が、時代を超えて全国に伝わり、幾多の志士を奮起せしめることとなるのである。
「太平記」「神皇正統記」をはじめとして、「日本外史」などの普及と共に、山崎闇斎等儒学者によっても、建武中興への忠臣義士の精神が広められ、また南朝を正統と定めた「大日本史」の編纂と、その他水戸光圀公の楠公景仰に伴う事蹟は、後世へ多大の影響を与えた。更に幕末志士は、水戸学の影響を受け、西郷隆盛、橋本景岳、吉田松陰など会沢正志斎の感化も大きく、また真木和泉守は、のち明治天皇の治世に大きな影響を及ぼしたと言われる。
こうして江戸幕末の一大国難に直面して、幕末の志士は、わが国の真姿回復に向け、明治維新を断行した。王政復古がなり天皇親政が実現したのは、建武中興から数えて、実に五三〇年もの永きを経てからのことであった。
わが国の本義は、「神国」にあり、建武中興において、わずかにでも曙光を歴史に留められた意義は大きい。日本民族の奥深く流れる思潮等は、やがて重大国難に著しくその姿を現わし、もって明治維新を招いた。そして明治の御代、明治天皇の鴻業によって、近代日本の理想国家への道が開かれたのである。


この冊子を発行している建武中興十五社会が、南朝の天皇・皇族・公卿・武将を御祭神としてお祀りしているお宮(言い方を変えると、北朝や足利将軍を是としない立場にあるお宮)により構成されているという事情から、当然の如く、南朝に対しては好意的で高評価な文章で、逆に、尊氏に対しては厳しい内容となっています。
楠木正成に対しての評価が高い点以外、先に紹介した等持院発行の冊子の文章とは、基本的にほぼ真逆の内容といえます。

例えば、等持院の冊子では、「尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである」と書かれ、尊氏はあくまでも建武の新政を守ろうとしていた、という事が強調されていますが、建武中興十五社会の冊子のほうでは、建武の新政については、「足利尊氏の謀反によって、わずか二年余で中断されることとなる」「これがもとで尊氏は、義貞公を討つことを名目に、公然と朝廷に反旗をひるがえした。これによって世は再び混乱に陥り、建武中興はここに瓦解の已むなきに至るのである」などとあり、建武の新政が崩壊した元凶は尊氏にあるかのように書かれています。
今日、日本の歴史学では、建武の新政の崩壊は、建武政権による論功行賞の失敗が最大の原因と解されており、それはつまり、その論功行賞を実行した後醍醐天皇にその原因があるという見方なのですが、十五社会の冊子は、その見方とは全く相反する見解となっているのです。

そもそも、建武中興十五社会に加盟しているお宮で御祭神としてお祀りされている公家や武将(北畠親房、北畠顕家、楠木正成、新田義貞、名和長年、菊池武時、結城宗広)や、南朝に理解のあった人物(徳川光圀)については、文中では「公」という敬称が付けられており、それに対して、それ以外の人物については呼び捨てにしている、という時点で、十五社会の冊子の立場は至極明らかです。
ちなみに、播磨の守護・赤松円心は、大塔宮護良親王に従って鎌倉幕府の討幕に大きな功績を挙げ、幕府崩壊後も暫くは大塔宮と行動を共にしたため尊氏とは対立的な関係にありましたが、その後、尊氏の陣営に加わり南朝と敵対するようになったため、十五社会の冊子の中では呼び捨てにされています。もし最後まで大塔宮と運命を共にしていれば、円心は御祭神として神社にお祀りされ、十五社会の冊子でも「公」という敬称を付けて貰えた事でしょう。しかし、途中経過はどうあれ、円心は最後に北朝に付いてしまったため、もうダメなのです。
北朝方の人物は、兎に角全く評価するに値しない、というのがこの十五社会の冊子の立場で、これはまさに典型的な“南朝史観”です。

「一門一家をあげて忠義を貫いて已まず、楠氏にあっては一族全滅して痕跡を残さぬまでに至った。ここに楠公精神があり」とも書かれていますが、前出の楠木正儀(先程紹介した等持院の冊子に掲載されていた文章の文末で取り上げられています)については、いなかったという扱いになっているのでしょうか。
正儀は、「忠臣の鏡」とされた大楠公・正成の三男で、「桜井の別れ」で知られる小楠公・正行の弟に当たる楠木一族の武将ですが、南朝から北朝へ投降し、一時は室町幕府方の武将となった人物です。私自身は、実は正儀の事は高く評価しているのですが(卑怯者と謗られながらも最後まで南北朝和平を貫こうとした人物であると私は解しています)、少なくとも十五社会の冊子が言う、南朝に只管忠義を尽くすという意の“楠公精神”には、あまり合致しない人物であろうと思います。

あと、「幕末の志士は、わが国の真姿回復に向け、明治維新を断行した。王政復古がなり天皇親政が実現したのは、建武中興から数えて、実に五三〇年もの永きを経てからのことであった」とも書かれていますが、明治の王政復古というのは、建前としては兎も角、実態としては、天皇親政がその言葉通りに実現したわけではなかったと思います。
大日本帝国憲法が施行され内閣が誕生するようになって以降の日本は立憲君主制ですから、当然、天皇親政ではありませんが、それ以前についても、つまり、江戸幕府が崩壊してから憲法がつくられるまでの明治時代初期についても、明治天皇による独裁が行われていたわけではありませんから、天皇親政と言い切ってしまうのは、少なくとも実態としてはやはり語弊があるような気がします。


