この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

南朝の天皇・皇族・公家・武家

熊本県立美術館で開催中の、菊池一族についての特別展を観てきました

前回の記事で述べた通り、私は先週、九州へと行き、熊本県立美術館(熊本県熊本市)と九州国立博物館(福岡県太宰府市)でそれぞれ開催中の特別展を観覧してきました。

1泊2日という短い旅程で、福岡・熊本・太宰府の3都市を回ってきたので、かなりの“強行軍”であり“弾丸旅行”でしたが、主目的の特別展2つを観てきた他に、1日目は、熊本電鉄(菊池電車)の全線を乗車してローカル線の旅を楽しんだり、その日の夜は熊本市内在住の友人と数年ぶりに再会して一緒に飲んだりするなどし、2日目も、太宰府天満宮を参詣したり、博多の駅ビルや地下街を散策するなどし、かなり限られた時間だった割には目一杯楽しめたと思います♪


さて、今回の記事では、旅行1日目に私が熊本県立美術館本館2階の展示室で観覧してきた特別展「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」について、記させて頂きます。
この特別展では、阿蘇外輪山の尾ノ岳南麓を源流として有明海に注ぐ菊池川水系の本流で一級河川の「菊池川」の、流域一帯の歴史や文化、そこに根付いた信仰の形態、そして、菊池川流域に一大拠点を築いて九州屈指の精強な武士団となった菊池一族の盛衰についての、数々の貴重な史料・文化財等が展示されていました。

熊本県立美術館

特別展「菊池一族の戦いと信仰」チラシ_01


個人的には、やはり、南北朝時代に九州に於ける南朝勢力中核の武家として大活躍をした菊池一族についての展示が興味深かったです。
菊池一族は、熊本県の北部、現在の菊池市を中心に、平安時代後期から室町時代にかけての450年にも亘って活躍し、中央にもその名を轟かせた九州の一大豪族ですが、一族としての最盛期(所謂 征西府の春)を迎えた南北朝時代には、全国的な北朝有利の状況にあっても一貫として南朝の雄として戦い抜き、その志を一途に貫き通した事で、後の世にも語り継がれました。

以下のイラストは、この特別展が開催されていた熊本県立美術館の館内に置いてあった、菊池市発行の、その菊池一族についての紹介・概要解説のチラシです。菊池氏の歴代当主達が、現代的なアレンジを加えられてとても格好良く描かれています。

菊池一族のススメ_01

菊池一族のススメ_02

菊池一族のススメ_03


下図は、鎌倉幕府打倒の先陣をきった、鎌倉時代末期の菊池氏第12代当主・菊池武時の肖像です。上畳に座した入道姿で描かれているこの肖像画は、今回の特別展でも展示されていました。

菊池武時

鎌倉幕府滅亡の約2ヶ月前に当たる元弘3年の3月13日、西国(九州)統括のため鎌倉幕府の出先機関として現在の博多に設置されていた鎮西探題を、菊池武時は一族郎党を率いて襲撃し、大いに奮戦するものの、結局は、本人はもとより子息の頼隆や弟の覚勝ともども敗死し、二百余りの首級と共に晒されました。
しかし、同年5月7日に京都で六波羅探題(京都に於ける鎌倉幕府の出先機関)が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にも届くと、それまで鎮西探題に柔順であった少弐貞経、大友貞宗、島津貞久ら九州の在地勢力が鎮西探題に離反し、同月のうちに鎮西探題は攻め滅ぼされ、得宗の北条高時など主だった北条一門が鎌倉で自害し幕府が滅んだ3日後の5月25日に、最後の鎮西探題を務めた北条(赤橋)英時も博多で一族と共に自害して果てました。

つまり、鎮西探題は最終的には九州の在地勢力によって攻め滅ぼされるのですが、それに先駆けて行われた鎮西探題に対する武時の挙兵については失敗に終わり、武時は壮絶な最期を遂げたのでした。
しかし、武時の九州での挙兵は、後に楠木正成をして「忠厚尤も第一たるか」と言わしめ、後醍醐天皇の意向を受けて九州で初めて決起したという武時の判断は、半世紀以上にも及ぶ菊池一族と南朝の関係の “出発点” にもなりました。

武時の跡を継いだ菊池氏第13代当主の菊池武重が、建武政権の発足後、亡父・武時の功績を賞されて肥後一国を与えられ肥後守となったのを筆頭に、菊池武敏は掃部助、菊池武茂は対馬守、菊池武澄は肥前守というように、菊池氏は九州の一在地勢力ながらこぞって異例ともいうべき破格の恩賞を得、これによって菊池氏は、肥後国内の同列の在地勢力に対して優越的地位を公認され、以後の菊池氏の政治的立場と行動を決定付ける事になりました。

