この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

南北朝時代・太平記

後醍醐天皇をお祀りする吉野神宮を参拝してきました

私は今月の初め頃、2泊3日の日程で、関西(主に吉野・京都・大阪など)を旅行してきました。
2日目の朝からお昼にかけては、日本を代表する桜の名所としても知られる、奈良県の吉野方面を車で回ってきたのですが、その際、同県吉野町に鎮座する吉野神宮にも立ち寄り、同神宮を参拝・見学してきました。

吉野神宮は、南北朝動乱の悲史に於ける主人公のおひとりで、天皇親政による「建武の新政」(建武の中興)を行い、その後吉野に南朝を開かれて京都の北朝や室町幕府と戦われた、太平記でお馴染みの第96代・後醍醐天皇を主祭神としてお祀りするお宮です。
下の画像は、日本史の教科書にもよく掲載されている、その御醍醐天皇の肖像画です。いくつか伝わっている御醍醐天皇肖像の中でも特に有名な画像で、法服である袈裟を着て密教の法具を両手に持たれており、天皇としてはかなり“異形”なお姿で描かれています。また、天皇の上方(頭上)には、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三社託宣が掲げられています。

後醍醐天皇

歴代天皇の中でも傑出した政治力とカリスマ性を発揮され、天皇親政・公家一統の政治の実現を只管目指されて武家政権と激しく対立し続けるも、遂に京都奪還を達し給わず御無念のうちに吉野の山奥に崩ぜられた後醍醐天皇の崩御から550年が経った明治22年(大日本帝国憲法が発布された年)、かつて南朝の本拠であった吉野山で後醍醐天皇の御霊を慰撫するため、明治天皇が吉野神宮の御創立を仰せだされ、それを受けて明治25年に御鎮座祭が執り行われて、吉野神宮は創建されました。
最後の武家政権である江戸幕府が倒れて明治時代に入ると、かつて天皇親政を目指した南朝が再評価されるようになり、南朝関係者をお祀りする神社が全国にいくつも創建されましたが、吉野神宮は、南朝最大の中心人物である後醍醐天皇をお祀りしている事や、旧社格が最上位の「官幣大社」であった事などから、そうした「建武中興十五社」の中でも、筆頭に位置付けられました。
吉野神宮は、創建が近代なのでお宮としての歴史は然程深いとはいえないものの、以上のような経緯を持つ、南朝所縁のお宮なので、昔から太平記が好きな私としては、一度は訪れてみたいお宮でした。

なお、現在の同神宮境内地は、元々は丈六山一の蔵王堂があり、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のため挙兵された大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が吉野山に陣を構えられた際、鎌倉幕府方の侍大将二階堂道蘊(どううん)に占領されて本陣になった場所、と伝えられています。

吉野神宮_01

吉野神宮_02

南朝所縁のお宮だけあって、吉野神宮の境内に鎮座する各摂社の御祭神も、やはり、後醍醐天皇にお仕えした南朝の公家や武将達です。
具体的には、藤原(日野)資朝、藤原(日野)俊基、児島範長、児島高徳、桜山茲俊、土居通増、得能通綱の7柱が、御影神社・船岡神社・瀧櫻神社の3社で、それぞれ御祭神としてお祀りされております。

吉野神宮_03

吉野神宮は、明治25年の御鎮座から僅か30年で境内が手狭となり、神域を拡張して主要な社殿も一新する事になりました。
そのため現在の社殿は、いずれも大正11年から昭和7年にかけて改築造営されたもので、特に、三間社流造りの本殿、入母屋造りで銅板葺きの拝殿、切妻造りの神門、それを取り囲む玉垣などは、昭和(戦前)の近代神社建築を代表する様式となっています。

吉野神宮_03b

吉野神宮_04

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吉野神宮_06

ところで、神社の社殿(本殿・拝殿など)は、ごく一部の例外を除いて、そのほとんどは南か東を向いて建てられるのが通例ですが、吉野神宮の社殿は、珍しく北を向いています。
これは、御祭神の後醍醐天皇が、京都への御帰還を強く熱望されながらも南朝の勢力衰退によりそれが叶わず崩御されたため、後醍醐天皇のその心情を酌んで、北、即ち吉野から見た京都方面に向けられた事に因ります。
全く同じ理由から、後醍醐天皇の勅願寺であった如意輪寺の裏山に築かれた塔尾陵(後醍醐天皇の御陵)も、皇室の墓陵の中では唯一の北向きとなっております。

下の画像は、後醍醐天皇の崩御の様子が描かれたものです。御病気が重く、最早再起は不能と御自覚された後醍醐天皇は、義良親王(後村上天皇)に譲位され、御遺勅として、南朝関係者一同に新天皇に忠義を尽くすよう命じられ、その翌日、吉野の行宮にて波瀾万丈の御生涯を閉じられました(宝算52)。

後醍醐天皇の崩御

今回私は、左右に回廊が延びる拝殿の奥にある幣殿(下の写真の看板では便宜的に本殿と書かれていますが)に昇殿し、そこで玉串拝礼もさせて頂きました。
具体的には、「修祓、玉串拝礼、塩湯で祓い」という次第で、白衣・白袴の年配の神職さん(狩衣や格衣などは着装されていませんでした)が立礼にて御奉仕して下さいました。 本殿の間近という事もあって、更に御祭神の御神威を感じ、とても厳粛な気持ちになりました。

吉野神宮_07

太平記によると、後醍醐天皇は「たゞ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)玉骨は仮ひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という鬼気迫るお言葉を遺されて、左手には法華経の五巻を、右手には御剣を持って崩御されたとあり、その最期の御様子からも、只管北天を望まれる天皇の激烈なる御気迫が伝わってきます。
まして、前出のように御自分でその想いを「妄念」と仰せられるくらいですから、私としては、吉野神宮には後醍醐天皇のその妄念や御無念の想いが今なお滞留し、失礼ながら、どこかおどろおどろしい陰気な雰囲気が漂っているお宮なのかな、という気もしていたのですが、実際にお参りしてみると、その思いとは正反対で、実に明るく清々しい、開放的な雰囲気のお宮でした。

その吉野神宮の代表的な御利益(御神徳)は、厄除け、合格祈願、病気平癒、家内安全との事です。
幾多の艱難辛苦を重ねられながらも、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権を打倒すべく精力的に活動された御醍醐天皇の芯の強さは、参拝者にも厄除けなどの恩恵をもたらすといい、また近年は、心の浄化にも効果があると云われているそうです。
崩御から六百数十年という長い時を経て、後醍醐天皇の妄念も、今はもうすっかり浄化されたのかもしれません。


ちなみに、南朝関係のスポットとしては、今回訪問の吉野神宮以外だと、私は過去に以下の社寺や関連史跡等を訪れています。

【平成27年1月】
生前は敵対関係にあった楠木正行・足利義詮両名の菩提寺である、京都の嵯峨野にある宝筐院
南朝の重鎮として活躍した北畠親房・顕家父子をお祀りする、大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社
【平成25年11月】
太平記での代表的なエピソードのひとつ「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、大阪府島本町にある櫻井驛跡
【平成23年6月】
後の南朝の有力武将となる新田義貞が、ここから海岸に沿って鎌倉へ討幕の軍勢を進めたと伝わる、鎌倉市南西部の稲村ヶ崎
後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕に多大な貢献をした護良親王をお祀りする、鎌倉市二階堂に鎮座する鎌倉宮。
【平成14~15年】
大楠公とも称される楠木正成をお祀りする、神戸市中央区に鎮座する湊川神社
小楠公とも称される楠木正行をお祀りする、大阪府四條畷市に鎮座する四条畷神社。


下の写真は、吉野神宮の境内に立てられていた、建武中興十五社の案内看板です。

吉野神宮_08


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太平記のゲームソフト

突然ですが皆さん、「PCエンジン」という家庭用ゲーム機を知っていますか?
PCエンジンとは、昭和62年にNECホームエレクトロニクスから発売された据置型のテレビゲーム機です。昭和62年というと、今から30年近くも前の事ですから、今となっては、PCエンジンはもはや歴史的な存在のレトロゲーム機ですが、発売当時は常識を覆す高速・高性能を誇った、一世を風靡したゲーム機でした。

発売翌年の昭和63年には、家庭用ゲーム機としては世界初となる専用のCD-ROMシステムも発売され、その先進性は今でも高く評価されており、任天堂の絶対的なシェアを崩すには至らなかったものの、PCエンジンは新規ハードとして一定の普及に成功しました。
ちなみに、PCエンジンは、発売当初は主に任天堂のファミリーコンピュータと競合していましたが、後には、任天堂のスーパーファミコンやセガのメガドライブなどと競合しました。

以下の写真2枚は、数ヶ月前に我が家で撮影した、PCエンジンとそのソフトです。PCエンジンの本体は何度もリニューアルされていますが、私が所有しているのは、平成6年に発売された、PCエンジンの最終型「PCエンジンDuo-RX」です。

PCエンジン_01

PCエンジン_02


さて、今回このブログでなぜ突然PCエンジンを取り上げたのかというと、それは、PCエンジン用の以下の2本のゲームソフトを紹介するためです。
平成3年にインテックより発売されたPCエンジンCD-ROMの「太平記」と、平成4年にNHKエンタープライズより発売されたPCエンジンHuCARD(ヒューカード)の「NHK大河ドラマ太平記」の2本です。数年前に中古市場で見つけて購入しました。
どちらも、当時放送されていたNHK大河ドラマ「太平記」に合せて開発・発売された、南北朝時代をテーマにした戦略シミュレーションゲームで、この時代を舞台にしたシミュレーションゲームというのはかなり珍しいです。

PCエンジン「太平記」_01

PCエンジン「太平記」_02


PCエンジンのゲームソフトの形態は、大別すると、独自の規格である「HuCARD」というROMカードと、その後の各種家庭用ゲーム機でソフトの主流となっていった「CD-ROM」の2種類があり、太平記のソフトは、上の写真を見て戴ければお分かりのように、この2種に分かれて発売されました。
メディアとしてはCD-ROMのほうが新しいのですが、両ソフトを比較すると、実際にはCD-ROMの「太平記」よりも、HuCARDの「NHK大河ドラマ太平記」のほうが、ソフトとしては後発でした。

しかし実は私、この両ソフトは、数年前に入手して以来、ずっとしまったままで、まだプレイした事はありません。近々、実際にプレイしてみようと思います!

