この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

南北朝時代・太平記

太平記のゲームソフト

突然ですが皆さん、「PCエンジン」という家庭用ゲーム機を知っていますか?
PCエンジンとは、昭和62年にNECホームエレクトロニクスから発売された据置型のテレビゲーム機です。昭和62年というと、今から30年近くも前の事ですから、今となっては、PCエンジンはもはや歴史的な存在のレトロゲーム機ですが、発売当時は常識を覆す高速・高性能を誇った、一世を風靡したゲーム機でした。

発売翌年の昭和63年には、家庭用ゲーム機としては世界初となる専用のCD-ROMシステムも発売され、その先進性は今でも高く評価されており、任天堂の絶対的なシェアを崩すには至らなかったものの、PCエンジンは新規ハードとして一定の普及に成功しました。
ちなみに、PCエンジンは、発売当初は主に任天堂のファミリーコンピュータと競合していましたが、後には、任天堂のスーパーファミコンやセガのメガドライブなどと競合しました。

以下の写真2枚は、数ヶ月前に我が家で撮影した、PCエンジンとそのソフトです。PCエンジンの本体は何度もリニューアルされていますが、私が所有しているのは、平成6年に発売された、PCエンジンの最終型「PCエンジンDuo-RX」です。

PCエンジン_01

PCエンジン_02


さて、今回このブログでなぜ突然PCエンジンを取り上げたのかというと、それは、PCエンジン用の以下の2本のゲームソフトを紹介するためです。
平成3年にインテックより発売されたPCエンジンCD-ROMの「太平記」と、平成4年にNHKエンタープライズより発売されたPCエンジンHuCARD(ヒューカード)の「NHK大河ドラマ太平記」の2本です。数年前に中古市場で見つけて購入しました。
どちらも、当時放送されていたNHK大河ドラマ「太平記」に合せて開発・発売された、南北朝時代をテーマにした戦略シミュレーションゲームで、この時代を舞台にしたシミュレーションゲームというのはかなり珍しいです。

PCエンジン「太平記」_01

PCエンジン「太平記」_02


PCエンジンのゲームソフトの形態は、大別すると、独自の規格である「HuCARD」というROMカードと、その後の各種家庭用ゲーム機でソフトの主流となっていった「CD-ROM」の2種類があり、太平記のソフトは、上の写真を見て戴ければお分かりのように、この2種に分かれて発売されました。
メディアとしてはCD-ROMのほうが新しいのですが、両ソフトを比較すると、実際にはCD-ROMの「太平記」よりも、HuCARDの「NHK大河ドラマ太平記」のほうが、ソフトとしては後発でした。

しかし実は私、この両ソフトは、数年前に入手して以来、ずっとしまったままで、まだプレイした事はありません。近々、実際にプレイしてみようと思います!

ちなみに、CD-ROMの「太平記」のほうのキャラクターデザインは、前回の記事で紹介した横山まさみち版のコミック「太平記」の著者である、横山まさみちさんが担当されています。


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太平記のコミック

日本を代表する軍記物語のひとつ「太平記」は、古事記、今昔物語集、宇治拾遺物語、徒然草、平家物語、吾妻鏡、雨月物語などと共に、特に私が大好きな古典文学で、私にとって太平記は、数ある日本の軍記物の中ではあの平家物語と双璧を成す、最高傑作ともいえる作品です。個人的にも、結構思い入れの強い作品です。
残念ながら世間一般では、平家物語や、戦国時代を舞台とした各種の軍記物などに比べると、太平記は必ずしも内容が広く周知されているとは言い難い状況ではありますが…。

太平記は、軍記物語の傑作としてのみならず、中世日本の代表文学のひとつでもあるため、今まで何度かマンガ化もされています。今回は私が所蔵している、それら太平記のコミック(太平記をマンガ化した作品)を、以下に5作品、紹介致します。
なお、昨年11月6日の記事で紹介した「コミック版 日本の歴史」シリーズや、本年4月24日の記事で紹介した「週刊マンガ日本史シリーズ」などは、内容的には太平記の時代も舞台となっているものの、タイトルに太平記を冠していない事から今回の記事では紹介対象から除きました。



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中公文庫『マンガ日本の古典18 太平記(上)』
中公文庫『マンガ日本の古典19 太平記(中)』
中公文庫『マンガ日本の古典20 太平記(下)』

著者:さいとう・たかを、 発行:中央公論新社、 初版:平成12年

ゴルゴ13で有名な、日本を代表するマンガ家のひとりで劇画の第一人者であもる さいとう・たかを氏が、迫真の筆致で描く、太平記の決定版といえるコミックです。
現実の歴史と虚構の物語が入り混じっている太平記を、そのまま忠実にマンガ化する事よりも、太平記で描かれている時代の一連の流れを、時系列に沿ってリアルにマンガ化しようとしたと思われる作品で、そのため、史実としての鎌倉時代末期から南北朝時代の一連の流れを知りたい人にとっては、歴史の勉強にもなる作品です。
鎌倉幕府末期から観応の擾乱までが描かれていますが、史実に拘る傾向からか、原作の太平記に登場する悪霊などのエピソードは全て割愛されています。
ちなみに、上巻の表紙は北条高時、中巻の表紙は楠木正成です。
個人的には、かなりオススメの作品です。



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『歴史コミック86 コミック太平記(一) 楠木正成 笠置の巻』
『歴史コミック87 コミック太平記(二) 楠木正成 千早の巻』
『歴史コミック88 コミック太平記(三) 足利尊氏 六波羅の巻』
『歴史コミック89 コミック太平記(四) 足利尊氏 室町の巻』
『歴史コミック90 コミック太平記(五) 新田義貞 鎌倉の巻』
『歴史コミック91 コミック太平記(六) 新田義貞 燈明寺畷の巻』

著者:横山まさみち、 発行:講談社、 初版:平成2~3年

各巻の副題を見ればお分かりのように、他の太平記のコミックとは違い、楠木正成、足利尊氏、新田義貞の3人を主人公として、2巻毎に、それぞれの主人公の視点から描かれています。
そのため、時系列的には当然重複する箇所が多数あり、また絵柄には、いかにも“昭和”という感じの古臭さも感じられるものの、ストーリーはいたって真面目で、普通に面白かったです。
義貞の視点から太平記が描かれる事はあまり多くないので、個人的には、義貞が主人公の5・6巻が新鮮でした。
あと、全体を通して、坊門宰相清忠なる人物がどうしようもない無能として描かれていたのも、印象に残りました(笑)。



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『マンガ太平記 上巻』
『マンガ太平記 下巻』

監修:兵藤裕己、 画:甲斐謙二、 発行:河出書房新社、 初版:平成2~3年

原作だと全40巻にも及ぶ長大な太平記を、僅か上下2巻のコミックとしてまとめているので、どうしてもダイジェスト版的な内容になってしまっている感は拒めませんが、その割には意外とうまくまとまっているとも思います。最後のほうは駆け足ながら、一応、原作同様、足利義詮の死去まで描かれていますし。
正成が死後に怨霊となって現れるエピソードは割愛されていますが、「宮方の怨霊六本杉に会する事」のエピソードは再現されています。太平記の中で描かれている怨霊のエピソードまでマンガ化されるのは、珍しい事だと思います。
てっとり早く太平記を知りたい人にはオススメの作品です。多少の前提知識は必要になるかもしれませんが。



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SP comics『私本 太平記 一』
SP comics『私本 太平記 二』
SP comics『私本 太平記 三』
SP comics『私本 太平記 四』

著者:岡村賢二、 原作:吉川英治、 発行:リイド社、 初版:平成19~20年

NHK大河ドラマ「太平記」の原作ともなった、吉川英治氏晩年の傑作「私本太平記」をマンガ化した作品で、私としては、絵柄、各キャラクターの魅力、ストーリー展開などにもかなり好感が持てたコミックなのですが、太平記全体では初期のエピソードにあたる、建武政権下で護良親王が幽閉される所で唐突にストーリーが終わってしまったのが残念でした。
バサラ大名の代表格といえる佐々木道誉は、所属や主人をコロコロと変える所謂“裏切り”が当たり前だった当時にあって首尾一貫、室町幕府・北朝方に仕えた、足利将軍を支え続けた幕府の重鎮ですが、このコミックでは、鎌倉幕府討幕の挙兵をするまでは、道誉と尊氏との関係はかなり緊迫したものとして描かれており、その描写も面白かったです。
あと、コミック1巻で描かれていた、日野資朝が菊王に伝言を託して日野俊基を庇うシーンは、なかなか感動的でした。資朝から俊基へのその伝言は、以下の通りです。「この資朝も貴公と同じことを考えていた。罪はどちらか一人が被ればよい。しかしその一人は、断じてこの資朝でなければならぬ。貴公よりも自分の方が上卿であり年長でもあるゆえ、鎌倉も張本人はこの資朝と断ずるはず。もし貴公が 首謀者は我なり と申せど、それによりこの資朝を不問に付すはずもない。さすれば、貴公の死は無駄になる。罪はこの資朝が一身に被るゆえ、貴公は再び都に帰り、帝座の周囲を鼓舞し続けてほしい。君よ迷うな、世に残れ…!死ぬのはこの資朝一人でよい…!」
原作の私本太平記を最後まで忠実に再現していたら、歴史物の名作マンガになったのではないかと思える作品だけに、未完が惜しまれます。



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『コミグラフィック日本の古典16 太平記』
構成:辻真先、 画:一峰大二、 発行:暁教育図書、 初版:昭和62年

