この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

室町幕府・足利将軍家

応仁の乱についての解釈の違い

室町時代の応仁元年(1467年)に発生した、日本の歴史上屈指の大乱である「応仁の乱」とは、よく知られているように、全国の武士達が東軍(当初の中心人物は細川勝元)と西軍(当初の中心人物は山名宗全)に分かれて、11年もの長きに亘って戦った大乱です。
この戦いによって、開戦から僅か一年で京の都はほとんどが焼き尽くされ、その戦火は全国各地にも飛び火し、落ちかけていた室町幕府の権威は完全に失墜する事となり、守護大名の衰退も加速していき、その結果、戦国大名と呼ばれる新たな勢力が出現し、世は戦国時代へと突入する事になりました。

しかし、それだけ大きな戦であったにも拘わらず、そもそも応仁の乱とは一体誰が何のために戦っていた戦だったのか、どうしてこれだけ大きな戦に発展したのか、という事を一言で説明しようとすると、その事情が余りにも複雑過ぎるため、誰もが困難を極めるのが実情です。
実際、主戦場となった狭い京の都で戦っていた当事者達でさえ、今自分の目の前にいるのが誰であるのかも分からないまま戦かっていた、という事も少なくはなかったと云われています。

応仁の乱対立図

この応仁の乱について、乱が起こるに至った原因や、終了に至る経緯などを詳しく解説している動画が、動画投稿・共有サービスの「YouTube」(ユーチューブ)にアップロードされており、先程、それらの動画を視聴しました。
以下に貼付する2本の番組がそれで、いずれも過去にテレビで放送された、約45分程の歴史ドキュメンタリー番組です。


まず1本目は、「その時歴史が動いた 応仁の乱、天下を滅ぼす 終わりなき“戦いの連鎖”」という番組で、これは前編・後編の2編に分かれてアップロードされていました。


2本目は、「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー 応仁の乱」という番組で、こちらは前編・後編に分ける事なく1本の動画としてアップロードされています。室町幕府第8代将軍である足利義政の妻・日野富子が、特に大きく取り上げられていました。


これらの2本の番組は、どちらも「応仁の乱」という同じ大乱を取り上げているにも拘わらず、乱の原因や経緯については異なった解釈をしているのが、とても興味深かったです。
「その時歴史が動いた」では、応仁の乱のそもそもの発端となったのは、近畿南部の大名・畠山氏の跡継ぎをめぐる争いで、その争いに、他の大名家同士の家督争いが絡み、更には将軍家の内紛も絡み、戦いが当事者達の思惑を離れて余りにも大きくなり過ぎて当事者達にも制御が出来なくなり、結果として、戦いを始めたそもそもの理由に比べてその規模が不相応に大きい大乱となった、という解釈がされていました。
一方、「世紀のワイドショー!」では、応仁の乱のそもそもの発端は、足利義政と日野富子による、将軍家後継者を巡っての夫婦喧嘩であり、将軍家内部のその家庭問題が全国を巻き込む戦争に発展していき、戦争の途中からは、大名家同士、守護家同士の主導権争いにもなっていった、という解釈がされていました。

つまり、将軍家内部の争いと、大名家同士の争いが絡み合っているという点では同じなのですが、まず大名家の争いが有りきだったのか、まず将軍家の争いが有りきだったのか、そこが正反対の解釈となっているのです。
また、足利義政についても、「その時歴史が動いた」では、最終的には政治には全く関心を示さなくなるものの若かりし頃は将軍としての務めを積極的に果たそうとしていた人物として描かれていたのに対し、「世紀のワイドショー!」では、義政は若い頃から一貫して、政治には何の関心も示さなかった人物として描かれていました。

皆さんも、もしお時間があれば、是非これらの番組を視聴してみて下さい。
ちなみに、私は中学校や高校の歴史の授業では「応仁の乱」という名称で習いましたが、近年の教科書では、「応仁・文明の乱」という呼称で書かれているそうです。


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もしかするとあなたも、足利将軍って無能なヤツばかりだとか思っていませんか!?

突然ですが、「将軍」と聞くと、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。ちなみに、パットン将軍とかロンメル将軍とかではなく、我が国の征夷大将軍のほうですよ(笑)。
あまり日本史に詳しくはない人でも、とりあえず中学校で習った歴史を何となくは覚えている、という人であれば、例えば坂上田村麻呂、源頼朝、徳川家康、徳川家光、徳川吉宗といった有名な将軍は、直ぐに思い浮かぶかもしれません。しかし、直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かべるという人は、恐らく、あまり多くはないと思います。
その要因のひとつとしては、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、室町幕府や、室町幕府の歴代将軍というのは、いまいち存在感が薄い、という点が挙げられると思います。

ちなみに下の写真は、一昨年8月4日の記事にアップしたものを転載したもので、足利将軍家の菩提寺「等持院」境内の霊光殿に奉安されている、歴代足利将軍の木像の一部です。手前から、室町幕府第7代将軍の足利義勝像、第6代将軍の足利義教像、第4代将軍の足利義持像です。義勝は、赤痢のため僅か10歳で没した幼い将軍だったため、木像の表情も、子供らしさが強調されたものとなっています。

歴代足利将軍木像

鎌倉幕府といえば、源氏の嫡子ではあっても当初は流人に過ぎなかった源頼朝が、その実力によって、当時の中央政権であった平氏政権を打倒して開幕し、頼朝の没後も、幕府の実権を掌握した北条氏らは、承久の乱での勝利によって朝廷の権力を無力化させて幕府権力を更に拡大・絶対化させ、また、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を次々と輩出した、質実剛健な武家政権というイメージがあります。

江戸幕府も、幼少期には人質として生活するなどした徳川家康が大変な苦労と忍耐の末に開幕し、関ヶ原の合戦や大坂の陣を経て全国全ての反徳川勢力を一掃し絶対的な安定政権となり、その後、家光・綱吉・吉宗など実力を持った将軍や、新井白石や松平定信などの有能な幕臣を多数輩出し(西国雄藩が台頭してきた幕末の混迷期ですら、小栗上野介や中島三郎助のような優れた幕臣達がいました)、300年近くにも及ぶ、戦争の無い太平の世の中を築いた武家政権というイメージがあります。
つまり、鎌倉幕府や江戸幕府は、マイナスイメージも当然あるものの、全体的にみると、一般的には大凡プラスイメージで評価される事が多いのです。

それに対して室町幕府はどうかというと、トップである将軍が、家臣に暗殺されたり、家臣に追放されて諸国を放浪したり、また、将軍自身が当事者能力に著しく欠けていたため応仁の大乱が始まって京都を廃墟にしてしまったり、更に、その大乱によって将軍や幕府の権力が低下した結果、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、結果として、将軍の権威を更に失墜させてしまい、末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国すら維持出来なくなるなど、幕府全盛期の義満の時代を除くと、室町幕府は、世間一般に“は統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージがあると思います。
そのため、室町幕府の歴代将軍の中には有能で実力のある将軍はほとんどいなかったのではないか、というマイナスイメージがどうしても付きまとってしまう事になります。将軍と聞いても直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かぶ人は少ないのでは、と前述したのも、そういったイメージに因る所がかなり大きいのではないかと思います。

実際、歴代の足利将軍の中で、世間にそれなりに知れ渡っていると思われる名前は、初代将軍の尊氏、3代将軍の義満、8代将軍の義政、あとは、最後の15代将軍である義昭くらいではないでしょうか。これらの名前は、一応、中学校で習う歴史の教科書にも登場していますから。
しかし、そのうち8代将軍の義政は、優柔不断で無責任極まりない将軍で、はっきり言うと、明らかに無能な将軍でした(但し、政治家としては無能でしたが文化人としてはかなり優秀な人でした)。政治には全く興味を示さず、そうであるならとっとと将軍を辞めればいいのに、その決断すら出来ず、政治的な野心も実力も無いのに、無意味に将軍の地位にしがみつきながら、只管趣味に生きた人です。
また、15代将軍の義昭も、政治に対しては強い執着を見せるものの、残念ながら実力が全く伴っておらず、臣下からの支持も薄く、結果的に、世間一般に対しては「室町幕府最後の将軍」「織田信長に利用され、最後はその信長に追放された人」というイメージだけを残した将軍、と言ってほぼ差し支えないでしょう。

足利氏系図

では、室町幕府の歴代将軍は、やはり無為無策で無能な人ばかりだったのでしょうか。
実は、私自身はそうは思っておりません。無能で実力の無い将軍が多く見えるのは、単なる結果論です。つまり、後期以降の室町幕府がグダグダで、どうしようもなかったから、結果的にそう感じてしまうだけで、前半の頃、具体的にいうと、病弱のため十代で早世した5代将軍の義量を除くと、初代将軍の尊氏から6代将軍の義教までは、いずれも実力もあって、しかも、かなり有能、もしくはそこそこ有能といえる将軍ばかりだったと私は解しています。

