この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

神宝・寺宝・美術品

足利尊氏の顔だち、ついにこれで決まり? 肖像画の写しが発見される

先月27日にニュースとして報道された、毎日新聞や朝日新聞等の記事によると、室町幕府初代将軍・足利尊氏の没後間もない14世紀末に描かれたとみられる、尊氏の肖像画の写し(下の画像)が発見されました。

尊氏_01

今回確認された「足利尊氏像」は、個人が所有しているもので、栃木県立博物館の本田諭特別研究員や鎌倉歴史文化交流館の高橋真作学芸員などが、資料調査の際に発見しました。
大きさは縦88.5センチ、横38.5センチで、軸装された画の下側に正装して着座する人物が描かれており、上方には十数行にわたって画中の人物の来歴が文章で綴られています。
その文章の中に、尊氏を示す「長寿寺殿」という言葉があり、また、尊氏の業績として知られる国内の66州に寺や塔を建立した旨が記されている事などから、この度、尊氏の肖像画であると判断されました。
下の画像は、その尊氏の肖像画写しの、顔の部分を拡大したものです。大きな鼻と垂れ目が特徴的ですね。

尊氏_02

室町時代以前に描かれた事が確実な尊氏の肖像画は、他には広島県の浄土寺が所蔵している「絹本著色(ちゃくしょく)足利尊氏将軍画像」(下の画像)があるのみで、また肖像画以外では、室町幕府第2代将軍の足利義詮(よしあきら)が14世紀に京都の東岩蔵寺に奉納したと云われている「木造足利尊氏坐像」(大分県安国寺蔵)があるだけで、そのため尊氏の顔だちを巡っては今まで意見が分かれてきました。

しかし今回の発見により、今まで分かれていたそれらの意見がまとまる可能性も高く、専門家達は以下のようにコメントしています。
「尊氏の顔がこれではっきりした!」
「垂れ目や大きな鼻の特徴が、2つの作品(前出の、浄土寺蔵の尊氏肖像画や、安国寺蔵の木造の足利尊坐像)と似ている。尊氏はこの通りの顔つきをしていたのでは。意見が分かれる尊氏の顔立ちを伝える貴重な資料だ」
「木像の顔貌(がんぼう)と似た肖像画が出現したのは、尊氏像の議論にとっても重要な発見」

足利尊氏(浄土寺蔵)

ちなみに、今回発見されたこの肖像画の写しは、宇都宮市の栃木県立博物館で今月29日まで公開されるそうです。


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足利尊氏の書き残した書状

室町幕府を開きその初代将軍となった足利尊氏という人物の人柄・評価・魅力などは、平成26年4月20日の記事同年5月4日の記事昨年10月12日の記事などで詳述しましたが、今回の記事では、その尊氏が直筆し今も残っている書状等の一部を、以下に紹介させて頂きます。
必ずしもそうとは言い切れないのでしょうが、大凡の傾向として、尊氏の直筆文書は、あまり豪快とは言えない線の細い文字が多い、という印象を受けます。

足利高氏願文
▲ 足利高氏自筆 願文

1333年4月、尊氏は、鎌倉幕府の命令により、西国の討幕勢力を鎮圧するため幕府方の司令官として鎌倉を発して上洛しますが、自身の所領である丹波の篠村八幡宮に到着した際に、後醍醐天皇方に転じて討幕する意思を内外に明らかにしました。この文書は、その時に源氏再興を祈って尊氏が奉納した願文です。
ちなみに、尊氏は、北条氏の得宗から偏諱を受けるという足利氏の慣例に従い、鎌倉時代は、得宗・北条高時の偏諱を受けて「高氏」と名乗っていましたが、鎌倉幕府の滅亡後は、後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受けて「尊氏」に改名しており、この文書での自身の署名は、当初名乗っていた「高氏」となっています。

足利尊氏御判御教書
▲ 足利尊氏自筆 御判御教書

1336年1月、尊氏は楠木正成と宇治川で戦いましたが、同年7月になっても、南朝方の残党がまだ宇治橋辺りにいたらしく、この文書は、そういった状況から、尊氏が越中四郎左衛門尉に対して宇治橋に馳せ向かい軍忠を致すべきよう命じたものです。