ストーリーは後醍醐天皇崩御までが描かれておりますが、本としてはコミックと絵本の中間のような形態で、しかも1冊にまとまっているため、全体的に見るとストーリーとしてはかなり広く浅く、という感じになっています。絵柄は、先に紹介した横山まささみ氏のコミックよりも更に古臭く、まるで戦中か、戦後間もなくに描かれたマンガを読んでいるかのような印象を受けました。
尊氏は、戦前・戦中の歴史観を反映してか、かなり狡猾な人物として描かれており、この作品での尊氏は、全然好感の持てる人物ではありませんでした。ちなみに、尊氏の外見や容姿は、平成25年1月27日の記事で詳しく取り上げた「南北朝時代の騎馬武者像」をモデルとしているらしく、ざんばら髪が剥き出しになっているのですが、合戦の最中なら兎も角、その姿で衣冠らしい装束を着装して参内している姿には、さすがに違和感を感じました。
というわけで、これはあくまでも私の主観ですが、あえて購入してまで見る価値は低い作品です。古い作品ですから、欲しいと思ってもそもそも入手は困難だとは思いますが。



とりあえず、どの太平記のコミックを読んでも共通して感じるのは、鎌倉幕府は倒れるべくして倒れ、そして、後醍醐天皇による建武政権も、やはり倒れるべくして倒れたのだな、という事です。
後醍醐天皇がおられなくても、(その時期は確実に遅れていたでしょうが)やはり鎌倉幕府は間違いなく崩壊していたでしょうし、そして、尊氏が叛かなかったとしても(そもそも尊氏がいなかったとしても)どのみち建武政権が長期政権となる事は無かったでしょう…。


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天下分け目の合戦の舞台ともなった、東寺の不開門(あかずのもん)

先週、私は2泊3日で大阪・京都方面を旅行して来たのですが、その旅行の2日目、お昼過ぎ頃に、東寺真言宗総本山 教王護国寺を参拝・見学してきました。
ここは、平安時代初期の創建時から東寺(とうじ)の名で広く知られている、真言宗開祖の空海(弘法大師)が創建した名刹で(現在は教王護国寺が正式名称ですが、歴史的にはむしろ東寺のほうが公式名として定着していました)、真言宗の根本道場、国宝・重文など多数の貴重な文化財を所蔵する古刹、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されているお寺、京都のランドマークのひとつにもなっている日本一の高さ(54.8m)を誇る五重塔、21体の彫像により講堂内に構成される立体曼荼羅、京都観光や修学旅行の定番スポットのひとつ、などとしても有名なお寺です。

東寺の五重塔

私自身は、新幹線を利用して京都を訪れる事はほとんどありませんが、山陽・九州方面から新幹線を使って上洛する場合、京都駅に着く直前に車窓から東寺の壮麗な五重塔を見る事が出来るので、東寺(特に五重塔)を見ると、京都に帰って来た事、京都へ出張に来た事、京都に遊びに来た事などを実感するという人は、きっと多くおられるのではないかと思います。

私としても個人的に、東寺は以前から特に好きなお寺のひとつであり、過去にも何度か参拝・見学をしているのですが、ただ、前回私が東寺を訪ねてからもう十年は経っているので、今回は、懐かしくも少し新鮮な気持ちで東寺の境内を歩いてきました。
私は、東寺の中では講堂内の立体曼陀羅が最も好きで、勿論今回も見学してきましたが(講堂内は写真撮影禁止だったので残念ながら写真はありません)、このブログの性格から、今日の記事では、東寺の中では一般にはあまり注目される機会の少ない「東大門」を紹介させて頂きます。

東寺の東大門

鎌倉時代に建てられたと伝わる、東寺東側の大宮通に面しているこの東大門は、不開門(あかずのもん)とも称されており、その由来は、下の写真の看板で解説されている通りです。

東寺の東大門解説

以下の鉤括弧内(緑文字)は、東寺塔頭・宝菩提院住職の三浦俊良氏が著した「東寺の謎」(祥伝社黄金文庫)に掲載されている文章で、東大門が不開門と称されるようになった由来が更に詳しく解説されています。門前で起こった“天下分け目の合戦”についても、その前後の状況も含めて詳しく解説されており、とても参考になるので、少し長文になりますが以下に転載致します。


湊川の合戦で楠木軍が破れたという報せをきいて、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。
足利尊氏は都にはいると光厳上皇を迎え、弟の豊仁親王を擁立した。光明天皇である。
六月五日、尊氏はさらに兵をすすめ一挙に比叡山に向かった。弟直義は比叡山の寺町である西坂本に陣をおいた。対して比叡山を守備していた宮方の軍は新田義貞を総指揮官として、比叡山の僧兵も加わり足利軍と対峙した。

六月十四日、足利尊氏は光厳上皇を奉じて東寺にはいった。足利家の紋、丸に二引両の旗が、東寺の境内にたなびいた。東寺が総本陣となる。光厳上皇の御所は西院小子房、尊氏は千手観音菩薩が安置されている食堂に身をおいた。
(中略)
東寺は都城となった。四方を囲む築地の大土塀は城壁であった。境内には馬がつながれ、鎧姿の数千の軍兵であふれていた。北東に見える比叡山には、後醍醐天皇の本陣がおかれている。対峙するように東寺に足利尊氏は本陣をおいた。
(中略)
いま東寺は北朝の光明天皇の御所となり、比叡山は南朝の後醍醐天皇の御所となっていた。

六月十九日、新田義貞ひきいる宮方が反撃にでた。
六月二十日、足利軍が攻撃にでた。だが各所で敗退してしまう。やはり比叡山という山を味方につけた宮方が有利だった。山攻めは不利と見た足利尊氏は、体勢を整えて市街戦に勝敗をかけた。
六月三十日。この日、新田義貞は総攻撃をしかける。都の周囲、糺ノ森、賀茂川、桂川の西で両軍の激しい戦闘がおきた。
市街戦は東寺の北方でも勃発した。相ゆずらぬ攻防が繰り広げられた。東寺からも鬨の声にあわせて、武者の諸声が聞こえたことであろう。
新田義貞がめざすは足利尊氏がいる東寺であった。強靭な肉体に鎧をまとった二万の騎馬武者が、大宮通を東寺に向かった。名和長年ひきいる軍も猪熊通を東寺に向かってひた走った。

本陣、危うし。迎え討つ足利軍は東寺の門を開け、出撃していった。だが新田軍、名和軍ほか宮方勢は破竹の勢いで足利軍に迫った。東寺近くの六条大宮付近で両軍の激しい衝突がおこり、敵味方がみだれての攻防戦がつづいた。戦局は宮方勢にかたむきかけていた。
足利軍は苦戦をしいられた。退却するほかなかった。新田、名和軍に追われるようにして痛手をおった足利軍の武者たちが、ぞくぞくと東大門から境内になだれこんできた。
最後のひとりが境内に足を踏みいれたとき東大門は閉ざされた。その戸をめがけて、なんすじもの矢が打ちこまれた。それほどにあやうい瞬間であった。

約二万の新田、名和軍は東寺を取り囲んだ。そして宮方の総指揮官、新田義貞が門前から足利尊氏に一騎打ちを挑んだ。しかし、東大門は閉じられたまま、開くことはなかった。以来、この門を「不開門」(あけずのもん)という。
いまも不開門に残る、なんすじもの矢の痕が、このときの戦闘の凄まじさを物語っている。

さて戦局は一転して足利軍が有利となる。各所で市街戦を繰り広げていた足利勢が大挙して東寺をとり囲む宮方勢に攻めいり、ついに名和長年が討ち死にする。宮方勢は退却をよぎなくされた。
この戦いをもって両軍の明暗ははっきりとする。七月、八月と宮方勢の反撃がおこなわれるが、ことごとく失敗におわる。のちに東寺をめぐっておこなわれた戦闘が「天下分け目の合戦」といわれるゆえんである。
(中略)
天下分け目の合戦を制した足利軍が、つぎの世をとることになる。


下の絵図は、埼玉県立歴史と民俗の博物館が所蔵している「東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞」の図です。尊氏が本陣を構えた東寺(右・手前側)には、足利家の紋が入った幕や幟が棚引いております。
ここで義貞は東寺に矢文を放って尊氏に一騎打ちを呼び掛け、その挑発に対して尊氏はいきり立って「望むところだ」と腰をあげるものの、近臣から諌められて誘いに乗らなかった、とも伝えられています。

東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞

後に、室町幕府最後の将軍・足利義昭を伴って上洛した織田信長も、尊氏の先例に倣って東寺に本陣を置きました。
ちなみに、昨年3月11日の記事の後段でも紹介しましたが、東寺では平成20年に、尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要を厳修しています。


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足利尊氏・後醍醐天皇・楠木正成の、子供向け伝記コミック

先日、ポプラ社から刊行されている「コミック版 日本の歴史」シリーズの、室町人物伝の3冊「足利尊氏」「後醍醐天皇」「楠木正成」を読みました。いずれも、小学校中学年から高学年向けの内容と思われる平易な内容のマンガ(児童書)で、とても読みやすかったです。
ただ、正成が湊川の戦いに敗れて自刃したのは室町幕府が成立する以前なので、「楠木正成」も、室町人物伝と銘打ったシリーズに含まれているのはちょっと微妙な気もしましたが(笑)。

コミック室町人物殿

これらの3冊に共通しているのは、そもそも児童書であるのでこれは仕方が無い事ではあるのですが、鎌倉幕府からの人心の離反、赤坂城や千早城での正成の活躍、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇による建武の新政、建武政権からの尊氏の離反、湊川の戦い、室町幕府の成立などの主要なエピソードは当然描かれているもののそれ以外のエピソードはかなり省略されており(例えば、尊氏と護良親王の対立、桜井の別れ、足利直義と高師直の対立、観応の擾乱などは、全く、もしくはほとんど、触れられていません)、そのため、どうしてもダイジェスト版のような内容になってしまっている感は拒めません。
当時の時代背景や3人各々の伝記について、それ以上詳しく知りたいお子さんは、更に別の書籍等も併せて読んで自分で勉強してネ、という事なのでしょう(笑)。