以上のような経緯から、当人にとって敗死は “無念な最期” であったろうとは思いますが、その後一族に与えた多大な影響という観点からは、武時は菊地氏にとっては「中興の祖」的な、“偉大な御先祖様” であったといえそうです。
ちなみに、明治政府が南朝を正統とする立場であった事などから、武時は没後570年近く経った明治35年、明治天皇より贈従一位に叙され、同日、子の菊池武重(菊池氏第13代)と菊池武光(菊池氏第15代)も、それぞれ贈従三位に叙されています。


下の写真は、菊地一族関係のものではありませんが、私が今回の特別展で撮影してきた太刀「銘 来国俊」(めい らいこくとし)です。会場内は原則として写真撮影禁止ですが、例外としてこの太刀のみ、撮影が許可されていました。

大太刀

この太刀は、菊池氏と共に足利尊氏と戦った阿蘇氏第10代当主・阿蘇惟澄(あそこれずみ)が多々良浜の戦いで使用した、「蛍丸」と称される、来国俊作の大太刀の写しで、昭和50年に復元されたものです。
原品は、近代に旧国宝(現国指定重要文化財)に指定され、第二次大戦中は地元警察に預けられていましたが、戦後行方不明となり、GHQが民間から接収した刀剣類の中に蛍丸が含まれていたとも云われていますが、詳細は不明です。

ちなみに、阿蘇氏も、菊池氏同様南朝方として戦った、九州に於ける有力な豪族で、式内社・肥後国一宮・官幣大社の「阿蘇神社」の大宮司職を継承する社家でもありました。


下図は、今回の特別展のチラシの一部で、このチラシにも写真が掲載されているように、この特別展には、菊池一族の「代表的な敵役」として、足利尊氏の木像も展示されていました。
大分県国東市の安国寺が所蔵する、国の重要文化財にも指定されているこの等身・束帯姿の尊氏像は、尊氏の彫像としては現存最古とされており、垂れ目の穏やかな面貌が特徴的で、像主の面貌を忠実に写したと推察されています。

特別展「菊池一族の戦いと信仰」チラシ_02

ちなみに、菊池一族と尊氏が対決した合戦は、箱根竹ノ下の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いなどがよく知られており、そのいずれも、尊氏方の勝利で終わっています。


今回の特別展、北海道ではまず開催される事も観る機会も無いであろう、菊地氏所縁の地である熊本県ならではの特別展だったので、私としてはとても興味深く、面白かったです!
今回の旅行では時間の都合上行けませんでしたが、平成26年1月20日の記事でも述べた通り、熊本県菊池市には、菊池氏の当主 武時(第12代)・武重(第13代)・武光(第15代)の父子を主祭神として祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀している「菊池神社」が鎮座しており、次に熊本県を訪れた際は、菊池家所縁のその菊池神社へも是非行ってみたいです。


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今上陛下の御即位と、時代によって変化が生じる歴代天皇代数

上皇陛下(先月までの「平成」の御代に於ける天皇陛下)は、先月末日、今上天皇のお立場としては江戸時代後期の光格天皇以来約200年ぶりに御譲位遊ばされ、畏くも新帝陛下(先月までの「平成」の御代に於ける皇太子殿下)が受禅なされて、今月1日「第126代天皇」の御位に就かれ、それに伴い元号も「平成」から「令和」に改元されました。
御譲位は、近代以降(憲政史上)では前例の無い事でありましたが、践祚の諸儀式や改元が恙なく行われ、新しき「令和」の御代を迎える事が出来ました事、謹んでお慶び申し上げます。

天皇皇后両陛下

我が国は長い歴史の中で、政権を担う政体は朝廷や摂関家、幕府、内閣など幾度も変遷を続けてきましたが、世界の王室には類の無い万世一系の皇統によって、皇位は初代・神武天皇からただの一度も途切れる事なく連綿と現在に継承されており、時の政権の最高責任者(摂政、関白、太政大臣、征夷大将軍、内務卿、内閣総理大臣など)はいずれも天皇から任命(大命降下)される事でその正当性が保障され、天皇の権威によって、国民はその御高恩に畏敬と感謝の念を捧げつつ、歴史・伝統文化を築き上げてきました。

このような世界に冠たる誇りある天皇・皇室を戴く日本に生を受けました事と、御即位より30年の長きに亘って「平成」の御代を常に私達国民と共に歩まれた上皇陛下の御厚恩に深く感謝し、そして、新帝陛下の御代「令和」の隆昌、皇室の弥栄、我が国の安寧を、令和元年がまだ幕開けして間もない本日、改めて心より祈念申し上げます。