等持院発行の冊子と、建武中興十五社会発行の冊子を読み比べてみてはっきりと分かるのは、結局、どの立場に立つかによって、足利尊氏という人物や南北朝時代に対しての評価は、全く異なるものになってしまう、という現実を、今更ながら改めて再認識させられるという事です。


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足利尊氏が旗あげした地として知られる篠村八幡宮を参拝してきました

先週、私は2泊3日の日程で関西(主に京都・大阪・和歌山方面)を旅行してきたのですが、2日目の朝、以前からずっと行きたいと思っていた、京都府亀岡市篠町に鎮座する篠村八幡宮を参拝・見学してきました。
誉田別命、仲哀天皇、神功皇后の三柱をお祀りする八幡宮で、歴史的には、足利尊氏(挙兵当時は高氏)の倒幕挙兵地として知られるお宮です。

篠村八幡宮_01

篠村八幡宮_02

鎌倉幕府の命令により、幕府に敵対する後醍醐天皇方の軍勢を討つため、幕府を代表する有力武将の一人として鎌倉を出陣してこの地に到達した尊氏は、1333年4月29日、この地に於いて、後醍醐天皇側に寝返って討幕する意思を表明します。
尊氏の心中では、鎌倉を出る時には既にその決意が固まっていましたが、全軍にその事を明らかにしたのは篠村八幡宮に於いてであり、この地は、云わば、その決定的な地点となりました。

同日、戦勝祈願の願文を神前で読み上げた尊氏は、直ちに全国各地の武将達に密書を送って協力を求め、同宮一帯に数日間陣を張って滞在した後、尊氏は、後醍醐天皇方の千種、赤松軍などと連絡を取りながら、鎌倉幕府の京都に於ける最重要拠点であった六波羅探題を攻め滅ぼしました。
そして、六波羅を守っていた北条仲時ら四百余人は、近江の番場(現在の滋賀県米原市)まで逃れて悉く自刃しました。

篠村八幡宮_03

尊氏は、篠村八幡宮で討幕の意思を明らかにした際、願文に添えて鏑矢(合戦開始の合図として双方が最初に敵側に射込む唸り音を発する矢)も神前に一本奉納したのですが、尊氏の弟・直義を始め、一族の吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も、それに倣って矢を一本ずつ納めて必勝を祈願し、そのため社壇には矢が塚のように高く積み上げられました。
これらの矢を埋納した場所が、下の写真の「矢塚」です。ちなみに、矢塚の石碑は、江戸時代中期の1702年(赤穂浪士の討入りがあった年です)に奉納されました。

篠村八幡宮_矢塚

矢塚には椎の幼木が植えられ、その椎は樹齢660年を経て周囲の椎と同じ程に成長しますが、昭和9年の室戸台風で倒れ、現在の椎は2代目との事です。
なお、矢塚の脇に立っている看板の説明によると、「足利尊氏の勝ち戦にあやかるべく、地元の太平洋戦争出征者は、椎の倒木から作った肌身守を持参して無事を祈願した」との事なので、尊氏が逆賊視されていた戦時中に於いても、少なくとも地元の人達(篠村八幡宮の氏子さん達)からは尊氏はそうは思われていなかったらしい事が窺えます。

また、境内ではないものの、篠村八幡宮に隣接する地には、「旗立楊(はたたてやなぎ)」と称される楊が立っています(下の2枚の写真)。
尊氏の元に次々と駆けつけてくる武将達に尊氏の本営の所在を示すため、旧山陰街道(横の小道)に面して高く聳え立つ楊の木に、足利家の家紋である「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられており、この楊は、その時代から6~7代を経て引き継がれたものだそうです。前出の矢塚と共に、この楊も亀岡市の史跡に指定されています。

篠村八幡宮_旗立楊02

篠村八幡宮_旗立楊01

なお、尊氏は後醍醐天皇と決別した後の1336年1月、京都攻防戦で敗れた際にも、この地で味方の兵を集めると共に、再起を祈願して篠村八幡宮に社領を寄進しています。
その後、尊氏は逃げ落ちた九州で体勢を立て直して京都へと戻り、後醍醐天皇側の軍勢に勝利して室町幕府を開く事となりました。

こういった経緯から、1349年には尊氏は同宮にお礼参りに訪れ、また、室町幕府の歴代将軍も多くの社領を寄進し、盛時には、篠村八幡宮の社域は篠の東西両村にまで渡りましたが、後に、応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社域の多くは失われました。


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NHK「その時歴史が動いた」で描かれた湊川の戦い

南北朝時代の1336年に、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市)で、光厳上皇の院宣を奉じて九州から東上して来た足利尊氏の軍と、後醍醐天皇の勅命によりこれを迎え撃った楠木正成の軍との間で「湊川の戦い」という合戦が行われました。

湊川の戦いについては、昨年3月11日の記事昨年9月25日の記事でも述べた通りなので、ここではその詳細は割愛しますが、先日たまたま、かつてNHKで放送されていた歴史情報番組「その時歴史が動いた」の中で、この湊川の戦いが取り上げられていたという事を知り、動画投稿・共有サービスの「YouTube」(ユーチューブ)にアップロードされていたその動画を視聴しました。
平成15年2月12日に放送された「乱世を制するリーダーの条件 ~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~」と、平成17年2月23日に放送された「我が運命は民と共に ~悲劇の英雄 楠木正成の実像~」の2回で、湊川の戦いに至る経緯が足利尊氏、楠木正成それぞれの視点から描かれており、なかなか面白かったです。