ちなみに、CD-ROMの「太平記」のほうのキャラクターデザインは、前回の記事で紹介した横山まさみち版のコミック「太平記」の著者である、横山まさみちさんが担当されています。


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太平記のコミック

日本を代表する軍記物語のひとつ「太平記」は、古事記、今昔物語集、宇治拾遺物語、徒然草、平家物語、吾妻鏡、雨月物語などと共に、特に私が大好きな古典文学で、私にとって太平記は、数ある日本の軍記物の中ではあの平家物語と双璧を成す、最高傑作ともいえる作品です。個人的にも、結構思い入れの強い作品です。
残念ながら世間一般では、平家物語や、戦国時代を舞台とした各種の軍記物などに比べると、太平記は必ずしも内容が広く周知されているとは言い難い状況ではありますが…。

太平記は、軍記物語の傑作としてのみならず、中世日本の代表文学のひとつでもあるため、今まで何度かマンガ化もされています。今回は私が所蔵している、それら太平記のコミック(太平記をマンガ化した作品)を、以下に5作品、紹介致します。
なお、昨年11月6日の記事で紹介した「コミック版 日本の歴史」シリーズや、本年4月24日の記事で紹介した「週刊マンガ日本史シリーズ」などは、内容的には太平記の時代も舞台となっているものの、タイトルに太平記を冠していない事から今回の記事では紹介対象から除きました。



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中公文庫『マンガ日本の古典18 太平記(上)』
中公文庫『マンガ日本の古典19 太平記(中)』
中公文庫『マンガ日本の古典20 太平記(下)』

著者:さいとう・たかを、 発行:中央公論新社、 初版:平成12年

ゴルゴ13で有名な、日本を代表するマンガ家のひとりで劇画の第一人者であもる さいとう・たかを氏が、迫真の筆致で描く、太平記の決定版といえるコミックです。
現実の歴史と虚構の物語が入り混じっている太平記を、そのまま忠実にマンガ化する事よりも、太平記で描かれている時代の一連の流れを、時系列に沿ってリアルにマンガ化しようとしたと思われる作品で、そのため、史実としての鎌倉時代末期から南北朝時代の一連の流れを知りたい人にとっては、歴史の勉強にもなる作品です。
鎌倉幕府末期から観応の擾乱までが描かれていますが、史実に拘る傾向からか、原作の太平記に登場する悪霊などのエピソードは全て割愛されています。
ちなみに、上巻の表紙は北条高時、中巻の表紙は楠木正成です。
個人的には、かなりオススメの作品です。



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『歴史コミック86 コミック太平記(一) 楠木正成 笠置の巻』
『歴史コミック87 コミック太平記(二) 楠木正成 千早の巻』
『歴史コミック88 コミック太平記(三) 足利尊氏 六波羅の巻』
『歴史コミック89 コミック太平記(四) 足利尊氏 室町の巻』
『歴史コミック90 コミック太平記(五) 新田義貞 鎌倉の巻』
『歴史コミック91 コミック太平記(六) 新田義貞 燈明寺畷の巻』

著者:横山まさみち、 発行:講談社、 初版:平成2~3年

各巻の副題を見ればお分かりのように、他の太平記のコミックとは違い、楠木正成、足利尊氏、新田義貞の3人を主人公として、2巻毎に、それぞれの主人公の視点から描かれています。
そのため、時系列的には当然重複する箇所が多数あり、また絵柄には、いかにも“昭和”という感じの古臭さも感じられるものの、ストーリーはいたって真面目で、普通に面白かったです。
義貞の視点から太平記が描かれる事はあまり多くないので、個人的には、義貞が主人公の5・6巻が新鮮でした。
あと、全体を通して、坊門宰相清忠なる人物がどうしようもない無能として描かれていたのも、印象に残りました(笑)。



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『マンガ太平記 上巻』
『マンガ太平記 下巻』

監修:兵藤裕己、 画:甲斐謙二、 発行:河出書房新社、 初版:平成2~3年

原作だと全40巻にも及ぶ長大な太平記を、僅か上下2巻のコミックとしてまとめているので、どうしてもダイジェスト版的な内容になってしまっている感は拒めませんが、その割には意外とうまくまとまっているとも思います。最後のほうは駆け足ながら、一応、原作同様、足利義詮の死去まで描かれていますし。
正成が死後に怨霊となって現れるエピソードは割愛されていますが、「宮方の怨霊六本杉に会する事」のエピソードは再現されています。太平記の中で描かれている怨霊のエピソードまでマンガ化されるのは、珍しい事だと思います。
てっとり早く太平記を知りたい人にはオススメの作品です。多少の前提知識は必要になるかもしれませんが。



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SP comics『私本 太平記 一』
SP comics『私本 太平記 二』
SP comics『私本 太平記 三』
SP comics『私本 太平記 四』

著者:岡村賢二、 原作:吉川英治、 発行:リイド社、 初版:平成19~20年

NHK大河ドラマ「太平記」の原作ともなった、吉川英治氏晩年の傑作「私本太平記」をマンガ化した作品で、私としては、絵柄、各キャラクターの魅力、ストーリー展開などにもかなり好感が持てたコミックなのですが、太平記全体では初期のエピソードにあたる、建武政権下で護良親王が幽閉される所で唐突にストーリーが終わってしまったのが残念でした。
バサラ大名の代表格といえる佐々木道誉は、所属や主人をコロコロと変える所謂“裏切り”が当たり前だった当時にあって首尾一貫、室町幕府・北朝方に仕えた、足利将軍を支え続けた幕府の重鎮ですが、このコミックでは、鎌倉幕府討幕の挙兵をするまでは、道誉と尊氏との関係はかなり緊迫したものとして描かれており、その描写も面白かったです。
あと、コミック1巻で描かれていた、日野資朝が菊王に伝言を託して日野俊基を庇うシーンは、なかなか感動的でした。資朝から俊基へのその伝言は、以下の通りです。「この資朝も貴公と同じことを考えていた。罪はどちらか一人が被ればよい。しかしその一人は、断じてこの資朝でなければならぬ。貴公よりも自分の方が上卿であり年長でもあるゆえ、鎌倉も張本人はこの資朝と断ずるはず。もし貴公が 首謀者は我なり と申せど、それによりこの資朝を不問に付すはずもない。さすれば、貴公の死は無駄になる。罪はこの資朝が一身に被るゆえ、貴公は再び都に帰り、帝座の周囲を鼓舞し続けてほしい。君よ迷うな、世に残れ…!死ぬのはこの資朝一人でよい…!」
原作の私本太平記を最後まで忠実に再現していたら、歴史物の名作マンガになったのではないかと思える作品だけに、未完が惜しまれます。



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『コミグラフィック日本の古典16 太平記』
構成:辻真先、 画:一峰大二、 発行:暁教育図書、 初版:昭和62年

ストーリーは後醍醐天皇崩御までが描かれておりますが、本としてはコミックと絵本の中間のような形態で、しかも1冊にまとまっているため、全体的に見るとストーリーとしてはかなり広く浅く、という感じになっています。絵柄は、先に紹介した横山まささみ氏のコミックよりも更に古臭く、まるで戦中か、戦後間もなくに描かれたマンガを読んでいるかのような印象を受けました。
尊氏は、戦前・戦中の歴史観を反映してか、かなり狡猾な人物として描かれており、この作品での尊氏は、全然好感の持てる人物ではありませんでした。ちなみに、尊氏の外見や容姿は、平成25年1月27日の記事で詳しく取り上げた「南北朝時代の騎馬武者像」をモデルとしているらしく、ざんばら髪が剥き出しになっているのですが、合戦の最中なら兎も角、その姿で衣冠らしい装束を着装して参内している姿には、さすがに違和感を感じました。
というわけで、これはあくまでも私の主観ですが、あえて購入してまで見る価値は低い作品です。古い作品ですから、欲しいと思ってもそもそも入手は困難だとは思いますが。



とりあえず、どの太平記のコミックを読んでも共通して感じるのは、鎌倉幕府は倒れるべくして倒れ、そして、後醍醐天皇による建武政権も、やはり倒れるべくして倒れたのだな、という事です。
後醍醐天皇がおられなくても、(その時期は確実に遅れていたでしょうが)やはり鎌倉幕府は間違いなく崩壊していたでしょうし、そして、尊氏が叛かなかったとしても(そもそも尊氏がいなかったとしても)どのみち建武政権が長期政権となる事は無かったでしょう…。


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光厳天皇の髪塔

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪、京都、四国の高松方面を旅行してきました。
3日目の午前中は京都の嵯峨・嵐山地区を散策し、その際、先月8日の記事で報告したように嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という寺院を参拝・見学してきたのですが、宝筐院を見てきた後は、嵯峨野々宮町に鎮座する「野宮神社」(ののみやじんじゃ)も参拝してきました。

