この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

神社仏閣・史跡探訪

阿部野神社と北畠親房・北畠顕家

先週、1泊2日で、大阪・堺方面を旅行して来た際、大阪市阿倍野区北畠の閑静な住宅街の一画に鎮座する阿部野神社を参拝・見学してきました。
この神社は、南北朝時代に南朝の有力な公卿・武将として活躍をした北畠親房(きたばたけちかふさ)と、その子の顕家(あきいえ)の二柱を御祭神としてお祀りする神社で、南北朝時代に強い関心を抱いている私としては、以前から一度訪れてみたい神社のうちの一社でした。

ちなみに同神社は、今年1月20日の記事で詳しく紹介した、建武の新政に尽力した天皇・皇子・公家・武将等をお祀りする神社によって平成4年に結成された「建武中興十五社会」に所属しており、また、それとは別に、近畿を中心とした121の社寺により平成20年に結成された「神仏霊場会」(その後151の社寺に拡大)にも所属しています。

以下の写真4枚は、いずれも私が今回の参拝・見学の際に撮影してきた、阿部野神社の境内と社殿の様子です。
職員が沢山いるような雰囲気の神社ではありませんでしたが、その割には境内の掃除は行き届いており、全体的に綺麗に整備されている神社でした。

阿部野神社_01

阿部野神社_02

阿部野神社_03

阿部野神社_04


以下の鉤括弧内(緑文字)は、阿部野神社で頂いてきた、同神社の由緒略記に書かれている「御祭神の由緒」です。北畠親房・顕家親子の経歴や功績などがまとめられています。

北畠親房公は、第六十二代村上天皇の皇子、具平親王の子息である師房が源の姓を賜ったことに始まる村上源氏の血筋を引く方でございます。
親房公は、当時の学識の高い貴族である吉田定房・万手小路宣房と並び「後の三房」と称された一人です。
また後醍醐天皇の皇子である世良親王の養育係を仰せつかったことからも、殊に天皇のご信任が厚かったといわれております。
建武の新政下では、鎮守府将軍となった御長子の顕家公と共に義良親王を奉じて奥州へ下向されます。その後、足利尊氏謀叛による二度目の京都攻めのため、後醍醐天皇が吉野御潜幸をされると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力されました。
後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論の一つである「神皇正統記」を著し、それ以外にも「職原抄」・「二十一社記」などを著して官職の本義や神社の意義を明らかにされました。
厳しい戦況下にあって親房公は、我が国の歴史と伝統を明らかにして、大義を説き、道義を教えた数多くの著述は、後世の人々に深い感動を与え、日本思想史上に大きな足跡を残しました。
興国四年(一三四三)、親房公は吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、一度は京都を回復しましたが、再び京都を脱出して賀名生にうつられました。その後も国家中興に挺身されましたが、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられました。御年六十二歳でした。

北畠顕家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三三三)八月、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、同十月、父親房公と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、陸奥はたちまちにその威風に靡きました。
延元元年(一三三六)、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功いたします。この功績により顕家公は鎮守府大将軍の号を賜ることになり、再び奥州に戻られました。
しかし、勢力を盛り返した尊氏が、兵庫の湊川で楠木正成公を破って京都を占領し、後醍醐天皇が吉野に御潜幸されると、延元三年(一三三八)京都回復のため精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し、鎌倉を落としたあと、美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いにおいては北朝方を破りましたが、同年三月十六日、摂津での戦いに惜しくも敗れられてしまい、顕家公は一時撤退を余儀なくされ、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠りました。
やがて五月十六日、賊将高師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、顕家公率いる官軍は進撃して、数刻にわたり激戦を繰りかえしました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げる結果となってしまったのです。御年二十一歳でございました。

また、顕家公は戦死される一週間前に、後醍醐天皇へ「上奏文」を送っておられます。その内容は
一 地方機関を通じて非常時に備えること
一 諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること
一 官爵登用を重んじること
一 公卿や僧侶の朝恩を定めること
一 臨時の行幸及び宴飲をやめること
一 法令を厳にすべきこと
一 政道に益無き愚直の輩を除くこと
の七箇条から成ります。
この「上奏文」は、顕家公の卓越した政治理念を知ることのできる資料として今日に至るまで高く評価されております。


北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」という言葉で始まる、親房の代表的な著書である神皇正統記をまず連想する方も多いのではないかと思いますが、この「御祭神の由緒」の中でも、やはり神皇正統記について触れられています。あくまでも“触れられている”というだけで、特に詳しい解説はありませんが。
江戸時代になってから水戸学と結びついた神皇正統記は、明治以降の皇国史観にも強い影響を与えており、その件についてはいずれこのブログでも、改めて詳しく取り上げてみたいと思っております。