奉祝幟


ところで、私は今回の記事の冒頭で、新帝陛下は「第126代天皇」であると記しましたが、この代数(126という具体的な数字)については、誤解を恐れずに言えば、誠に畏れ多い事ながら私は格別に重要なものであるとは認識していません。神武天皇の御代から現在に至るまで、御歴代(皇統譜に記されている正統な歴代天皇)が一貫して不変であるのなら、それはとても重い意味があるものであろうとは思いますが、現実には、歴代天皇代数は後世の判断(天皇御自身による勅裁、という形を採りつつも実際には時の政府の決定)によってあっさりと変更されるからです。

例えば、北朝の5天皇(光厳天皇・光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇)は、いずれも天皇として即位されていた事実があり、実際、我が国では数百年間に亘ってずっと正統な天皇として扱われてきましたが、帝国議会で南北朝正閏問題が大きく取り上げられた明治44年、明治天皇の勅裁によって、これら北朝の5天皇は正統から外され、代わって、南朝の義良親王と熙成親王が正統な天皇と認定され、これら南朝の2天皇は、それぞれ「後村上天皇」「後亀山天皇」として、新たに御歴代に加列されました。
以下の画像2枚のうち、1枚目が後村上天皇、2枚目が後亀山天皇の肖像と伝わるもので、現在はそれぞれ第97代と第99代の天皇とされています。
ちなみに、南北朝正閏問題(南北朝正閏論争)については平成26年5月4日の記事の中で解説させて頂きましたので、興味のある方はそちらの記事も併せて御一読下さい。

後村上天皇

後亀山天皇

もっとも、「明治天皇の勅裁により」とはいっても、紛うことなき北朝の御子孫であられる明治天皇が、本当にこのように北朝を否定する御見解を示されたのか、そもそも明治天皇御自身は南北朝正閏についてどのように考えておられたのか、という事は、実はよく分りません。この勅裁については「明治天皇記」に記されているのですが、同記は当時の宮内省が勅旨を奉じて編修した明治天皇の伝記(実録)であり、そういった公式記録は政府の決定を追認しているため、仮に天皇御自身の本音が逆であられたとしても、それがそのまま記される事は無いからです。
「明治天皇記」には、この時の枢密院会議について「明治天皇御欠席」と書かれているため、その一事を以て、明治天皇なりの御抵抗であったのではないか(つまり、南朝のみを正統とする勅裁に、明治天皇は内心では反対されていたのではないか)、と推察する解釈も一部にはあります。

ちなみに、第二次大戦直後に日本各地に現れた、「我こそが正統な天皇である」などと自称した輩(今で言う所謂“電波系”の人達)の中で、最も有名なのは、「熊沢天皇」こと熊沢寛道ですが、彼は、後述する後南朝の西陣南帝の子孫であると称しており、彼以外にも自分は南朝の子孫であると吹聴した“自称天皇”達は何人もいましたが(一部の支持者がいただけで、当然、世間の大半からはほとんど相手にされませんでした)、彼らの多くは、明治天皇のこの勅裁(南朝が正統とされた事)を受けて、南朝や後南朝の子孫であると主張していました。

そして、大正15年、今度は大正天皇の勅裁(実際には、当時大正天皇の摂政であった、後の昭和天皇による裁定)により、南朝の寛成親王が「長慶天皇」として、新たに御歴代に含まれました。
寛成親王については、明治44年に南朝が正統であると公認された後も、即位の是非については意見が分かれていたのですが(本当に即位されて天皇になっておられたのか、ずっと分らなかったのです)、高野山に納められていた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名がある事などから即位が確認されたとして、崩御から約530年も経ってから、正統な天皇(第98代天皇)と認められたのです。

ちなみに、私は今回の記事の冒頭で、この度の御譲位について「江戸時代後期の光格天皇以来約200年ぶり」と記しましたが、上皇陛下や今上陛下に於かれましては直系の御先祖様であられるその光格天皇が署名された「神武百二十世」では、歴代天皇は北朝を正統とする代数で数えられており、現在正統とされている南朝の天皇は、逆に“存在しなかったもの”として無視されています。
南北朝時代が終わって以降の歴代天皇・皇室・朝廷は、歴史的にはいずれも北朝の延長であるため、その北朝の正統性を疑うなどという“不敬”な発想は、江戸時代に水戸藩主の徳川光圀が南朝を正統とする「大日本史」を編纂するまでは、ほぼ全く出てこなかったのです。


