この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

室町幕府・足利将軍家

足利家の菩提寺である等持院を参拝してきました

前回の記事で述べたように、私は今月中旬、2泊3日の日程で関西を旅行してきたのですが、京都府亀岡市に鎮座する篠村八幡宮を参拝・見学した後は、JR嵯峨野線や嵐電(嵐山本線と北野線)を乗り継いで、京都市北区に鎮座する等持院にも行って来ました。
等持院は、臨済宗天竜寺派に所属する洛西の古刹で、足利尊氏の墓所、足利将軍家の菩提寺でもあります。

私は、等持院には以前にも参拝した事がありましたが、今回はその時以来、約10年ぶりの訪問となりました。足利家所縁のお寺であるという事も私の興味を惹いているのは確かですが、その点を除いても、古寺の雰囲気を醸し出しながらもほとんど観光地化されていない等持院は、個人的に私の好きなお寺のひとつで、いずれ改めて再訪したいなと前々から思っておりました。
ちなみに、等持院には文化財も多く収蔵されていますが、国宝・重文の建物はなく、そのため、境内は時代劇等の撮影場所としても重宝されているそうです。

等持院_01

ところで、少しややこしいのですが、昔は、「等持寺」と「等持院」という、よく似た名前の二つのお寺がありました。等持寺のほうは現存しませんが、元々は、等持院よりも等持寺のほうが先に創建されました。
1339年に、足利尊氏は夢窓疎石を開山として、足利家の菩提寺としてまず洛中に等持寺を創建しました。尊氏は足利家の菩提寺を京都に3ヶ寺建てようと決意しており、その決意から、等持寺の名には1字に1個ずつ、合わせて3個の「寺」の字が含まれる事となりました。
等持寺の寺域は、東は高倉通に、西は室町通に至り、北は二条、南は御池通という広大な境内を誇っていました。

その後、尊氏は、よく知られているように後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺(京都五山の第一位、現在は世界遺産にも登録されています)を建立しますが、その天龍寺とは別に、足利氏としての立場から元弘以来の戦没者を供養するため、1341年、洛西の衣笠山麓に等持寺の別院を築きました。それが、現在の等持院です。
但し、正式に等持院と呼ばれるようになるのは尊氏の死後であり(尊氏の法号等持院に因んで、等持寺別院は等持院と呼び改められました)、この別院が築かれた当初は、等持院ではなく、あくまでも、もうひとつの等持寺でした。つまり、等持寺は二つあったのです。
しかしこれではややこしいので、当時、洛中の等持寺のほうは南等持寺または南寺、洛西の等持寺(現在の等持院)のほうは北等持寺または北寺と、それぞれ称されていたようです。

ところが、2代将軍義詮以降、歴代将軍の葬儀は全て北寺(等持院)で行われるようになったため(尊氏の葬儀については、北寺、南寺どちらかで行われたのは確かなのですが、そのどちらであったのかは判りません)、本寺である南寺(等持寺)よりも、別院である北寺のほうが重きをおかれるようになり、そして、3代将軍義満が花の御所の東に広大な相國寺を建てると等持寺塔頭の鹿苑院が僧録(禅宗寺院を管轄し僧の人事を司る機関)の権利を執行するようになったため、南寺の存在は以前にも増して軽くなっていき、更に、応仁の乱の戦火にも遭うなどしたため、南寺はやがて廃寺同然となり、最終的には、南寺は北寺(等持院)に吸収されました。
等持院が現存し等持寺が残っていないのはこのためです。

下の写真2枚は、山門の脇に掲げられている、等持院の由緒等が書かれている看板です。

等持院_03

等持院_02

山門から表門の間にある参道沿いには、等持院が維持・管理している墓地が広がっているのですが、その墓地の出入口となる門には、足利家の家紋(足利二つ引)が大きく表示されていました。

等持院_04

庫裏の玄関に入る表門です。等持院の拝観は午前9時からで、私がこの門前に到着したのはその15分くらい前だったため、私が到着した時はまだ閉まっていました。ちなみに、この門は江戸時代に作られたものだそうです。