コミック「足利尊氏」に於ける、主人公の尊氏は、圧政を敷く鎌倉幕府を倒して新たに室町幕府を創設した英傑、南北朝時代の英雄にして最大の権力者、などとしてではなく、あくまでも、気弱で優柔不断で決断力にも欠ける、どことなく頼りない武将として描かれており、私としてはむしろ、ヒーロー然とはしていないその実直な描き方に好感が持てました。
尊氏は決して、信長・秀吉・家康のように自ら積極的に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではないですし、頼朝のように常に猜疑心を抱いている孤高な独裁者タイプの武将でもなく、私が抱く尊氏像は、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある“おぼっちゃん”ではあるけれど、その割には傲慢な所や私利私欲は全く無く、育ちがいいだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確かに持っている、というイメージです。
尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権による失政の受け皿となった、という点だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所が少なくはなかったのではないか、と私は思っています。

コミック「後醍醐天皇」に於ける、主人公の後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも傑出してカリスマに満ち、且つ聡明で、「延喜・天暦」の時代を模範として高く遠大な理想を掲げていた天皇として描かれていましたが、その信念は余りにも一途で強固過ぎ、後醍醐天皇の目指す天皇親政・律令国家再興という理念と、延喜・天暦の頃とは違い時代を動かす主勢力はもはや朝廷や公家ではなく武家に移行しているという現実との乖離も描かれており、この作品「後醍醐天皇」もなかなか興味深かったです。
作中の後醍醐天皇は、窮地に陥ってもほとんど弱音をはく事はなく、安易に妥協する事もない、とても凛々しく力強い天皇として描かれておりました。そもそも、「朕が新儀は未来の先例たるべし」「玉骨はたとひ南山の苔に埋ずむるとも魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と仰せられる程の凛とした後醍醐天皇に弱々しいイメージは皆無なので、作中の後醍醐天皇は、恐らく大多数の人が思い描くイメージ通りの後醍醐天皇であったと思います。
京都から吉野へと遷って以降のエピソードとしては、実子である恒良親王の薨去を母親として悲しむ阿野廉子を咎めたり、それに対して「主上は血を分けた自分の御子がかわいくはないのですか…」と問い返す廉子に、一人の父親としてではなくあくまでも公人としての立場から「嘆き悲しむ帝に民がついてくると思うてか?朕は帝ぞ!」と言い放たれたりする様なども描かれておりました。

コミック「楠木正成」に於ける、主人公の楠木正成は、よく強調される朝廷・後醍醐天皇への一途な忠誠心についてだけではなく、相応の財力と共に、戦いに於いては臨機応変な兵員動員力にも富み、特に奇計・謀計を主としたゲリラ戦(籠城戦)を得意としていた事などが具体的に描かれており、この作品も面白かったです。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての激動期に忽然と現れて、その持てる智力・胆力・人徳を背景に、武将として天才的ともいえる能力を発揮した正成は、やはりカッコイイです。
それにしても、この作品を読み終えて改めて思ったのですが、朝廷内に正成の良き理解者となってくれる人物がほとんどいなかった事が、正成にとっての何よりの不幸だったのかもしれませんね…。


というわけで、私としても3冊とも、お子様に読ませるにはオススメの歴史(伝記)マンガです!


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時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (後編)

前編から続く)

戦前の日本では、楠木正成は「忠臣の鏡」「大楠公」として過剰なまでに高く評価され、逆に、その正成を討った足利尊氏は大極悪人と解される事が多かったため、明治時代に於いても、常に正成は高く評価され、尊氏は逆賊視されていたのであろうと思っている人が多くいますが、少なくとも明治時代前期から中期にかけての時期は、実はそうでもありませんでした。

明治期にヨーロッパの近代歴史学が入ってくると、史学界では太平記の史料的価値が疑われるようになったため、正成は一般の庶民には尊敬されていたものの、史学の分野に於いては正成の評価は下がっていきます。
東京帝国大学に初めて国史科が出来た頃、重野安繹(しげのやすつぐ)、久米邦武(くめくにたけ)、星野恒(ほしのひさし)という3人の博士が教授になりましたが、3人共、正成の事は随分と低く評価をしました。

重野博士は、「正成は忠臣の道を守らず、自分の意見が朝廷に採択されないので腹を立て、やけを起こして国家を棄て天子を残し、わがままにも討ち死にせんとして湊川に行った」と述べ、久米博士は、「大将というのは一人になっても生き抜くのが本当だ。敗死を覚悟で戦に行くのは真の大将ではない」と言い、星野博士は「初めから死ぬつもりでいた事は良くない」と断じました。
また、ヨーロッパで史学研究をして帰国した坪井九馬三という学者は、「湊川の戦いは現代の暦に直すと7月12日である。そのような暑い季節に午前10時から午後4時まで6時間にも亘って16回も戦闘を行ったため、楠木軍は疲労の極に達して、自殺行為のような戦いをしたのだろう」と、論旨明快な推測をしました。

更に、この時期の代表的な啓蒙家である福沢諭吉も、正成の事は低く評価していたと云われています。これは、俗に「楠木正成権助論」もしくは「楠公権助論」と云われるもので、その趣旨は、概ね以下の通りです。
下男の権助(ごんすけ)が主人の使いに行き、一両のお金を落として途方に暮れ、旦那に申し訳がないと言って思案を定めて、並木の枝にふんどしを掛け首を吊って自殺をする例はよくある事である。この権助が自殺する時の気持ちを察すれば、それは、主君に任務を与えられながら果たす事が出来ない事を申し訳ないと思って自決する武将の気持ちと同じである。ところが世の中の人は、権助の事は軽蔑するのに、武士の場合には石碑を立てたり神社を建てたりする。しかし、権助も忠君義士も、文明の役に立たないという点では同じであり、共に命の捨て場所を知らないのである

一般にこれは、「楠木正成や赤穂浪士の死は、世の中にとっては何の益もない、ただ私的満足のための死であり、一両の金を落として首をくくった権助の死と同じである」と福沢が言ったものと介され、そのため正成に思い入れの強かった一般庶民から福沢は様々な誹謗中傷を受けるのですが、ただ、福沢がその主張をしたとされる「学問のすゝめ」第七編には、確かに赤穂義士については具体例として文中で明示されているものの、実は正成の名前(もしくはそれを示唆するような言葉)は一言も出てきていません。
そうであるにも拘らず、正成と権助が結びついて一人歩きをしてしまい、結果的に、当時の人々の正成や赤穂義士に対する熱烈な思いが怒りとなって爆発して、福沢はバッシングを受ける事になってしまったのです。
当時の正成への大衆の人気を窺い知る事が出来る事例でもあります。


そして、一般大衆レベルでは兎も角、史学において正成の評価が下がってくると、今度はそれに反比例して、尊氏を悪人と決め付けず、歴史を公正に評価しようという流れが主流になってきます。
国定教科書というのは国家がつくる教科書の事ですが、明治37年版の国定教科書「小学日本歴史」には、当時のそういった流れを反映して、後醍醐天皇の建武の新政については以下のように書かれました。
かく一統の政治や整ひしかども、弊害、従ひて起り、内奏、しきりに行はれて、賞罰、その富を得ざるもの多かりき
天皇はまた兵乱の後なるにもかかはらず、諸国に課して大内裏を造営せんとしたまふなど、民力の休養に怠りたまふこともありき。されば新政に対する不平は、しきりに起り、人々、中興の政治を喜ばずして、かへつて、武家の政治を慕ひ、つひに、ふたたび、天下の大乱を見るに至れり

意外な事に、はっきりと建武の新政の混乱を述べ、後醍醐天皇の事も容赦なく批判しています。その一方で、尊氏については以下のように書かれました。
才智に富み、巧に、将士の心を収めたりしかば、人々、源氏の昔を思ひて、心を、これに寄する者多かりき

はっきりと尊氏の人柄を褒めており、これが、戦前の国定教科書の記述であるという事には少々驚かされます。
また、明治42年には、自らを平民史家と名乗る思想家・ジャーナリストの山路愛山(やまじあいざん)が、「足利尊氏」を出版していますが、この作品の中で愛山は、建武の新政や南北朝の争乱を革命と捉え、尊氏を、時代を代表する英雄として情熱的に描きました。
更に山路は、尊氏の政治活動だけではなく、尊氏の性格まで掘り下げ、尊氏は貴族的な優雅さに満ち溢れ、度量は真に海の如きである、と高い評価を下しています。

現代の人達は、「戦前は足利尊氏は逆賊、楠木正成は忠臣とされ、戦後はその反動から、尊氏の評価が高まり、正成についてはあまり触れられなくなった」と思っている人が多く、確かにそういった面はあるのでそれは決して間違いではないのですが、このように現実はもっと複雑で、戦前であっても尊氏が高く評価されたり、逆に、戦前でも正成が低く評価される事もあったのです。


しかし、その後、尊氏を高く評価する内容であった、前出の国定教科書の記述は大きな問題になります。
山路愛山の「足利尊氏」が出版されてから僅か2年後の明治44年、国定教科書が南朝を正統とせず南北朝を併記しているのはおかしい、と読売新聞が紙上で大きく取り上げたのです。所謂、南北朝正閏(せいじゅん)論争です。

読売新聞(明治44年1月19日)