さて、ここまでは南北朝時代の天皇についての、後世に於ける正統性の評価の変遷を紹介しましたが、それ以外の時代の天皇についても、やはり御歴代には変更は生じており、当然、それに伴い歴代天皇の代数も変わってきています。
例えば、三韓征伐などで有名な神功皇后(第14代・仲哀天皇の皇后)は、明治時代以前は天皇(皇后の臨朝)であったとみなされる事が多く、神功皇后を第15代の帝、初の女帝などと記した史書も多数あったのですが、前出の「大日本史」が採った立場に基づいて、大正15年の皇統譜令施行以降、神功皇后は御歴代から外されてしまいました。
そのため、現在、神功皇后は歴代天皇のおひとりとはされていません。仲哀天皇が崩御されてから、実子である皇太子の誉田別尊(現在は第15代の天皇とされている応神天皇)が即位されるまで、摂政として直接政事を執り行っていたものの、崩御から1600年以上の時を経て、正式に「天皇には即位されていなかった」という扱いになったのです。

また、古代日本最大の内乱「壬申の乱」で、大海人皇子(後に第40代・天武天皇として即位)に敗れた大友皇子は、天皇とはみなされていませんでしたが、やはり「大日本史」が採った立場に基づいて即位が確認されたという事になり、明治3年、崩御から約1200年も経って「弘文天皇」の諡号が追諡され、第39代天皇とされました。但し、現在では即位されていなかったとする説が有力なのですが。
それ以外の事例としては、「恵美押勝の乱」の後、恵美押勝(藤原仲麻呂)と関係が深かった事を理由に孝謙上皇によって廃位され淡路国へと配流された「淡路廃帝」は、明治3年に「淳仁天皇」の諡号を追諡されて、第47代天皇とされました。
また、「承久の乱」の後、当時まだ幼帝であったにも拘わらず、乱の責任の一端を取らされる形で鎌倉幕府によって廃位され、摂政・九条道家の邸宅へと引き渡された「九条廃帝」(御在位は僅か78日で、御歴代の中では最も在位期間が短かった天皇です)も、やはり明治3年に「仲恭天皇」の諡号を追諡されて、第85代天皇とされました。


ですから私は、今上陛下が「第126代」という代数の天皇であられる事は、この先数十年経っても変わる事はないであろうとは思うものの、数百年という長いスパンでみると、以上のような“御歴代の変遷”という数々の前例からも、その時の世論・歴史観やそれを受けた政権の意向などによって、歴代天皇の代数に変更が生じるという可能性は否定出来ないと思います。

ちなみに、日本の歴史に於いて、もしかすると天皇として即位されていたかもしれない、もしくは、即位はされていなくても天皇に準じる立場であった、と推察される方々の御名の一部を、以下に列記します。もしかすると遠い将来、これらの中のどなたかが、天皇としての諡号を追諡され、新たに歴代天皇のおひとりとして加列される事があるかもしれません。

