この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

神社仏閣・史跡探訪

足利義満所縁の相国寺を参拝してきました

私は先月中旬、奈良の春日大社(厳密にいうと、同大社境内に鎮座する摂社の若宮神社ですが)で斎行された神前結婚式に媒酌人として参列するため、その日にちに合せて2泊3日の日程で京都・奈良方面を旅行してきたのですが、京都に立ち寄った際、室町幕府や足利将軍家と深い関わりがある古刹である、京都御苑の北隣に位置する臨済宗相国寺派大本山・相国寺を参拝・見学してきました。

相国寺は、京都五山の第二位に列せられている、寺格の高い名刹で、また、寺院としての知名度では、世界的にも有名な京都観光定番スポットの鹿苑寺金閣(所謂 金閣寺)や慈照寺銀閣(所謂 銀閣寺)のほうが有名ではあるものの、相国寺はその鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣の2ヶ寺を山外塔頭として擁し、更に、全国に100ヶ寺もの末寺を擁する大寺院でもあり(ちはみに、相国寺境内には本山相国寺をはじめ13の塔頭寺院があります)、そして、鹿苑寺金閣同様、特に室町幕府第3代将軍の足利義満に深い所縁がある古刹でもあります。
というわけで、私は今まで一度も相国寺には行った事が無かったのでいずれ行ってみたいとずっと思っていた事もあり、今回の旅行に合せて同寺へと行って参りました。

以下の写真はいずれも、今回の訪問で私が撮影してきた、相国寺の総門と境内の景観です。
最盛期に比べるとその規模は縮小されているとはいえ、それでも、一宗派の大本山らしく十分な威容を誇っている巨大な寺院でした。

相国寺_01

相国寺_02

相国寺_03

相国寺_04

相国寺_05

相国寺_06


平成25年11月26日の記事で述べたように、足利義満は、現在の住所でいう京都市上京区室町通り上立売の辺りに、壮麗な将軍家邸宅を構え、そこで将軍として政務を執っていました。広大な邸宅の敷地には大きな池が掘られて鴨川の水が引かれ、庭には四季の花が植えられ、それらの花が爛漫と咲き乱れていたと云い、その美しい様から室町の足利将軍邸は、人々から「花の御所」と称されました。
永徳2年(1382年)、義満はその花の御所の東側の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、早速寺院の建設工事が始まります。その寺院が、現在の相国寺です。

相国寺の造営予定地には既に多くの家々が建っており、御所に仕える公家達の屋敷なども立ち並んでいましたが、相国寺の造営に当たっては、家主の身分に関係無くそれらの家屋は全て余所へと移転させられ、その有様は、まるで平清盛による福原遷都にも似た、かなり強引なものであったと云われています。
ちなみに、寺名の「相国」とは、国を扶ける、国を治める、という意味です。元々は中国からきた言葉ですが、日本ではその由来から、左大臣の位を相国と呼んでいました。つまり、相国寺を創建した義満が当時左大臣で、相国であった事から、相国寺と名付けられたのです。

そして義満は、禅の師であった春屋妙葩に、相国寺の開山となることを要請します。しかし妙葩はこれを固辞し、妙葩の師である夢窓疎石を開山とするのなら、自分は喜んで第二祖になると返答したため、義満はそれを了承し、既に故人となっていた疎石を形の上でだけ開山として、妙葩は第二祖(事実上の開山)となりました。
但し妙葩は、相国寺造営の責任者として終始陣頭で指揮を執ったものの、相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没しています。

ちなみに、義満は相国寺を是非とも京都五山のひとつに入れたいと熱望していましたが、既に五山は確定していたため、もし相国寺を強引に五山に入れると、既に五山に入っているいずれかの寺院が五山から脱落しなければならず、そのため義満は、どの寺院を五山から除くべきか、もしくは、相国寺を準五山とするか、あるいは、五山ではなく六山の制にするか、大いに悩んでいたようです。
最終的には、天皇によって建立された南禅寺を五山よりも上位の寺格(別格)として五山から外す事で、相国寺を五山に列位させて、義満の願いは成就しました。これ以降の具体的な順位は、南禅寺が別格、天龍寺が第一位、相国寺が第二位、建仁寺が第三位、東福寺が第四位、万寿寺が第五位となります。
当初は、義満の意向により相国寺が第一位、天龍寺が第二位とされたのですが、義満没後に再び天竜寺が第一位、相国寺が第二位に戻され、それ以降は順位の変動はありません。

そして、着工から10年を経た明徳3年(1392年)、ついに相国寺の堂塔伽藍が竣工し、盛大な落慶供養が執り行われました。
「相国寺供養記」という本によりますと、落慶供養当日の模様は、「路頭縦と云い横と云い、桟敷左に在り右に在り、都鄙群集して堵(かき)のごとく、綺羅充満して市をなす」と記されており、境内には、聳え立つ真新しい殿堂、威儀を正した僧侶達、義満に供奉する公武の人々、見物の群集などの景色が広がり、祝賀ムード全開、お祭り一色の派手な様相が広がっていたようです。
そしてそのほぼ1ヶ月後に、南朝と北朝との間で和議が成立し、約60年に亘って続いてきた南北朝の抗争も終結し、待望の平和が蘇る事となりました。

創建当時の相国寺は、室町一条辺りに総門があったと云われ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約144万坪の壮大な敷地に50あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。兎に角巨大な寺院でした。
そして、残念ながら現存はしませんが、義満の時代の相国寺で確実に最も目立っていたのは、史上最も高かった日本様式の仏塔でもある「七重大塔」です。この仏塔は、義満の絶大な権勢を象徴するモニュメントでもあり、その高さ(尖塔高)は109.1mを誇り、構築物として高さ日本一というその記録は、大正3年(1914年)に日立鉱山の煙突(高さ155.7m)が完成するまでの凡そ515年間も破られる事がありませんでした。
下のイラストは、「週刊 新発見!日本の歴史 24」誌上からの転載で、義満の時代の相国寺伽藍の全景です。巨大な七重大塔が、強烈な存在感を醸し出しています。

相国寺伽藍


ところが、竣工後の相国寺は度々火災に見舞われ(七重大塔が現存しないのはそのためです)、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に境内は全焼し、その後復興されたものの、義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼しています。
応仁元年(1467年)には、応仁の乱で細川方の陣地となったあおりでまた焼失し(相国寺の戦い)、天文20年(1551年)にも、細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれてまた焼失しています(相国寺の戦い)。
天正12年(1584年)、相国寺中興の祖とされる西笑承兌が住職となって復興が進められ、日本最古の法堂建築として現存する法堂は、この時期に建立されました。しかしその後も、元和6年(1620年)に火災に遭い、天明8年(1788年)の「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇をまた焼失しました。そのため、現存の伽藍の大部分は、19世紀はじめの文化年間の再建となっています。

このように、長い歴史の中で幾度も焼失と復興を繰り返してきた相国寺ですが、相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として、そして、室町幕府の厚い保護と将軍の帰依とによって、これだけの火災に遭いながらも大いに栄えてきた大寺院で、幾多の禅傑を生み出し、我が国の文化にも決して小さくはない役割を果たしてきました。
ちなみに、室町時代中頃の「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)という日記によりますと、第8代将軍の足利義政は、寛正5年(1464年)の一年間だけで、実に四十数回も相国寺を参詣しています。現職の将軍が一年間にこのように何十回も参詣したお寺は他には無く、足利将軍の深い帰依の様子が窺えます。