足利尊氏自筆清水寺奉納願文
▲ 足利尊氏自筆 清水寺奉納願文

1336年8月17日に、尊氏が清水寺に奉納した願文で、意訳すると以下の通りです。
この世は夢のようなもの。もはやこの世で望むものはありません。私は出家しますので、来世の幸福をお与え下さい。現世の幸福は、弟の直義に譲ります。直義をお守りください。」
尊氏はこの年の5月に湊川の合戦で楠木正成を敗死させ、6月に光厳上皇や豊仁親王を奉じて入京し、そして、8月には豊仁親王を光明天皇として擁立し、その2日後に、この願文を奉納しています。当時、政治権力が尊氏に集中しつつある時に、尊氏はその権力に執着を見せるどころか出家を望み、後生の安穏を願い、今生の果報は弟の直義に与えて下さいと祈願しているのです。尊氏の優しさと、心の弱さを垣間見る事が出来る文書です。
そして、後に尊氏と直義は激しく対立して争う事になりますが(観応の擾乱)、この時点ではまだその片鱗は全く見えず、当時は非常に仲の良い兄弟であった事も伝わってきます。
ちなみに、ブログタイトルの「この世は夢のごとくに候」は、この願文の冒頭の一文から拝借しました。

足利尊氏寄進状
▲ 足利尊氏自筆 寄進状

1343年7月12日に墨書された、吸江庵(きゅうこうあん)という庵に対して、土佐国稲吉村地頭職を寄付するという内容の寄進状です。吸江庵は、夢窓国師が土佐国に建てた庵で、この寄進状は、夢窓国師が吸江庵のために尊氏に所領の寄進を願い出て、与えられたものと見られています。
ちなみに、前出の書状「御判御教書」や「清水寺奉納願文」で使われている年号は、いずれも「建武」ですが、この書状では、北朝でだけ使用された「康永」という年号が使われています(但し、南朝は建武2年で終わっているため、建武3年と同4年は北朝でしか使われていません)。

足利尊氏花押文書
▲ 足利尊氏自筆 花押文書

1353年4月2日に、結城三河守に宛てた、尊氏自筆の感謝状です。この文書でも、北朝で使用された「文和」という年号が使われています。

足利尊氏自筆の梁牌
▲ 足利尊氏自筆 梁牌

1354年12月8日に、尊氏が天下泰平を祈って自ら謹書した梁牌(りょうはい)です。梁牌というのは、仏殿の天井などに掲げられる棟札の事です。

足利尊氏直筆の八幡大菩薩の文字
▲ 足利尊氏自筆 八幡大菩薩の文字

尊氏が書いた「八幡大菩薩」の文字です。八幡大菩薩は、源氏一門の氏神である八幡大神という神様の、仏としての呼び名です。
そういえば、昔、大河ドラマでの合戦シーンで、主人公(甲冑を身につけた源氏方の武将)が、馬上より「南無八幡大菩薩!」と叫び、八幡大菩薩に武運と御加護を願ってから敵陣に突進して行く、というシーンを見た事があります。戦乱の世では、八幡大菩薩は武の神、弓矢の神として、多くの武将達から信仰されていたようです。
ちなみに、「薩」の下には、他の文書同様、尊氏の花押(サイン)が書かれています。

足利尊氏自筆の地蔵菩薩像
▲ 足利尊氏自筆 地蔵菩薩像

尊氏は地蔵信仰が厚く、地蔵菩薩像を多く描きました。尊氏は、悲しい事が起きると地蔵菩薩の絵が描きたくなるという変わった癖があった、とも云われています。まぁ、特に迷惑というような癖ではないので、別に構わないと思いますが(笑)。


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平安時代末期の大鎧を着装しました

先月中旬、2泊3日の日程で関西を旅行してきた際、私は、先月22日の記事先月28日の記事などで詳述したように、足利尊氏が鎌倉幕府討幕の旗あげをした地として知られる篠村八幡宮や、その尊氏の墓所と歴代足利将軍の木像がある、足利将軍家の菩提寺・等持院など、尊氏所縁の社寺を訪ねましたが、両社寺を参拝・見学した後は、京都の太秦にある、映画・テレビ・舞台演劇用小道具や美術装飾を扱っている「髙津商会」という会社に行って来ました。
そして、同社のスタジオで、武将体験(武将の本格的な甲冑の着付けを体験)をしてきました。