そして、野宮神社を参拝した後はJR嵯峨嵐山駅から京都方面行きの電車に乗ったのですが、野宮神社から嵯峨嵐山駅へ徒歩で移動中、天龍寺の山門(正門)や京福電鉄嵐山駅の直ぐ近くでたまたま見かけたのが、この「光厳天皇髪塔」です。
光厳天皇は、持明院統の後伏見天皇の第三皇子で、一般には、「北朝の初代天皇」と解されている天皇です。足利尊氏の後ろ盾を得て復権した後醍醐天皇が、光厳天皇を廃して重祚し、その後尊氏との抗争に敗れて吉野へと逃れた事によって、吉野の後醍醐天皇と、光厳上皇の院宣を受けて京都で即位していた光明天皇により南北朝の並立が始まる事から、そういった時系列を考査すると厳密には、光厳天皇ではなく光明天皇が北朝初代の天皇なのですが…。

光厳天皇髪塔_01
光厳天皇髪塔_02

光厳天皇は、鎌倉幕府によって隠岐島へと配流された後醍醐天皇が隠岐島から笠置へと出奔した事により、幕府に擁立されて、「三種の神器」無しで践祚されますが、後醍醐天皇の綸旨を受けて討幕のため挙兵した尊氏の軍勢が京都の六波羅探題を襲撃した際、探題北条仲時・北条時益らと共に東国へ逃れようとして近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。
そして、復権した後醍醐天皇により「天皇としては即位していなかったが特例として上皇待遇とする」とされて、即位の事実も否定されてしまいます。

しかし、後醍醐天皇と尊氏が決別した後は、光厳上皇は尊氏からの求めに応じて新田義貞追討の院宣を下すなどして尊氏と協調し、室町幕府が成立してからは「治天の君」として、幕府庇護の下、北朝で院政を行います。
ところが、南朝軍が京都を一時奪回した際に南朝側に拉致されてしまい、その後は南朝側の本拠地である吉野の賀名生で失意のうちに出家し、帰京を許された後は嵯峨小倉に隠凄し、世俗を断って禅宗に深く帰依します。その後、巡礼の旅に出て、法隆寺や高野山を経て再び吉野を訪れるなどし、最終的には京都の常照皇寺で崩御されました。
武家同士、朝廷内部、武家と朝廷間、それぞれの熾烈な派閥争いに否応なく巻き込まれ、南北朝動乱に翻弄される激動の人生を送られた天皇といえます…。

「光厳天皇髪塔」は、その光厳天皇の御遺髪が納めらている場所です。その名の通り本来は髪塔でしたが、いつの頃からか「塔」は無くなり、現在は「塚」となっています。
ちなみに、光厳天皇の陵墓は、崩御の地である京都市右京区京北井戸町の常照皇寺にあり、分骨所は、大阪府河内長野市天野町の金剛寺にあります。

なお、昨年4月20日の記事でも述べたように、室町時代から江戸時代中期頃までの約400年間は、現在とは異なり一般には北朝が正統と認識されており、室町時代半ばに後小松天皇の命により洞院満季が撰進した皇室系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、光厳天皇を始めとする北朝の天皇が正統な天皇として記され、北朝と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、歴代天皇としては認められていませんでした。
しかし、昨年5月4日の記事で解説したように、国定教科書の記述内容の是非をめぐって沸き起こった南北朝正閏論争により明治時代以降(今から約100年前から)は南朝が正統とされるようになり、そのため北朝は正統性が否定されて、そのまま現在に至っています。
とはいえ、北朝側の天皇も皇族である事には変わりありませんし、そもそも現在の皇室は、血統としては南朝ではなく北朝の系統でもあるので、北朝の正統性が否定されても「光厳天皇髪塔」は今も宮内庁の管理地となっており、また、宮中では現在も、光厳天皇を始めとする北朝側の天皇も皇霊殿(宮中三殿のひとつ)で、他の歴代天皇や皇族と共にお祀りされています。


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天下分け目の合戦の舞台ともなった、東寺の不開門(あかずのもん)

先週、私は2泊3日で大阪・京都方面を旅行して来たのですが、その旅行の2日目、お昼過ぎ頃に、東寺真言宗総本山 教王護国寺を参拝・見学してきました。
ここは、平安時代初期の創建時から東寺(とうじ)の名で広く知られている、真言宗開祖の空海(弘法大師)が創建した名刹で(現在は教王護国寺が正式名称ですが、歴史的にはむしろ東寺のほうが公式名として定着していました)、真言宗の根本道場、国宝・重文など多数の貴重な文化財を所蔵する古刹、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されているお寺、京都のランドマークのひとつにもなっている日本一の高さ(54.8m)を誇る五重塔、21体の彫像により講堂内に構成される立体曼荼羅、京都観光や修学旅行の定番スポットのひとつ、などとしても有名なお寺です。

東寺の五重塔

私自身は、新幹線を利用して京都を訪れる事はほとんどありませんが、山陽・九州方面から新幹線を使って上洛する場合、京都駅に着く直前に車窓から東寺の壮麗な五重塔を見る事が出来るので、東寺(特に五重塔)を見ると、京都に帰って来た事、京都へ出張に来た事、京都に遊びに来た事などを実感するという人は、きっと多くおられるのではないかと思います。

私としても個人的に、東寺は以前から特に好きなお寺のひとつであり、過去にも何度か参拝・見学をしているのですが、ただ、前回私が東寺を訪ねてからもう十年は経っているので、今回は、懐かしくも少し新鮮な気持ちで東寺の境内を歩いてきました。
私は、東寺の中では講堂内の立体曼陀羅が最も好きで、勿論今回も見学してきましたが(講堂内は写真撮影禁止だったので残念ながら写真はありません)、このブログの性格から、今日の記事では、東寺の中では一般にはあまり注目される機会の少ない「東大門」を紹介させて頂きます。

東寺の東大門

鎌倉時代に建てられたと伝わる、東寺東側の大宮通に面しているこの東大門は、不開門(あかずのもん)とも称されており、その由来は、下の写真の看板で解説されている通りです。

東寺の東大門解説

以下の鉤括弧内(緑文字)は、東寺塔頭・宝菩提院住職の三浦俊良氏が著した「東寺の謎」(祥伝社黄金文庫)に掲載されている文章で、東大門が不開門と称されるようになった由来が更に詳しく解説されています。門前で起こった“天下分け目の合戦”についても、その前後の状況も含めて詳しく解説されており、とても参考になるので、少し長文になりますが以下に転載致します。


湊川の合戦で楠木軍が破れたという報せをきいて、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。
足利尊氏は都にはいると光厳上皇を迎え、弟の豊仁親王を擁立した。光明天皇である。
六月五日、尊氏はさらに兵をすすめ一挙に比叡山に向かった。弟直義は比叡山の寺町である西坂本に陣をおいた。対して比叡山を守備していた宮方の軍は新田義貞を総指揮官として、比叡山の僧兵も加わり足利軍と対峙した。

六月十四日、足利尊氏は光厳上皇を奉じて東寺にはいった。足利家の紋、丸に二引両の旗が、東寺の境内にたなびいた。東寺が総本陣となる。光厳上皇の御所は西院小子房、尊氏は千手観音菩薩が安置されている食堂に身をおいた。
(中略)
東寺は都城となった。四方を囲む築地の大土塀は城壁であった。境内には馬がつながれ、鎧姿の数千の軍兵であふれていた。北東に見える比叡山には、後醍醐天皇の本陣がおかれている。対峙するように東寺に足利尊氏は本陣をおいた。
(中略)
いま東寺は北朝の光明天皇の御所となり、比叡山は南朝の後醍醐天皇の御所となっていた。

六月十九日、新田義貞ひきいる宮方が反撃にでた。
六月二十日、足利軍が攻撃にでた。だが各所で敗退してしまう。やはり比叡山という山を味方につけた宮方が有利だった。山攻めは不利と見た足利尊氏は、体勢を整えて市街戦に勝敗をかけた。
六月三十日。この日、新田義貞は総攻撃をしかける。都の周囲、糺ノ森、賀茂川、桂川の西で両軍の激しい戦闘がおきた。
市街戦は東寺の北方でも勃発した。相ゆずらぬ攻防が繰り広げられた。東寺からも鬨の声にあわせて、武者の諸声が聞こえたことであろう。
新田義貞がめざすは足利尊氏がいる東寺であった。強靭な肉体に鎧をまとった二万の騎馬武者が、大宮通を東寺に向かった。名和長年ひきいる軍も猪熊通を東寺に向かってひた走った。

本陣、危うし。迎え討つ足利軍は東寺の門を開け、出撃していった。だが新田軍、名和軍ほか宮方勢は破竹の勢いで足利軍に迫った。東寺近くの六条大宮付近で両軍の激しい衝突がおこり、敵味方がみだれての攻防戦がつづいた。戦局は宮方勢にかたむきかけていた。
足利軍は苦戦をしいられた。退却するほかなかった。新田、名和軍に追われるようにして痛手をおった足利軍の武者たちが、ぞくぞくと東大門から境内になだれこんできた。
最後のひとりが境内に足を踏みいれたとき東大門は閉ざされた。その戸をめがけて、なんすじもの矢が打ちこまれた。それほどにあやうい瞬間であった。

約二万の新田、名和軍は東寺を取り囲んだ。そして宮方の総指揮官、新田義貞が門前から足利尊氏に一騎打ちを挑んだ。しかし、東大門は閉じられたまま、開くことはなかった。以来、この門を「不開門」(あけずのもん)という。
いまも不開門に残る、なんすじもの矢の痕が、このときの戦闘の凄まじさを物語っている。

さて戦局は一転して足利軍が有利となる。各所で市街戦を繰り広げていた足利勢が大挙して東寺をとり囲む宮方勢に攻めいり、ついに名和長年が討ち死にする。宮方勢は退却をよぎなくされた。
この戦いをもって両軍の明暗ははっきりとする。七月、八月と宮方勢の反撃がおこなわれるが、ことごとく失敗におわる。のちに東寺をめぐっておこなわれた戦闘が「天下分け目の合戦」といわれるゆえんである。
(中略)
天下分け目の合戦を制した足利軍が、つぎの世をとることになる。