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後醍醐天皇をお祀りする吉野神宮を参拝してきました

私は今月の初め頃、2泊3日の日程で、関西(主に吉野・京都・大阪など)を旅行してきました。
2日目の朝からお昼にかけては、日本を代表する桜の名所としても知られる、奈良県の吉野方面を車で回ってきたのですが、その際、同県吉野町に鎮座する吉野神宮にも立ち寄り、同神宮を参拝・見学してきました。

吉野神宮は、南北朝動乱の悲史に於ける主人公のおひとりで、天皇親政による「建武の新政」(建武の中興)を行い、その後吉野に南朝を開かれて京都の北朝や室町幕府と戦われた、太平記でお馴染みの第96代・後醍醐天皇を主祭神としてお祀りするお宮です。
下の画像は、日本史の教科書にもよく掲載されている、その御醍醐天皇の肖像画です。いくつか伝わっている御醍醐天皇肖像の中でも特に有名な画像で、法服である袈裟を着て密教の法具を両手に持たれており、天皇としてはかなり“異形”なお姿で描かれています。また、天皇の上方(頭上)には、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三社託宣が掲げられています。

後醍醐天皇

歴代天皇の中でも傑出した政治力とカリスマ性を発揮され、天皇親政・公家一統の政治の実現を只管目指されて武家政権と激しく対立し続けるも、遂に京都奪還を達し給わず御無念のうちに吉野の山奥に崩ぜられた後醍醐天皇の崩御から550年が経った明治22年(大日本帝国憲法が発布された年)、かつて南朝の本拠であった吉野山で後醍醐天皇の御霊を慰撫するため、明治天皇が吉野神宮の御創立を仰せだされ、それを受けて明治25年に御鎮座祭が執り行われて、吉野神宮は創建されました。
最後の武家政権である江戸幕府が倒れて明治時代に入ると、かつて天皇親政を目指した南朝が再評価されるようになり、南朝関係者をお祀りする神社が全国にいくつも創建されましたが、吉野神宮は、南朝最大の中心人物である後醍醐天皇をお祀りしている事や、旧社格が最上位の「官幣大社」であった事などから、そうした「建武中興十五社」の中でも、筆頭に位置付けられました。
吉野神宮は、創建が近代なのでお宮としての歴史は然程深いとはいえないものの、以上のような経緯を持つ、南朝所縁のお宮なので、昔から太平記が好きな私としては、一度は訪れてみたいお宮でした。

なお、現在の同神宮境内地は、元々は丈六山一の蔵王堂があり、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のため挙兵された大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が吉野山に陣を構えられた際、鎌倉幕府方の侍大将二階堂道蘊(どううん)に占領されて本陣になった場所、と伝えられています。

吉野神宮_01

吉野神宮_02

南朝所縁のお宮だけあって、吉野神宮の境内に鎮座する各摂社の御祭神も、やはり、後醍醐天皇にお仕えした南朝の公家や武将達です。
具体的には、藤原(日野)資朝、藤原(日野)俊基、児島範長、児島高徳、桜山茲俊、土居通増、得能通綱の7柱が、御影神社・船岡神社・瀧櫻神社の3社で、それぞれ御祭神としてお祀りされております。

吉野神宮_03

吉野神宮は、明治25年の御鎮座から僅か30年で境内が手狭となり、神域を拡張して主要な社殿も一新する事になりました。
そのため現在の社殿は、いずれも大正11年から昭和7年にかけて改築造営されたもので、特に、三間社流造りの本殿、入母屋造りで銅板葺きの拝殿、切妻造りの神門、それを取り囲む玉垣などは、昭和(戦前)の近代神社建築を代表する様式となっています。

吉野神宮_03b

吉野神宮_04

吉野神宮_05

吉野神宮_06

ところで、神社の社殿(本殿・拝殿など)は、ごく一部の例外を除いて、そのほとんどは南か東を向いて建てられるのが通例ですが、吉野神宮の社殿は、珍しく北を向いています。
これは、御祭神の後醍醐天皇が、京都への御帰還を強く熱望されながらも南朝の勢力衰退によりそれが叶わず崩御されたため、後醍醐天皇のその心情を酌んで、北、即ち吉野から見た京都方面に向けられた事に因ります。
全く同じ理由から、後醍醐天皇の勅願寺であった如意輪寺の裏山に築かれた塔尾陵(後醍醐天皇の御陵)も、皇室の墓陵の中では唯一の北向きとなっております。

下の画像は、後醍醐天皇の崩御の様子が描かれたものです。御病気が重く、最早再起は不能と御自覚された後醍醐天皇は、義良親王(後村上天皇)に譲位され、御遺勅として、南朝関係者一同に新天皇に忠義を尽くすよう命じられ、その翌日、吉野の行宮にて波瀾万丈の御生涯を閉じられました(宝算52)。

後醍醐天皇の崩御

今回私は、左右に回廊が延びる拝殿の奥にある幣殿(下の写真の看板では便宜的に本殿と書かれていますが)に昇殿し、そこで玉串拝礼もさせて頂きました。
具体的には、「修祓、玉串拝礼、塩湯で祓い」という次第で、白衣・白袴の年配の神職さん(狩衣や格衣などは着装されていませんでした)が立礼にて御奉仕して下さいました。 本殿の間近という事もあって、更に御祭神の御神威を感じ、とても厳粛な気持ちになりました。

吉野神宮_07

太平記によると、後醍醐天皇は「たゞ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)玉骨は仮ひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という鬼気迫るお言葉を遺されて、左手には法華経の五巻を、右手には御剣を持って崩御されたとあり、その最期の御様子からも、只管北天を望まれる天皇の激烈なる御気迫が伝わってきます。
まして、前出のように御自分でその想いを「妄念」と仰せられるくらいですから、私としては、吉野神宮には後醍醐天皇のその妄念や御無念の想いが今なお滞留し、失礼ながら、どこかおどろおどろしい陰気な雰囲気が漂っているお宮なのかな、という気もしていたのですが、実際にお参りしてみると、その思いとは正反対で、実に明るく清々しい、開放的な雰囲気のお宮でした。

その吉野神宮の代表的な御利益(御神徳)は、厄除け、合格祈願、病気平癒、家内安全との事です。
幾多の艱難辛苦を重ねられながらも、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権を打倒すべく精力的に活動された御醍醐天皇の芯の強さは、参拝者にも厄除けなどの恩恵をもたらすといい、また近年は、心の浄化にも効果があると云われているそうです。
崩御から六百数十年という長い時を経て、後醍醐天皇の妄念も、今はもうすっかり浄化されたのかもしれません。


ちなみに、南朝関係のスポットとしては、今回訪問の吉野神宮以外だと、私は過去に以下の社寺や関連史跡等を訪れています。

【平成27年1月】
生前は敵対関係にあった楠木正行・足利義詮両名の菩提寺である、京都の嵯峨野にある宝筐院
南朝の重鎮として活躍した北畠親房・顕家父子をお祀りする、大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社
【平成25年11月】
太平記での代表的なエピソードのひとつ「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、大阪府島本町にある櫻井驛跡
【平成23年6月】
後の南朝の有力武将となる新田義貞が、ここから海岸に沿って鎌倉へ討幕の軍勢を進めたと伝わる、鎌倉市南西部の稲村ヶ崎
後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕に多大な貢献をした護良親王をお祀りする、鎌倉市二階堂に鎮座する鎌倉宮。
【平成14~15年】
大楠公とも称される楠木正成をお祀りする、神戸市中央区に鎮座する湊川神社
小楠公とも称される楠木正行をお祀りする、大阪府四條畷市に鎮座する四条畷神社。