髙津商会の甲冑

同社では、武将体験用としていくつもの種類の本格的な甲冑を用意しているのですが、それらの中では、平清盛をイメージした甲冑だけが唯一、平安時代末期頃の大鎧を再現したタイプで、それ以外の甲冑はいずれも、戦国時代の人気武将達(武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、加藤清正、伊達政宗、石田三成、真田幸村、黒田長政、直江兼続、本多忠勝など)をイメージして再現されている当世具足でした。
太平記の時代が好きな私としては、昨年6月23日の記事で紹介したような南北朝時代タイプの甲冑を着てみたかったのですが、生憎そういった甲冑は用意されていなかったので、今回は、南北朝時代の甲冑に比較的近いと思われる、平清盛タイプの大鎧を選んで着てみました。

ちなみに、日本の甲冑は、大別すると、概ね以下の5期に分ける事が出来ます。
第1期は、弥生時代から平安時代前期までの期間で、短甲・挂甲・綿甲・革甲に衝角付冑・眉庇付冑・綿襖冑の時代。
第2期は、平安時代中期から鎌倉時代後期までの期間で、大鎧・胴丸・腹当に厳星兜・小星兜・筋兜の時代。
第3期は、鎌倉時代末期・南北朝時代から室町時代中期までの期間で、大鎧・胴丸・腹巻・腹当に筋兜・阿古陀形兜の時代。
第4期は、戦国時代から安土・桃山時代までの期間で、胴丸・腹巻・当世具足に多種多様な胴と兜の時代。
第5期は、江戸時代初期から幕末までの期間で、当世具足・復古調の時代。

この分類に従うと、私が個人的に装着したかったのは第3期の甲冑で、しかし、髙津商会で武将体験用として用意されていた甲冑は大半が第4期の甲冑で、その中で唯一あった第2期の甲冑を、今回私は装着した、という事になります。
以下に、その甲冑(大鎧)や、(僭越ながら)それを着た私の写真をアップします。

武将体験_01

武将体験_02

武将体験_03

武将体験_04

私が着た甲冑は、デザイン性と共に機能性や軽快性も重視されている戦国時代の当世具足とは違い、騎馬(騎射)戦にほぼ特化している大型・重厚な大鎧なので、一式で20㎏近くもの重さがありました。
そのため、着装した直後こそ「少し重いかな」と感じる程度でしたが、時間が経つに連れ、段々ずっしりと重さを感じてきました(笑)。

武将体験_05

武将体験_06

第4期(南北朝時代など)の甲冑は、徒歩戦での刀剣や槍などによる接戦を想定した作りになっていますが、私が着た第3期の甲冑の時代(平安時代末期頃)は、刀剣よりも弓矢のほうが主要な武器であったため、この甲冑に合わせて実際に弓矢(レプリカですが)も構えてみました。
但し、弓矢に明るい人が見ればすぐに気が付くと思いますが、以下の写真での私の左手の人差し指の位置は、本当は間違いです。矢に指は掛けないのが正しいのですが、恥ずかしながら、人差指で矢をしっかりと抑えないと、弦の張力が強くて矢を固定出来なかったのです…。

武将体験_07

武将体験_09

折角なので、小道具も借りてみました。私が手に持っているのは、戦場で軍団を統率する際に用いられる「采配」です。
ちなみに、采配は、映画や大河ドラマなどでは攻撃の合図に使われるお馴染みのアイテムですが、実戦で使われる事は、実際には極めて少なかったと云われています。

武将体験_10

武将体験_11

私は、衣冠という装束(平安時代以降の貴族や官人の宮中での勤務服)を着た事もありますが(下の写真がそれです)、実際に衣冠を着てみた感想としては、衣冠は立体的にではなく平面的に採寸・仕立て上げられている装束であるため、衣冠の著装は「着る」というよりは、細かく微調整をしながら自分の体に合わせて折り畳んでいく(綺麗に整えていく)、というような感じでした。
それに対して甲冑の着装は、衣冠とはまた違い、細かく分かれたパーツを定められた順番に従って自分の体に次々と付けていく、というような感じでした。