下の絵図は、埼玉県立歴史と民俗の博物館が所蔵している「東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞」の図です。尊氏が本陣を構えた東寺(右・手前側)には、足利家の紋が入った幕や幟が棚引いております。
ここで義貞は東寺に矢文を放って尊氏に一騎打ちを呼び掛け、その挑発に対して尊氏はいきり立って「望むところだ」と腰をあげるものの、近臣から諌められて誘いに乗らなかった、とも伝えられています。

東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞

後に、室町幕府最後の将軍・足利義昭を伴って上洛した織田信長も、尊氏の先例に倣って東寺に本陣を置きました。
ちなみに、昨年3月11日の記事の後段でも紹介しましたが、東寺では平成20年に、尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要を厳修しています。


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足利尊氏・後醍醐天皇・楠木正成の、子供向け伝記コミック

先日、ポプラ社から刊行されている「コミック版 日本の歴史」シリーズの、室町人物伝の3冊「足利尊氏」「後醍醐天皇」「楠木正成」を読みました。いずれも、小学校中学年から高学年向けの内容と思われる平易な内容のマンガ(児童書)で、とても読みやすかったです。
ただ、正成が湊川の戦いに敗れて自刃したのは室町幕府が成立する以前なので、「楠木正成」も、室町人物伝と銘打ったシリーズに含まれているのはちょっと微妙な気もしましたが(笑)。

コミック室町人物殿

これらの3冊に共通しているのは、そもそも児童書であるのでこれは仕方が無い事ではあるのですが、鎌倉幕府からの人心の離反、赤坂城や千早城での正成の活躍、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇による建武の新政、建武政権からの尊氏の離反、湊川の戦い、室町幕府の成立などの主要なエピソードは当然描かれているもののそれ以外のエピソードはかなり省略されており(例えば、尊氏と護良親王の対立、桜井の別れ、足利直義と高師直の対立、観応の擾乱などは、全く、もしくはほとんど、触れられていません)、そのため、どうしてもダイジェスト版のような内容になってしまっている感は拒めません。
当時の時代背景や3人各々の伝記について、それ以上詳しく知りたいお子さんは、更に別の書籍等も併せて読んで自分で勉強してネ、という事なのでしょう(笑)。


コミック「足利尊氏」に於ける、主人公の尊氏は、圧政を敷く鎌倉幕府を倒して新たに室町幕府を創設した英傑、南北朝時代の英雄にして最大の権力者、などとしてではなく、あくまでも、気弱で優柔不断で決断力にも欠ける、どことなく頼りない武将として描かれており、私としてはむしろ、ヒーロー然とはしていないその実直な描き方に好感が持てました。
尊氏は決して、信長・秀吉・家康のように自ら積極的に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではないですし、頼朝のように常に猜疑心を抱いている孤高な独裁者タイプの武将でもなく、私が抱く尊氏像は、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある“おぼっちゃん”ではあるけれど、その割には傲慢な所や私利私欲は全く無く、育ちがいいだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確かに持っている、というイメージです。
尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権による失政の受け皿となった、という点だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所が少なくはなかったのではないか、と私は思っています。

コミック「後醍醐天皇」に於ける、主人公の後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも傑出してカリスマに満ち、且つ聡明で、「延喜・天暦」の時代を模範として高く遠大な理想を掲げていた天皇として描かれていましたが、その信念は余りにも一途で強固過ぎ、後醍醐天皇の目指す天皇親政・律令国家再興という理念と、延喜・天暦の頃とは違い時代を動かす主勢力はもはや朝廷や公家ではなく武家に移行しているという現実との乖離も描かれており、この作品「後醍醐天皇」もなかなか興味深かったです。
作中の後醍醐天皇は、窮地に陥ってもほとんど弱音をはく事はなく、安易に妥協する事もない、とても凛々しく力強い天皇として描かれておりました。そもそも、「朕が新儀は未来の先例たるべし」「玉骨はたとひ南山の苔に埋ずむるとも魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と仰せられる程の凛とした後醍醐天皇に弱々しいイメージは皆無なので、作中の後醍醐天皇は、恐らく大多数の人が思い描くイメージ通りの後醍醐天皇であったと思います。
京都から吉野へと遷って以降のエピソードとしては、実子である恒良親王の薨去を母親として悲しむ阿野廉子を咎めたり、それに対して「主上は血を分けた自分の御子がかわいくはないのですか…」と問い返す廉子に、一人の父親としてではなくあくまでも公人としての立場から「嘆き悲しむ帝に民がついてくると思うてか?朕は帝ぞ!」と言い放たれたりする様なども描かれておりました。

コミック「楠木正成」に於ける、主人公の楠木正成は、よく強調される朝廷・後醍醐天皇への一途な忠誠心についてだけではなく、相応の財力と共に、戦いに於いては臨機応変な兵員動員力にも富み、特に奇計・謀計を主としたゲリラ戦(籠城戦)を得意としていた事などが具体的に描かれており、この作品も面白かったです。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての激動期に忽然と現れて、その持てる智力・胆力・人徳を背景に、武将として天才的ともいえる能力を発揮した正成は、やはりカッコイイです。
それにしても、この作品を読み終えて改めて思ったのですが、朝廷内に正成の良き理解者となってくれる人物がほとんどいなかった事が、正成にとっての何よりの不幸だったのかもしれませんね…。


というわけで、私としても3冊とも、お子様に読ませるにはオススメの歴史(伝記)マンガです!


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阿部野神社と北畠親房・北畠顕家

先週、1泊2日で、大阪・堺方面を旅行して来た際、大阪市阿倍野区北畠の閑静な住宅街の一画に鎮座する阿部野神社を参拝・見学してきました。
この神社は、南北朝時代に南朝の有力な公卿・武将として活躍をした北畠親房(きたばたけちかふさ)と、その子の顕家(あきいえ)の二柱を御祭神としてお祀りする神社で、南北朝時代に強い関心を抱いている私としては、以前から一度訪れてみたい神社のうちの一社でした。

ちなみに同神社は、今年1月20日の記事で詳しく紹介した、建武の新政に尽力した天皇・皇子・公家・武将等をお祀りする神社によって平成4年に結成された「建武中興十五社会」に所属しており、また、それとは別に、近畿を中心とした121の社寺により平成20年に結成された「神仏霊場会」(その後151の社寺に拡大)にも所属しています。

以下の写真4枚は、いずれも私が今回の参拝・見学の際に撮影してきた、阿部野神社の境内と社殿の様子です。
職員が沢山いるような雰囲気の神社ではありませんでしたが、その割には境内の掃除は行き届いており、全体的に綺麗に整備されている神社でした。

阿部野神社_01

阿部野神社_02

阿部野神社_03

阿部野神社_04


以下の鉤括弧内(緑文字)は、阿部野神社で頂いてきた、同神社の由緒略記に書かれている「御祭神の由緒」です。北畠親房・顕家親子の経歴や功績などがまとめられています。

北畠親房公は、第六十二代村上天皇の皇子、具平親王の子息である師房が源の姓を賜ったことに始まる村上源氏の血筋を引く方でございます。
親房公は、当時の学識の高い貴族である吉田定房・万手小路宣房と並び「後の三房」と称された一人です。
また後醍醐天皇の皇子である世良親王の養育係を仰せつかったことからも、殊に天皇のご信任が厚かったといわれております。
建武の新政下では、鎮守府将軍となった御長子の顕家公と共に義良親王を奉じて奥州へ下向されます。その後、足利尊氏謀叛による二度目の京都攻めのため、後醍醐天皇が吉野御潜幸をされると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力されました。
後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論の一つである「神皇正統記」を著し、それ以外にも「職原抄」・「二十一社記」などを著して官職の本義や神社の意義を明らかにされました。
厳しい戦況下にあって親房公は、我が国の歴史と伝統を明らかにして、大義を説き、道義を教えた数多くの著述は、後世の人々に深い感動を与え、日本思想史上に大きな足跡を残しました。
興国四年(一三四三)、親房公は吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、一度は京都を回復しましたが、再び京都を脱出して賀名生にうつられました。その後も国家中興に挺身されましたが、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられました。御年六十二歳でした。

北畠顕家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三三三)八月、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、同十月、父親房公と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、陸奥はたちまちにその威風に靡きました。
延元元年(一三三六)、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功いたします。この功績により顕家公は鎮守府大将軍の号を賜ることになり、再び奥州に戻られました。
しかし、勢力を盛り返した尊氏が、兵庫の湊川で楠木正成公を破って京都を占領し、後醍醐天皇が吉野に御潜幸されると、延元三年(一三三八)京都回復のため精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し、鎌倉を落としたあと、美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いにおいては北朝方を破りましたが、同年三月十六日、摂津での戦いに惜しくも敗れられてしまい、顕家公は一時撤退を余儀なくされ、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠りました。
やがて五月十六日、賊将高師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、顕家公率いる官軍は進撃して、数刻にわたり激戦を繰りかえしました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げる結果となってしまったのです。御年二十一歳でございました。

また、顕家公は戦死される一週間前に、後醍醐天皇へ「上奏文」を送っておられます。その内容は
一 地方機関を通じて非常時に備えること
一 諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること
一 官爵登用を重んじること
一 公卿や僧侶の朝恩を定めること
一 臨時の行幸及び宴飲をやめること
一 法令を厳にすべきこと
一 政道に益無き愚直の輩を除くこと
の七箇条から成ります。
この「上奏文」は、顕家公の卓越した政治理念を知ることのできる資料として今日に至るまで高く評価されております。


