この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

南朝の天皇・皇族・公家・武家

遠野南部氏所縁の南部神社を参拝してきました

私は今月の上旬、2泊3日の日程で、岩手県を旅行してきました。
今回は主に、岩手県太平洋岸の三陸海岸(久慈から釜石にかけて)と、同県内陸の遠野を中心に見て回り、遠野市内では、“日本の民俗学の父”と称される柳田國男の代表作のひとつとして知られる「遠野物語」所縁の各スポットを見学してきました。

そして、遠野物語とは特に深い関わりがある所ではありませんが、私が宿泊したホテルのたまたま直ぐ隣に「南部神社」と刻字された社号標の立っている神社が鎮座していたので、その南部神社も、参拝・見学してきました。
安土桃山時代から江戸時代までは鍋倉城という山城(遠野南部氏の居城)があったのですが、南部神社は、その城跡に造られた鍋倉公園に鎮座しておりました。

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南部神社へは旅行前に事前に調べて行ったわけではなかったので、現地で初めてその事を知りちょっと驚いたのですが、実はこの神社は、私が日頃から特に興味・関心を抱いている鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての時期と、とても深い関わりがある神社でした。
とはいっても、このこの南部神社が創建されたのは近代(明治15年)であり、別に、鎌倉時代や南北朝時代に創建された神社というわけではありません。

では、何がその時代と深い関係があるのかというと、この神社でお祀りされている御祭神が、その時期に活躍した武将達なのです。具体的に言うと、南朝に仕え後に「勤王八世」と称されるようになった、南部実長命、南部実継命、南部長継命、南部師行命、南部政長命、南部信政命、南部信光命、南部政光命の、遠野南部氏8柱を御祭神としてお祀りしているのです。
ちなみに、神社の創建当初は「勤王五世」と称された5柱をお祀りしていたそうですが、昭和34年に南部三公を合祀して、合せて「勤王八世」と称する事にしたようです。

南部氏は、元々は、源義家の弟・新羅三郎義光を祖とする、甲斐源氏の一門で、甲斐国の巨摩郡南部六郷を所領した事から南部姓を名乗るようになりました。その南部氏の庶家が、鎌倉時代後期に陸奥の糠部(ぬかのぶ)地方に所領を得て、陸奥に下向し土着したのが奥州南部氏の始まりで、南北朝時代になると、当初は南朝方として参戦しますが、南朝が衰退すると、南部氏もその多くは南朝を見限り、北朝・室町幕府に帰順するようになります。
しかし、前出の「勤王八世」と云われる遠野南部氏だけは、そのような情勢下にあっても北朝・幕府に帰順する事なく、最後まで南朝を支え続けました。
以下に、その8柱の御祭神の、生前の経歴をまとめてみます。


【初代】 南部実長 (さねなが)
清和源氏新羅三郎義光六世の孫。鎌倉時代中期の御家人。
鎌倉幕府に勤番中、鎌倉で日蓮による辻説法を聞いて深く感銘し、日蓮に帰依し、所領を身延山に寄進するなどして現在の身延山の基を作りました。自らも出家し、法寂院日円と号しました。

【2代】 南部実継 (さねつぐ)
初代・実長の子。鎌倉時代末期の武士。父の代理として身延山の工事にも従事しました。
1331年、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動「元弘の変」が起こると、実継は、当時としては老齢の六十余歳の身ながら後醍醐天皇方として参戦し、護良親王や尊良親王に随従して赤坂城に篭城しました。実継は奮戦しましたが、鎌倉幕府の大軍に攻められて赤坂城は落城し、尊良親王と共に捕らえられ、親王は土佐に流されましたが実継は京都の六条河原で斬首されました。

【3代】 南部長継 (ながつぐ)
2代・実継の子。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武士。
1326年、奥州で安藤氏が謀反を起こした際に、鎌倉幕府の命により、その謀反を討伐するために戦い、戦功大なりと伝わっています。
1330年、父・実継の命により上洛し、護良親王を奉じて楠木正成の麾下となり、鎌倉幕府討幕のため戦いました。
1335年、中先代の乱勃発に乗じて足利直義の配下に護良親王が殺害されると、長継は若宮の子・興良親王を奉じて後醍醐天皇方として足利方と戦いますが、1352年、その興良親王は、足利方に寝返った赤松則祐と摂津国の甲山の麓において戦うも敗れ、長継はこの戦いで戦死したと云われています。