丁度この頃は、明治天皇を弑逆(暗殺)しようとする計画を企てたとして幸徳秋水ら社会主義者が処刑されるという大逆事件が起こった時期であり、当時のそうした世相もあって、帝国議会も、この歴史教科書の記述を国家的な問題として大きく取り上げました。
そして、時の第二次桂太郎内閣は、国定教科書の記述は誤りであるという結論を下して、この教科書を執筆した教科書編集官の喜田貞吉を休職処分にし、この教科書の使用も禁じました。
更に同年3月、明治天皇の勅裁という形で、南朝こそが正統であると定められました。南朝と敵対した北朝の御子孫であられる明治天皇がそのようにお定めになった、というのは何とも不思議な話ではありますが、兎も角これで、公式に南朝が正統とされ、尊氏には逆賊という烙印が押される事になったのです。

そういった経緯を経て、その後の国定教科書では、南北朝時代についての記述が大きく改定されました。それまでの「南北朝時代」というタイトルは消え、この時代のタイトルは、南朝が政権を置いた吉野に因み「吉野時代」と変えられました。更に、人物評も大きく変化します。
明治44年に改定された国定教科書「尋常小学日本歴史」では、尊氏について以下のように記されました。
尊氏大望を抱き、北条氏に屈従するを快しとせず、幕府の命により兵を率ゐて京都に上るや、にはかに鉾をさかさまにして、勤皇の軍に加り、遂に六波羅を陥れしなり。されど尊氏はもとより王政の復古を希ひしにあらず、自ら源氏の幕府を再興せんとせしなり (中略) 尊氏は是等不平の武人をかたらひ、遂に鎌倉に拠りて反せり

つまり、尊氏は己の欲望のために、後醍醐天皇を利用し、その上で叛旗をひるがえして政権を奪取した、という内容で、教科書での尊氏に対しての評価は一変してしまったのです。
更に、『尊氏擅(ほしいまま)に幕府を開きしが、無道の行甚だ多く、直義とも睦まじからずして遂に之を殺し、部下の将士も屡々(しばしば)叛き』とも記され、その無道な性格のため、尊氏は部下にも全く人望が無かったというように書き改められました。
更に、教科書の巻末に付録として付けられていた歴代天皇の年表も、改定前は南北両朝並列であったものから、南朝の天皇のみを記載したものに変えられました。北朝の光厳天皇、光明天皇、祟光天皇、後光厳天皇、後円融天皇は、教科書から削除されたのです。


そして、それから20年程経った昭和9年、尊氏は再び政争の具となります。
同年、雑誌「現代」に、古河財閥を創設した実業界の重鎮で、当時は斎藤実内閣の商工務大臣でもあった中島久万吉(なかじまくまきち)の雑文が掲載されました。それは、中島が十数年前に文学雑誌に発表したものを転載(再掲載)した文章で、その内容は「尊氏は人間的には優れた人物だった」と尊氏を高評するものでした。

中島久万吉による足利尊氏についての雑文

この年は、建武の新政(当時は「建武の中興」と称されていました)から丁度600年後に当たり、後醍醐天皇と南朝の事績を顕彰する運動が全国的に盛り上がっている時期であった事もあり、「国務大臣が、逆賊である足利尊氏を讃えるとはとんでもない!」という非難が衆議院予算総会で起り、更に貴族院では、男爵菊池武夫議員が、「国務大臣の地位にある者が、乱臣賊子を礼賛するがごとき文章を天下に発表したような大問題が、議会に対し陳謝しただけで済むものではない。よろしく罪を闕下(けつか)に謝して、辞職すべきではないか」と糾弾し、子爵三室戸敬光議員に至っては、「ここは言論の府である。この私の要求を認めないならば言論破壊者である。逆賊礼賛者はまた言論の破壊者である。恐縮するだけでは足らぬ。商相としては、この際辞職し辞爵すべきである」とまで極論して、いずれもが中島を激しく批判し、斎藤首相に中島の大臣罷免を求め、本人にも爵位の辞退を要求するなどしました。
現代人の感覚からすると、これは明らかに学問・思想・言論の自由に対する弾圧であり、特に三室戸議員の極論については「オイオイ、どちらが言論の破壊者だよ」という感覚ですが、当時はこういった動きに右翼も大々的に便乗し、中島攻撃はどんどんエスカレートし、遂に中島は、自ら商工務大臣を辞職せざるを得なくなり、終戦まで隠遁生活を余儀なくされました。
しかし、実はこの過剰な中島攻撃の裏には、陸軍の大陸政策に消極的であった斎藤内閣を困らせようとする政治的な意図が隠されていたと云われています。

こうして、もはや尊氏を高評価するのは完全にタブーとなり、これ以降、尊氏の評価は更に悪化し、日本史における大極悪人というべき地位にまで落ちました。軍部や右翼などが、皇国史観を強調するための手段として、過剰なまでに正成を忠臣として持ち上げ、逆に、過剰なまでに尊氏を逆賊として吊るし上げていったのです。

中島の発言が問題視された昭和9年には、皇国史観を集大成したとされる、戦前の代表的な日本中世史家である平泉澄(ひらいずみきよし)が、「建武中興の本義」を出版していますが、平泉は同書の結論部に於いて、以下のように述べています。
建武中興失敗の原因は明瞭となった。即ちそれは天下の人心多く義を忘れて利を求むるが故に、朝廷正義の御政にあきたらず、功利の奸雄足利高氏誘ふに利を以てするに及び、翕然としてその旗下に馳せ参じ、其等の逆徒、滔々として天下に充満するに及び、中興の大業遂に失敗に終わったのである。ここに我等は、この失敗の原因を恐れ多くも朝廷の御失敗、殊には後醍醐天皇の御失徳に帰し奉った従来の俗説と、大地に一擲しなければならぬ

尊氏は「奸雄」であるとし、しかも、高氏が後醍醐天皇の諱(いみな)である「尊治」の尊の一字を賜り尊氏と改名した事をも認めたくないのか、わざわざ「高氏」と表記し、更に、尊氏の旗下に馳せ参じた者達をも「逆徒」呼ばわりするなど、尊氏に対しての評価は最低です。
教科書の記述も、尊氏に対しては更に厳しくなり、昭和18年に編纂された国定教科書「初等科国史」には、以下のように書かれました。
足利尊氏が、よくない武士をみかたにつけて、朝廷にそむきたてまつつたのです。
尊氏は、かねがね、征夷大将軍になつて天下の武士に号令したいと、望んでゐました。北条氏をうら切つて、朝廷に降つたのは、さうした下心があつたからです。なんといふ不とどきな心がけでせう。
しかも、六波羅を落しただけで、正成や義貞さへはるかに及ばないほどの恩賞をたまはりながら、今、朝廷にそむきたてまつつて、国をみださうとするのですから、まつたく無道とも何とも、いひやうがありません


戦後、尊氏への評価は多様な価値観の芽生えと共に一転しますが、何も、戦争が終わってすぐに尊氏の評価が好転していったわけではありません。尊氏を逆賊と決め付けず歴史を公正に評価しようという動きは、昭和30年近くになってから、徐々に広がっていきます。

昭和29年に発表された高柳光壽の論文「足利尊氏」には、尊氏が天皇に叛いた事について、以下のように書かれましたが、戦中であれば、このような内容はまず発表出来なかったであろう事は想像に難くありません。
後醍醐天皇が尊氏に庇護を加えてゐる間は尊氏も天皇に対して忠誠を尽す。けれども、天皇が尊氏の生命を奪はんとすることになれば、尊氏といへどもこれに反抗せざるを得ない。これが当時の社会通念であり、一般道徳であった

高柳は、尊氏が北条に叛いた事を称賛し、天皇に叛いた事を攻撃する従来の学説に対して、どうして、天皇に叛くのは悪く、北条に叛くのはなぜ良いのであろうかと反論し、観念的に、忠義は報賞を予想するものではないと説くが如きは、為政者の代弁に過ぎないと厳しく批判しました。

昭和32年に発表された林家辰三郎の論文「足利尊氏」では、大きな歴史の流れの中で後醍醐天皇のように律令国家を復活させる事が正しい道なのかどうかをはっきりと見極める事が大切であり、全国の名主階級に基礎をおいた守護大名制を伸ばしていく事が社会発展のための大道であったと論じられ、その意味で、尊氏は時代の進歩を担う存在であったと述べられました。
また、1336年に清水寺に納めた尊氏願文や、観音・地蔵に対する信仰などから、尊氏の武将としての強さの陰に人間らしい弱さを読みとり、「そのような尊氏であったからこそ、ついに幕府の創設をも成し遂げる事が出来たのだ」とも述べられ、全体的に尊氏に対しては高い評価が与えられています。

しかし、これらの論文は、国民の間で広く読まれたというわけではなく、大多数の人達の認識としては、戦後も暫くの間は、やはりまだ「正成=忠臣、尊氏=逆賊」であったと思われます。
一般庶民の間でも尊氏への評価が好転する大きなきっかけとなったのは、時代小説の大家であった吉川英治が著した長編小説「私本太平記」でした。
吉川は、昭和33年から数年間に亘って「私本太平記」を執筆しますが、この作品に主人公として登場した尊氏は、ひとりの男として、また正直なロマンチストとして、人間味たっぷりに生き生きと描かれました。
また吉川は、尊氏について「随筆私本太平記」の中で、『尊氏は、いわば颱風時代に揉まれた生命中の巨なるものだ』と、最大級の賛辞も贈っています。
南北朝時代は日本の歴史が始まって以来、稀にみる動乱期であり、吉川は、政治的にターニングポイントを迎えた混沌としたその時代に、日本を一定方向に導いた巨星として、尊氏を高く評価したのです。