北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」という言葉で始まる、親房の代表的な著書である神皇正統記をまず連想する方も多いのではないかと思いますが、この「御祭神の由緒」の中でも、やはり神皇正統記について触れられています。あくまでも“触れられている”というだけで、特に詳しい解説はありませんが。
江戸時代になってから水戸学と結びついた神皇正統記は、明治以降の皇国史観にも強い影響を与えており、その件についてはいずれこのブログでも、改めて詳しく取り上げてみたいと思っております。

そして、この「御祭神の由緒」を一読して、私が「やはりな」と思ったのは、楠木正成に対しては「公」という敬称が付けられ「楠木正成公」と称しているのに対して、高師直に対しては、わざわざ名前の前に「賊将」という言葉を付けた上で「賊将高師直」と呼び捨てにしている事です。このあたりは、当然の事ながら、この神社はやはり南朝史観の立場に立っているのだなという事を実感させられます。
ただ、その割には「建武の中興」ではなく「建武の新政」と書いていたり、また、高師直が賊将であるならその親玉である足利尊氏も当然賊将になるわけですが、尊氏に対しては、謀反を起こした、という程度の説明しかなく、特に必要以上に貶めるような記述は無いので、南朝の公卿・武将をお祀りする神社としての公の立場は堅持しつつも、意外と冷静な態度をとっているのかなとも感じました(あくまでも私が勝手にそう感じただけです)。


ところで、どうしてこの地に北畠父子をお祀りする神社が創建されたのかというと、それは、当地が北畠顕家が足利軍と戦った古戦場の近くであり、その近隣(現在の阿部野神社の御旅所)には顕家のお墓として伝えられている墓碑があった事に由来します。
顕家の墓所の存在がきっかけとなって、明治11年2月、近隣住民より、顕家をお祀りする神社を創建しようという運動が起こり、当時の政府もこれを受けて明治14年1月、御祭神を北畠顕家とその父である親房の両神とする事を決定したのです。
下の画像は、その顕家の肖像画です。いかにも“武装した青年公卿”という感じの、なかなか優雅な出で立ちです。

北畠顕家

つまり、阿部野神社の御祭神の序列としてはまず父親である北畠親房、次いで息子の北畠顕家、という順なのですが、神社創建のきっかけとなったのは親房ではなく顕家の故事であり、親房は、顕家の父親であった事から結果的に一緒にお祀りされる事になった、といえます。
こういった経緯を経て、明治15年1月24日、同神社は阿部野神社と号して別格官幣社に列せられ、同18年5月28日に創立され、同23年3月31日に鎮座祭が斎行されました。ちなみに、平成2年には、神社の御鎮座百年祭が行われました。

社殿は、昭和20年3月の空襲で一旦焼失しましたが、その後再建され、現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。
春季大祭は顕家の忌日に当たる5月22日、秋季大祭は親房の忌日に当たる10月18日で、現在、同神社の両御祭神は、勇気の神、知恵の神、学問の神として多くの崇敬を集めています。
下の写真は、阿部野神社の境内に立てられている「北畠顕家公像」と、その像の台座脇に立つ、顕家を称える歌詞の看板です。ちなみに、私が見た限り、境内に親房の像は無いようでした。

阿部野神社_05

阿部野神社_06


ところで、平成3年に放送されたNHK大河ドラマ「太平記」では、北畠親房役を近藤正臣さんが、顕家役を後藤久美子さんが演じていました。
顕家は美少年であったと云われている事から、当時“国民的美少女”と持て囃されていた女性アイドルの後藤久美子さんが顕家役に抜擢されたようですが、男性の役を女性が演じるというこのキャスティングには、私は昔も今も疑問を感じています。

北畠親房・顕家(大河ドラマ太平記)

何年か前、たまたまテレビで見たバラエティ番組の中で、昭和53年から55年にかけて放送された、堺正章さん主演のテレビドラマ「西遊記」の事が話題になっていたのですが、その番組の中である芸人さんが、三蔵法師は本当に美しい女性だ、あのドラマを見ていた当時の自分は三蔵法師に惚れていた、といった内容の発言をし、周りの芸人さん達から、「いや、本当の三蔵法師は男だから!」と突っ込まれて、その芸人さんが「えぇっ!そうだったの!」と驚くシーンがありました。ドラマの中では三蔵法師の役は女優の夏目雅子さんが演じていたため、実在もしくは原作に登場する三蔵法師も女性なのであろうとずっと誤解をしていたようでした。
こういった無用な誤解を招く事もありますし、誤解まではしなくても元の人物に対してイメージがかなり改変されてしまう(無意識のうちに勝手に中性的な人物だったのだろうと思い込んでしまう)事もあるので、宝塚歌劇のような例外を除くと、元の人物とその人物を演じる役者の性別はやはり一致させるべきだと思います。


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太平記所縁の地 稲村ヶ崎

今から3年程前、鎌倉を旅行した際に、太平記所縁の地である稲村ヶ崎を訪ねました。

稲村ヶ崎は、鎌倉市南西部の由比ヶ浜と七里ヶ浜の間に位置する、相模湾に突き出た岬で、鎌倉幕府を攻め滅ぼさんとする新田義貞が、この岬から海岸に沿って鎌倉に軍勢を進めようとするものの、波打ち際が切り立った崖となっていたためそれが出来ず、そのため義貞が、潮が引く事を祈念しながら太刀を海に投じて龍神に奉納すると潮が引いて海岸が干潟となり、そこから一気に鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼした、という、太平記でも特に有名なエピソードのひとつの舞台となった伝説地です。

新田義貞

稲村ヶ崎_01

稲村ヶ崎_02

「史蹟 稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」と刻まれた石柱や、稲村ヶ崎での義貞の伝説を記した石碑、明治天皇御製(明治天皇が義貞について詠まれた歌)が記された石碑なども立っていました。
太平記が好きな私にとって、ここは前々から一度は訪ねてみたいと思っていた場所でした。

稲村ヶ崎_03

稲村ヶ崎_04

稲村ヶ崎_05

稲村ヶ崎からは、江の島や、江の島と本土を結ぶ江ノ島大橋もはっきりと見えました。
江の島は、鎌倉の西隣の街・藤沢市にある、周囲約4km、標高約60mの陸繋島(砂州によって陸続きになった島)で、鎌倉と共に湘南を代表する一大観光地として全国的に知られています。

稲村ヶ崎から望む江の島


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時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (後編)

前編から続く)

戦前の日本では、楠木正成は「忠臣の鏡」「大楠公」として過剰なまでに高く評価され、逆に、その正成を討った足利尊氏は大極悪人と解される事が多かったため、明治時代に於いても、常に正成は高く評価され、尊氏は逆賊視されていたのであろうと思っている人が多くいますが、少なくとも明治時代前期から中期にかけての時期は、実はそうでもありませんでした。

明治期にヨーロッパの近代歴史学が入ってくると、史学界では太平記の史料的価値が疑われるようになったため、正成は一般の庶民には尊敬されていたものの、史学の分野に於いては正成の評価は下がっていきます。
東京帝国大学に初めて国史科が出来た頃、重野安繹(しげのやすつぐ)、久米邦武(くめくにたけ)、星野恒(ほしのひさし)という3人の博士が教授になりましたが、3人共、正成の事は随分と低く評価をしました。

重野博士は、「正成は忠臣の道を守らず、自分の意見が朝廷に採択されないので腹を立て、やけを起こして国家を棄て天子を残し、わがままにも討ち死にせんとして湊川に行った」と述べ、久米博士は、「大将というのは一人になっても生き抜くのが本当だ。敗死を覚悟で戦に行くのは真の大将ではない」と言い、星野博士は「初めから死ぬつもりでいた事は良くない」と断じました。
また、ヨーロッパで史学研究をして帰国した坪井九馬三という学者は、「湊川の戦いは現代の暦に直すと7月12日である。そのような暑い季節に午前10時から午後4時まで6時間にも亘って16回も戦闘を行ったため、楠木軍は疲労の極に達して、自殺行為のような戦いをしたのだろう」と、論旨明快な推測をしました。

更に、この時期の代表的な啓蒙家である福沢諭吉も、正成の事は低く評価していたと云われています。これは、俗に「楠木正成権助論」もしくは「楠公権助論」と云われるもので、その趣旨は、概ね以下の通りです。
下男の権助(ごんすけ)が主人の使いに行き、一両のお金を落として途方に暮れ、旦那に申し訳がないと言って思案を定めて、並木の枝にふんどしを掛け首を吊って自殺をする例はよくある事である。この権助が自殺する時の気持ちを察すれば、それは、主君に任務を与えられながら果たす事が出来ない事を申し訳ないと思って自決する武将の気持ちと同じである。ところが世の中の人は、権助の事は軽蔑するのに、武士の場合には石碑を立てたり神社を建てたりする。しかし、権助も忠君義士も、文明の役に立たないという点では同じであり、共に命の捨て場所を知らないのである

一般にこれは、「楠木正成や赤穂浪士の死は、世の中にとっては何の益もない、ただ私的満足のための死であり、一両の金を落として首をくくった権助の死と同じである」と福沢が言ったものと介され、そのため正成に思い入れの強かった一般庶民から福沢は様々な誹謗中傷を受けるのですが、ただ、福沢がその主張をしたとされる「学問のすゝめ」第七編には、確かに赤穂義士については具体例として文中で明示されているものの、実は正成の名前(もしくはそれを示唆するような言葉)は一言も出てきていません。
そうであるにも拘らず、正成と権助が結びついて一人歩きをしてしまい、結果的に、当時の人々の正成や赤穂義士に対する熱烈な思いが怒りとなって爆発して、福沢はバッシングを受ける事になってしまったのです。
当時の正成への大衆の人気を窺い知る事が出来る事例でもあります。