等持院_05

渡り廊下で繋がってはいますが、庫裏や方丈とは別棟になっている、霊光殿という建物です。
霊光殿には、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、歴代足利将軍達の木像や、徳川家康像などが祀られています。なお、ここに奉安されている歴代足利将軍の木像については、後日改めて別の記事で取り上げます。

等持院_06

「足利家十五代供養塔」と伝わる、全高5mの十三重塔です。等持院では、尊氏のお墓と共に大切に供養されてきました。

等持院_07

「足利尊氏の墓」と伝わる全高1.5mの石塔です。尊氏は、1358年4月30日、54歳で、洛中(二条大路高倉)の自邸で亡くなりました。鎌倉幕府を倒し、新たに室町幕府という統一政権を立ち上げた武将のお墓としては、随分小振りだなぁという印象を受けます。

等持院_08

夢窓国師の作と伝わる、東西2つの池を中心として2つの庭に分かれている、等持院の庭園です。但し、池底の状況などは室町時代の作庭を窺わせるものの、室町時代の記録とは充分に整合していない点もあり、様式的には江戸時代中頃の作とも云われています。足利家十五代供養塔や足利尊氏の墓はこの庭園の一画にあります。

等持院_09

等持院_10

等持院_11

私は等持院を一通り見学した後、書院にて、冷たいお茶を頂きながら、この庭園を眺めながら少しまったりしてきました。私が行ったのは平日の午前9時台という事もあり、境内にいた参拝者は私一人だけで、完全に貸切状態でした。

等持院_12

ちなみに、今年5月4日の記事で詳述したように、戦前・戦中の日本では、南朝を正統とする立場から足利尊氏は「朝敵」と看做される事が多かったのですが、等持院はその尊氏が建てた足利家の菩提寺であるが故に、世間から「朝敵の寺」として糾弾される事も少なくはなかったそうで、当時の等持院関係者はかなり苦労をされたようです。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

全国足利氏ゆかりの会

本年1月20日の記事では、南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする全国各地の神社15社から構成される「建武中興十五社会」という団体を紹介させて頂きましたが、その北朝版というわけではないものの(そもそも、建武中興十五社会のように、特定の時代の人物所縁の神社のみに限定した団体ではないので、北朝版などと言い切ってしまうのはやや乱暴ですが)、足利氏所縁の団体から構成される「全国足利氏ゆかりの会」という団体があります。

全国足利氏ゆかりの会

建武中興十五社会は、その設立目的を「後醍醐天皇を御祭神とする吉野神宮をはじめ、建武中興関係の十五神社が相諮り、建武中興の精神を体して、わが国体の発揚に尽瘁すること」としていますが、全国足利氏ゆかりの会は、同会のホームページに掲載されている会長(足利市長)挨拶によると、「足利氏ゆかりの市町村や関係団体及び社寺等がともに手を携える」事を目的に昭和61年に設立され、「現在まで会員各位のご努力と連携活動によって、足利氏の顕彰とゆかりの地の発展に貢献」し、「今後も、本会は足利氏の残した偉大な業績を称えながら、会員間の交流と連携の輪を広げ、足利氏に対する正しい認識のための広報活動と更なるイメージアップのための諸活動を進めてまいります」との事です。
同会では、「足利氏は、清和源氏の流れをくみ、日本文化の代表である能や茶道などの文化を築き、全国各地にその偉業を残すとともに歴史にその足跡を印しています」と、足利氏を高く評価しています。

現在、同会の特別顧問には足利家第28代当主の足利義弘氏が、顧問には京都府の山田啓二知事と京都市の門川大作市長が、会長には栃木県足利市の和泉市長が、副会長には京都府綾部市の山崎善也市長と徳島県阿南市の岩浅嘉仁市長らが、それぞれ就任しています。
同会では毎年各地で総会を開催し、その際には地元会員寺院等で追善法要も執り行っており、昨年度(平成25年度)は京都市内の「京都ロイヤルホテル&スパ」で総会が開催され、臨済宗相国寺派大本山相国寺方丈で足利氏歴代の追善法要が営まれました。その法要の後、会員達は西山浄土宗十念寺を訪れ、同寺にある第6代将軍足利義教の墓所も参拝したそうです。
なお、今年度の総会開催地は、栃木県さくら市との事です。