もっとも、尊氏を高評価する動きに反発した人もいました。
先程、戦前の代表的な日本中世史家である平泉澄の「建武中興の本義」を紹介しましたが、その平泉は、昭和45年に著した「少年日本史」という本の中で、以下のように述べています。これは子供向けの本だけに、平泉の主張が平易に述べられており、平泉の歴史思想、それも晩年の完成したものをここからは手っ取り早く理解する事が出来ます。

彼等(引用者註-足利氏)には道徳が無く、信義が無く、義烈が無く、情愛が無いのです。あるものは、只私利私欲だけです。すでに無道であり、不信であり、不義であり、非情であれば、それは歴史に於いて只破壊作用をするだけであって、継承及び発展には、微塵も貢献する事は出来ないのです
それ故に吉野時代(引用者註-南北朝時代)がわずか五十七年の短期間であるに拘らず、我が国の歴史に貢献する所、極めて重大であり、記述するべき事の豊富でありますのは、一に吉野の君臣の忠烈、日月と光を争った為であって、足利主従は之に対して逆作用をしたに過ぎないのであります。従って其の吉野の忠烈さびしく消えて、世の中は只足利の一色に塗られた室町時代は、たとえ時間の上では百八十二年、吉野時代の三倍を越えたにしても、是と云ってお話すべき価値のあるものは無いのです

つまり、室町幕府や足利将軍は日本史の継承や発展には全く貢献せず、ただただ歴史を破壊してばかりであり、だから室町時代について特筆するべき価値のある事など微塵も存在しない、という事です。まさに、戦前・戦中の「尊氏=逆賊」史観そのものです。


しかし、吉川の「私本太平記」以降、一般には尊氏が逆賊視される事は少なくなりました。
そして、その「私本太平記」を原作として、平成3年にNHKの大河ドラマで「太平記」が放送され、主人公の尊氏役に、二枚目俳優の真田広之が抜擢されると、尊氏は一躍国民的な英雄として認知されるようになり、新時代を築いた英雄として高く評価されるようになりました。

真田広之(足利尊氏)

勿論、現代でも尊氏は常に高く評価されているというわけではありません。
例えば、吉川英治の弟子で、師の作品である「私本太平記」の執筆も手伝っていた杉本苑子は、平成9年に、尊氏を主人公にした小説「風の群像」を出版しますが、この作品の中での尊氏は、基本的には好漢として、人間味たっぷりに描かれているのですが、尊氏の言動は必ずしも常に絶賛されているわけではありません。
杉本は、『尊氏の大腹中な温情主義は、武士どもを(中略)つけあがらせもした』と断じ、しばしば他者からは尊氏の寛大さや度量の大きさとして評価される部分を、武士の棟梁としてはリーダーシップに欠けていた、どこか頼りない性格として捉えました。
尊氏の“情に溺れる甘さを捨て得なかった”その性格と“統率力に欠けるところ”を、家臣団を制御しきれず、なかなか堅固な政治基盤を形成出来なかった初期の室町幕府の性格と重ね合わせてのでした。

ちなみに、戦前に尊氏を高く評価して激しく非難され、終戦まで隠遁生活を余儀なくされた前出の中島久万吉 元商工務大臣は、戦後は名誉を回復し、日本貿易会を設立して会長を務めるなどして活躍し、昭和35年に死去しました。

現在では、(そういう立場ではない人も勿論いますが)一般的には、南朝、北朝のどちらが正統であったかと論じられる事はほぼ無く、南北朝時代は、ふたつの朝廷が並立していた、という歴史的な事実として受け止められています。
それにしても、時代によってこうも激しく評価が変わるとは、足利尊氏という人物は、本当に奥が深いです。以前の記事でも書きましたが、私自身は、足利尊氏も楠木正成も、どちらも、武将としても一人の人間としても大変魅力的な好漢であったと思っています。


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時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (前編)

日本史に登場する人物の中には、平清盛、松永弾正、明智光秀、吉良上野介、徳川綱吉、田沼意次、井伊直弼など、戦前はどちらかというと“悪役”というイメージが強かったものの戦後はそのイメージが徐々に薄まり“時代の先駆者”や“偉大な名君”として評価される事も多くなってきた、という人物が少なからずおり、逆に、和気清麻呂、菅原道真、児島高徳、山中鹿之助、二宮尊徳、高山彦九郎、乃木希典など、戦前・戦中はほとんど誰もが知っている人物であったにも拘らず戦後はすっかり影が薄くなってしまった、という人物も少なくはありません。
昨年3月11日の記事で詳述したように、鎌倉時代末期及び南北朝時代の名将・楠木正成も、時代によって評価が大きく変わる事で知られています。しかし、私が知る限り、時代によってこうも評価が激変するのか、という程、最も評価が二転三転している人物は、何といっても、やはり足利尊氏です。

足利尊氏(浄土寺蔵)

尊氏は、南朝が正統である事が特に強調された戦前・戦中は“朝廷に弓を引いた逆賊”とされ、徹底的に酷評されたものの、戦後は一転して、それまでの皇国史観に対する反動から、また、吉川英治の長編歴史小説「私本太平記」やNHK大河ドラマ「太平記」で主人公として取り上げられた事などから“室町幕府を開いた英雄”として再評価されるようになった、という事は、一般にもそれなりに知られており、確かにそれは間違いではないのですが、実際には、尊氏に対しての評価の変遷はそのように単純なものではありません。もっと複雑です。
今回(前編)と次回の記事(後編)では、尊氏への評価の変遷について、正成への評価の変遷も絡めながら、おおよその時代毎にまとめてみたいと思います。


まず、尊氏と同時代に生きた人達の、尊氏に対する評価をみてみましょう。
尊氏・直義兄弟や、後醍醐天皇など、南北朝の立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、1349年頃に成立したとされる、鎌倉幕府崩壊から室町幕府創成期までが描かれている歴史物語「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた源頼朝と尊氏を比較し、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方で尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と絶賛しています。
更に疎石は、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」とし、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。
尊氏は疎石に深く帰依していましたが、疎石もまた、尊氏に対しては深い尊敬の念を抱いていたようです。

しかし、尊氏と同時代に生きた人達の中には、尊氏の事を酷評する人もいました。
例えば、南朝方の代表的な武将の一人である新田義貞は、尊氏の事を強く憎んでいました。尊氏は、関東に於ける管領の勅許を朝廷から得た事を理由に、新田一族が鎌倉幕府を滅ぼした恩賞として拝領した領地を没収し、それを、自分の家臣達や自分に味方してくれた武将達に恩賞として分け与えるなどしたのですが、義貞もその報復として、足利一族の領地を取り上げるなどしたため、祖先を同じくする源氏一門でありながら足利と新田は激しく対立するようになり、そのような折、尊氏が朝廷に義貞追討を上奏したと聞き、ついに義貞の怒りは頂点に達します。
義貞は後醍醐天皇に、「尊氏・直義兄弟は、無能無才で卑しい身分を恥じず、共に高い地位に就いています」「鋭利な剣で切り裂くように、逆臣尊氏・直義兄弟を誅伐すべきとの宣旨をいただきたい」という旨の内容を上奏し、尊氏の事を“無能無才で卑しい身分”と激しく罵っています。

また、南朝の有力な公家でありながら、南朝方の武士を率いて各地を転戦するなど武将としても活躍した北畠親房も、尊氏を「功も無く徳も無き盗人」などと酷評しています。
親房は、武士とは常に天皇や公家に従属すべきもの、という考え方を持っていたため、武家が公家と同等の存在になる事を認めませんでした。親房のその視点に立つと、鎌倉幕府が滅びたのは朝廷の威光と時の運によるものであり、武士の力によるものという認識は誤っており、そうであるにも拘らず、それを自分の手柄と思っている尊氏は「功も無く徳も無き盗人」となるのです。
更に親房は、代表的な著作の一つである「神皇正統記」の中で、尊氏の事を「凶徒」「朝敵」とも記しており、後の「尊氏=逆賊」というイメージはこれが端緒となっているのではないかと云われています。


しかし、その後は、尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていきます。
尊氏が生きていた時代は南北朝動乱の激動期で、尊氏が築いた新政権はまだ安定しておらず、南朝との戦いだけではなく幕府でも内紛が起こるなど尊氏にとっては敵や戦が多い状況でもあったため、そういった当時の状況を反映して、尊氏の事を褒め称える人が多くいる一方で、尊氏の事を厳しく評価する人もまた多くいたわけですが、尊氏の死後暫くして、室町幕府が全国的な統一政権として安定してくるようになると、当然の事ながら、その幕府を創設した尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていったのです。

室町幕府は、3代将軍足利義満の時代を最盛期として、その後は次第に衰退していき、戦国時代になると、幕府は本拠地である山城国一国の維持すら困難な程弱体化しますが、それでも、尊氏が酷評される事はほとんどありませんでした。
室町時代から江戸時代中期頃までは、一般的に北朝が正統と認識されており、その歴史観に立てば、楠木正成を始めとする南朝の武将達のほうが“朝廷に弓を引いた逆賊”であり、尊氏は朝廷(北朝)を支えた勲功第一の忠臣であったからです。
室町時代半ばに、後小松天皇の命により洞院満季が撰進した、皇室の系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、北朝が正統であるという立場が採られており、室町幕府と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、天皇としては認められていません。
ちなみに、戦前・戦中に忠臣の鏡として大絶賛された楠木正成は、後述する水戸藩の「大日本史」で高く評価されるまで、むしろ、大多数の日本人にはほぼ忘れ去られた存在であり、正成の価値は、江戸時代になってから“再発見”されたといえます。

江戸時代に入ってからも当初は、尊氏は優れた武将である、という評価に大きな変化はありませんでした。
徳川家康は、徳川家は南朝方の武将であった新田氏の後裔であると自称しますが、南北朝時代の解釈については、室町幕府の立場を引き継いで北朝を正統としたため、その北朝を建てた尊氏の評価が急に下落するような事は無かったのです。