そして、一般大衆レベルでは兎も角、史学において正成の評価が下がってくると、今度はそれに反比例して、尊氏を悪人と決め付けず、歴史を公正に評価しようという流れが主流になってきます。
国定教科書というのは国家がつくる教科書の事ですが、明治37年版の国定教科書「小学日本歴史」には、当時のそういった流れを反映して、後醍醐天皇の建武の新政については以下のように書かれました。
かく一統の政治や整ひしかども、弊害、従ひて起り、内奏、しきりに行はれて、賞罰、その富を得ざるもの多かりき
天皇はまた兵乱の後なるにもかかはらず、諸国に課して大内裏を造営せんとしたまふなど、民力の休養に怠りたまふこともありき。されば新政に対する不平は、しきりに起り、人々、中興の政治を喜ばずして、かへつて、武家の政治を慕ひ、つひに、ふたたび、天下の大乱を見るに至れり

意外な事に、はっきりと建武の新政の混乱を述べ、後醍醐天皇の事も容赦なく批判しています。その一方で、尊氏については以下のように書かれました。
才智に富み、巧に、将士の心を収めたりしかば、人々、源氏の昔を思ひて、心を、これに寄する者多かりき

はっきりと尊氏の人柄を褒めており、これが、戦前の国定教科書の記述であるという事には少々驚かされます。
また、明治42年には、自らを平民史家と名乗る思想家・ジャーナリストの山路愛山(やまじあいざん)が、「足利尊氏」を出版していますが、この作品の中で愛山は、建武の新政や南北朝の争乱を革命と捉え、尊氏を、時代を代表する英雄として情熱的に描きました。
更に山路は、尊氏の政治活動だけではなく、尊氏の性格まで掘り下げ、尊氏は貴族的な優雅さに満ち溢れ、度量は真に海の如きである、と高い評価を下しています。

現代の人達は、「戦前は足利尊氏は逆賊、楠木正成は忠臣とされ、戦後はその反動から、尊氏の評価が高まり、正成についてはあまり触れられなくなった」と思っている人が多く、確かにそういった面はあるのでそれは決して間違いではないのですが、このように現実はもっと複雑で、戦前であっても尊氏が高く評価されたり、逆に、戦前でも正成が低く評価される事もあったのです。


しかし、その後、尊氏を高く評価する内容であった、前出の国定教科書の記述は大きな問題になります。
山路愛山の「足利尊氏」が出版されてから僅か2年後の明治44年、国定教科書が南朝を正統とせず南北朝を併記しているのはおかしい、と読売新聞が紙上で大きく取り上げたのです。所謂、南北朝正閏(せいじゅん)論争です。

読売新聞(明治44年1月19日)

丁度この頃は、明治天皇を弑逆(暗殺)しようとする計画を企てたとして幸徳秋水ら社会主義者が処刑されるという大逆事件が起こった時期であり、当時のそうした世相もあって、帝国議会も、この歴史教科書の記述を国家的な問題として大きく取り上げました。
そして、時の第二次桂太郎内閣は、国定教科書の記述は誤りであるという結論を下して、この教科書を執筆した教科書編集官の喜田貞吉を休職処分にし、この教科書の使用も禁じました。
更に同年3月、明治天皇の勅裁という形で、南朝こそが正統であると定められました。南朝と敵対した北朝の御子孫であられる明治天皇がそのようにお定めになった、というのは何とも不思議な話ではありますが、兎も角これで、公式に南朝が正統とされ、尊氏には逆賊という烙印が押される事になったのです。

そういった経緯を経て、その後の国定教科書では、南北朝時代についての記述が大きく改定されました。それまでの「南北朝時代」というタイトルは消え、この時代のタイトルは、南朝が政権を置いた吉野に因み「吉野時代」と変えられました。更に、人物評も大きく変化します。
明治44年に改定された国定教科書「尋常小学日本歴史」では、尊氏について以下のように記されました。
尊氏大望を抱き、北条氏に屈従するを快しとせず、幕府の命により兵を率ゐて京都に上るや、にはかに鉾をさかさまにして、勤皇の軍に加り、遂に六波羅を陥れしなり。されど尊氏はもとより王政の復古を希ひしにあらず、自ら源氏の幕府を再興せんとせしなり (中略) 尊氏は是等不平の武人をかたらひ、遂に鎌倉に拠りて反せり

つまり、尊氏は己の欲望のために、後醍醐天皇を利用し、その上で叛旗をひるがえして政権を奪取した、という内容で、教科書での尊氏に対しての評価は一変してしまったのです。
更に、『尊氏擅(ほしいまま)に幕府を開きしが、無道の行甚だ多く、直義とも睦まじからずして遂に之を殺し、部下の将士も屡々(しばしば)叛き』とも記され、その無道な性格のため、尊氏は部下にも全く人望が無かったというように書き改められました。
更に、教科書の巻末に付録として付けられていた歴代天皇の年表も、改定前は南北両朝並列であったものから、南朝の天皇のみを記載したものに変えられました。北朝の光厳天皇、光明天皇、祟光天皇、後光厳天皇、後円融天皇は、教科書から削除されたのです。


そして、それから20年程経った昭和9年、尊氏は再び政争の具となります。
同年、雑誌「現代」に、古河財閥を創設した実業界の重鎮で、当時は斎藤実内閣の商工務大臣でもあった中島久万吉(なかじまくまきち)の雑文が掲載されました。それは、中島が十数年前に文学雑誌に発表したものを転載(再掲載)した文章で、その内容は「尊氏は人間的には優れた人物だった」と尊氏を高評するものでした。

中島久万吉による足利尊氏についての雑文

この年は、建武の新政(当時は「建武の中興」と称されていました)から丁度600年後に当たり、後醍醐天皇と南朝の事績を顕彰する運動が全国的に盛り上がっている時期であった事もあり、「国務大臣が、逆賊である足利尊氏を讃えるとはとんでもない!」という非難が衆議院予算総会で起り、更に貴族院では、男爵菊池武夫議員が、「国務大臣の地位にある者が、乱臣賊子を礼賛するがごとき文章を天下に発表したような大問題が、議会に対し陳謝しただけで済むものではない。よろしく罪を闕下(けつか)に謝して、辞職すべきではないか」と糾弾し、子爵三室戸敬光議員に至っては、「ここは言論の府である。この私の要求を認めないならば言論破壊者である。逆賊礼賛者はまた言論の破壊者である。恐縮するだけでは足らぬ。商相としては、この際辞職し辞爵すべきである」とまで極論して、いずれもが中島を激しく批判し、斎藤首相に中島の大臣罷免を求め、本人にも爵位の辞退を要求するなどしました。
現代人の感覚からすると、これは明らかに学問・思想・言論の自由に対する弾圧であり、特に三室戸議員の極論については「オイオイ、どちらが言論の破壊者だよ」という感覚ですが、当時はこういった動きに右翼も大々的に便乗し、中島攻撃はどんどんエスカレートし、遂に中島は、自ら商工務大臣を辞職せざるを得なくなり、終戦まで隠遁生活を余儀なくされました。
しかし、実はこの過剰な中島攻撃の裏には、陸軍の大陸政策に消極的であった斎藤内閣を困らせようとする政治的な意図が隠されていたと云われています。

こうして、もはや尊氏を高評価するのは完全にタブーとなり、これ以降、尊氏の評価は更に悪化し、日本史における大極悪人というべき地位にまで落ちました。軍部や右翼などが、皇国史観を強調するための手段として、過剰なまでに正成を忠臣として持ち上げ、逆に、過剰なまでに尊氏を逆賊として吊るし上げていったのです。

中島の発言が問題視された昭和9年には、皇国史観を集大成したとされる、戦前の代表的な日本中世史家である平泉澄(ひらいずみきよし)が、「建武中興の本義」を出版していますが、平泉は同書の結論部に於いて、以下のように述べています。
建武中興失敗の原因は明瞭となった。即ちそれは天下の人心多く義を忘れて利を求むるが故に、朝廷正義の御政にあきたらず、功利の奸雄足利高氏誘ふに利を以てするに及び、翕然としてその旗下に馳せ参じ、其等の逆徒、滔々として天下に充満するに及び、中興の大業遂に失敗に終わったのである。ここに我等は、この失敗の原因を恐れ多くも朝廷の御失敗、殊には後醍醐天皇の御失徳に帰し奉った従来の俗説と、大地に一擲しなければならぬ

尊氏は「奸雄」であるとし、しかも、高氏が後醍醐天皇の諱(いみな)である「尊治」の尊の一字を賜り尊氏と改名した事をも認めたくないのか、わざわざ「高氏」と表記し、更に、尊氏の旗下に馳せ参じた者達をも「逆徒」呼ばわりするなど、尊氏に対しての評価は最低です。
教科書の記述も、尊氏に対しては更に厳しくなり、昭和18年に編纂された国定教科書「初等科国史」には、以下のように書かれました。
足利尊氏が、よくない武士をみかたにつけて、朝廷にそむきたてまつつたのです。
尊氏は、かねがね、征夷大将軍になつて天下の武士に号令したいと、望んでゐました。北条氏をうら切つて、朝廷に降つたのは、さうした下心があつたからです。なんといふ不とどきな心がけでせう。
しかも、六波羅を落しただけで、正成や義貞さへはるかに及ばないほどの恩賞をたまはりながら、今、朝廷にそむきたてまつつて、国をみださうとするのですから、まつたく無道とも何とも、いひやうがありません


