前々の記事で述べた通り、私は先月下旬、九州へと行き、熊本県立美術館(熊本県熊本市)と九州国立博物館(福岡県太宰府市)でそれぞれ開催中の特別展を観覧してきました。
前回の記事では、その2つの特別展のうち、旅行1日目に観てきた熊本県立美術館の特別展「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」について詳述しましたが、今回の記事では、旅行2日目に観てきた九州国立博物館の特別展「室町将軍 戦乱と美の足利十五代」について、私の思った事などを記させて頂きます。
旅行2日目(1泊2日の旅行なので最終日です)の朝、前夜宿泊した熊本市から九州新幹線、在来線、西鉄線などを乗り継いで太宰府市に着いた私は、先ず、京都の北野天満宮と共に全国の天満宮・天満神社・菅原神社などの総本宮として知られる「太宰府天満宮」を参拝・見学し(上の写真は、西鉄の太宰府駅からその太宰府天満宮へと伸びる参道で撮ったものです)、それから、同宮に隣接する九州国立博物館へと行って、同館で開催されていた特別展「室町将軍展」を観覧してきました。
そもそも今回の九州旅行は、九博でのこの特別展が観たくて企画したものだったので(しかもこの特別展は他都市には巡回しないので、この機を逃すともう観る事は出来ないのです)、観覧出来て良かったです!
私は、会場内では有料(500円)の音声ガイドも利用しながら、この特別展、じっくりと観てきました♪
ところで、実際に室町幕府が置かれた京都や、室町幕府と直接的な関わりは薄いものの足利氏発祥の地である栃木県の足利で、足利将軍に関する特別展が開催されたというのであれば普通に分りやすいのですが、なぜ、足利氏と特に関係が深そうではない太宰府の九州国立博物館でこの度の特別展が開催されたのかというと、それは主に、以下の2つの理由によるそうです。
① 後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、建武政権の発足後、後醍醐天皇に離反して九州へと逃れるが、多々良川を挟んで南朝方の菊池武敏らと対峙しその合戦に勝利した後は、太宰府原山に入って約1ヶ月間滞在し、そこで、尊氏に味方して軍忠を尽くした武士達の恩賞申請の受理や審査を行ったり、九州の反足利方の討伐指令を出すなどし、その後、尊氏は京を目指して快進撃を続け、結果、室町幕府が開かれる事となった。
② 九州国立博物館は「日本文化の形成をアジア的観点から捉える」という基本理念に基づいて博物館活動を行っており、室町将軍(特に第3代将軍の足利義満)が積極的に主導した東アジアとの交流や、それによって創出された新たな文化は、その後の日本に大きな影響を与えた。
…などの理由から、この度、九博ではこの特別展を開催する事にしたそうですが、前出の特別展ポスターには、「これって、義満が主人公の、義満についての特別展か?」と思える程、義満の木像顔面が際立つ形で掲載されているので、どちらかというと、②のほうが理由としては大きいのかもしれませんね。
今回の特別展では、足利将軍家の菩提寺として知られる京都の等持院が所蔵している足利歴代将軍の木像13体が、特別展に於ける “目玉” として出展・公開されましたが、現在その等持院は、耐震補強に伴う解体修理工事中のため、方丈(本堂)や、普段歴代将軍の木像が奉安されている霊光殿の拝観を停止しており、つまり、歴代将軍の木像全てを寺外に出展して貰うためには等持院が工事中の今が都合が良かった、といった事情も、もしかしたらあったのかもしれませんね。まぁ、これについてはあくまでも私の推測ですが。
ちなみに、足利歴代将軍全15人のうち等持院の将軍木像は、第5代の義量と第14代の義栄の2人を欠いているため13体で「全て」となり、その13体全てが等持院の外でこのように揃ったのは、今回が初めての事だそうです。
以下の写真6枚は、いずれも私が特別展の会場内で撮影してきた、その足利歴代将軍木像です。原則として会場内は写真撮影禁止でしたが、例外としてこれらの木像のみ、「ストロボ発光禁止」「所定の位置からのみ撮影可」という条件付ながら、カメラでの撮影が許可されていました。
全13体の歴代将軍木像が、半円状にズラっと横一列に並んでいる景観は、圧巻でした!
以下の画像2枚は、今回の特別展のチラシの一部と、会場で配布されていたワークシートです。興味深い内容となっておりますので、これらの画像も、是非それぞれクリックし拡大表示させて御覧になって下さい。
上の2枚の画像では、どちらも、足利義稙(第10代将軍)と足利義澄(第11代将軍)の、いとこ同士でもある二人の将軍の対立がクローズアップされていますが、その二人の対立(特に、義澄から義稙への憎悪)を特に象徴するのが、今回の特別展でも展示されていた、下の画像の「足利義澄願文(石清水八幡宮文書)」です。
国の重要文化財にも指定されているこの文書は、第10代将軍の義稙(但し1回目の将軍在職時の名は義材で、義稙という名は、2回目の将軍在職時から名乗るようになった名です)が将軍職を更迭された「明応の政変」の後、細川政元らによって第11代将軍に擁立された義澄が、源氏一門の氏神とされる石清水八幡宮に奉納した、自筆の願文です。
願意の筆頭に、憚る事なく堂々と、今出川義材(いまでがわよしき)、つまり足利義稙の死去を挙げている事に、先ず驚かされます。現将軍が前将軍の死を神仏に願うなど、鎌倉幕府や江戸幕府の歴代将軍間の関係ではまず考えられない事でもあります。
義稙の父である足利義視は、その邸宅の所在地から「今出川殿」と呼ばれ、そのため義澄はこの願文で、義稙を「足利」ではなく「今出川」と記しているのですが、そこには自分こそが足利家の正統であるという強い主張が込められており、義稙へとの強烈な敵愾心が感じられます。
ちなみに、願意の二つ目は、義稙の弟で醍醐寺三宝院の前門主・周台の死去、3つ目は自らの威勢の伸張、4つ目は諸大名が上洛し自らの政権を支える事、5つ目は無病息災を願っています。
結局、義澄の願意は叶わず、義澄が「死んでくれ!」と願う程に忌み嫌っていた義稙は、大内家の軍事力や細川家の一部の勢力に支えられて上洛を果たし、将軍職をめぐって義澄と義澄との抗争が始まりました。そして、その抗争の最中、当の義澄は病死し、義稙側は合戦にも勝利したため、義稙は見事将軍への復職を果たしたのでした。
もっとも、折角将軍に復職した義稙も、結局は政権運営を投げ出して出奔し、事実上将軍職を奪われる形となり、逃亡先の阿波で病死するんですどね…。
ちなみに、実子のいなかった義稙が養子としていた義冬(義維)は、その後、平成29年10月30日の記事で詳述した「平島公方」(阿波公方)の祖となりました。
下の写真は、九博内で限定販売されていた、足利歴代将軍(とはいっても15人全員ではないんですけどね)の花押入りトートバッグです。
私の場合、今までトートバッグを使った事はほぼ全くないのですが、「なんというマニアックなトートバッグだ!」と感心して、特別展を見終えた後、自分自身へのお土産として特別展観覧記念に買ってきました。ちなみに、お値段はお手頃な1,600円也。
花押を知らない人が見たら、梵字が書かれているようなバッグに見えるかもしれませんね(笑)。
というわけで、短かったですが、とても充実した九州旅行でした♪
しかし次に九州へ行く時は、やはり、少なくとも2泊くらいはしたいですね~。
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