【4代】 南部師行 (もろゆき)
3代・長継の妹の子で、鎌倉幕府の御内人だった南部政行の子。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の挙兵が起こると、師行は一族に倒幕の利を説いて後醍醐天皇の綸旨に呼応し、新田義貞が幕府に反して挙兵し鎌倉を攻めると、弟(5代)の政長と共にこれに従軍して武功を挙げ、鎌倉陥落に貢献しました。同年、後醍醐天皇によって建武の新政が始まると、師行は京都にとどまって武者所に任命され、南部家は一族で名を挙げる事に成功しました。
1334年、鎮守府将軍として奥州平定を命じられた北畠顕家が、義長親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向すると、師行もこれに随行して陸奥へ下り、糠部(ぬかのぶ)郡の目代や鹿角(かづの)郡の地頭に任命されるなど顕家政権下で重用され、八戸に入って根城を築いて主に陸奥北部方面の支配を担当しました。
1337年、顕家に従って足利尊氏討伐軍として京都に進軍し、各地で戦功を挙げるものの、1338年、阿部野で敗れ、和泉国の石津で顕家と共に戦死しました。
明治29年、師行は南朝への忠義を讃えられて正五位を追贈され、明治30年には、その子孫であり当時士族とされていた遠野南部氏当主の南部行義に、特旨を以て男爵が授けられました。

【5代】 南部政長 (まさなが)
4代・師行の弟。南北朝時代に活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げ、鎌倉幕府方の新田義貞がそれに呼応して天皇方に寝返ると、政長は上野国で義貞と合流して鎌倉攻めに参戦し、殊勲を立てました。
1335年、足利尊氏が後醍醐天皇から離反した際も、義貞と共に後醍醐天皇方に与し、鎮守府将軍として奥州に下向してきた北畠顕家と共に奥州の南朝軍として奮戦しました。
南部家は、奥州では有力国人として勢力を持っていたため、足利直義や高師直などは政長に対して何度も北朝・室町幕府への帰順を申し入れますが、政長はこれを拒絶して南朝支持の立場を一貫し、幕府方に付く諸将が次第に増えていく中、数少ない南朝方の武将として各地を転戦し、南朝の後村上天皇からは恩賞として太刀と甲冑を賜っています。
明治41年には、宮内省から、その功績を讃えられて正五位を追贈されました。

【6代】 南部信政 (のぶまさ)
5代・政長の子。南北朝時代の武将。
1335年、父政長に代わって北畠顕家の西上軍と行動を共にし、敵将である足利尊氏を遠く九州に敗走させる事に功績があり、後醍醐天皇より感状を賜りました。
1345年、北畠顕信に推挙され右近蔵人となり、吉野の南朝に上がって達智門女院に仕え、1348年、四條畷の戦いで高師直軍と戦い戦死したと云われています。

【7代】 南部信光 (のぶみつ)
6代・信政の子。南北朝時代の武将。
それまで奥州で南朝軍の主力だった伊達家が北朝・室町幕府に降り、奥州の南朝勢力は衰退に向い、逆に、幕府による奥州支配が徐々に確立されつつあった時期に、南朝に与して奥州を転戦し続け、1361年、後村上天皇は信光とその一族に、戦功嘉賞の綸旨を下されました。
1367年、正月恒例の年賀の挨拶のため、一族がいる甲斐国の波木井城にいたところ、幕府方の神大和守(かんのやまとのかみ)の軍勢から急襲を受けますが、信光はこれを退け、更に反撃に出て、大和守の居城・神城を陥落させました。同年、南朝に対する長年の功績から、後村上天皇より甲冑と感状を賜り、所領も加増されました。その甲冑は現在、国宝に指定され、八戸の櫛引八幡宮が所蔵しています。