戦後、尊氏への評価は多様な価値観の芽生えと共に一転しますが、何も、戦争が終わってすぐに尊氏の評価が好転していったわけではありません。尊氏を逆賊と決め付けず歴史を公正に評価しようという動きは、昭和30年近くになってから、徐々に広がっていきます。

昭和29年に発表された高柳光壽の論文「足利尊氏」には、尊氏が天皇に叛いた事について、以下のように書かれましたが、戦中であれば、このような内容はまず発表出来なかったであろう事は想像に難くありません。
後醍醐天皇が尊氏に庇護を加えてゐる間は尊氏も天皇に対して忠誠を尽す。けれども、天皇が尊氏の生命を奪はんとすることになれば、尊氏といへどもこれに反抗せざるを得ない。これが当時の社会通念であり、一般道徳であった

高柳は、尊氏が北条に叛いた事を称賛し、天皇に叛いた事を攻撃する従来の学説に対して、どうして、天皇に叛くのは悪く、北条に叛くのはなぜ良いのであろうかと反論し、観念的に、忠義は報賞を予想するものではないと説くが如きは、為政者の代弁に過ぎないと厳しく批判しました。

昭和32年に発表された林家辰三郎の論文「足利尊氏」では、大きな歴史の流れの中で後醍醐天皇のように律令国家を復活させる事が正しい道なのかどうかをはっきりと見極める事が大切であり、全国の名主階級に基礎をおいた守護大名制を伸ばしていく事が社会発展のための大道であったと論じられ、その意味で、尊氏は時代の進歩を担う存在であったと述べられました。
また、1336年に清水寺に納めた尊氏願文や、観音・地蔵に対する信仰などから、尊氏の武将としての強さの陰に人間らしい弱さを読みとり、「そのような尊氏であったからこそ、ついに幕府の創設をも成し遂げる事が出来たのだ」とも述べられ、全体的に尊氏に対しては高い評価が与えられています。

しかし、これらの論文は、国民の間で広く読まれたというわけではなく、大多数の人達の認識としては、戦後も暫くの間は、やはりまだ「正成=忠臣、尊氏=逆賊」であったと思われます。
一般庶民の間でも尊氏への評価が好転する大きなきっかけとなったのは、時代小説の大家であった吉川英治が著した長編小説「私本太平記」でした。
吉川は、昭和33年から数年間に亘って「私本太平記」を執筆しますが、この作品に主人公として登場した尊氏は、ひとりの男として、また正直なロマンチストとして、人間味たっぷりに生き生きと描かれました。
また吉川は、尊氏について「随筆私本太平記」の中で、『尊氏は、いわば颱風時代に揉まれた生命中の巨なるものだ』と、最大級の賛辞も贈っています。
南北朝時代は日本の歴史が始まって以来、稀にみる動乱期であり、吉川は、政治的にターニングポイントを迎えた混沌としたその時代に、日本を一定方向に導いた巨星として、尊氏を高く評価したのです。

もっとも、尊氏を高評価する動きに反発した人もいました。
先程、戦前の代表的な日本中世史家である平泉澄の「建武中興の本義」を紹介しましたが、その平泉は、昭和45年に著した「少年日本史」という本の中で、以下のように述べています。これは子供向けの本だけに、平泉の主張が平易に述べられており、平泉の歴史思想、それも晩年の完成したものをここからは手っ取り早く理解する事が出来ます。

彼等(引用者註-足利氏)には道徳が無く、信義が無く、義烈が無く、情愛が無いのです。あるものは、只私利私欲だけです。すでに無道であり、不信であり、不義であり、非情であれば、それは歴史に於いて只破壊作用をするだけであって、継承及び発展には、微塵も貢献する事は出来ないのです
それ故に吉野時代(引用者註-南北朝時代)がわずか五十七年の短期間であるに拘らず、我が国の歴史に貢献する所、極めて重大であり、記述するべき事の豊富でありますのは、一に吉野の君臣の忠烈、日月と光を争った為であって、足利主従は之に対して逆作用をしたに過ぎないのであります。従って其の吉野の忠烈さびしく消えて、世の中は只足利の一色に塗られた室町時代は、たとえ時間の上では百八十二年、吉野時代の三倍を越えたにしても、是と云ってお話すべき価値のあるものは無いのです

つまり、室町幕府や足利将軍は日本史の継承や発展には全く貢献せず、ただただ歴史を破壊してばかりであり、だから室町時代について特筆するべき価値のある事など微塵も存在しない、という事です。まさに、戦前・戦中の「尊氏=逆賊」史観そのものです。


しかし、吉川の「私本太平記」以降、一般には尊氏が逆賊視される事は少なくなりました。
そして、その「私本太平記」を原作として、平成3年にNHKの大河ドラマで「太平記」が放送され、主人公の尊氏役に、二枚目俳優の真田広之が抜擢されると、尊氏は一躍国民的な英雄として認知されるようになり、新時代を築いた英雄として高く評価されるようになりました。

真田広之(足利尊氏)

勿論、現代でも尊氏は常に高く評価されているというわけではありません。
例えば、吉川英治の弟子で、師の作品である「私本太平記」の執筆も手伝っていた杉本苑子は、平成9年に、尊氏を主人公にした小説「風の群像」を出版しますが、この作品の中での尊氏は、基本的には好漢として、人間味たっぷりに描かれているのですが、尊氏の言動は必ずしも常に絶賛されているわけではありません。
杉本は、『尊氏の大腹中な温情主義は、武士どもを(中略)つけあがらせもした』と断じ、しばしば他者からは尊氏の寛大さや度量の大きさとして評価される部分を、武士の棟梁としてはリーダーシップに欠けていた、どこか頼りない性格として捉えました。
尊氏の“情に溺れる甘さを捨て得なかった”その性格と“統率力に欠けるところ”を、家臣団を制御しきれず、なかなか堅固な政治基盤を形成出来なかった初期の室町幕府の性格と重ね合わせてのでした。

ちなみに、戦前に尊氏を高く評価して激しく非難され、終戦まで隠遁生活を余儀なくされた前出の中島久万吉 元商工務大臣は、戦後は名誉を回復し、日本貿易会を設立して会長を務めるなどして活躍し、昭和35年に死去しました。

現在では、(そういう立場ではない人も勿論いますが)一般的には、南朝、北朝のどちらが正統であったかと論じられる事はほぼ無く、南北朝時代は、ふたつの朝廷が並立していた、という歴史的な事実として受け止められています。
それにしても、時代によってこうも激しく評価が変わるとは、足利尊氏という人物は、本当に奥が深いです。以前の記事でも書きましたが、私自身は、足利尊氏も楠木正成も、どちらも、武将としても一人の人間としても大変魅力的な好漢であったと思っています。


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時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (前編)

日本史に登場する人物の中には、平清盛、松永弾正、明智光秀、吉良上野介、徳川綱吉、田沼意次、井伊直弼など、戦前はどちらかというと“悪役”というイメージが強かったものの戦後はそのイメージが徐々に薄まり“時代の先駆者”や“偉大な名君”として評価される事も多くなってきた、という人物が少なからずおり、逆に、和気清麻呂、菅原道真、児島高徳、山中鹿之助、二宮尊徳、高山彦九郎、乃木希典など、戦前・戦中はほとんど誰もが知っている人物であったにも拘らず戦後はすっかり影が薄くなってしまった、という人物も少なくはありません。
昨年3月11日の記事で詳述したように、鎌倉時代末期及び南北朝時代の名将・楠木正成も、時代によって評価が大きく変わる事で知られています。しかし、私が知る限り、時代によってこうも評価が激変するのか、という程、最も評価が二転三転している人物は、何といっても、やはり足利尊氏です。

足利尊氏(浄土寺蔵)

尊氏は、南朝が正統である事が特に強調された戦前・戦中は“朝廷に弓を引いた逆賊”とされ、徹底的に酷評されたものの、戦後は一転して、それまでの皇国史観に対する反動から、また、吉川英治の長編歴史小説「私本太平記」やNHK大河ドラマ「太平記」で主人公として取り上げられた事などから“室町幕府を開いた英雄”として再評価されるようになった、という事は、一般にもそれなりに知られており、確かにそれは間違いではないのですが、実際には、尊氏に対しての評価の変遷はそのように単純なものではありません。もっと複雑です。
今回(前編)と次回の記事(後編)では、尊氏への評価の変遷について、正成への評価の変遷も絡めながら、おおよその時代毎にまとめてみたいと思います。


まず、尊氏と同時代に生きた人達の、尊氏に対する評価をみてみましょう。
尊氏・直義兄弟や、後醍醐天皇など、南北朝の立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、1349年頃に成立したとされる、鎌倉幕府崩壊から室町幕府創成期までが描かれている歴史物語「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた源頼朝と尊氏を比較し、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方で尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と絶賛しています。
更に疎石は、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」とし、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。
尊氏は疎石に深く帰依していましたが、疎石もまた、尊氏に対しては深い尊敬の念を抱いていたようです。

しかし、尊氏と同時代に生きた人達の中には、尊氏の事を酷評する人もいました。
例えば、南朝方の代表的な武将の一人である新田義貞は、尊氏の事を強く憎んでいました。尊氏は、関東に於ける管領の勅許を朝廷から得た事を理由に、新田一族が鎌倉幕府を滅ぼした恩賞として拝領した領地を没収し、それを、自分の家臣達や自分に味方してくれた武将達に恩賞として分け与えるなどしたのですが、義貞もその報復として、足利一族の領地を取り上げるなどしたため、祖先を同じくする源氏一門でありながら足利と新田は激しく対立するようになり、そのような折、尊氏が朝廷に義貞追討を上奏したと聞き、ついに義貞の怒りは頂点に達します。
義貞は後醍醐天皇に、「尊氏・直義兄弟は、無能無才で卑しい身分を恥じず、共に高い地位に就いています」「鋭利な剣で切り裂くように、逆臣尊氏・直義兄弟を誅伐すべきとの宣旨をいただきたい」という旨の内容を上奏し、尊氏の事を“無能無才で卑しい身分”と激しく罵っています。

