新年度(平成31年度)の初日となる昨日、政府から、新しい元号が「令和(れいわ)」であると発表されました。
あくまでも、昨日は単に発表されたというだけで、実際に「令和」という元号が施行されるのは来月1日からですが、昨日のこの発表が、今上陛下から新帝陛下への「御代替り」を象徴する、歴史的な出来事であった事は間違いありません。実際、新元号発表のニュースは、日本全国で中継や号外として直ちに速報され、世界各国のメディアでも大きく報道されたようですし。
新たな元号「令和」は、日本最初の元号である「大化」からは248番目となる元号で、千二百年余り前に編纂された日本最古の歌集「万葉集」の、梅の花の歌、三十二首の序文にある『初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す』から引用されました。
これまでの元号は、いずれも漢籍(中国の古典)から選ばれており、今回、初めて日本の古典から選ばれたという事も、大きな話題になっています。恐らく今後は、これが前例となって、日本の古典が新元号の典拠となる、という流れが慣例・伝統になっていく事でしょう。
今回典拠となった万葉集は、天皇・皇族・貴族だけでなく、下級官吏・防人・農民に至るまで、身分に関係無く幅広い階層の人達が詠んだ歌が収められた、我が国の国民文化と長い伝統を象徴する国書であり、そういった点も、個人的には大いに共感出来る所です。
ところで、「平成」の御代が今月いっぱいで終わる事により、我が国に於ける元号の長さ(期間)としては、「平成」は史上4番目に長い元号になります。
最も長かった元号は、多分誰もが直ぐに想像はつくと思いますが、その通り(笑)、64年まで続いた「昭和」です。そして、2番目に長かった元号は、これもやはり想像がつく人が多いのではないかと思いますが、45年まで続いた「明治」です。
では、3番目に長かった元号は何かというと、これは恐らく知らない人が結構多いのではないかと思いますが、35年まで続いた、室町時代中期の元号「応永」です。
応永の35年間は、後小松天皇と称光天皇のお二方が御在位され、その期間、国政の実権を握っていたのは、このブログでも今まで何度か取り上げてきた室町幕府第3代将軍の足利義満と、その後を継いだ第4代将軍の足利義持でした。
義満は、当時の中国の王朝「明」に強い憧れを抱いていた事から、「明徳」(応永の前の元号)を改元する際、明の太祖洪武帝の治世にあやかって新元号に「洪」の文字を撰字するよう働きかけ、その結果、「洪徳」が新元号の候補になるのですが、それに対して公家達は、「洪の字は洪水につながる」「これまで永徳・至徳・明徳と“徳”の字が使われる元号が連続しており、3回連続“治”のつく元号(天治・大治・永治)を用いた崇徳天皇や、5回連続“元”のつく元号(元応・元亨・元徳・元弘・延元)を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉である」などの理由から反対し、結局、新元号は「応永」に決まりました。
一説によると、自分の望み通りにはならなかったこの結果に怒った義満が、自分が生きている間に元号を変えさせる事を許さなかったと云われており、また、義満の後を継いで将軍となった義持もやはり改元を一切させませんでしたが、それは、義持が「応永」という元号に愛着を持っていたためと云われています。
義持が将軍として在位していた間(室町幕府将軍としては最長の在位となる28年間)に、後小松天皇から称光天皇への御代替りがありましたが、義持の「応永」への個人的な愛着によって、称光天皇は即位から16年間、代始改元が出来なかったのです。
そして、応永35年の1月に義持が死去した後、その年の4月に、漸く代始として「応永」から「正長」へと改元されました。
本来、改元手続きは天皇の勅命によって始まり、新元号は勅裁によって決まるのですが、朝廷が持っていたその改元大権は次第に形式だけのものとなり、室町時代になると、このように改元は時の権力者(将軍)の気分によって、行われたり、逆に行われるのが中止されるなどし、江戸時代になると、改元の手続きに幕府が関与する事が法律に明記されるまでになり、改元大権の形式化は更に進みましたが、明治時代になると「一世一元の制」が定められ、改元は代始に限られるようになり、これによって改元大権は漸くその運用が落ち着く事となりました。
このように、過去には改元に様々な問題や混乱が生じた事もありましたが、近代以降、改元は平和裏に穏やかに進められ、31年まで続いた現在の元号「平成」については、今月30日まで続き、皇太子殿下が践祚(皇位を受禅)される本年5月1日の午前0時を以て、次の元号「令和」の御代が始まる事になります。
1ヶ月後に践祚改元を迎えるに当たって、改めて、我が国が誇る悠久の歴史に想いを馳せ、謹んで聖寿の万歳と皇室の弥栄を祈念申し上げます。
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