この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

室町幕府・足利将軍家

九州国立博物館で開催されていた特別展「室町将軍展」を観てきました

前々の記事で述べた通り、私は先月下旬、九州へと行き、熊本県立美術館(熊本県熊本市)と九州国立博物館(福岡県太宰府市)でそれぞれ開催中の特別展を観覧してきました。

前回の記事では、その2つの特別展のうち、旅行1日目に観てきた熊本県立美術館の特別展「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」について詳述しましたが、今回の記事では、旅行2日目に観てきた九州国立博物館の特別展「室町将軍 戦乱と美の足利十五代」について、私の思った事などを記させて頂きます。

太宰府天満宮参道


旅行2日目(1泊2日の旅行なので最終日です)の朝、前夜宿泊した熊本市から九州新幹線、在来線、西鉄線などを乗り継いで太宰府市に着いた私は、先ず、京都の北野天満宮と共に全国の天満宮・天満神社・菅原神社などの総本宮として知られる「太宰府天満宮」を参拝・見学し(上の写真は、西鉄の太宰府駅からその太宰府天満宮へと伸びる参道で撮ったものです)、それから、同宮に隣接する九州国立博物館へと行って、同館で開催されていた特別展「室町将軍展」を観覧してきました。
そもそも今回の九州旅行は、九博でのこの特別展が観たくて企画したものだったので(しかもこの特別展は他都市には巡回しないので、この機を逃すともう観る事は出来ないのです)、観覧出来て良かったです!
私は、会場内では有料(500円)の音声ガイドも利用しながら、この特別展、じっくりと観てきました♪

特別展「室町将軍展」チラシ_01

特別展「室町将軍展」チラシ_02


ところで、実際に室町幕府が置かれた京都や、室町幕府と直接的な関わりは薄いものの足利氏発祥の地である栃木県の足利で、足利将軍に関する特別展が開催されたというのであれば普通に分りやすいのですが、なぜ、足利氏と特に関係が深そうではない太宰府の九州国立博物館でこの度の特別展が開催されたのかというと、それは主に、以下の2つの理由によるそうです。

後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、建武政権の発足後、後醍醐天皇に離反して九州へと逃れるが、多々良川を挟んで南朝方の菊池武敏らと対峙しその合戦に勝利した後は、太宰府原山に入って約1ヶ月間滞在し、そこで、尊氏に味方して軍忠を尽くした武士達の恩賞申請の受理や審査を行ったり、九州の反足利方の討伐指令を出すなどし、その後、尊氏は京を目指して快進撃を続け、結果、室町幕府が開かれる事となった。

九州国立博物館は「日本文化の形成をアジア的観点から捉える」という基本理念に基づいて博物館活動を行っており、室町将軍(特に第3代将軍の足利義満)が積極的に主導した東アジアとの交流や、それによって創出された新たな文化は、その後の日本に大きな影響を与えた。

…などの理由から、この度、九博ではこの特別展を開催する事にしたそうですが、前出の特別展ポスターには、「これって、義満が主人公の、義満についての特別展か?」と思える程、義満の木像顔面が際立つ形で掲載されているので、どちらかというと、②のほうが理由としては大きいのかもしれませんね。


今回の特別展では、足利将軍家の菩提寺として知られる京都の等持院が所蔵している足利歴代将軍の木像13体が、特別展に於ける “目玉” として出展・公開されましたが、現在その等持院は、耐震補強に伴う解体修理工事中のため、方丈(本堂)や、普段歴代将軍の木像が奉安されている霊光殿の拝観を停止しており、つまり、歴代将軍の木像全てを寺外に出展して貰うためには等持院が工事中の今が都合が良かった、といった事情も、もしかしたらあったのかもしれませんね。まぁ、これについてはあくまでも私の推測ですが。
ちなみに、足利歴代将軍全15人のうち等持院の将軍木像は、第5代の義量と第14代の義栄の2人を欠いているため13体で「全て」となり、その13体全てが等持院の外でこのように揃ったのは、今回が初めての事だそうです。

足利歴代将軍一覧_01

足利歴代将軍一覧_02

以下の写真6枚は、いずれも私が特別展の会場内で撮影してきた、その足利歴代将軍木像です。原則として会場内は写真撮影禁止でしたが、例外としてこれらの木像のみ、「ストロボ発光禁止」「所定の位置からのみ撮影可」という条件付ながら、カメラでの撮影が許可されていました。
全13体の歴代将軍木像が、半円状にズラっと横一列に並んでいる景観は、圧巻でした!

足利歴代将軍木像_01

足利歴代将軍木像_02

足利歴代将軍木像_03

足利歴代将軍木像_04

足利歴代将軍木像_05

足利歴代将軍木像_06


以下の画像2枚は、今回の特別展のチラシの一部と、会場で配布されていたワークシートです。興味深い内容となっておりますので、これらの画像も、是非それぞれクリックし拡大表示させて御覧になって下さい。

特別展「室町将軍展」チラシ_03

特別展「室町将軍展」ワークシート


上の2枚の画像では、どちらも、足利義稙(第10代将軍)と足利義澄(第11代将軍)の、いとこ同士でもある二人の将軍の対立がクローズアップされていますが、その二人の対立(特に、義澄から義稙への憎悪)を特に象徴するのが、今回の特別展でも展示されていた、下の画像の「足利義澄願文(石清水八幡宮文書)」です。

足利義澄願文(石清水八幡宮文書)

国の重要文化財にも指定されているこの文書は、第10代将軍の義稙(但し1回目の将軍在職時の名は義材で、義稙という名は、2回目の将軍在職時から名乗るようになった名です)が将軍職を更迭された「明応の政変」の後、細川政元らによって第11代将軍に擁立された義澄が、源氏一門の氏神とされる石清水八幡宮に奉納した、自筆の願文です。
願意の筆頭に、憚る事なく堂々と、今出川義材(いまでがわよしき)、つまり足利義稙の死去を挙げている事に、先ず驚かされます。現将軍が前将軍の死を神仏に願うなど、鎌倉幕府や江戸幕府の歴代将軍間の関係ではまず考えられない事でもあります。

義稙の父である足利義視は、その邸宅の所在地から「今出川殿」と呼ばれ、そのため義澄はこの願文で、義稙を「足利」ではなく「今出川」と記しているのですが、そこには自分こそが足利家の正統であるという強い主張が込められており、義稙へとの強烈な敵愾心が感じられます。
ちなみに、願意の二つ目は、義稙の弟で醍醐寺三宝院の前門主・周台の死去、3つ目は自らの威勢の伸張、4つ目は諸大名が上洛し自らの政権を支える事、5つ目は無病息災を願っています。

結局、義澄の願意は叶わず、義澄が「死んでくれ!」と願う程に忌み嫌っていた義稙は、大内家の軍事力や細川家の一部の勢力に支えられて上洛を果たし、将軍職をめぐって義澄と義澄との抗争が始まりました。そして、その抗争の最中、当の義澄は病死し、義稙側は合戦にも勝利したため、義稙は見事将軍への復職を果たしたのでした。
もっとも、折角将軍に復職した義稙も、結局は政権運営を投げ出して出奔し、事実上将軍職を奪われる形となり、逃亡先の阿波で病死するんですどね…。
ちなみに、実子のいなかった義稙が養子としていた義冬(義維)は、その後、平成29年10月30日の記事で詳述した「平島公方」(阿波公方)の祖となりました。


下の写真は、九博内で限定販売されていた、足利歴代将軍(とはいっても15人全員ではないんですけどね)の花押入りトートバッグです。
私の場合、今までトートバッグを使った事はほぼ全くないのですが、「なんというマニアックなトートバッグだ!」と感心して、特別展を見終えた後、自分自身へのお土産として特別展観覧記念に買ってきました。ちなみに、お値段はお手頃な1,600円也。
花押を知らない人が見たら、梵字が書かれているようなバッグに見えるかもしれませんね(笑)。

トートバッグ


というわけで、短かったですが、とても充実した九州旅行でした♪
しかし次に九州へ行く時は、やはり、少なくとも2泊くらいはしたいですね~。


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来月から始まる新元号「令和」と、室町時代中期の元号「応永」

新年度(平成31年度)の初日となる昨日、政府から、新しい元号が「令和(れいわ)」であると発表されました。
あくまでも、昨日は単に発表されたというだけで、実際に「令和」という元号が施行されるのは来月1日からですが、昨日のこの発表が、今上陛下から新帝陛下への「御代替り」を象徴する、歴史的な出来事であった事は間違いありません。実際、新元号発表のニュースは、日本全国で中継や号外として直ちに速報され、世界各国のメディアでも大きく報道されたようですし。

新元号「令和」号外

新たな元号「令和」は、日本最初の元号である「大化」からは248番目となる元号で、千二百年余り前に編纂された日本最古の歌集「万葉集」の、梅の花の歌、三十二首の序文にある『初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す』から引用されました。
これまでの元号は、いずれも漢籍(中国の古典)から選ばれており、今回、初めて日本の古典から選ばれたという事も、大きな話題になっています。恐らく今後は、これが前例となって、日本の古典が新元号の典拠となる、という流れが慣例・伝統になっていく事でしょう。

今回典拠となった万葉集は、天皇・皇族・貴族だけでなく、下級官吏・防人・農民に至るまで、身分に関係無く幅広い階層の人達が詠んだ歌が収められた、我が国の国民文化と長い伝統を象徴する国書であり、そういった点も、個人的には大いに共感出来る所です。


ところで、「平成」の御代が今月いっぱいで終わる事により、我が国に於ける元号の長さ(期間)としては、「平成」は史上4番目に長い元号になります。
最も長かった元号は、多分誰もが直ぐに想像はつくと思いますが、その通り(笑)、64年まで続いた「昭和」です。そして、2番目に長かった元号は、これもやはり想像がつく人が多いのではないかと思いますが、45年まで続いた「明治」です。
では、3番目に長かった元号は何かというと、これは恐らく知らない人が結構多いのではないかと思いますが、35年まで続いた、室町時代中期の元号「応永」です。

応永の35年間は、後小松天皇と称光天皇のお二方が御在位され、その期間、国政の実権を握っていたのは、このブログでも今まで何度か取り上げてきた室町幕府第3代将軍の足利義満と、その後を継いだ第4代将軍の足利義持でした。
義満は、当時の中国の王朝「明」に強い憧れを抱いていた事から、「明徳」(応永の前の元号)を改元する際、明の太祖洪武帝の治世にあやかって新元号に「洪」の文字を撰字するよう働きかけ、その結果、「洪徳」が新元号の候補になるのですが、それに対して公家達は、「洪の字は洪水につながる」「これまで永徳・至徳・明徳と“徳”の字が使われる元号が連続しており、3回連続“治”のつく元号(天治・大治・永治)を用いた崇徳天皇や、5回連続“元”のつく元号(元応・元亨・元徳・元弘・延元)を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉である」などの理由から反対し、結局、新元号は「応永」に決まりました。

一説によると、自分の望み通りにはならなかったこの結果に怒った義満が、自分が生きている間に元号を変えさせる事を許さなかったと云われており、また、義満の後を継いで将軍となった義持もやはり改元を一切させませんでしたが、それは、義持が「応永」という元号に愛着を持っていたためと云われています。
義持が将軍として在位していた間(室町幕府将軍としては最長の在位となる28年間)に、後小松天皇から称光天皇への御代替りがありましたが、義持の「応永」への個人的な愛着によって、称光天皇は即位から16年間、代始改元が出来なかったのです。
そして、応永35年の1月に義持が死去した後、その年の4月に、漸く代始として「応永」から「正長」へと改元されました。

本来、改元手続きは天皇の勅命によって始まり、新元号は勅裁によって決まるのですが、朝廷が持っていたその改元大権は次第に形式だけのものとなり、室町時代になると、このように改元は時の権力者(将軍)の気分によって、行われたり、逆に行われるのが中止されるなどし、江戸時代になると、改元の手続きに幕府が関与する事が法律に明記されるまでになり、改元大権の形式化は更に進みましたが、明治時代になると「一世一元の制」が定められ、改元は代始に限られるようになり、これによって改元大権は漸くその運用が落ち着く事となりました。


このように、過去には改元に様々な問題や混乱が生じた事もありましたが、近代以降、改元は平和裏に穏やかに進められ、31年まで続いた現在の元号「平成」については、今月30日まで続き、皇太子殿下が践祚(皇位を受禅)される本年5月1日の午前0時を以て、次の元号「令和」の御代が始まる事になります。
1ヶ月後に践祚改元を迎えるに当たって、改めて、我が国が誇る悠久の歴史に想いを馳せ、謹んで聖寿の万歳と皇室の弥栄を祈念申し上げます。


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結局のところ、室町幕府は強かったのか?弱かったのか?