【 日本武尊 】 熊襲征討や東国征討などを行った事で有名な、日本古代史上の伝説的英雄。第12代・景行天皇の皇子で、第14代・仲哀天皇の御父に当たります。駿河で野火攻めに遭った時、三種の神器のひとつである草薙剣で草を薙ぎ払って難を逃れたというエピソードも有名です。記紀では皇位に即いたという記録はありませんが、常陸国風土記に於いて「倭武天皇」、阿波国風土記に於いて「倭健天皇」と記す例が見られます。
【 菟道稚郎子 】 第15代・応神天皇の皇子(日本書紀に於いては皇太子)で、第16代・仁徳天皇の異母弟。古事記には単に「夭折」と記されているのみですが、日本書紀によると、実父である応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられるものの、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るため自殺されたとされています。播磨国風土記に於いて「宇治天皇」と記す例が見られます。
【 市辺押磐皇子 】 第17代・履中天皇の皇子で、第23代・顕宗天皇や第24代・仁賢天皇の御父。第20代・安康天皇は皇位を継承させようとしていましたが、それを良く思っていなかった従兄弟の大泊瀬皇子(後の第21代・雄略天皇)に狩猟に誘い出され、猪と見間違ったふりをして射殺されてしまったと云われています。播磨国風土記に於いて「市辺天皇」と記す例が見られ、実際に天皇に即位していた可能性が指摘されています。
【 飯豊青皇女 】 第17代・履中天皇の皇女で、第22代・清寧天皇の崩御後、第23代・顕宗天皇と第24代・仁賢天皇がお互いに皇位を譲り合っている間、女帝として政務を行っていたとされています。記紀では天皇として認められていませんが、扶桑略記や本朝皇胤紹運録に「飯豊天皇」、先代旧事本紀大成経に「清貞天皇」と記す例が見られます。明治時代以降、宮内省は「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」とし、現在の宮内庁も、やはり御歴代には含めていないものの「飯豊天皇」と称しています。
【 聖徳太子 】 第31代・用明天皇の第二皇子で、現在認定されている歴代天皇のなかでは初の女帝とされている第33代・推古天皇の摂政。冠位十二階や十七条憲法などを制定して天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図り、また、当時の中国の王朝である隋へ小野妹子を派遣し国交を開き大陸文化導入に努め、国史の編纂も行ない、更に仏教興隆にも尽力して、法隆寺や四天王寺を建立するなど、数多くの業績を残しました。日本書紀に於いて「豊聡耳法大王」「法主王」などと記す例が見られます。
【 間人皇女 】 第34代・舒明天皇の皇女で、第36代・孝徳天皇の皇后。第37代・斉明天皇が崩御されてから、第38代・天智天皇が即位されるまでの間、皇位に即いていたとする説があり、万葉集での「中皇命」は間人皇女の事であるとも云われています。
【 塩焼王 】 第40代・天武天皇の皇孫で、第45代・聖武天皇の女婿。孝謙上皇に対して太師(太政大臣)の恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした叛乱「恵美押勝の乱」勃発時、淳仁天皇(前出の淡路廃帝)を連れ出せなかった恵美押勝によって新たな天皇として擁立され「今帝」を名乗りました。このため、一時、二つの朝廷が並立しましたが、孝謙上皇が派遣した討伐軍と近江国で交戦した際、塩焼王も恵美押勝と共に敗死されました。
【 恒良親王 】 第96代・後醍醐天皇の皇子のひとりで、後醍醐天皇によって北陸へ派遣される際に皇位と三種の神器を譲られ、北陸で新田義貞・義顕父子に奉じられました。天皇の命令書である「綸旨」を発給するなど、実際に天皇として活動されていましたが、後に後醍醐天皇が吉野で南朝を開かれ、御自身のみが正統な天皇であり退位もしていなかったと宣言した事により、恒良親王への譲位は“無かった事”にされました(恒良親王に譲られた三種の神器もニセモノであったとされました)。
【 懐良親王 】 第96代・後醍醐天皇の皇子のひとりで、南朝方の征西将軍として肥後国隈府(現在の熊本県菊池市)を拠点に勢力を広げ、九州に於ける南朝方の全盛期を築きました。当時の中国の王朝である明の皇帝・太祖から「日本国王」の冊封も受けたため、後に足利義満が明の皇帝・建文帝から新たに「日本国王」の冊封を受けるまで、明側の認識では懐良親王こそが日本国王であり、そのため義満も当初は、明から外交関係を結ぶ相手と認識されず苦労する事になりました。
【 金蔵主 】 嘉吉3年(1443年)9月に後南朝の初代天皇「中興天皇」として即位したと伝えられています。第99代・後亀山天皇の皇子、もしくは小倉宮良泰親王(後亀山天皇の皇子)の子、あるいは護聖院宮惟成親王(後亀山天皇の弟)の孫、などとも伝わっており、出自についてはよく分っておりません。
【 尊秀王 】 後南朝の第2代天皇とされています。地元住民の間には「自天王」の名が伝えられ、呼び名としてはそちらの方が有名です。
【 南天皇 】 後南朝の第3代天皇とされています。
【 西陣南帝 】 応仁の乱の際、西軍大将の山名宗全により洛中の西陣に迎え入れられて擁立された南朝の皇胤で、後南朝最後の天皇。宗全の没後、東軍と西軍は和議に向かい、更に足利義視が西陣南帝の擁立を快く思っていなかった事もあって、西軍から放擲されてしまい、これ以降、後南朝は歴史上に現れなくなりました。
【 北白川宮能久親王 】 当時幼君であられた明治天皇を奉じる薩長を中心とした新政府に対抗するために結成された奥羽越列藩同盟が「東武皇帝」として推戴されたと云われています。当時のアメリカ公使も本国に対して、「今、日本には二人のミカドがいる」と伝えており、当時の新聞にも同様の記事が掲載されました。戊辰戦争後は蟄居を申し付けられ親王の身分も解かれますが、明治2年に処分を解かれ、伏見宮に復帰した後、北白川宮家を相続されました。日清戦争後は、日本に割譲された台湾の征討近衛師団長として出征し、台湾平定(乙未戦争)の英雄とされ、台湾で薨去された後、陸軍大将に昇進し日本で国葬が執り行われました。幼くして都から遠く離れた江戸で僧侶(寛永寺貫主・日光輪王寺門跡)として過ごし、一時は“朝敵”の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定に尽力され、異国の地で不運の死を遂げられたという御生涯から、当時は日本武尊に例えられて讃えられました。下の写真は、その北白川宮能久親王です。