【8代】 南部政光 (まさみつ)
7代・信光の弟。南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将。
足利義満による南北朝合一後もそれに従わなかったため、義満は、南部氏本家(盛岡南部)の南部守行(信光の娘婿)を以て勧降しますが、「二君に仕うるは不義」として政光は節を曲げず、甲州の本領を捨てひとり八戸に移りました。義満もそれ以上は勧降しなかったため、政光はその地で天寿を全うしたと云われています。


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後醍醐天皇をお祀りする吉野神宮を参拝してきました

私は今月の初め頃、2泊3日の日程で、関西(主に吉野・京都・大阪など)を旅行してきました。
2日目の朝からお昼にかけては、日本を代表する桜の名所としても知られる、奈良県の吉野方面を車で回ってきたのですが、その際、同県吉野町に鎮座する吉野神宮にも立ち寄り、同神宮を参拝・見学してきました。

吉野神宮は、南北朝動乱の悲史に於ける主人公のおひとりで、天皇親政による「建武の新政」(建武の中興)を行い、その後吉野に南朝を開かれて京都の北朝や室町幕府と戦われた、太平記でお馴染みの第96代・後醍醐天皇を主祭神としてお祀りするお宮です。
下の画像は、日本史の教科書にもよく掲載されている、その御醍醐天皇の肖像画です。いくつか伝わっている御醍醐天皇肖像の中でも特に有名な画像で、法服である袈裟を着て密教の法具を両手に持たれており、天皇としてはかなり“異形”なお姿で描かれています。また、天皇の上方(頭上)には、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三社託宣が掲げられています。

後醍醐天皇

歴代天皇の中でも傑出した政治力とカリスマ性を発揮され、天皇親政・公家一統の政治の実現を只管目指されて武家政権と激しく対立し続けるも、遂に京都奪還を達し給わず御無念のうちに吉野の山奥に崩ぜられた後醍醐天皇の崩御から550年が経った明治22年(大日本帝国憲法が発布された年)、かつて南朝の本拠であった吉野山で後醍醐天皇の御霊を慰撫するため、明治天皇が吉野神宮の御創立を仰せだされ、それを受けて明治25年に御鎮座祭が執り行われて、吉野神宮は創建されました。
最後の武家政権である江戸幕府が倒れて明治時代に入ると、かつて天皇親政を目指した南朝が再評価されるようになり、南朝関係者をお祀りする神社が全国にいくつも創建されましたが、吉野神宮は、南朝最大の中心人物である後醍醐天皇をお祀りしている事や、旧社格が最上位の「官幣大社」であった事などから、そうした「建武中興十五社」の中でも、筆頭に位置付けられました。
吉野神宮は、創建が近代なのでお宮としての歴史は然程深いとはいえないものの、以上のような経緯を持つ、南朝所縁のお宮なので、昔から太平記が好きな私としては、一度は訪れてみたいお宮でした。

なお、現在の同神宮境内地は、元々は丈六山一の蔵王堂があり、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のため挙兵された大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が吉野山に陣を構えられた際、鎌倉幕府方の侍大将二階堂道蘊(どううん)に占領されて本陣になった場所、と伝えられています。

吉野神宮_01

吉野神宮_02

南朝所縁のお宮だけあって、吉野神宮の境内に鎮座する各摂社の御祭神も、やはり、後醍醐天皇にお仕えした南朝の公家や武将達です。
具体的には、藤原(日野)資朝、藤原(日野)俊基、児島範長、児島高徳、桜山茲俊、土居通増、得能通綱の7柱が、御影神社・船岡神社・瀧櫻神社の3社で、それぞれ御祭神としてお祀りされております。

吉野神宮_03

吉野神宮は、明治25年の御鎮座から僅か30年で境内が手狭となり、神域を拡張して主要な社殿も一新する事になりました。
そのため現在の社殿は、いずれも大正11年から昭和7年にかけて改築造営されたもので、特に、三間社流造りの本殿、入母屋造りで銅板葺きの拝殿、切妻造りの神門、それを取り囲む玉垣などは、昭和(戦前)の近代神社建築を代表する様式となっています。