まず以下は、「乱世を制するリーダーの条件 ~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~」の動画です。45分の番組ですが、4本に分割してアップロードされています。
尊氏の立場に立って、尊氏の苦悩と、尊氏はいかにして乱世を勝ち抜き新たな時代を切り開くリーダーとなりえたのか、という事が描かれています。







 

そして、以下は「運命は民と共に ~悲劇の英雄 楠木正成の実像~」の動画です。こちらも45分の番組ですが、ここでは7本に分割してアップロードされています。
正成は従来、忠誠・知謀・勇猛が強調される事が多かったですが、この放送ではそれらに加え、正成の活躍の土台には、正成と民衆との緊密な連携・ネットワークもあったとしており、その点も興味深かったです。















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時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (後編)

前編から続く)

戦前の日本では、楠木正成は「忠臣の鏡」「大楠公」として過剰なまでに高く評価され、逆に、その正成を討った足利尊氏は大極悪人と解される事が多かったため、明治時代に於いても、常に正成は高く評価され、尊氏は逆賊視されていたのであろうと思っている人が多くいますが、少なくとも明治時代前期から中期にかけての時期は、実はそうでもありませんでした。

明治期にヨーロッパの近代歴史学が入ってくると、史学界では太平記の史料的価値が疑われるようになったため、正成は一般の庶民には尊敬されていたものの、史学の分野に於いては正成の評価は下がっていきます。
東京帝国大学に初めて国史科が出来た頃、重野安繹(しげのやすつぐ)、久米邦武(くめくにたけ)、星野恒(ほしのひさし)という3人の博士が教授になりましたが、3人共、正成の事は随分と低く評価をしました。

重野博士は、「正成は忠臣の道を守らず、自分の意見が朝廷に採択されないので腹を立て、やけを起こして国家を棄て天子を残し、わがままにも討ち死にせんとして湊川に行った」と述べ、久米博士は、「大将というのは一人になっても生き抜くのが本当だ。敗死を覚悟で戦に行くのは真の大将ではない」と言い、星野博士は「初めから死ぬつもりでいた事は良くない」と断じました。
また、ヨーロッパで史学研究をして帰国した坪井九馬三という学者は、「湊川の戦いは現代の暦に直すと7月12日である。そのような暑い季節に午前10時から午後4時まで6時間にも亘って16回も戦闘を行ったため、楠木軍は疲労の極に達して、自殺行為のような戦いをしたのだろう」と、論旨明快な推測をしました。

更に、この時期の代表的な啓蒙家である福沢諭吉も、正成の事は低く評価していたと云われています。これは、俗に「楠木正成権助論」もしくは「楠公権助論」と云われるもので、その趣旨は、概ね以下の通りです。
下男の権助(ごんすけ)が主人の使いに行き、一両のお金を落として途方に暮れ、旦那に申し訳がないと言って思案を定めて、並木の枝にふんどしを掛け首を吊って自殺をする例はよくある事である。この権助が自殺する時の気持ちを察すれば、それは、主君に任務を与えられながら果たす事が出来ない事を申し訳ないと思って自決する武将の気持ちと同じである。ところが世の中の人は、権助の事は軽蔑するのに、武士の場合には石碑を立てたり神社を建てたりする。しかし、権助も忠君義士も、文明の役に立たないという点では同じであり、共に命の捨て場所を知らないのである

一般にこれは、「楠木正成や赤穂浪士の死は、世の中にとっては何の益もない、ただ私的満足のための死であり、一両の金を落として首をくくった権助の死と同じである」と福沢が言ったものと介され、そのため正成に思い入れの強かった一般庶民から福沢は様々な誹謗中傷を受けるのですが、ただ、福沢がその主張をしたとされる「学問のすゝめ」第七編には、確かに赤穂義士については具体例として文中で明示されているものの、実は正成の名前(もしくはそれを示唆するような言葉)は一言も出てきていません。
そうであるにも拘らず、正成と権助が結びついて一人歩きをしてしまい、結果的に、当時の人々の正成や赤穂義士に対する熱烈な思いが怒りとなって爆発して、福沢はバッシングを受ける事になってしまったのです。
当時の正成への大衆の人気を窺い知る事が出来る事例でもあります。


そして、一般大衆レベルでは兎も角、史学において正成の評価が下がってくると、今度はそれに反比例して、尊氏を悪人と決め付けず、歴史を公正に評価しようという流れが主流になってきます。
国定教科書というのは国家がつくる教科書の事ですが、明治37年版の国定教科書「小学日本歴史」には、当時のそういった流れを反映して、後醍醐天皇の建武の新政については以下のように書かれました。
かく一統の政治や整ひしかども、弊害、従ひて起り、内奏、しきりに行はれて、賞罰、その富を得ざるもの多かりき
天皇はまた兵乱の後なるにもかかはらず、諸国に課して大内裏を造営せんとしたまふなど、民力の休養に怠りたまふこともありき。されば新政に対する不平は、しきりに起り、人々、中興の政治を喜ばずして、かへつて、武家の政治を慕ひ、つひに、ふたたび、天下の大乱を見るに至れり

意外な事に、はっきりと建武の新政の混乱を述べ、後醍醐天皇の事も容赦なく批判しています。その一方で、尊氏については以下のように書かれました。
才智に富み、巧に、将士の心を収めたりしかば、人々、源氏の昔を思ひて、心を、これに寄する者多かりき