「くじ引き将軍」とも称された6代目の義教については、万人恐怖と云われる独裁政治を行ったり、些細な事で激怒し厳しい処断を行った事などから、世間での評価は今もあまり芳しくはなく(苛烈で横暴な暴君として捉えられている事が多いようです)、私も、その人格についてはかなり問題があったと思っていますが、しかし人格と、政治家として有能であったか否かは基本的に別問題であり、落ちかけていた幕府の権威・権力を高める事に成功し、九州平定や関東制圧など義満すら出来なかった事を成し遂げて最大領土を獲得した、その政治的手腕は見事であり、歴代の足利将軍の中でも相当に有能な人物であったと思います。
そもそも、単に人格だけをいうのであれば、政治家としても軍人としても極めて有能であった、日本史の偉人のひとりであるあの織田信長も、相当に問題がありました。

というわけで、今回の記事では、室町時代前期に活躍した、室町幕府の初代・第2代・第3代・第4代・第6代の、5人の将軍それぞれの功績・長所・特徴などを、改めてざっとまとめてみようと思います(5代将軍の義量については、前述のように早世しており、将軍としての実績はほとんど無いので省略します)。
ちなみに、今回の記事では取り上げませんが、第13代将軍の義輝も、時代が違えば(例えば室町時代の前半頃に生まれていれば)、恐らくは有能で実力のあった将軍として、もっと後世に広く知れ渡っていたのではないかなと思います。


【初代将軍 足利尊氏】

室町幕府を開幕し、その初代将軍となった
尊氏が幕府を創った事は、今更あえて言うまでもない、日本史の“常識”ですが、しかし、何千人、何万人といる“日本史の偉人”とされる人物の中で、幕府を開幕してその初代征夷大将軍となった人物はたった3人しかおらず、尊氏はそのうちの一人なわけですから、これはやはり凄い事です。
源氏の嫡流が源実朝で絶えて以降、足利家はそれに代わる源氏の棟梁の家柄と見做されるようになり、また、後述するように尊氏には人を惹きつける個人的な魅力もありましたが、しかし、そのようにいくら血統や人柄が素晴らしくても、やはりそれだけでは、武士達は自分の命や一族郎党の将来を懸けてまで付いてはいきませんし、あの激動の戦乱の世を生き抜き、更に幕府まで開く事などは出来ません。そう考えると、室町幕府を開幕し、その初代将軍になった、という事実だけを以てしても、尊氏は確実に有能な人物であったと推定出来ます。少なくともそれは、同時代の他の人には誰も出来なかった事なのですから。
ちなみに、尊氏の生涯を辿ってみると、尊氏は特に、軍人(指揮官)としての才能はかなり高かったように思えます。政治家としての資質は、弟の直義のほうが優秀だったようですが、直義には、逆に軍人としての才能はやや欠如している面がありました。

不屈の闘志があり、どんな困難からも何度でも蘇る
尊氏はその生涯のうちに何度も何度も、権力闘争や武力闘争を経験し、滅亡寸前の窮地に追い込まれた事も一度や二度ではありませんが、その度に有能な部下達に支えられて復活し、戦場では自ら先頭に立って戦い続け、ついには幕府を開きました。これは、武家の棟梁として戦う自負を失わず、どんな逆境にも負けない不屈の闘志があったからこそ達成出来た事といえるでしょう。
しかし、その一方で尊氏には、「不屈の闘志」とは明らかに矛盾する一面もあり、例えば、重要な局面では決断力にやや欠けるという優柔不断な所があって、部下達から強く勧められて漸く重い腰を動かしたり、また、精神的にも不安定な所があって、後醍醐天皇に叛いてしまった事を悔やんで出家しようとしたり、戦いが劣勢になると「切腹する」と言って部下に止められたり、悲しい事が起きると地蔵菩薩の絵が描きたくなるなどというちょっと変わった癖もありました(こういったネガティブな所が、あと2人の初代征夷大将軍である頼朝や家康とは、決定的に違う所でもあります)。
これは推測に過ぎませんが、もしかすると尊氏は、現在でいう双極性障害(躁鬱病)か、もしくはそれに近い気があったのかもしれません。もしそうであるのなら、部下達を鼓舞しながら武家の棟梁らしく颯爽と戦場を駆け巡る時は躁(そう)の時で、消極的になって問題を先送りしたり、悲観的になって落ち込む時は鬱(うつ)の時だったのかもしれません。
しかし、そうであるにしろ違うにしろ、結局の所、尊氏は常にどんな困難からも立ち上がって最終的には勝利してしまうのですから、やはりそれは凄い事です。

人を惹きつけてやまない人間的な魅力がある
南朝側からも、北朝側からも、立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた頼朝と尊氏を比較して、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方、尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と褒め称えています。
更に疎石は、尊氏について、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」と絶賛し、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。疎石のこういった言葉から、尊氏は戦勝に驕る事なく“我”を控えた、調整型の政治家だった側面が窺えます。
尊氏という人物は、後世の天下人である信長・秀吉・家康などのような、自ら果敢に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの猛将ではなく、むしろ、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある、所謂“おぼっちゃん”タイプの武将であると言ってよいでしょう。
しかしその割には、傲慢な所や私利私欲は無く、育ちが良いだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、敵に対しても慈悲と尊敬の念を忘れず、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確実に持っている、という武将でした。
動乱の世で、しかも「ばさら」が流行したあの時代に、尊氏に傲慢さや私利私欲がほぼ全く無かったという点は、特筆されるべき事だと思います。尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権などによる失政の受け皿となったから、という理由だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所も少なくはなかったでしょう。
ちなみに、尊氏が生きていた同時代に北畠親房によって記された「神皇正統記」では、親房自身が尊氏とは敵対する南朝の公卿であったため、当然の事ながら尊氏については酷評されているのですが、尊氏はそれを知りながら、自分が非難されているその神皇正統記を焚書にはしておらず、こういった事からも、尊氏の大らかな人柄がみてとれます。
もっとも、弟の直義や息子の直冬が最終的には尊氏に造反したり、尊氏の部下である高師直や佐々木道誉などが所謂“ばさら大名”としてどんどん増長していったり、尊氏とは敵対していた南朝が勢力を弱めながらも壊滅する事はなく暫く存続し、その結果として初期の室町幕府がかなり不安定な政権となってしまったのも、全ては尊氏個人の大らかさや寛容さに起因していると言えない事もないため(冷徹な処断はほとんど出来ない人でした)、この項で述べた尊氏の人間的な魅力というのは、実は長所であると同時に、武家政権を束ねる最高権力者としては、時には短所として現れてしまう事もしばしばありました。

兎に角、気前が良い
これについては前段で述べた事とも重複しますが、尊氏は「出し惜しみ」をする事が一切無く、後醍醐天皇と敵対する事になった時には、「褒美が少ない」事に不満を持っていた武士達を味方に付けるため、後醍醐天皇が与えられたものよりも多くの褒美を武士達に与えました。そしてその事が、多くの味方を付ける原動力にもなりました。
端的に言うと、ただ単に「味方を増やすためにエサで釣った」だけの事ともいえますが、しかし、それが有効な手段と分かっていながらも現実にはそれが出来ないリーダーが昔も今も多い中で、尊氏はどんな時も常に“気前の良さ”を貫きました。別の言い方をすると、尊氏は「周りに対して常に気配りの出来るリーダー」で、それ故に、有能な人材を引き寄せる事が出来たともいえます。
もっとも、室町幕府が後に弱体化していった大きな原因のひとつは「守護大名が強くなり過ぎた」事ですが、ではなぜ守護大名が強くなり過ぎたかというと、その遠因のひとつは、尊氏が部下達に出し惜しみせずにどんどん領地を分け与えた事にあるので、見方によっては、尊氏の「気前の良さ」というものは、単純に長所としてだけ評価する事は出来ないかもしれませんが。


【第2代将軍 足利義詮】

幕府による天下統一を推し進め、室町幕府を軌道に乗せる
有力大名同士の争いにつけ込んで片方を失脚させ、失脚した側の土地を幕府が奪う事で強大な財力や軍事力を手に入れるなど、義詮は政治的・外交的な手腕に優れていました。特に、有力大名の大内弘世と山名時氏を帰服させた事は、幕府の力をより強固なものとし、仁木義長、桃井直常、石塔頼房らの大名も幕府へと降参させる事となり、将軍の権力を一層高める事となりました。
義詮は、幼少の頃よりずっと戦場に出続け(幼時より将器がありました)、時には敗れる事もありましたが屈せず、将軍になって以降も、幕府による天下統一を目指して各地で反乱分子と戦い続けてきましたが、その甲斐あって、晩年の頃には全国各地の有力大名達の力が大分弱まり、漸く政情が安定するようになってきて、内乱で衰退していた社寺領の再建を命じたり、新たな内裏を造営したり、かつての旧敵である北条高時の33回忌法要を行うなど、内政にも目を向ける事が出来る状態になっていました。
義詮の跡を継いだ3代将軍の義満は、将軍の権力を絶対的なものにしましたが、そのお膳立てをしたのは義詮だったともいえます。