吉野神宮_03b

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ところで、神社の社殿(本殿・拝殿など)は、ごく一部の例外を除いて、そのほとんどは南か東を向いて建てられるのが通例ですが、吉野神宮の社殿は、珍しく北を向いています。
これは、御祭神の後醍醐天皇が、京都への御帰還を強く熱望されながらも南朝の勢力衰退によりそれが叶わず崩御されたため、後醍醐天皇のその心情を酌んで、北、即ち吉野から見た京都方面に向けられた事に因ります。
全く同じ理由から、後醍醐天皇の勅願寺であった如意輪寺の裏山に築かれた塔尾陵(後醍醐天皇の御陵)も、皇室の墓陵の中では唯一の北向きとなっております。

下の画像は、後醍醐天皇の崩御の様子が描かれたものです。御病気が重く、最早再起は不能と御自覚された後醍醐天皇は、義良親王(後村上天皇)に譲位され、御遺勅として、南朝関係者一同に新天皇に忠義を尽くすよう命じられ、その翌日、吉野の行宮にて波瀾万丈の御生涯を閉じられました(宝算52)。

後醍醐天皇の崩御

今回私は、左右に回廊が延びる拝殿の奥にある幣殿(下の写真の看板では便宜的に本殿と書かれていますが)に昇殿し、そこで玉串拝礼もさせて頂きました。
具体的には、「修祓、玉串拝礼、塩湯で祓い」という次第で、白衣・白袴の年配の神職さん(狩衣や格衣などは着装されていませんでした)が立礼にて御奉仕して下さいました。 本殿の間近という事もあって、更に御祭神の御神威を感じ、とても厳粛な気持ちになりました。

吉野神宮_07

太平記によると、後醍醐天皇は「たゞ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)玉骨は仮ひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という鬼気迫るお言葉を遺されて、左手には法華経の五巻を、右手には御剣を持って崩御されたとあり、その最期の御様子からも、只管北天を望まれる天皇の激烈なる御気迫が伝わってきます。
まして、前出のように御自分でその想いを「妄念」と仰せられるくらいですから、私としては、吉野神宮には後醍醐天皇のその妄念や御無念の想いが今なお滞留し、失礼ながら、どこかおどろおどろしい陰気な雰囲気が漂っているお宮なのかな、という気もしていたのですが、実際にお参りしてみると、その思いとは正反対で、実に明るく清々しい、開放的な雰囲気のお宮でした。

その吉野神宮の代表的な御利益(御神徳)は、厄除け、合格祈願、病気平癒、家内安全との事です。
幾多の艱難辛苦を重ねられながらも、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権を打倒すべく精力的に活動された御醍醐天皇の芯の強さは、参拝者にも厄除けなどの恩恵をもたらすといい、また近年は、心の浄化にも効果があると云われているそうです。
崩御から六百数十年という長い時を経て、後醍醐天皇の妄念も、今はもうすっかり浄化されたのかもしれません。


ちなみに、南朝関係のスポットとしては、今回訪問の吉野神宮以外だと、私は過去に以下の社寺や関連史跡等を訪れています。

【平成27年1月】
生前は敵対関係にあった楠木正行・足利義詮両名の菩提寺である、京都の嵯峨野にある宝筐院
南朝の重鎮として活躍した北畠親房・顕家父子をお祀りする、大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社
【平成25年11月】
太平記での代表的なエピソードのひとつ「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、大阪府島本町にある櫻井驛跡
【平成23年6月】
後の南朝の有力武将となる新田義貞が、ここから海岸に沿って鎌倉へ討幕の軍勢を進めたと伝わる、鎌倉市南西部の稲村ヶ崎
後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕に多大な貢献をした護良親王をお祀りする、鎌倉市二階堂に鎮座する鎌倉宮。
【平成14~15年】
大楠公とも称される楠木正成をお祀りする、神戸市中央区に鎮座する湊川神社
小楠公とも称される楠木正行をお祀りする、大阪府四條畷市に鎮座する四条畷神社。


下の写真は、吉野神宮の境内に立てられていた、建武中興十五社の案内看板です。

吉野神宮_08


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阿部野神社と北畠親房・北畠顕家

先週、1泊2日で、大阪・堺方面を旅行して来た際、大阪市阿倍野区北畠の閑静な住宅街の一画に鎮座する阿部野神社を参拝・見学してきました。
この神社は、南北朝時代に南朝の有力な公卿・武将として活躍をした北畠親房(きたばたけちかふさ)と、その子の顕家(あきいえ)の二柱を御祭神としてお祀りする神社で、南北朝時代に強い関心を抱いている私としては、以前から一度訪れてみたい神社のうちの一社でした。