前回の記事では、「有力な守護大名の台頭や、鎌倉公方の度重なる反逆などにずっと悩まされながらも、どうして室町幕府は二百数十年も存続する事が出来たのか?」「そもそも、二百数十年も続くような長期政権は、脆弱と言えるのか?」という問題提起をし、つまり、従来の弱々しいイメージとは違い、「室町幕府って、実は結構強大な政権だったのではないか?」という可能性を示しました。
しかし、一般的には、室町幕府に対してはやはり「全国的な統一政権としては非常に脆弱」「統制力や実行力の欠けた弱々しい政権」「統率力が無かったからこそ、戦国時代を招いてしまった」というイメージが定着しています。

では、結局のところ、室町幕府は強大で強力な政権だったのでしょうか、それとも脆弱で実行力の無い政権だったのでしょうか。

室町幕府の組織図


先ず、室町幕府は弱かった、という立場から考えてみます。

江戸幕府の歴代将軍にはそのような者は一人もおりませんでしたが、室町幕府の歴代将軍の中には、家臣に暗殺されたり、家臣に追放されたりした者がおりました。そのような下克上が何度も起こってしまうという事は、当時の幕府や将軍の権威・権力は必ずしも絶対的なものではなく、かなり不安定なものであった、と考えるのが妥当でしょう。

また、実質的に「応仁の乱」を引き起こしてしまったといえる8代将軍義政のように、非常時にも拘わらず将軍としての覚悟も資質も全く無かった者さえおり、そして、その応仁の乱の結果、戦国時代の到来を許す事となり、世の中を更に混沌とさせ、室町幕府や足利将軍家の権威は完全に失墜する事になりました。
室町幕府歴代将軍の中には、初代将軍尊氏のようにカリスマ性の高い将軍や、3代将軍義満のように絶対的な権力を誇った将軍もいましたが、室町時代という時代全体を通してみると、そのような将軍はむしろ例外的な存在といえるでしょう。

それだけではありません。室町幕府は、本来は幕府の出先機関(地方の一部署)に過ぎない鎌倉府(鎌倉公方)による度重なる反乱にもずっと悩まされ続けました。そのため関東に於いては、応仁の乱勃発以前から、既に幕府の権威は失墜していたと見る事も出来ます。
室町時代末期の頃には、幕府の将軍職はもはや有名無実となっており、将軍家の領土すら他の大名達に掠め取られる有様で、幕府は自分達のお膝元である山城国一国の維持すら困難な状態になっていました。

以上のような歴史的事実を鑑みると、室町幕府に「統制力や実行力が欠けていた」「全国的な統一政権としては弱々しかった」といった側面があったのは確かです。ですから、「室町幕府が弱かった」という認識は間違いである、とは言い切れないでしょう。
では、どうして応仁の乱の勃発を防げなかったのか、どうして大名達は将軍の言う事を聞かなくなったのか、というと、それは一言で言うと「室町幕府が諸大名の統制に失敗したから」という事になります。

ではどうして、室町幕府は諸大名の統制に失敗したのでしょうか。
それにはいくつもの要因があり、よく云われるのは、形式的ではあっても一応は「御恩と奉公」という双務的・互恵的な主従関係を築いていた鎌倉時代の将軍と御家人の関係に比べると、室町時代の将軍と大名の関係はやや希薄な主従関係といえ、鎌倉幕府や江戸幕府に比べても室町幕府は“緩やかな連合政権”という性格が強かった、という事です。

しかし、それ以外にも勿論大きな要因はありました。
前述の「室町時代の将軍と大名の関係はやや希薄な主従関係であった」という点をその第一の要因とすると、第二の要因(とはいっても、これは第一の要因とも深く関わりがある事ですが)として挙げられるのは、新たな将軍家となった足利氏は確かに源氏一門の名門ではありましたが、それでも、沢山ある源氏一門の中ではそのひとつに過ぎず、足利政権下に於ける他の守護大名達と家柄に格段の差があったわけではなかった、という点です。
室町幕府の守護大名達にとっては、かつての同僚だった足利氏が将軍職に就いたのでとりあえず臣従しているだけであり、別の言い方をすると、「後醍醐天皇による建武政権の政治が武士達にとっては余りにも酷過ぎたたため、それを対抗するために、とりあえず、たまたま実力と人望があった足利尊氏を“神輿”として担いでみた」という事であり、そもそもは自分達だって足利氏とは家格や血筋に格別の差があるわけではないだろうという意識がかなり強く、つまり室町幕府は、源氏の宗家が将軍職を継承した鎌倉幕府とは違い(もっとも、その宗家は鎌倉幕府が開かれてから僅か三代で滅び、その後は藤原氏や皇族が将軍職を継承しましたが)、元々、大名達の将軍への臣従意識が低かったのです。

足利氏系図

だからこそ、大名達をきちんと押さえておかないと、将軍の言う事を全く聞かないという無秩序な事態が起きてしまい、実際そうなってしまったのが応仁の乱でした。
そういった意味では、実は江戸幕府も、構造としては室町幕府に似ていました。江戸幕府を開いた徳川家康は、足利氏と同じように同僚を抜いてトップに立ったわけですから。しかし江戸幕府は、室町幕府とは違って見事な大名統制を行い、幕末の混乱期が到来するまで、二百数十年にも亘って立派に将軍の権威を維持し続けました。

戦国時代と称された、室町時代の末期は、大名同士が好き勝手に領土争いを繰り広げ、隣国や更にその先の国にまで侵攻して合戦を行うなど日常茶飯事でしたが、江戸時代には、そんな事例(領土拡張のため大名が他藩に攻め入り合戦するなど)は一度も起こりませんでした。
ちなみに、幕末から明治期にかけて勃発した戊辰戦争では、藩同士が直接戦火を交える事もありましたが、あれは領土拡張争いではありません。
そういった意味では、江戸幕府の大名統制力はやはり優れており、そして、それが出来なかったのは、室町幕府の失政なのです。

では、江戸幕府とは違って、室町幕府はなぜ将軍の権威を維持出来ない不安定な政権になってしまったのでしょうか。
先程の続きとして、第三の要因としてそれを挙げると、室町幕府を創設し初代将軍となった足利尊氏という個人の人柄にもその要因を求める事が出来ます。ちなみに、下の写真は、足利将軍家の菩提寺である「等持院」霊光殿に奉安されている、その尊氏の木像です。

足利尊氏像_02

尊氏の人柄については平成28年10月12日の記事でも詳述しましたが、尊氏は一言で言うと、「出し惜しみをする事が一切無く、気前が良く、それでいて慈悲深くて優しい」という人物でした。猜疑心が強く次々と政敵を粛正していった頼朝や、常に“老練で計算高い狸親父”というイメージが付いてまわる家康に比べると、幕府を創設した初代将軍3人の中では、尊氏は間違いなく「いい人」でした。

しかし、「いい人」で「気前が良い」というのは、一個人としては長所になるのでしょうが、幕府を率いる将軍としては、かなり問題がありました。
というのも、尊氏は配下の大名達にほとんど何も考えずに気前よくどんどん領地を分け与えてしまったために、所謂「大大名」があちこちに出来る事となり、その結果として、守護大名が必要以上に強くなり過ぎ、後に幕府の言う事を聞かなくなる、という事に繋がったともみる事も出来るからです。
謀反を起こすなどして尊氏に敵対しても、降参さえすれば、尊氏には即座に過去の恨みを忘れ報賞を行う鷹揚さ(良く言えば度量が大きい、悪く言えばいいかげん)があったわけですが、それに対して家康は、大名に対して厳しい処分を行い、譜代大名にさえ広大な領地を分け与える事をせず、そのためケチとも云われました。しかし、その結果江戸時代は戦乱がほとんど無い“泰平の世”になったわけですから、家康としては、大名に権力と財産(領地)を同時に与えたらどうなるのかという事を、室町幕府の失敗からしっかりと学んでいたのかもしれません。

そして「慈悲深くて優しい」というのも、言い換えると「優柔不断で非情の決断が出来ない」という事であり、これも、幕府を創設した将軍としては、やはりかなり問題がありました。
南北朝の動乱が何十年にも及んだ要因は、勿論、南朝(後醍醐天皇の側)にもありますが、というよりも、私個人としてはその要因の半分以上はむしろ南朝側にあると思っていますが、しかし、尊氏の優柔不断さにも、確実にその要因を求める事が出来るからです。
具体的に言うと、かつて鎌倉幕府が後鳥羽上皇や後醍醐天皇を遠島に配流したように、尊氏も、後醍醐天皇の系統(大覚寺統)を配流するなどして政治の表舞台には二度と出られないようにし、更に、政敵となった実弟の直義を早めに処分しておくなどすれば、南北朝時代がああまで混沌とする事はなかったからです。

しかし尊氏は、無慈悲にも弟達を粛正した頼朝や、豊臣家を徹底的に滅ぼした家康とは違い、その「慈悲深くて優しい」性格故に、政敵を追い詰める事が出来ませんでした。
もっとも、尊氏も、政敵である護良親王を建武政権から失脚させたり、遅きに失した感はありますが最終的には直義も処分するなどしていますが(公式には直義は病気による急死ですが、太平記では尊氏による毒殺としています)、それでも、頼朝や家康に比べると尊氏の言動は間違いなく“大甘”で、その“詰めの甘さ”故の失策も多かったです。

特に大きな失策だったのは、目先の敵である直義を討つために、一時的とはいえ、南朝に降伏した事です。
所謂「正平一統」の事で、これが、辛うじて権威は維持していたものの軍事的にはほぼ壊滅状態にあった、衰退著しかった南朝を、政治勢力として復活させる事になり、結果として、幕府政治の確立を遅らせたばかりでなく、南北朝の動乱が長引く大きな要因となりました。
南朝が武家による幕府政治に対して極めて非妥協的な事は最初から分かっていた事であり、実際、その通りになって正平一統は破綻し、幕府は後に大変な苦労をして北朝を再興させる事になったわけですから、一時的とはいえ北朝を見捨てて南朝と安易な妥協をしてしまった事は、幕府にとっては明らかな失策でした。

逆にいうと、優しくはない人で、優柔不断ではなく、甘い判断を下す事なく、非情な決断が出来る人だったからこそ、頼朝や家康は、尊氏とは違って自分が存命のうちにほぼ盤石な体勢を築く事が出来たとも言えます。
尊氏の寛大さや度量の大きさとして評価される部分は、裏を返すと、武家を束ねる棟梁としてはリーダーシップに欠けており、大名達をつけあがらせる事になった、とも解釈する事が出来、それが、室町幕府の不安定さにも繋がっていった、とみる事が出来るのです。


室町幕府は弱かった、という立場からの考察はとりあえずここまでとし、次に、室町幕府は実は強かったのではないか、という逆の立場から考えてみます。

これについては、もうこの文章を紹介すればそれでほぼ全て事足りるでしょう、という文章があったので、その文章を、前回の記事で取り上げた「歴史REAL 足利将軍15代」という本から以下に転載させて頂きます。
これは、国際日本文化研究センター助教で作家の呉座勇一さんへのインタビューで、とても興味深い内容だったので、長い文章ではありますが以下にそのまま転載致します(二重鉤括弧内の緑文字)。


鎌倉幕府、江戸幕府という、前後の武家政権と比較して、力が弱かったのでしょうか?

鎌倉幕府は公家のことは朝廷に任せていますし、地域的に東国中心で守備範囲が狭く、全国政権という意識はあまりなかった。蒙古襲来の後ぐらいから徐々に全国政権化してくる動きもありますが、鎌倉幕府は基本的に東国武士のための政権です。全国政権である室町幕府の方が権力として進歩しているといえます。一方で、その後の織豊政権、江戸幕府という統一政権に比べると、そこまでの力はないのも事実です。

ただ、鎌倉幕府は最後の得宗北条高時の自害、江戸幕府は江戸城明け渡し、と終わり方が明確なのに対し、室町幕府はいつ滅んだのかよくわからないのです。一般に信長が義昭を追放したことで室町幕府は終わったと説明されますが、それは後世から見た結果論にすぎません。衰退しながらも結構しぶとく生き残り、最終的に秀吉が天下を取るまで室町幕府は続いていたとみることもできます。

というのも、室町幕府後半の将軍たちは、しょっちゅう京都からいなくなるし、むしろ京都にいるほうが珍しいくらいです。そうすると当時の人たちは「またか」くらいの感覚で、幕府が終わったとはおそらく思っていなかったでしょう。実際、信長は義昭の子どもを将軍に擁立しようと考えていた節がありますし、義昭に対し京都へ戻ってきてくれないかみたいな交渉もしています。
我われは結果を知っているから、信長が義昭を追放したから室町幕府が終わったといいますが、結果、衰退しながらも結構しぶとく生き残り、最終的に秀吉が天下をとるまで室町幕府は続いていたと見ることもできます。

鎌倉幕府が滅亡したときは建武の新政で大混乱に陥り、江戸幕府のときは明治政府が比較的うまく混乱を収拾しましたが、うまくいかなかった可能性もあった。当時の人たちにとっては、幕府が一瞬で崩壊して世の中が大混乱する事態は好ましいことではなかったはずです。ゆるゆると衰退しながら、そのなかで新しい政治秩序が徐々に形成されていったほうが、混乱がおきにくいはずで、室町幕府があっさり投げ出さないでしぶとく生き残ったことは、評価すべきだと思うんです。

これまでは、信長という革命児の登場によって室町幕府にかわる新しい政治体制がつくられたといわれていました。しかし最近の研究では、信長はどちらかというと、それまでの細川や三好とそんなに変わらず、将軍を立てつつ自分が実権を握ろうとしていた、つまり室町幕府の存在を前提としていたという理解に変わってきています。

要するに、室町幕府後半の将軍があまり力を持っていないにもかかわらず、その枠組みは結構強固だったんです。将軍個人のカリスマや権力に頼るのはある意味で非常に不安定で、現代の象徴天皇制を見ればわかるように、なんとなくみんながその存在を前提としているほうが強靱なのです。そういう意味で、室町幕府の存在をまわりが当然視したという点では、強い仕組みをつくったといえると思います。

なぜそのような仕組みをつくれたのでしょうか?

足利将軍家が源氏のなかで一番尊いのだという血統の権威を示して将軍を中心とする武家の家格秩序をつくったり、顕密・禅といった寺社勢力をおおむね支配下に置いたり、と複合的な要因があるのですが、注目すべきなのは三代義満期に将軍が公家社会に入っていって、公武の一体化がなされたことです。

以前は、義満が皇位簒奪を狙っていたという、天皇の権威を足利将軍が収奪していくイメージもありましたが、現在では、そうした公武対立という見方とはむしろ逆で、公武が一体化しているのが室町時代の特徴だといわれています。天皇と将軍がある時期に対立していたことがあったとしても、個人レベルのいざこざはどこの世界でもあるわけで、そういうレベルを超えた大きな仕組みとして公武は一体化していたのです。
これは、いままで足利将軍の人気がなかった原因とかかわってくると思うんですが、公家化していることでどこか軟弱なイメージがあったと思うんです。八代将軍義政はその典型で、東山文化に象徴される文化人で、全然武士っぽくない。

でもそれは、室町幕府が全国政権として機能するために朝廷を取り込んだ結果であって、政権として鎌倉幕府より一段上にいったということです。だから義満期以降、公家の側が積極的に武家から権力を取り戻そうとはならなかった。本能寺の変で朝廷黒幕説が一時いわれましたが、はっきりいってあり得ないです。
朝廷は武家に丸抱えの状態で経済的な支援をしてもらっているので、武家は大事なスポンサーです。ときどきカチンとくることはあったかもしれないですが、スポンサーに文句をいうなんてとんでもない話です。

じつはこうした公武対立という見方は、明治維新の影響がすごく大きいんです。明治政府はみずからを正当化するために、王政復古によって武家政権である江戸幕府を打倒したという、公武は対立していたというイメージをつくりあげました。
最近では幕末維新期の研究も進み、大政奉還で政権を返上したあとも徳川慶喜中心でやっていこうとほとんどの大名たちが思っていて、岩倉具視などなにがなんでも幕府を倒すというほうがむしろ少数派だったことがわかってきています。我われは、明治以降の公武対立という見方に、いまだに縛られているところがあるんです。

(中略)

一方で、全国政権化しながらその後の幕府は、有力守護大名の台頭に悩まされ続けます。

鎌倉幕府より守備範囲が広がったことで、将軍ひとりでなんでも決めるのは難しくなり、細川や山名や斯波といった有力大名との合議で政治を行うことになった。それは幕府の中身が発展したということから考えれば当然の流れで、避けられなかったと思います。

ただ、これは完全に私ひとりの考えなのですが、細川や山名が勢力を持ったのは結果論ではないかと思っています。
彼らがなぜ強いかというと、細川は四国、山名は山陰というように、複数の国の守護職をブロック領域として持っていたからです。それに比べると、例えば室町時代前期には三管領の筆頭だった斯波氏は尾張・遠江・越前とバラバラに持っていた。
我われは「信長の野望」の日本全国色分け地図のような、大名が一円支配を目指して勢力を拡大していくイメージを持っていますが、それは後の時代の話。ブロック的なまとまりで領地を持っていたほうが強いという意識は、尊氏や二代義詮のときは薄かったんじゃないかと思うんです。

というのも、鎌倉幕府の北条得宗家や有力御家人たちは領域的な所領を持っていたのではなく、経済的先進地域を分散的に持っていたんです。だから鎌倉時代からの流れを考えると、田舎でまとまっているよりも、バラバラでも稼ぎのいいところを点で持っていたほうが得だという考えが普通だったんじゃないかと思うんです。斯波が持っていた遠江や越前は港があってまさにいい場所です。
細川も山名も、もともとは南朝方と戦って勝ち取った場所を、実効支配の追認として与えられていただけで、幕府のほうはそれによって彼らがすごい力を持ってしまうなどとは、おそらく南北朝時代くらいまでは考えていなかったんじゃないかと私は思っているんです。

それはなぜかというと、ブロック支配というのは守護分国が世襲されて、代を重ねきめ細やかな行政支配ができるようになって初めて効力を発揮するからです。守護が更迭されて頻繁に入れかわるような状況では、面の支配もなにもない。それに、守護職は本来世襲するものという意識はなく、直義も「守護職は幕府によって任命される役職だから世襲できる財産ではない」と言っています。実際、南北朝期は軍事的な目的で守護が置かれ、戦闘が終わると交代してということがよく行われていました。
だから守護職が世襲され、ある程度時間が経って初めて、面の支配が意味を持ちだす。それが義満期になるとそうした長期的な支配の重みがはっきり出てきて、そうした大名たちの勢力が大きくなっていくのです。

そこで義満は、十一ヵ国を有した山名や尾張、美濃、伊勢という、京都に近い東海道筋の国々をブロック的に支配していた土岐に対し、ちょっと潰さないといけないということで、干渉していくのです。
結果、そのあとの四代義持や六代義教のころには、彼らの既得権益を尊重する形でパワーバランスを保ちつつ、話し合いで進めていくしかないという方向になっていくのです。

守護配置図

そうなると幕府の安定期はどのあたりなのでしょうか?