北白川宮能久親王

また、皇族以外で、天皇に準ずる立場にあった者としては、以下のような人達もいました。万世一系という皇統の揺るぎない大原則から、さすがにこういった人達が御歴代に含まれるという事は、今後もまず無いであろうとは思いますが。

【 蘇我馬子 】 3代の天皇(第31代・用明天皇、第32代・崇峻天皇、第33代・推古天皇)の外祖父として絶大な権勢を振るい、蘇我氏の全盛期を築いた大臣。皇室(大王家)とは二重三重の縁戚ではあったものの、皇族ではなくあくまで人臣でしたが、そうであるにも拘わらず蘇我氏の邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、自ら「宮家」を名乗り、自分の子を「皇子」と称しました。
【 弓削道鏡 】 女帝であった孝謙上皇(第48代・称徳天皇)から寵愛を受けた僧侶で、上皇の引き立てにより「法王」に就任し天皇に準ぜられました。皇族では無いので、あくまでも「法王」であり、「法皇」ではありませんでしたが、後世の史書に於いては「弓削法皇」という表記も見られます。明治時代から戦前・戦中にかけては、当時の皇国史観から、天皇の座を脅かした極悪人と評価され、次項で紹介する平将門や、このブログで度々取り上げてきた足利尊氏と共に「日本三悪人」のひとりとされました。
【 平将門 】 平氏の姓を授けられた高望王の三男・平良将の子で、第50代・桓武天皇の5世子孫。下総国や常陸国に広がった平氏一族の抗争から、関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、八幡大菩薩(八幡大神)の神託を得て「新皇」に即位しました。信望があり現地の人達からは尊敬されたと云われていますが、当今である第61代・朱雀天皇に対抗して新皇(新しい天皇)を名乗って関東に独立政権を築いた将門は、朝廷から見れば謀反人でしかなく、追討軍が派遣され“朝敵”として征伐されました。
【 足利義満 】 室町幕府第3代将軍。征夷大将軍として武家の、太政大臣や准三后(皇后・皇太后・太皇太后に準じた待遇)として公家の、両勢力の頂点に上り詰めた、日本史上有数の絶対的な権力者でした。明からは「日本国王」の冊封を受け、没後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の宣下も受けました。室町幕府はその宣下を辞退しますが、義満が建立した相国寺では受け入れたようで、同寺の過去帳には「鹿苑院太上天皇」と記されています。


畏れ多くも歴代天皇の正統性について言及した今回の記事は、もしかすると、新帝陛下の御即位と「令和」への改元で全国的に盛り上がっている奉祝ムードに水を差すような、一部不適切で不敬な内容であったかもしれませんが、私としては勿論、天皇陛下が例え何代目であられようとも、この度の践祚改元は誠にお目出度い事、慶賀の至りと思っております。
新たな大御代の弥栄をお祈り申しあげますと共に、謹んで皇統の隆昌を言祝ぎ奉ります。


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護良親王の最期

大塔宮護良親王

大塔宮護良親王(上の画像の馬上の人物)については前回の記事で取り上げたばかりですが、先月16日、その護良親王に関するニュースがネット(毎日新聞)にアップされました。
以下の画像は、そのニュース記事を画像として取り込んだものです。私にとっては、ニュースそのものよりも、このニュース記事に貼付されていた写真(護良親王の首級)が、ちょっと衝撃的でした…。

公開された護良親王と伝わる首級

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、当該記事の本文全文です。携帯電話等の小さい画面で上の画像の文字がはっきりと判読出来ない方は、こちらをお読み下さい。

都留市朝日馬場の石船神社で15日、後醍醐天皇の皇子、護良(もりなが)親王(1308~1335年)と伝わる首級(しゅきゅう)が公開された。
親王は、鎌倉幕府の討幕計画に尽力したが、足利氏と対立し、鎌倉で殺害されたとされる。首級を携えた寵妃の雛鶴(ひなづる)姫が、上野原市秋山から都留市方面の峠を越える途中で亡くなり、首級は同神社に祭られたと伝わる。
15日は首級を確認する神事が行われた。神職が本殿から首級を取り出し、地元関係者が保管状況を確かめて本殿に戻した。首級は漆や木片、木くずなどで肉付けされている。
地元住民は親王と姫を大切に祭ってきたといい、小俣政英さん(62)は「自分が生まれる前から行われている神事を今後も続けていきたい」と話した。