南朝を弱体化させて、南北朝合一への道筋をつける
義詮は、当時日本を二分する勢力だった「北朝」の指揮官として、もう一方の勢力である「南朝」側の諸勢力と幾度も戦い、南朝の重要な基盤である紀伊を制圧したり、南朝の後村上天皇を金剛山中へ遁走せしめるなど、決定的に南朝の勢力を減じる事に成功し、北朝の後光厳天皇を盛り立てました。そしてそれは、尊氏の時代にはまだ盤石とは言えなかった幕府を、次第に安定化させていく事にもなりました。
義詮は軍の指揮官としても優れており、南朝に奪われた京都を何度も奪還するなどの功績も挙げています。もっとも、何度も奪還したという事は、逆に言うと、何度も南朝側に京都を奪われていたという事でもありますが。
また義詮は、京都を南朝に制圧された際、北朝の光厳上皇・光明上皇・祟光上皇・直仁皇太子を南朝に拉致されてしまい、北朝の存続が一時困難になるという大失態を犯してしまった事もあるものの、その一方で、南朝の有力大名を次々と北朝に寝返らせる事にも成功しており、その手腕には目を見張るものがあります。

再評価される義詮
以上の事から、義詮は、室町幕府を創設した初代将軍の尊氏と、絶大な権力を手に入れて幕府の最盛期を築いた3代将軍の義満の間に挟まれて将軍としてはあまり目立たない地味な存在かもしれませんが、実は、父・尊氏の期待に見事に応えた、あまり華麗な所は無いものの秀才タイプの将軍だった、ともいえます。
近年では、義詮の果たした役割は決して小さくはなく、太平記が義詮の死を以て閉じられているのもそれなりの理由がある、とする見方も出ています。世代的にみても、鎌倉幕府を倒幕した戦い以来の第1世代は、義詮が亡くなる頃にはほぼ姿を消しており、義詮の死は室町幕府の形成史上に於けるひとつのターニングポイントといえます。
ちなみに、私の個人的な主観としては、義詮は、江戸幕府の将軍の中では特に知名度の高い、初代将軍家康と第3代将軍家光の間に挟まれた、やはり第2代の将軍である秀忠と、何となくイメージが重なります。秀忠も、地味で華麗さはほとんどなく、“天下分け目の合戦”である関ヶ原の合戦に遅参するという大失態も犯していますが、全体を通して見ると、確実に有能な将軍でしたから。


【第3代将軍 足利義満】

有力大名の力を弱めて幕府の権力を絶対的なものにした
室町幕府が強固な統一政権となるためには、強くなり過ぎた家臣達、つまり守護大名を弱体化させ、それによって将軍の権威を高める必要があり、それは、父である前将軍の義詮が推し進めた政策でもありましたが、義満はその政策を更に強く進めて全国各地の守護大名の力を相当弱める事に成功し、それによって幕府の全盛期を築きました。
当時日本の6分の1を支配するまでに強大化していた守護大名・山名氏に対しては、その後継者争いに介入し、義満は、失脚した後継者候補を支援するような動きを見せて、あえて有力後継者を怒らせました。そして、その有力後継者は幕府に襲いかかり、義満は総力を結集して山名氏を撃退すると、幕府に反乱を起こした罰として山名氏から領土の7割を奪って、功績のあった大名に分け与えるなどしました。義満は、これとほぼ同様の方法で、多くの守護大名達を弱体化させていきました。
ただ、幕府の全盛期を築いたとはいっても、その義満時代の幕府も、実は、後の世の豊臣政権や徳川政権などの非常に強力な中央政権に比べると、まだ不完全な点もあり、完全に全国の全てを支配下に置いていたわけではありませんでした。しかし、それでも義満以前の過去の政権と比べると、義満の時代の幕府は、当時としては史上最大とも言える程の、非常に強大な権力を持った政権でした。

南北朝に分かれていた朝廷を統一した
前将軍の義詮や、義満の優秀な側近らの功績により、幕府に抵抗を続けてきた南朝は既に有名無実化していましたが(強硬派であった長慶天皇が和睦派の後亀山天皇に譲位されてからは、南朝による軍事行動もほぼ無くなっていました)、義詮の時代から何度かあった和睦の話はいずれも折り合いが合わず、形の上では依然として南朝は存在し続けていました。
義満はこの問題を解決するため、南朝に使者を送って和睦についての話を進め、そして、義満の将軍就任から24年後、義満が示した和睦条件を南朝側が受け入れる事でついに和睦が成立(事実上、南朝が降伏)し、南朝が奉っていた「三種の神器」を北朝へと譲らせて南朝は北朝に合一され、皇室は再びひとつになりました。
これにより、後醍醐天皇の吉野還幸から60年近くも続いた南北両朝の並立(同時代に二人の天皇が在位するという極めて特異な事態)は終了し、漸く日本は、各地にまだ火種を残しつつもとりあえずは室町幕府の下に全国が統一されました。もっとも、南北両朝の合一を認めない旧南朝の残党はその後も度々騒動を起こすなどしており、「後南朝」とも称されるそれら旧南朝の抵抗運動は、次第に勢力を失いながらも暫くは続いていく事となりました。

北山文化を生み出した
義満が明との貿易で手に入れた豪華な品々は、貴族文化に武家文化が融合した、豪華で華麗な「北山文化」を生み出す事に繋がりました。一層が寝殿造、二層が武家造、三層が禅宗様式の鹿苑寺金閣は、その代表格とされています。
義満の時代には、田植神事と農耕歌舞が結合した「田楽」や、平安時代の猿楽が発展した舞台芸術「猿楽能」なども花開き、観阿弥や世阿弥などの逸材を輩出した他、庭園、絵画、文学などの各分野でも、多くの逸材が活躍しました。
またこの時期は、義満が南宋の官寺の制に倣って五山十刹の制を整えたりするなど、仏教界でも大きな動きが見られました。特に臨済宗は、将軍家・幕府の帰依と保護により大いに発展し、曹洞宗も、地方の武士に広まって北陸で発展するなどしました。


【第4代将軍 足利義持】

幕府の権勢を維持する
義持は、粗暴な所もあって失敗も少なくはなかったようですが、室町幕府の将軍としては最長の在位となる28年間、有能な補佐役達に支えられて幕府を無難に運営した事は、それなりに高く評価されています。
前将軍である父の義満は、征夷大将軍として武家の頂点に立ち、太政大臣として公家の頂点にも立ち、出家した立場から社寺(宗教勢力)の頂点にも立ち、更に、当時の中国の王朝である明に対しては自ら「日本国王」を名乗り、一説によると「治天の君」の地位すらも狙っていたとも云われる程、兎に角絶大な権力を誇っていました。しかし義満が没した後は、それまで義満が力で抑えていた、地方を支配する大名達が再び勢力を盛り返しはじめ、義持はその圧力に悩まされながらも、関東で起こった「上杉禅秀の乱」に対しては、鎌倉公方・足利持氏からの要請に応える形で大軍の幕府軍を派遣し鎮圧するなどして、幕府の権勢維持に努めました。
その後、義持は鎌倉公方の持氏と対立するようになり、その対立は次項で述べる義教の時代に継承されていく事になるため、義持の時代には幕府と関東の確執は解消されませんでしたが、それでも近年では、義持の治世が室町幕府の再安定期だった、という評価もされるようになってきています。

実は水墨画の達人
義持は、決して政治を疎かにしていたわけではありませんが、政治よりも、特に文化・宗教などの方面でより才能を発揮しました。文化の方面では田楽や水墨画を愛好し、現在国宝に指定されている水墨画「瓢鮎図(ひょうねんず)」は、義持が自ら発案し、制作も指導して描かせたものとして伝わっています。義持自身が直接筆をとった水墨画も現存しておりますが、それはいずれも素人離れした高い完成度を誇っています。


【第6代将軍 足利義教】

管領の力を弱めて、将軍が強い実権を持つ政治形態に変えていく
義教は、前述のように「万人恐怖といわれた独裁政治を行った」とされる将軍ですが、なぜそのような政治を行ったのかを理解するためには、当時の時代背景も併せて知っておく必要があります。
義教が将軍に就任した直後、旧南朝勢力の反乱である北畠満雅の乱が起こり、また同時期には、「日本開闢以来、土民蜂起之初めなり」と記された正長の土一揆を切っ掛けに畿内各地で土一揆が起こるなどし、京都周辺は騒然とした状況にありました。地方でも、九州では大内家と大友家の戦が勃発し、関東では、鎌倉公方の足利持氏があからさまに幕府に反発するようになるなどしていました。
そういった騒然とした状況から、義教は将軍の権威を高めて幕府の統制力を強化する事を目指しました。具体的には、廃止されていた評定衆や引付頭人を復活させ、賦別(くばりわけ)奉行を管領直属から将軍直属に変え、政務の決済は将軍臨席の場でする事とし、また、訴訟審理の場からは管領を締め出しました。
管領以下の諸大名の意向を聞きながら政治を行うというそれまでの幕政を変え、将軍が自ら実権を持つ政治形態へと変えていったのです。