以前は義満期がピークで、義政でガクッと落ちるという認識が強かったのですが、室町時代の研究が進んだ結果、義満と義政との間に挟まれた義持・義教期が一番の安定期ではないかという議論が一般的になってきています。

これも私の持論なんですが、ひとつのバロメーターとして、将軍がみずから兵を率いて出陣したことがあるかどうかが重要だと思っています。
義満は明徳の乱で、甲冑を着て出陣していますし。九代義尚(よしひさ)も六角氏征伐で近江に出陣しています。一方、五代義量(よしかず)と七代義勝(よしかつ)は将軍在位が短いので外しますが、義持、義教、義政は出陣していません。

義持から義政まではみずから出陣して、これ見よがしに武威を示さなくても、将軍の武威を周りが認めてくれた。だから彼らは公家化しても軟弱と軽んじられる心配はなかった。むしろ公家化することで、ほかの大名との格の違いを示すことができたのです。
それが義尚段階になると、武威という前提そのものが危うくなってくるから、出陣して見せつけないといけなくなる。義満段階もまだちょっと武威が不足していたからこそ、みずから戦わなければいけなかった。自分が陣頭に立たないとほかの大名たちがついてきてくれないからです。

そうすると、室町幕府の政治機構が確立して安定していた義持から応仁の乱が勃発するまでの義政までが、全盛期と見ていいと思います。
まとめると、初代尊氏から三代義満までが確立期、四代義持から八代義政までが安定期、応仁の乱は例外として、九代義尚以降の衰退期の三つに区分できます。

最近、明応の政変が室町幕府の分岐点としてクローズアップされていますが、その前の義尚段階、将軍がみずから兵を率いて出陣しなきゃいけなくなった時点で、すでにおかしくなっていたと思います。
徳川将軍に置き換えても、家光を最後に幕末の家茂まで二百年以上、将軍の上洛はありませんでした。家光のときはまだイベントが必要で、幕末の家茂のときは幕府の武威の衰えを象徴的に示していますし、同じことがいえるのです。

ただし、その後の室町幕府が全国政権から畿内政権下したという議論もありますが、将軍が大名たちの上にいるという前提は一応守られていて、大名間の争いを将軍が調停する仕組みは残っています。
確かに十代義材(のちの義稙)くらいから、実際に直接支配できる領域は畿内にほぼ限定されてしまうのですが、このような間接的な影響という意味では、全国政権としての体裁は存続していたといえます。


室町幕府は弱かった、という立場から考察した前出の見方・見解とは、明らかに正反対な事を述べている所もあり、しかし説得力があり、とても興味深かったです。

今日では一般に、信長が15代将軍義昭を追放した政変を以て「室町幕府は滅亡した」と理解されていますが、その当時の人達は、義昭が追放された時点では「また、将軍様が京を離れたらしいよ」という程度の感覚で「幕府が終わった」とまでは認識していなかったのではないか、という見方も新鮮でした。
確かに、鎌倉幕府の場合は、新田義貞らの軍勢により鎌倉が陥落し、それにより北条高時ら北条一族・家臣の大半が一斉に自害し果てた事などを以て「幕府が滅亡した」と言い切る事が出来、江戸幕府の場合も、大政奉還や、徳川慶喜の朝廷への恭順・自主的な謹慎、新政府への江戸城の明け渡しなど「幕府が滅亡した」と明確に実感出来る出来事がいくつもありましたが、それに対して室町幕府の場合は、いつ滅んだのかよく分りづらい、と言えます。

幕府が一瞬で崩壊して世の中が大混乱する事態は好ましいことではなかったはず」で、「室町幕府があっさり投げ出さないでしぶとく生き残ったことは、評価すべきだと思う」という見方も、私にとっては今までほとんど聞いた事の無い見方であり、新鮮でした。
そして、こういった見方に立つと、室町幕府は弱々しい政権だった、とは必ずしも言えない事になり、それを踏まえて呉座勇一さんは、「室町幕府後半の将軍があまり力を持っていないにもかかわらず、その枠組みは結構強固だった」「室町幕府の存在をまわりが当然視したという点では、強い仕組みをつくったといえる」と述べているわけです。

呉座さん曰く、応仁の乱以降の混乱期でさえ、「将軍が大名たちの上にいるという前提は一応守られていて、大名間の争いを将軍が調停する仕組みは残っています」「間接的な影響という意味では、全国政権としての体裁は存続していた」わけですから、さすがにそれを以て「鎌倉幕府や江戸幕府と比較して、室町幕府は特に強大な政権だった」とまでは言えないものの、少なくとも、一般に思われている以上は「室町幕府は意外としっかりとした全国政権だった」とは言えるのかもしれません。

また、室町幕府が京都に置かれた事から足利将軍家が朝廷が強く結びつき、ある意味融合したともいえる所謂「公武一体」についても、従来は、将軍家が公家化した事で軟弱なイメージを持たれてしまう傾向がありましたが、呉座さんは、「室町幕府が全国政権として機能するために朝廷を取り込んだ結果であって、政権として鎌倉幕府より一段上にいったということ」「これ見よがしに武威を示さなくても、将軍の武威を周りが認めてくれた。だから彼らは公家化しても軟弱と軽んじられる心配はなかった。むしろ公家化することで、ほかの大名との格の違いを示すことができた」という見解を示されており、これも私にとってはなかなか斬新な見方でした。

前出の、室町幕府は弱かった、という立場からの考察では、「尊氏は配下の大名達にほとんど何も考えずに気前よくどんどん領地を分け与えてしまったために、大大名があちこちに出来る事となり、その結果として、守護大名が必要以上に強くなり過ぎ、後に幕府の言う事を聞かなくなった」という事を述べましたが、こういった、領土の拡張が守護大名達の台頭を招いたという見方についても、呉座さんは、「細川や山名が勢力を持ったのは結果論ではないか」「ブロック的なまとまりで領地を持っていたほうが強いという意識は、尊氏や二代義詮のときは薄かったんじゃないかと思う」「細川も山名も、もともとは南朝方と戦って勝ち取った場所を、実効支配の追認として与えられていただけで、幕府のほうはそれによって彼らがすごい力を持ってしまうなどとは、おそらく南北朝時代くらいまでは考えていなかったんじゃないか」と述べており、だとすると、尊氏の気前の良さ、領土の大盤振る舞いは、必ずしも「かなり問題があった」とまでは言えない事になります。
問題があったように見えるのは、あくまでも後世からみた結果論に過ぎず、当事の人達にそこまでの先見の明を期待するのは些か酷ではないのか、という事になるからです。


全体を通してみると、室町幕府(全盛期は除く)は、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、確かに不安定な要素が多い政権であり、「全国的な統一政権としてはやや脆弱」と言う事が出来ますが、しかし、一般に思われている以上は、「意外としっかりした部分も多かったのではないか」とも言えそうです。


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足利将軍15代についての入門書が刊行されました!

昨年9月19日の記事の中で私は、『一昔前だと、南北朝時代や、室町時代(但し戦国時代は除く)について書かれた本は、専門書などを除くとほとんど無かったように思いますが、最近は、南北朝時代や室町時代について解説されたこういった一般書が徐々に増えてきており、以前よりは、こういった時代を書籍で調べたり勉強したりする事について、敷居が低くなってきていると思います。良い事です』と書きましたが、本当に、いい時代になったものだなぁと、つくづく実感します。
何と、ついに足利歴代将軍についての一般書(雑誌コードが付されているムック扱い)が出版されたのです!

徳川歴代将軍についての本は、一般向け・子供向けなどでも既に沢山出版されていますが、足利将軍15代についての事実上の入門書といえるような本は、私の知る限りでは、この本が初めてです!

足利将軍15代

上の写真が、この本の表紙ですが、表紙に書かれているコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」は、室町幕府に対する世間での今までの一般的な認識を逆手にとった、“目からウロコ”的な、なかなか秀逸なコピーだなと思いました。

どういう事かというと、室町幕府は今まで、全国的な統一政権としては非常に脆弱なものであったと多くの人達から考えられてきたからです。
実際、江戸幕府では最後までそのような事は起こりませんでしたが、室町幕府では、家臣に暗殺されたり家臣に追放された将軍もおり、また、将軍自身に全国政権の統率者という当事者能力が無かった事が、あの「応仁の乱」を引き起こすきっかけにもなり、その結果、京都を廃墟にしてしまったのみならず、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、幕府・将軍の権威を完全に失墜させる事にもなりました。
室町時代末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国の維持すら困難になるなど、室町幕府にはどうしても“統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージが今まで付きまとってきました。

しかし、本当にそのような脆弱な政権であるのなら、逆に、なぜ室町幕府は約240年間という長きに亘って続いたのでしょうか。
室町幕府の直ぐ前の政権は、後醍醐天皇の親政による、所謂“建武政権”でしたが、その建武政権は、たった2年程しか保ちませんでした。
建武政権の前の政権は、日本で最初の幕府である、源頼朝が開いた鎌倉幕府であり、その鎌倉幕府は、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を輩出し、質実剛健な武家政権というイメージがありますが、それでも、存続出来たのは150年程度でしたから、室町幕府に比べるとやはり短命に終わりました。
鎌倉幕府直前の政権は、平清盛による平氏政権でしたが、こちらも存続期間は非常に短く、事実上、清盛による僅か一代だけの政権でした。
ちなみに、室町幕府の次の政権といえる織豊政権は、室町幕府よりもずっと強力な政権でしたが(そもそも室町幕府を倒したのは織田政権でしたし、その後を継いだ豊臣政権は、義満による最盛期の室町幕府よりも明らかに強大な全国統一政権でした)、こちらも事実上、信長と秀吉という、それぞれ一代だけの政権であり、強大な政権だった割には随分あっさりと終わった感があります。

そういった歴史的事実を鑑みると、「室町幕府はなぜ弱かったのか?」「室町幕府はどうして滅びたのか?」と考える事は確かに重要な事なのですが、全く逆の視点から、「有力な守護大名の台頭や、鎌倉公方の度重なる反逆などにずっと悩まされながらも、どうして室町幕府は二百数十年も存続する事が出来たのか?」「そもそも、二百数十年も続くような長期政権は、脆弱と言えるのか?」と考える事も、同じくらい、とても重要な事であり、前述のコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」は、まさにそういう事だと思うのです

そして、こういった観点から歴史を振り返り始めると、室町幕府に限らず、他の政権・他の国家についても、今までとは少し見方が変わってきます。
例えば、ここからいきなり世界史の話に飛びますが、あの「ローマ帝国」は、共和政から帝政へと移行した紀元前27年から、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが陥落する1453年まで、紆余曲折はあれども一応、形としては国家として存続し続けました。
ローマ帝国は、1世紀末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代に最盛期を迎えますが、それ以降は、各地で内乱が勃発したり、帝国そのものが東西に分裂するなどして混乱し、また、勃興するイスラーム勢力との抗争も起こり、国家としては明らかに衰退していきました。
現在ではそういった衰退の面ばかり強調される事が少なくないため、ローマ帝国というのは初期の頃以外はあまりパッとしないなぁ、という印象をつい持ってしまいがちですが、冷静に考えてみると、形態は変われども曲がりなりにも1400年以上も国家として存続したというのは、かなり凄い事です。
つまり、ローマ帝国についても、「どうして滅んだのか?」という従来かのら視点で考えるだけでなく、逆の視点で「なぜそれ程長く続いたのか?」と考えると、今までとは見方も変わり、新たな発見もあると思うのです。

もっとも、ローマ帝国が1400年以上も続いたと聞いてしまうと、「いくら長期政権だったとはいえ、約240年続いた程度の室町幕府って、ローマ帝国に比べると別に大した事ないんじゃね? やっぱり、外国のほうが歴史は深くて凄いんだなぁ」と感じてしまうかもしれません(笑)。
しかし、今回の記事の本題からは外れてしまうものの一応この点についても補足させて頂くと、実はこの点に於いて一番凄いのは、この日本なのです。どういう事かというと、我が国は、現在も存続し続ける「世界最古の国家」だからです。

よく、「中国三千年の歴史」とか「中国四千年の歴史」といった言葉が一人歩きしている事から、中国を世界最古の国と勘違いしている方が多いのですが、現在の中華人民共和国は、建国してからはまだ六十数年しか経っていない、とても若い国家です。
中国にはかつて様々な帝国や王国が存在していましたが、王朝が替わると、新王朝により前王朝の皇帝やその一族は処刑されたり追放されるなどし(前王朝に於ける歴代皇帝のお墓が荒らされることすらありました)、あるいは、前王朝の皇帝やその一族は新王朝の皇帝に臣下として完全に服従するなどし、そのため、その度に国家や王朝としての歴史は完全に断絶しており、中華圏という一地域としての歴史は確かに古いのですが、中国にひとつの国家としての連続性は無いのです。
それに対して日本は、政権を担う政体が、天皇から摂関家へ、朝廷から幕府へ、もしくは内閣へと変わろうとも、皇統は初代・神武天皇からただの一度も途切れる事なく現在に連綿と続いており、役職名は変われども時の政権の最高責任者(摂政、関白、征夷大将軍、内務卿、内閣総理大臣など)はいずれも天皇から任命(大命降下)される事でその正当性が保障されてきたため、ひとつの国家としての連続性が認められるのです。
これは何も日本だけが「ウチって凄いんだよ!」と勝手に主張している事ではなく、世界で共通認識されている事であり、ギネス世界記録(ギネスブック)で「世界最古の王家」として日本の皇室が認定されている事からも、それは明らかです。

話しが随分飛んでしまった感があるので、ここで一気に話を戻しますが(笑)、そういった観点を持ちながら、つまり、前述のコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」を意識しながら、これからこの本をじっくりと読んでみようと思います!