ちなみに同神社は、今年1月20日の記事で詳しく紹介した、建武の新政に尽力した天皇・皇子・公家・武将等をお祀りする神社によって平成4年に結成された「建武中興十五社会」に所属しており、また、それとは別に、近畿を中心とした121の社寺により平成20年に結成された「神仏霊場会」(その後151の社寺に拡大)にも所属しています。

以下の写真4枚は、いずれも私が今回の参拝・見学の際に撮影してきた、阿部野神社の境内と社殿の様子です。
職員が沢山いるような雰囲気の神社ではありませんでしたが、その割には境内の掃除は行き届いており、全体的に綺麗に整備されている神社でした。

阿部野神社_01

阿部野神社_02

阿部野神社_03

阿部野神社_04


以下の鉤括弧内(緑文字)は、阿部野神社で頂いてきた、同神社の由緒略記に書かれている「御祭神の由緒」です。北畠親房・顕家親子の経歴や功績などがまとめられています。

北畠親房公は、第六十二代村上天皇の皇子、具平親王の子息である師房が源の姓を賜ったことに始まる村上源氏の血筋を引く方でございます。
親房公は、当時の学識の高い貴族である吉田定房・万手小路宣房と並び「後の三房」と称された一人です。
また後醍醐天皇の皇子である世良親王の養育係を仰せつかったことからも、殊に天皇のご信任が厚かったといわれております。
建武の新政下では、鎮守府将軍となった御長子の顕家公と共に義良親王を奉じて奥州へ下向されます。その後、足利尊氏謀叛による二度目の京都攻めのため、後醍醐天皇が吉野御潜幸をされると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力されました。
後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論の一つである「神皇正統記」を著し、それ以外にも「職原抄」・「二十一社記」などを著して官職の本義や神社の意義を明らかにされました。
厳しい戦況下にあって親房公は、我が国の歴史と伝統を明らかにして、大義を説き、道義を教えた数多くの著述は、後世の人々に深い感動を与え、日本思想史上に大きな足跡を残しました。
興国四年(一三四三)、親房公は吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、一度は京都を回復しましたが、再び京都を脱出して賀名生にうつられました。その後も国家中興に挺身されましたが、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられました。御年六十二歳でした。

北畠顕家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三三三)八月、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、同十月、父親房公と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、陸奥はたちまちにその威風に靡きました。
延元元年(一三三六)、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功いたします。この功績により顕家公は鎮守府大将軍の号を賜ることになり、再び奥州に戻られました。
しかし、勢力を盛り返した尊氏が、兵庫の湊川で楠木正成公を破って京都を占領し、後醍醐天皇が吉野に御潜幸されると、延元三年(一三三八)京都回復のため精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し、鎌倉を落としたあと、美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いにおいては北朝方を破りましたが、同年三月十六日、摂津での戦いに惜しくも敗れられてしまい、顕家公は一時撤退を余儀なくされ、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠りました。
やがて五月十六日、賊将高師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、顕家公率いる官軍は進撃して、数刻にわたり激戦を繰りかえしました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げる結果となってしまったのです。御年二十一歳でございました。

また、顕家公は戦死される一週間前に、後醍醐天皇へ「上奏文」を送っておられます。その内容は
一 地方機関を通じて非常時に備えること
一 諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること
一 官爵登用を重んじること
一 公卿や僧侶の朝恩を定めること
一 臨時の行幸及び宴飲をやめること
一 法令を厳にすべきこと
一 政道に益無き愚直の輩を除くこと
の七箇条から成ります。
この「上奏文」は、顕家公の卓越した政治理念を知ることのできる資料として今日に至るまで高く評価されております。


北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」という言葉で始まる、親房の代表的な著書である神皇正統記をまず連想する方も多いのではないかと思いますが、この「御祭神の由緒」の中でも、やはり神皇正統記について触れられています。あくまでも“触れられている”というだけで、特に詳しい解説はありませんが。
江戸時代になってから水戸学と結びついた神皇正統記は、明治以降の皇国史観にも強い影響を与えており、その件についてはいずれこのブログでも、改めて詳しく取り上げてみたいと思っております。

