この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

神社仏閣・史跡探訪

京都にある史跡「足利義輝邸跡」と、義輝の壮絶な最期

本年の8月下旬、所用により、2泊3日の日程で関西に行ってきました。
主に京都・大阪・神戸を回ってきたのですが、京都では私一人だけで行動する時間が少しあったので、その際に、以前から一度訪れてみたいと思っていた、地下鉄烏丸線 丸太町駅の直ぐ近くにある「足利義輝邸跡」を、サクっと一人で見学してきました。

足利義輝邸跡_01

ここは、現在は「平安女学院」という学校の京都キャンパス(同学院の大学・高校・中学校・学院本部などが置かれています)の敷地の一部で、かつて義輝邸があった事などを示す石柱がただ立っているだけで、当時の面影は微塵もありませんが(そもそも室町幕府や足利将軍家関係の史跡は、金閣・銀閣・相国寺等持院などの一部を除くと、大抵はどこも往事の面影など全くありませんが)、かつてはこの地に、室町幕府第13代将軍の足利義輝が屋敷を構え、この地で将軍として政務を執っていました。

足利義輝邸跡_02

義輝は、近年は「剣豪将軍」として知られており、実際、室町幕府に限らず我が国の歴史に登場する歴代の征夷大将軍の中では、一個人が持つ剣技としては間違い無く最強の人物であったと私も思っていますが(一説によると義輝は、剣聖と称された塚原卜伝から指導を受けた直弟子のひとりで、その卜伝から奥義「一之太刀」を伝授された、とも云われています)、ここは、その義輝が壮絶な最期を遂げた場所でもあります。

足利義輝邸跡_03

義輝の最期は、いくつかの異説はあるものの一般には、概ね以下のようであったと伝えられています。但し、これについても、江戸時代後期以降に創作された武勇伝であるという説もありますが。

松永久秀と三好三人衆らは、邪魔な存在となった将軍・義輝を弑逆すべく、約1万の軍勢で義輝の屋敷を襲撃しますが、剣豪レベルにまで鍛えまくっていた義輝は自身で直接刀や薙刀を振るい、屋敷の中に入り込んできた軍勢を次々と斬り殺し、血や脂が付いて切れ味が悪くなると、自身の周囲の畳などにぶっ刺した予備の刀を握りしめてまた戦うなどしたため、松永勢はいつまで経っても義輝一人を討ち取る事が出来ませんでした。そこで、最後は四方から一斉に畳を義輝に覆い被せ、それらの畳の上から一斉に突き刺して義輝を殺害しました。

他にも、「大勢の槍刀によって傷ついて地面に伏せた義輝を、一斉に襲いかかって殺害した」とか、「槍で足を払われた義輝が倒れたところを、上から刺し殺した」とか、「義輝は自ら薙刀や刀で戦った後、自害した」などとも云われておりますが、兎も角、壮絶な最期だった事は間違いないようです。

ただ、義輝のこの壮絶な最期は、武勇伝として「剣豪将軍」の名を大いに高めはしましたが、一介の武士としてなら兎も角、全国の大名達を率いる征夷大将軍としては決して賞賛されるべき最期ではなく、武家の棟梁であるはずの将軍の権威が完全に失墜した事を全国に強く印象付ける事件となりました。


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護良親王をお祀りする鎌倉宮を参拝してきました

前回の記事で述べたように、私は昨年11月の下旬、1泊2日の日程で鎌倉方面を旅行し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参拝し、同宮境内にある鎌倉国宝館も見学してきました。
今回の記事では、その鎌倉国宝館を見た後に私が参拝・見学してきた、鎌倉市二階堂に鎮座する「鎌倉宮」という神社と、その鎌倉宮で御祭神としてお祀りされている護良親王(大塔宮)について書かせて頂きます。

護良親王(大塔宮)は、建武の新政(建武の中興)を行った事で有名な後醍醐天皇の皇子で、非常に武勇に優れていたため皇子の御身でありながら自ら指揮官として戦場で直接軍勢を率い、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げた事で知られています。
ちなみに、護良は「モリナガ」もしくは「モリヨシ」と読み、大塔宮は「オオトオノミヤ」もしくは「ダイトウノミヤ」と読みます。書物によってフリガナが異なり、現在に於いては読み方が統一されていないのです。

鎌倉宮案内看板

鎌倉幕府を倒し、非情に短い期間ではありましたが一時的に武家から天皇中心の社会へと復帰させる事(建武の新政)に貢献したその護良親王の功績を称え、明治2年2月、明治天皇が護良親王をお祀りする神社の造営を命じられ、同年7月、鎌倉宮の社号が下賜され、同月、護良親王が非業の最期を遂げられた東光寺跡の現在地に社殿が造営され、現在に至っています。

鎌倉宮_01

鎌倉宮_02

鎌倉宮_03


以下の二重鉤括弧内の緑文字は、私がこの時鎌倉宮で入手した「御祭神 護良親王御事蹟」というタイトルの冊子の、「鎌倉宮御由緒」のページに記されていた全文です。御祭神である護良親王の経歴が簡潔にまとめられています。

七百年の昔、鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮された後醍醐天皇は倒幕を志されたが叶わず、かえって隠岐島へ遠流の御身となられました。
後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮尊雲法親王は比叡山延暦寺の天台座主にましまし、幼少より英明にして勇猛をもって知られ、この危機に御自ら鎧兜に身を固め、鎌倉幕府の大軍を迎え撃たれました。

還俗して護良親王と名乗られた大塔宮は、多勢に無難、また険しい山野にあって数々の厳しい困難を、機知と豪胆をもって切り抜けつつ、各地へ鎌倉幕府追討の令旨を発し、これに応じた楠木正成、新田義貞らのめざましい働きにより幕府を打倒、見事に建武の中興を成し遂げられ、その抜群の勲功により征夷大将軍、兵部卿に任ぜられたのです。

しかし、足利尊氏が自ら将軍として幕府を開く野心を持っていることに早くから警戒心を抱かれておられた親王は、かえって尊氏の陰謀の為に無実の罪を着せられ、建武元年十一月、尊氏の弟・直義により鎌倉二階堂谷の東光寺の土牢に幽閉の御身となられました。
翌建武二年七月、北条高時の遺児・時行が鎌倉に攻めこんだ戦(中先代の乱)に敗れた直義は逃れ去る途次、親王を恐れる余り淵辺伊賀守義博に親王の暗殺を密命しました。親王は九ヶ月に幽閉されていた御身では戦うこともままならず、その苦闘の生涯を閉じられました。

明治二年、明治天皇は維新の大業が結ばれたのは、護良親王の御先徳によるものとして、その御功業を深く追慕敬仰され、勅命によって宮号と鎌倉宮と定め、ご終焉の地であるここ鎌倉二階堂の地に御社殿を造営、永く親王の御霊を祀られたのです。


というわけで、護良親王をお祀りする神社としての立場から記され文章なので、当然の如く、護良親王は絶対的に「正義」で、親王と敵対した尊氏は「悪」、という二元論に基づいて書かれています。
現実の情勢は、そのような単純な二元論で語れるものではなく、もっと複雑だったわけですが、ただ、鎌倉幕府が倒された事については、この鎌倉宮御由緒で書かれている通り、護良親王に抜群の勲功があった事は間違い有りません。

以下の文章は、『渡部昇一の中世史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』という本(PHP研究所刊)からの抜粋で、この中でも、鎌倉幕府を倒して建武政権を樹立した最大の功労者は護良親王であると述べられています。