下の写真は、吉野神宮の境内に立てられていた、建武中興十五社の案内看板です。

吉野神宮_08


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熊本・大分両県での地震災害お見舞い

今月14日に発生し、今なお依然として強い余震が続いている「熊本地震」によって被災された皆様方に、謹んでお見舞いを申し上げます。

今回の熊本地震は、気象庁が昭和24年に「震度7」の震度階級を設定してからは、平成23年に発生したあの東日本大震災(地震名は東北地方太平洋沖地震)に続いて国内では4回目、九州では初となる最大震度7の激震でした。
活断層が引き起こしたマグニチュード7.3の直下地震である点、木造家屋に大きな被害を出しやすい周期1~2秒のパルス状の揺れが強い点など、平成7年に発生した阪神・淡路大震災(地震名は兵庫県南部地震)とよく似た地震で、この度は熊本・大分両県を中心に九州北部の広範囲に亘って各地に大きな被害をもたらしました。
倒壊した住宅の下敷きになったり土砂崩れに巻き込まれるなどして、大変残念な事に、現在までに40名以上もの死亡が確認されています。避難所での病死等の関連死も含めると、死者の数はもっと多くなります。
お亡くなりになられた方々の御霊の安らかならん事を、衷心よりお祈り申し上げます…。


なお、宮内庁のホームページによると、天皇皇后両陛下は発災翌日の15日、熊本県の蒲島郁夫知事に対して、被害についてのお見舞いのお気持ち、災害対策に従事している関係者に対するお労いのお気持ち、被災者の健康を御祈念するお気持ちを、侍従長を通じてお伝えになられました。以下(鉤括弧内緑文字)がその全文です。
天皇皇后両陛下には、昨夜の熊本県を震源とする大地震により、多数の死傷者、避難者が発生するなど県民生活に大きな被害が生じていることに大変お心を痛められ、犠牲者に対するお悼みと被害を被った人々へのお見舞いのお気持ち、並びに災害対策に従事している関係者に対するおねぎらいのお気持ちを知事にお伝えするようにとの御意向でした。まだまだ、朝夕寒い季節であるので被災者をはじめ人々の健康を祈っておられます。以上、謹んでお伝えします。

歴史的にみても、天皇陛下は、一時の例外を除きほぼ常に、世俗的な権力とは無縁で、権力よりも上位に君臨する宗教的な最高権威、つまり、公正無私な祭祀王として只管“国の平安と国民の安寧を祈る”という超越的な御存在であり、その伝統は今も変わる事なく連綿と続いている、という事がよく分かる事例です。
このブログで度々取り上げている南北朝期の後醍醐天皇は、中世以降の歴代天皇としては珍しく、政治的な権力と宗教的な権威の両方を兼ね備えた天皇でありましたが。

ちなみに、念のために一応補足しておくと、両陛下が15日に熊本県の知事にだけお気持ちをお伝えになられたのは、その時点ではまだ、大分県など他県での被害はほとんど報告されていなかったためです。


ところで、熊本・大分両県では、この度の地震により伝統的建築物や歴史的文化財等も大きな被害を受けました。
国の特別史跡でもある熊本城では、全国ニュースでも既に大きく報じられているように、天守閣の屋根瓦が崩れたり、屋根の上にあったしゃちほこが落下したり、石垣もいくつかの場所で崩れたり、更に、築城当初から残っていた重要文化財の東十八間櫓・北十八間櫓が倒壊して隣の熊本大神宮の社務所を押し潰すなどしました。
また、肥後国一宮で旧官幣大社の阿蘇神社(熊本県阿蘇市)でも、重要文化財の楼門と拝殿が全壊し、大分県でも、岡城跡(竹田市)、岡藩主中川家墓所(竹田市)、旧竹田荘(竹田市)、角牟礼城跡(玖珠町)、鬼の岩屋古墳(別府市)などで一部に亀裂やズレが生じるなどの被害が発生しました。

私は一昨年1月20日の記事「南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする神社」の中で、建武中興十五社会の神社を紹介させて頂きましたが、その15社のうち、後醍醐天皇の皇子で九州に於ける南朝方の全盛期を築いた懐良親王をお祀りする「八代宮」(熊本県八代市松江城町)と、後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉幕府の鎮西探題を襲撃するもののその戦で敗れて討たれてしまった菊池武時などをお祀りする「菊池神社」(熊本県菊池市大字隈府)の2社は、いずれも九州、しかも、今回の地震で特に大きく被災した熊本県内に鎮座しております。
この2社のうち、八代宮の被害状況は現時点ではまだ不明ですが、菊池神社については、電子掲示板「神道青年全国協議会 災害対策掲示板」への書き込みによると、倒壊まではいかないものの社殿に酷い歪みが生じているとの事です。

これ以上犠牲者が増える事のないようにという事と、大変困難な状況に陥る事を余儀なくされた被災者の皆様方の一日も早い生活の再建、そして、この記事で取り上げた史跡や神社仏閣のみならず被災地の各所が一刻も早く復旧・復興されます事を、改めて心より御祈念させて頂きます。


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足利市の鑁阿寺に残る、足利将軍へのかつての尊崇・信仰の形

前回の記事で述べたように、私は先月下旬、栃木県足利市に行ってきたのですが、私が足利市で見てきたいくつかのスポットの中で、個人的に一番興味深かったのは、足利学校のすぐ近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)という古刹でした。
現在の鑁阿寺は、真言宗大日派の本山で、「足利氏宅跡」として境内全体が国の史跡に指定されており、四方に門が設けられ土塁と堀がめぐらされているなど平安時代後期の武士の館の面影が残されている事から「日本の名城百選」のひとつにも選ばれています。
また、本堂は国宝に、境内にあるその他の堂宇も国の重要文化財や県もしくは市の文化財などに指定されており、歴史的建造物としても大変貴重なお寺です。

下の写真2枚は、その鑁阿寺を今回参拝・見学した際に私が撮影してきた、県の指定文化財でもある楼門(山門)と、国宝に指定されている大御堂(本堂)です。
楼門(下の写真の1枚目)は、室町幕府第13代将軍の足利義輝が室町時代後期に再建したもので、大御堂(下の写真の2枚目)は、源姓足利氏2代目で鑁阿寺を開創した足利義兼が鎌倉時代初期に建立し、鎌倉時代後期に足利尊氏の父・貞氏が再建したものです。

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楼門と大御堂、どちらの屋根の上にも、足利家の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が入っており、金色に光り輝いています。

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前出の足利義兼が邸宅内に持仏堂を建てたのが鑁阿寺創建の由緒とされており、鎌倉時代以降、次第に本格的且つ大規模な寺院として整備されていき、室町時代には、京都の足利将軍家や、鎌倉公方足利家により、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
現在は、平成26年7月2日の記事で紹介させて頂いた「全国足利氏ゆかりの会」の会員ともなっています。


ところで、私が今回鑁阿寺を参拝・見学してきて、現地で「おおっ、これは!」と特に括目したのは、大御堂の裏手に建つ「御霊屋」(おたまや)と、その直ぐ隣に建つ「大酉堂」(おおとりどう)です。

下の写真4枚はいずれも御霊屋で、鑁阿寺という寺院の境内に建つ建物ではありますが、これは仏教建築ではなく、明らかな神社建築であるのが特徴です。手前側にある入母屋造りの拝殿と、その奥に鎮座する一間社流れ造りの本殿の2殿を中心として、全体が、正面の神門と連なる瑞垣で囲まれています。
御霊屋の当初の建物は鎌倉時代に建てられましたが、現在のものは、江戸時代に江戸幕府第11代将軍 徳川家斉が寄進したものです。