はっきりと尊氏の人柄を褒めており、これが、戦前の国定教科書の記述であるという事には少々驚かされます。
また、明治42年には、自らを平民史家と名乗る思想家・ジャーナリストの山路愛山(やまじあいざん)が、「足利尊氏」を出版していますが、この作品の中で愛山は、建武の新政や南北朝の争乱を革命と捉え、尊氏を、時代を代表する英雄として情熱的に描きました。
更に山路は、尊氏の政治活動だけではなく、尊氏の性格まで掘り下げ、尊氏は貴族的な優雅さに満ち溢れ、度量は真に海の如きである、と高い評価を下しています。

現代の人達は、「戦前は足利尊氏は逆賊、楠木正成は忠臣とされ、戦後はその反動から、尊氏の評価が高まり、正成についてはあまり触れられなくなった」と思っている人が多く、確かにそういった面はあるのでそれは決して間違いではないのですが、このように現実はもっと複雑で、戦前であっても尊氏が高く評価されたり、逆に、戦前でも正成が低く評価される事もあったのです。


しかし、その後、尊氏を高く評価する内容であった、前出の国定教科書の記述は大きな問題になります。
山路愛山の「足利尊氏」が出版されてから僅か2年後の明治44年、国定教科書が南朝を正統とせず南北朝を併記しているのはおかしい、と読売新聞が紙上で大きく取り上げたのです。所謂、南北朝正閏(せいじゅん)論争です。

読売新聞(明治44年1月19日)

丁度この頃は、明治天皇を弑逆(暗殺)しようとする計画を企てたとして幸徳秋水ら社会主義者が処刑されるという大逆事件が起こった時期であり、当時のそうした世相もあって、帝国議会も、この歴史教科書の記述を国家的な問題として大きく取り上げました。
そして、時の第二次桂太郎内閣は、国定教科書の記述は誤りであるという結論を下して、この教科書を執筆した教科書編集官の喜田貞吉を休職処分にし、この教科書の使用も禁じました。
更に同年3月、明治天皇の勅裁という形で、南朝こそが正統であると定められました。南朝と敵対した北朝の御子孫であられる明治天皇がそのようにお定めになった、というのは何とも不思議な話ではありますが、兎も角これで、公式に南朝が正統とされ、尊氏には逆賊という烙印が押される事になったのです。

そういった経緯を経て、その後の国定教科書では、南北朝時代についての記述が大きく改定されました。それまでの「南北朝時代」というタイトルは消え、この時代のタイトルは、南朝が政権を置いた吉野に因み「吉野時代」と変えられました。更に、人物評も大きく変化します。
明治44年に改定された国定教科書「尋常小学日本歴史」では、尊氏について以下のように記されました。
尊氏大望を抱き、北条氏に屈従するを快しとせず、幕府の命により兵を率ゐて京都に上るや、にはかに鉾をさかさまにして、勤皇の軍に加り、遂に六波羅を陥れしなり。されど尊氏はもとより王政の復古を希ひしにあらず、自ら源氏の幕府を再興せんとせしなり (中略) 尊氏は是等不平の武人をかたらひ、遂に鎌倉に拠りて反せり

つまり、尊氏は己の欲望のために、後醍醐天皇を利用し、その上で叛旗をひるがえして政権を奪取した、という内容で、教科書での尊氏に対しての評価は一変してしまったのです。
更に、『尊氏擅(ほしいまま)に幕府を開きしが、無道の行甚だ多く、直義とも睦まじからずして遂に之を殺し、部下の将士も屡々(しばしば)叛き』とも記され、その無道な性格のため、尊氏は部下にも全く人望が無かったというように書き改められました。
更に、教科書の巻末に付録として付けられていた歴代天皇の年表も、改定前は南北両朝並列であったものから、南朝の天皇のみを記載したものに変えられました。北朝の光厳天皇、光明天皇、祟光天皇、後光厳天皇、後円融天皇は、教科書から削除されたのです。


そして、それから20年程経った昭和9年、尊氏は再び政争の具となります。
同年、雑誌「現代」に、古河財閥を創設した実業界の重鎮で、当時は斎藤実内閣の商工務大臣でもあった中島久万吉(なかじまくまきち)の雑文が掲載されました。それは、中島が十数年前に文学雑誌に発表したものを転載(再掲載)した文章で、その内容は「尊氏は人間的には優れた人物だった」と尊氏を高評するものでした。

中島久万吉による足利尊氏についての雑文

この年は、建武の新政(当時は「建武の中興」と称されていました)から丁度600年後に当たり、後醍醐天皇と南朝の事績を顕彰する運動が全国的に盛り上がっている時期であった事もあり、「国務大臣が、逆賊である足利尊氏を讃えるとはとんでもない!」という非難が衆議院予算総会で起り、更に貴族院では、男爵菊池武夫議員が、「国務大臣の地位にある者が、乱臣賊子を礼賛するがごとき文章を天下に発表したような大問題が、議会に対し陳謝しただけで済むものではない。よろしく罪を闕下(けつか)に謝して、辞職すべきではないか」と糾弾し、子爵三室戸敬光議員に至っては、「ここは言論の府である。この私の要求を認めないならば言論破壊者である。逆賊礼賛者はまた言論の破壊者である。恐縮するだけでは足らぬ。商相としては、この際辞職し辞爵すべきである」とまで極論して、いずれもが中島を激しく批判し、斎藤首相に中島の大臣罷免を求め、本人にも爵位の辞退を要求するなどしました。
現代人の感覚からすると、これは明らかに学問・思想・言論の自由に対する弾圧であり、特に三室戸議員の極論については「オイオイ、どちらが言論の破壊者だよ」という感覚ですが、当時はこういった動きに右翼も大々的に便乗し、中島攻撃はどんどんエスカレートし、遂に中島は、自ら商工務大臣を辞職せざるを得なくなり、終戦まで隠遁生活を余儀なくされました。
しかし、実はこの過剰な中島攻撃の裏には、陸軍の大陸政策に消極的であった斎藤内閣を困らせようとする政治的な意図が隠されていたと云われています。