以下は、全国足利氏ゆかりの会に入会している会員一覧です。
関東から九州に至るまでの各地の自治体、商工会議所、観光協会、神社仏閣など約60の団体によって構成されており、会としての活動も活発なようです(具体的な活動内容については同会のホームページを御参照下さい)。


◆茨城県
古河市、古河商工会議所(古河市)、古河市観光協会(古河市)
 
◆栃木県
さくら市、喜連川観光協会(さくら市)、龍光寺(さくら市)、安國寺(下野市)、足利市、足利商工会議所(足利市)、足利市観光協会(足利市)、鑁阿寺(足利市)、吉祥寺(足利市)、樺崎八幡宮(足利市)、法楽寺(足利市)、法玄寺(足利市)、能仁寺(真岡市)、下野國一社八幡宮(足利市)  
 
◆埼玉県
寳聚寺(久喜市)    
 
◆千葉県
飯香岡八幡宮(市原市)    
 
◆東京都
高安寺(府中市)    
 
◆神奈川県
鎌倉市、鎌倉商工会議所(鎌倉市)、浄妙寺(鎌倉市)、浄光明寺(鎌倉市)    
 
◆長野県
桃源院(佐久市)    
 
◆愛知県
長母寺(名古屋市)    
 
◆福井県
全国安国寺会(小浜市)    
 
◆滋賀県
安楽寺(長浜市)    
 
◆京都府
京都商工会議所(京都市)、京都市観光協会(京都市)、京都室町の会(京都市)、六孫王神社(京都市)、法界寺(京都市)、等持院(京都市)、相國寺(京都市)、鹿苑寺〈金閣寺〉(京都市)、慈照寺〈銀閣寺〉(京都市)、亀岡市、亀岡商工会議所(亀岡市)、亀岡市観光協会(亀岡市)、篠村八幡宮(亀岡市)、綾部市、綾部商工会議所(綾部市)、綾部市観光協会(綾部市)、綾部あしかが会(綾部市)、安国寺総代会(綾部市)、相光寺(京丹後市)    
 
◆兵庫県
川西市商工会(川西市)、川西市観光協会(川西市)、石龕寺(丹波市)、福海寺(神戸市)  
 
◆広島県
福山商工会議所(福山市)、尾道市、尾道商工会議所(尾道市)、浄土寺(尾道市)、尾道足利氏ゆかりの会、足利ゆかりの会(広島市)
 
◆徳島県
阿南市、那賀川町商工会(阿南市)、西光寺(阿南市)、地蔵寺(小松島市)    
 
◆大分県
豊後安國寺(国東市)   
 
全国足利氏ゆかりの会


この会員一覧を見ますと、本年3月5日の記事で紹介した、千葉県市原市に鎮座する飯香岡八幡宮も、足利氏所縁の神社として同会に入会されています。

しかし、昨年10月2日の記事で紹介した、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮は、当該記事で詳述したように足利将軍家とはかなり深い関係を持っていたにも拘わらず、全国足利氏ゆかりの会には入会していないようです。
これはあくまでも私の勝手な推測ですが、石清水八幡宮は、武門の神様として、足利氏以外の源氏一門や、その他の有力武将達(豊臣秀吉、織田信長など)からも篤く崇敬され、また、時代を問わず朝廷からも深く崇敬されてきたので(同宮への天皇や上皇の行幸・御幸は、第64代円融天皇の御参拝以来実に240回にも及んでいます)、同宮としては別に足利氏との深い関係を隠したり否定したりする気は全くないものの、だからとって、殊更足利氏との関係だけを強調したいというわけではないのかもしれません。
後醍醐天皇も行幸されたり、楠木正成も境内にクスノキを植えるなど、そもそも同宮は、足利氏とは対立した南朝勢力とも浅からぬ関係があったようですし。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