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御霊屋の神門前に立てられている解説板によると、この御霊屋は、当初は足利大権現と称され、本殿では「源氏の祖」」を御祭神としてお祀りし、拝殿内には、歴代足利将軍15人全員の木像がお祀りされていたそうです(現在は、その15体の歴代将軍の座像は、いずれも鑁阿寺の経堂内に移されています)。
また、本殿の直ぐ裏には、鑁阿寺を開創した足利義兼の父・義康と、その父(つまり義兼の祖父)である義国二人のお墓もあります。下の写真がそのお墓で、本殿の直ぐ真裏、瑞垣の内側にあります。本殿御祭神の「源氏の祖」というのは、この二人の事らしいです。

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神道は、何よりも清浄を尊び、人の死や遺骸などは「不浄」や「ケガレ」として捉えるため、本来の神社であれば、本殿とお墓が隣接して建つという事はまずほとんど有り得ないのですが、ただ、久能山東照宮の廟所、日光東照宮の奥宮、といった例外もあるので(これらの二例はいずれも、御祭神のお墓と本殿が極めて近接しています)、本殿とお墓が隣接しているのが必ずしも絶対にアウト、というわけではないのでしょう。
そもそもこの御霊屋は寺院の境内に建つ、非常に神仏習合色の濃いお宮なので、どのみち普通の神社とは性格が異なりますし。


そして下の写真は、御霊屋の直ぐ隣に建つ大酉堂です。こちらは御霊屋とは違い、神社建築ではなく、他の堂宇と同様、仏教本来のお堂の形式が採られています。
大酉堂の前に立てられている解説板によると、このお堂は、元々は足利尊氏をお祀りするお堂として室町時代に建立されたもので、江戸時代や明治時代初期の鑁阿寺伽藍配置図には「足利尊氏公霊屋」と記載されていたそうです。このお堂には、御霊屋の拝殿内にお祀りされていた束帯姿の尊氏座像とは別の、甲冑姿の尊氏像も、お祀りされていたそうです。
しかし明治時代中期以降、尊氏を逆賊とする歴史観が台頭してきた事により、大酉堂の尊氏像はここから本坊に移され、それに代わって、俗に「おとり様」と称される、武神でもある大酉大権現が御本尊になったのだそうです。現在、大酉堂と称されているのはそのためです。

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私は平成26年1月20日の記事の中で、以下のように書いた事があります。
ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。

こういった事を踏まえて、私は、南朝方の天皇・皇族・公家・武将ではなく、北朝方(足利氏や北朝を支援した室町幕府の武将も含む)が信仰対象となっている社寺が無いものか、ずっと探していたのですが、それを、今回の足利市探訪で、鑁阿寺にて漸く見つける事が出来たのでした。

御霊屋は、足利将軍が本殿の主祭神としてお祀りされていたわけではないものの、かつては御霊屋自体が足利大権現と称されていて、拝殿内には歴代の足利将軍像がお祀りされていたとの事ですから、歴代の足利将軍も恐らく信仰の対象、もしくはそれに近い存在として扱われてはいたのでしょう。
ここで言う「歴代の足利将軍像がお祀りされていた」というのが、祀るという字面通り、本当に信仰対象として、配神もしくはそれに準じる御神霊の依代としてお祀りされていたのか、それとも、奉安場所が本殿ではなくあくまでも拝殿なので、単に御神宝や威儀物等に近いような位置付けでそこに奉納されていたのか、その点は不明ですが、歴代の足利将軍像がいずれも比較的綺麗な状態で現存しているらしい事から、兎も角、いろいろな人達の思いを受けながら時代を超えて大切にされてきたのは確かといえそうです。

そして大酉堂は、御祭神としてではないものの、前述のように、はっきりと尊氏が(具体的にどういった形でかは不明ですが、恐らくは神式ではなく仏式で)お祀りされていたようです。
御霊屋と大酉堂それぞれのかつての位置付けは、御霊屋が源氏の祖と歴代の足利将軍全員の霊廟、大酉堂が室町幕府初代将軍である尊氏個人の霊廟、という感じだったのかもしれませんね。

北朝の天皇・皇族・公家や、室町幕府の将軍・武将などをお祀りする社寺は、現在でこそ、その数はほぼ皆無に近いですが、明治時代よりも前の時代は、やはりもっとあったのでしょう。私は今回、鑁阿寺で、その名残を見る事が出来ました。
南朝の天皇・皇族・公家・武将をお祀りする社寺などは、それと反比例して、逆に明治時代以降に多くなったのではないかなと思います。


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高幡不動尊の上杉堂

私は先週、2泊3日の日程で、東京・熱海・浜松方面を旅行してきました。
東京では、いつも通り区内の神社・仏閣・史跡等をいくつかまわってきましたが、今回は区外の日野市にも足を伸ばし、同市高幡にある、関東三大不動のひとつ「高幡不動尊」も参拝・見学してきました。
ちなみに、一般に広く知られている高幡不動尊という名は通称で、寺院としての正式名称は「真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺」と云います。

日野は、江戸時代末期の京都や明治時代初期の戊辰戦争などで活躍し今も人気の高い、新選組副長・土方歳三の出身地としても有名なため、高幡不動尊も、歴史好きの人にとっては新選組関係のスポットとして知られており、実際、高幡不動尊境内には隊服姿の土方歳三の像が立っています。
実は私も個人的に土方歳三は結構好きで、過去には土方所縁の地を何か所も訪ねてもいます(具体的には、京都の壬生寺・西本願寺・金戒光明寺・旧八木邸・旧前川邸・池田屋事件跡・伏見奉行所跡、会津の鶴ヶ城・旧滝沢本陣・近藤勇の墓・清水屋旅館跡・会津新選組記念館、函館の五稜郭・土方歳三最期の地碑・土方歳三凾館記念館など)。

高幡不動尊の土方歳三像


しかし、今回の高幡不動尊参拝・境内散策で、特に私の目を引いたのは、正面に「上杉憲顕公墳」という篇額が掲げられている小さなお堂でした。「上杉堂」「上杉憲顕の墳」などとも称されているこのお堂は、その名が示すように、上杉憲顕という武将の墓所です。

高幡不動尊の上杉堂_1

高幡不動尊の上杉堂_2

一般に上杉憲顕というと、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍し、初代関東管領を務めた、山内上杉家の始祖となった上杉憲顕を思い浮かべる人が多いと思いますが、この上杉堂で祀られている上杉憲顕は、その憲顕とは同名の別人で、室町時代中期の、犬懸上杉家のほうの上杉憲顕です。
はっきり言うと、初代関東管領の上杉憲顕に比べるとかなりマイナーな人物で、しかも、この人物を漢字で表記する場合、大抵は「上杉憲秋」と表記される事のほうが多いので、同名二人の混同を防ぐため、この記事でも以降は憲秋と表記します。


憲秋に関しては、現在学校で習う日本史に於いては、当人よりもその父親であり関東管領も務めた上杉氏憲、通称・上杉禅秀のほうが名前を知られています。禅秀は、俗に云う「上杉禅秀の乱」という戦乱を起こした人物であるからです。
上杉禅秀の乱とは、簡潔にまとめると、犬懸上杉家の上杉禅秀が、主君である第4代鎌倉公方の足利持氏から関東管領を更迭され、自分とは対立関係にあった山内上杉家の上杉憲基が次の関東管領に任じられた事から、それを恨んで、足利持氏に対して起した反乱です。
挙兵した禅秀の軍勢は、一時は鎌倉を制圧下に置くなど善戦しますが、足利持氏と上杉憲基らはその直前に鎌倉の脱出に成功し、持氏は駿河の今川範政の元に逃れ、そこから幕府に援助を求めました。室町幕府第4代将軍 足利義持は、その求めに応じて持氏・憲基らを支持する事を決定し、禅秀討伐の軍勢を差し向け、これにより、駿河や相模などで、幕府・鎌倉公方・関東管領の連合軍と、前関東管領(禅秀)の軍が衝突します。
結果は、禅秀が敗北し、禅秀は鎌倉雪ノ下で自害し、この敗北から犬懸上杉家は没落しました。