この記事によると、護良親王の首級は、地元では長年に亘って大切に扱われ、今も本殿で丁重にお祀りされているようです。非業の最期を遂げられた親王の御霊(みたま)も、六百数十年という長い時を経て、しかもその間、石船神社で祭祀され続け、また、明治の世になってからは鎌倉宮でもお祀りされた事によって、大分慰められたのではないかなと、私個人としては推察します。


建武政権下で護良親王との対立が深刻化していた足利尊氏は、後醍醐天皇の寵姫である阿野廉子(あのれんし)を通じて、後醍醐天皇に対して親王の失脚を働きかけ、その働きかけによって親王は、後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに「皇位簒奪を企てた」として捕らえられて、鎌倉へ流され、尊氏の弟・直義(ただよし)の監視の下、幽閉の御身となります。
その翌年、北条高時の遺児である時行ら(旧鎌倉幕府の残党)が信濃で挙兵し、鎌倉に攻め込んできますが、その直前、現状では鎌倉を守り切れないと判断した直義は、一旦鎌倉を捨てて西へ逃れます。そして、その逃亡のドサクサに紛れる形で、直義は鎌倉を出るに当たって密かに、部下に親王の殺害を命じたのでした。
尊氏ら足利氏を激しく憎まれていた親王を生かしたままにしておくと、将来必ず足利氏の仇になるであろうと判断したとも、また、鎌倉を占拠した時行が前征夷大将軍である親王を宮将軍として擁立して鎌倉幕府を再興する事を恐れたため、とも云われています。

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、小学館の「日本の古典を読む16 太平記 長谷川端 [校訂・訳]」という本に掲載されていた、太平記に記されている護良親王最期についてのエピソードの訳文です。親王が具体的にどのような最期を遂げたかについては前回の記事でも述べましたが、太平記によると、その詳細は以下の通りです。

左馬頭(さまのかみ)直義は鎌倉の山内(鎌倉市山ノ内)を通過なされたとき、淵辺甲斐守(ふちのべかいのかみ)を近くへ呼んで、「味方は少数なのでいったん鎌倉から退去するが、美濃・尾張の軍勢を集め、すぐに攻め寄せるから、鎌倉を攻め落として相模二郎時行を滅ぼすのは、時間の問題だ。今後とも我が家のために仇になるにちがいないのは兵部卿親王(大塔宮)でいらっしゃる。死罪に処し申しあげよという勅命はなかったが、この機にただお命をいただこうと思う。お前はすぐに薬師堂の谷(鎌倉市二階堂)へ駆け戻って、宮を刺し殺し申しあげよ」と命ぜられた。
淵辺は「承知いたしました」と、山内から主従七騎で引き返し、宮のいらっしゃる牢び御所へ参内した。

宮は一日中ずっと闇夜のような土牢の中で、朝になるのもご存じなく、なおも灯をかかげて読経されていた。淵辺がかしこまって、お迎えに参上した由を申し入れると、宮は一目ご覧になって、「お前は私を殺せと命を受けた使者であろう。分っておるぞ」とおっしゃって、淵辺の太刀を奪おうと走りかかられた。
淵辺は手にした太刀を持ち直し、御膝のあたりを強くお打ちしたので、宮は土牢の中に半年ほど座ったままでいらっしゃり御足もうまく立たなかったのか、御心はますますはやるもののうつぶせにお倒れになった。そこを淵辺は起きあがらせず、御胸の上に馬乗りになり、腰刀を抜いて御首をかこうとした。だが、宮は御首をすくめて、刀の先をしっかりとくわえられたので、淵辺も剛の者、刀を奪われまいと、無理やり引っ張るうちに刀の切っ先が一寸あまり折れてなくなってしまった。
淵辺はその刀を捨てて、脇差の短刀で宮の胸元を二度まで刺し、宮が少々弱られたところを、御髪をぐいとつかんで御首を斬り落した。

牢は暗かったので、淵辺は外へ走り出て、明るい所で御首を見ると、宮がさきほど食い切った刀の切っ先はまだ口の中にあって、御眼の色も生きているようだった。
これを恐ろしく思って、「そうだ、先例がある。こういう首は主君には見せぬものなのだ」と言って、その辺の藪に放り込み、馬にうち乗って、急ぎ左馬頭殿に合流してこの由を報告したところ、「よくやった」とお褒めになった。