室町幕府跡を見学してきました

今月の13日から15日にかけて、私は2泊3日の日程で、京都・大阪方面を旅行してきました。
1日目は、夜に札幌を発ったため現地ではほとんど時間が無く(その日は大阪市内で泊まっただけです)、2日目は主に京都府内で終日予定があり、そして3日目は、お昼頃から大阪府内で人と会う予定があり、しかもその日の夕方には関空から札幌へと帰らなければならなかったため、私は3日目の午前中の空いている時間を利用して、雨の中、京都市上京区室町通今出川上ル築山南半町にある「室町幕府跡」を見に行ってきました。

十年くらい前に一度行った事があるので、私にとってはそれ以来、二度目の来訪となります。
もっとも、幕府跡とはいっても、単に石柱・石碑が立っているだけで、当時の栄華を偲ばせるものは何もありません。

室町幕府跡_1

室町幕府跡_2
ここは、具体的には室町幕府第3代将軍・足利義満が造営した足利将軍家の邸宅跡で、「花の御所」と称された同邸宅のあったこの辺り一帯が、事実上、室町幕府の中枢と呼べるべき場所でした。
今はその面影は皆無ですが、一時は、この辺りが日本の政治の中心地だったのです。

室町幕府跡_3

ちなみに、単に「御所」という場合、通常は天皇や上皇の邸宅(皇宮)を指すのですが、そうであるにも拘わらず、なぜ足利将軍家の邸宅が「花の御所」と称されたのかというと、言葉通り、最初は本当に花の御所であったからです。
将軍家の邸宅は、元々は第2代将軍の義詮が祟光上皇に献上した花亭で、祟光上皇が御所として使われた事で「花の御所」と称されるようになったのです。
しかし、その後御所としては使用されなくなり、義満が、今出川家の菊亭の焼失跡と合わせて一つの敷地として、将軍家の邸宅として整備したのです。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

足利氏と上杉氏の系図

足利氏一門(鎌倉時代の足利家、足利将軍家、関東公方足利家)や、代々関東管領の職を継いで関東公方足利家を支えた上杉氏(但し時には関東公方と対立して戦火を交える事もありましたが)の、詳細な系図です。

足利氏関係の系図では、私が最も見る機会の多いもので、日頃から重宝しています。
この系図はクリックすると拡大表示されますので、是非拡大の上御覧下さい。

足利氏・上杉氏系図


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

足利氏を始めとする源氏一門の氏神とされた石清水八幡宮

昨年の2月、私は仕事の関係で、三重県の某所で4泊5日の日程で開催された研修を受講してきたのですが、その研修に行く途中、少し時間があったので、京都府八幡市の男山山中に鎮座する石清水八幡宮に立ち寄って、同宮を参拝・見学してきました。

石清水八幡宮_01

平安時代前期の895年(貞観元年)7月15日の夜、豊前国(今の大分県)の宇佐八幡に参篭していた奈良大安寺の僧・行教が、八幡大神から「われ都に近き男山に移りて国家を鎮護せん」との御神託を受け、行教はこの託宣に従って同年、男山の峯に御神霊を奉安しました。これが、石清水八幡宮の起源とされています。
本殿でお祀りされている御祭神は、八幡大神(誉田別尊)、比咩大神(宗像三女神)、神功皇后(息長帯比賣命)の三柱です。

石清水八幡宮は、足利将軍家が特に篤く信仰したお宮ですが、同宮は足利氏だけではなく、八幡太郎の名で知られる源義家や、鎌倉幕府を開いた源頼朝、それに徳川将軍家など、歴代の源氏一門から、源氏の氏神、武門(弓矢)の神として篤く崇敬されてきました。
また、武家だけではなく朝廷からも、国家鎮護の社として篤く崇敬されてきました。