憲秋はその禅秀の子で、上杉禅秀の乱では父に従って一軍を率いて足利持氏と戦いましたが、病のため途中で戦線を離脱して京都へと逃れたため、この戦乱では命を落とす事はありませんでした。
しかし関東ではその後、「享徳の乱」が勃発します。この乱は、第8代将軍 足利義政の時代に起こった関東地方に於ける大規模な内乱で、第5代鎌倉公方で後に初代古河公方となる足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を暗殺した事に端を発して、幕府、鎌倉公方(古河公方)、山内上杉家、扇谷上杉家などが争い、その戦火は関東地方一円に拡大し、関東に於ける戦国時代到来の遠因ともなりました。

憲秋は、その享徳の乱の初戦に於いて、足利成氏(憲秋にとっては、父の仇である持氏の子)を討伐するため、扇谷上杉家の上杉顕房や、長尾景仲らと共に転戦し、先陣も務めたものの、成氏の猛攻の前に立川河原で破れ、最期は深手を負って高幡寺に入り、そこで自刃して果てました。
憲秋のその最期の地が、現在の高幡不動尊で、高幡不動尊境内に憲秋の墓所である上杉堂が建っているのは、そういった経緯によるものです。

高幡不動尊の上杉堂_3

上杉堂の堂内中央に安置されている自然石は、「茶灌石」(ちゃそそぎいし)、「茶湯石」などと称され、憲秋の墓標とされています。
壁に立てかけられている沢山の塔婆、あちこちから吊るされている千羽鶴、壁や柱に貼られている多くの千社札、お供えされている綺麗な花、清掃が行き届いている様子など、堂内の現況からは、ここには今も信仰が根付いているんだなという事が感じられました。ただ、その信仰は、上杉憲秋という武将個人に対してというよりは、堂内の仏像や茶灌石に対してのものなのかなとも感じましたが。


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光厳天皇の髪塔

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪、京都、四国の高松方面を旅行してきました。
3日目の午前中は京都の嵯峨・嵐山地区を散策し、その際、先月8日の記事で報告したように嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という寺院を参拝・見学してきたのですが、宝筐院を見てきた後は、嵯峨野々宮町に鎮座する「野宮神社」(ののみやじんじゃ)も参拝してきました。

そして、野宮神社を参拝した後はJR嵯峨嵐山駅から京都方面行きの電車に乗ったのですが、野宮神社から嵯峨嵐山駅へ徒歩で移動中、天龍寺の山門(正門)や京福電鉄嵐山駅の直ぐ近くでたまたま見かけたのが、この「光厳天皇髪塔」です。
光厳天皇は、持明院統の後伏見天皇の第三皇子で、一般には、「北朝の初代天皇」と解されている天皇です。足利尊氏の後ろ盾を得て復権した後醍醐天皇が、光厳天皇を廃して重祚し、その後尊氏との抗争に敗れて吉野へと逃れた事によって、吉野の後醍醐天皇と、光厳上皇の院宣を受けて京都で即位していた光明天皇により南北朝の並立が始まる事から、そういった時系列を考査すると厳密には、光厳天皇ではなく光明天皇が北朝初代の天皇なのですが…。

光厳天皇髪塔_01
光厳天皇髪塔_02

光厳天皇は、鎌倉幕府によって隠岐島へと配流された後醍醐天皇が隠岐島から笠置へと出奔した事により、幕府に擁立されて、「三種の神器」無しで践祚されますが、後醍醐天皇の綸旨を受けて討幕のため挙兵した尊氏の軍勢が京都の六波羅探題を襲撃した際、探題北条仲時・北条時益らと共に東国へ逃れようとして近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。
そして、復権した後醍醐天皇により「天皇としては即位していなかったが特例として上皇待遇とする」とされて、即位の事実も否定されてしまいます。

しかし、後醍醐天皇と尊氏が決別した後は、光厳上皇は尊氏からの求めに応じて新田義貞追討の院宣を下すなどして尊氏と協調し、室町幕府が成立してからは「治天の君」として、幕府庇護の下、北朝で院政を行います。
ところが、南朝軍が京都を一時奪回した際に南朝側に拉致されてしまい、その後は南朝側の本拠地である吉野の賀名生で失意のうちに出家し、帰京を許された後は嵯峨小倉に隠凄し、世俗を断って禅宗に深く帰依します。その後、巡礼の旅に出て、法隆寺や高野山を経て再び吉野を訪れるなどし、最終的には京都の常照皇寺で崩御されました。
武家同士、朝廷内部、武家と朝廷間、それぞれの熾烈な派閥争いに否応なく巻き込まれ、南北朝動乱に翻弄される激動の人生を送られた天皇といえます…。

「光厳天皇髪塔」は、その光厳天皇の御遺髪が納めらている場所です。その名の通り本来は髪塔でしたが、いつの頃からか「塔」は無くなり、現在は「塚」となっています。
ちなみに、光厳天皇の陵墓は、崩御の地である京都市右京区京北井戸町の常照皇寺にあり、分骨所は、大阪府河内長野市天野町の金剛寺にあります。

なお、昨年4月20日の記事でも述べたように、室町時代から江戸時代中期頃までの約400年間は、現在とは異なり一般には北朝が正統と認識されており、室町時代半ばに後小松天皇の命により洞院満季が撰進した皇室系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、光厳天皇を始めとする北朝の天皇が正統な天皇として記され、北朝と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、歴代天皇としては認められていませんでした。
しかし、昨年5月4日の記事で解説したように、国定教科書の記述内容の是非をめぐって沸き起こった南北朝正閏論争により明治時代以降(今から約100年前から)は南朝が正統とされるようになり、そのため北朝は正統性が否定されて、そのまま現在に至っています。
とはいえ、北朝側の天皇も皇族である事には変わりありませんし、そもそも現在の皇室は、血統としては南朝ではなく北朝の系統でもあるので、北朝の正統性が否定されても「光厳天皇髪塔」は今も宮内庁の管理地となっており、また、宮中では現在も、光厳天皇を始めとする北朝側の天皇も皇霊殿(宮中三殿のひとつ)で、他の歴代天皇や皇族と共にお祀りされています。


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足利義詮と楠木正行の菩提寺である宝筐院を参拝してきました

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪・京都・高松方面を旅行してきました。3日目の午前中は、京都の嵯峨・嵐山地区を散策してきたのですが、その際、嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という、臨済宗系の単立寺院を参拝・見学してきました。

宝筐院_01

宝筐院_02

宝筐院は、境内にある庭園の景色が美しく、特に、初夏の新緑、晩秋から初冬にかけての紅葉、冬の雪景色などは大変美しいと評判ですが、私が行った時期は緑も紅葉も雪も無く、そのため季節的には「ちょっと微妙かも…」という感じでした。
そうであるにも拘らず、今回私があえて宝筐院に行ってきたのは、庭園の景色を楽しむためではなく、足利義詮のお墓と楠木正行の首塚をお参りするためだったからです。お墓参りをする分には、境内の景色は別に関係無いですからね。
宝筐院は、生前は敵同士であった、室町幕府第2代将軍 足利義詮のお墓と、南朝に仕えた楠木正行(名将・楠木正成の息子)の首塚が、仲良く並んで立っているお寺としても知られています。