そして、この「御祭神の由緒」を一読して、私が「やはりな」と思ったのは、楠木正成に対しては「公」という敬称が付けられ「楠木正成公」と称しているのに対して、高師直に対しては、わざわざ名前の前に「賊将」という言葉を付けた上で「賊将高師直」と呼び捨てにしている事です。このあたりは、当然の事ながら、この神社はやはり南朝史観の立場に立っているのだなという事を実感させられます。
ただ、その割には「建武の中興」ではなく「建武の新政」と書いていたり、また、高師直が賊将であるならその親玉である足利尊氏も当然賊将になるわけですが、尊氏に対しては、謀反を起こした、という程度の説明しかなく、特に必要以上に貶めるような記述は無いので、南朝の公卿・武将をお祀りする神社としての公の立場は堅持しつつも、意外と冷静な態度をとっているのかなとも感じました(あくまでも私が勝手にそう感じただけです)。


ところで、どうしてこの地に北畠父子をお祀りする神社が創建されたのかというと、それは、当地が北畠顕家が足利軍と戦った古戦場の近くであり、その近隣(現在の阿部野神社の御旅所)には顕家のお墓として伝えられている墓碑があった事に由来します。
顕家の墓所の存在がきっかけとなって、明治11年2月、近隣住民より、顕家をお祀りする神社を創建しようという運動が起こり、当時の政府もこれを受けて明治14年1月、御祭神を北畠顕家とその父である親房の両神とする事を決定したのです。
下の画像は、その顕家の肖像画です。いかにも“武装した青年公卿”という感じの、なかなか優雅な出で立ちです。

北畠顕家

つまり、阿部野神社の御祭神の序列としてはまず父親である北畠親房、次いで息子の北畠顕家、という順なのですが、神社創建のきっかけとなったのは親房ではなく顕家の故事であり、親房は、顕家の父親であった事から結果的に一緒にお祀りされる事になった、といえます。
こういった経緯を経て、明治15年1月24日、同神社は阿部野神社と号して別格官幣社に列せられ、同18年5月28日に創立され、同23年3月31日に鎮座祭が斎行されました。ちなみに、平成2年には、神社の御鎮座百年祭が行われました。

社殿は、昭和20年3月の空襲で一旦焼失しましたが、その後再建され、現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。
春季大祭は顕家の忌日に当たる5月22日、秋季大祭は親房の忌日に当たる10月18日で、現在、同神社の両御祭神は、勇気の神、知恵の神、学問の神として多くの崇敬を集めています。
下の写真は、阿部野神社の境内に立てられている「北畠顕家公像」と、その像の台座脇に立つ、顕家を称える歌詞の看板です。ちなみに、私が見た限り、境内に親房の像は無いようでした。

阿部野神社_05

阿部野神社_06


ところで、平成3年に放送されたNHK大河ドラマ「太平記」では、北畠親房役を近藤正臣さんが、顕家役を後藤久美子さんが演じていました。
顕家は美少年であったと云われている事から、当時“国民的美少女”と持て囃されていた女性アイドルの後藤久美子さんが顕家役に抜擢されたようですが、男性の役を女性が演じるというこのキャスティングには、私は昔も今も疑問を感じています。

北畠親房・顕家(大河ドラマ太平記)

何年か前、たまたまテレビで見たバラエティ番組の中で、昭和53年から55年にかけて放送された、堺正章さん主演のテレビドラマ「西遊記」の事が話題になっていたのですが、その番組の中である芸人さんが、三蔵法師は本当に美しい女性だ、あのドラマを見ていた当時の自分は三蔵法師に惚れていた、といった内容の発言をし、周りの芸人さん達から、「いや、本当の三蔵法師は男だから!」と突っ込まれて、その芸人さんが「えぇっ!そうだったの!」と驚くシーンがありました。ドラマの中では三蔵法師の役は女優の夏目雅子さんが演じていたため、実在もしくは原作に登場する三蔵法師も女性なのであろうとずっと誤解をしていたようでした。
こういった無用な誤解を招く事もありますし、誤解まではしなくても元の人物に対してイメージがかなり改変されてしまう(無意識のうちに勝手に中性的な人物だったのだろうと思い込んでしまう)事もあるので、宝塚歌劇のような例外を除くと、元の人物とその人物を演じる役者の性別はやはり一致させるべきだと思います。


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足利家の菩提寺である等持院を参拝してきました

前回の記事で述べたように、私は今月中旬、2泊3日の日程で関西を旅行してきたのですが、京都府亀岡市に鎮座する篠村八幡宮を参拝・見学した後は、JR嵯峨野線や嵐電(嵐山本線と北野線)を乗り継いで、京都市北区に鎮座する等持院にも行って来ました。
等持院は、臨済宗天竜寺派に所属する洛西の古刹で、足利尊氏の墓所、足利将軍家の菩提寺でもあります。

私は、等持院には以前にも参拝した事がありましたが、今回はその時以来、約10年ぶりの訪問となりました。足利家所縁のお寺であるという事も私の興味を惹いているのは確かですが、その点を除いても、古寺の雰囲気を醸し出しながらもほとんど観光地化されていない等持院は、個人的に私の好きなお寺のひとつで、いずれ改めて再訪したいなと前々から思っておりました。
ちなみに、等持院には文化財も多く収蔵されていますが、国宝・重文の建物はなく、そのため、境内は時代劇等の撮影場所としても重宝されているそうです。