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足利尊氏の子孫達の「その後」

武家の頂点に君臨する征夷大将軍の地位を代々継承した家はどこでしょうか、と問われると、このブログを読んで下さっている方は、直ぐに足利家の名を挙げて下さるかもしれませんが(笑)、一般的には、先ず徳川家の名を挙げる人のほうが多いでしょう。やはり、足利家よりは徳川家のほうが、世間には広く知られていますからね(笑)。
時代的にも、中世に将軍を世襲した足利家より、近世に将軍を世襲した徳川家のほうが、より私達の時代に近いですし(ちなみに、本年は徳川政権=江戸幕府が終焉を遂げた大政奉還から、丁度150年の節目に当たります)、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」などの時代劇でも、徳川一門の人達は私達に馴染みが深いですからね。

では、その徳川家は、将軍職が廃止されて将軍を世襲しなくなった後、つまり、明治時代以降はどうなったのかというと、最後の将軍であった徳川慶喜については、朝廷に政権を返上したにも拘わらず結果的には官軍側から朝敵とされてしまった経緯があったため復権には時間がかかりましたが(それでも、明治35年に慶喜は華族最高位の公爵に叙せられて完全に名誉が回復し、徳川宗家とは別に新たに徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて35年ぶりに国政に関わるようにもなりました)、大半の徳川一門は、明治時代に入って直ぐに復権を果たしており、かつての将軍家であった徳川宗家は公爵に、御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)は侯爵に、御三卿(田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家)は伯爵にそれぞれ叙されて華族となっており、華族制度が廃止された戦後も、その多くは断絶する事なく続き現在に至っています。
但し、徳川慶喜家は、つい最近の本年9月に第4代当主の慶朝氏(慶喜のひ孫に当たります)が病没した事により、嫡流が断絶してしまったそうです。ちなみに、平成25年に、徳川慶喜のひ孫に当たる徳川康久氏が、東京都千代田区九段北に鎮座する靖國神社の宮司に就任し、「戊辰戦争での官軍の戦没者を祀るために創建された神社の宮司に、その官軍と対立して賊軍とされた慶喜の子孫が就任した」として話題になりましたが(平成29年10月現在も在任されています)、その康久氏は、徳川慶喜家の分家筋に当たる方のようです。

なお、今回の記事の本題からは外れるので、これについては簡単に触れる程度にしますが、慶喜が将軍を辞して明治新政府に対して恭順・謹慎の姿勢を明らかにして以降の、徳川宗家の「その後」の流れは、おおよそ以下の通りです。
明治天皇の命により、御三卿の田安亀之助(後の徳川家達)が宗家の家督を相続し、後に家達(いえさと)は公爵に叙され、帝国議会開設と共に貴族院議員になり、明治36年からは、31年にも亘って貴族院議長を務めました。
その子の家正(いえまさ)は外交官となり、父である家達の死後は、公爵、貴族院議長となり、大正11年には、ワシントン軍縮会議に全権として赴いて条約締結に寄与しました。
しかし、家正の跡取りとなる子は早世していたため、家正は、徳川一門である会津松平家(江戸幕府第2代将軍 徳川秀忠の四男であった保科正之を家祖とする御家門)の次男であった恒孝(つねなり)氏を養子として宗家に迎え入れ、平成29年現在は、その恒孝氏が、徳川宗家の現(第18代)当主となっています。
徳川恒孝氏は、日本郵船副社長、公益財団法人徳川記念財団初代理事長などを歴任し、現在は、WWFジャパン代表理事、公益財団法人東京慈恵会会長、公益財団法人斯文会名誉会長などを務めているそうです。

さて、前置きはこのくらいにして(笑)、ここから漸く本題に入りますが、将軍職を世襲した家は、徳川氏だけではありません。徳川氏が世に出る前に、将軍を代々世襲して“将軍家”と言われていた家がありましたよね。
はい、そうです、このブログでよく取り上げる、足利氏です。
江戸幕府を開いてその初代将軍となった徳川家康の子孫達の「その後」は、大凡前述の通りであり、その内容については、世間でも意外と知っている人が少なくありませんが、それに対して、室町幕府を開いてその初代将軍となった足利尊氏の子孫の「その後」について知っている人は、かなり少ないのではないでしょうか。

足利市の足利尊氏公像

初期の室町幕府は、後世の織豊政権や徳川政権などに比べれば確かに脆弱な政権ではありましたが、それでも、足利尊氏は、曲がりなりにも室町幕府(もっとも尊氏在世中に室町幕府という名称はありませんでしたが)という中央政権を創設して全国の武家の頂点に君臨し、天下人となった人物です。
その尊氏の子孫達が、その後どのような道を辿ったのかがほとんど知られていないのは、個人的には残念に思うので、今回の記事では、かつて武家の棟梁として栄華を誇った足利氏の「その後」を、私の分かる範囲でまとめてみようと思います。


室町幕府最後の将軍は、第15代将軍の足利義昭で、その義昭までは足利将軍家の血統は継承されていきましたが、義昭の子である、大乗院門跡となった義尋(ぎじん)の男子二人が、いずれも僧籍に入って子を儲けなかった事から、足利将軍家の直系はそこで断絶しました。つまり、室町時代に足利氏の宗家であった足利将軍家は、室町時代の終焉と共に15代で終わってしまったという事です。
しかし、直系以外では、尊氏の血統は断絶する事無くその後も継承されていきました。

とはいえ、徳川氏のように多くの支流・別家が続いたわけではなく、室町幕府が滅びた後も続いて現在にまで至っている足利氏は、二系統だけです。
尊氏の三男であり関東に下向して初代鎌倉公方となった足利基氏の系統と、室町幕府第11代将軍である足利義澄の次男で「堺公方」「平島公方」などと称された足利義維(義冬とも名乗っています)の系統です。

前者の足利氏は、鎌倉公方や古河公方など(総称して関東公方とも言います)として関東に本拠を置いた事から関東足利氏(もしくは関東公方足利氏)と総称され、秀吉の時代に喜連川(きつれがわ)氏を名乗るようになり、江戸時代には喜連川藩となりました。
一方、後者の足利氏は、阿波国の平島(現在の徳島県阿南市)に居住した事から平島公方と称され、江戸時代に入ると平島氏を名乗り、その後、京都へと移りました。ちなみに、平島公方は阿波公方と称される事も多く、実際、下の家系図の中でも一部にそのように表記がありますが、今回の記事の中では、平島公方という呼称に統一します。
喜連川の姓と平島の姓を名乗るのようになったどちらの足利氏も、後に足利の姓に復し、現在に至っています。

足利氏系図

上の家系図を見ればお分かりのように、このどちらの系統も、尊氏の子孫である事には変わりありません。
しかし、室町幕府創立期より早々と幕府本拠地の京都を離れて建前は幕府の出先機関でありながら実際には半独立政権として関東に本拠を置き、つまり、京都の幕府と距離を置き、その上で度々幕府(足利将軍家)と対立し、時には幕府と戦火を交える事すらあった、足利将軍家にとっては身内でありながら“鬼子”的な存在であった関東足利氏よりは、室町時代後期に将軍家より分かれて“足利将軍家の別家”として平島公方となった義維(よしつな)の系統のほうが、足利氏の宗家たる足利将軍家により近いといえます。

実際、義維にとっては、実父の義澄が室町幕府の第11代将軍に、養父の義植が第10代将軍に、実兄の義晴が第12代将軍に、実子の義栄が14代将軍にそれぞれ就いており、義維自身も、正式には将軍に就かなかったものの朝廷からは従五位下・左馬頭に叙任されていて、事実上次期将軍が約束されていた立場であり、そういった状況や血統からみても、義維は、将軍家に近いというよりは将軍家の一員、と言ってもほぼ差し支えないでしょう。
関東足利氏の本拠であった関東では兎も角、全国的には、やはり京都の足利将軍家こそが源氏一門の嫡流、足利一門の宗家と見なされていた事はほぼ間違いなく、その宗家には、平島公方足利氏のほうが近かったであろうという事です。

ところが実際には、足利将軍家が絶えて以降は、関東足利氏のほうが、足利氏の嫡流・宗家としての扱いを受けるようになり、後述するように、関東足利氏(喜連川氏)と平島公方足利氏(平島氏)はその後、はっきりと明暗が分かれるようになりました。


というわけで、先ずは関東足利氏について、詳しく解説をさせて頂きます。前述のように、近世以降、足利氏の宗家とされているのは、この系統です。

関東足利氏は、第4代鎌倉公方・持氏の時に、室町幕府第6代将軍の義教(足利義教については、昨年10月12日の記事の中で詳しく解説しました)が差し向けた幕府軍と、関東管領・上杉氏の軍勢に敗れ、これにより鎌倉府も一旦は滅亡しますが、持氏の遺児である成氏(しげうじ)の時、鎌倉府は幕府から再興を許され、成氏は第5代鎌倉公方となります。ちなみに、成氏は尊氏から数えると6代目に当たります。
しかし、鎌倉府の再興後、成氏は、父を攻め滅ぼした幕府や関東管領と対立を続け、関東各地を転戦して(成氏は約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜きました)、最終的には下総の古河(現在の茨城県古河市)に移り、初代の古河公方となりました。

その後、第2代古河公方の政氏(まさうじ)の子である、高基(たかもと)・義明(よしあき)兄弟の時に、第3代古河公方となった兄の高基と、小弓公方と称されるようになった弟の義明が、嫡流争いを繰り広げ、この戦いにより、義明の子で第2代の小弓公方となった頼純(よりずみ)が、下野の喜連川(現在の栃木県さくら市)に入りました。

一方、その小弓公方と対立した古河公方は、第5代の義氏まで続きましたが、義氏は男子を残さず没したため、それに伴い古河公方の職は次代に継承される事なく自然に消滅しました。
天正18年、時の天下人である豊臣秀吉は、古河公方家がそのまま絶えてしまう事を惜しみ、古河公方家の氏女(氏姫)と、小弓公方家の国朝(くにとも)を娶せ、これにより、古河公方家は断絶を免れました。

しかし、国朝の代は長くは続きませんでした。
文禄の役が起こり朝鮮出兵のために召集されると、国朝は2000~3000騎を率いて喜連川を発ち、朝鮮出兵の拠点となった肥前の名護屋(現在の佐賀県唐津市)に向かいましたが、その道中、安芸の梅田(現在の広島県梅田町)で病死したのです。
真相は分かりませんが、この件について現在の足利家(関東足利氏の子孫)には、「名護屋へと向かうまでに、国朝の軍勢には足利家に心を寄せる武将が次々と参集し、その数は十数万騎にも膨れ上がったため、国朝の人望を恐れた秀吉によって国朝は毒殺された」と伝わっているそうです。

国朝の没後、氏女は国朝の弟の頼氏(よりうじ)と再婚し、頼氏が跡を継ぎます。
そして頼氏は、小弓公方所縁の喜連川を秀吉から所領として与えられ、この時から、関東足利氏は喜連川という姓を称するようになりました。
秀吉としては、徳川氏に関東地方の大部分の支配を任せつつも、徳川氏の勢力が豊臣政権を脅かす勢力に成長する事も警戒しており、そのため、関東足利氏に所縁のある地であると同時に徳川氏の所領からはやや離れていた喜連川の地を、一種の政治的配慮として関東足利氏に与えたという側面もあったようです。
秀吉は、喜連川家を家臣ではなく客分扱いとしましたが、この扱いは江戸幕府にも引き継がれ、喜連川家は徳川家康が江戸幕府を開いた後も、喜連川藩として存続しました。

江戸幕府は、喜連川家を足利氏の祭祀を営む正統(事実上の足利氏の宗家)と認めて厚遇し、喜連川藩は、江戸時代を通して表高無高(おもてだかむだか)、実高は高家旗本並みの五千高程度でありながら、格式は十万石の国主大名並みという破格の待遇を受けました。
しかも、喜連川家は武家官位を受けず無位無官でありながら自称の名乗りが公式の場でも許され、喜連川家は「天下ノ客位」「無位ノ天臣」などと自称していたそうですが、その自称からは徳川将軍家との主従関係すら曖昧であり、喜連川家は、幕藩体制の枠組みに収まらない極めて例外的な存在だったといえます。

また、禄高が低かった代わりに、喜連川藩には様々な特権も与えられ、具体的には、参勤交代の免除、国役金の免除、軍役を含めた諸役御免などが認められていました。
しかも養子・婚姻で喜連川家の縁戚となった家が、織田、松平(飯山)、榊原、加賀前田、毛利、肥後細川など名家だったため、それらの家からの持参金により、喜連川家は意外と裕福でもあったようです。
ただ、江戸城での扱いは、御三家と同格であったり、御三家に次ぐ地位であったり、外様大名と同じく大広間詰めであったり、外様の小藩同様の柳の間詰めであったりと、江戸時代を通して様々に変遷していたようです。

ちなみに、一般には吉良上野介の名で知られている、赤穂浪士に討ち取られた吉良義央(きらよしひさ)は、喜連川家の支流です。
義央は、足利氏=喜連川家を思う事に篤く、その政治手腕によって、喜連川藩を喜連川から足利の地へと転封する事と、喜連川藩の禄高を名実共に十万石とする事に尽力していたそうですが、その働きかけがほぼ成功する直前に討ち取られてしまいました。もしあの時点で討ち入りされていなければ、喜連川家のその後はかなり変わっていたかもしれません。

そして、水戸藩主・徳川斉昭の11男で、喜連川家に養子として入って喜連川藩の第11代藩主となった縄氏(つなうじ)の時に、明治元年を迎え、同年、喜連川家は足利に復姓しました。
明治17年には、尊氏から起算して25代目に当たる足利於菟丸(おとまる)が子爵に叙され、足利家は華族となりました。
前述のように、徳川宗家と徳川慶喜家は公爵に、徳川家の御三家は侯爵に、徳川家の御三卿は伯爵にそれぞれ叙されているので、関東足利氏の末裔である足利家は、それらに次ぐ家格(他の多くの大名家と同格)として扱われた事になります。
ちなみに、一応補足しておくと、華族制度での爵位の順位は、上から順に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵です。