将軍独裁による恐怖政治を進める
義教は、くじ引きで選ばれた将軍ではありましたが、将軍としては優秀で、経済や軍事の改革に成功した他、大名や宗教勢力を弱め、将軍に対して不満を言う者は暗殺したり謀殺したり攻め滅ぼすという「恐怖政治」の手法で、将軍の権力を強大化させていきました。そして、幕府の重鎮だった斯波義淳、畠山満家、三宝院満済、山名時煕らが相次いで死去すると、義教の専制政治化は更に進んでいきました。
義教は、上杉禅秀の乱鎮圧の際には幕府と協調した、鎌倉公方の足利持氏に対しても、関東管領の上杉憲実に攻めさせ、更に後花園天皇に持氏討伐の綸旨を出させるなどして、最終的には自害に追い込み、その持氏の遺児である春王丸らも殺害しました。
義教は朝廷に対しても厳しい態度で臨み、男女別室の制度を設けるなどして風紀を正しました。義教は、公家・武家の別や身分等には拘わらず、特に男女関係の不祥事には厳罰で臨みました。また、一揆に対しても、主力大名を投入するなどして次々と鎮圧していきました。

それまでタブー視されてきた勢力に対しても一切容赦しない
比叡山の焼き討ちといえば、織田信長が行った“悪行”のひとつとして古来から有名ですが、実は、信長に先駆けて初めてそれを行ったのは義教です。
平安時代以来、比叡山延暦寺は治外法権状態にあり、歴代の権力者達は比叡山には手を出しませんでしたが、義教は、荘園の境界問題や坂本の土倉の金貸し問題などで悉く比叡山に不利な裁定を下し、更に、鎌倉公方の持氏と内通していたという嫌疑をかけて所領も没収するなど、比叡山には強硬な態度で臨み、ついには、延暦寺追討を宣言して、幕府軍に比叡山を包囲させて山麓の坂本に火をかけるなどの行動を起こしました。
このため、延暦寺は和睦のため4人の使節を義教の元に派遣するのですが、義教はこの4人も殺害したため、怒った比叡山は、延暦寺の本堂に当たる根本中堂に火をかけて、そこで24人の宗徒が自害する事で、抗議の姿勢を示しました。
比叡山に対しての義教のこういった対応は、義教の治世が恐怖政治と云われる由縁のひとつにもなっていますが、しかし当時の比叡山は、現在のように世の中の平和や人々の平安を願う、純然たる宗教組織だったわけではなく、宗教勢力であると同時に強大な武力を持った一大軍事勢力であり、その武力を背景に朝廷や幕府に対して強い自己主張を行う圧力団体であったという事も、差し引いて考える必要があります。
しかも義教は、10歳に満たない頃から、将軍に就任する直前の30年代の壮年まで、僧侶としてずっと比叡山におり、その間には天台座主という比叡山のトップの座にも就いていました。それだけに義教は、比叡山の世俗化に伴う拝金主義、宗教的堕落、過激化する僧兵などの実態を誰よりも正確に把握しており、それが延暦寺への徹底的な弾圧に繋がったとも云われています。

義教の施策とその死は、幕府混迷への大きな転換点となった
義教の恐怖政治には当然反発もあり、最終的に義教は、義教の次の標的が自分である事を察知していた播磨の大名・赤松満祐により、関東平定の戦勝祝いの宴の席で暗殺されました(嘉吉の変)。宴の席で猿楽が始まって間もなく、義教の背後の障子が開き、そこから甲冑姿の武士数十人が乱入して、たちまち義教の首を刎ねたのです。
そして、義教のそのあっけない最期により、幕府の権力は将軍の手を離れていき、室町幕府の衰退が始まっていく事になります。


…というわけで、こうして5人の足利将軍の功績・長所・特徴などをまとめてみましたが、こうしみてみると、足利将軍は決して、無為無策・無能で実力も無かった人ばかりだった、などとは言えない事がお分かり戴けたかなと思います。
しかし、こうして改めてみてみると、同時に室町幕府の抱える大きな欠陥も見えてきます。それは、将軍が有力大名達を抑え付けて幕府の権勢を高め、政情を安定化させても、その将軍が亡くなって代替わりすると、また有力大名達が力を付けてくる、という事です。つまり、室町時代前期に於ける幕府の安定というものは、将軍個人の力量に依拠している部分が大きいのです。
後の江戸幕府が、将軍が誰であるかに関係なく長期に亘って安定政権であり続けたのは、室町幕府のそういった欠点やその結果を反面教師として体制を整備していったという面もあると思います。


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足利義満所縁の相国寺を参拝してきました

私は先月中旬、奈良の春日大社(厳密にいうと、同大社境内に鎮座する摂社の若宮神社ですが)で斎行された神前結婚式に媒酌人として参列するため、その日にちに合せて2泊3日の日程で京都・奈良方面を旅行してきたのですが、京都に立ち寄った際、室町幕府や足利将軍家と深い関わりがある古刹である、京都御苑の北隣に位置する臨済宗相国寺派大本山・相国寺を参拝・見学してきました。

相国寺は、京都五山の第二位に列せられている、寺格の高い名刹で、また、寺院としての知名度では、世界的にも有名な京都観光定番スポットの鹿苑寺金閣(所謂 金閣寺)や慈照寺銀閣(所謂 銀閣寺)のほうが有名ではあるものの、相国寺はその鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣の2ヶ寺を山外塔頭として擁し、更に、全国に100ヶ寺もの末寺を擁する大寺院でもあり(ちはみに、相国寺境内には本山相国寺をはじめ13の塔頭寺院があります)、そして、鹿苑寺金閣同様、特に室町幕府第3代将軍の足利義満に深い所縁がある古刹でもあります。
というわけで、私は今まで一度も相国寺には行った事が無かったのでいずれ行ってみたいとずっと思っていた事もあり、今回の旅行に合せて同寺へと行って参りました。

以下の写真はいずれも、今回の訪問で私が撮影してきた、相国寺の総門と境内の景観です。
最盛期に比べるとその規模は縮小されているとはいえ、それでも、一宗派の大本山らしく十分な威容を誇っている巨大な寺院でした。

相国寺_01

相国寺_02

相国寺_03

相国寺_04

相国寺_05

相国寺_06


平成25年11月26日の記事で述べたように、足利義満は、現在の住所でいう京都市上京区室町通り上立売の辺りに、壮麗な将軍家邸宅を構え、そこで将軍として政務を執っていました。広大な邸宅の敷地には大きな池が掘られて鴨川の水が引かれ、庭には四季の花が植えられ、それらの花が爛漫と咲き乱れていたと云い、その美しい様から室町の足利将軍邸は、人々から「花の御所」と称されました。
永徳2年(1382年)、義満はその花の御所の東側の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、早速寺院の建設工事が始まります。その寺院が、現在の相国寺です。

相国寺の造営予定地には既に多くの家々が建っており、御所に仕える公家達の屋敷なども立ち並んでいましたが、相国寺の造営に当たっては、家主の身分に関係無くそれらの家屋は全て余所へと移転させられ、その有様は、まるで平清盛による福原遷都にも似た、かなり強引なものであったと云われています。
ちなみに、寺名の「相国」とは、国を扶ける、国を治める、という意味です。元々は中国からきた言葉ですが、日本ではその由来から、左大臣の位を相国と呼んでいました。つまり、相国寺を創建した義満が当時左大臣で、相国であった事から、相国寺と名付けられたのです。

そして義満は、禅の師であった春屋妙葩に、相国寺の開山となることを要請します。しかし妙葩はこれを固辞し、妙葩の師である夢窓疎石を開山とするのなら、自分は喜んで第二祖になると返答したため、義満はそれを了承し、既に故人となっていた疎石を形の上でだけ開山として、妙葩は第二祖(事実上の開山)となりました。
但し妙葩は、相国寺造営の責任者として終始陣頭で指揮を執ったものの、相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没しています。

ちなみに、義満は相国寺を是非とも京都五山のひとつに入れたいと熱望していましたが、既に五山は確定していたため、もし相国寺を強引に五山に入れると、既に五山に入っているいずれかの寺院が五山から脱落しなければならず、そのため義満は、どの寺院を五山から除くべきか、もしくは、相国寺を準五山とするか、あるいは、五山ではなく六山の制にするか、大いに悩んでいたようです。
最終的には、天皇によって建立された南禅寺を五山よりも上位の寺格(別格)として五山から外す事で、相国寺を五山に列位させて、義満の願いは成就しました。これ以降の具体的な順位は、南禅寺が別格、天龍寺が第一位、相国寺が第二位、建仁寺が第三位、東福寺が第四位、万寿寺が第五位となります。
当初は、義満の意向により相国寺が第一位、天龍寺が第二位とされたのですが、義満没後に再び天竜寺が第一位、相国寺が第二位に戻され、それ以降は順位の変動はありません。