建武の中興に最も功績があったのは誰だろうか。先ず大塔宮護良親王である。この親王が笠置落城後も屈せずに諸国の武士に令旨を出したから武士が動きだしたのである。
次に楠木正成である。大軍を動員しながら北條方がしばしば楠木軍に破られ、しかも千剱破城をついに落とせなかったことは、武力を拠り所にする幕府の決定的イメージ・ダウンになった。ベトナム戦争の時のアメリカみたいなものである。
第三に赤松円心がいる。彼は大塔宮の令旨を受けるや直ちに挙兵し、まっしぐらに京都に攻めのぼった。そして円心の軍が名越高家を殺したのをきっかけに、足利尊氏も北條に叛く決心をするのである。
第四は新田義貞である。彼は千剱破城で楠木正成を攻めていたが、この小城がいつまでも落ちないので北條幕府を見限った。それで家臣の船田義昌に命じて、大塔宮からひそかに幕府討伐の令旨を得た。それで病気と称して本国に帰ってしまったのである。そして幕府討伐の計画をひそかに立てていた。

(中略)
足利尊氏の功績は、前に上げた四人にくらべれば断然見劣りがする。新田義貞が鎌倉を落とした上に、楠木正成が頑張り、赤松円心が奮戦し、その上に大塔宮がいたのだから、足利尊氏はぐずぐずしておれば討伐されたのである。それはすでに根を失った軍勢だったのだ。

渡部さんのこの見解には、私もほぼ納得です。鎌倉幕府倒幕の最大の功績者を護良親王と考えるか、それとも楠木正成と考えるかについては、人によって見解が分かれる所だと思いますが、兎も角、護良親王と正成の両人が第一もしくは第二の軍功であった事はほぼ間違いなく、その二人に果たした役割に比べると、尊氏の功績は然程大したものではなかったと言えます。
もっとも現実には、足利氏の出自の良さなどから、朝廷は尊氏を武功の第一としたわけで、そこがまた複雑な所ではありますが。まぁ、複雑というよりは、単に「建武政権の行った論功行賞が滅茶苦茶なだけだった」とも言えますが…。


ところで、前出の鎌倉宮御由緒では、鎌倉宮としての立場から護良親王を賛美しているのは当然として、親王の御父である後醍醐天皇についても、「鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮され」と書かれていて、国や民の事を深く思っていた天皇として描かれています。
物事にはいろいろな見方があるので、私としては別にそういった「後醍醐天皇は大変素晴らしい!」といった見方をここで特に否定しようとは思いませんが、しかし、護良親王が失脚し幽閉の御身となった事については、そもそもその後醍醐天皇が了解されたからこそ実行された、というのも事実です。

自分がこれから捕らわれるという事を全く知らずに参内した護良親王は、突然、御所の一画で武者所の武士数十人に囲まれその場で捕らわれてしまったわけですが、その武士達をその場で指揮していたのは、後醍醐天皇側近の武士である名和長年と結城親光であると云われており、護良親王はその二人の姿を見た時に、天皇の意思をはっきりと知って愕然とされたのではないでしょうか。

護良親王の失脚について、梅松論では以下のような見方をしています。
大塔宮の謀反は天皇の命令によるものであるが、天皇はその罪を大塔宮に着せたのである。大塔宮は鎌倉へ捕らわれの身となって送られて、二階堂の薬師堂の谷に幽閉されてからは、足利尊氏よりも天皇のなされ方がうらめしいとひとりごとをいっていたということである。

尊氏と護良親王が対立していたのは確かですから、護良親王の失脚に尊氏の思惑が深く関わっていた(尊氏側の計略により捕らえられた)事は事実でしょうが、尊氏のみならず、後醍醐天皇の意思も明確にそこに含まれていた事もまた事実でしょうから、そういった意味では、信頼していた実父にも見捨てられた護良親王は本当に気の毒過ぎる、と言えます…。


下の写真は、鎌倉宮境内の宝物殿に展示されていた、明治22年に作られたらしい「護良親王馬上像」です。甲冑を御身にまとって馬にまたがる、凛々しい護良親王の姿が表現されています。

護良親王馬上像


以下の写真は、拝殿前から鎌倉宮本殿をお参りした後に私が見学してきた、本殿後方にある岩窟です。護良親王が凡そ9ヶ月間幽閉されていたと伝わる土牢(護良親王最期の地)を復元したものです。

鎌倉宮 土牢_01

鎌倉宮 土牢_02

鎌倉宮 土牢_03

鎌倉宮 土牢_04


ちなみに、鎌倉宮は、平成26年1月20日の記事で紹介した、南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする神社15社により構成されている「建武中興十五社」のうちの一社で、旧社格(明治維新の後制定され、終戦直後の神道指令によって廃止された、神社としてのランクを表わす制度)では「官幣中社」とされていました。
神社神道系の包括宗教法人としては最大規模で、現在全国の大半の神社が所属している「神社本庁」には、本庁の設立時より入っていない、単立の神社でもあります。


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鎌倉国宝館で、鎌倉公方所縁の史料を見学してきました

先月2日の記事では、鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある鎌倉市立博物館「鎌倉国宝館」で、 鎌倉国宝館(鎌倉市教育委員会)の主催により「鎌倉公方 足利基氏 ―新たなる東国の王とゆかりの寺社―」と題された特別展が開催されているという事を紹介しましたが、私は先月下旬、鎌倉に行ってその特別展を観てきました!

私は鎌倉から遙か遠く離れた北海道に住んでいて、しかもこの時期は年末に向けて仕事も忙しくなってきているため、当初は、多分観に行く事は出来ないだろうと半分諦めていたのですが、幸いにも先月下旬、休みを確保する事が出来、しかも、ANAのマイレージを確認すると、札幌(新千歳空港)~東京(羽田空港)間を一往復できる分のマイルも貯まっていたので、今回はそのマイルを全部使って、実質タダで鎌倉まで行って帰って来る事が出来ました♪


鎌倉に着いた私は、先ずは、鶴岡八幡宮を参拝してきました。
鶴岡八幡宮は、言わずもがなですが、源氏一門の氏神、鎌倉武士達の守護神として、鎌倉幕府の精神的な中心地でもあり、鎌倉幕府と非常に深い関わりがあったお宮ですが、勿論、室町幕府や、鎌倉府(関東公方や関東管領)とも深い関係があったお宮です。
関東から遠く離れた京都に幕府を開いた足利氏は、関東との関係を強めるため、鎌倉幕府同様、鶴岡八幡宮を崇敬し、関東管領の下に、神社行政を取り扱う社家奉行とは別に鶴岡惣奉行も設置するなどしています。

もっとも、歴史的には室町時代の出来事よりも、鎌倉時代に起こったいくつかの出来事、具体的には、義経の一味として捕らえられた静御前が頼朝の求めに応じて舞を舞った場所である事や、鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が公暁に暗殺された現場となった事などで、一般には広く知られているお宮です。
ちなみに、鶴岡八幡宮の旧社格(神社としてのランク)は国幣中社で、全国の八幡宮や八幡神社の中では特に知名度が高い事から、近年では「三大八幡宮」のひとつに同宮を含める事もあるそうです。

鶴岡八幡宮


その鶴岡八幡宮をお参りした後、私は、今回の1泊2日の鎌倉旅行の主目的地である、同宮境内にある鎌倉国宝館に行ってきました。
ここでは、特別展「鎌倉公方 足利基氏 ―新たなる東国の王とゆかりの寺社―」と、平常展示「鎌倉の仏像」を、じっくりと観賞してきました。特別展で展示されていた史料の多くは古文書でしたが、どれも興味深い内容で面白かったです。