しかし、南北朝時代の動乱期には、石清水八幡宮はその地理的要衝から恰好の軍事目標となり、しばしば軍事拠点となって兵火にも晒されました。
その動乱期に京都で室町幕府を開いた足利尊氏は、源氏一門の棟梁として八幡大神を篤く崇敬し、石清水八幡宮には度々戦勝を祈請し、1338年に兵火で社殿が焼失した際には、尊氏は弟の直義と共に直ちに社殿の造営に着手し、同年中に遷宮が行なわれました。

幕府が京都に置かれた事もあって足利将軍の社参は特に多く、室町幕府の全盛期を築いた第3代将軍義満は、石清水八幡宮には15回も社参しており、第4代将軍義持に至っては、その数は37回にも及びました。
石清水祠官家嫡流であった田中家は南朝寄りだったそうですが、田中家の支流・善法寺家は北朝・足利氏を支持し、後には善法寺通清の娘の良子が義満の生母にもなっているので、そういった事情も、同宮と将軍家が緊密な関係になっていった事に大きな影響を与えたようです。
下の画像は、石清水八幡宮を篤く崇敬した、僧衣姿の足利義満です。ちなみに、今も名作アニメとして名高い「一休さん」に登場する“将軍さま”は、この義満です。

足利義満

また、幕府の第6代将軍を決める際には石清水八幡宮の神前にてくじ引きがひかれ、このくじ引きの結果により将軍に就いた足利義教は「くじ引き将軍」と称されました。
このように歴代の足利将軍は石清水の八幡大神を篤く崇敬し、石清水八幡奉行も設置しました。

こういった事から、石清水八幡宮には今も、室町幕府歴代将軍の自筆願文や寄進状などが残されています。
一旦は後醍醐天皇方の軍勢の猛攻を受けて九州へ落ちのびた尊氏が、再び軍勢を率いて上洛する際、それに先立って同宮に使者を送って善法寺通清に戦勝祈願を依頼したと伝わる文書も残されており、その文書は、一説によると使者が髪を束ねる紙縒(こより)、元結(もとゆい)に隠して持ち込んだとされる事とから、「元結の御教書」とも呼ばれているそうです。


以下の写真はいずれも、この時(昨年2月)の参拝・見学の際に、私が石清水八幡宮で撮影してきた参道や社殿等の風景です。
行事・祭時がある日、日曜日や祝日、桜の開花する時期、七五三シーズン、年末年始などは混むようですが、私が行った時は行事が何も無い平日のお昼過ぎ頃だったので、境内は閑散としていました。

石清水八幡宮_02

石清水八幡宮_03

石清水八幡宮_04

石清水八幡宮_06


下の写真は、この時社殿を案内して下さった石清水八幡宮の神職さん(中央)と、この時私に付き合って同宮まで一緒に来て下さった歴史学者のK先生(右)です。
神職さんは、この写真の背後に聳える楼門やそれに連なる回廊の内側(通常は祭典に参列するか御祈祷を受けなければ昇殿出来ません)などを案内して下さいました。K先生は、かつて私が京都市内の某学校に2年間在籍していた時の、国史(日本史)の授業を担当されていた先生です。ちなみに、左が私です。

石清水八幡宮_05


ところで、私はうっかり写真を撮ってくるのを忘れましたが、石清水八幡宮には、建武の新政が始まった1334年に楠木正成が植えたと伝わる大きなクスノキもあります。
鎌倉幕府の討幕成功と王政復古を八幡大神に奉告するため、後醍醐天皇は1334年に石清水へ行幸されているので、もしかするとその時に正成が植えたのかもしれません。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

室町期を舞台となっている短編小説「バサラ将軍」

何年か前に、直木賞作家の安部龍太郎さんが著した「バサラ将軍」(文春文庫)という本を買って読みましたが、先日、この本を数年ぶりに読み返してみました。

この本は、建武の新政の時代から4代将軍足利義持の時代にかけて(南北朝時代~室町時代前期頃)を舞台とした短編小説を一冊に纏めた本で、「兄の横顔」「師直の恋」「狼藉なり」「知謀の淵」「バサラ将軍」「アーリアが来た」の6編から成っています。
作中で描かれている足利尊氏や足利基氏などは、私が抱いているイメージとはかなり違う点もあり、そのため私としては、その描写には全面的には賛同しかねる所もあるのですが、しかし、そもそもこの時代が舞台の小説は少ない上、時代考証などはかなりしっかりしているように思えるので、そういった意味では貴重な作品だと思います。