衣冠姿

甲冑を着装したのは今回が初めてでしたが、私にとってはなかなか興味深い体験で、面白かったです。
ただ、衣冠は何十回も着た事があるので自分一人でも著装出来ますが(作法としては衣冠を一人で着るのは正しくありませんが)、甲冑は、さすがに一人で着る事は出来そうにありません…。


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等持院に奉安されている歴代足利将軍の木像

前回の記事では、京都市北区等持院北町に鎮座する、足利将軍家の菩提寺「等持院」の歴史や境内などを紹介しましたが、今日は、その等持院に奉安されている歴代足利将軍の木像(肖像彫刻)を紹介致します。
これらの木像は、今年4月20日の記事の最後のほうで詳述したように、幕末期の1863年、尊王攘夷派によって首が奪われて三条河原に晒されたという事件でもよく知られています。

歴代足利将軍の木像が奉安されているのは、等持院の方丈(釈迦如来坐像が本尊として奉安されている本堂)の東隣に位置し、方丈とは渡り廊下で繋がっている「霊光殿」という建物です。

等持院_06


霊光殿の内部中央奥の内陣には、本尊として、足利尊氏の念持仏である利運地蔵菩薩がお祀りされており、本尊に向かって左側には禅宗の始祖である達磨大師像が、向かって右側には等持院開山の夢窓国師像が、それぞれお祀りされています。
なお、先月私が霊光殿を見学した際、「霊光殿内は写真撮影禁止」という表示が出ていたため、先月の見学では殿内の写真を撮る事は出来ませんでした。そのため、以下にアップしている各写真はいずれも、私が今から13年前に等持院の霊光殿内を見学した時に撮影した写真(私の見落としや記憶違いでなければ、当時は「撮影禁止」の表示は無かったと思います)、もしくは、書籍に掲載されている写真をキャプチャーしたものです。

写真削除のお知らせ

上の写真ではちょっと分かり辛いと思いますが、内陣の本尊に向かって左側の脇壇奥から、室町幕府初代将軍の尊氏像、2代義詮像、3代義満像、4代義持像、6代義教像、7代義勝像、8代義政像が、そして右側の脇壇奥から、徳川家康像、9代義尚像、10代義植像、11代義澄像、12代義晴像、13代義輝像、15代義昭像が奉安されています。理由は分かりませんが、5代義量像と14代義栄像は欠いた状態となっています。
下の写真は、手前から義勝像、義教像、義持像です。義勝は、赤痢のため僅か10歳で没した幼い将軍だったため、木像の表情も、子供らしさが強調されたものとなっています。

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なお、これらの木像の前にぞれぞれ掲げられている木札に記されている歴代数(等持院独自のもの)と、一般的な歴代数とは、必ずしも一致していません。例えば、義輝は一般には13代将軍と解されていますが、木像前の木札では「十四代」と記されています。


▼ 初代将軍・足利尊氏(等持院)像

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▼ 第2代将軍・足利義詮(寶篋院)像

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▼ 第3代将軍・足利義満(鹿苑院)像

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▼ 第7代将軍・足利義勝(慶雲院)像

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▼ 第8代将軍・足利義政(慈照院)像

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▼ 第13代将軍・足利義輝(光源院)像

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▼ 第15代将軍・足利義昭(霊陽院)像

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▼ 徳川家康像

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この家康像は、家康が42歳(男性の大厄とされる歳)の時に厄落としのために作らせたもので、徳川家光が石清水八幡宮の豊蔵坊に寄進して、天下泰平国土豊穣を祈念させたと伝わっています。そして明治になって、神仏分離により豊蔵坊が廃止された事により、豊蔵坊から等持院に寄進されたそうです。
家康像の安置場所として等持院が選ばれた経緯ははっきりしていませんが、徳川氏は新田氏の末裔であるという伝承があるため、歴代の足利将軍の木像と家康の木像とを並べる事で、足利氏と新田氏の和解の象徴としたかったのではないか、という解釈もあるようです。