ちなみに、館内は写真撮影禁止だったため、館内や展示物の写真は撮っておりません。以下の2枚はいずれも、鎌倉国宝館の建物外観の写真です。

鎌倉国宝館_01

鎌倉国宝館_02


鎌倉国宝館の展示を見終えた後、館内の窓口(ミュージアムショップといえる程の規模はありませんでしたが)で、下の写真に写っている2冊の図録を買ってきました。特別展「北条時頼とその時代」は、平成25年に開催されていたそうです。

鎌倉国宝館で買った書籍

ちなみに、今回の特別展「鎌倉公方 足利基氏」の図録は、今回の特別展開催までには完成が間に合わなかったとの事ですが、年内には完成するそうなので、窓口で購入を予約してきました。完成次第、送料無料で各予約者へ郵送してくれるそうです。到着が楽しみです!
今回は、久々に鎌倉へ行けて良かったです♪


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遠野南部氏所縁の南部神社を参拝してきました

私は今月の上旬、2泊3日の日程で、岩手県を旅行してきました。
今回は主に、岩手県太平洋岸の三陸海岸(久慈から釜石にかけて)と、同県内陸の遠野を中心に見て回り、遠野市内では、“日本の民俗学の父”と称される柳田國男の代表作のひとつとして知られる「遠野物語」所縁の各スポットを見学してきました。

そして、遠野物語とは特に深い関わりがある所ではありませんが、私が宿泊したホテルのたまたま直ぐ隣に「南部神社」と刻字された社号標の立っている神社が鎮座していたので、その南部神社も、参拝・見学してきました。
安土桃山時代から江戸時代までは鍋倉城という山城(遠野南部氏の居城)があったのですが、南部神社は、その城跡に造られた鍋倉公園に鎮座しておりました。

南部神社_01

南部神社_02

南部神社_03

南部神社_04

南部神社_05

南部神社_06


南部神社へは旅行前に事前に調べて行ったわけではなかったので、現地で初めてその事を知りちょっと驚いたのですが、実はこの神社は、私が日頃から特に興味・関心を抱いている鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての時期と、とても深い関わりがある神社でした。
とはいっても、このこの南部神社が創建されたのは近代(明治15年)であり、別に、鎌倉時代や南北朝時代に創建された神社というわけではありません。

では、何がその時代と深い関係があるのかというと、この神社でお祀りされている御祭神が、その時期に活躍した武将達なのです。具体的に言うと、南朝に仕え後に「勤王八世」と称されるようになった、南部実長命、南部実継命、南部長継命、南部師行命、南部政長命、南部信政命、南部信光命、南部政光命の、遠野南部氏8柱を御祭神としてお祀りしているのです。
ちなみに、神社の創建当初は「勤王五世」と称された5柱をお祀りしていたそうですが、昭和34年に南部三公を合祀して、合せて「勤王八世」と称する事にしたようです。

南部氏は、元々は、源義家の弟・新羅三郎義光を祖とする、甲斐源氏の一門で、甲斐国の巨摩郡南部六郷を所領した事から南部姓を名乗るようになりました。その南部氏の庶家が、鎌倉時代後期に陸奥の糠部(ぬかのぶ)地方に所領を得て、陸奥に下向し土着したのが奥州南部氏の始まりで、南北朝時代になると、当初は南朝方として参戦しますが、南朝が衰退すると、南部氏もその多くは南朝を見限り、北朝・室町幕府に帰順するようになります。
しかし、前出の「勤王八世」と云われる遠野南部氏だけは、そのような情勢下にあっても北朝・幕府に帰順する事なく、最後まで南朝を支え続けました。
以下に、その8柱の御祭神の、生前の経歴をまとめてみます。


【初代】 南部実長 (さねなが)
清和源氏新羅三郎義光六世の孫。鎌倉時代中期の御家人。
鎌倉幕府に勤番中、鎌倉で日蓮による辻説法を聞いて深く感銘し、日蓮に帰依し、所領を身延山に寄進するなどして現在の身延山の基を作りました。自らも出家し、法寂院日円と号しました。

【2代】 南部実継 (さねつぐ)
初代・実長の子。鎌倉時代末期の武士。父の代理として身延山の工事にも従事しました。
1331年、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動「元弘の変」が起こると、実継は、当時としては老齢の六十余歳の身ながら後醍醐天皇方として参戦し、護良親王や尊良親王に随従して赤坂城に篭城しました。実継は奮戦しましたが、鎌倉幕府の大軍に攻められて赤坂城は落城し、尊良親王と共に捕らえられ、親王は土佐に流されましたが実継は京都の六条河原で斬首されました。

【3代】 南部長継 (ながつぐ)
2代・実継の子。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武士。
1326年、奥州で安藤氏が謀反を起こした際に、鎌倉幕府の命により、その謀反を討伐するために戦い、戦功大なりと伝わっています。
1330年、父・実継の命により上洛し、護良親王を奉じて楠木正成の麾下となり、鎌倉幕府討幕のため戦いました。
1335年、中先代の乱勃発に乗じて足利直義の配下に護良親王が殺害されると、長継は若宮の子・興良親王を奉じて後醍醐天皇方として足利方と戦いますが、1352年、その興良親王は、足利方に寝返った赤松則祐と摂津国の甲山の麓において戦うも敗れ、長継はこの戦いで戦死したと云われています。

【4代】 南部師行 (もろゆき)
3代・長継の妹の子で、鎌倉幕府の御内人だった南部政行の子。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の挙兵が起こると、師行は一族に倒幕の利を説いて後醍醐天皇の綸旨に呼応し、新田義貞が幕府に反して挙兵し鎌倉を攻めると、弟(5代)の政長と共にこれに従軍して武功を挙げ、鎌倉陥落に貢献しました。同年、後醍醐天皇によって建武の新政が始まると、師行は京都にとどまって武者所に任命され、南部家は一族で名を挙げる事に成功しました。
1334年、鎮守府将軍として奥州平定を命じられた北畠顕家が、義長親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向すると、師行もこれに随行して陸奥へ下り、糠部(ぬかのぶ)郡の目代や鹿角(かづの)郡の地頭に任命されるなど顕家政権下で重用され、八戸に入って根城を築いて主に陸奥北部方面の支配を担当しました。
1337年、顕家に従って足利尊氏討伐軍として京都に進軍し、各地で戦功を挙げるものの、1338年、阿部野で敗れ、和泉国の石津で顕家と共に戦死しました。
明治29年、師行は南朝への忠義を讃えられて正五位を追贈され、明治30年には、その子孫であり当時士族とされていた遠野南部氏当主の南部行義に、特旨を以て男爵が授けられました。

【5代】 南部政長 (まさなが)
4代・師行の弟。南北朝時代に活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げ、鎌倉幕府方の新田義貞がそれに呼応して天皇方に寝返ると、政長は上野国で義貞と合流して鎌倉攻めに参戦し、殊勲を立てました。
1335年、足利尊氏が後醍醐天皇から離反した際も、義貞と共に後醍醐天皇方に与し、鎮守府将軍として奥州に下向してきた北畠顕家と共に奥州の南朝軍として奮戦しました。
南部家は、奥州では有力国人として勢力を持っていたため、足利直義や高師直などは政長に対して何度も北朝・室町幕府への帰順を申し入れますが、政長はこれを拒絶して南朝支持の立場を一貫し、幕府方に付く諸将が次第に増えていく中、数少ない南朝方の武将として各地を転戦し、南朝の後村上天皇からは恩賞として太刀と甲冑を賜っています。
明治41年には、宮内省から、その功績を讃えられて正五位を追贈されました。

【6代】 南部信政 (のぶまさ)
5代・政長の子。南北朝時代の武将。
1335年、父政長に代わって北畠顕家の西上軍と行動を共にし、敵将である足利尊氏を遠く九州に敗走させる事に功績があり、後醍醐天皇より感状を賜りました。
1345年、北畠顕信に推挙され右近蔵人となり、吉野の南朝に上がって達智門女院に仕え、1348年、四條畷の戦いで高師直軍と戦い戦死したと云われています。