その評価に大きな変化が生じるようになったきっかけは、時代劇の“黄門様”として広く知られている、第2代水戸藩主の徳川光圀です。
光圀は、有力な徳川一門(御三家)でありながら、徳川将軍家(江戸幕府)とは立場を異にし、あくまでも天皇の権威を基にして、その上で幕府中心の統治を行うべきという立場でした。
幕末期に尊王派の思想形成に大きな影響を及ぼした歴史書「大日本史」は、光圀のその立場から水戸藩が編纂したもので(大義名分論史観から尊皇論が貫かれています)、大日本史の中では、南朝こそが正統であり、南朝と対決した尊氏は天皇に逆らった悪人であると評されました。
更に光圀は、後醍醐天皇のために討ち死にした正成こそが忠臣であると讃え、正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と題する墓碑も立てるなどしました。

そして、江戸時代中期以降になると、大衆レベルでも尊氏や正成に対しての評価が次第に変わっていきます。
1748年に成立し、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として爆発的な人気を博し、現在に至るまで上演され続けている「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」は、よく知られているように赤穂浪士の仇討ち事件を題材としているのですが、当時はそのままでは上演が許可されなかったため、劇中の時代背景を南北朝時代に移していたのですが、その中で、大石内蔵助は大星由良之助という人物に置き換えられました。

仮名手本忠臣蔵

そして、その大星由良之助のモデルになったのが楠木正成であったと云われ、その由良之助に討たれる吉良上野介の役は、尊氏の側近であった高師直が実名で登場しました。これは、尊氏を始めとする北朝側の人物が、当時の大衆にどのように認識されていたかを示す一例として注目されます。
ただこの認識は、当時の一般庶民が必ずしも「南朝が正統であり、その南朝に殉じた正成は忠臣である」という明確な史観を持っていた事を示すものとまでは言い切れず、日本人はその国民性として、敗者に同情したがるという“敗者の美学”とでもいうべき特有の観念があり(例えば、源頼朝よりも頼朝に討たれた弟・義経のほうが昔から人気が高い事や、曽我物語や忠臣蔵などの仇討物語が時代を超えていつの世からも人々から賞賛される事や、幕末期の会津藩白虎隊が悲話として後世に語り継がれる事など)、その観念に基づいて、滅び去った南朝方に同情の念を抱いたという面も多分にあったであろうと推察されます。

しかし、江戸時代中期でも、正成に対する批判は少なからずありました。
例えば、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)は、著書「駿台雑話」の中で、「正成は孔孟の道を学ばず、孫子・呉子の道を学んだから、三国志の諸葛孔明に比べて人物が落ちる」とし、特に湊川で自害する時に弟の正季と共に「七生報国」と言ったのは、「甚(はなは)だ陋(つたな)し」と非難しています。
また、山城国正法寺の僧、釋大我(しゃくたいが)も、「楠石論(なんせきろん)」で正成の死を激しく非難しています。


そして幕末になって、江戸幕府の権威が大きく揺らぎ出し、尊皇攘夷・倒幕の動きが加速化していくと、前出の「大日本史」の影響を強く受けた強烈な尊王主義者達は、尊氏の事を“天皇に叛いて政権を奪った憎むべき逆賊”と評価するようになっていきます。
江戸幕府の威光が強ければ、水戸藩のような例外を除くと、家康と同じく“源氏の長者”として武家政権を築いた尊氏を露骨に貶めるような機運にはまずならなかったのでしょうが、幕府の権威が失墜し、それに反比例して朝廷の権威が増大してくると、江戸幕府と室町幕府という違いはあるものの、幕府を創設した人物である尊氏は尊王主義者達から忌み嫌われる存在になっていき、逆に、“倒幕の先輩”として正成の人気は急速に高まっていったのです。

幕末期の1863年に、足利将軍の木像の首級が京都の三条河原に晒されるという珍妙な事件が起きましたが、これは、尊氏が当時の尊王主義者達から忌み嫌われていた事を端的に象徴する事件といえます。
伊予の神職である三輪田綱一郎ら十数人が、足利将軍家の菩提寺である京都の等持院に入り込んで、等持院に安置されている、尊氏・義詮・義満を象ったとされる足利将軍3代3人の木像の首を斬り取り、「鎌倉以来の逆臣、一々吟味を遂げ、誅戮致すべきの処、この三賊、巨魁たるによりて、先ず其の醜像へ誅を加ふる者なり」と書いた木札を掲げて、河原に晒したのです。
犯人達はいずれも強烈な倒幕・尊王主義者であり、朝廷をないがしろにし、列強に屈する幕府の弱腰を非難し、足利将軍の首を徳川将軍に見立てて晒したとも云われています。

足利三代木像梟首事件

当時、京都所司代、京都町奉行、見廻組、新選組などの京都に於ける各治安維持機関を総括する立場であった京都守護職の松平容保(第9代会津藩主)はこの事件を知って、「足利家は朝廷から征夷大将軍に任命されており、徳川家もまた同じである。足利将軍の木像の首を晒す事は、幕府だけでなく朝廷をも侮辱する行為だ」と激怒し、直ちに犯人の捕縛を命じ、木像の首は寺に返されました。
そして、それまでは倒幕派の者とも地道に話し合っていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を取っていた容保は、この事件を契機に、倒幕派の者と話し合うのはもはや無用と悟り、倒幕派を徹底して弾圧する政策に転換する事になりました。
ちなみに、「鎌倉・室町将軍家総覧」(秋田書店刊)によると、これは像の首が寺に返されてから分かった事なのですが義満の首として晒されたのは、実は第4代将軍義持のものだったそうです。寺僧が間違えて義持の木像を義満の木像の前に並べてしまっていたため、犯人達は義持の木像を義満と思い込んでその首を斬り落としたそうです。但し、義満と義持の首を間違えたというこの話は、私が確認した限りでは「鎌倉・室町将軍家総覧」でしか紹介されておらず、その他の資料・文献には記されていないので、これが事実であったかどうかは、明確ではありません。

こういった、幕末期の、足利氏や尊氏に対しての見方、そして正成に対しての評価は、一般の民衆にも大きな影響を与えたようで、明治3年に日本を視察したグリフィスというアメリカ人がいろいろな日本人に「尊敬する歴史上の人物は誰か」と尋ねたところ、誰もが楠木正成の名を挙げた、という記録が残っています。
正成を賛美するのは戦前の日本の教育のせいである、と言う人がいますが、明治3年といえば義務教育制度施行以前であり、国家権力が自分達に都合の良い正成像を押し付けていたという事はあり得ないので、明治維新が始まって間もない時期から既に、正成の生き方を理想化する考え方が日本の社会に浸透していたものと思われます。

後編に続く)


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楠公父子別れの伝説地 櫻井驛跡

先月、京都・大阪方面を旅行した際、本年9月25日の記事で詳述した「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、国指定史跡「櫻井驛跡」を見学してきました。ここは、私にとっては今回が初めての見学でした。

ちなみに、櫻井驛跡の「駅」とは、勿論現在の駅(鉄道の施設)とは意味が異なり、大化の改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を配した役所の事です。当時は30里(約16km)毎に設けられていました。

以下に、私がこの時櫻井驛跡で撮影してきた風景・石碑・石碑の案内板等の写真をアップします。
平日の午前中で雨天という事もあったのでしょうが、私の他にも全く誰もいませんでした。

桜井駅跡_01

桜井駅跡_02

桜井駅跡_03

桜井駅跡_04

桜井駅跡_05

桜井駅跡_06

桜井駅跡_07

桜井駅跡_08

桜井駅跡_09


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桜井の別れ

本年3月11日の記事では、南北朝時代を代表する武将の一人である楠木正成(くすのきまさしげ)を取り上げましたが、その正成と、正成の息子・正行(まさつら)の二人に関するエピソードの中でも特に代表的なものといえば、何といっても「桜井の別れ」です。

この「桜井の別れ」というエピソード(「桜井の宿の別れ」もしくは「桜井の駅の別れ」とも云います)は、ある一定以上の年齢の方を除くと現在では知らないという人の方が多いのではないかと思われますが、正成・正行親子が「忠臣の鏡」として持て囃されていた戦前・戦中であれば、老若男女を問わずまず知らない人はいない程、全国的に広く知られたエピソードでした。
なぜなら、戦前・戦中の学校教育に於いては、「桜井の別れ」は必ず歴史や修身(道徳)の授業で取り上げられ、教師達は涙ながらにその情景を子供達に熱く語っていたからです。
下の肖像画は、「大楠公」と称される正成に対して「小楠公」と称される、楠木正行です。

楠木正行

「桜井の別れ」とは、桜井(現在の大阪府島本町)の駅(古代の律令制度下で駅逓事務を取扱うため設定された町場の事で、鉄道の駅とは関係ありません)での正成・正行父子の今生の別れを情緒的に描いた、太平記の中でも特に有名なシーンの一つで、一言でいうと忠義の心を問いかけるエピソードなのですが、まずは、「桜井の別れ」に至るまでの当時の国内情勢の流れを、大雑把に以下にまとめてみます。

全国の武士達の間に満ちていた建武の新政(中興)に対しての不満・失望(建武の新政が武士達から支持されなかった最大の要因は論功行賞の失敗に因ります)や、再び武家政権の復活を望む武士達の思いを背景に、鎌倉で後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏は、後醍醐天皇が差遣された新田義貞率いる追討軍を箱根で破り、そのまま京都へと進撃して、一度は京都を占拠して後醍醐天皇の親政を躓かせます。この時後醍醐天皇は比叡山へと逃れられました。