こうして、もはや尊氏を高評価するのは完全にタブーとなり、これ以降、尊氏の評価は更に悪化し、日本史における大極悪人というべき地位にまで落ちました。軍部や右翼などが、皇国史観を強調するための手段として、過剰なまでに正成を忠臣として持ち上げ、逆に、過剰なまでに尊氏を逆賊として吊るし上げていったのです。

中島の発言が問題視された昭和9年には、皇国史観を集大成したとされる、戦前の代表的な日本中世史家である平泉澄(ひらいずみきよし)が、「建武中興の本義」を出版していますが、平泉は同書の結論部に於いて、以下のように述べています。
建武中興失敗の原因は明瞭となった。即ちそれは天下の人心多く義を忘れて利を求むるが故に、朝廷正義の御政にあきたらず、功利の奸雄足利高氏誘ふに利を以てするに及び、翕然としてその旗下に馳せ参じ、其等の逆徒、滔々として天下に充満するに及び、中興の大業遂に失敗に終わったのである。ここに我等は、この失敗の原因を恐れ多くも朝廷の御失敗、殊には後醍醐天皇の御失徳に帰し奉った従来の俗説と、大地に一擲しなければならぬ

尊氏は「奸雄」であるとし、しかも、高氏が後醍醐天皇の諱(いみな)である「尊治」の尊の一字を賜り尊氏と改名した事をも認めたくないのか、わざわざ「高氏」と表記し、更に、尊氏の旗下に馳せ参じた者達をも「逆徒」呼ばわりするなど、尊氏に対しての評価は最低です。
教科書の記述も、尊氏に対しては更に厳しくなり、昭和18年に編纂された国定教科書「初等科国史」には、以下のように書かれました。
足利尊氏が、よくない武士をみかたにつけて、朝廷にそむきたてまつつたのです。
尊氏は、かねがね、征夷大将軍になつて天下の武士に号令したいと、望んでゐました。北条氏をうら切つて、朝廷に降つたのは、さうした下心があつたからです。なんといふ不とどきな心がけでせう。
しかも、六波羅を落しただけで、正成や義貞さへはるかに及ばないほどの恩賞をたまはりながら、今、朝廷にそむきたてまつつて、国をみださうとするのですから、まつたく無道とも何とも、いひやうがありません


戦後、尊氏への評価は多様な価値観の芽生えと共に一転しますが、何も、戦争が終わってすぐに尊氏の評価が好転していったわけではありません。尊氏を逆賊と決め付けず歴史を公正に評価しようという動きは、昭和30年近くになってから、徐々に広がっていきます。

昭和29年に発表された高柳光壽の論文「足利尊氏」には、尊氏が天皇に叛いた事について、以下のように書かれましたが、戦中であれば、このような内容はまず発表出来なかったであろう事は想像に難くありません。
後醍醐天皇が尊氏に庇護を加えてゐる間は尊氏も天皇に対して忠誠を尽す。けれども、天皇が尊氏の生命を奪はんとすることになれば、尊氏といへどもこれに反抗せざるを得ない。これが当時の社会通念であり、一般道徳であった

高柳は、尊氏が北条に叛いた事を称賛し、天皇に叛いた事を攻撃する従来の学説に対して、どうして、天皇に叛くのは悪く、北条に叛くのはなぜ良いのであろうかと反論し、観念的に、忠義は報賞を予想するものではないと説くが如きは、為政者の代弁に過ぎないと厳しく批判しました。

昭和32年に発表された林家辰三郎の論文「足利尊氏」では、大きな歴史の流れの中で後醍醐天皇のように律令国家を復活させる事が正しい道なのかどうかをはっきりと見極める事が大切であり、全国の名主階級に基礎をおいた守護大名制を伸ばしていく事が社会発展のための大道であったと論じられ、その意味で、尊氏は時代の進歩を担う存在であったと述べられました。
また、1336年に清水寺に納めた尊氏願文や、観音・地蔵に対する信仰などから、尊氏の武将としての強さの陰に人間らしい弱さを読みとり、「そのような尊氏であったからこそ、ついに幕府の創設をも成し遂げる事が出来たのだ」とも述べられ、全体的に尊氏に対しては高い評価が与えられています。

しかし、これらの論文は、国民の間で広く読まれたというわけではなく、大多数の人達の認識としては、戦後も暫くの間は、やはりまだ「正成=忠臣、尊氏=逆賊」であったと思われます。
一般庶民の間でも尊氏への評価が好転する大きなきっかけとなったのは、時代小説の大家であった吉川英治が著した長編小説「私本太平記」でした。
吉川は、昭和33年から数年間に亘って「私本太平記」を執筆しますが、この作品に主人公として登場した尊氏は、ひとりの男として、また正直なロマンチストとして、人間味たっぷりに生き生きと描かれました。
また吉川は、尊氏について「随筆私本太平記」の中で、『尊氏は、いわば颱風時代に揉まれた生命中の巨なるものだ』と、最大級の賛辞も贈っています。
南北朝時代は日本の歴史が始まって以来、稀にみる動乱期であり、吉川は、政治的にターニングポイントを迎えた混沌としたその時代に、日本を一定方向に導いた巨星として、尊氏を高く評価したのです。