そして、この「御祭神の由緒」を一読して、私が「やはりな」と思ったのは、楠木正成に対しては「公」という敬称が付けられ「楠木正成公」と称しているのに対して、高師直に対しては、わざわざ名前の前に「賊将」という言葉を付けた上で「賊将高師直」と呼び捨てにしている事です。このあたりは、当然の事ながら、この神社はやはり南朝史観の立場に立っているのだなという事を実感させられます。
ただ、その割には「建武の中興」ではなく「建武の新政」と書いていたり、また、高師直が賊将であるならその親玉である足利尊氏も当然賊将になるわけですが、尊氏に対しては、謀反を起こした、という程度の説明しかなく、特に必要以上に貶めるような記述は無いので、南朝の公卿・武将をお祀りする神社としての公の立場は堅持しつつも、意外と冷静な態度をとっているのかなとも感じました(あくまでも私が勝手にそう感じただけです)。


ところで、どうしてこの地に北畠父子をお祀りする神社が創建されたのかというと、それは、当地が北畠顕家が足利軍と戦った古戦場の近くであり、その近隣(現在の阿部野神社の御旅所)には顕家のお墓として伝えられている墓碑があった事に由来します。
顕家の墓所の存在がきっかけとなって、明治11年2月、近隣住民より、顕家をお祀りする神社を創建しようという運動が起こり、当時の政府もこれを受けて明治14年1月、御祭神を北畠顕家とその父である親房の両神とする事を決定したのです。
下の画像は、その顕家の肖像画です。いかにも“武装した青年公卿”という感じの、なかなか優雅な出で立ちです。

北畠顕家

つまり、阿部野神社の御祭神の序列としてはまず父親である北畠親房、次いで息子の北畠顕家、という順なのですが、神社創建のきっかけとなったのは親房ではなく顕家の故事であり、親房は、顕家の父親であった事から結果的に一緒にお祀りされる事になった、といえます。
こういった経緯を経て、明治15年1月24日、同神社は阿部野神社と号して別格官幣社に列せられ、同18年5月28日に創立され、同23年3月31日に鎮座祭が斎行されました。ちなみに、平成2年には、神社の御鎮座百年祭が行われました。

社殿は、昭和20年3月の空襲で一旦焼失しましたが、その後再建され、現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。
春季大祭は顕家の忌日に当たる5月22日、秋季大祭は親房の忌日に当たる10月18日で、現在、同神社の両御祭神は、勇気の神、知恵の神、学問の神として多くの崇敬を集めています。
下の写真は、阿部野神社の境内に立てられている「北畠顕家公像」と、その像の台座脇に立つ、顕家を称える歌詞の看板です。ちなみに、私が見た限り、境内に親房の像は無いようでした。

阿部野神社_05

阿部野神社_06


ところで、平成3年に放送されたNHK大河ドラマ「太平記」では、北畠親房役を近藤正臣さんが、顕家役を後藤久美子さんが演じていました。
顕家は美少年であったと云われている事から、当時“国民的美少女”と持て囃されていた女性アイドルの後藤久美子さんが顕家役に抜擢されたようですが、男性の役を女性が演じるというこのキャスティングには、私は昔も今も疑問を感じています。

北畠親房・顕家(大河ドラマ太平記)

何年か前、たまたまテレビで見たバラエティ番組の中で、昭和53年から55年にかけて放送された、堺正章さん主演のテレビドラマ「西遊記」の事が話題になっていたのですが、その番組の中である芸人さんが、三蔵法師は本当に美しい女性だ、あのドラマを見ていた当時の自分は三蔵法師に惚れていた、といった内容の発言をし、周りの芸人さん達から、「いや、本当の三蔵法師は男だから!」と突っ込まれて、その芸人さんが「えぇっ!そうだったの!」と驚くシーンがありました。ドラマの中では三蔵法師の役は女優の夏目雅子さんが演じていたため、実在もしくは原作に登場する三蔵法師も女性なのであろうとずっと誤解をしていたようでした。
こういった無用な誤解を招く事もありますし、誤解まではしなくても元の人物に対してイメージがかなり改変されてしまう(無意識のうちに勝手に中性的な人物だったのだろうと思い込んでしまう)事もあるので、宝塚歌劇のような例外を除くと、元の人物とその人物を演じる役者の性別はやはり一致させるべきだと思います。