【7代】 南部信光 (のぶみつ)
6代・信政の子。南北朝時代の武将。
それまで奥州で南朝軍の主力だった伊達家が北朝・室町幕府に降り、奥州の南朝勢力は衰退に向い、逆に、幕府による奥州支配が徐々に確立されつつあった時期に、南朝に与して奥州を転戦し続け、1361年、後村上天皇は信光とその一族に、戦功嘉賞の綸旨を下されました。
1367年、正月恒例の年賀の挨拶のため、一族がいる甲斐国の波木井城にいたところ、幕府方の神大和守(かんのやまとのかみ)の軍勢から急襲を受けますが、信光はこれを退け、更に反撃に出て、大和守の居城・神城を陥落させました。同年、南朝に対する長年の功績から、後村上天皇より甲冑と感状を賜り、所領も加増されました。その甲冑は現在、国宝に指定され、八戸の櫛引八幡宮が所蔵しています。

【8代】 南部政光 (まさみつ)
7代・信光の弟。南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将。
足利義満による南北朝合一後もそれに従わなかったため、義満は、南部氏本家(盛岡南部)の南部守行(信光の娘婿)を以て勧降しますが、「二君に仕うるは不義」として政光は節を曲げず、甲州の本領を捨てひとり八戸に移りました。義満もそれ以上は勧降しなかったため、政光はその地で天寿を全うしたと云われています。


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足利義満所縁の相国寺を参拝してきました

私は先月中旬、奈良の春日大社(厳密にいうと、同大社境内に鎮座する摂社の若宮神社ですが)で斎行された神前結婚式に媒酌人として参列するため、その日にちに合せて2泊3日の日程で京都・奈良方面を旅行してきたのですが、京都に立ち寄った際、室町幕府や足利将軍家と深い関わりがある古刹である、京都御苑の北隣に位置する臨済宗相国寺派大本山・相国寺を参拝・見学してきました。

相国寺は、京都五山の第二位に列せられている、寺格の高い名刹で、また、寺院としての知名度では、世界的にも有名な京都観光定番スポットの鹿苑寺金閣(所謂 金閣寺)や慈照寺銀閣(所謂 銀閣寺)のほうが有名ではあるものの、相国寺はその鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣の2ヶ寺を山外塔頭として擁し、更に、全国に100ヶ寺もの末寺を擁する大寺院でもあり(ちはみに、相国寺境内には本山相国寺をはじめ13の塔頭寺院があります)、そして、鹿苑寺金閣同様、特に室町幕府第3代将軍の足利義満に深い所縁がある古刹でもあります。
というわけで、私は今まで一度も相国寺には行った事が無かったのでいずれ行ってみたいとずっと思っていた事もあり、今回の旅行に合せて同寺へと行って参りました。

以下の写真はいずれも、今回の訪問で私が撮影してきた、相国寺の総門と境内の景観です。
最盛期に比べるとその規模は縮小されているとはいえ、それでも、一宗派の大本山らしく十分な威容を誇っている巨大な寺院でした。

相国寺_01

相国寺_02

相国寺_03

相国寺_04

相国寺_05

相国寺_06


平成25年11月26日の記事で述べたように、足利義満は、現在の住所でいう京都市上京区室町通り上立売の辺りに、壮麗な将軍家邸宅を構え、そこで将軍として政務を執っていました。広大な邸宅の敷地には大きな池が掘られて鴨川の水が引かれ、庭には四季の花が植えられ、それらの花が爛漫と咲き乱れていたと云い、その美しい様から室町の足利将軍邸は、人々から「花の御所」と称されました。
永徳2年(1382年)、義満はその花の御所の東側の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、早速寺院の建設工事が始まります。その寺院が、現在の相国寺です。

相国寺の造営予定地には既に多くの家々が建っており、御所に仕える公家達の屋敷なども立ち並んでいましたが、相国寺の造営に当たっては、家主の身分に関係無くそれらの家屋は全て余所へと移転させられ、その有様は、まるで平清盛による福原遷都にも似た、かなり強引なものであったと云われています。
ちなみに、寺名の「相国」とは、国を扶ける、国を治める、という意味です。元々は中国からきた言葉ですが、日本ではその由来から、左大臣の位を相国と呼んでいました。つまり、相国寺を創建した義満が当時左大臣で、相国であった事から、相国寺と名付けられたのです。

そして義満は、禅の師であった春屋妙葩に、相国寺の開山となることを要請します。しかし妙葩はこれを固辞し、妙葩の師である夢窓疎石を開山とするのなら、自分は喜んで第二祖になると返答したため、義満はそれを了承し、既に故人となっていた疎石を形の上でだけ開山として、妙葩は第二祖(事実上の開山)となりました。
但し妙葩は、相国寺造営の責任者として終始陣頭で指揮を執ったものの、相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没しています。

ちなみに、義満は相国寺を是非とも京都五山のひとつに入れたいと熱望していましたが、既に五山は確定していたため、もし相国寺を強引に五山に入れると、既に五山に入っているいずれかの寺院が五山から脱落しなければならず、そのため義満は、どの寺院を五山から除くべきか、もしくは、相国寺を準五山とするか、あるいは、五山ではなく六山の制にするか、大いに悩んでいたようです。
最終的には、天皇によって建立された南禅寺を五山よりも上位の寺格(別格)として五山から外す事で、相国寺を五山に列位させて、義満の願いは成就しました。これ以降の具体的な順位は、南禅寺が別格、天龍寺が第一位、相国寺が第二位、建仁寺が第三位、東福寺が第四位、万寿寺が第五位となります。
当初は、義満の意向により相国寺が第一位、天龍寺が第二位とされたのですが、義満没後に再び天竜寺が第一位、相国寺が第二位に戻され、それ以降は順位の変動はありません。

そして、着工から10年を経た明徳3年(1392年)、ついに相国寺の堂塔伽藍が竣工し、盛大な落慶供養が執り行われました。
「相国寺供養記」という本によりますと、落慶供養当日の模様は、「路頭縦と云い横と云い、桟敷左に在り右に在り、都鄙群集して堵(かき)のごとく、綺羅充満して市をなす」と記されており、境内には、聳え立つ真新しい殿堂、威儀を正した僧侶達、義満に供奉する公武の人々、見物の群集などの景色が広がり、祝賀ムード全開、お祭り一色の派手な様相が広がっていたようです。
そしてそのほぼ1ヶ月後に、南朝と北朝との間で和議が成立し、約60年に亘って続いてきた南北朝の抗争も終結し、待望の平和が蘇る事となりました。

創建当時の相国寺は、室町一条辺りに総門があったと云われ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約144万坪の壮大な敷地に50あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。兎に角巨大な寺院でした。
そして、残念ながら現存はしませんが、義満の時代の相国寺で確実に最も目立っていたのは、史上最も高かった日本様式の仏塔でもある「七重大塔」です。この仏塔は、義満の絶大な権勢を象徴するモニュメントでもあり、その高さ(尖塔高)は109.1mを誇り、構築物として高さ日本一というその記録は、大正3年(1914年)に日立鉱山の煙突(高さ155.7m)が完成するまでの凡そ515年間も破られる事がありませんでした。
下のイラストは、「週刊 新発見!日本の歴史 24」誌上からの転載で、義満の時代の相国寺伽藍の全景です。巨大な七重大塔が、強烈な存在感を醸し出しています。