そして、着工から10年を経た明徳3年(1392年)、ついに相国寺の堂塔伽藍が竣工し、盛大な落慶供養が執り行われました。
「相国寺供養記」という本によりますと、落慶供養当日の模様は、「路頭縦と云い横と云い、桟敷左に在り右に在り、都鄙群集して堵(かき)のごとく、綺羅充満して市をなす」と記されており、境内には、聳え立つ真新しい殿堂、威儀を正した僧侶達、義満に供奉する公武の人々、見物の群集などの景色が広がり、祝賀ムード全開、お祭り一色の派手な様相が広がっていたようです。
そしてそのほぼ1ヶ月後に、南朝と北朝との間で和議が成立し、約60年に亘って続いてきた南北朝の抗争も終結し、待望の平和が蘇る事となりました。

創建当時の相国寺は、室町一条辺りに総門があったと云われ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約144万坪の壮大な敷地に50あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。兎に角巨大な寺院でした。
そして、残念ながら現存はしませんが、義満の時代の相国寺で確実に最も目立っていたのは、史上最も高かった日本様式の仏塔でもある「七重大塔」です。この仏塔は、義満の絶大な権勢を象徴するモニュメントでもあり、その高さ(尖塔高)は109.1mを誇り、構築物として高さ日本一というその記録は、大正3年(1914年)に日立鉱山の煙突(高さ155.7m)が完成するまでの凡そ515年間も破られる事がありませんでした。
下のイラストは、「週刊 新発見!日本の歴史 24」誌上からの転載で、義満の時代の相国寺伽藍の全景です。巨大な七重大塔が、強烈な存在感を醸し出しています。

相国寺伽藍


ところが、竣工後の相国寺は度々火災に見舞われ(七重大塔が現存しないのはそのためです)、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に境内は全焼し、その後復興されたものの、義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼しています。
応仁元年(1467年)には、応仁の乱で細川方の陣地となったあおりでまた焼失し(相国寺の戦い)、天文20年(1551年)にも、細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれてまた焼失しています(相国寺の戦い)。
天正12年(1584年)、相国寺中興の祖とされる西笑承兌が住職となって復興が進められ、日本最古の法堂建築として現存する法堂は、この時期に建立されました。しかしその後も、元和6年(1620年)に火災に遭い、天明8年(1788年)の「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇をまた焼失しました。そのため、現存の伽藍の大部分は、19世紀はじめの文化年間の再建となっています。

このように、長い歴史の中で幾度も焼失と復興を繰り返してきた相国寺ですが、相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として、そして、室町幕府の厚い保護と将軍の帰依とによって、これだけの火災に遭いながらも大いに栄えてきた大寺院で、幾多の禅傑を生み出し、我が国の文化にも決して小さくはない役割を果たしてきました。
ちなみに、室町時代中頃の「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)という日記によりますと、第8代将軍の足利義政は、寛正5年(1464年)の一年間だけで、実に四十数回も相国寺を参詣しています。現職の将軍が一年間にこのように何十回も参詣したお寺は他には無く、足利将軍の深い帰依の様子が窺えます。


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足利市の鑁阿寺に残る、足利将軍へのかつての尊崇・信仰の形

前回の記事で述べたように、私は先月下旬、栃木県足利市に行ってきたのですが、私が足利市で見てきたいくつかのスポットの中で、個人的に一番興味深かったのは、足利学校のすぐ近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)という古刹でした。
現在の鑁阿寺は、真言宗大日派の本山で、「足利氏宅跡」として境内全体が国の史跡に指定されており、四方に門が設けられ土塁と堀がめぐらされているなど平安時代後期の武士の館の面影が残されている事から「日本の名城百選」のひとつにも選ばれています。
また、本堂は国宝に、境内にあるその他の堂宇も国の重要文化財や県もしくは市の文化財などに指定されており、歴史的建造物としても大変貴重なお寺です。

下の写真2枚は、その鑁阿寺を今回参拝・見学した際に私が撮影してきた、県の指定文化財でもある楼門(山門)と、国宝に指定されている大御堂(本堂)です。
楼門(下の写真の1枚目)は、室町幕府第13代将軍の足利義輝が室町時代後期に再建したもので、大御堂(下の写真の2枚目)は、源姓足利氏2代目で鑁阿寺を開創した足利義兼が鎌倉時代初期に建立し、鎌倉時代後期に足利尊氏の父・貞氏が再建したものです。

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楼門と大御堂、どちらの屋根の上にも、足利家の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が入っており、金色に光り輝いています。

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前出の足利義兼が邸宅内に持仏堂を建てたのが鑁阿寺創建の由緒とされており、鎌倉時代以降、次第に本格的且つ大規模な寺院として整備されていき、室町時代には、京都の足利将軍家や、鎌倉公方足利家により、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
現在は、平成26年7月2日の記事で紹介させて頂いた「全国足利氏ゆかりの会」の会員ともなっています。


ところで、私が今回鑁阿寺を参拝・見学してきて、現地で「おおっ、これは!」と特に括目したのは、大御堂の裏手に建つ「御霊屋」(おたまや)と、その直ぐ隣に建つ「大酉堂」(おおとりどう)です。

下の写真4枚はいずれも御霊屋で、鑁阿寺という寺院の境内に建つ建物ではありますが、これは仏教建築ではなく、明らかな神社建築であるのが特徴です。手前側にある入母屋造りの拝殿と、その奥に鎮座する一間社流れ造りの本殿の2殿を中心として、全体が、正面の神門と連なる瑞垣で囲まれています。
御霊屋の当初の建物は鎌倉時代に建てられましたが、現在のものは、江戸時代に江戸幕府第11代将軍 徳川家斉が寄進したものです。

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御霊屋の神門前に立てられている解説板によると、この御霊屋は、当初は足利大権現と称され、本殿では「源氏の祖」」を御祭神としてお祀りし、拝殿内には、歴代足利将軍15人全員の木像がお祀りされていたそうです(現在は、その15体の歴代将軍の座像は、いずれも鑁阿寺の経堂内に移されています)。
また、本殿の直ぐ裏には、鑁阿寺を開創した足利義兼の父・義康と、その父(つまり義兼の祖父)である義国二人のお墓もあります。下の写真がそのお墓で、本殿の直ぐ真裏、瑞垣の内側にあります。本殿御祭神の「源氏の祖」というのは、この二人の事らしいです。

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神道は、何よりも清浄を尊び、人の死や遺骸などは「不浄」や「ケガレ」として捉えるため、本来の神社であれば、本殿とお墓が隣接して建つという事はまずほとんど有り得ないのですが、ただ、久能山東照宮の廟所、日光東照宮の奥宮、といった例外もあるので(これらの二例はいずれも、御祭神のお墓と本殿が極めて近接しています)、本殿とお墓が隣接しているのが必ずしも絶対にアウト、というわけではないのでしょう。
そもそもこの御霊屋は寺院の境内に建つ、非常に神仏習合色の濃いお宮なので、どのみち普通の神社とは性格が異なりますし。


そして下の写真は、御霊屋の直ぐ隣に建つ大酉堂です。こちらは御霊屋とは違い、神社建築ではなく、他の堂宇と同様、仏教本来のお堂の形式が採られています。
大酉堂の前に立てられている解説板によると、このお堂は、元々は足利尊氏をお祀りするお堂として室町時代に建立されたもので、江戸時代や明治時代初期の鑁阿寺伽藍配置図には「足利尊氏公霊屋」と記載されていたそうです。このお堂には、御霊屋の拝殿内にお祀りされていた束帯姿の尊氏座像とは別の、甲冑姿の尊氏像も、お祀りされていたそうです。
しかし明治時代中期以降、尊氏を逆賊とする歴史観が台頭してきた事により、大酉堂の尊氏像はここから本坊に移され、それに代わって、俗に「おとり様」と称される、武神でもある大酉大権現が御本尊になったのだそうです。現在、大酉堂と称されているのはそのためです。

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私は平成26年1月20日の記事の中で、以下のように書いた事があります。
ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。

こういった事を踏まえて、私は、南朝方の天皇・皇族・公家・武将ではなく、北朝方(足利氏や北朝を支援した室町幕府の武将も含む)が信仰対象となっている社寺が無いものか、ずっと探していたのですが、それを、今回の足利市探訪で、鑁阿寺にて漸く見つける事が出来たのでした。

御霊屋は、足利将軍が本殿の主祭神としてお祀りされていたわけではないものの、かつては御霊屋自体が足利大権現と称されていて、拝殿内には歴代の足利将軍像がお祀りされていたとの事ですから、歴代の足利将軍も恐らく信仰の対象、もしくはそれに近い存在として扱われてはいたのでしょう。
ここで言う「歴代の足利将軍像がお祀りされていた」というのが、祀るという字面通り、本当に信仰対象として、配神もしくはそれに準じる御神霊の依代としてお祀りされていたのか、それとも、奉安場所が本殿ではなくあくまでも拝殿なので、単に御神宝や威儀物等に近いような位置付けでそこに奉納されていたのか、その点は不明ですが、歴代の足利将軍像がいずれも比較的綺麗な状態で現存しているらしい事から、兎も角、いろいろな人達の思いを受けながら時代を超えて大切にされてきたのは確かといえそうです。