もっとも、尊氏を高評価する動きに反発した人もいました。
先程、戦前の代表的な日本中世史家である平泉澄の「建武中興の本義」を紹介しましたが、その平泉は、昭和45年に著した「少年日本史」という本の中で、以下のように述べています。これは子供向けの本だけに、平泉の主張が平易に述べられており、平泉の歴史思想、それも晩年の完成したものをここからは手っ取り早く理解する事が出来ます。

彼等(引用者註-足利氏)には道徳が無く、信義が無く、義烈が無く、情愛が無いのです。あるものは、只私利私欲だけです。すでに無道であり、不信であり、不義であり、非情であれば、それは歴史に於いて只破壊作用をするだけであって、継承及び発展には、微塵も貢献する事は出来ないのです
それ故に吉野時代(引用者註-南北朝時代)がわずか五十七年の短期間であるに拘らず、我が国の歴史に貢献する所、極めて重大であり、記述するべき事の豊富でありますのは、一に吉野の君臣の忠烈、日月と光を争った為であって、足利主従は之に対して逆作用をしたに過ぎないのであります。従って其の吉野の忠烈さびしく消えて、世の中は只足利の一色に塗られた室町時代は、たとえ時間の上では百八十二年、吉野時代の三倍を越えたにしても、是と云ってお話すべき価値のあるものは無いのです

つまり、室町幕府や足利将軍は日本史の継承や発展には全く貢献せず、ただただ歴史を破壊してばかりであり、だから室町時代について特筆するべき価値のある事など微塵も存在しない、という事です。まさに、戦前・戦中の「尊氏=逆賊」史観そのものです。


しかし、吉川の「私本太平記」以降、一般には尊氏が逆賊視される事は少なくなりました。
そして、その「私本太平記」を原作として、平成3年にNHKの大河ドラマで「太平記」が放送され、主人公の尊氏役に、二枚目俳優の真田広之が抜擢されると、尊氏は一躍国民的な英雄として認知されるようになり、新時代を築いた英雄として高く評価されるようになりました。

真田広之(足利尊氏)

勿論、現代でも尊氏は常に高く評価されているというわけではありません。
例えば、吉川英治の弟子で、師の作品である「私本太平記」の執筆も手伝っていた杉本苑子は、平成9年に、尊氏を主人公にした小説「風の群像」を出版しますが、この作品の中での尊氏は、基本的には好漢として、人間味たっぷりに描かれているのですが、尊氏の言動は必ずしも常に絶賛されているわけではありません。
杉本は、『尊氏の大腹中な温情主義は、武士どもを(中略)つけあがらせもした』と断じ、しばしば他者からは尊氏の寛大さや度量の大きさとして評価される部分を、武士の棟梁としてはリーダーシップに欠けていた、どこか頼りない性格として捉えました。
尊氏の“情に溺れる甘さを捨て得なかった”その性格と“統率力に欠けるところ”を、家臣団を制御しきれず、なかなか堅固な政治基盤を形成出来なかった初期の室町幕府の性格と重ね合わせてのでした。

ちなみに、戦前に尊氏を高く評価して激しく非難され、終戦まで隠遁生活を余儀なくされた前出の中島久万吉 元商工務大臣は、戦後は名誉を回復し、日本貿易会を設立して会長を務めるなどして活躍し、昭和35年に死去しました。

現在では、(そういう立場ではない人も勿論いますが)一般的には、南朝、北朝のどちらが正統であったかと論じられる事はほぼ無く、南北朝時代は、ふたつの朝廷が並立していた、という歴史的な事実として受け止められています。
それにしても、時代によってこうも激しく評価が変わるとは、足利尊氏という人物は、本当に奥が深いです。以前の記事でも書きましたが、私自身は、足利尊氏も楠木正成も、どちらも、武将としても一人の人間としても大変魅力的な好漢であったと思っています。


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時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (前編)

日本史に登場する人物の中には、平清盛、松永弾正、明智光秀、吉良上野介、徳川綱吉、田沼意次、井伊直弼など、戦前はどちらかというと“悪役”というイメージが強かったものの戦後はそのイメージが徐々に薄まり“時代の先駆者”や“偉大な名君”として評価される事も多くなってきた、という人物が少なからずおり、逆に、和気清麻呂、菅原道真、児島高徳、山中鹿之助、二宮尊徳、高山彦九郎、乃木希典など、戦前・戦中はほとんど誰もが知っている人物であったにも拘らず戦後はすっかり影が薄くなってしまった、という人物も少なくはありません。
昨年3月11日の記事で詳述したように、鎌倉時代末期及び南北朝時代の名将・楠木正成も、時代によって評価が大きく変わる事で知られています。しかし、私が知る限り、時代によってこうも評価が激変するのか、という程、最も評価が二転三転している人物は、何といっても、やはり足利尊氏です。

足利尊氏(浄土寺蔵)

尊氏は、南朝が正統である事が特に強調された戦前・戦中は“朝廷に弓を引いた逆賊”とされ、徹底的に酷評されたものの、戦後は一転して、それまでの皇国史観に対する反動から、また、吉川英治の長編歴史小説「私本太平記」やNHK大河ドラマ「太平記」で主人公として取り上げられた事などから“室町幕府を開いた英雄”として再評価されるようになった、という事は、一般にもそれなりに知られており、確かにそれは間違いではないのですが、実際には、尊氏に対しての評価の変遷はそのように単純なものではありません。もっと複雑です。
今回(前編)と次回の記事(後編)では、尊氏への評価の変遷について、正成への評価の変遷も絡めながら、おおよその時代毎にまとめてみたいと思います。