相国寺伽藍


ところが、竣工後の相国寺は度々火災に見舞われ(七重大塔が現存しないのはそのためです)、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に境内は全焼し、その後復興されたものの、義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼しています。
応仁元年(1467年)には、応仁の乱で細川方の陣地となったあおりでまた焼失し(相国寺の戦い)、天文20年(1551年)にも、細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれてまた焼失しています(相国寺の戦い)。
天正12年(1584年)、相国寺中興の祖とされる西笑承兌が住職となって復興が進められ、日本最古の法堂建築として現存する法堂は、この時期に建立されました。しかしその後も、元和6年(1620年)に火災に遭い、天明8年(1788年)の「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇をまた焼失しました。そのため、現存の伽藍の大部分は、19世紀はじめの文化年間の再建となっています。

このように、長い歴史の中で幾度も焼失と復興を繰り返してきた相国寺ですが、相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として、そして、室町幕府の厚い保護と将軍の帰依とによって、これだけの火災に遭いながらも大いに栄えてきた大寺院で、幾多の禅傑を生み出し、我が国の文化にも決して小さくはない役割を果たしてきました。
ちなみに、室町時代中頃の「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)という日記によりますと、第8代将軍の足利義政は、寛正5年(1464年)の一年間だけで、実に四十数回も相国寺を参詣しています。現職の将軍が一年間にこのように何十回も参詣したお寺は他には無く、足利将軍の深い帰依の様子が窺えます。


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後醍醐天皇をお祀りする吉野神宮を参拝してきました

私は今月の初め頃、2泊3日の日程で、関西(主に吉野・京都・大阪など)を旅行してきました。
2日目の朝からお昼にかけては、日本を代表する桜の名所としても知られる、奈良県の吉野方面を車で回ってきたのですが、その際、同県吉野町に鎮座する吉野神宮にも立ち寄り、同神宮を参拝・見学してきました。

吉野神宮は、南北朝動乱の悲史に於ける主人公のおひとりで、天皇親政による「建武の新政」(建武の中興)を行い、その後吉野に南朝を開かれて京都の北朝や室町幕府と戦われた、太平記でお馴染みの第96代・後醍醐天皇を主祭神としてお祀りするお宮です。
下の画像は、日本史の教科書にもよく掲載されている、その御醍醐天皇の肖像画です。いくつか伝わっている御醍醐天皇肖像の中でも特に有名な画像で、法服である袈裟を着て密教の法具を両手に持たれており、天皇としてはかなり“異形”なお姿で描かれています。また、天皇の上方(頭上)には、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三社託宣が掲げられています。

後醍醐天皇

歴代天皇の中でも傑出した政治力とカリスマ性を発揮され、天皇親政・公家一統の政治の実現を只管目指されて武家政権と激しく対立し続けるも、遂に京都奪還を達し給わず御無念のうちに吉野の山奥に崩ぜられた後醍醐天皇の崩御から550年が経った明治22年(大日本帝国憲法が発布された年)、かつて南朝の本拠であった吉野山で後醍醐天皇の御霊を慰撫するため、明治天皇が吉野神宮の御創立を仰せだされ、それを受けて明治25年に御鎮座祭が執り行われて、吉野神宮は創建されました。
最後の武家政権である江戸幕府が倒れて明治時代に入ると、かつて天皇親政を目指した南朝が再評価されるようになり、南朝関係者をお祀りする神社が全国にいくつも創建されましたが、吉野神宮は、南朝最大の中心人物である後醍醐天皇をお祀りしている事や、旧社格が最上位の「官幣大社」であった事などから、そうした「建武中興十五社」の中でも、筆頭に位置付けられました。
吉野神宮は、創建が近代なのでお宮としての歴史は然程深いとはいえないものの、以上のような経緯を持つ、南朝所縁のお宮なので、昔から太平記が好きな私としては、一度は訪れてみたいお宮でした。

なお、現在の同神宮境内地は、元々は丈六山一の蔵王堂があり、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のため挙兵された大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が吉野山に陣を構えられた際、鎌倉幕府方の侍大将二階堂道蘊(どううん)に占領されて本陣になった場所、と伝えられています。

吉野神宮_01

吉野神宮_02

南朝所縁のお宮だけあって、吉野神宮の境内に鎮座する各摂社の御祭神も、やはり、後醍醐天皇にお仕えした南朝の公家や武将達です。
具体的には、藤原(日野)資朝、藤原(日野)俊基、児島範長、児島高徳、桜山茲俊、土居通増、得能通綱の7柱が、御影神社・船岡神社・瀧櫻神社の3社で、それぞれ御祭神としてお祀りされております。

吉野神宮_03

吉野神宮は、明治25年の御鎮座から僅か30年で境内が手狭となり、神域を拡張して主要な社殿も一新する事になりました。
そのため現在の社殿は、いずれも大正11年から昭和7年にかけて改築造営されたもので、特に、三間社流造りの本殿、入母屋造りで銅板葺きの拝殿、切妻造りの神門、それを取り囲む玉垣などは、昭和(戦前)の近代神社建築を代表する様式となっています。

吉野神宮_03b

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吉野神宮_05

吉野神宮_06

ところで、神社の社殿(本殿・拝殿など)は、ごく一部の例外を除いて、そのほとんどは南か東を向いて建てられるのが通例ですが、吉野神宮の社殿は、珍しく北を向いています。
これは、御祭神の後醍醐天皇が、京都への御帰還を強く熱望されながらも南朝の勢力衰退によりそれが叶わず崩御されたため、後醍醐天皇のその心情を酌んで、北、即ち吉野から見た京都方面に向けられた事に因ります。
全く同じ理由から、後醍醐天皇の勅願寺であった如意輪寺の裏山に築かれた塔尾陵(後醍醐天皇の御陵)も、皇室の墓陵の中では唯一の北向きとなっております。

下の画像は、後醍醐天皇の崩御の様子が描かれたものです。御病気が重く、最早再起は不能と御自覚された後醍醐天皇は、義良親王(後村上天皇)に譲位され、御遺勅として、南朝関係者一同に新天皇に忠義を尽くすよう命じられ、その翌日、吉野の行宮にて波瀾万丈の御生涯を閉じられました(宝算52)。

後醍醐天皇の崩御

今回私は、左右に回廊が延びる拝殿の奥にある幣殿(下の写真の看板では便宜的に本殿と書かれていますが)に昇殿し、そこで玉串拝礼もさせて頂きました。
具体的には、「修祓、玉串拝礼、塩湯で祓い」という次第で、白衣・白袴の年配の神職さん(狩衣や格衣などは着装されていませんでした)が立礼にて御奉仕して下さいました。 本殿の間近という事もあって、更に御祭神の御神威を感じ、とても厳粛な気持ちになりました。

吉野神宮_07

太平記によると、後醍醐天皇は「たゞ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)玉骨は仮ひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という鬼気迫るお言葉を遺されて、左手には法華経の五巻を、右手には御剣を持って崩御されたとあり、その最期の御様子からも、只管北天を望まれる天皇の激烈なる御気迫が伝わってきます。
まして、前出のように御自分でその想いを「妄念」と仰せられるくらいですから、私としては、吉野神宮には後醍醐天皇のその妄念や御無念の想いが今なお滞留し、失礼ながら、どこかおどろおどろしい陰気な雰囲気が漂っているお宮なのかな、という気もしていたのですが、実際にお参りしてみると、その思いとは正反対で、実に明るく清々しい、開放的な雰囲気のお宮でした。

その吉野神宮の代表的な御利益(御神徳)は、厄除け、合格祈願、病気平癒、家内安全との事です。
幾多の艱難辛苦を重ねられながらも、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権を打倒すべく精力的に活動された御醍醐天皇の芯の強さは、参拝者にも厄除けなどの恩恵をもたらすといい、また近年は、心の浄化にも効果があると云われているそうです。
崩御から六百数十年という長い時を経て、後醍醐天皇の妄念も、今はもうすっかり浄化されたのかもしれません。