等持院_01

ところで、少しややこしいのですが、昔は、「等持寺」と「等持院」という、よく似た名前の二つのお寺がありました。等持寺のほうは現存しませんが、元々は、等持院よりも等持寺のほうが先に創建されました。
1339年に、足利尊氏は夢窓疎石を開山として、足利家の菩提寺としてまず洛中に等持寺を創建しました。尊氏は足利家の菩提寺を京都に3ヶ寺建てようと決意しており、その決意から、等持寺の名には1字に1個ずつ、合わせて3個の「寺」の字が含まれる事となりました。
等持寺の寺域は、東は高倉通に、西は室町通に至り、北は二条、南は御池通という広大な境内を誇っていました。

その後、尊氏は、よく知られているように後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺(京都五山の第一位、現在は世界遺産にも登録されています)を建立しますが、その天龍寺とは別に、足利氏としての立場から元弘以来の戦没者を供養するため、1341年、洛西の衣笠山麓に等持寺の別院を築きました。それが、現在の等持院です。
但し、正式に等持院と呼ばれるようになるのは尊氏の死後であり(尊氏の法号等持院に因んで、等持寺別院は等持院と呼び改められました)、この別院が築かれた当初は、等持院ではなく、あくまでも、もうひとつの等持寺でした。つまり、等持寺は二つあったのです。
しかしこれではややこしいので、当時、洛中の等持寺のほうは南等持寺または南寺、洛西の等持寺(現在の等持院)のほうは北等持寺または北寺と、それぞれ称されていたようです。

ところが、2代将軍義詮以降、歴代将軍の葬儀は全て北寺(等持院)で行われるようになったため(尊氏の葬儀については、北寺、南寺どちらかで行われたのは確かなのですが、そのどちらであったのかは判りません)、本寺である南寺(等持寺)よりも、別院である北寺のほうが重きをおかれるようになり、そして、3代将軍義満が花の御所の東に広大な相國寺を建てると等持寺塔頭の鹿苑院が僧録(禅宗寺院を管轄し僧の人事を司る機関)の権利を執行するようになったため、南寺の存在は以前にも増して軽くなっていき、更に、応仁の乱の戦火にも遭うなどしたため、南寺はやがて廃寺同然となり、最終的には、南寺は北寺(等持院)に吸収されました。
等持院が現存し等持寺が残っていないのはこのためです。

下の写真2枚は、山門の脇に掲げられている、等持院の由緒等が書かれている看板です。

等持院_03

等持院_02

山門から表門の間にある参道沿いには、等持院が維持・管理している墓地が広がっているのですが、その墓地の出入口となる門には、足利家の家紋(足利二つ引)が大きく表示されていました。

等持院_04

庫裏の玄関に入る表門です。等持院の拝観は午前9時からで、私がこの門前に到着したのはその15分くらい前だったため、私が到着した時はまだ閉まっていました。ちなみに、この門は江戸時代に作られたものだそうです。

等持院_05

渡り廊下で繋がってはいますが、庫裏や方丈とは別棟になっている、霊光殿という建物です。
霊光殿には、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、歴代足利将軍達の木像や、徳川家康像などが祀られています。なお、ここに奉安されている歴代足利将軍の木像については、後日改めて別の記事で取り上げます。

等持院_06

「足利家十五代供養塔」と伝わる、全高5mの十三重塔です。等持院では、尊氏のお墓と共に大切に供養されてきました。

等持院_07

「足利尊氏の墓」と伝わる全高1.5mの石塔です。尊氏は、1358年4月30日、54歳で、洛中(二条大路高倉)の自邸で亡くなりました。鎌倉幕府を倒し、新たに室町幕府という統一政権を立ち上げた武将のお墓としては、随分小振りだなぁという印象を受けます。

等持院_08

夢窓国師の作と伝わる、東西2つの池を中心として2つの庭に分かれている、等持院の庭園です。但し、池底の状況などは室町時代の作庭を窺わせるものの、室町時代の記録とは充分に整合していない点もあり、様式的には江戸時代中頃の作とも云われています。足利家十五代供養塔や足利尊氏の墓はこの庭園の一画にあります。

等持院_09

等持院_10

等持院_11

私は等持院を一通り見学した後、書院にて、冷たいお茶を頂きながら、この庭園を眺めながら少しまったりしてきました。私が行ったのは平日の午前9時台という事もあり、境内にいた参拝者は私一人だけで、完全に貸切状態でした。

等持院_12

ちなみに、今年5月4日の記事で詳述したように、戦前・戦中の日本では、南朝を正統とする立場から足利尊氏は「朝敵」と看做される事が多かったのですが、等持院はその尊氏が建てた足利家の菩提寺であるが故に、世間から「朝敵の寺」として糾弾される事も少なくはなかったそうで、当時の等持院関係者はかなり苦労をされたようです。


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足利尊氏が旗あげした地として知られる篠村八幡宮を参拝してきました

先週、私は2泊3日の日程で関西(主に京都・大阪・和歌山方面)を旅行してきたのですが、2日目の朝、以前からずっと行きたいと思っていた、京都府亀岡市篠町に鎮座する篠村八幡宮を参拝・見学してきました。
誉田別命、仲哀天皇、神功皇后の三柱をお祀りする八幡宮で、歴史的には、足利尊氏(挙兵当時は高氏)の倒幕挙兵地として知られるお宮です。