しかし尊氏の勝利も束の間の事で、その後、楠木正成や北畠顕家らの目覚しい活躍により尊氏は京都で大敗し、後醍醐天皇方の軍が再び京都を奪還して、尊氏は海路九州へと敗走して行きました。
九州へと落ちた時、尊氏の手勢は僅か500という惨めさで、後醍醐天皇は再び京都へと還幸されて天皇の親政が復活しました。

ところが、京都で大敗して九州まで逃げてきた尊氏は、九州でたちまち勢力を盛り返し、僅か四ヶ月の間に兵力を整えて大軍となり、再び京都への進撃を開始しました。
足利軍は、尊氏が率いる海路を進む軍と、尊氏の弟・直義(ただよし)が率いる陸路を進む軍の二手に分かれて京都を目指し、それを迎え撃つため後醍醐天皇も軍を差遣されますが、義貞の率いる追討軍は劣勢で、勢いのある足利軍に圧されてじりじりと兵庫まで後退していきました。

このため、後醍醐天皇は正成を召して、急いで兵庫へと下って義貞と合流して戦うようにと命じますが、これに対して正成は、以下のような提案を献言しました。以下の正成のセリフは太平記からの口語訳です。

尊氏卿が九州の兵力を率いて上洛して来たとあっては、定めてその数はおびただしい事でございましょう。味方の疲れた小勢で、この勢い付いた大軍と尋常の戦い方をしたのでは敗北は必至、ここはひとまず新田殿を都へ呼び戻し、彼をお供に、帝は前と同様比叡山にお移り下さい。私も本拠地である河内へ下って畿内の兵力を集めて、淀川尻を封鎖致しましょう。
このようにして新田殿と私で都に入った足利勢を挟み込み、兵糧を費やさせれば、敵は疲れて戦力が低下し、一方味方は日を追って集まって参りましょう。その上で新田殿は山門から、私は河内側から攻め寄せれば、敵を一戦で滅ぼす事ができると思います。
新田殿も多分そう考えておられるのでしょうが、途中で一戦もせずに退却してはあまり不甲斐無く思われるのではないかと、それを恥じて兵庫で防戦しておられるように思われます。しかし合戦は中途はどうあれ、最後の勝利が大切でございます。よくよくお考えあって御決定を下されますよう。

当時、京都の台所の過半は琵琶湖と淀川の水運が支えていた事から、京都の糧道を断つ事はさして難事ではなく、このため正成は、尊氏に京都を一旦明け渡し、兵糧が尽きるのを待って挟撃し、一挙に殲滅しようという作戦を献言したのです。
実際、正成のこの献策は、劣勢にあった後醍醐天皇方がこの状況下で勝機を生み出しうる唯一の作戦であり、諸卿も「まことに、合戦の事は武士に任せるべきだ」と正成の意見に従う決定がなされかけました。
しかし、諸卿の中の一人である坊門清忠が、以下のように正成の献策に対して異議を差し挟み、結局正成の献策は否定されてしまいました。以下の清忠のセリフも太平記からの口語訳です。

正成の言う所ももっともではありますが、勅命を受けて出発した将軍の義貞が一戦も交えないうちに、我々がいち早く都を棄て、一年のうちに二度までも帝が比叡山に避難されるというのでは、帝の威厳が失われ、かつ官軍の面目も失われてしまいます。尊氏がいくら筑紫の兵力を率いて上洛して来るといっても、よもや昨年関東八カ国の軍勢を従えてやって来た時以上の事はありますまい。
この度の合戦にあっては初戦から敵が西国へ敗走するまで、味方は小勢ながら常に大敵を破っております。これは武略が優れているのではなくて、ひとえに天皇の御運が天意に叶い、その助けを得られているからでございます。されば敵を都へ引き入れず、都の外で滅ぼす事も容易いはず。時を移さず、楠木は兵庫に罷り下るべきであります。

つまり、官軍の体面や面子のため、正成の献策した唯一の必勝の戦略は簡単に退けられてしまったのです。
清忠の見解は全く非現実的であり、客観的に考えても、勢いづいている圧倒的な大軍の足利軍に対して、地の利がある訳でもない兵庫の地に於いて僅かな小勢で当たれというのは、正成に対して「死ね」と言っているようなものなのですが、しかし正成は、「この上は異議を申しますまい」と言ってもはや反論はせず、自らの死を覚悟して五百余騎を率いて兵庫へと向かいました。

そして正成は、決戦の地となる兵庫の湊川へと向かう途中、それまで行動を共にしてきた11才の嫡子・正行を河内の本領へと返すのですが、この時の正成と正行の別れが、俗に「桜井の別れ」と称されているのです。
正成は既に死を覚悟しているだけに、正成・正行父子の別れは感動的でもあります。以下は、戦前の小学校で使われていた日本史の教科書「尋常小学国史」からの引用です。

この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰へるのを待つて、一度にうちほろぼさうという謀を建てたが、用ひられなかつた。それ故、正成は、おほせに従つて、ただちに京都を立つた。
途中、桜井の駅に着いたとき、かねて天皇からいただいてゐた菊水の刀を、かたみとして子の正行に与へ、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した時は、天下は足利氏のものとならう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあつても、自分に代つて忠義の志を全うしてもらひたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。
それから、進んで湊川に陣を取り、直義の陸軍と戦つたが、その間に尊氏の海軍も上陸して、後から攻めかかつて来た。正成は大いに奮戦した。
けれども、小勢で、かやうに前後(まへうしろ)に大敵を受けてはどうすることも出来ず、部下はたいてい戦死し、正成も身に十一箇所の傷を受けた。そこで、もはやこれまでと覚悟して、湊川の近くにある民家にはいつて自害しようとした。
この時、正成は弟の正季(まさすゑ)に向つて、「最期にのぞんで、何か願ふことはないか。」とたづねた。正季は、ただちに「七度人間に生まれかはつて、あくまでも朝敵をほろぼしたい。ただそればかりが願である。」と答へた。正成は、いかにも満足そうににつこりと笑ひ、「自分もさう思つてゐるぞ。」といつて、兄弟互に刺しあつて死んだ。
時に、正成は年四十三であつた。今、正成をまつつた神戸の湊川神社のあるところは、正成が戦死した地で、境内には徳川光圀の建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」としるした碑がある。実に、正成は古今忠臣のかがみである。

太平記によると、正成は正行に対して、「獅子は子を産んで3日も経てば、数千丈の谷底へ蹴落とす。もし子にその気力があれば、谷底から這い上がってくるという。お前は既に11歳である。この教訓を心の底に深く留めておくように」と言ったとも記されています。
また、河内へ帰るように諭す正成の説得に対して、正行は「父上を見捨てて帰る訳にはまいりません。どうかお供をさせて下さい」と涙を流しながら訴える場面も、ドラマや小説などではよく描かれています。

こうして、正行と別れた正成は、弟の正季と共に湊川で壮絶な最期を遂げたのですが、正成が特に立派とされたのは、敗戦必至と予測したにも拘らず(実際その通りになったわけですが)、あくまでも忠臣としての道を貫き、息子・正行にもその道を説いて、後醍醐天皇の皇恩に応えるために死を覚悟して出撃したという点です。
京都で尊氏を迎え撃つ献策が退けられ、兵庫への出陣を命じられた時、正成は、その勅命を無視して河内へ引き上げる事も可能だったはずですが、忠に生き義に殉じる覚悟を決めていた正成は、いなかる命令であれ勅定に意義を唱えるつもりはなく、死を覚悟して即座に出陣を決意したのです。

もっとも、戦前・戦中は正成のその点ばかりが過剰に喧伝されたために、戦後はその反動から、正成は一転して“皇国史観を象徴する人物”として日陰に追いやられてしまったのですが。
天皇に対する帰趨性を何としても打ち砕きたかったGHQにとっても、正成・正行の事跡を教科書から削除する事は必須だったようです。ちなみに、下の絵が、その「桜井の別れ」を描いたと伝わる絵です。

桜井の宿訣別図

そして、以下は戦前の小学校で使われたいた道徳の教科書「尋常小学修身」からの引用で、この「桜井の別れ」の後日談です。成長した正行のその後の様子が描かれています。

家に帰つてゐた正行は、父が討ち死したと聞いて、悲しさのあまり、そつと一間に入つて自殺しようとしました。
我が子の様子に気を付けてゐた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしつかりとおさへて、「父上がお前をお返しになつたのは、父上に代つて朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。
正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守つて、一日も忠義の心を失わず、遊戯にも賊を討つまねをしゐました。
正行は大きくなつて、後村上天皇にお仕へ申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかはして正行を攻めさせました。
正行は、ただちに一族四十人ばかりをつれて、吉野にまゐつて天皇に拝謁し、また後醍醐天皇の御陵に参拝して御暇乞を申し、如意輪堂の壁板に一族の名を書きつらねて、その末に、

かへらじとかねて思へば梓弓、なき数にいる名をぞとどむる

といふ歌を記し、死を決して河内に帰り、賊軍と大いに四条畷で戦つた。
この時、正行はどうかして師直を討取らうと考へ、たびたびその陣に迫つたが、身に多くの矢きずを受け、力もつきはてたので、たうたう弟の正時を刺しちがへて死んだ。ときに、正行は年やうやく二十三であつた。

正行は父の遺言通り、正成や義貞亡き後は南朝の支柱として戦い続け、狭山池尻の戦い、藤井寺の戦い、爪生野の戦いなどで相次いで幕府軍を撃退させ、目覚しい活躍を見せました。
そのため、事態を重く見た幕府は足利家の有力な武将である高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の率いる大軍を正行追討のため出陣させ、正行は四条畷(しじょうなわて)に於いて、幕府軍を迎え撃つ事になりました。