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太平記所縁の地 稲村ヶ崎

今から3年程前、鎌倉を旅行した際に、太平記所縁の地である稲村ヶ崎を訪ねました。

稲村ヶ崎は、鎌倉市南西部の由比ヶ浜と七里ヶ浜の間に位置する、相模湾に突き出た岬で、鎌倉幕府を攻め滅ぼさんとする新田義貞が、この岬から海岸に沿って鎌倉に軍勢を進めようとするものの、波打ち際が切り立った崖となっていたためそれが出来ず、そのため義貞が、潮が引く事を祈念しながら太刀を海に投じて龍神に奉納すると潮が引いて海岸が干潟となり、そこから一気に鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼした、という、太平記でも特に有名なエピソードのひとつの舞台となった伝説地です。

新田義貞

稲村ヶ崎_01

稲村ヶ崎_02

「史蹟 稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」と刻まれた石柱や、稲村ヶ崎での義貞の伝説を記した石碑、明治天皇御製(明治天皇が義貞について詠まれた歌)が記された石碑なども立っていました。
太平記が好きな私にとって、ここは前々から一度は訪ねてみたいと思っていた場所でした。

稲村ヶ崎_03

稲村ヶ崎_04

稲村ヶ崎_05

稲村ヶ崎からは、江の島や、江の島と本土を結ぶ江ノ島大橋もはっきりと見えました。
江の島は、鎌倉の西隣の街・藤沢市にある、周囲約4km、標高約60mの陸繋島(砂州によって陸続きになった島)で、鎌倉と共に湘南を代表する一大観光地として全国的に知られています。

稲村ヶ崎から望む江の島


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南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする神社

3年程前に鎌倉を旅行した際、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王を御祭神としてお祀りする鎌倉宮を参拝・見学してきたのですが、その時に同宮の授与所で受けてきたのが、この冊子「建武中興六七〇年記念 南朝関係十五神社巡拝案内記 -附・十五社御朱印帳-」です。奥付によると、発行は平成15年12月15日です。

南朝関係十五神社巡拝案内記

巻尾の御朱印帳も含めて全84ページ(そのうち各神社の紹介ページはカラー)の冊子で、以下は、この冊子の冒頭にある「はじめに」のページに記されている、建武中興十五社会の会長挨拶です。これを読むと、この冊子の発行された趣旨がおおよそ分かります。

後醍醐天皇を御祭神とする吉野神宮をはじめ、建武中興関係の十五神社が相諮(あいはか)り、建武中興の精神を体して、わが国体の発揚に尽瘁(じんすい)することを目的として、平成四年に「建武中興十五社会」が結成された。当会では、明年三月十三日を以って、建武改元の日から数えて六七〇年を迎えることから、建武中興の偉業を偲び、その意義を改めて想い起こすと共に、これの宣揚を図るため、祭典及び事業を行うこととなった。
「建武中興」、その言葉は、戦後教育制度の偏向によってか、今日では教科書からも消え、「建武の新政」に言い替えられたようである。
「建武中興」とは、第九十六代後醍醐天皇が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を皇祖とする天皇を中心として形成する国家、「神国」の本義をふまえ、延喜・天暦の御代にならって、天皇親政の理想国家を実現されようとした功業(こうぎょう)である。単に後醍醐天皇が新しい政治改革をされたというだけではない。
しかし、後醍醐天皇により一旦はなった建武中興も、足利尊氏の謀反により中断の已むなきに至るが、その度同天皇の崩御の後も、御遺志を継がれた天皇、皇子達を中心に、幾多の忠臣義士が、その国家中興の理想実現のため、一族一門を投げうって幕府政治と闘った。その歴史には、まことに尊いものがある。そして多くの苦難と犠牲を伴い、ようやく五百余年の歳月を経て、明治維新を迎え、王政復古となったのである。明治天皇の鴻業(こうぎょう)が、近代日本国家建設の重要な基盤となったことを想うとき、建武中興の深くて尊い意義を思わずにはおれないのである。
戦後わが国の姿は一変した。教育の荒廃は日本人の心まで変えた。翻って国の肇(はじ)めに立ち返り、わが国体の本義を深く認識すべきである。
こんな秋(とき)において、建武中興六七〇年という節目を迎えた。建武中興の偉業を偲び、一人でも多くの人に、本誌を手に十五社を御参拝願い、朱印を受けられつつ、御神徳にふれて戴きたいと願う次第である。
(後略)
平成十五年十二月
建武中興十五社会 会長 寺井種伯