しかし、華族に列せられたとはいっても、足利家の人達は、明治・大正・昭和という時代を通して、相当な苦労を味わったようです。
というのも、明治時代以降は、後醍醐天皇から始まった南朝を正統とする説が主流となり、その後醍醐天皇と対立して北朝を擁立した尊氏は「皇室に弓を引いた逆賊」とか「日本三悪人のひとり」(あとの二人は道鏡と平将門です)などと陰口を叩かれてその名を徹底的に貶められた事から、その子孫である足利家の人達は、「逆賊の家の者」として、特に戦前・戦中は非常に肩身の狭い思いをせざるを得なかったのです。

平成29年現在、足利家の当主(尊氏から起算して27代目)である足利浩平氏(こうへい)は、今年6月に宝島社から刊行されたムック「別冊宝島2586 日本史再検証 名家のその後」の中で、以下のように述べています。
学習院で昭和天皇と同窓だった先代の惇氏(あつうじ)は、歴史の授業に足利の名が出るたびに、クラス中から憎悪の目で見られ、校長だった乃木希典に校長室に呼ばれて、「悪かったのは尊氏であって君じゃない」といわれて非常に腹が立ったと述懐しています。鎌倉の長寿寺境内に尊氏を弔う五輪塔があり、小学校の先生黙認のもと、児童が塔を崩すこと度々だったと、惇氏は聞いたそうです。明治維新後、特に昭和初期から戦中まで、日本中に身の置き所がない。そういう家だったのです。
一方で、学者仲間だった故三笠宮殿下と惇氏は親交があり、「(北朝系の)うちが天皇をやっているのは足利のお蔭だ」といわれたそうです。祖父の伝聞では、明治天皇は尊氏を大人物として評していたそうですから、おもしろいものです。

ちなみに、足利家の先代の当主である足利惇氏(あつうじ)氏は、前出の於菟丸の長男に当たり、インド学において大きな業績を残すと共に日本に本格的なイラン学を導入した、我が国を代表するインド・ペルシア学者でした。日本オリエント学会の会長や、東海大学の学長なども歴任しました。
現当主である浩平氏は、その惇氏氏の甥に当たり、浩平氏は現在、造形美術関係の会社の代表取締役を務めています。


さて、ここまでは関東足利氏の子孫である足利家について解説させて頂きましたが、ここからは、現代に残るもう一方の足利氏である、平島公方(阿波公方)足利氏の子孫である足利家について、詳しく解説をさせて頂きます。

室町幕府第11代将軍・義澄の実子で、第10代将軍・義植の養子であった足利義維(よしつな)は、和泉国で、次期将軍としての新政権樹立の足掛かりを築くようになり、そのため一時は「堺公方」と称されました。
しかし、義維の有力な支持勢力であった管領の細川晴元は、その後義維を裏切り、それまでの敵対勢力であった義晴(第12代将軍)を推戴するようになったため、義維は将軍就任の道を絶たれ、阿波国(現在の徳島県)へと逃げ、これにより堺公方という立場は消滅しました。

義維は、足利氏と所縁が深い天龍寺の寺領であった平島庄(現在の徳島県阿南市那賀川町)に居を構えて閉塞し、これが、義維の血統が「平島公方」と呼ばれる起源となりました。
義維の没後も平島公方の血統は、阿波を治めるようになった戦国大名・三好氏の庇護を受けて、いざという時の切り札として養われ続けました。三好氏は、元は阿波守護代を務めていましたが、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を築くようになっていました。

義維の子の義栄(よしひで)は、その三好氏によって室町幕府第14代将軍として擁立され、平島公方足利氏から出た唯一の将軍となりましたが、義栄は将軍宣下を受けても、激化する室町幕府内部の激しい権力抗争や義栄自身の体調不良等によりなかなか入京出来ず、摂津国に留まり続けました。
しかも、そうこうしているうちに、前将軍(第13代将軍)義輝の実弟である義昭を次期(第15代)将軍として推戴する織田信長が上洛軍を発し、三好氏は、その大軍を前にして阿波へ退避せざるを得なくなり、三好氏の切り札であった肝心の義栄も、29歳の若さで病没してしまいました。
結局、義栄は、時の権力者であった三好氏に擁立された、一時的な傀儡将軍に過ぎませんでした。

義栄が没した後も、弟の義助によって平島公方足利氏は存続しましたが、その後は徐々に存在感が薄れていき、江戸時代になると、新たに阿波国を治めるようになった徳島藩主の蜂須賀氏(秀吉に仕えて活躍した事で有名な蜂須賀小六の家系)から客将として扱われはしますが、その扱いは“形だけ”で、実際には、義維以来の3千貫の所領は没収され、その上、茶湯料として僅か百石の捨扶持(すてぶち)しか与えられませんでした。
室町幕府が滅び豊臣秀吉の天下になっても1万石という待遇を保てた室町幕府最後の将軍・義昭や、前述のように江戸幕府から大名格の扱いを受けて厚遇された喜連川氏(関東足利氏)などとは対照的に、平島公方足利氏はかなり冷遇されたのでした。
ただ、徳島藩の立場からすると、自藩の中に、藩主である蜂須賀氏と同等もしくはそれ以上の家格の特別な家が存在しているという事は、決して愉快な事ではなかったでしょうし、かといって他所の藩へと追い出すわけにもいかず、藩としても、平島公方足利氏の扱いには苦慮していたのかもしれません。

そして、義維から数えて4代目となる義次の時に、足利という家名は平島に改姓させられ、足利義次は平島又八郎と名乗らされ、更に、平島家の徳島藩に対しての取り次ぎ窓口も家老職から一般寄合階級に振り替えられるなど、平島家は徳島藩から一層の冷遇を受けました。
その後、義維から数えて9代目となる義根は、自身の病気療養を名目に、藩主の蜂須賀治昭に阿波退去の許可を請い、それが認められて、平島家は文化2年(1805年)阿波を出て京都へと移り、京都で再び足利を名乗るようになりました。
阿波退去の真の理由は不明ですが、義根が徳島藩からの余りの冷遇に耐え切れなかった(←この説が有力です)とか、義根の子・義寛を紀州藩に仕官させる内約があったため急いで退去した、などの説があります。
ちなみに、義維から義根の代まで、平島公方足利氏は270年間も平島にいた事になります。

こうして、徳島藩との一切の縁を切って阿波の平島から離れた足利家は、京都に新たに居を定めましたが、江戸幕府から領主身分に取り立てられる事はなく、禄も無いので、次第に窮迫し家臣の数も減らしていき、紀州徳川家からの援助と、等持院など足利氏所縁の寺院からの援助を受けて何とか生計を立てていたようです。

明治時代になって、平島公方足利氏の末裔である足利家は、足利将軍家の正当な末裔として華族に列せられるように請願活動を行い、特に岩倉具視に対して熱心に華族昇格を訴えるなどしましたが、明治政府は足利氏と対立した南朝を正統とする立場であり、更に、経済的基盤の弱い新華族増加には消極的だった事などもあり、他の多くの華族取り立て志願の家と同じようにその訴えは却下されてしまいました。
しかも、足利家は受爵に失敗したのみならず、徳島藩から脱藩していたため士族にもなれず、平島公方足利氏の一族は平民籍に編入されました。関東足利氏の末裔の足利家は、前述のように明治時代に子爵家となっていたので、平島公方足利氏の一族はここでも、関東足利氏の一族とはその扱いに大きな差を受けたのでした。

一方、脱藩された側の、徳島藩の蜂須賀氏は、最終的には徳川将軍家の血筋となった事などもあり(江戸幕府第11代将軍 徳川家斉の実子が、養子として蜂須賀家に迎えられて徳島藩第13代藩主となっています)、明治時代になると侯爵に叙せられ、紀州徳川家や水戸徳川家と並ぶ屈指の富豪華族となりました。これも、足利家にとっては何とも言えない複雑な気分だった事でしょう。
但し、北海道での大規模な農場経営が失敗した事や、度々犯罪に絡んだ事などから、それ以後の蜂須賀氏は没落していきました。

ちなみに、平成26年7月2日の記事の中では、「全国足利氏ゆかりの会」について、『同会の特別顧問には足利家第28代当主の足利義弘氏が、顧問には京都府の山田啓二知事と京都市の門川大作市長が、会長には栃木県足利市の和泉市長が、副会長には京都府綾部市の山崎善也市長と徳島県阿南市の岩浅嘉仁市長らが、それぞれ就任しています』と紹介しましたが、その一文の中で足利家の当主として紹介した足利義弘氏は、平島公方足利氏の系譜のほうの、足利家当主です。

平成29年現在の現況は分かりませんが、宗教界の新聞である「中外日報」の平成25年8月20日号に掲載された「足利氏の末裔から見えるもの 室町文化を見直す時」という対談記事の中で、その足利義弘氏は自身の近況について、以下のように語っておられました。
間もなく79歳です。この3月まで、解散した群馬県高崎市の創造学園大で教員を務め、この春、ほぼ40年ぶりに京都に居を戻しました。大学が倒産しても事後処理は簡単ではない。将来ある学生たちに迷惑を掛けるわけにはいかない。最後の学生たちが卒業できるよう3月まで大学に残り面倒を見ました。給料は1年7カ月未払いが続き、いわばボランティアです。
年金だけでは足りないので、借金しながらですよ。元同級生で大手企業の会長を務める友人は年収1億円以上だというが、こちらは最低の生活も保障されない。あらてめて日本の社会の格差の大きさ、社会福祉の遅れを痛感しましたね。一方で、教員の本能でしょうか、教えるという目的を失ったのはやはりショックです。

国際福祉論の専門家で教育者でもある足利義弘氏は、大学の教員として、熱心に学生達の指導を続けておられたようです。


こうして見てみると、現在も続く二系統の足利家は、ほとんど関わり合う事なく、全く別の道を歩んでおり、どちらが良いか悪いかという事ではありませんが、現在に至るまでの経緯に相当な差が生じているのが興味深いです。

前述のように、関東足利氏の末裔である足利家の平成29年現在の当主・足利浩平氏は27代目、平島公方足利氏の末裔である足利家の平成26年現在の当主・足利義弘氏は28代目を数えており、尊氏からそれだけの代数と年数を重ねていれば、同じ足利姓ではあっても、両家はただ“尊氏が先祖”という共通点があるだけの全く別の家、といってもいいのかもしれませんね。


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応仁の乱についての解釈の違い

室町時代の応仁元年(1467年)に発生した、日本の歴史上屈指の大乱である「応仁の乱」とは、よく知られているように、全国の武士達が東軍(当初の中心人物は細川勝元)と西軍(当初の中心人物は山名宗全)に分かれて、11年もの長きに亘って戦った大乱です。
この戦いによって、開戦から僅か一年で京の都はほとんどが焼き尽くされ、その戦火は全国各地にも飛び火し、落ちかけていた室町幕府の権威は完全に失墜する事となり、守護大名の衰退も加速していき、その結果、戦国大名と呼ばれる新たな勢力が出現し、世は戦国時代へと突入する事になりました。

しかし、それだけ大きな戦であったにも拘わらず、そもそも応仁の乱とは一体誰が何のために戦っていた戦だったのか、どうしてこれだけ大きな戦に発展したのか、という事を一言で説明しようとすると、その事情が余りにも複雑過ぎるため、誰もが困難を極めるのが実情です。
実際、主戦場となった狭い京の都で戦っていた当事者達でさえ、今自分の目の前にいるのが誰であるのかも分からないまま戦かっていた、という事も少なくはなかったと云われています。

応仁の乱対立図

この応仁の乱について、乱が起こるに至った原因や、終了に至る経緯などを詳しく解説している動画が、動画投稿・共有サービスの「YouTube」(ユーチューブ)にアップロードされており、先程、それらの動画を視聴しました。
以下に貼付する2本の番組がそれで、いずれも過去にテレビで放送された、約45分程の歴史ドキュメンタリー番組です。


まず1本目は、「その時歴史が動いた 応仁の乱、天下を滅ぼす 終わりなき“戦いの連鎖”」という番組で、これは前編・後編の2編に分かれてアップロードされていました。


2本目は、「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー 応仁の乱」という番組で、こちらは前編・後編に分ける事なく1本の動画としてアップロードされています。室町幕府第8代将軍である足利義政の妻・日野富子が、特に大きく取り上げられていました。


これらの2本の番組は、どちらも「応仁の乱」という同じ大乱を取り上げているにも拘わらず、乱の原因や経緯については異なった解釈をしているのが、とても興味深かったです。
「その時歴史が動いた」では、応仁の乱のそもそもの発端となったのは、近畿南部の大名・畠山氏の跡継ぎをめぐる争いで、その争いに、他の大名家同士の家督争いが絡み、更には将軍家の内紛も絡み、戦いが当事者達の思惑を離れて余りにも大きくなり過ぎて当事者達にも制御が出来なくなり、結果として、戦いを始めたそもそもの理由に比べてその規模が不相応に大きい大乱となった、という解釈がされていました。
一方、「世紀のワイドショー!」では、応仁の乱のそもそもの発端は、足利義政と日野富子による、将軍家後継者を巡っての夫婦喧嘩であり、将軍家内部のその家庭問題が全国を巻き込む戦争に発展していき、戦争の途中からは、大名家同士、守護家同士の主導権争いにもなっていった、という解釈がされていました。

つまり、将軍家内部の争いと、大名家同士の争いが絡み合っているという点では同じなのですが、まず大名家の争いが有りきだったのか、まず将軍家の争いが有りきだったのか、そこが正反対の解釈となっているのです。
また、足利義政についても、「その時歴史が動いた」では、最終的には政治には全く関心を示さなくなるものの若かりし頃は将軍としての務めを積極的に果たそうとしていた人物として描かれていたのに対し、「世紀のワイドショー!」では、義政は若い頃から一貫して、政治には何の関心も示さなかった人物として描かれていました。

皆さんも、もしお時間があれば、是非これらの番組を視聴してみて下さい。
ちなみに、私は中学校や高校の歴史の授業では「応仁の乱」という名称で習いましたが、近年の教科書では、「応仁・文明の乱」という呼称で書かれているそうです。


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もしかするとあなたも、足利将軍って無能なヤツばかりだとか思っていませんか!?