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足利氏所縁の飯香岡八幡宮と、小弓公方足利義明の供養塔を参拝してきました

今からほぼ一年前の昨年3月の初め、東京・千葉方面を旅行してきたのですが、その旅行の3日目に、私は、千葉県市原市八幡に鎮座する、国府総社と尊称される飯香岡八幡宮を参拝・見学してきました。

飯香岡八幡宮 鳥居と社号標

飯香岡八幡宮は、かつては六所御影神社と称され、創祀の起源は、白鳳年間(675年)に一国一社の八幡宮として勧請された事とされています。
759年に全国放生の地に鎮座する国府八幡宮と定められ、中世以降は上総総社としての機能を持つようになり、その名残から、国府総社と尊称されています。御祭神は、俗に八幡大神と称される誉田別尊、息長帯姫尊、玉依姫尊などです。
同宮では、私の友人でもある神職(飯香岡八幡宮禰宜)のHさんが、社殿や境内等を丁寧に案内して下さいました。

飯香岡八幡宮 拝殿

上の写真は飯香岡八幡宮の拝殿で、正面は5間、側面は3間あり、屋根は入母屋造りで、正面中央には千鳥破風があり、向拝中央は軒唐破風となっています。この拝殿は、千葉県の有形文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮 本殿

上の写真は、拝殿内から撮影した飯香岡八幡宮本殿(正面)で、拝殿の奥に鎮座するこの立派な本殿は、正面が3間、側面が2間あり、屋根は拝殿と同じく入母屋造りです。
神社の本殿としてはかなり大きな社殿で、小弓公方と称された足利義明が寄進したものと伝わっています。この本殿は、国の重要文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている御神輿

飯香岡八幡宮では、禰宜のHさんの御配慮により、平時は施錠されている同宮の宝物殿内も見学させて頂き、いろいろと貴重な史料や文化財等を拝見する事ができました。
上の写真は同宮の宝物殿に奉案されている、第3代将軍の足利義満が同宮に奉納した4基の御神輿のうちの一基です。室町時代前期の特徴がよく窺える造形で、同宮拝殿と共にこれも千葉県の有形文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている甲冑

上の写真は、飯香岡八幡宮の宝物殿に収蔵されている、紺糸素懸威二枚胴具足(こんいとすがけおどしにまいぐそく)という甲冑です。これは安土桃山時代のものと伝わっており、市原市指定文化財に登録されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている大般若経

上の写真は、飯香岡八幡宮の宝物殿に収蔵されている、春日版大般若経(大乗仏教の基礎的教義が書かれている600巻余の膨大な経典)の一部です。
第3代古河公方の足利高基と、その高基の弟に当る前出の足利義明の、家門繁栄を祈願して天文年間(戦国時代)に同宮に奉納されたものです。ちなみに、春日版というのは、奈良の興福寺で印刷された経典という意味らしいです。
やはり飯香岡八幡宮は、歴史的に足利氏と関わりが深いようです。


Hさんは、私が鎌倉公方や古河公方に興味・関心を抱いているのを知って、同宮の境内だけではなく、同宮からは少し離れた所にある小弓公方足利義明夫妻の供養塔へも車で連れて行って下さいました。
この供養塔は、近年になってここに移設されたもので、昔からこの地にあった訳ではありませんが、足利義明夫妻の墓石と伝わる、文化財・史跡としても価値が高いとされる五輪塔です。

小弓公方足利義明夫妻の供養塔_01

小弓公方足利義明夫妻の供養塔_02

ちなみに、足利義明は、初代将軍・足利尊氏の四男で初代の鎌倉公方(関東公方)とされる足利基氏からは6代後の子孫に当たり、また、幕府(第6代将軍足利義教)と関東管領(上杉憲実)に追討されて自害した第4代鎌倉公方の足利持氏からは曾孫に当たり、その持氏の子で古河公方の初代となった足利成氏からは孫に当たります。
義明自身は北条氏綱との戦い(第一次国府台合戦)で戦死していますが、その子孫は後に喜連川氏となり、江戸時代になってからも喜連川藩として存続し、明治時代になってから足利に復姓し、華族となりました(当主は子爵に叙されました)。