当初、正行は「敵の大軍が押し寄せて来たら金剛山に立て籠もって戦え」という父・正成の遺言に従って戦うため東条、赤坂、千早の各城の防備を固めていたのですが(実際、楠木一族は平地で大軍同士が正面切ってぶつかり合う正攻法的な合戦よりも、篭城城、山岳戦、ゲリラ戦を特に得意としていました)、その正行の戦術を理解しない公卿の北畠親房がなかなか出陣をしない正行を叱責した事から、正行は僅か二千余騎の小勢で、四国・中国・東海・東山から動員された二十ヶ国もの幕府の大軍と四条畷で戦う事になったのです。

かつて正成が、兵庫で戦う不利を説いて京都で足利軍を迎え撃つという必勝法を説いたものの、結局その献言が受け入れられなかったのと同様、正行の採ろうとした戦法も、また受け入れられなかったのです。
このため正行は死を覚悟し、出陣するとすぐに、「今生の別れに今一度竜顔(天皇のお顔)を拝したく、参内つかまつりました」と言ってまず吉野の御所を訪れました。
伝奏からその言葉を聞いた南朝の後村上天皇は、御簾(みす)を高く巻かせて正行を近くに召し寄せ、「前二度の戦いで敵軍を挫いた事を嬉しく思っている。いや二代にわたる武功、返す返すも神妙である。大敵と聞けば戦の安否が気遣われるが、機に応じて進退を決めるのが勇士の心掛けと聞いた。早まらずに命を全うせよ。お前は私の股肱の臣だ」と言われました。

しかし、勝手知ったる金剛山に篭って得意の山岳戦を挑めない以上、兵力の差が余りにも大き過ぎるこの状況下で、正行が生きて帰る事はまず望めませんでした。こうして正行は、後村上天皇に最後の挨拶をした後、後醍醐天皇陵を参拝し、その後、御陵の北にある如意輪堂に立ち寄って、その板壁に「かへらじとかねて思へば梓弓、なき数にいる名をぞとどむる」という一首をしたためて、討死を誓った143人の名を矢じりで刻みました(この歌の「なき数にいる」とは過去帳に入るという意味です)。

そして、正月5日の早朝、四条畷で、正行にとっては人生最後となる合戦の戦端が開かれ、正行達は幕府の大軍と死闘を展開しました。
正行は、討死を誓った143人と共に高師直の本陣へ駆け寄って師直の首を狙いますが、上山六郎左衛門が師直の身代わりとして討たれて師直を逃がしたため、ついに師直を討ち取る事はできず、正行達は激戦の末に敗れました。
そして正行は、父・正成と全く同じように、弟(正時)と刺し違えてその生涯を終えたのです。正行は、父・正成の精神の余りにも忠実な体現者として生き、もう一人の弟・正儀(まさのり)が正行の死後才智ある政治性を発揮したのに対し、愚直な程真っ直ぐに忠義を貫いたのでした。

現代人の一般的な感覚からは、「桜井の別れ」や、正成・正季・正行・正時ら楠木一族の生き様には、「天皇への絶対的な忠誠」というものがひしひしと感じられ、それだけに“時代錯誤”的な違和感を感じてしまう人も少なくはないようですが、しかし私としては、そういった「忠誠」や「七生報告」に象徴される楠木一族の忠臣としての一面よりも、むしろ、楠木一族の持つ絶対的な律儀さや自己犠牲の精神のほうこそ注目・強調されるべきではないかなと思っています。


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八朔と足利兄弟

今日は「八朔(はっさく)」です。
八朔とは、八月朔日(8月1日)の略で、本来は旧暦の8月1日を指すのですが、現在は新暦の8月1日(つまり今日)も八朔と云い、かつて八朔には、日頃お世話になっている人達にその恩を感謝する意味で贈り物をするという習慣がありました。
この時期は早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあったそうで、その風習が公家や武家にも広まり、全国的な風習として広まっていったそうです。

現在、八朔の風習はほとんど廃れてしまい、一般的なものではありませんが、京都を代表する花街として知られる祇園一帯では、新暦の8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へ挨拶に回るという風習が、八朔の伝統行事として新暦の現在も残っています。
礼装の黒紋付き姿の芸舞妓達が、「おめでとうさんどす。相変わりませず、おたの申します」とにこやかに挨拶を交わしながら祇園を行き交うその艶やかな風情は、夏の京都の風物詩にもなっています。

ところで、事実上の平氏政権である北条幕府(鎌倉幕府)を倒し、源氏の棟梁として新たに京都に幕府を開いた足利尊氏と、おおらかで気前が良かった反面かなり優柔不断な性格でもあったその尊氏とは対照的な性格であった、尊氏の弟・足利直義(ただよし)は、実の兄弟でありながら全くタイプの異なる武将でしたが、この二人の性格の違いを物語る逸話としてよく知られているのが、八朔の贈り物のエピソードです。
厳格な性格の直義は、八朔の習俗そのものを「無駄なもの」として嫌い、八朔の贈り物は、「賄賂は受け取らん」と言って誰からも一切受け取らず、贈られた物は全て送り返したと云われています。

それに対して、国師号を賜った当時の高僧・夢窓疎石(むそうそせき)から「勇気、慈悲、無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍」と評された尊氏は、山のように届けられる八朔の贈り物を全て受け取り、その上で、貰ったそれらの贈り物を、自分に挨拶に来た人々に惜しげもなく全て分け与え、自分の手元にはいつも何も残さなかったと云われています。
尊氏も直義も、お互いに自分の手元に八朔の贈り物は何一つ残らなかったという「結果」は同じなのですが、その結果に至る「経過」が、二人の性格の違いを如実に反映しており、興味深いです。

ちなみに、直義は、当初は献身的に兄の尊氏を支え、尊氏が京都で幕府を開いた時は、尊氏とは阿吽の呼吸で新政権を運営していましたが、後に尊氏と対立し、その対立は「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)という、全国を二分する兄弟間の戦争に発展し、最後は尊氏に敗れて無念の死を遂げました。
後醍醐天皇崩御の後、南朝の勢力は衰退する一方で、誰もが南朝は近いうちに消え去るだろうと思っていたのですが、北朝陣営の内ゲバともいえる尊氏・直義兄弟の争いが、結果的に、北朝と対立関係にあった南朝方を利する事になり、南朝はその後も暫く存続し続ける事になるのです。


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南北朝時代の代表的な甲冑

私は、日本の甲冑が好きです。単に好きなだけで、別に全然詳しくはないのですが(笑)。
というわけで今回は、甲冑、それも南北朝時代の甲冑について、かなり大雑把にではありますが紹介をさせて頂きます。

平安時代末期や鎌倉時代の武将達は、太刀や腰刀は、矢を射尽くした時の決戦時や、平時の際の武器として使い、合戦に於いては、専ら馬に乗って弓矢を主要な武器として戦いました。
そのため当時の甲冑「大鎧」は、馬上で弓矢を操作しやすい機能と構造を持ち、また、敵の弓矢を防ぐために堅牢でなければなりませんでした。そういった構造のために甲冑の重量はかなり重くなりますが、この負担は馬に乗るので然程でもありませんでした(但し、大鎧はあくまでも武将の甲冑であり、一般の兵卒はもっと簡易な、胴丸系の甲冑を着ていました)。

しかし、南北朝時代になると、騎馬で駆け回るには不適当な山中や丘陵地が戦場となる事が多くなり、どうしても歩兵戦が増え、また、戦闘の様相も一騎がけから集団での激しい接戦や大規模な戦闘に発展していったため、もっと身軽に動くため、従来の大鎧は改造されて軽量化され、軽快な胴丸(従来の胴丸より更に発展したもの)や腹巻となりました。
しかし、伝統的な大鎧も、名のある武将の間では依然として使用されてもいました。

以下に、そのような南北朝期の甲冑のうち、現存するものの一部(特に代表的な甲冑)を写真と共に紹介させて頂きます。


南北朝時代の甲冑_07

▲ 黒韋威胴丸 (くろかわおどしどうまる)
兜、大袖付 一領。 広島・厳島神社所蔵。 国宝。 盛上小札の手法や金具廻の様相から推して、胴丸の盛期である南北朝時代の代表的遺品とされています。


南北朝時代の甲冑_08

▲ 白糸威肩赤胴丸 (しろいとおどしかたあかどうまる)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 重文。 南部政長が奉納したと伝えられる、南北朝時代から室町時代にかけての典型的な胴丸です。


南北朝時代の甲冑_31

▲ 萌葱綾威腰取鎧 (もえぎあやおどしこしとりよろい)
大袖付 一領。 愛媛・大山祇神社所蔵。 重文。 繊弱な綾威鎧の色調に、中世武士の優雅な出で立ちが偲ばれます。綾威しの甲冑は上級武士の出で立ちとされますが現存するものは少なく、貴重な甲冑です。


南北朝時代の甲冑_32

▲ 白色威褄取鎧 (しろいとおどしつまとりよろい)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 国宝。 南部信光が南朝の後村上天皇から拝領したと伝わる、南北朝時代の特色をよく示す甲冑です。


南北朝時代の甲冑_35

▲ 紫糸威肩白浅葱鎧 (むらさきいとおどしかたじろあさぎよろい)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 重文。 兜の鍬型を欠失しているものの、他は全て完存で、雄大で作域の優れた、南北朝時代の典型的な甲冑です。これも南部氏の奉納と伝えられています。


南北朝時代の甲冑_36

▲ 黒韋威矢筈札胴丸 (くろかわおどしやはずざねどうまる)
兜、大袖付 一領。 奈良・春日大社所蔵。 国宝。 兜鉢や饅頭しころなどの様相から、南北朝時代初期のものと推察される胴丸で、楠木正成が奉納したと伝えられています。


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