ちなみに、南朝関係のスポットとしては、今回訪問の吉野神宮以外だと、私は過去に以下の社寺や関連史跡等を訪れています。

【平成27年1月】
生前は敵対関係にあった楠木正行・足利義詮両名の菩提寺である、京都の嵯峨野にある宝筐院
南朝の重鎮として活躍した北畠親房・顕家父子をお祀りする、大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社
【平成25年11月】
太平記での代表的なエピソードのひとつ「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、大阪府島本町にある櫻井驛跡
【平成23年6月】
後の南朝の有力武将となる新田義貞が、ここから海岸に沿って鎌倉へ討幕の軍勢を進めたと伝わる、鎌倉市南西部の稲村ヶ崎
後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕に多大な貢献をした護良親王をお祀りする、鎌倉市二階堂に鎮座する鎌倉宮。
【平成14~15年】
大楠公とも称される楠木正成をお祀りする、神戸市中央区に鎮座する湊川神社
小楠公とも称される楠木正行をお祀りする、大阪府四條畷市に鎮座する四条畷神社。


下の写真は、吉野神宮の境内に立てられていた、建武中興十五社の案内看板です。

吉野神宮_08


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熊本・大分両県での地震災害お見舞い

今月14日に発生し、今なお依然として強い余震が続いている「熊本地震」によって被災された皆様方に、謹んでお見舞いを申し上げます。

今回の熊本地震は、気象庁が昭和24年に「震度7」の震度階級を設定してからは、平成23年に発生したあの東日本大震災(地震名は東北地方太平洋沖地震)に続いて国内では4回目、九州では初となる最大震度7の激震でした。
活断層が引き起こしたマグニチュード7.3の直下地震である点、木造家屋に大きな被害を出しやすい周期1~2秒のパルス状の揺れが強い点など、平成7年に発生した阪神・淡路大震災(地震名は兵庫県南部地震)とよく似た地震で、この度は熊本・大分両県を中心に九州北部の広範囲に亘って各地に大きな被害をもたらしました。
倒壊した住宅の下敷きになったり土砂崩れに巻き込まれるなどして、大変残念な事に、現在までに40名以上もの死亡が確認されています。避難所での病死等の関連死も含めると、死者の数はもっと多くなります。
お亡くなりになられた方々の御霊の安らかならん事を、衷心よりお祈り申し上げます…。


なお、宮内庁のホームページによると、天皇皇后両陛下は発災翌日の15日、熊本県の蒲島郁夫知事に対して、被害についてのお見舞いのお気持ち、災害対策に従事している関係者に対するお労いのお気持ち、被災者の健康を御祈念するお気持ちを、侍従長を通じてお伝えになられました。以下(鉤括弧内緑文字)がその全文です。
天皇皇后両陛下には、昨夜の熊本県を震源とする大地震により、多数の死傷者、避難者が発生するなど県民生活に大きな被害が生じていることに大変お心を痛められ、犠牲者に対するお悼みと被害を被った人々へのお見舞いのお気持ち、並びに災害対策に従事している関係者に対するおねぎらいのお気持ちを知事にお伝えするようにとの御意向でした。まだまだ、朝夕寒い季節であるので被災者をはじめ人々の健康を祈っておられます。以上、謹んでお伝えします。

歴史的にみても、天皇陛下は、一時の例外を除きほぼ常に、世俗的な権力とは無縁で、権力よりも上位に君臨する宗教的な最高権威、つまり、公正無私な祭祀王として只管“国の平安と国民の安寧を祈る”という超越的な御存在であり、その伝統は今も変わる事なく連綿と続いている、という事がよく分かる事例です。
このブログで度々取り上げている南北朝期の後醍醐天皇は、中世以降の歴代天皇としては珍しく、政治的な権力と宗教的な権威の両方を兼ね備えた天皇でありましたが。

ちなみに、念のために一応補足しておくと、両陛下が15日に熊本県の知事にだけお気持ちをお伝えになられたのは、その時点ではまだ、大分県など他県での被害はほとんど報告されていなかったためです。


ところで、熊本・大分両県では、この度の地震により伝統的建築物や歴史的文化財等も大きな被害を受けました。
国の特別史跡でもある熊本城では、全国ニュースでも既に大きく報じられているように、天守閣の屋根瓦が崩れたり、屋根の上にあったしゃちほこが落下したり、石垣もいくつかの場所で崩れたり、更に、築城当初から残っていた重要文化財の東十八間櫓・北十八間櫓が倒壊して隣の熊本大神宮の社務所を押し潰すなどしました。
また、肥後国一宮で旧官幣大社の阿蘇神社(熊本県阿蘇市)でも、重要文化財の楼門と拝殿が全壊し、大分県でも、岡城跡(竹田市)、岡藩主中川家墓所(竹田市)、旧竹田荘(竹田市)、角牟礼城跡(玖珠町)、鬼の岩屋古墳(別府市)などで一部に亀裂やズレが生じるなどの被害が発生しました。

私は一昨年1月20日の記事「南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする神社」の中で、建武中興十五社会の神社を紹介させて頂きましたが、その15社のうち、後醍醐天皇の皇子で九州に於ける南朝方の全盛期を築いた懐良親王をお祀りする「八代宮」(熊本県八代市松江城町)と、後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉幕府の鎮西探題を襲撃するもののその戦で敗れて討たれてしまった菊池武時などをお祀りする「菊池神社」(熊本県菊池市大字隈府)の2社は、いずれも九州、しかも、今回の地震で特に大きく被災した熊本県内に鎮座しております。
この2社のうち、八代宮の被害状況は現時点ではまだ不明ですが、菊池神社については、電子掲示板「神道青年全国協議会 災害対策掲示板」への書き込みによると、倒壊まではいかないものの社殿に酷い歪みが生じているとの事です。

これ以上犠牲者が増える事のないようにという事と、大変困難な状況に陥る事を余儀なくされた被災者の皆様方の一日も早い生活の再建、そして、この記事で取り上げた史跡や神社仏閣のみならず被災地の各所が一刻も早く復旧・復興されます事を、改めて心より御祈念させて頂きます。


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足利市の鑁阿寺に残る、足利将軍へのかつての尊崇・信仰の形

前回の記事で述べたように、私は先月下旬、栃木県足利市に行ってきたのですが、私が足利市で見てきたいくつかのスポットの中で、個人的に一番興味深かったのは、足利学校のすぐ近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)という古刹でした。
現在の鑁阿寺は、真言宗大日派の本山で、「足利氏宅跡」として境内全体が国の史跡に指定されており、四方に門が設けられ土塁と堀がめぐらされているなど平安時代後期の武士の館の面影が残されている事から「日本の名城百選」のひとつにも選ばれています。
また、本堂は国宝に、境内にあるその他の堂宇も国の重要文化財や県もしくは市の文化財などに指定されており、歴史的建造物としても大変貴重なお寺です。

下の写真2枚は、その鑁阿寺を今回参拝・見学した際に私が撮影してきた、県の指定文化財でもある楼門(山門)と、国宝に指定されている大御堂(本堂)です。
楼門(下の写真の1枚目)は、室町幕府第13代将軍の足利義輝が室町時代後期に再建したもので、大御堂(下の写真の2枚目)は、源姓足利氏2代目で鑁阿寺を開創した足利義兼が鎌倉時代初期に建立し、鎌倉時代後期に足利尊氏の父・貞氏が再建したものです。

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楼門と大御堂、どちらの屋根の上にも、足利家の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が入っており、金色に光り輝いています。