篠村八幡宮_01

篠村八幡宮_02

鎌倉幕府の命令により、幕府に敵対する後醍醐天皇方の軍勢を討つため、幕府を代表する有力武将の一人として鎌倉を出陣してこの地に到達した尊氏は、1333年4月29日、この地に於いて、後醍醐天皇側に寝返って討幕する意思を表明します。
尊氏の心中では、鎌倉を出る時には既にその決意が固まっていましたが、全軍にその事を明らかにしたのは篠村八幡宮に於いてであり、この地は、云わば、その決定的な地点となりました。

同日、戦勝祈願の願文を神前で読み上げた尊氏は、直ちに全国各地の武将達に密書を送って協力を求め、同宮一帯に数日間陣を張って滞在した後、尊氏は、後醍醐天皇方の千種、赤松軍などと連絡を取りながら、鎌倉幕府の京都に於ける最重要拠点であった六波羅探題を攻め滅ぼしました。
そして、六波羅を守っていた北条仲時ら四百余人は、近江の番場(現在の滋賀県米原市)まで逃れて悉く自刃しました。

篠村八幡宮_03

尊氏は、篠村八幡宮で討幕の意思を明らかにした際、願文に添えて鏑矢(合戦開始の合図として双方が最初に敵側に射込む唸り音を発する矢)も神前に一本奉納したのですが、尊氏の弟・直義を始め、一族の吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も、それに倣って矢を一本ずつ納めて必勝を祈願し、そのため社壇には矢が塚のように高く積み上げられました。
これらの矢を埋納した場所が、下の写真の「矢塚」です。ちなみに、矢塚の石碑は、江戸時代中期の1702年(赤穂浪士の討入りがあった年です)に奉納されました。

篠村八幡宮_矢塚

矢塚には椎の幼木が植えられ、その椎は樹齢660年を経て周囲の椎と同じ程に成長しますが、昭和9年の室戸台風で倒れ、現在の椎は2代目との事です。
なお、矢塚の脇に立っている看板の説明によると、「足利尊氏の勝ち戦にあやかるべく、地元の太平洋戦争出征者は、椎の倒木から作った肌身守を持参して無事を祈願した」との事なので、尊氏が逆賊視されていた戦時中に於いても、少なくとも地元の人達(篠村八幡宮の氏子さん達)からは尊氏はそうは思われていなかったらしい事が窺えます。

また、境内ではないものの、篠村八幡宮に隣接する地には、「旗立楊(はたたてやなぎ)」と称される楊が立っています(下の2枚の写真)。
尊氏の元に次々と駆けつけてくる武将達に尊氏の本営の所在を示すため、旧山陰街道(横の小道)に面して高く聳え立つ楊の木に、足利家の家紋である「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられており、この楊は、その時代から6~7代を経て引き継がれたものだそうです。前出の矢塚と共に、この楊も亀岡市の史跡に指定されています。

篠村八幡宮_旗立楊02

篠村八幡宮_旗立楊01

なお、尊氏は後醍醐天皇と決別した後の1336年1月、京都攻防戦で敗れた際にも、この地で味方の兵を集めると共に、再起を祈願して篠村八幡宮に社領を寄進しています。
その後、尊氏は逃げ落ちた九州で体勢を立て直して京都へと戻り、後醍醐天皇側の軍勢に勝利して室町幕府を開く事となりました。

こういった経緯から、1349年には尊氏は同宮にお礼参りに訪れ、また、室町幕府の歴代将軍も多くの社領を寄進し、盛時には、篠村八幡宮の社域は篠の東西両村にまで渡りましたが、後に、応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社域の多くは失われました。


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太平記所縁の地 稲村ヶ崎

今から3年程前、鎌倉を旅行した際に、太平記所縁の地である稲村ヶ崎を訪ねました。

稲村ヶ崎は、鎌倉市南西部の由比ヶ浜と七里ヶ浜の間に位置する、相模湾に突き出た岬で、鎌倉幕府を攻め滅ぼさんとする新田義貞が、この岬から海岸に沿って鎌倉に軍勢を進めようとするものの、波打ち際が切り立った崖となっていたためそれが出来ず、そのため義貞が、潮が引く事を祈念しながら太刀を海に投じて龍神に奉納すると潮が引いて海岸が干潟となり、そこから一気に鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼした、という、太平記でも特に有名なエピソードのひとつの舞台となった伝説地です。

新田義貞

稲村ヶ崎_01

稲村ヶ崎_02

「史蹟 稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」と刻まれた石柱や、稲村ヶ崎での義貞の伝説を記した石碑、明治天皇御製(明治天皇が義貞について詠まれた歌)が記された石碑なども立っていました。
太平記が好きな私にとって、ここは前々から一度は訪ねてみたいと思っていた場所でした。

稲村ヶ崎_03

稲村ヶ崎_04

稲村ヶ崎_05

稲村ヶ崎からは、江の島や、江の島と本土を結ぶ江ノ島大橋もはっきりと見えました。
江の島は、鎌倉の西隣の街・藤沢市にある、周囲約4km、標高約60mの陸繋島(砂州によって陸続きになった島)で、鎌倉と共に湘南を代表する一大観光地として全国的に知られています。