突然ですが、「将軍」と聞くと、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。ちなみに、パットン将軍とかロンメル将軍とかではなく、我が国の征夷大将軍のほうですよ(笑)。
あまり日本史に詳しくはない人でも、とりあえず中学校で習った歴史を何となくは覚えている、という人であれば、例えば坂上田村麻呂、源頼朝、徳川家康、徳川家光、徳川吉宗といった有名な将軍は、直ぐに思い浮かぶかもしれません。しかし、直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かべるという人は、恐らく、あまり多くはないと思います。
その要因のひとつとしては、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、室町幕府や、室町幕府の歴代将軍というのは、いまいち存在感が薄い、という点が挙げられると思います。

ちなみに下の写真は、一昨年8月4日の記事にアップしたものを転載したもので、足利将軍家の菩提寺「等持院」境内の霊光殿に奉安されている、歴代足利将軍の木像の一部です。手前から、室町幕府第7代将軍の足利義勝像、第6代将軍の足利義教像、第4代将軍の足利義持像です。義勝は、赤痢のため僅か10歳で没した幼い将軍だったため、木像の表情も、子供らしさが強調されたものとなっています。

歴代足利将軍木像

鎌倉幕府といえば、源氏の嫡子ではあっても当初は流人に過ぎなかった源頼朝が、その実力によって、当時の中央政権であった平氏政権を打倒して開幕し、頼朝の没後も、幕府の実権を掌握した北条氏らは、承久の乱での勝利によって朝廷の権力を無力化させて幕府権力を更に拡大・絶対化させ、また、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を次々と輩出した、質実剛健な武家政権というイメージがあります。

江戸幕府も、幼少期には人質として生活するなどした徳川家康が大変な苦労と忍耐の末に開幕し、関ヶ原の合戦や大坂の陣を経て全国全ての反徳川勢力を一掃し絶対的な安定政権となり、その後、家光・綱吉・吉宗など実力を持った将軍や、新井白石や松平定信などの有能な幕臣を多数輩出し(西国雄藩が台頭してきた幕末の混迷期ですら、小栗上野介や中島三郎助のような優れた幕臣達がいました)、300年近くにも及ぶ、戦争の無い太平の世の中を築いた武家政権というイメージがあります。
つまり、鎌倉幕府や江戸幕府は、マイナスイメージも当然あるものの、全体的にみると、一般的には大凡プラスイメージで評価される事が多いのです。

それに対して室町幕府はどうかというと、トップである将軍が、家臣に暗殺されたり、家臣に追放されて諸国を放浪したり、また、将軍自身が当事者能力に著しく欠けていたため応仁の大乱が始まって京都を廃墟にしてしまったり、更に、その大乱によって将軍や幕府の権力が低下した結果、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、結果として、将軍の権威を更に失墜させてしまい、末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国すら維持出来なくなるなど、幕府全盛期の義満の時代を除くと、室町幕府は、世間一般に“は統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージがあると思います。
そのため、室町幕府の歴代将軍の中には有能で実力のある将軍はほとんどいなかったのではないか、というマイナスイメージがどうしても付きまとってしまう事になります。将軍と聞いても直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かぶ人は少ないのでは、と前述したのも、そういったイメージに因る所がかなり大きいのではないかと思います。

実際、歴代の足利将軍の中で、世間にそれなりに知れ渡っていると思われる名前は、初代将軍の尊氏、3代将軍の義満、8代将軍の義政、あとは、最後の15代将軍である義昭くらいではないでしょうか。これらの名前は、一応、中学校で習う歴史の教科書にも登場していますから。
しかし、そのうち8代将軍の義政は、優柔不断で無責任極まりない将軍で、はっきり言うと、明らかに無能な将軍でした(但し、政治家としては無能でしたが文化人としてはかなり優秀な人でした)。政治には全く興味を示さず、そうであるならとっとと将軍を辞めればいいのに、その決断すら出来ず、政治的な野心も実力も無いのに、無意味に将軍の地位にしがみつきながら、只管趣味に生きた人です。
また、15代将軍の義昭も、政治に対しては強い執着を見せるものの、残念ながら実力が全く伴っておらず、臣下からの支持も薄く、結果的に、世間一般に対しては「室町幕府最後の将軍」「織田信長に利用され、最後はその信長に追放された人」というイメージだけを残した将軍、と言ってほぼ差し支えないでしょう。

足利氏系図

では、室町幕府の歴代将軍は、やはり無為無策で無能な人ばかりだったのでしょうか。
実は、私自身はそうは思っておりません。無能で実力の無い将軍が多く見えるのは、単なる結果論です。つまり、後期以降の室町幕府がグダグダで、どうしようもなかったから、結果的にそう感じてしまうだけで、前半の頃、具体的にいうと、病弱のため十代で早世した5代将軍の義量を除くと、初代将軍の尊氏から6代将軍の義教までは、いずれも実力もあって、しかも、かなり有能、もしくはそこそこ有能といえる将軍ばかりだったと私は解しています。

「くじ引き将軍」とも称された6代目の義教については、万人恐怖と云われる独裁政治を行ったり、些細な事で激怒し厳しい処断を行った事などから、世間での評価は今もあまり芳しくはなく(苛烈で横暴な暴君として捉えられている事が多いようです)、私も、その人格についてはかなり問題があったと思っていますが、しかし人格と、政治家として有能であったか否かは基本的に別問題であり、落ちかけていた幕府の権威・権力を高める事に成功し、九州平定や関東制圧など義満すら出来なかった事を成し遂げて最大領土を獲得した、その政治的手腕は見事であり、歴代の足利将軍の中でも相当に有能な人物であったと思います。
そもそも、単に人格だけをいうのであれば、政治家としても軍人としても極めて有能であった、日本史の偉人のひとりであるあの織田信長も、相当に問題がありました。

というわけで、今回の記事では、室町時代前期に活躍した、室町幕府の初代・第2代・第3代・第4代・第6代の、5人の将軍それぞれの功績・長所・特徴などを、改めてざっとまとめてみようと思います(5代将軍の義量については、前述のように早世しており、将軍としての実績はほとんど無いので省略します)。
ちなみに、今回の記事では取り上げませんが、第13代将軍の義輝も、時代が違えば(例えば室町時代の前半頃に生まれていれば)、恐らくは有能で実力のあった将軍として、もっと後世に広く知れ渡っていたのではないかなと思います。


【初代将軍 足利尊氏】

室町幕府を開幕し、その初代将軍となった
尊氏が幕府を創った事は、今更あえて言うまでもない、日本史の“常識”ですが、しかし、何千人、何万人といる“日本史の偉人”とされる人物の中で、幕府を開幕してその初代征夷大将軍となった人物はたった3人しかおらず、尊氏はそのうちの一人なわけですから、これはやはり凄い事です。
源氏の嫡流が源実朝で絶えて以降、足利家はそれに代わる源氏の棟梁の家柄と見做されるようになり、また、後述するように尊氏には人を惹きつける個人的な魅力もありましたが、しかし、そのようにいくら血統や人柄が素晴らしくても、やはりそれだけでは、武士達は自分の命や一族郎党の将来を懸けてまで付いてはいきませんし、あの激動の戦乱の世を生き抜き、更に幕府まで開く事などは出来ません。そう考えると、室町幕府を開幕し、その初代将軍になった、という事実だけを以てしても、尊氏は確実に有能な人物であったと推定出来ます。少なくともそれは、同時代の他の人には誰も出来なかった事なのですから。
ちなみに、尊氏の生涯を辿ってみると、尊氏は特に、軍人(指揮官)としての才能はかなり高かったように思えます。政治家としての資質は、弟の直義のほうが優秀だったようですが、直義には、逆に軍人としての才能はやや欠如している面がありました。

不屈の闘志があり、どんな困難からも何度でも蘇る
尊氏はその生涯のうちに何度も何度も、権力闘争や武力闘争を経験し、滅亡寸前の窮地に追い込まれた事も一度や二度ではありませんが、その度に有能な部下達に支えられて復活し、戦場では自ら先頭に立って戦い続け、ついには幕府を開きました。これは、武家の棟梁として戦う自負を失わず、どんな逆境にも負けない不屈の闘志があったからこそ達成出来た事といえるでしょう。
しかし、その一方で尊氏には、「不屈の闘志」とは明らかに矛盾する一面もあり、例えば、重要な局面では決断力にやや欠けるという優柔不断な所があって、部下達から強く勧められて漸く重い腰を動かしたり、また、精神的にも不安定な所があって、後醍醐天皇に叛いてしまった事を悔やんで出家しようとしたり、戦いが劣勢になると「切腹する」と言って部下に止められたり、悲しい事が起きると地蔵菩薩の絵が描きたくなるなどというちょっと変わった癖もありました(こういったネガティブな所が、あと2人の初代征夷大将軍である頼朝や家康とは、決定的に違う所でもあります)。
これは推測に過ぎませんが、もしかすると尊氏は、現在でいう双極性障害(躁鬱病)か、もしくはそれに近い気があったのかもしれません。もしそうであるのなら、部下達を鼓舞しながら武家の棟梁らしく颯爽と戦場を駆け巡る時は躁(そう)の時で、消極的になって問題を先送りしたり、悲観的になって落ち込む時は鬱(うつ)の時だったのかもしれません。
しかし、そうであるにしろ違うにしろ、結局の所、尊氏は常にどんな困難からも立ち上がって最終的には勝利してしまうのですから、やはりそれは凄い事です。

人を惹きつけてやまない人間的な魅力がある
南朝側からも、北朝側からも、立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた頼朝と尊氏を比較して、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方、尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と褒め称えています。
更に疎石は、尊氏について、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」と絶賛し、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。疎石のこういった言葉から、尊氏は戦勝に驕る事なく“我”を控えた、調整型の政治家だった側面が窺えます。
尊氏という人物は、後世の天下人である信長・秀吉・家康などのような、自ら果敢に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではなく、むしろ、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある、所謂“おぼっちゃん”タイプの武将であると言ってよいでしょう。
しかしその割には、傲慢な所や私利私欲は無く、育ちが良いだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、敵に対しても慈悲と尊敬の念を忘れず、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確実に持っている、という武将でした。
動乱の世で、しかも「ばさら」が流行したあの時代に、尊氏に傲慢さや私利私欲がほぼ全く無かったという点は、特筆されるべき事だと思います。尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権などによる失政の受け皿となったから、という理由だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所も少なくはなかったでしょう。
ちなみに、尊氏が生きていた同時代に北畠親房によって記された「神皇正統記」では、親房自身が尊氏とは敵対する南朝の公卿であったため、当然の事ながら尊氏については酷評されているのですが、尊氏はそれを知りながら、自分が非難されているその神皇正統記を焚書にはしておらず、こういった事からも、尊氏の大らかな人柄がみてとれます。
もっとも、弟の直義や息子の直冬が最終的には尊氏に造反したり、尊氏の部下である高師直や佐々木道誉などが所謂“ばさら大名”としてどんどん増長していったり、尊氏とは敵対していた南朝が勢力を弱めながらも壊滅する事はなく暫く存続し、その結果として初期の室町幕府がかなり不安定な政権となってしまったのも、全ては尊氏個人の大らかさや寛容さに起因していると言えない事もないため(冷徹な処断はほとんど出来ない人でした)、この項で述べた尊氏の人間的な魅力というのは、実は長所であると同時に、武家政権を束ねる最高権力者としては、時には短所として現れてしまう事もしばしばありました。

兎に角、気前が良い
これについては前段で述べた事とも重複しますが、尊氏は「出し惜しみ」をする事が一切無く、後醍醐天皇と敵対する事になった時には、「褒美が少ない」事に不満を持っていた武士達を味方に付けるため、後醍醐天皇が与えられたものよりも多くの褒美を武士達に与えました。そしてその事が、多くの味方を付ける原動力にもなりました。
端的に言うと、ただ単に「味方を増やすためにエサで釣った」だけの事ともいえますが、しかし、それが有効な手段と分かっていながらも現実にはそれが出来ないリーダーが昔も今も多い中で、尊氏はどんな時も常に“気前の良さ”を貫きました。別の言い方をすると、尊氏は「周りに対して常に気配りの出来るリーダー」で、それ故に、有能な人材を引き寄せる事が出来たともいえます。
もっとも、室町幕府が後に弱体化していった大きな原因のひとつは「守護大名が強くなり過ぎた」事ですが、ではなぜ守護大名が強くなり過ぎたかというと、その遠因のひとつは、尊氏が部下達に出し惜しみせずにどんどん領地を分け与えた事にあるので、見方によっては、尊氏の「気前の良さ」というものは、単純に長所としてだけ評価する事は出来ないかもしれませんが。


【第2代将軍 足利義詮】

幕府による天下統一を推し進め、室町幕府を軌道に乗せる
有力大名同士の争いにつけ込んで片方を失脚させ、失脚した側の土地を幕府が奪う事で強大な財力や軍事力を手に入れるなど、義詮は政治的・外交的な手腕に優れていました。特に、有力大名の大内弘世と山名時氏を帰服させた事は、幕府の力をより強固なものとし、仁木義長、桃井直常、石塔頼房らの大名も幕府へと降参させる事となり、将軍の権力を一層高める事となりました。
義詮は、幼少の頃よりずっと戦場に出続け(幼時より将器がありました)、時には敗れる事もありましたが屈せず、将軍になって以降も、幕府による天下統一を目指して各地で反乱分子と戦い続けてきましたが、その甲斐あって、晩年の頃には全国各地の有力大名達の力が大分弱まり、漸く政情が安定するようになってきて、内乱で衰退していた社寺領の再建を命じたり、新たな内裏を造営したり、かつての旧敵である北条高時の33回忌法要を行うなど、内政にも目を向ける事が出来る状態になっていました。
義詮の跡を継いだ3代将軍の義満は、将軍の権力を絶対的なものにしましたが、そのお膳立てをしたのは義詮だったともいえます。

南朝を弱体化させて、南北朝合一への道筋をつける
義詮は、当時日本を二分する勢力だった「北朝」の指揮官として、もう一方の勢力である「南朝」側の諸勢力と幾度も戦い、南朝の重要な基盤である紀伊を制圧したり、南朝の後村上天皇を金剛山中へ遁走せしめるなど、決定的に南朝の勢力を減じる事に成功し、北朝の後光厳天皇を盛り立てました。そしてそれは、尊氏の時代にはまだ盤石とは言えなかった幕府を、次第に安定化させていく事にもなりました。
義詮は軍の指揮官としても優れており、南朝に奪われた京都を何度も奪還するなどの功績も挙げています。もっとも、何度も奪還したという事は、逆に言うと、何度も南朝側に京都を奪われていたという事でもありますが。
また義詮は、京都を南朝に制圧された際、北朝の光厳上皇・光明上皇・祟光上皇・直仁皇太子を南朝に拉致されてしまい、北朝の存続が一時困難になるという大失態を犯してしまった事もあるものの、その一方で、南朝の有力大名を次々と北朝に寝返らせる事にも成功しており、その手腕には目を見張るものがあります。

再評価される義詮
以上の事から、義詮は、室町幕府を創設した初代将軍の尊氏と、絶大な権力を手に入れて幕府の最盛期を築いた3代将軍の義満の間に挟まれて将軍としてはあまり目立たない地味な存在かもしれませんが、実は、父・尊氏の期待に見事に応えた、あまり華麗な所は無いものの秀才タイプの将軍だった、ともいえます。
近年では、義詮の果たした役割は決して小さくはなく、太平記が義詮の死を以て閉じられているのもそれなりの理由がある、とする見方も出ています。世代的にみても、鎌倉幕府を倒幕した戦い以来の第1世代は、義詮が亡くなる頃にはほぼ姿を消しており、義詮の死は室町幕府の形成史上に於けるひとつのターニングポイントといえます。
ちなみに、私の個人的な主観としては、義詮は、江戸幕府の将軍の中では特に知名度の高い、初代将軍家康と第3代将軍家光の間に挟まれた、やはり第2代の将軍である秀忠と、何となくイメージが重なります。秀忠も、地味で華麗さはほとんどなく、“天下分け目の合戦”である関ヶ原の合戦に遅参するという大失態も犯していますが、全体を通して見ると、確実に有能な将軍でしたから。