まず、尊氏と同時代に生きた人達の、尊氏に対する評価をみてみましょう。
尊氏・直義兄弟や、後醍醐天皇など、南北朝の立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、1349年頃に成立したとされる、鎌倉幕府崩壊から室町幕府創成期までが描かれている歴史物語「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた源頼朝と尊氏を比較し、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方で尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と絶賛しています。
更に疎石は、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」とし、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。
尊氏は疎石に深く帰依していましたが、疎石もまた、尊氏に対しては深い尊敬の念を抱いていたようです。

しかし、尊氏と同時代に生きた人達の中には、尊氏の事を酷評する人もいました。
例えば、南朝方の代表的な武将の一人である新田義貞は、尊氏の事を強く憎んでいました。尊氏は、関東に於ける管領の勅許を朝廷から得た事を理由に、新田一族が鎌倉幕府を滅ぼした恩賞として拝領した領地を没収し、それを、自分の家臣達や自分に味方してくれた武将達に恩賞として分け与えるなどしたのですが、義貞もその報復として、足利一族の領地を取り上げるなどしたため、祖先を同じくする源氏一門でありながら足利と新田は激しく対立するようになり、そのような折、尊氏が朝廷に義貞追討を上奏したと聞き、ついに義貞の怒りは頂点に達します。
義貞は後醍醐天皇に、「尊氏・直義兄弟は、無能無才で卑しい身分を恥じず、共に高い地位に就いています」「鋭利な剣で切り裂くように、逆臣尊氏・直義兄弟を誅伐すべきとの宣旨をいただきたい」という旨の内容を上奏し、尊氏の事を“無能無才で卑しい身分”と激しく罵っています。

また、南朝の有力な公家でありながら、南朝方の武士を率いて各地を転戦するなど武将としても活躍した北畠親房も、尊氏を「功も無く徳も無き盗人」などと酷評しています。
親房は、武士とは常に天皇や公家に従属すべきもの、という考え方を持っていたため、武家が公家と同等の存在になる事を認めませんでした。親房のその視点に立つと、鎌倉幕府が滅びたのは朝廷の威光と時の運によるものであり、武士の力によるものという認識は誤っており、そうであるにも拘らず、それを自分の手柄と思っている尊氏は「功も無く徳も無き盗人」となるのです。
更に親房は、代表的な著作の一つである「神皇正統記」の中で、尊氏の事を「凶徒」「朝敵」とも記しており、後の「尊氏=逆賊」というイメージはこれが端緒となっているのではないかと云われています。


しかし、その後は、尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていきます。
尊氏が生きていた時代は南北朝動乱の激動期で、尊氏が築いた新政権はまだ安定しておらず、南朝との戦いだけではなく幕府でも内紛が起こるなど尊氏にとっては敵や戦が多い状況でもあったため、そういった当時の状況を反映して、尊氏の事を褒め称える人が多くいる一方で、尊氏の事を厳しく評価する人もまた多くいたわけですが、尊氏の死後暫くして、室町幕府が全国的な統一政権として安定してくるようになると、当然の事ながら、その幕府を創設した尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていったのです。

室町幕府は、3代将軍足利義満の時代を最盛期として、その後は次第に衰退していき、戦国時代になると、幕府は本拠地である山城国一国の維持すら困難な程弱体化しますが、それでも、尊氏が酷評される事はほとんどありませんでした。
室町時代から江戸時代中期頃までは、一般的に北朝が正統と認識されており、その歴史観に立てば、楠木正成を始めとする南朝の武将達のほうが“朝廷に弓を引いた逆賊”であり、尊氏は朝廷(北朝)を支えた勲功第一の忠臣であったからです。
室町時代半ばに、後小松天皇の命により洞院満季が撰進した、皇室の系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、北朝が正統であるという立場が採られており、室町幕府と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、天皇としては認められていません。
ちなみに、戦前・戦中に忠臣の鏡として大絶賛された楠木正成は、後述する水戸藩の「大日本史」で高く評価されるまで、むしろ、大多数の日本人にはほぼ忘れ去られた存在であり、正成の価値は、江戸時代になってから“再発見”されたといえます。

江戸時代に入ってからも当初は、尊氏は優れた武将である、という評価に大きな変化はありませんでした。
徳川家康は、徳川家は南朝方の武将であった新田氏の後裔であると自称しますが、南北朝時代の解釈については、室町幕府の立場を引き継いで北朝を正統としたため、その北朝を建てた尊氏の評価が急に下落するような事は無かったのです。

その評価に大きな変化が生じるようになったきっかけは、時代劇の“黄門様”として広く知られている、第2代水戸藩主の徳川光圀です。
光圀は、有力な徳川一門(御三家)でありながら、徳川将軍家(江戸幕府)とは立場を異にし、あくまでも天皇の権威を基にして、その上で幕府中心の統治を行うべきという立場でした。
幕末期に尊王派の思想形成に大きな影響を及ぼした歴史書「大日本史」は、光圀のその立場から水戸藩が編纂したもので(大義名分論史観から尊皇論が貫かれています)、大日本史の中では、南朝こそが正統であり、南朝と対決した尊氏は天皇に逆らった悪人であると評されました。
更に光圀は、後醍醐天皇のために討ち死にした正成こそが忠臣であると讃え、正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と題する墓碑も立てるなどしました。

そして、江戸時代中期以降になると、大衆レベルでも尊氏や正成に対しての評価が次第に変わっていきます。
1748年に成立し、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として爆発的な人気を博し、現在に至るまで上演され続けている「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」は、よく知られているように赤穂浪士の仇討ち事件を題材としているのですが、当時はそのままでは上演が許可されなかったため、劇中の時代背景を南北朝時代に移していたのですが、その中で、大石内蔵助は大星由良之助という人物に置き換えられました。