稲村ヶ崎から望む江の島


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足利氏所縁の飯香岡八幡宮と、小弓公方足利義明の供養塔を参拝してきました

今からほぼ一年前の昨年3月の初め、東京・千葉方面を旅行してきたのですが、その旅行の3日目に、私は、千葉県市原市八幡に鎮座する、国府総社と尊称される飯香岡八幡宮を参拝・見学してきました。

飯香岡八幡宮 鳥居と社号標

飯香岡八幡宮は、かつては六所御影神社と称され、創祀の起源は、白鳳年間(675年)に一国一社の八幡宮として勧請された事とされています。
759年に全国放生の地に鎮座する国府八幡宮と定められ、中世以降は上総総社としての機能を持つようになり、その名残から、国府総社と尊称されています。御祭神は、俗に八幡大神と称される誉田別尊、息長帯姫尊、玉依姫尊などです。
同宮では、私の友人でもある神職(飯香岡八幡宮禰宜)のHさんが、社殿や境内等を丁寧に案内して下さいました。

飯香岡八幡宮 拝殿

上の写真は飯香岡八幡宮の拝殿で、正面は5間、側面は3間あり、屋根は入母屋造りで、正面中央には千鳥破風があり、向拝中央は軒唐破風となっています。この拝殿は、千葉県の有形文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮 本殿

上の写真は、拝殿内から撮影した飯香岡八幡宮本殿(正面)で、拝殿の奥に鎮座するこの立派な本殿は、正面が3間、側面が2間あり、屋根は拝殿と同じく入母屋造りです。
神社の本殿としてはかなり大きな社殿で、小弓公方と称された足利義明が寄進したものと伝わっています。この本殿は、国の重要文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている御神輿

飯香岡八幡宮では、禰宜のHさんの御配慮により、平時は施錠されている同宮の宝物殿内も見学させて頂き、いろいろと貴重な史料や文化財等を拝見する事ができました。
上の写真は同宮の宝物殿に奉案されている、第3代将軍の足利義満が同宮に奉納した4基の御神輿のうちの一基です。室町時代前期の特徴がよく窺える造形で、同宮拝殿と共にこれも千葉県の有形文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている甲冑

上の写真は、飯香岡八幡宮の宝物殿に収蔵されている、紺糸素懸威二枚胴具足(こんいとすがけおどしにまいぐそく)という甲冑です。これは安土桃山時代のものと伝わっており、市原市指定文化財に登録されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている大般若経

上の写真は、飯香岡八幡宮の宝物殿に収蔵されている、春日版大般若経(大乗仏教の基礎的教義が書かれている600巻余の膨大な経典)の一部です。
第3代古河公方の足利高基と、その高基の弟に当る前出の足利義明の、家門繁栄を祈願して天文年間(戦国時代)に同宮に奉納されたものです。ちなみに、春日版というのは、奈良の興福寺で印刷された経典という意味らしいです。
やはり飯香岡八幡宮は、歴史的に足利氏と関わりが深いようです。


Hさんは、私が鎌倉公方や古河公方に興味・関心を抱いているのを知って、同宮の境内だけではなく、同宮からは少し離れた所にある小弓公方足利義明夫妻の供養塔へも車で連れて行って下さいました。
この供養塔は、近年になってここに移設されたもので、昔からこの地にあった訳ではありませんが、足利義明夫妻の墓石と伝わる、文化財・史跡としても価値が高いとされる五輪塔です。

小弓公方足利義明夫妻の供養塔_01

小弓公方足利義明夫妻の供養塔_02

ちなみに、足利義明は、初代将軍・足利尊氏の四男で初代の鎌倉公方(関東公方)とされる足利基氏からは6代後の子孫に当たり、また、幕府(第6代将軍足利義教)と関東管領(上杉憲実)に追討されて自害した第4代鎌倉公方の足利持氏からは曾孫に当たり、その持氏の子で古河公方の初代となった足利成氏からは孫に当たります。
義明自身は北条氏綱との戦い(第一次国府台合戦)で戦死していますが、その子孫は後に喜連川氏となり、江戸時代になってからも喜連川藩として存続し、明治時代になってから足利に復姓し、華族となりました(当主は子爵に叙されました)。

つまり、喜連川氏から復姓した足利家は、足利を名乗ってはいても、足利将軍家(幕府を創設した足利尊氏の嫡男として2代将軍の地位に就いた足利義詮の血統)の子孫ではなく、関東で鎌倉公方や古河公方となってその足利将軍家とは長い間対立関係にあった関東公方足利家(足利尊氏の四男・足利基氏の血統)の子孫に当たるという事です。

飯香岡八幡宮 拝殿前

小弓公方足利義明夫妻の供養塔をお参りした後は、再び飯香岡八幡宮に戻り、最後に拝殿前でHさんと一緒に写真を撮らせて頂きました。上の写真の右がHさんで、左が私です。
Hさん、御多忙のところ社殿や境内等を丁寧に案内して下さり、また、小弓公方足利義明夫妻の供養塔へも車で連れて行って下さり、どうもありがとうございました!