建武中興(建武の新政)から丁度670年経つ事を記念して、後醍醐天皇を始めとする南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする、特に南朝に所縁の深い神社15社が集まって「建武中興十五社会」を結成し、その記念事業として、また、建武中興の啓発事業として、祭典や各種の事業(その事業のひとつにこの冊子の発行も含まれていたのでしょう)を行なうという事らしいです。
なお、その15社とは、北は福島県から南は熊本県に至る、以下の各神社です。

① 吉野神宮
主神 … 後醍醐天皇
旧社格 … 官幣大社
鎮座地 … 奈良県吉野郡吉野町吉野山3226

② 鎌倉宮(大塔の宮)
主神 … 大塔宮 護良親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 神奈川県鎌倉市二階堂154

③ 井伊谷宮(新宮さん)
主神 … 宗良親王(一品中務卿宗良親王)
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 静岡県引佐郡引佐町井伊谷1991-1

④ 八代宮(将軍さん)
主神 … 懐良親王
配祀 … 良成親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 熊本県八代市松江城町7-34

⑤ 金崎宮(親王さん)
主神 … 尊良親王、恒良親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 福井県敦賀市金ケ崎町1-1

⑥ 小御門神社(文貞公)
主神 … 贈太政大臣 藤原師賢公(文貞公)
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 千葉県香取郡下総町名古屋898

⑦ 菊池神社(新宮さん)
主神 … 贈従一位 菊池武時公、贈従三位 菊池武重公、贈従三位 菊池武光公
配祀 … 贈従三位菊池武政命 以下二十六柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 熊本県菊池市大字隈府1257

⑧ 湊川神社(楠公さん)
主神 … 楠木正成公(大楠公)
配祀 … 楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿
摂社 … 甘南備神社御祭神(大楠公夫人)
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 兵庫県神戸市中央区多門通3-1-1

⑨ 名和神社
主神 … 伯耆守従一位 源朝臣名和長年公
配祀 … 御一族以下四十二柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 鳥取県西伯郡名和町名和556

⑩ 阿部野神社(阿部野さん)
主神 … 北畠親房公、北畠顕家公
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 大阪市阿倍野区北畠3-7-20

⑪ 藤島神社(藤島さん)
主神 … 新田義貞公
配祀 … 新田義宗卿、脇屋義助卿、新田義顕卿、新田義興卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 福井県福井市毛矢3-8-21

⑫ 結城神社(結城さん)
主神 … 結城宗広卿
配祀 … 結城親光朝臣一族殉難将士
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 三重県津市大字藤方2341

⑬ 靈山神社(官幣社)
主神 … 大納言 北畠親房卿、陸奥大介・鎮守府大将軍 北畠顕家卿、陸奥介・鎮守府将軍 北畠顕信卿、陸奥國司 北畠守親卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 福島県伊達郡霊山町大石字古屋舘1

⑭ 四條畷神社(小楠公さん)
主神 … 楠木正行卿
配祀 … 楠正時朝臣以下二十四柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 大阪府四條畷市南野2-18-1

⑮ 北畠神社(国司さん)
主神 … 北畠顕能卿
配祀 … 北畠親房卿、北畠顕家卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 三重県一志郡美杉村上多気1148


実際には、上記の15社以外にも、南朝の天皇・皇族・武将をお祀りしている神社はあるので、この15社が南朝に所縁のある神社全てというわけではありませんが、この15社が、特に代表的な南朝系の神社である事は確かです。15社共、旧社格はいずれも官幣社ですし。

ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。


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