仮名手本忠臣蔵

そして、その大星由良之助のモデルになったのが楠木正成であったと云われ、その由良之助に討たれる吉良上野介の役は、尊氏の側近であった高師直が実名で登場しました。これは、尊氏を始めとする北朝側の人物が、当時の大衆にどのように認識されていたかを示す一例として注目されます。
ただこの認識は、当時の一般庶民が必ずしも「南朝が正統であり、その南朝に殉じた正成は忠臣である」という明確な史観を持っていた事を示すものとまでは言い切れず、日本人はその国民性として、敗者に同情したがるという“敗者の美学”とでもいうべき特有の観念があり(例えば、源頼朝よりも頼朝に討たれた弟・義経のほうが昔から人気が高い事や、曽我物語や忠臣蔵などの仇討物語が時代を超えていつの世からも人々から賞賛される事や、幕末期の会津藩白虎隊が悲話として後世に語り継がれる事など)、その観念に基づいて、滅び去った南朝方に同情の念を抱いたという面も多分にあったであろうと推察されます。

しかし、江戸時代中期でも、正成に対する批判は少なからずありました。
例えば、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)は、著書「駿台雑話」の中で、「正成は孔孟の道を学ばず、孫子・呉子の道を学んだから、三国志の諸葛孔明に比べて人物が落ちる」とし、特に湊川で自害する時に弟の正季と共に「七生報国」と言ったのは、「甚(はなは)だ陋(つたな)し」と非難しています。
また、山城国正法寺の僧、釋大我(しゃくたいが)も、「楠石論(なんせきろん)」で正成の死を激しく非難しています。


そして幕末になって、江戸幕府の権威が大きく揺らぎ出し、尊皇攘夷・倒幕の動きが加速化していくと、前出の「大日本史」の影響を強く受けた強烈な尊王主義者達は、尊氏の事を“天皇に叛いて政権を奪った憎むべき逆賊”と評価するようになっていきます。
江戸幕府の威光が強ければ、水戸藩のような例外を除くと、家康と同じく“源氏の長者”として武家政権を築いた尊氏を露骨に貶めるような機運にはまずならなかったのでしょうが、幕府の権威が失墜し、それに反比例して朝廷の権威が増大してくると、江戸幕府と室町幕府という違いはあるものの、幕府を創設した人物である尊氏は尊王主義者達から忌み嫌われる存在になっていき、逆に、“倒幕の先輩”として正成の人気は急速に高まっていったのです。

幕末期の1863年に、足利将軍の木像の首級が京都の三条河原に晒されるという珍妙な事件が起きましたが、これは、尊氏が当時の尊王主義者達から忌み嫌われていた事を端的に象徴する事件といえます。
伊予の神職である三輪田綱一郎ら十数人が、足利将軍家の菩提寺である京都の等持院に入り込んで、等持院に安置されている、尊氏・義詮・義満を象ったとされる足利将軍3代3人の木像の首を斬り取り、「鎌倉以来の逆臣、一々吟味を遂げ、誅戮致すべきの処、この三賊、巨魁たるによりて、先ず其の醜像へ誅を加ふる者なり」と書いた木札を掲げて、河原に晒したのです。
犯人達はいずれも強烈な倒幕・尊王主義者であり、朝廷をないがしろにし、列強に屈する幕府の弱腰を非難し、足利将軍の首を徳川将軍に見立てて晒したとも云われています。

足利三代木像梟首事件

当時、京都所司代、京都町奉行、見廻組、新選組などの京都に於ける各治安維持機関を総括する立場であった京都守護職の松平容保(第9代会津藩主)はこの事件を知って、「足利家は朝廷から征夷大将軍に任命されており、徳川家もまた同じである。足利将軍の木像の首を晒す事は、幕府だけでなく朝廷をも侮辱する行為だ」と激怒し、直ちに犯人の捕縛を命じ、木像の首は寺に返されました。
そして、それまでは倒幕派の者とも地道に話し合っていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を取っていた容保は、この事件を契機に、倒幕派の者と話し合うのはもはや無用と悟り、倒幕派を徹底して弾圧する政策に転換する事になりました。
ちなみに、「鎌倉・室町将軍家総覧」(秋田書店刊)によると、これは像の首が寺に返されてから分かった事なのですが義満の首として晒されたのは、実は第4代将軍義持のものだったそうです。寺僧が間違えて義持の木像を義満の木像の前に並べてしまっていたため、犯人達は義持の木像を義満と思い込んでその首を斬り落としたそうです。但し、義満と義持の首を間違えたというこの話は、私が確認した限りでは「鎌倉・室町将軍家総覧」でしか紹介されておらず、その他の資料・文献には記されていないので、これが事実であったかどうかは、明確ではありません。

こういった、幕末期の、足利氏や尊氏に対しての見方、そして正成に対しての評価は、一般の民衆にも大きな影響を与えたようで、明治3年に日本を視察したグリフィスというアメリカ人がいろいろな日本人に「尊敬する歴史上の人物は誰か」と尋ねたところ、誰もが楠木正成の名を挙げた、という記録が残っています。
正成を賛美するのは戦前の日本の教育のせいである、と言う人がいますが、明治3年といえば義務教育制度施行以前であり、国家権力が自分達に都合の良い正成像を押し付けていたという事はあり得ないので、明治維新が始まって間もない時期から既に、正成の生き方を理想化する考え方が日本の社会に浸透していたものと思われます。

後編に続く)


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