そして大酉堂は、御祭神としてではないものの、前述のように、はっきりと尊氏が(具体的にどういった形でかは不明ですが、恐らくは神式ではなく仏式で)お祀りされていたようです。
御霊屋と大酉堂それぞれのかつての位置付けは、御霊屋が源氏の祖と歴代の足利将軍全員の霊廟、大酉堂が室町幕府初代将軍である尊氏個人の霊廟、という感じだったのかもしれませんね。

北朝の天皇・皇族・公家や、室町幕府の将軍・武将などをお祀りする社寺は、現在でこそ、その数はほぼ皆無に近いですが、明治時代よりも前の時代は、やはりもっとあったのでしょう。私は今回、鑁阿寺で、その名残を見る事が出来ました。
南朝の天皇・皇族・公家・武将をお祀りする社寺などは、それと反比例して、逆に明治時代以降に多くなったのではないかなと思います。


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足利義詮と楠木正行の菩提寺である宝筐院を参拝してきました

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪・京都・高松方面を旅行してきました。3日目の午前中は、京都の嵯峨・嵐山地区を散策してきたのですが、その際、嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という、臨済宗系の単立寺院を参拝・見学してきました。

宝筐院_01

宝筐院_02

宝筐院は、境内にある庭園の景色が美しく、特に、初夏の新緑、晩秋から初冬にかけての紅葉、冬の雪景色などは大変美しいと評判ですが、私が行った時期は緑も紅葉も雪も無く、そのため季節的には「ちょっと微妙かも…」という感じでした。
そうであるにも拘らず、今回私があえて宝筐院に行ってきたのは、庭園の景色を楽しむためではなく、足利義詮のお墓と楠木正行の首塚をお参りするためだったからです。お墓参りをする分には、境内の景色は別に関係無いですからね。
宝筐院は、生前は敵同士であった、室町幕府第2代将軍 足利義詮のお墓と、南朝に仕えた楠木正行(名将・楠木正成の息子)の首塚が、仲良く並んで立っているお寺としても知られています。


宝筐院は、平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、南北朝時代に夢窓国師の高弟・黙庵周諭禅師が中興開山した寺院です。
その黙庵に帰依した足利義詮によって伽藍の整備が進められ、当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていたと記録されています。
その一方で、足利家とは敵対関係にあった楠木正行もまた黙庵に帰依していた事から、四條畷の戦いで正行が足利方の高師直・師泰兄弟に敗れて討死した後、正行の首級も黙庵によって同寺に葬られました。

義詮が没した後、宝筐院(当時の名は善入寺)は義詮の菩提寺となり、室町幕府歴代将軍の保護もあって大いに隆盛しました。最盛期には、備中や周防などにも寺領を構えていたそうです。
しかし応仁の乱以後、宝筐院は幕府の衰えと共に衰退していき、江戸時代には天龍寺末寺の小院となり、伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり、幕末には一旦廃寺となります。
その後、臨済宗天龍寺派管長の高木龍淵や、神戸の実業家 川崎芳太郎などによって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興(旧境内地の買い戻し、新築、古建築の移築、主な什物類の回収など)が行なわれ、廃寺から五十数年を経て復興されて、現在に至っています。


下の写真2枚は、本堂の正面全景と本堂内で、ここには木造十一面千手観世音菩薩立像が本尊としてお祀りされています。

宝筐院_03

宝筐院_05

そして本堂には、本尊とは別に正行の木造もお祀りされていました。
元々は義詮の菩提寺であり、宝筐院という寺名も義詮の院号である宝筐院から取られたものなのですが、大正期に復興されて以降の宝筐院は、義詮の菩提寺というよりは、正行の菩提寺である事のほうが強調されている感があります。

宝筐院_04


下の写真が、境内の一画に並んで立っている義詮のお墓と正行の首塚です。門と柵で囲われており、中央の門扉には、足利家と楠木家それぞれの家紋が描かれています。

宝筐院_06

宝筐院_07

下の写真の左側が、義詮のお墓と伝えられる三層石塔で、右側が、正行の首塚と伝えられる五輪石塔です。
生前は敵であった正行が宝筐院(当時の名は観林寺)に埋葬された事を知った義詮は、正行の人柄を褒め称え、「自分が死んだ後は、かねてより敬慕していた観林寺の楠木正行の墓の傍らに葬って貰いたい」と言い、その遺言に従って義詮のお墓は正行の首塚のすぐ隣に立てられたと伝えられています。

宝筐院_08

なお、今回の記事に添付した写真には写っていませんが、墓前にある石灯籠の書は、明治・大正期の文人画家 富岡鉄斎の揮毫で、そこに記されている「精忠」は、最も優れた忠を意味し、「碎徳」は、一片の徳、即ち敵将を褒め称えその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片に過ぎないという意味で、義詮の徳の大きさを褒めた言葉とされています。


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足利義満所縁の鹿苑寺を参拝してきました

私は今年の7月、2泊3日の日程で関西(京都・大阪・和歌山方面)を旅行し、旅行の2日目は、主に足利氏所縁の史跡や社寺等を中心に京都各地をまわってきました。
具体的には、2日目の午前中は、7月22日の記事で述べたように京都府亀岡市篠町に鎮座する篠村八幡宮や、7月28日の記事で述べたように京都市北区等持院北町に鎮座する等持院などへと行き、そしてその日の午後は、京都市北区金閣寺町に鎮座する、臨済宗相国寺派の相国寺山外塔頭「鹿苑寺」を参拝・見学してきました。今回の記事では、その鹿苑寺について、紹介をさせて頂きます。

改めて説明するまでもなく、鹿苑寺は、「金閣寺」という通称(世間一般ではこちらの名前のほうで知られています)と、世界遺産に登録されている事などで広く知られている寺院で、観光都市京都の中でも、昔から清水寺と双璧を成す“定番観光スポットの寺院”のひとつです。
私は、今から○○年前の高校時代(北海道内の高校に在学していました)に修学旅行で京都を訪れ、その時に一度鹿苑寺を見学しており、今回は、私にとってはその時以来、2回目の鹿苑寺訪問となりました。

鹿苑寺の創建は応永4年(1397年)、開山は夢窓疎石、開基は室町幕府三代将軍の足利義満で、鹿苑寺という寺名は、 義満の法号である鹿苑院殿に由来します。但し、鹿苑寺が寺院となったのは義満の死後で、義満の時代には、邸宅(北山山荘)として利用されていました。
邸宅とはいっても、日本の歴史上最大の権力者のひとりといえる義満の邸宅だったわけですから、勿論単なる私邸ではなく、その規模は御所にも匹敵する規模を誇っていました。
義満は、将軍として在職していた当時は、平成25年11月26日の記事で紹介した、足利将軍家の公邸である「花の御所」で政務を執っていましたが、将軍職を息子の義持に譲った後は、政治の実権は握ったまま、北山山荘(北山殿または北山第とも称されます)に移り、そこで引き続き政務を執っており、つまり、義満が将軍を引退してから没するまでの間は、この鹿苑寺に日本の政治中枢のほぼ全てが集約されていた、と言っても過言ではない状況にあったようです。

なお、鹿苑寺の概要については、下の写真の看板を御参照下さい(境内に立っていた看板です)。

鹿苑寺_00


以下の写真3枚は、私が撮影してきた鹿苑寺金閣で、正確には「舎利殿」という名の建物です。
鹿苑寺に於ける、寺院としての最も重要な建物は、御本尊の観音菩薩がお祀りされている「方丈」(他宗派で云う本堂に相当する建物)ですが、一般には、単に金閣寺と云う場合はこの建物を指す事が多く、この舎利殿が、鹿苑寺を最も代表・象徴する建物と広く認識されています。

鹿苑寺_01

鹿苑寺_02

鹿苑寺_03


以下の写真2枚は、私が撮影したものではありませんが、いずれも舎利殿の内部の様子です。
1枚目の写真は、ウィキペディアから借用したもので、「法水院」と称される一層目(1階)の内部です。この層は寝殿造で、中央には宝冠釈迦如来像が、向かって左には法体の足利義満坐像が安置されております。
2枚目の写真は、絵葉書からキャプチャした画像で、「潮音洞」と称される二層目(2階)の内部です。この層は武家造で、岩屋観音坐像と四天王像が安置されております。

鹿苑寺_04

鹿苑寺_05


以下の写真3枚は、鹿苑寺の境内で見学・撮影してきた、足利将軍所縁の遺跡です。

鹿苑寺_06

鹿苑寺_07

鹿苑寺_08


京都には時々行く機会がありますが(2年間、住んでもいましたが)、鹿苑寺に行く機会はなかなか無かったので、今夏、久々に鹿苑寺を参拝・見学する事が出来て良かったです。今度は、やはり○○年以来の訪問となる、銀閣にも是非行ってみたいです。