【第3代将軍 足利義満】

有力大名の力を弱めて幕府の権力を絶対的なものにした
室町幕府が強固な統一政権となるためには、強くなり過ぎた家臣達、つまり守護大名を弱体化させ、それによって将軍の権威を高める必要があり、それは、父である前将軍の義詮が推し進めた政策でもありましたが、義満はその政策を更に強く進めて全国各地の守護大名の力を相当弱める事に成功し、それによって幕府の全盛期を築きました。
当時日本の6分の1を支配するまでに強大化していた守護大名・山名氏に対しては、その後継者争いに介入し、義満は、失脚した後継者候補を支援するような動きを見せて、あえて有力後継者を怒らせました。そして、その有力後継者は幕府に襲いかかり、義満は総力を結集して山名氏を撃退すると、幕府に反乱を起こした罰として山名氏から領土の7割を奪って、功績のあった大名に分け与えるなどしました。義満は、これとほぼ同様の方法で、多くの守護大名達を弱体化させていきました。
ただ、幕府の全盛期を築いたとはいっても、その義満時代の幕府も、実は、後の世の豊臣政権や徳川政権などの非常に強力な中央政権に比べると、まだ不完全な点もあり、完全に全国の全てを支配下に置いていたわけではありませんでした。しかし、それでも義満以前の過去の政権と比べると、義満の時代の幕府は、当時としては史上最大とも言える程の、非常に強大な権力を持った政権でした。

南北朝に分かれていた朝廷を統一した
前将軍の義詮や、義満の優秀な側近らの功績により、幕府に抵抗を続けてきた南朝は既に有名無実化していましたが(強硬派であった長慶天皇が和睦派の後亀山天皇に譲位されてからは、南朝による軍事行動もほぼ無くなっていました)、義詮の時代から何度かあった和睦の話はいずれも折り合いが合わず、形の上では依然として南朝は存在し続けていました。
義満はこの問題を解決するため、南朝に使者を送って和睦についての話を進め、そして、義満の将軍就任から24年後、義満が示した和睦条件を南朝側が受け入れる事でついに和睦が成立(事実上、南朝が降伏)し、南朝が奉っていた「三種の神器」を北朝へと譲らせて南朝は北朝に合一され、皇室は再びひとつになりました。
これにより、後醍醐天皇の吉野還幸から60年近くも続いた南北両朝の並立(同時代に二人の天皇が在位するという極めて特異な事態)は終了し、漸く日本は、各地にまだ火種を残しつつもとりあえずは室町幕府の下に全国が統一されました。もっとも、南北両朝の合一を認めない旧南朝の残党はその後も度々騒動を起こすなどしており、「後南朝」とも称されるそれら旧南朝の抵抗運動は、次第に勢力を失いながらも暫くは続いていく事となりました。

北山文化を生み出した
義満が明との貿易で手に入れた豪華な品々は、貴族文化に武家文化が融合した、豪華で華麗な「北山文化」を生み出す事に繋がりました。一層が寝殿造、二層が武家造、三層が禅宗様式の鹿苑寺金閣は、その代表格とされています。
義満の時代には、田植神事と農耕歌舞が結合した「田楽」や、平安時代の猿楽が発展した舞台芸術「猿楽能」なども花開き、観阿弥や世阿弥などの逸材を輩出した他、庭園、絵画、文学などの各分野でも、多くの逸材が活躍しました。
またこの時期は、義満が南宋の官寺の制に倣って五山十刹の制を整えたりするなど、仏教界でも大きな動きが見られました。特に臨済宗は、将軍家・幕府の帰依と保護により大いに発展し、曹洞宗も、地方の武士に広まって北陸で発展するなどしました。


【第4代将軍 足利義持】

幕府の権勢を維持する
義持は、粗暴な所もあって失敗も少なくはなかったようですが、室町幕府の将軍としては最長の在位となる28年間、有能な補佐役達に支えられて幕府を無難に運営した事は、それなりに高く評価されています。
前将軍である父の義満は、征夷大将軍として武家の頂点に立ち、太政大臣として公家の頂点にも立ち、出家した立場から社寺(宗教勢力)の頂点にも立ち、更に、当時の中国の王朝である明に対しては自ら「日本国王」を名乗り、一説によると「治天の君」の地位すらも狙っていたとも云われる程、兎に角絶大な権力を誇っていました。しかし義満が没した後は、それまで義満が力で抑えていた、地方を支配する大名達が再び勢力を盛り返しはじめ、義持はその圧力に悩まされながらも、関東で起こった「上杉禅秀の乱」に対しては、鎌倉公方・足利持氏からの要請に応える形で大軍の幕府軍を派遣し鎮圧するなどして、幕府の権勢維持に努めました。
その後、義持は鎌倉公方の持氏と対立するようになり、その対立は次項で述べる義教の時代に継承されていく事になるため、義持の時代には幕府と関東の確執は解消されませんでしたが、それでも近年では、義持の治世が室町幕府の再安定期だった、という評価もされるようになってきています。

実は水墨画の達人
義持は、決して政治を疎かにしていたわけではありませんが、政治よりも、特に文化・宗教などの方面でより才能を発揮しました。文化の方面では田楽や水墨画を愛好し、現在国宝に指定されている水墨画「瓢鮎図(ひょうねんず)」は、義持が自ら発案し、制作も指導して描かせたものとして伝わっています。義持自身が直接筆をとった水墨画も現存しておりますが、それはいずれも素人離れした高い完成度を誇っています。


【第6代将軍 足利義教】

管領の力を弱めて、将軍が強い実権を持つ政治形態に変えていく
義教は、前述のように「万人恐怖といわれた独裁政治を行った」とされる将軍ですが、なぜそのような政治を行ったのかを理解するためには、当時の時代背景も併せて知っておく必要があります。
義教が将軍に就任した直後、旧南朝勢力の反乱である北畠満雅の乱が起こり、また同時期には、「日本開闢以来、土民蜂起之初めなり」と記された正長の土一揆を切っ掛けに畿内各地で土一揆が起こるなどし、京都周辺は騒然とした状況にありました。地方でも、九州では大内家と大友家の戦が勃発し、関東では、鎌倉公方の足利持氏があからさまに幕府に反発するようになるなどしていました。
そういった騒然とした状況から、義教は将軍の権威を高めて幕府の統制力を強化する事を目指しました。具体的には、廃止されていた評定衆や引付頭人を復活させ、賦別(くばりわけ)奉行を管領直属から将軍直属に変え、政務の決済は将軍臨席の場でする事とし、また、訴訟審理の場からは管領を締め出しました。
管領以下の諸大名の意向を聞きながら政治を行うというそれまでの幕政を変え、将軍が自ら実権を持つ政治形態へと変えていったのです。

将軍独裁による恐怖政治を進める
義教は、くじ引きで選ばれた将軍ではありましたが、将軍としては優秀で、経済や軍事の改革に成功した他、大名や宗教勢力を弱め、将軍に対して不満を言う者は暗殺したり謀殺したり攻め滅ぼすという「恐怖政治」の手法で、将軍の権力を強大化させていきました。そして、幕府の重鎮だった斯波義淳、畠山満家、三宝院満済、山名時煕らが相次いで死去すると、義教の専制政治化は更に進んでいきました。
義教は、上杉禅秀の乱鎮圧の際には幕府と協調した、鎌倉公方の足利持氏に対しても、関東管領の上杉憲実に攻めさせ、更に後花園天皇に持氏討伐の綸旨を出させるなどして、最終的には自害に追い込み、その持氏の遺児である春王丸らも殺害しました。
義教は朝廷に対しても厳しい態度で臨み、男女別室の制度を設けるなどして風紀を正しました。義教は、公家・武家の別や身分等には拘わらず、特に男女関係の不祥事には厳罰で臨みました。また、一揆に対しても、主力大名を投入するなどして次々と鎮圧していきました。

それまでタブー視されてきた勢力に対しても一切容赦しない
比叡山の焼き討ちといえば、織田信長が行った“悪行”のひとつとして古来から有名ですが、実は、信長に先駆けて初めてそれを行ったのは義教です。
平安時代以来、比叡山延暦寺は治外法権状態にあり、歴代の権力者達は比叡山には手を出しませんでしたが、義教は、荘園の境界問題や坂本の土倉の金貸し問題などで悉く比叡山に不利な裁定を下し、更に、鎌倉公方の持氏と内通していたという嫌疑をかけて所領も没収するなど、比叡山には強硬な態度で臨み、ついには、延暦寺追討を宣言して、幕府軍に比叡山を包囲させて山麓の坂本に火をかけるなどの行動を起こしました。
このため、延暦寺は和睦のため4人の使節を義教の元に派遣するのですが、義教はこの4人も殺害したため、怒った比叡山は、延暦寺の本堂に当たる根本中堂に火をかけて、そこで24人の宗徒が自害する事で、抗議の姿勢を示しました。
比叡山に対しての義教のこういった対応は、義教の治世が恐怖政治と云われる由縁のひとつにもなっていますが、しかし当時の比叡山は、現在のように世の中の平和や人々の平安を願う、純然たる宗教組織だったわけではなく、宗教勢力であると同時に強大な武力を持った一大軍事勢力であり、その武力を背景に朝廷や幕府に対して強い自己主張を行う圧力団体であったという事も、差し引いて考える必要があります。
しかも義教は、10歳に満たない頃から、将軍に就任する直前の30年代の壮年まで、僧侶としてずっと比叡山におり、その間には天台座主という比叡山のトップの座にも就いていました。それだけに義教は、比叡山の世俗化に伴う拝金主義、宗教的堕落、過激化する僧兵などの実態を誰よりも正確に把握しており、それが延暦寺への徹底的な弾圧に繋がったとも云われています。

義教の施策とその死は、幕府混迷への大きな転換点となった
義教の恐怖政治には当然反発もあり、最終的に義教は、義教の次の標的が自分である事を察知していた播磨の大名・赤松満祐により、関東平定の戦勝祝いの宴の席で暗殺されました(嘉吉の変)。宴の席で猿楽が始まって間もなく、義教の背後の障子が開き、そこから甲冑姿の武士数十人が乱入して、たちまち義教の首を刎ねたのです。
そして、義教のそのあっけない最期により、幕府の権力は将軍の手を離れていき、室町幕府の衰退が始まっていく事になります。


…というわけで、こうして5人の足利将軍の功績・長所・特徴などをまとめてみましたが、こうしみてみると、足利将軍は決して、無為無策・無能で実力も無かった人ばかりだった、などとは言えない事がお分かり戴けたかなと思います。
しかし、こうして改めてみてみると、同時に室町幕府の抱える大きな欠陥も見えてきます。それは、将軍が有力大名達を抑え付けて幕府の権勢を高め、政情を安定化させても、その将軍が亡くなって代替わりすると、また有力大名達が力を付けてくる、という事です。つまり、室町時代前期に於ける幕府の安定というものは、将軍個人の力量に依拠している部分が大きいのです。
後の江戸幕府が、将軍が誰であるかに関係なく長期に亘って安定政権であり続けたのは、室町幕府のそういった欠点やその結果を反面教師として体制を整備していったという面もあると思います。


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足利義満所縁の相国寺を参拝してきました

私は先月中旬、奈良の春日大社(厳密にいうと、同大社境内に鎮座する摂社の若宮神社ですが)で斎行された神前結婚式に媒酌人として参列するため、その日にちに合せて2泊3日の日程で京都・奈良方面を旅行してきたのですが、京都に立ち寄った際、室町幕府や足利将軍家と深い関わりがある古刹である、京都御苑の北隣に位置する臨済宗相国寺派大本山・相国寺を参拝・見学してきました。

相国寺は、京都五山の第二位に列せられている、寺格の高い名刹で、また、寺院としての知名度では、世界的にも有名な京都観光定番スポットの鹿苑寺金閣(所謂 金閣寺)や慈照寺銀閣(所謂 銀閣寺)のほうが有名ではあるものの、相国寺はその鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣の2ヶ寺を山外塔頭として擁し、更に、全国に100ヶ寺もの末寺を擁する大寺院でもあり(ちはみに、相国寺境内には本山相国寺をはじめ13の塔頭寺院があります)、そして、鹿苑寺金閣同様、特に室町幕府第3代将軍の足利義満に深い所縁がある古刹でもあります。
というわけで、私は今まで一度も相国寺には行った事が無かったのでいずれ行ってみたいとずっと思っていた事もあり、今回の旅行に合せて同寺へと行って参りました。

以下の写真はいずれも、今回の訪問で私が撮影してきた、相国寺の総門と境内の景観です。
最盛期に比べるとその規模は縮小されているとはいえ、それでも、一宗派の大本山らしく十分な威容を誇っている巨大な寺院でした。

相国寺_01

相国寺_02

相国寺_03

相国寺_04

相国寺_05

相国寺_06


平成25年11月26日の記事で述べたように、足利義満は、現在の住所でいう京都市上京区室町通り上立売の辺りに、壮麗な将軍家邸宅を構え、そこで将軍として政務を執っていました。広大な邸宅の敷地には大きな池が掘られて鴨川の水が引かれ、庭には四季の花が植えられ、それらの花が爛漫と咲き乱れていたと云い、その美しい様から室町の足利将軍邸は、人々から「花の御所」と称されました。
永徳2年(1382年)、義満はその花の御所の東側の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、早速寺院の建設工事が始まります。その寺院が、現在の相国寺です。

相国寺の造営予定地には既に多くの家々が建っており、御所に仕える公家達の屋敷なども立ち並んでいましたが、相国寺の造営に当たっては、家主の身分に関係無くそれらの家屋は全て余所へと移転させられ、その有様は、まるで平清盛による福原遷都にも似た、かなり強引なものであったと云われています。
ちなみに、寺名の「相国」とは、国を扶ける、国を治める、という意味です。元々は中国からきた言葉ですが、日本ではその由来から、左大臣の位を相国と呼んでいました。つまり、相国寺を創建した義満が当時左大臣で、相国であった事から、相国寺と名付けられたのです。

そして義満は、禅の師であった春屋妙葩に、相国寺の開山となることを要請します。しかし妙葩はこれを固辞し、妙葩の師である夢窓疎石を開山とするのなら、自分は喜んで第二祖になると返答したため、義満はそれを了承し、既に故人となっていた疎石を形の上でだけ開山として、妙葩は第二祖(事実上の開山)となりました。
但し妙葩は、相国寺造営の責任者として終始陣頭で指揮を執ったものの、相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没しています。