つまり、喜連川氏から復姓した足利家は、足利を名乗ってはいても、足利将軍家(幕府を創設した足利尊氏の嫡男として2代将軍の地位に就いた足利義詮の血統)の子孫ではなく、関東で鎌倉公方や古河公方となってその足利将軍家とは長い間対立関係にあった関東公方足利家(足利尊氏の四男・足利基氏の血統)の子孫に当たるという事です。

飯香岡八幡宮 拝殿前

小弓公方足利義明夫妻の供養塔をお参りした後は、再び飯香岡八幡宮に戻り、最後に拝殿前でHさんと一緒に写真を撮らせて頂きました。上の写真の右がHさんで、左が私です。
Hさん、御多忙のところ社殿や境内等を丁寧に案内して下さり、また、小弓公方足利義明夫妻の供養塔へも車で連れて行って下さり、どうもありがとうございました!


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南北朝時代の代表的な甲冑

私は、日本の甲冑が好きです。単に好きなだけで、別に全然詳しくはないのですが(笑)。
というわけで今回は、甲冑、それも南北朝時代の甲冑について、かなり大雑把にではありますが紹介をさせて頂きます。

平安時代末期や鎌倉時代の武将達は、太刀や腰刀は、矢を射尽くした時の決戦時や、平時の際の武器として使い、合戦に於いては、専ら馬に乗って弓矢を主要な武器として戦いました。
そのため当時の甲冑「大鎧」は、馬上で弓矢を操作しやすい機能と構造を持ち、また、敵の弓矢を防ぐために堅牢でなければなりませんでした。そういった構造のために甲冑の重量はかなり重くなりますが、この負担は馬に乗るので然程でもありませんでした(但し、大鎧はあくまでも武将の甲冑であり、一般の兵卒はもっと簡易な、胴丸系の甲冑を着ていました)。

しかし、南北朝時代になると、騎馬で駆け回るには不適当な山中や丘陵地が戦場となる事が多くなり、どうしても歩兵戦が増え、また、戦闘の様相も一騎がけから集団での激しい接戦や大規模な戦闘に発展していったため、もっと身軽に動くため、従来の大鎧は改造されて軽量化され、軽快な胴丸(従来の胴丸より更に発展したもの)や腹巻となりました。
しかし、伝統的な大鎧も、名のある武将の間では依然として使用されてもいました。

以下に、そのような南北朝期の甲冑のうち、現存するものの一部(特に代表的な甲冑)を写真と共に紹介させて頂きます。


南北朝時代の甲冑_07

▲ 黒韋威胴丸 (くろかわおどしどうまる)
兜、大袖付 一領。 広島・厳島神社所蔵。 国宝。 盛上小札の手法や金具廻の様相から推して、胴丸の盛期である南北朝時代の代表的遺品とされています。


南北朝時代の甲冑_08

▲ 白糸威肩赤胴丸 (しろいとおどしかたあかどうまる)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 重文。 南部政長が奉納したと伝えられる、南北朝時代から室町時代にかけての典型的な胴丸です。


南北朝時代の甲冑_31

▲ 萌葱綾威腰取鎧 (もえぎあやおどしこしとりよろい)
大袖付 一領。 愛媛・大山祇神社所蔵。 重文。 繊弱な綾威鎧の色調に、中世武士の優雅な出で立ちが偲ばれます。綾威しの甲冑は上級武士の出で立ちとされますが現存するものは少なく、貴重な甲冑です。


南北朝時代の甲冑_32

▲ 白色威褄取鎧 (しろいとおどしつまとりよろい)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 国宝。 南部信光が南朝の後村上天皇から拝領したと伝わる、南北朝時代の特色をよく示す甲冑です。


南北朝時代の甲冑_35

▲ 紫糸威肩白浅葱鎧 (むらさきいとおどしかたじろあさぎよろい)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 重文。 兜の鍬型を欠失しているものの、他は全て完存で、雄大で作域の優れた、南北朝時代の典型的な甲冑です。これも南部氏の奉納と伝えられています。