バサラ将軍

兄の横顔』は、足利尊氏の弟・直義を主人公としており、直義の生真面目な性格と、尊氏との政治思想の違いや、尊氏に対しての直義の屈折した感情などが描かれています。
尊氏は、常に飄々としていてあまり深くは考えていないようでいて、実は全てを計算しているかのような腹黒さもあったのではないか、と思わせるような描き方をされており、尊氏が、掴みどころの無い、まるで鵺のような存在として描かれているのが興味深かったです。

師直の恋』は、太平記の中ではよく知られているエピソードのひとつでもある、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕するという話を、師直の視点から取り上げたものです。
一般に師直は、「武将としては足利軍には欠く事が出来ない、極めて有能な猛将であるが、その一方で、好色で、傍若無人で、専横な振る舞いも多かった」と解されていますが、この作品での師直は、まさにそのイメージ通りに描かれていました。

狼藉なり』は、これも太平記の中ではよく知られているエピソードのひとつである、光厳上皇の牛車に対する土岐頼遠の狼藉事件を題材としている作品です。
「師直の恋」同様、この「狼藉なり」も主人公は高師直で、頼遠は勿論、尊氏や直義も登場しますが、あくまでも師直の視点からストーリーは進んでいきます。頼遠の斬首を主張する直義に対して、最後まで頼遠を庇い続ける師直の姿は、従来の悪役一辺倒のイメージとは異なり少し新鮮でした。

知謀の淵』は、はっきり言って非常に後味の悪い作品です。しかし、主人公・竹沢右京亮の心理や彼の境遇についての描写が残酷な程に生々しく描写されており、これをこの本の表題作にしたほうが良かったのではないかとも思える程、かなり力の入った秀作でもあります。
畠山国清の命令により、新田義貞の子・義興を多摩川で奸計によって謀殺した竹沢右京亮が、敵から非難・軽蔑されるのは当然としても、味方からも卑怯者と蔑まれ、どんどん不幸になっていく、転落と悲劇の物語です。

バサラ将軍』は、室町幕府の全盛期を築き上げた3代将軍 足利義満を主人公とした作品で、この本の表題作でもあります。
絶対的な権力者である義満と、後円融帝の寵姫との不義事件を題材としながら、生まれながらにして統治者である義満が帝に対して抱く劣等感やその深層心理が描かれています。

アーリアが来た』は、足利義持に献上するため、南蛮のスマトラ島を治める太守から贈られてきた象のアーリアを、義嗣派(義持と対立している足利義嗣を支持する勢力)からの襲撃を警戒しながら、若狭の小浜から京都まで運搬する馬借(馬を利用して荷物を運搬する輸送業者)のお話です。主人公は、今津の馬借・源太です。
歴史物としては珍しく動物を題材としており、他の5編とはかなり趣きの異なる作品ですが、陰湿な展開は全く無く、この本の中では最も軽快に読み進んでいく事が出来る作品です。

私としては、読後に後味の悪さが残るものも何編かはあったものの、どのエピソードも、かなり興味深く読む事が出来ました。
ただ、南北朝時代・室町時代や室町幕府に興味を持ち始めたばかりの、所謂“初心者”の方々には、個人的には、この本はあまりオススメ出来ません。登場する人物が余りにも俗物や小物ばかりで(それが悪いと言っているわけではありませんが)、そのくせに、傍若無人であったり奸計を謀ったりするので、この時代や室町幕府に興味を持ち始めたばかりの“初心者”だと、そういった事に新鮮さを感じるより、むしろ、室町幕府や、幕府を支えている武将達の言動に勝手に失望して、この時代や室町幕府に呆れるか興味を無くしてしまうのではないか、という懸念を感じてしまうからです(笑)。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村
プロフィール

たが

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