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前出の足利義兼が邸宅内に持仏堂を建てたのが鑁阿寺創建の由緒とされており、鎌倉時代以降、次第に本格的且つ大規模な寺院として整備されていき、室町時代には、京都の足利将軍家や、鎌倉公方足利家により、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
現在は、平成26年7月2日の記事で紹介させて頂いた「全国足利氏ゆかりの会」の会員ともなっています。


ところで、私が今回鑁阿寺を参拝・見学してきて、現地で「おおっ、これは!」と特に括目したのは、大御堂の裏手に建つ「御霊屋」(おたまや)と、その直ぐ隣に建つ「大酉堂」(おおとりどう)です。

下の写真4枚はいずれも御霊屋で、鑁阿寺という寺院の境内に建つ建物ではありますが、これは仏教建築ではなく、明らかな神社建築であるのが特徴です。手前側にある入母屋造りの拝殿と、その奥に鎮座する一間社流れ造りの本殿の2殿を中心として、全体が、正面の神門と連なる瑞垣で囲まれています。
御霊屋の当初の建物は鎌倉時代に建てられましたが、現在のものは、江戸時代に江戸幕府第11代将軍 徳川家斉が寄進したものです。

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御霊屋の神門前に立てられている解説板によると、この御霊屋は、当初は足利大権現と称され、本殿では「源氏の祖」」を御祭神としてお祀りし、拝殿内には、歴代足利将軍15人全員の木像がお祀りされていたそうです(現在は、その15体の歴代将軍の座像は、いずれも鑁阿寺の経堂内に移されています)。
また、本殿の直ぐ裏には、鑁阿寺を開創した足利義兼の父・義康と、その父(つまり義兼の祖父)である義国二人のお墓もあります。下の写真がそのお墓で、本殿の直ぐ真裏、瑞垣の内側にあります。本殿御祭神の「源氏の祖」というのは、この二人の事らしいです。

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神道は、何よりも清浄を尊び、人の死や遺骸などは「不浄」や「ケガレ」として捉えるため、本来の神社であれば、本殿とお墓が隣接して建つという事はまずほとんど有り得ないのですが、ただ、久能山東照宮の廟所、日光東照宮の奥宮、といった例外もあるので(これらの二例はいずれも、御祭神のお墓と本殿が極めて近接しています)、本殿とお墓が隣接しているのが必ずしも絶対にアウト、というわけではないのでしょう。
そもそもこの御霊屋は寺院の境内に建つ、非常に神仏習合色の濃いお宮なので、どのみち普通の神社とは性格が異なりますし。


そして下の写真は、御霊屋の直ぐ隣に建つ大酉堂です。こちらは御霊屋とは違い、神社建築ではなく、他の堂宇と同様、仏教本来のお堂の形式が採られています。
大酉堂の前に立てられている解説板によると、このお堂は、元々は足利尊氏をお祀りするお堂として室町時代に建立されたもので、江戸時代や明治時代初期の鑁阿寺伽藍配置図には「足利尊氏公霊屋」と記載されていたそうです。このお堂には、御霊屋の拝殿内にお祀りされていた束帯姿の尊氏座像とは別の、甲冑姿の尊氏像も、お祀りされていたそうです。
しかし明治時代中期以降、尊氏を逆賊とする歴史観が台頭してきた事により、大酉堂の尊氏像はここから本坊に移され、それに代わって、俗に「おとり様」と称される、武神でもある大酉大権現が御本尊になったのだそうです。現在、大酉堂と称されているのはそのためです。

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私は平成26年1月20日の記事の中で、以下のように書いた事があります。
ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。

こういった事を踏まえて、私は、南朝方の天皇・皇族・公家・武将ではなく、北朝方(足利氏や北朝を支援した室町幕府の武将も含む)が信仰対象となっている社寺が無いものか、ずっと探していたのですが、それを、今回の足利市探訪で、鑁阿寺にて漸く見つける事が出来たのでした。

御霊屋は、足利将軍が本殿の主祭神としてお祀りされていたわけではないものの、かつては御霊屋自体が足利大権現と称されていて、拝殿内には歴代の足利将軍像がお祀りされていたとの事ですから、歴代の足利将軍も恐らく信仰の対象、もしくはそれに近い存在として扱われてはいたのでしょう。
ここで言う「歴代の足利将軍像がお祀りされていた」というのが、祀るという字面通り、本当に信仰対象として、配神もしくはそれに準じる御神霊の依代としてお祀りされていたのか、それとも、奉安場所が本殿ではなくあくまでも拝殿なので、単に御神宝や威儀物等に近いような位置付けでそこに奉納されていたのか、その点は不明ですが、歴代の足利将軍像がいずれも比較的綺麗な状態で現存しているらしい事から、兎も角、いろいろな人達の思いを受けながら時代を超えて大切にされてきたのは確かといえそうです。

そして大酉堂は、御祭神としてではないものの、前述のように、はっきりと尊氏が(具体的にどういった形でかは不明ですが、恐らくは神式ではなく仏式で)お祀りされていたようです。
御霊屋と大酉堂それぞれのかつての位置付けは、御霊屋が源氏の祖と歴代の足利将軍全員の霊廟、大酉堂が室町幕府初代将軍である尊氏個人の霊廟、という感じだったのかもしれませんね。

北朝の天皇・皇族・公家や、室町幕府の将軍・武将などをお祀りする社寺は、現在でこそ、その数はほぼ皆無に近いですが、明治時代よりも前の時代は、やはりもっとあったのでしょう。私は今回、鑁阿寺で、その名残を見る事が出来ました。
南朝の天皇・皇族・公家・武将をお祀りする社寺などは、それと反比例して、逆に明治時代以降に多くなったのではないかなと思います。


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高幡不動尊の上杉堂

私は先週、2泊3日の日程で、東京・熱海・浜松方面を旅行してきました。
東京では、いつも通り区内の神社・仏閣・史跡等をいくつかまわってきましたが、今回は区外の日野市にも足を伸ばし、同市高幡にある、関東三大不動のひとつ「高幡不動尊」も参拝・見学してきました。
ちなみに、一般に広く知られている高幡不動尊という名は通称で、寺院としての正式名称は「真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺」と云います。

日野は、江戸時代末期の京都や明治時代初期の戊辰戦争などで活躍し今も人気の高い、新選組副長・土方歳三の出身地としても有名なため、高幡不動尊も、歴史好きの人にとっては新選組関係のスポットとして知られており、実際、高幡不動尊境内には隊服姿の土方歳三の像が立っています。
実は私も個人的に土方歳三は結構好きで、過去には土方所縁の地を何か所も訪ねてもいます(具体的には、京都の壬生寺・西本願寺・金戒光明寺・旧八木邸・旧前川邸・池田屋事件跡・伏見奉行所跡、会津の鶴ヶ城・旧滝沢本陣・近藤勇の墓・清水屋旅館跡・会津新選組記念館、函館の五稜郭・土方歳三最期の地碑・土方歳三凾館記念館など)。

高幡不動尊の土方歳三像


しかし、今回の高幡不動尊参拝・境内散策で、特に私の目を引いたのは、正面に「上杉憲顕公墳」という篇額が掲げられている小さなお堂でした。「上杉堂」「上杉憲顕の墳」などとも称されているこのお堂は、その名が示すように、上杉憲顕という武将の墓所です。

高幡不動尊の上杉堂_1

高幡不動尊の上杉堂_2

一般に上杉憲顕というと、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍し、初代関東管領を務めた、山内上杉家の始祖となった上杉憲顕を思い浮かべる人が多いと思いますが、この上杉堂で祀られている上杉憲顕は、その憲顕とは同名の別人で、室町時代中期の、犬懸上杉家のほうの上杉憲顕です。
はっきり言うと、初代関東管領の上杉憲顕に比べるとかなりマイナーな人物で、しかも、この人物を漢字で表記する場合、大抵は「上杉憲秋」と表記される事のほうが多いので、同名二人の混同を防ぐため、この記事でも以降は憲秋と表記します。