南北朝時代の甲冑_36

▲ 黒韋威矢筈札胴丸 (くろかわおどしやはずざねどうまる)
兜、大袖付 一領。 奈良・春日大社所蔵。 国宝。 兜鉢や饅頭しころなどの様相から、南北朝時代初期のものと推察される胴丸で、楠木正成が奉納したと伝えられています。


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かつては最も代表的な尊氏の肖像画とされた、南北朝時代の騎馬武者像

このブログのタイトル「この世は夢のごとくに候」の背景画に使っている画像は、よく知られている「南北朝時代の騎馬武者像」の一部です。
江戸時代後期の博物図録集「集古十種(しゅこじっしゅ)」に紹介されている騎馬武者像で、オリジナルの画像は現在、京都国立博物館が所蔵しています。

南北朝時代の騎馬武者(伝足利尊氏)

今では別の武将であるという説が主流になっていますが、この画像は近年まで、室町幕府を創設した足利尊氏の最も代表的な肖像画として広く知られ、中学校や高校の歴史教科書にも、尊氏の肖像画として長い間掲載されていました。
実際、この時代を題材とした歴史・伝記等のマンガに登場する尊氏や、そういった小説の挿絵などに登場する尊氏の中には、今でも、一見して明らかにこの騎馬武者像をモデルにしていると判別できる絵柄が多くあります。

そもそも、この画像が尊氏の肖像画であるという通説は、大正9年に歴史学者の黒板勝美氏が論文の中で尊氏だと紹介した事に始まり、それ以降、この画像が尊氏像として定着しました。
しかし、早くも昭和12年には谷信一氏がその通説に疑問を呈しており、戦後の昭和43年には、古文書学の大家である荻野三七彦氏がこれは尊氏ではないという論考を発表し、注目されました。
尊氏否定論の根拠とされたのは、主に以下の3点です。


① 画像の上部に据えられた花押
この花押(サイン)は、尊氏の息子で2代将軍となった義詮(よしあきら)のものであり、当時の社会通念上、父の頭の上に子が花押を書くなどという不遜な真似をするのはおかしい。

② 画像のなかの家紋
画像の中の太刀と馬具に描かれている家紋は輪違紋で、これは足利家の家紋ではない。

③ 騎馬武者の格好
軍装の整った出陣姿ではなく、兜を落としたのかざんばら髪を剥き出しにし、背負っている6本の矢のうち1本は折れ、太刀は抜き身であり、征夷大将軍の肖像画としてはかなり異様。というか、明らかに相応しくない。


これらの点(他にも、尊氏の馬は栗毛と伝わるがこの馬は黒毛であるという指摘もあります)から、現在は、この騎馬武者像は尊氏ではなく、別の武将であるという説が有力になっています。
では、この騎馬武者は具体的に誰なのかというと、残念ながら、それはまだ確定しておりません。
しかし、義詮周辺で輪違紋を用いた有力な武将としては、足利家の執事であった高師直(こうのもろなお)がおり、この画像は、師直、もしくはその息子の師詮(もらあきら)を描いたもので、師直・師詮の忠誠をあらわすために描かれ、義詮の花押は、その忠誠心に対する証判の一種ではないか、という説が近年は有力なようです。

ただ、この騎馬武者像が尊氏であろうと、師直もしくは師詮であろうと、あるいはそれ以外の武将であろうと、重厚な大鎧を身に付け、柄が大きく反った金作太刀(こがねつくりのたち)を肩に担いで黒馬に跨っている姿は実に勇壮で、南北朝時代の上級武将の武装の特色をよく伝えており、また、激戦の様を示す、抜き身の太刀、武将の鋭い眼光、躍動感溢れる馬の姿態なども、南北朝動乱の凄まじさを実によく伝えています。
そのため、この騎馬武者像はこのブログに相応しいものと思い、このブログのタイトル画像に、その一部を使う事にしました。

ちなみに、最近は、京都の神護寺にある、平重盛を描いたと伝わる肖像画が、実は尊氏を描いたものではないか、という説も出てきています。


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