宝筐院は、平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、南北朝時代に夢窓国師の高弟・黙庵周諭禅師が中興開山した寺院です。
その黙庵に帰依した足利義詮によって伽藍の整備が進められ、当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていたと記録されています。
その一方で、足利家とは敵対関係にあった楠木正行もまた黙庵に帰依していた事から、四條畷の戦いで正行が足利方の高師直・師泰兄弟に敗れて討死した後、正行の首級も黙庵によって同寺に葬られました。

義詮が没した後、宝筐院(当時の名は善入寺)は義詮の菩提寺となり、室町幕府歴代将軍の保護もあって大いに隆盛しました。最盛期には、備中や周防などにも寺領を構えていたそうです。
しかし応仁の乱以後、宝筐院は幕府の衰えと共に衰退していき、江戸時代には天龍寺末寺の小院となり、伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり、幕末には一旦廃寺となります。
その後、臨済宗天龍寺派管長の高木龍淵や、神戸の実業家 川崎芳太郎などによって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興(旧境内地の買い戻し、新築、古建築の移築、主な什物類の回収など)が行なわれ、廃寺から五十数年を経て復興されて、現在に至っています。


下の写真2枚は、本堂の正面全景と本堂内で、ここには木造十一面千手観世音菩薩立像が本尊としてお祀りされています。

宝筐院_03

宝筐院_05

そして本堂には、本尊とは別に正行の木造もお祀りされていました。
元々は義詮の菩提寺であり、宝筐院という寺名も義詮の院号である宝筐院から取られたものなのですが、大正期に復興されて以降の宝筐院は、義詮の菩提寺というよりは、正行の菩提寺である事のほうが強調されている感があります。

宝筐院_04


下の写真が、境内の一画に並んで立っている義詮のお墓と正行の首塚です。門と柵で囲われており、中央の門扉には、足利家と楠木家それぞれの家紋が描かれています。

宝筐院_06

宝筐院_07

下の写真の左側が、義詮のお墓と伝えられる三層石塔で、右側が、正行の首塚と伝えられる五輪石塔です。
生前は敵であった正行が宝筐院(当時の名は観林寺)に埋葬された事を知った義詮は、正行の人柄を褒め称え、「自分が死んだ後は、かねてより敬慕していた観林寺の楠木正行の墓の傍らに葬って貰いたい」と言い、その遺言に従って義詮のお墓は正行の首塚のすぐ隣に立てられたと伝えられています。

宝筐院_08

なお、今回の記事に添付した写真には写っていませんが、墓前にある石灯籠の書は、明治・大正期の文人画家 富岡鉄斎の揮毫で、そこに記されている「精忠」は、最も優れた忠を意味し、「碎徳」は、一片の徳、即ち敵将を褒め称えその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片に過ぎないという意味で、義詮の徳の大きさを褒めた言葉とされています。


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足利義満所縁の鹿苑寺を参拝してきました

私は今年の7月、2泊3日の日程で関西(京都・大阪・和歌山方面)を旅行し、旅行の2日目は、主に足利氏所縁の史跡や社寺等を中心に京都各地をまわってきました。
具体的には、2日目の午前中は、7月22日の記事で述べたように京都府亀岡市篠町に鎮座する篠村八幡宮や、7月28日の記事で述べたように京都市北区等持院北町に鎮座する等持院などへと行き、そしてその日の午後は、京都市北区金閣寺町に鎮座する、臨済宗相国寺派の相国寺山外塔頭「鹿苑寺」を参拝・見学してきました。今回の記事では、その鹿苑寺について、紹介をさせて頂きます。

改めて説明するまでもなく、鹿苑寺は、「金閣寺」という通称(世間一般ではこちらの名前のほうで知られています)と、世界遺産に登録されている事などで広く知られている寺院で、観光都市京都の中でも、昔から清水寺と双璧を成す“定番観光スポットの寺院”のひとつです。
私は、今から○○年前の高校時代(北海道内の高校に在学していました)に修学旅行で京都を訪れ、その時に一度鹿苑寺を見学しており、今回は、私にとってはその時以来、2回目の鹿苑寺訪問となりました。

鹿苑寺の創建は応永4年(1397年)、開山は夢窓疎石、開基は室町幕府三代将軍の足利義満で、鹿苑寺という寺名は、 義満の法号である鹿苑院殿に由来します。但し、鹿苑寺が寺院となったのは義満の死後で、義満の時代には、邸宅(北山山荘)として利用されていました。
邸宅とはいっても、日本の歴史上最大の権力者のひとりといえる義満の邸宅だったわけですから、勿論単なる私邸ではなく、その規模は御所にも匹敵する規模を誇っていました。
義満は、将軍として在職していた当時は、平成25年11月26日の記事で紹介した、足利将軍家の公邸である「花の御所」で政務を執っていましたが、将軍職を息子の義持に譲った後は、政治の実権は握ったまま、北山山荘(北山殿または北山第とも称されます)に移り、そこで引き続き政務を執っており、つまり、義満が将軍を引退してから没するまでの間は、この鹿苑寺に日本の政治中枢のほぼ全てが集約されていた、と言っても過言ではない状況にあったようです。

なお、鹿苑寺の概要については、下の写真の看板を御参照下さい(境内に立っていた看板です)。

鹿苑寺_00


以下の写真3枚は、私が撮影してきた鹿苑寺金閣で、正確には「舎利殿」という名の建物です。
鹿苑寺に於ける、寺院としての最も重要な建物は、御本尊の観音菩薩がお祀りされている「方丈」(他宗派で云う本堂に相当する建物)ですが、一般には、単に金閣寺と云う場合はこの建物を指す事が多く、この舎利殿が、鹿苑寺を最も代表・象徴する建物と広く認識されています。

鹿苑寺_01

鹿苑寺_02

鹿苑寺_03


以下の写真2枚は、私が撮影したものではありませんが、いずれも舎利殿の内部の様子です。
1枚目の写真は、ウィキペディアから借用したもので、「法水院」と称される一層目(1階)の内部です。この層は寝殿造で、中央には宝冠釈迦如来像が、向かって左には法体の足利義満坐像が安置されております。
2枚目の写真は、絵葉書からキャプチャした画像で、「潮音洞」と称される二層目(2階)の内部です。この層は武家造で、岩屋観音坐像と四天王像が安置されております。

鹿苑寺_04

鹿苑寺_05


以下の写真3枚は、鹿苑寺の境内で見学・撮影してきた、足利将軍所縁の遺跡です。

鹿苑寺_06

鹿苑寺_07

鹿苑寺_08


京都には時々行く機会がありますが(2年間、住んでもいましたが)、鹿苑寺に行く機会はなかなか無かったので、今夏、久々に鹿苑寺を参拝・見学する事が出来て良かったです。今度は、やはり○○年以来の訪問となる、銀閣にも是非行ってみたいです。

ちなみに、今回私が鹿苑寺の境内で撮影してきた写真は、別のブログとなりますが以下の記事にもアップしておりますので、宜しければこちらも是非御覧になって下さい。
http://shinbutsu.at.webry.info/201407/article_3.html


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天下分け目の合戦の舞台ともなった、東寺の不開門(あかずのもん)

先週、私は2泊3日で大阪・京都方面を旅行して来たのですが、その旅行の2日目、お昼過ぎ頃に、東寺真言宗総本山 教王護国寺を参拝・見学してきました。
ここは、平安時代初期の創建時から東寺(とうじ)の名で広く知られている、真言宗開祖の空海(弘法大師)が創建した名刹で(現在は教王護国寺が正式名称ですが、歴史的にはむしろ東寺のほうが公式名として定着していました)、真言宗の根本道場、国宝・重文など多数の貴重な文化財を所蔵する古刹、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されているお寺、京都のランドマークのひとつにもなっている日本一の高さ(54.8m)を誇る五重塔、21体の彫像により講堂内に構成される立体曼荼羅、京都観光や修学旅行の定番スポットのひとつ、などとしても有名なお寺です。