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南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする神社

3年程前に鎌倉を旅行した際、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王を御祭神としてお祀りする鎌倉宮を参拝・見学してきたのですが、その時に同宮の授与所で受けてきたのが、この冊子「建武中興六七〇年記念 南朝関係十五神社巡拝案内記 -附・十五社御朱印帳-」です。奥付によると、発行は平成15年12月15日です。

南朝関係十五神社巡拝案内記

巻尾の御朱印帳も含めて全84ページ(そのうち各神社の紹介ページはカラー)の冊子で、以下は、この冊子の冒頭にある「はじめに」のページに記されている、建武中興十五社会の会長挨拶です。これを読むと、この冊子の発行された趣旨がおおよそ分かります。

後醍醐天皇を御祭神とする吉野神宮をはじめ、建武中興関係の十五神社が相諮(あいはか)り、建武中興の精神を体して、わが国体の発揚に尽瘁(じんすい)することを目的として、平成四年に「建武中興十五社会」が結成された。当会では、明年三月十三日を以って、建武改元の日から数えて六七〇年を迎えることから、建武中興の偉業を偲び、その意義を改めて想い起こすと共に、これの宣揚を図るため、祭典及び事業を行うこととなった。
「建武中興」、その言葉は、戦後教育制度の偏向によってか、今日では教科書からも消え、「建武の新政」に言い替えられたようである。
「建武中興」とは、第九十六代後醍醐天皇が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を皇祖とする天皇を中心として形成する国家、「神国」の本義をふまえ、延喜・天暦の御代にならって、天皇親政の理想国家を実現されようとした功業(こうぎょう)である。単に後醍醐天皇が新しい政治改革をされたというだけではない。
しかし、後醍醐天皇により一旦はなった建武中興も、足利尊氏の謀反により中断の已むなきに至るが、その度同天皇の崩御の後も、御遺志を継がれた天皇、皇子達を中心に、幾多の忠臣義士が、その国家中興の理想実現のため、一族一門を投げうって幕府政治と闘った。その歴史には、まことに尊いものがある。そして多くの苦難と犠牲を伴い、ようやく五百余年の歳月を経て、明治維新を迎え、王政復古となったのである。明治天皇の鴻業(こうぎょう)が、近代日本国家建設の重要な基盤となったことを想うとき、建武中興の深くて尊い意義を思わずにはおれないのである。
戦後わが国の姿は一変した。教育の荒廃は日本人の心まで変えた。翻って国の肇(はじ)めに立ち返り、わが国体の本義を深く認識すべきである。
こんな秋(とき)において、建武中興六七〇年という節目を迎えた。建武中興の偉業を偲び、一人でも多くの人に、本誌を手に十五社を御参拝願い、朱印を受けられつつ、御神徳にふれて戴きたいと願う次第である。
(後略)
平成十五年十二月
建武中興十五社会 会長 寺井種伯


建武中興(建武の新政)から丁度670年経つ事を記念して、後醍醐天皇を始めとする南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする、特に南朝に所縁の深い神社15社が集まって「建武中興十五社会」を結成し、その記念事業として、また、建武中興の啓発事業として、祭典や各種の事業(その事業のひとつにこの冊子の発行も含まれていたのでしょう)を行なうという事らしいです。
なお、その15社とは、北は福島県から南は熊本県に至る、以下の各神社です。

① 吉野神宮
主神 … 後醍醐天皇
旧社格 … 官幣大社
鎮座地 … 奈良県吉野郡吉野町吉野山3226

② 鎌倉宮(大塔の宮)
主神 … 大塔宮 護良親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 神奈川県鎌倉市二階堂154

③ 井伊谷宮(新宮さん)
主神 … 宗良親王(一品中務卿宗良親王)
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 静岡県引佐郡引佐町井伊谷1991-1

④ 八代宮(将軍さん)
主神 … 懐良親王
配祀 … 良成親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 熊本県八代市松江城町7-34

⑤ 金崎宮(親王さん)
主神 … 尊良親王、恒良親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 福井県敦賀市金ケ崎町1-1

⑥ 小御門神社(文貞公)
主神 … 贈太政大臣 藤原師賢公(文貞公)
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 千葉県香取郡下総町名古屋898

⑦ 菊池神社(新宮さん)
主神 … 贈従一位 菊池武時公、贈従三位 菊池武重公、贈従三位 菊池武光公
配祀 … 贈従三位菊池武政命 以下二十六柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 熊本県菊池市大字隈府1257

⑧ 湊川神社(楠公さん)
主神 … 楠木正成公(大楠公)
配祀 … 楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿
摂社 … 甘南備神社御祭神(大楠公夫人)
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 兵庫県神戸市中央区多門通3-1-1

⑨ 名和神社
主神 … 伯耆守従一位 源朝臣名和長年公
配祀 … 御一族以下四十二柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 鳥取県西伯郡名和町名和556

⑩ 阿部野神社(阿部野さん)
主神 … 北畠親房公、北畠顕家公
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 大阪市阿倍野区北畠3-7-20