ちなみに、今回私が鹿苑寺の境内で撮影してきた写真は、別のブログとなりますが以下の記事にもアップしておりますので、宜しければこちらも是非御覧になって下さい。
http://shinbutsu.at.webry.info/201407/article_3.html


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今年の“読書の秋”に私が読んでみようと思っている本

今月は、公私共々いろいろと忙しかったのですが、その忙しさも概ね一段落してきたので、買ってはいたもののまだ未読に近かった書籍などを、これから集中的に読書していきたいなと思っています。

読書の秋

上の写真は、これから私が読んでみようと思っている室町幕府・足利将軍家関係の3冊ですが、どちらかというとこれらの本は、最初から順番にじっくり読んでいく、というよりは、分からない事や調べたい事が発生した時に、目次や索引のページなどからその項目を調べていく、というように辞書に近い形で使うのが現実的かなという気もするのですが、あえて最初からじっくり読んでいくのも面白いかなと。物凄く時間はかかりそうですけどね(笑)。

「鎌倉・室町将軍家総覧」(平成元年発行)は、何年か前に東京を旅行した際に、古書街として知られる神田神保町の古書店で購入しました。徳川将軍家についての本は巷に溢れており特に珍しくもありませんが(そもそも大抵の人は単に将軍家と聞くと、まず徳川家を連想するでしょうね)、鎌倉幕府や室町幕府の将軍家についての本というのは書店ではほとんど見かける事が無いので、「これは即買いだな!」と思って買いました。
「足利将軍列伝」(昭和50年発行)は、昨年か一昨年、ネットで購入した古書です。そのタイトル通り、歴代足利将軍についての本で、これもかなり珍しい本だと思います。

「室町時代人物事典」は、つい最近、普通に大型書店で買ってきた新刊です。この本は今年刊行されたばかりの本なので、入手は容易です。
第1章 天皇家・足利家、 第2章 三管四職家、 第3章 東北地方の氏族、 第4章 関東地方の氏族、 第5章 中部地方の氏族、 第6章 近畿地方の氏族、 第7章 中国・四国地方の氏族、 第8章 九州地方の氏族、 第9章 公家、 第10章 女性・僧侶・文化人など、の全10章から成っています。


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等持院に奉安されている歴代足利将軍の木像

前回の記事では、京都市北区等持院北町に鎮座する、足利将軍家の菩提寺「等持院」の歴史や境内などを紹介しましたが、今日は、その等持院に奉安されている歴代足利将軍の木像(肖像彫刻)を紹介致します。
これらの木像は、今年4月20日の記事の最後のほうで詳述したように、幕末期の1863年、尊王攘夷派によって首が奪われて三条河原に晒されたという事件でもよく知られています。

歴代足利将軍の木像が奉安されているのは、等持院の方丈(釈迦如来坐像が本尊として奉安されている本堂)の東隣に位置し、方丈とは渡り廊下で繋がっている「霊光殿」という建物です。

等持院_06


霊光殿の内部中央奥の内陣には、本尊として、足利尊氏の念持仏である利運地蔵菩薩がお祀りされており、本尊に向かって左側には禅宗の始祖である達磨大師像が、向かって右側には等持院開山の夢窓国師像が、それぞれお祀りされています。
なお、先月私が霊光殿を見学した際、「霊光殿内は写真撮影禁止」という表示が出ていたため、先月の見学では殿内の写真を撮る事は出来ませんでした。そのため、以下にアップしている各写真はいずれも、私が今から13年前に等持院の霊光殿内を見学した時に撮影した写真(当時は「撮影禁止」の表示は無かったと記憶しています)、もしくは、書籍に掲載されている写真をキャプチャーしたものです。

等持院 霊光殿

上の写真ではちょっと分かり辛いと思いますが、内陣の本尊に向かって左側の脇壇奥から、室町幕府初代将軍の尊氏像、2代義詮像、3代義満像、4代義持像、6代義教像、7代義勝像、8代義政像が、そして右側の脇壇奥から、徳川家康像、9代義尚像、10代義植像、11代義澄像、12代義晴像、13代義輝像、15代義昭像が奉安されています。理由は分かりませんが、5代義量像と14代義栄像は欠いた状態となっています。
下の写真は、手前から義勝像、義教像、義持像です。義勝は、赤痢のため僅か10歳で没した幼い将軍だったため、木像の表情も、子供らしさが強調されたものとなっています。

歴代足利将軍木像

なお、これらの木像の前にぞれぞれ掲げられている木札に記されている歴代数(等持院独自のもの)と、一般的な歴代数とは、必ずしも一致していません。例えば、義輝は一般には13代将軍と解されていますが、木像前の木札では「十四代」と記されています。


▼ 初代将軍・足利尊氏(等持院)像

足利尊氏像_01

足利尊氏像_02


▼ 第2代将軍・足利義詮(寶篋院)像

足利義詮像


▼ 第3代将軍・足利義満(鹿苑院)像

足利義満像_01

足利義満像_02


▼ 第7代将軍・足利義勝(慶雲院)像

足利義勝像


▼ 第8代将軍・足利義政(慈照院)像

足利義政像_01

足利義政像_02


▼ 第13代将軍・足利義輝(光源院)像

足利義輝像


▼ 第15代将軍・足利義昭(霊陽院)像

足利義昭像_01

足利義昭像_02


▼ 徳川家康像

徳川家康像

この家康像は、家康が42歳(男性の大厄とされる歳)の時に厄落としのために作らせたもので、徳川家光が石清水八幡宮の豊蔵坊に寄進して、天下泰平国土豊穣を祈念させたと伝わっています。そして明治になって、神仏分離により豊蔵坊が廃止された事により、豊蔵坊から等持院に寄進されたそうです。
家康像の安置場所として等持院が選ばれた経緯ははっきりしていませんが、徳川氏は新田氏の末裔であるという伝承があるため、歴代の足利将軍の木像と家康の木像とを並べる事で、足利氏と新田氏の和解の象徴としたかったのではないか、という解釈もあるようです。


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足利家の菩提寺である等持院を参拝してきました

前回の記事で述べたように、私は今月中旬、2泊3日の日程で関西を旅行してきたのですが、京都府亀岡市に鎮座する篠村八幡宮を参拝・見学した後は、JR嵯峨野線や嵐電(嵐山本線と北野線)を乗り継いで、京都市北区に鎮座する等持院にも行って来ました。
等持院は、臨済宗天竜寺派に所属する洛西の古刹で、足利尊氏の墓所、足利将軍家の菩提寺でもあります。

私は、等持院には以前にも参拝した事がありましたが、今回はその時以来、約10年ぶりの訪問となりました。足利家所縁のお寺であるという事も私の興味を惹いているのは確かですが、その点を除いても、古寺の雰囲気を醸し出しながらもほとんど観光地化されていない等持院は、個人的に私の好きなお寺のひとつで、いずれ改めて再訪したいなと前々から思っておりました。
ちなみに、等持院には文化財も多く収蔵されていますが、国宝・重文の建物はなく、そのため、境内は時代劇等の撮影場所としても重宝されているそうです。

等持院_01

ところで、少しややこしいのですが、昔は、「等持寺」と「等持院」という、よく似た名前の二つのお寺がありました。等持寺のほうは現存しませんが、元々は、等持院よりも等持寺のほうが先に創建されました。
1339年に、足利尊氏は夢窓疎石を開山として、足利家の菩提寺としてまず洛中に等持寺を創建しました。尊氏は足利家の菩提寺を京都に3ヶ寺建てようと決意しており、その決意から、等持寺の名には1字に1個ずつ、合わせて3個の「寺」の字が含まれる事となりました。
等持寺の寺域は、東は高倉通に、西は室町通に至り、北は二条、南は御池通という広大な境内を誇っていました。

その後、尊氏は、よく知られているように後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺(京都五山の第一位、現在は世界遺産にも登録されています)を建立しますが、その天龍寺とは別に、足利氏としての立場から元弘以来の戦没者を供養するため、1341年、洛西の衣笠山麓に等持寺の別院を築きました。それが、現在の等持院です。
但し、正式に等持院と呼ばれるようになるのは尊氏の死後であり(尊氏の法号等持院に因んで、等持寺別院は等持院と呼び改められました)、この別院が築かれた当初は、等持院ではなく、あくまでも、もうひとつの等持寺でした。つまり、等持寺は二つあったのです。
しかしこれではややこしいので、当時、洛中の等持寺のほうは南等持寺または南寺、洛西の等持寺(現在の等持院)のほうは北等持寺または北寺と、それぞれ称されていたようです。