東寺の五重塔

私自身は、新幹線を利用して京都を訪れる事はほとんどありませんが、山陽・九州方面から新幹線を使って上洛する場合、京都駅に着く直前に車窓から東寺の壮麗な五重塔を見る事が出来るので、東寺(特に五重塔)を見ると、京都に帰って来た事、京都へ出張に来た事、京都に遊びに来た事などを実感するという人は、きっと多くおられるのではないかと思います。

私としても個人的に、東寺は以前から特に好きなお寺のひとつであり、過去にも何度か参拝・見学をしているのですが、ただ、前回私が東寺を訪ねてからもう十年は経っているので、今回は、懐かしくも少し新鮮な気持ちで東寺の境内を歩いてきました。
私は、東寺の中では講堂内の立体曼陀羅が最も好きで、勿論今回も見学してきましたが(講堂内は写真撮影禁止だったので残念ながら写真はありません)、このブログの性格から、今日の記事では、東寺の中では一般にはあまり注目される機会の少ない「東大門」を紹介させて頂きます。

東寺の東大門

鎌倉時代に建てられたと伝わる、東寺東側の大宮通に面しているこの東大門は、不開門(あかずのもん)とも称されており、その由来は、下の写真の看板で解説されている通りです。

東寺の東大門解説

以下の鉤括弧内(緑文字)は、東寺塔頭・宝菩提院住職の三浦俊良氏が著した「東寺の謎」(祥伝社黄金文庫)に掲載されている文章で、東大門が不開門と称されるようになった由来が更に詳しく解説されています。門前で起こった“天下分け目の合戦”についても、その前後の状況も含めて詳しく解説されており、とても参考になるので、少し長文になりますが以下に転載致します。


湊川の合戦で楠木軍が破れたという報せをきいて、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。
足利尊氏は都にはいると光厳上皇を迎え、弟の豊仁親王を擁立した。光明天皇である。
六月五日、尊氏はさらに兵をすすめ一挙に比叡山に向かった。弟直義は比叡山の寺町である西坂本に陣をおいた。対して比叡山を守備していた宮方の軍は新田義貞を総指揮官として、比叡山の僧兵も加わり足利軍と対峙した。

六月十四日、足利尊氏は光厳上皇を奉じて東寺にはいった。足利家の紋、丸に二引両の旗が、東寺の境内にたなびいた。東寺が総本陣となる。光厳上皇の御所は西院小子房、尊氏は千手観音菩薩が安置されている食堂に身をおいた。
(中略)
東寺は都城となった。四方を囲む築地の大土塀は城壁であった。境内には馬がつながれ、鎧姿の数千の軍兵であふれていた。北東に見える比叡山には、後醍醐天皇の本陣がおかれている。対峙するように東寺に足利尊氏は本陣をおいた。
(中略)
いま東寺は北朝の光明天皇の御所となり、比叡山は南朝の後醍醐天皇の御所となっていた。

六月十九日、新田義貞ひきいる宮方が反撃にでた。
六月二十日、足利軍が攻撃にでた。だが各所で敗退してしまう。やはり比叡山という山を味方につけた宮方が有利だった。山攻めは不利と見た足利尊氏は、体勢を整えて市街戦に勝敗をかけた。
六月三十日。この日、新田義貞は総攻撃をしかける。都の周囲、糺ノ森、賀茂川、桂川の西で両軍の激しい戦闘がおきた。
市街戦は東寺の北方でも勃発した。相ゆずらぬ攻防が繰り広げられた。東寺からも鬨の声にあわせて、武者の諸声が聞こえたことであろう。
新田義貞がめざすは足利尊氏がいる東寺であった。強靭な肉体に鎧をまとった二万の騎馬武者が、大宮通を東寺に向かった。名和長年ひきいる軍も猪熊通を東寺に向かってひた走った。

本陣、危うし。迎え討つ足利軍は東寺の門を開け、出撃していった。だが新田軍、名和軍ほか宮方勢は破竹の勢いで足利軍に迫った。東寺近くの六条大宮付近で両軍の激しい衝突がおこり、敵味方がみだれての攻防戦がつづいた。戦局は宮方勢にかたむきかけていた。
足利軍は苦戦をしいられた。退却するほかなかった。新田、名和軍に追われるようにして痛手をおった足利軍の武者たちが、ぞくぞくと東大門から境内になだれこんできた。
最後のひとりが境内に足を踏みいれたとき東大門は閉ざされた。その戸をめがけて、なんすじもの矢が打ちこまれた。それほどにあやうい瞬間であった。

約二万の新田、名和軍は東寺を取り囲んだ。そして宮方の総指揮官、新田義貞が門前から足利尊氏に一騎打ちを挑んだ。しかし、東大門は閉じられたまま、開くことはなかった。以来、この門を「不開門」(あけずのもん)という。
いまも不開門に残る、なんすじもの矢の痕が、このときの戦闘の凄まじさを物語っている。

さて戦局は一転して足利軍が有利となる。各所で市街戦を繰り広げていた足利勢が大挙して東寺をとり囲む宮方勢に攻めいり、ついに名和長年が討ち死にする。宮方勢は退却をよぎなくされた。
この戦いをもって両軍の明暗ははっきりとする。七月、八月と宮方勢の反撃がおこなわれるが、ことごとく失敗におわる。のちに東寺をめぐっておこなわれた戦闘が「天下分け目の合戦」といわれるゆえんである。
(中略)
天下分け目の合戦を制した足利軍が、つぎの世をとることになる。


下の絵図は、埼玉県立歴史と民俗の博物館が所蔵している「東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞」の図です。尊氏が本陣を構えた東寺(右・手前側)には、足利家の紋が入った幕や幟が棚引いております。
ここで義貞は東寺に矢文を放って尊氏に一騎打ちを呼び掛け、その挑発に対して尊氏はいきり立って「望むところだ」と腰をあげるものの、近臣から諌められて誘いに乗らなかった、とも伝えられています。

東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞

後に、室町幕府最後の将軍・足利義昭を伴って上洛した織田信長も、尊氏の先例に倣って東寺に本陣を置きました。
ちなみに、昨年3月11日の記事の後段でも紹介しましたが、東寺では平成20年に、尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要を厳修しています。


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阿部野神社と北畠親房・北畠顕家

先週、1泊2日で、大阪・堺方面を旅行して来た際、大阪市阿倍野区北畠の閑静な住宅街の一画に鎮座する阿部野神社を参拝・見学してきました。
この神社は、南北朝時代に南朝の有力な公卿・武将として活躍をした北畠親房(きたばたけちかふさ)と、その子の顕家(あきいえ)の二柱を御祭神としてお祀りする神社で、南北朝時代に強い関心を抱いている私としては、以前から一度訪れてみたい神社のうちの一社でした。

ちなみに同神社は、今年1月20日の記事で詳しく紹介した、建武の新政に尽力した天皇・皇子・公家・武将等をお祀りする神社によって平成4年に結成された「建武中興十五社会」に所属しており、また、それとは別に、近畿を中心とした121の社寺により平成20年に結成された「神仏霊場会」(その後151の社寺に拡大)にも所属しています。

以下の写真4枚は、いずれも私が今回の参拝・見学の際に撮影してきた、阿部野神社の境内と社殿の様子です。
職員が沢山いるような雰囲気の神社ではありませんでしたが、その割には境内の掃除は行き届いており、全体的に綺麗に整備されている神社でした。