憲秋に関しては、現在学校で習う日本史に於いては、当人よりもその父親であり関東管領も務めた上杉氏憲、通称・上杉禅秀のほうが名前を知られています。禅秀は、俗に云う「上杉禅秀の乱」という戦乱を起こした人物であるからです。
上杉禅秀の乱とは、簡潔にまとめると、犬懸上杉家の上杉禅秀が、主君である第4代鎌倉公方の足利持氏から関東管領を更迭され、自分とは対立関係にあった山内上杉家の上杉憲基が次の関東管領に任じられた事から、それを恨んで、足利持氏に対して起した反乱です。
挙兵した禅秀の軍勢は、一時は鎌倉を制圧下に置くなど善戦しますが、足利持氏と上杉憲基らはその直前に鎌倉の脱出に成功し、持氏は駿河の今川範政の元に逃れ、そこから幕府に援助を求めました。室町幕府第4代将軍 足利義持は、その求めに応じて持氏・憲基らを支持する事を決定し、禅秀討伐の軍勢を差し向け、これにより、駿河や相模などで、幕府・鎌倉公方・関東管領の連合軍と、前関東管領(禅秀)の軍が衝突します。
結果は、禅秀が敗北し、禅秀は鎌倉雪ノ下で自害し、この敗北から犬懸上杉家は没落しました。

憲秋はその禅秀の子で、上杉禅秀の乱では父に従って一軍を率いて足利持氏と戦いましたが、病のため途中で戦線を離脱して京都へと逃れたため、この戦乱では命を落とす事はありませんでした。
しかし関東ではその後、「享徳の乱」が勃発します。この乱は、第8代将軍 足利義政の時代に起こった関東地方に於ける大規模な内乱で、第5代鎌倉公方で後に初代古河公方となる足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を暗殺した事に端を発して、幕府、鎌倉公方(古河公方)、山内上杉家、扇谷上杉家などが争い、その戦火は関東地方一円に拡大し、関東に於ける戦国時代到来の遠因ともなりました。

憲秋は、その享徳の乱の初戦に於いて、足利成氏(憲秋にとっては、父の仇である持氏の子)を討伐するため、扇谷上杉家の上杉顕房や、長尾景仲らと共に転戦し、先陣も務めたものの、成氏の猛攻の前に立川河原で破れ、最期は深手を負って高幡寺に入り、そこで自刃して果てました。
憲秋のその最期の地が、現在の高幡不動尊で、高幡不動尊境内に憲秋の墓所である上杉堂が建っているのは、そういった経緯によるものです。

高幡不動尊の上杉堂_3

上杉堂の堂内中央に安置されている自然石は、「茶灌石」(ちゃそそぎいし)、「茶湯石」などと称され、憲秋の墓標とされています。
壁に立てかけられている沢山の塔婆、あちこちから吊るされている千羽鶴、壁や柱に貼られている多くの千社札、お供えされている綺麗な花、清掃が行き届いている様子など、堂内の現況からは、ここには今も信仰が根付いているんだなという事が感じられました。ただ、その信仰は、上杉憲秋という武将個人に対してというよりは、堂内の仏像や茶灌石に対してのものなのかなとも感じましたが。


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光厳天皇の髪塔

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪、京都、四国の高松方面を旅行してきました。
3日目の午前中は京都の嵯峨・嵐山地区を散策し、その際、先月8日の記事で報告したように嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という寺院を参拝・見学してきたのですが、宝筐院を見てきた後は、嵯峨野々宮町に鎮座する「野宮神社」(ののみやじんじゃ)も参拝してきました。

そして、野宮神社を参拝した後はJR嵯峨嵐山駅から京都方面行きの電車に乗ったのですが、野宮神社から嵯峨嵐山駅へ徒歩で移動中、天龍寺の山門(正門)や京福電鉄嵐山駅の直ぐ近くでたまたま見かけたのが、この「光厳天皇髪塔」です。
光厳天皇は、持明院統の後伏見天皇の第三皇子で、一般には、「北朝の初代天皇」と解されている天皇です。足利尊氏の後ろ盾を得て復権した後醍醐天皇が、光厳天皇を廃して重祚し、その後尊氏との抗争に敗れて吉野へと逃れた事によって、吉野の後醍醐天皇と、光厳上皇の院宣を受けて京都で即位していた光明天皇により南北朝の並立が始まる事から、そういった時系列を考査すると厳密には、光厳天皇ではなく光明天皇が北朝初代の天皇なのですが…。

光厳天皇髪塔_01
光厳天皇髪塔_02

光厳天皇は、鎌倉幕府によって隠岐島へと配流された後醍醐天皇が隠岐島から笠置へと出奔した事により、幕府に擁立されて、「三種の神器」無しで践祚されますが、後醍醐天皇の綸旨を受けて討幕のため挙兵した尊氏の軍勢が京都の六波羅探題を襲撃した際、探題北条仲時・北条時益らと共に東国へ逃れようとして近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。
そして、復権した後醍醐天皇により「天皇としては即位していなかったが特例として上皇待遇とする」とされて、即位の事実も否定されてしまいます。

しかし、後醍醐天皇と尊氏が決別した後は、光厳上皇は尊氏からの求めに応じて新田義貞追討の院宣を下すなどして尊氏と協調し、室町幕府が成立してからは「治天の君」として、幕府庇護の下、北朝で院政を行います。
ところが、南朝軍が京都を一時奪回した際に南朝側に拉致されてしまい、その後は南朝側の本拠地である吉野の賀名生で失意のうちに出家し、帰京を許された後は嵯峨小倉に隠凄し、世俗を断って禅宗に深く帰依します。その後、巡礼の旅に出て、法隆寺や高野山を経て再び吉野を訪れるなどし、最終的には京都の常照皇寺で崩御されました。
武家同士、朝廷内部、武家と朝廷間、それぞれの熾烈な派閥争いに否応なく巻き込まれ、南北朝動乱に翻弄される激動の人生を送られた天皇といえます…。

「光厳天皇髪塔」は、その光厳天皇の御遺髪が納めらている場所です。その名の通り本来は髪塔でしたが、いつの頃からか「塔」は無くなり、現在は「塚」となっています。
ちなみに、光厳天皇の陵墓は、崩御の地である京都市右京区京北井戸町の常照皇寺にあり、分骨所は、大阪府河内長野市天野町の金剛寺にあります。

なお、昨年4月20日の記事でも述べたように、室町時代から江戸時代中期頃までの約400年間は、現在とは異なり一般には北朝が正統と認識されており、室町時代半ばに後小松天皇の命により洞院満季が撰進した皇室系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、光厳天皇を始めとする北朝の天皇が正統な天皇として記され、北朝と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、歴代天皇としては認められていませんでした。
しかし、昨年5月4日の記事で解説したように、国定教科書の記述内容の是非をめぐって沸き起こった南北朝正閏論争により明治時代以降(今から約100年前から)は南朝が正統とされるようになり、そのため北朝は正統性が否定されて、そのまま現在に至っています。
とはいえ、北朝側の天皇も皇族である事には変わりありませんし、そもそも現在の皇室は、血統としては南朝ではなく北朝の系統でもあるので、北朝の正統性が否定されても「光厳天皇髪塔」は今も宮内庁の管理地となっており、また、宮中では現在も、光厳天皇を始めとする北朝側の天皇も皇霊殿(宮中三殿のひとつ)で、他の歴代天皇や皇族と共にお祀りされています。


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