ちなみに、義満は相国寺を是非とも京都五山のひとつに入れたいと熱望していましたが、既に五山は確定していたため、もし相国寺を強引に五山に入れると、既に五山に入っているいずれかの寺院が五山から脱落しなければならず、そのため義満は、どの寺院を五山から除くべきか、もしくは、相国寺を準五山とするか、あるいは、五山ではなく六山の制にするか、大いに悩んでいたようです。
最終的には、天皇によって建立された南禅寺を五山よりも上位の寺格(別格)として五山から外す事で、相国寺を五山に列位させて、義満の願いは成就しました。これ以降の具体的な順位は、南禅寺が別格、天龍寺が第一位、相国寺が第二位、建仁寺が第三位、東福寺が第四位、万寿寺が第五位となります。
当初は、義満の意向により相国寺が第一位、天龍寺が第二位とされたのですが、義満没後に再び天竜寺が第一位、相国寺が第二位に戻され、それ以降は順位の変動はありません。

そして、着工から10年を経た明徳3年(1392年)、ついに相国寺の堂塔伽藍が竣工し、盛大な落慶供養が執り行われました。
「相国寺供養記」という本によりますと、落慶供養当日の模様は、「路頭縦と云い横と云い、桟敷左に在り右に在り、都鄙群集して堵(かき)のごとく、綺羅充満して市をなす」と記されており、境内には、聳え立つ真新しい殿堂、威儀を正した僧侶達、義満に供奉する公武の人々、見物の群集などの景色が広がり、祝賀ムード全開、お祭り一色の派手な様相が広がっていたようです。
そしてそのほぼ1ヶ月後に、南朝と北朝との間で和議が成立し、約60年に亘って続いてきた南北朝の抗争も終結し、待望の平和が蘇る事となりました。

創建当時の相国寺は、室町一条辺りに総門があったと云われ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約144万坪の壮大な敷地に50あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。兎に角巨大な寺院でした。
そして、残念ながら現存はしませんが、義満の時代の相国寺で確実に最も目立っていたのは、史上最も高かった日本様式の仏塔でもある「七重大塔」です。この仏塔は、義満の絶大な権勢を象徴するモニュメントでもあり、その高さ(尖塔高)は109.1mを誇り、構築物として高さ日本一というその記録は、大正3年(1914年)に日立鉱山の煙突(高さ155.7m)が完成するまでの凡そ515年間も破られる事がありませんでした。
下のイラストは、「週刊 新発見!日本の歴史 24」誌上からの転載で、義満の時代の相国寺伽藍の全景です。巨大な七重大塔が、強烈な存在感を醸し出しています。

相国寺伽藍


ところが、竣工後の相国寺は度々火災に見舞われ(七重大塔が現存しないのはそのためです)、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に境内は全焼し、その後復興されたものの、義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼しています。
応仁元年(1467年)には、応仁の乱で細川方の陣地となったあおりでまた焼失し(相国寺の戦い)、天文20年(1551年)にも、細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれてまた焼失しています(相国寺の戦い)。
天正12年(1584年)、相国寺中興の祖とされる西笑承兌が住職となって復興が進められ、日本最古の法堂建築として現存する法堂は、この時期に建立されました。しかしその後も、元和6年(1620年)に火災に遭い、天明8年(1788年)の「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇をまた焼失しました。そのため、現存の伽藍の大部分は、19世紀はじめの文化年間の再建となっています。

このように、長い歴史の中で幾度も焼失と復興を繰り返してきた相国寺ですが、相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として、そして、室町幕府の厚い保護と将軍の帰依とによって、これだけの火災に遭いながらも大いに栄えてきた大寺院で、幾多の禅傑を生み出し、我が国の文化にも決して小さくはない役割を果たしてきました。
ちなみに、室町時代中頃の「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)という日記によりますと、第8代将軍の足利義政は、寛正5年(1464年)の一年間だけで、実に四十数回も相国寺を参詣しています。現職の将軍が一年間にこのように何十回も参詣したお寺は他には無く、足利将軍の深い帰依の様子が窺えます。


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足利市の鑁阿寺に残る、足利将軍へのかつての尊崇・信仰の形

前回の記事で述べたように、私は先月下旬、栃木県足利市に行ってきたのですが、私が足利市で見てきたいくつかのスポットの中で、個人的に一番興味深かったのは、足利学校のすぐ近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)という古刹でした。
現在の鑁阿寺は、真言宗大日派の本山で、「足利氏宅跡」として境内全体が国の史跡に指定されており、四方に門が設けられ土塁と堀がめぐらされているなど平安時代後期の武士の館の面影が残されている事から「日本の名城百選」のひとつにも選ばれています。
また、本堂は国宝に、境内にあるその他の堂宇も国の重要文化財や県もしくは市の文化財などに指定されており、歴史的建造物としても大変貴重なお寺です。

下の写真2枚は、その鑁阿寺を今回参拝・見学した際に私が撮影してきた、県の指定文化財でもある楼門(山門)と、国宝に指定されている大御堂(本堂)です。
楼門(下の写真の1枚目)は、室町幕府第13代将軍の足利義輝が室町時代後期に再建したもので、大御堂(下の写真の2枚目)は、源姓足利氏2代目で鑁阿寺を開創した足利義兼が鎌倉時代初期に建立し、鎌倉時代後期に足利尊氏の父・貞氏が再建したものです。

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楼門と大御堂、どちらの屋根の上にも、足利家の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が入っており、金色に光り輝いています。

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前出の足利義兼が邸宅内に持仏堂を建てたのが鑁阿寺創建の由緒とされており、鎌倉時代以降、次第に本格的且つ大規模な寺院として整備されていき、室町時代には、京都の足利将軍家や、鎌倉公方足利家により、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
現在は、平成26年7月2日の記事で紹介させて頂いた「全国足利氏ゆかりの会」の会員ともなっています。


ところで、私が今回鑁阿寺を参拝・見学してきて、現地で「おおっ、これは!」と特に括目したのは、大御堂の裏手に建つ「御霊屋」(おたまや)と、その直ぐ隣に建つ「大酉堂」(おおとりどう)です。

下の写真4枚はいずれも御霊屋で、鑁阿寺という寺院の境内に建つ建物ではありますが、これは仏教建築ではなく、明らかな神社建築であるのが特徴です。手前側にある入母屋造りの拝殿と、その奥に鎮座する一間社流れ造りの本殿の2殿を中心として、全体が、正面の神門と連なる瑞垣で囲まれています。
御霊屋の当初の建物は鎌倉時代に建てられましたが、現在のものは、江戸時代に江戸幕府第11代将軍 徳川家斉が寄進したものです。

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御霊屋の神門前に立てられている解説板によると、この御霊屋は、当初は足利大権現と称され、本殿では「源氏の祖」」を御祭神としてお祀りし、拝殿内には、歴代足利将軍15人全員の木像がお祀りされていたそうです(現在は、その15体の歴代将軍の座像は、いずれも鑁阿寺の経堂内に移されています)。
また、本殿の直ぐ裏には、鑁阿寺を開創した足利義兼の父・義康と、その父(つまり義兼の祖父)である義国二人のお墓もあります。下の写真がそのお墓で、本殿の直ぐ真裏、瑞垣の内側にあります。本殿御祭神の「源氏の祖」というのは、この二人の事らしいです。

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神道は、何よりも清浄を尊び、人の死や遺骸などは「不浄」や「ケガレ」として捉えるため、本来の神社であれば、本殿とお墓が隣接して建つという事はまずほとんど有り得ないのですが、ただ、久能山東照宮の廟所、日光東照宮の奥宮、といった例外もあるので(これらの二例はいずれも、御祭神のお墓と本殿が極めて近接しています)、本殿とお墓が隣接しているのが必ずしも絶対にアウト、というわけではないのでしょう。
そもそもこの御霊屋は寺院の境内に建つ、非常に神仏習合色の濃いお宮なので、どのみち普通の神社とは性格が異なりますし。


そして下の写真は、御霊屋の直ぐ隣に建つ大酉堂です。こちらは御霊屋とは違い、神社建築ではなく、他の堂宇と同様、仏教本来のお堂の形式が採られています。
大酉堂の前に立てられている解説板によると、このお堂は、元々は足利尊氏をお祀りするお堂として室町時代に建立されたもので、江戸時代や明治時代初期の鑁阿寺伽藍配置図には「足利尊氏公霊屋」と記載されていたそうです。このお堂には、御霊屋の拝殿内にお祀りされていた束帯姿の尊氏座像とは別の、甲冑姿の尊氏像も、お祀りされていたそうです。
しかし明治時代中期以降、尊氏を逆賊とする歴史観が台頭してきた事により、大酉堂の尊氏像はここから本坊に移され、それに代わって、俗に「おとり様」と称される、武神でもある大酉大権現が御本尊になったのだそうです。現在、大酉堂と称されているのはそのためです。

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私は平成26年1月20日の記事の中で、以下のように書いた事があります。
ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。

こういった事を踏まえて、私は、南朝方の天皇・皇族・公家・武将ではなく、北朝方(足利氏や北朝を支援した室町幕府の武将も含む)が信仰対象となっている社寺が無いものか、ずっと探していたのですが、それを、今回の足利市探訪で、鑁阿寺にて漸く見つける事が出来たのでした。

御霊屋は、足利将軍が本殿の主祭神としてお祀りされていたわけではないものの、かつては御霊屋自体が足利大権現と称されていて、拝殿内には歴代の足利将軍像がお祀りされていたとの事ですから、歴代の足利将軍も恐らく信仰の対象、もしくはそれに近い存在として扱われてはいたのでしょう。
ここで言う「歴代の足利将軍像がお祀りされていた」というのが、祀るという字面通り、本当に信仰対象として、配神もしくはそれに準じる御神霊の依代としてお祀りされていたのか、それとも、奉安場所が本殿ではなくあくまでも拝殿なので、単に御神宝や威儀物等に近いような位置付けでそこに奉納されていたのか、その点は不明ですが、歴代の足利将軍像がいずれも比較的綺麗な状態で現存しているらしい事から、兎も角、いろいろな人達の思いを受けながら時代を超えて大切にされてきたのは確かといえそうです。

そして大酉堂は、御祭神としてではないものの、前述のように、はっきりと尊氏が(具体的にどういった形でかは不明ですが、恐らくは神式ではなく仏式で)お祀りされていたようです。
御霊屋と大酉堂それぞれのかつての位置付けは、御霊屋が源氏の祖と歴代の足利将軍全員の霊廟、大酉堂が室町幕府初代将軍である尊氏個人の霊廟、という感じだったのかもしれませんね。

北朝の天皇・皇族・公家や、室町幕府の将軍・武将などをお祀りする社寺は、現在でこそ、その数はほぼ皆無に近いですが、明治時代よりも前の時代は、やはりもっとあったのでしょう。私は今回、鑁阿寺で、その名残を見る事が出来ました。
南朝の天皇・皇族・公家・武将をお祀りする社寺などは、それと反比例して、逆に明治時代以降に多くなったのではないかなと思います。


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足利義詮と楠木正行の菩提寺である宝筐院を参拝してきました

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪・京都・高松方面を旅行してきました。3日目の午前中は、京都の嵯峨・嵐山地区を散策してきたのですが、その際、嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という、臨済宗系の単立寺院を参拝・見学してきました。

宝筐院_01

宝筐院_02

宝筐院は、境内にある庭園の景色が美しく、特に、初夏の新緑、晩秋から初冬にかけての紅葉、冬の雪景色などは大変美しいと評判ですが、私が行った時期は緑も紅葉も雪も無く、そのため季節的には「ちょっと微妙かも…」という感じでした。
そうであるにも拘らず、今回私があえて宝筐院に行ってきたのは、庭園の景色を楽しむためではなく、足利義詮のお墓と楠木正行の首塚をお参りするためだったからです。お墓参りをする分には、境内の景色は別に関係無いですからね。
宝筐院は、生前は敵同士であった、室町幕府第2代将軍 足利義詮のお墓と、南朝に仕えた楠木正行(名将・楠木正成の息子)の首塚が、仲良く並んで立っているお寺としても知られています。


宝筐院は、平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、南北朝時代に夢窓国師の高弟・黙庵周諭禅師が中興開山した寺院です。
その黙庵に帰依した足利義詮によって伽藍の整備が進められ、当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていたと記録されています。
その一方で、足利家とは敵対関係にあった楠木正行もまた黙庵に帰依していた事から、四條畷の戦いで正行が足利方の高師直・師泰兄弟に敗れて討死した後、正行の首級も黙庵によって同寺に葬られました。

義詮が没した後、宝筐院(当時の名は善入寺)は義詮の菩提寺となり、室町幕府歴代将軍の保護もあって大いに隆盛しました。最盛期には、備中や周防などにも寺領を構えていたそうです。
しかし応仁の乱以後、宝筐院は幕府の衰えと共に衰退していき、江戸時代には天龍寺末寺の小院となり、伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり、幕末には一旦廃寺となります。
その後、臨済宗天龍寺派管長の高木龍淵や、神戸の実業家 川崎芳太郎などによって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興(旧境内地の買い戻し、新築、古建築の移築、主な什物類の回収など)が行なわれ、廃寺から五十数年を経て復興されて、現在に至っています。


下の写真2枚は、本堂の正面全景と本堂内で、ここには木造十一面千手観世音菩薩立像が本尊としてお祀りされています。

宝筐院_03

宝筐院_05

そして本堂には、本尊とは別に正行の木造もお祀りされていました。
元々は義詮の菩提寺であり、宝筐院という寺名も義詮の院号である宝筐院から取られたものなのですが、大正期に復興されて以降の宝筐院は、義詮の菩提寺というよりは、正行の菩提寺である事のほうが強調されている感があります。

宝筐院_04


下の写真が、境内の一画に並んで立っている義詮のお墓と正行の首塚です。門と柵で囲われており、中央の門扉には、足利家と楠木家それぞれの家紋が描かれています。

宝筐院_06

宝筐院_07

下の写真の左側が、義詮のお墓と伝えられる三層石塔で、右側が、正行の首塚と伝えられる五輪石塔です。
生前は敵であった正行が宝筐院(当時の名は観林寺)に埋葬された事を知った義詮は、正行の人柄を褒め称え、「自分が死んだ後は、かねてより敬慕していた観林寺の楠木正行の墓の傍らに葬って貰いたい」と言い、その遺言に従って義詮のお墓は正行の首塚のすぐ隣に立てられたと伝えられています。

宝筐院_08

なお、今回の記事に添付した写真には写っていませんが、墓前にある石灯籠の書は、明治・大正期の文人画家 富岡鉄斎の揮毫で、そこに記されている「精忠」は、最も優れた忠を意味し、「碎徳」は、一片の徳、即ち敵将を褒め称えその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片に過ぎないという意味で、義詮の徳の大きさを褒めた言葉とされています。


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