阿部野神社_01

阿部野神社_02

阿部野神社_03

阿部野神社_04


以下の鉤括弧内(緑文字)は、阿部野神社で頂いてきた、同神社の由緒略記に書かれている「御祭神の由緒」です。北畠親房・顕家親子の経歴や功績などがまとめられています。

北畠親房公は、第六十二代村上天皇の皇子、具平親王の子息である師房が源の姓を賜ったことに始まる村上源氏の血筋を引く方でございます。
親房公は、当時の学識の高い貴族である吉田定房・万手小路宣房と並び「後の三房」と称された一人です。
また後醍醐天皇の皇子である世良親王の養育係を仰せつかったことからも、殊に天皇のご信任が厚かったといわれております。
建武の新政下では、鎮守府将軍となった御長子の顕家公と共に義良親王を奉じて奥州へ下向されます。その後、足利尊氏謀叛による二度目の京都攻めのため、後醍醐天皇が吉野御潜幸をされると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力されました。
後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論の一つである「神皇正統記」を著し、それ以外にも「職原抄」・「二十一社記」などを著して官職の本義や神社の意義を明らかにされました。
厳しい戦況下にあって親房公は、我が国の歴史と伝統を明らかにして、大義を説き、道義を教えた数多くの著述は、後世の人々に深い感動を与え、日本思想史上に大きな足跡を残しました。
興国四年(一三四三)、親房公は吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、一度は京都を回復しましたが、再び京都を脱出して賀名生にうつられました。その後も国家中興に挺身されましたが、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられました。御年六十二歳でした。

北畠顕家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三三三)八月、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、同十月、父親房公と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、陸奥はたちまちにその威風に靡きました。
延元元年(一三三六)、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功いたします。この功績により顕家公は鎮守府大将軍の号を賜ることになり、再び奥州に戻られました。
しかし、勢力を盛り返した尊氏が、兵庫の湊川で楠木正成公を破って京都を占領し、後醍醐天皇が吉野に御潜幸されると、延元三年(一三三八)京都回復のため精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し、鎌倉を落としたあと、美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いにおいては北朝方を破りましたが、同年三月十六日、摂津での戦いに惜しくも敗れられてしまい、顕家公は一時撤退を余儀なくされ、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠りました。
やがて五月十六日、賊将高師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、顕家公率いる官軍は進撃して、数刻にわたり激戦を繰りかえしました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げる結果となってしまったのです。御年二十一歳でございました。

また、顕家公は戦死される一週間前に、後醍醐天皇へ「上奏文」を送っておられます。その内容は
一 地方機関を通じて非常時に備えること
一 諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること
一 官爵登用を重んじること
一 公卿や僧侶の朝恩を定めること
一 臨時の行幸及び宴飲をやめること
一 法令を厳にすべきこと
一 政道に益無き愚直の輩を除くこと
の七箇条から成ります。
この「上奏文」は、顕家公の卓越した政治理念を知ることのできる資料として今日に至るまで高く評価されております。


北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」という言葉で始まる、親房の代表的な著書である神皇正統記をまず連想する方も多いのではないかと思いますが、この「御祭神の由緒」の中でも、やはり神皇正統記について触れられています。あくまでも“触れられている”というだけで、特に詳しい解説はありませんが。
江戸時代になってから水戸学と結びついた神皇正統記は、明治以降の皇国史観にも強い影響を与えており、その件についてはいずれこのブログでも、改めて詳しく取り上げてみたいと思っております。

そして、この「御祭神の由緒」を一読して、私が「やはりな」と思ったのは、楠木正成に対しては「公」という敬称が付けられ「楠木正成公」と称しているのに対して、高師直に対しては、わざわざ名前の前に「賊将」という言葉を付けた上で「賊将高師直」と呼び捨てにしている事です。このあたりは、当然の事ながら、この神社はやはり南朝史観の立場に立っているのだなという事を実感させられます。
ただ、その割には「建武の中興」ではなく「建武の新政」と書いていたり、また、高師直が賊将であるならその親玉である足利尊氏も当然賊将になるわけですが、尊氏に対しては、謀反を起こした、という程度の説明しかなく、特に必要以上に貶めるような記述は無いので、南朝の公卿・武将をお祀りする神社としての公の立場は堅持しつつも、意外と冷静な態度をとっているのかなとも感じました(あくまでも私が勝手にそう感じただけです)。


ところで、どうしてこの地に北畠父子をお祀りする神社が創建されたのかというと、それは、当地が北畠顕家が足利軍と戦った古戦場の近くであり、その近隣(現在の阿部野神社の御旅所)には顕家のお墓として伝えられている墓碑があった事に由来します。
顕家の墓所の存在がきっかけとなって、明治11年2月、近隣住民より、顕家をお祀りする神社を創建しようという運動が起こり、当時の政府もこれを受けて明治14年1月、御祭神を北畠顕家とその父である親房の両神とする事を決定したのです。
下の画像は、その顕家の肖像画です。いかにも“武装した青年公卿”という感じの、なかなか優雅な出で立ちです。

北畠顕家

つまり、阿部野神社の御祭神の序列としてはまず父親である北畠親房、次いで息子の北畠顕家、という順なのですが、神社創建のきっかけとなったのは親房ではなく顕家の故事であり、親房は、顕家の父親であった事から結果的に一緒にお祀りされる事になった、といえます。
こういった経緯を経て、明治15年1月24日、同神社は阿部野神社と号して別格官幣社に列せられ、同18年5月28日に創立され、同23年3月31日に鎮座祭が斎行されました。ちなみに、平成2年には、神社の御鎮座百年祭が行われました。

社殿は、昭和20年3月の空襲で一旦焼失しましたが、その後再建され、現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。
春季大祭は顕家の忌日に当たる5月22日、秋季大祭は親房の忌日に当たる10月18日で、現在、同神社の両御祭神は、勇気の神、知恵の神、学問の神として多くの崇敬を集めています。
下の写真は、阿部野神社の境内に立てられている「北畠顕家公像」と、その像の台座脇に立つ、顕家を称える歌詞の看板です。ちなみに、私が見た限り、境内に親房の像は無いようでした。

阿部野神社_05

阿部野神社_06


ところで、平成3年に放送されたNHK大河ドラマ「太平記」では、北畠親房役を近藤正臣さんが、顕家役を後藤久美子さんが演じていました。
顕家は美少年であったと云われている事から、当時“国民的美少女”と持て囃されていた女性アイドルの後藤久美子さんが顕家役に抜擢されたようですが、男性の役を女性が演じるというこのキャスティングには、私は昔も今も疑問を感じています。

北畠親房・顕家(大河ドラマ太平記)

何年か前、たまたまテレビで見たバラエティ番組の中で、昭和53年から55年にかけて放送された、堺正章さん主演のテレビドラマ「西遊記」の事が話題になっていたのですが、その番組の中である芸人さんが、三蔵法師は本当に美しい女性だ、あのドラマを見ていた当時の自分は三蔵法師に惚れていた、といった内容の発言をし、周りの芸人さん達から、「いや、本当の三蔵法師は男だから!」と突っ込まれて、その芸人さんが「えぇっ!そうだったの!」と驚くシーンがありました。ドラマの中では三蔵法師の役は女優の夏目雅子さんが演じていたため、実在もしくは原作に登場する三蔵法師も女性なのであろうとずっと誤解をしていたようでした。
こういった無用な誤解を招く事もありますし、誤解まではしなくても元の人物に対してイメージがかなり改変されてしまう(無意識のうちに勝手に中性的な人物だったのだろうと思い込んでしまう)事もあるので、宝塚歌劇のような例外を除くと、元の人物とその人物を演じる役者の性別はやはり一致させるべきだと思います。


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