ところが、2代将軍義詮以降、歴代将軍の葬儀は全て北寺(等持院)で行われるようになったため(尊氏の葬儀については、北寺、南寺どちらかで行われたのは確かなのですが、そのどちらであったのかは判りません)、本寺である南寺(等持寺)よりも、別院である北寺のほうが重きをおかれるようになり、そして、3代将軍義満が花の御所の東に広大な相國寺を建てると等持寺塔頭の鹿苑院が僧録(禅宗寺院を管轄し僧の人事を司る機関)の権利を執行するようになったため、南寺の存在は以前にも増して軽くなっていき、更に、応仁の乱の戦火にも遭うなどしたため、南寺はやがて廃寺同然となり、最終的には、南寺は北寺(等持院)に吸収されました。
等持院が現存し等持寺が残っていないのはこのためです。

下の写真2枚は、山門の脇に掲げられている、等持院の由緒等が書かれている看板です。

等持院_03

等持院_02

山門から表門の間にある参道沿いには、等持院が維持・管理している墓地が広がっているのですが、その墓地の出入口となる門には、足利家の家紋(足利二つ引)が大きく表示されていました。

等持院_04

庫裏の玄関に入る表門です。等持院の拝観は午前9時からで、私がこの門前に到着したのはその15分くらい前だったため、私が到着した時はまだ閉まっていました。ちなみに、この門は江戸時代に作られたものだそうです。

等持院_05

渡り廊下で繋がってはいますが、庫裏や方丈とは別棟になっている、霊光殿という建物です。
霊光殿には、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、歴代足利将軍達の木像や、徳川家康像などが祀られています。なお、ここに奉安されている歴代足利将軍の木像については、後日改めて別の記事で取り上げます。

等持院_06

「足利家十五代供養塔」と伝わる、全高5mの十三重塔です。等持院では、尊氏のお墓と共に大切に供養されてきました。

等持院_07

「足利尊氏の墓」と伝わる全高1.5mの石塔です。尊氏は、1358年4月30日、54歳で、洛中(二条大路高倉)の自邸で亡くなりました。鎌倉幕府を倒し、新たに室町幕府という統一政権を立ち上げた武将のお墓としては、随分小振りだなぁという印象を受けます。

等持院_08

夢窓国師の作と伝わる、東西2つの池を中心として2つの庭に分かれている、等持院の庭園です。但し、池底の状況などは室町時代の作庭を窺わせるものの、室町時代の記録とは充分に整合していない点もあり、様式的には江戸時代中頃の作とも云われています。足利家十五代供養塔や足利尊氏の墓はこの庭園の一画にあります。

等持院_09

等持院_10

等持院_11

私は等持院を一通り見学した後、書院にて、冷たいお茶を頂きながら、この庭園を眺めながら少しまったりしてきました。私が行ったのは平日の午前9時台という事もあり、境内にいた参拝者は私一人だけで、完全に貸切状態でした。

等持院_12

ちなみに、今年5月4日の記事で詳述したように、戦前・戦中の日本では、南朝を正統とする立場から足利尊氏は「朝敵」と看做される事が多かったのですが、等持院はその尊氏が建てた足利家の菩提寺であるが故に、世間から「朝敵の寺」として糾弾される事も少なくはなかったそうで、当時の等持院関係者はかなり苦労をされたようです。


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全国足利氏ゆかりの会

本年1月20日の記事では、南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする全国各地の神社15社から構成される「建武中興十五社会」という団体を紹介させて頂きましたが、その北朝版というわけではないものの(そもそも、建武中興十五社会のように、特定の時代の人物所縁の神社のみに限定した団体ではないので、北朝版などと言い切ってしまうのはやや乱暴ですが)、足利氏所縁の団体から構成される「全国足利氏ゆかりの会」という団体があります。

全国足利氏ゆかりの会

建武中興十五社会は、その設立目的を「後醍醐天皇を御祭神とする吉野神宮をはじめ、建武中興関係の十五神社が相諮り、建武中興の精神を体して、わが国体の発揚に尽瘁すること」としていますが、全国足利氏ゆかりの会は、同会のホームページに掲載されている会長(足利市長)挨拶によると、「足利氏ゆかりの市町村や関係団体及び社寺等がともに手を携える」事を目的に昭和61年に設立され、「現在まで会員各位のご努力と連携活動によって、足利氏の顕彰とゆかりの地の発展に貢献」し、「今後も、本会は足利氏の残した偉大な業績を称えながら、会員間の交流と連携の輪を広げ、足利氏に対する正しい認識のための広報活動と更なるイメージアップのための諸活動を進めてまいります」との事です。
同会では、「足利氏は、清和源氏の流れをくみ、日本文化の代表である能や茶道などの文化を築き、全国各地にその偉業を残すとともに歴史にその足跡を印しています」と、足利氏を高く評価しています。

現在、同会の特別顧問には足利家第28代当主の足利義弘氏が、顧問には京都府の山田啓二知事と京都市の門川大作市長が、会長には栃木県足利市の和泉市長が、副会長には京都府綾部市の山崎善也市長と徳島県阿南市の岩浅嘉仁市長らが、それぞれ就任しています。
同会では毎年各地で総会を開催し、その際には地元会員寺院等で追善法要も執り行っており、昨年度(平成25年度)は京都市内の「京都ロイヤルホテル&スパ」で総会が開催され、臨済宗相国寺派大本山相国寺方丈で足利氏歴代の追善法要が営まれました。その法要の後、会員達は西山浄土宗十念寺を訪れ、同寺にある第6代将軍足利義教の墓所も参拝したそうです。
なお、今年度の総会開催地は、栃木県さくら市との事です。

以下は、全国足利氏ゆかりの会に入会している会員一覧です。
関東から九州に至るまでの各地の自治体、商工会議所、観光協会、神社仏閣など約60の団体によって構成されており、会としての活動も活発なようです(具体的な活動内容については同会のホームページを御参照下さい)。


◆茨城県
古河市、古河商工会議所(古河市)、古河市観光協会(古河市)
 
◆栃木県
さくら市、喜連川観光協会(さくら市)、龍光寺(さくら市)、安國寺(下野市)、足利市、足利商工会議所(足利市)、足利市観光協会(足利市)、鑁阿寺(足利市)、吉祥寺(足利市)、樺崎八幡宮(足利市)、法楽寺(足利市)、法玄寺(足利市)、能仁寺(真岡市)、下野國一社八幡宮(足利市)  
 
◆埼玉県
寳聚寺(久喜市)    
 
◆千葉県
飯香岡八幡宮(市原市)    
 
◆東京都
高安寺(府中市)    
 
◆神奈川県
鎌倉市、鎌倉商工会議所(鎌倉市)、浄妙寺(鎌倉市)、浄光明寺(鎌倉市)    
 
◆長野県
桃源院(佐久市)    
 
◆愛知県
長母寺(名古屋市)    
 
◆福井県
全国安国寺会(小浜市)    
 
◆滋賀県
安楽寺(長浜市)    
 
◆京都府
京都商工会議所(京都市)、京都市観光協会(京都市)、京都室町の会(京都市)、六孫王神社(京都市)、法界寺(京都市)、等持院(京都市)、相國寺(京都市)、鹿苑寺〈金閣寺〉(京都市)、慈照寺〈銀閣寺〉(京都市)、亀岡市、亀岡商工会議所(亀岡市)、亀岡市観光協会(亀岡市)、篠村八幡宮(亀岡市)、綾部市、綾部商工会議所(綾部市)、綾部市観光協会(綾部市)、綾部あしかが会(綾部市)、安国寺総代会(綾部市)、相光寺(京丹後市)    
 
◆兵庫県
川西市商工会(川西市)、川西市観光協会(川西市)、石龕寺(丹波市)、福海寺(神戸市)  
 
◆広島県
福山商工会議所(福山市)、尾道市、尾道商工会議所(尾道市)、浄土寺(尾道市)、尾道足利氏ゆかりの会、足利ゆかりの会(広島市)
 
◆徳島県
阿南市、那賀川町商工会(阿南市)、西光寺(阿南市)、地蔵寺(小松島市)    
 
◆大分県
豊後安國寺(国東市)   
 
全国足利氏ゆかりの会


この会員一覧を見ますと、本年3月5日の記事で紹介した、千葉県市原市に鎮座する飯香岡八幡宮も、足利氏所縁の神社として同会に入会されています。

しかし、昨年10月2日の記事で紹介した、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮は、当該記事で詳述したように足利将軍家とはかなり深い関係を持っていたにも拘わらず、全国足利氏ゆかりの会には入会していないようです。
これはあくまでも私の勝手な推測ですが、石清水八幡宮は、武門の神様として、足利氏以外の源氏一門や、その他の有力武将達(豊臣秀吉、織田信長など)からも篤く崇敬され、また、時代を問わず朝廷からも深く崇敬されてきたので(同宮への天皇や上皇の行幸・御幸は、第64代円融天皇の御参拝以来実に240回にも及んでいます)、同宮としては別に足利氏との深い関係を隠したり否定したりする気は全くないものの、だからとって、殊更足利氏との関係だけを強調したいというわけではないのかもしれません。
後醍醐天皇も行幸されたり、楠木正成も境内にクスノキを植えるなど、そもそも同宮は、足利氏とは対立した南朝勢力とも浅からぬ関係があったようですし。


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