また、南朝の有力な公家でありながら、南朝方の武士を率いて各地を転戦するなど武将としても活躍した北畠親房も、尊氏を「功も無く徳も無き盗人」などと酷評しています。
親房は、武士とは常に天皇や公家に従属すべきもの、という考え方を持っていたため、武家が公家と同等の存在になる事を認めませんでした。親房のその視点に立つと、鎌倉幕府が滅びたのは朝廷の威光と時の運によるものであり、武士の力によるものという認識は誤っており、そうであるにも拘らず、それを自分の手柄と思っている尊氏は「功も無く徳も無き盗人」となるのです。
更に親房は、代表的な著作の一つである「神皇正統記」の中で、尊氏の事を「凶徒」「朝敵」とも記しており、後の「尊氏=逆賊」というイメージはこれが端緒となっているのではないかと云われています。


しかし、その後は、尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていきます。
尊氏が生きていた時代は南北朝動乱の激動期で、尊氏が築いた新政権はまだ安定しておらず、南朝との戦いだけではなく幕府でも内紛が起こるなど尊氏にとっては敵や戦が多い状況でもあったため、そういった当時の状況を反映して、尊氏の事を褒め称える人が多くいる一方で、尊氏の事を厳しく評価する人もまた多くいたわけですが、尊氏の死後暫くして、室町幕府が全国的な統一政権として安定してくるようになると、当然の事ながら、その幕府を創設した尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていったのです。

室町幕府は、3代将軍足利義満の時代を最盛期として、その後は次第に衰退していき、戦国時代になると、幕府は本拠地である山城国一国の維持すら困難な程弱体化しますが、それでも、尊氏が酷評される事はほとんどありませんでした。
室町時代から江戸時代中期頃までは、一般的に北朝が正統と認識されており、その歴史観に立てば、楠木正成を始めとする南朝の武将達のほうが“朝廷に弓を引いた逆賊”であり、尊氏は朝廷(北朝)を支えた勲功第一の忠臣であったからです。
室町時代半ばに、後小松天皇の命により洞院満季が撰進した、皇室の系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、北朝が正統であるという立場が採られており、室町幕府と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、天皇としては認められていません。
ちなみに、戦前・戦中に忠臣の鏡として大絶賛された楠木正成は、後述する水戸藩の「大日本史」で高く評価されるまで、むしろ、大多数の日本人にはほぼ忘れ去られた存在であり、正成の価値は、江戸時代になってから“再発見”されたといえます。

江戸時代に入ってからも当初は、尊氏は優れた武将である、という評価に大きな変化はありませんでした。
徳川家康は、徳川家は南朝方の武将であった新田氏の後裔であると自称しますが、南北朝時代の解釈については、室町幕府の立場を引き継いで北朝を正統としたため、その北朝を建てた尊氏の評価が急に下落するような事は無かったのです。

その評価に大きな変化が生じるようになったきっかけは、時代劇の“黄門様”として広く知られている、第2代水戸藩主の徳川光圀です。
光圀は、有力な徳川一門(御三家)でありながら、徳川将軍家(江戸幕府)とは立場を異にし、あくまでも天皇の権威を基にして、その上で幕府中心の統治を行うべきという立場でした。
幕末期に尊王派の思想形成に大きな影響を及ぼした歴史書「大日本史」は、光圀のその立場から水戸藩が編纂したもので(大義名分論史観から尊皇論が貫かれています)、大日本史の中では、南朝こそが正統であり、南朝と対決した尊氏は天皇に逆らった悪人であると評されました。
更に光圀は、後醍醐天皇のために討ち死にした正成こそが忠臣であると讃え、正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と題する墓碑も立てるなどしました。

そして、江戸時代中期以降になると、大衆レベルでも尊氏や正成に対しての評価が次第に変わっていきます。
1748年に成立し、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として爆発的な人気を博し、現在に至るまで上演され続けている「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」は、よく知られているように赤穂浪士の仇討ち事件を題材としているのですが、当時はそのままでは上演が許可されなかったため、劇中の時代背景を南北朝時代に移していたのですが、その中で、大石内蔵助は大星由良之助という人物に置き換えられました。

仮名手本忠臣蔵

そして、その大星由良之助のモデルになったのが楠木正成であったと云われ、その由良之助に討たれる吉良上野介の役は、尊氏の側近であった高師直が実名で登場しました。これは、尊氏を始めとする北朝側の人物が、当時の大衆にどのように認識されていたかを示す一例として注目されます。
ただこの認識は、当時の一般庶民が必ずしも「南朝が正統であり、その南朝に殉じた正成は忠臣である」という明確な史観を持っていた事を示すものとまでは言い切れず、日本人はその国民性として、敗者に同情したがるという“敗者の美学”とでもいうべき特有の観念があり(例えば、源頼朝よりも頼朝に討たれた弟・義経のほうが昔から人気が高い事や、曽我物語や忠臣蔵などの仇討物語が時代を超えていつの世からも人々から賞賛される事や、幕末期の会津藩白虎隊が悲話として後世に語り継がれる事など)、その観念に基づいて、滅び去った南朝方に同情の念を抱いたという面も多分にあったであろうと推察されます。

しかし、江戸時代中期でも、正成に対する批判は少なからずありました。
例えば、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)は、著書「駿台雑話」の中で、「正成は孔孟の道を学ばず、孫子・呉子の道を学んだから、三国志の諸葛孔明に比べて人物が落ちる」とし、特に湊川で自害する時に弟の正季と共に「七生報国」と言ったのは、「甚(はなは)だ陋(つたな)し」と非難しています。
また、山城国正法寺の僧、釋大我(しゃくたいが)も、「楠石論(なんせきろん)」で正成の死を激しく非難しています。


そして幕末になって、江戸幕府の権威が大きく揺らぎ出し、尊皇攘夷・倒幕の動きが加速化していくと、前出の「大日本史」の影響を強く受けた強烈な尊王主義者達は、尊氏の事を“天皇に叛いて政権を奪った憎むべき逆賊”と評価するようになっていきます。
江戸幕府の威光が強ければ、水戸藩のような例外を除くと、家康と同じく“源氏の長者”として武家政権を築いた尊氏を露骨に貶めるような機運にはまずならなかったのでしょうが、幕府の権威が失墜し、それに反比例して朝廷の権威が増大してくると、江戸幕府と室町幕府という違いはあるものの、幕府を創設した人物である尊氏は尊王主義者達から忌み嫌われる存在になっていき、逆に、“倒幕の先輩”として正成の人気は急速に高まっていったのです。

幕末期の1863年に、足利将軍の木像の首級が京都の三条河原に晒されるという珍妙な事件が起きましたが、これは、尊氏が当時の尊王主義者達から忌み嫌われていた事を端的に象徴する事件といえます。
伊予の神職である三輪田綱一郎ら十数人が、足利将軍家の菩提寺である京都の等持院に入り込んで、等持院に安置されている、尊氏・義詮・義満を象ったとされる足利将軍3代3人の木像の首を斬り取り、「鎌倉以来の逆臣、一々吟味を遂げ、誅戮致すべきの処、この三賊、巨魁たるによりて、先ず其の醜像へ誅を加ふる者なり」と書いた木札を掲げて、河原に晒したのです。
犯人達はいずれも強烈な倒幕・尊王主義者であり、朝廷をないがしろにし、列強に屈する幕府の弱腰を非難し、足利将軍の首を徳川将軍に見立てて晒したとも云われています。

足利三代木像梟首事件

当時、京都所司代、京都町奉行、見廻組、新選組などの京都に於ける各治安維持機関を総括する立場であった京都守護職の松平容保(第9代会津藩主)はこの事件を知って、「足利家は朝廷から征夷大将軍に任命されており、徳川家もまた同じである。足利将軍の木像の首を晒す事は、幕府だけでなく朝廷をも侮辱する行為だ」と激怒し、直ちに犯人の捕縛を命じ、木像の首は寺に返されました。
そして、それまでは倒幕派の者とも地道に話し合っていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を取っていた容保は、この事件を契機に、倒幕派の者と話し合うのはもはや無用と悟り、倒幕派を徹底して弾圧する政策に転換する事になりました。
ちなみに、「鎌倉・室町将軍家総覧」(秋田書店刊)によると、これは像の首が寺に返されてから分かった事なのですが義満の首として晒されたのは、実は第4代将軍義持のものだったそうです。寺僧が間違えて義持の木像を義満の木像の前に並べてしまっていたため、犯人達は義持の木像を義満と思い込んでその首を斬り落としたそうです。但し、義満と義持の首を間違えたというこの話は、私が確認した限りでは「鎌倉・室町将軍家総覧」でしか紹介されておらず、その他の資料・文献には記されていないので、これが事実であったかどうかは、明確ではありません。

こういった、幕末期の、足利氏や尊氏に対しての見方、そして正成に対しての評価は、一般の民衆にも大きな影響を与えたようで、明治3年に日本を視察したグリフィスというアメリカ人がいろいろな日本人に「尊敬する歴史上の人物は誰か」と尋ねたところ、誰もが楠木正成の名を挙げた、という記録が残っています。
正成を賛美するのは戦前の日本の教育のせいである、と言う人がいますが、明治3年といえば義務教育制度施行以前であり、国家権力が自分達に都合の良い正成像を押し付けていたという事はあり得ないので、明治維新が始まって間もない時期から既に、正成の生き方を理想化する考え方が日本の社会に浸透していたものと思われます。

後編に続く)


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