⑪ 藤島神社(藤島さん)
主神 … 新田義貞公
配祀 … 新田義宗卿、脇屋義助卿、新田義顕卿、新田義興卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 福井県福井市毛矢3-8-21

⑫ 結城神社(結城さん)
主神 … 結城宗広卿
配祀 … 結城親光朝臣一族殉難将士
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 三重県津市大字藤方2341

⑬ 靈山神社(官幣社)
主神 … 大納言 北畠親房卿、陸奥大介・鎮守府大将軍 北畠顕家卿、陸奥介・鎮守府将軍 北畠顕信卿、陸奥國司 北畠守親卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 福島県伊達郡霊山町大石字古屋舘1

⑭ 四條畷神社(小楠公さん)
主神 … 楠木正行卿
配祀 … 楠正時朝臣以下二十四柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 大阪府四條畷市南野2-18-1

⑮ 北畠神社(国司さん)
主神 … 北畠顕能卿
配祀 … 北畠親房卿、北畠顕家卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 三重県一志郡美杉村上多気1148


実際には、上記の15社以外にも、南朝の天皇・皇族・武将をお祀りしている神社はあるので、この15社が南朝に所縁のある神社全てというわけではありませんが、この15社が、特に代表的な南朝系の神社である事は確かです。15社共、旧社格はいずれも官幣社ですし。

ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。


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楠公父子別れの伝説地 櫻井驛跡

先月、京都・大阪方面を旅行した際、本年9月25日の記事で詳述した「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、国指定史跡「櫻井驛跡」を見学してきました。ここは、私にとっては今回が初めての見学でした。

ちなみに、櫻井驛跡の「駅」とは、勿論現在の駅(鉄道の施設)とは意味が異なり、大化の改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を配した役所の事です。当時は30里(約16km)毎に設けられていました。

以下に、私がこの時櫻井驛跡で撮影してきた風景・石碑・石碑の案内板等の写真をアップします。
平日の午前中で雨天という事もあったのでしょうが、私の他にも全く誰もいませんでした。

桜井駅跡_01

桜井駅跡_02

桜井駅跡_03

桜井駅跡_04

桜井駅跡_05

桜井駅跡_06

桜井駅跡_07

桜井駅跡_08

桜井駅跡_09


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室町幕府跡を見学してきました

今月の13日から15日にかけて、私は2泊3日の日程で、京都・大阪方面を旅行してきました。
1日目は、夜に札幌を発ったため現地ではほとんど時間が無く(その日は大阪市内で泊まっただけです)、2日目は主に京都府内で終日予定があり、そして3日目は、お昼頃から大阪府内で人と会う予定があり、しかもその日の夕方には関空から札幌へと帰らなければならなかったため、私は3日目の午前中の空いている時間を利用して、雨の中、京都市上京区室町通今出川上ル築山南半町にある「室町幕府跡」を見に行ってきました。

十年くらい前に一度行った事があるので、私にとってはそれ以来、二度目の来訪となります。
もっとも、幕府跡とはいっても、単に石柱・石碑が立っているだけで、当時の栄華を偲ばせるものは何もありません。

室町幕府跡_1

室町幕府跡_2
ここは、具体的には室町幕府第3代将軍・足利義満が造営した足利将軍家の邸宅跡で、「花の御所」と称された同邸宅のあったこの辺り一帯が、事実上、室町幕府の中枢と呼べるべき場所でした。
今はその面影は皆無ですが、一時は、この辺りが日本の政治の中心地だったのです。

室町幕府跡_3

ちなみに、単に「御所」という場合、通常は天皇や上皇の邸宅(皇宮)を指すのですが、そうであるにも拘わらず、なぜ足利将軍家の邸宅が「花の御所」と称されたのかというと、言葉通り、最初は本当に花の御所であったからです。
将軍家の邸宅は、元々は第2代将軍の義詮が祟光上皇に献上した花亭で、祟光上皇が御所として使われた事で「花の御所」と称されるようになったのです。
しかし、その後御所としては使用されなくなり、義満が、今出川家の菊亭の焼失跡と合わせて一つの敷地として、将軍家の邸宅として整備したのです。


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足利氏を始めとする源氏一門の氏神とされた石清水八幡宮

昨年の2月、私は仕事の関係で、三重県の某所で4泊5日の日程で開催された研修を受講してきたのですが、その研修に行く途中、少し時間があったので、京都府八幡市の男山山中に鎮座する石清水八幡宮に立ち寄って、同宮を参拝・見学してきました。

石清水八幡宮_01

平安時代前期の895年(貞観元年)7月15日の夜、豊前国(今の大分県)の宇佐八幡に参篭していた奈良大安寺の僧・行教が、八幡大神から「われ都に近き男山に移りて国家を鎮護せん」との御神託を受け、行教はこの託宣に従って同年、男山の峯に御神霊を奉安しました。これが、石清水八幡宮の起源とされています。
本殿でお祀りされている御祭神は、八幡大神(誉田別尊)、比咩大神(宗像三女神)、神功皇后(息長帯比賣命)の三柱です。

石清水八幡宮は、足利将軍家が特に篤く信仰したお宮ですが、同宮は足利氏だけではなく、八幡太郎の名で知られる源義家や、鎌倉幕府を開いた源頼朝、それに徳川将軍家など、歴代の源氏一門から、源氏の氏神、武門(弓矢)の神として篤く崇敬されてきました。
また、武家だけではなく朝廷からも、国家鎮護の社として篤く崇敬されてきました。

しかし、南北朝時代の動乱期には、石清水八幡宮はその地理的要衝から恰好の軍事目標となり、しばしば軍事拠点となって兵火にも晒されました。
その動乱期に京都で室町幕府を開いた足利尊氏は、源氏一門の棟梁として八幡大神を篤く崇敬し、石清水八幡宮には度々戦勝を祈請し、1338年に兵火で社殿が焼失した際には、尊氏は弟の直義と共に直ちに社殿の造営に着手し、同年中に遷宮が行なわれました。

幕府が京都に置かれた事もあって足利将軍の社参は特に多く、室町幕府の全盛期を築いた第3代将軍義満は、石清水八幡宮には15回も社参しており、第4代将軍義持に至っては、その数は37回にも及びました。
石清水祠官家嫡流であった田中家は南朝寄りだったそうですが、田中家の支流・善法寺家は北朝・足利氏を支持し、後には善法寺通清の娘の良子が義満の生母にもなっているので、そういった事情も、同宮と将軍家が緊密な関係になっていった事に大きな影響を与えたようです。
下の画像は、石清水八幡宮を篤く崇敬した、僧衣姿の足利義満です。ちなみに、今も名作アニメとして名高い「一休さん」に登場する“将軍さま”は、この義満です。

足利義満

また、幕府の第6代将軍を決める際には石清水八幡宮の神前にてくじ引きがひかれ、このくじ引きの結果により将軍に就いた足利義教は「くじ引き将軍」と称されました。
このように歴代の足利将軍は石清水の八幡大神を篤く崇敬し、石清水八幡奉行も設置しました。

こういった事から、石清水八幡宮には今も、室町幕府歴代将軍の自筆願文や寄進状などが残されています。
一旦は後醍醐天皇方の軍勢の猛攻を受けて九州へ落ちのびた尊氏が、再び軍勢を率いて上洛する際、それに先立って同宮に使者を送って善法寺通清に戦勝祈願を依頼したと伝わる文書も残されており、その文書は、一説によると使者が髪を束ねる紙縒(こより)、元結(もとゆい)に隠して持ち込んだとされる事とから、「元結の御教書」とも呼ばれているそうです。


以下の写真はいずれも、この時(昨年2月)の参拝・見学の際に、私が石清水八幡宮で撮影してきた参道や社殿等の風景です。
行事・祭時がある日、日曜日や祝日、桜の開花する時期、七五三シーズン、年末年始などは混むようですが、私が行った時は行事が何も無い平日のお昼過ぎ頃だったので、境内は閑散としていました。

石清水八幡宮_02

石清水八幡宮_03

石清水八幡宮_04

石清水八幡宮_06


下の写真は、この時社殿を案内して下さった石清水八幡宮の神職さん(中央)と、この時私に付き合って同宮まで一緒に来て下さった歴史学者のK先生(右)です。
神職さんは、この写真の背後に聳える楼門やそれに連なる回廊の内側(通常は祭典に参列するか御祈祷を受けなければ昇殿出来ません)などを案内して下さいました。K先生は、かつて私が京都市内の某学校に2年間在籍していた時の、国史(日本史)の授業を担当されていた先生です。ちなみに、左が私です。

石清水八幡宮_05


ところで、私はうっかり写真を撮ってくるのを忘れましたが、石清水八幡宮には、建武の新政が始まった1334年に楠木正成が植えたと伝わる大きなクスノキもあります。
鎌倉幕府の討幕成功と王政復古を八幡大神に奉告するため、後醍醐天皇は1334年に石清水へ行幸されているので、もしかするとその時に正成が植えたのかもしれません。


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皇居外苑の楠木正成騎馬像

今から9年も前になりますが、当時私が東京を旅行した際に見学・撮影してきた、皇居外苑南東の一角に立つ楠木正成騎馬像の写真をアップします。
全国にある楠木正成像の中では、恐らくこの騎馬像が最も有名ではないかと思います。像本体の高さは約4m、台座も加えると約8mもあります。御覧のように、躍動感溢れる実に力強い銅像です。

楠木正成騎馬像_01

楠木正成騎馬像_02

楠木正成騎馬像_03

楠木正成騎馬像_04

この楠木正成騎馬像は、住友の別子銅山開山200年を記念して、明治23年に住友家(住友財閥)が献納したもので、別子銅山で産出した銅で鋳造されています。
製作は東京美術学校が担当し、複数の美術家が部分毎に分担して作成していきました。像の要となる正成の顔は、当時東京美術学校の職員でこの像の製作主任であった、仏師・彫刻家として高名な高村光雲が担当しました。
ちなみに、上野恩賜公園のシンボルとなっている西郷隆盛像も、高村光雲が製作したものです。


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