宮をお世話している南の御方(みなみのおんかた)という女房は、この有様を見申しあげて、あまりにも恐ろしく、悲しくなって手足も震えて失神なさるほどだった。少したって気を落ちつけ、淵辺が藪に捨てた宮の御首を拾いあげて御覧になると、まだ御肌も冷えず、御眼もつぶらず、まったく生きていたときのままに見えたので、「これはもしかして夢ではないか。夢なら覚めて現実に戻ってほしい」と泣き悲しみなさったが、その甲斐もない。
こうしたところに、理到光院(鎌倉市二階堂にあった五峰山理智光寺)の老僧がこの事件を聞き、「あまりにお気の毒でございます」と言って、自分の寺へご遺骸をお入れした。そして、葬礼の仏事を形どおり執り行って、荼毘に付しなされたことは、しのびないことであった。
南の御方はすぐに御髪を下ろし、御首を持って、泣く泣く京都へ上って行かれた。哀れで恐ろしかったこの事件を語り伝えなさるたびに、聞く人は涙を流すのであった。

太平記の記述によると、親王は御首を斬り落とされた後も、折れた刀の刃に噛み付き、目も見開いたままで、淵辺も思わず「恐ろしい」と感じてその御首を藪の中へ捨ててしまう程ですから、親王の御首はきっと物凄い形相だったのでしょう…。


以下の画像は、平成27年7月20日の記事でも紹介した、横山まさみちさんの著したコミック「太平記(2) 楠木正成 千早の巻」からの転載です。この作品では、護良親王の最期は以下のように描かれていました。

護良親王の最期_01

護良親王の最期_02

護良親王の最期_03

護良親王の最期_04

前出の太平記訳文とは、細部の描写は異なっている所もありますが、大凡は一致しており、やはり“皇子の薨去”としては全く相応しくない、凄まじい最期であった事は間違いないようです。
そして、こういったエピソードを知っていると、その護良親王の首級(さすがにそのままの状態ではなく、肉付けされて装飾も施され復顔されていますが)の写真が、ネット上のニュース記事に普通にアップされた事に、私は少なからず衝撃を受けました。

ただ、護良親王の首が埋葬されているとされている場所は、実は他にも複数あるため、この首級が正真正銘、護良親王の首級であるのか否かは、定かではありません。作り物ではなく、本物の頭蓋骨である事は間違いないようですが。


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護良親王をお祀りする鎌倉宮を参拝してきました

前回の記事で述べたように、私は昨年11月の下旬、1泊2日の日程で鎌倉方面を旅行し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参拝し、同宮境内にある鎌倉国宝館も見学してきました。
今回の記事では、その鎌倉国宝館を見た後に私が参拝・見学してきた、鎌倉市二階堂に鎮座する「鎌倉宮」という神社と、その鎌倉宮で御祭神としてお祀りされている護良親王(大塔宮)について書かせて頂きます。

護良親王(大塔宮)は、建武の新政(建武の中興)を行った事で有名な後醍醐天皇の皇子で、非常に武勇に優れていたため皇子の御身でありながら自ら指揮官として戦場で直接軍勢を率い、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げた事で知られています。
ちなみに、護良は「モリナガ」もしくは「モリヨシ」と読み、大塔宮は「オオトオノミヤ」もしくは「ダイトウノミヤ」と読みます。書物によってフリガナが異なり、現在に於いては読み方が統一されていないのです。

鎌倉宮案内看板

鎌倉幕府を倒し、非情に短い期間ではありましたが一時的に武家から天皇中心の社会へと復帰させる事(建武の新政)に貢献したその護良親王の功績を称え、明治2年2月、明治天皇が護良親王をお祀りする神社の造営を命じられ、同年7月、鎌倉宮の社号が下賜され、同月、護良親王が非業の最期を遂げられた東光寺跡の現在地に社殿が造営され、現在に至っています。

鎌倉宮_01

鎌倉宮_02

鎌倉宮_03


以下の二重鉤括弧内の緑文字は、私がこの時鎌倉宮で入手した「御祭神 護良親王御事蹟」というタイトルの冊子の、「鎌倉宮御由緒」のページに記されていた全文です。御祭神である護良親王の経歴が簡潔にまとめられています。

七百年の昔、鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮された後醍醐天皇は倒幕を志されたが叶わず、かえって隠岐島へ遠流の御身となられました。
後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮尊雲法親王は比叡山延暦寺の天台座主にましまし、幼少より英明にして勇猛をもって知られ、この危機に御自ら鎧兜に身を固め、鎌倉幕府の大軍を迎え撃たれました。

還俗して護良親王と名乗られた大塔宮は、多勢に無難、また険しい山野にあって数々の厳しい困難を、機知と豪胆をもって切り抜けつつ、各地へ鎌倉幕府追討の令旨を発し、これに応じた楠木正成、新田義貞らのめざましい働きにより幕府を打倒、見事に建武の中興を成し遂げられ、その抜群の勲功により征夷大将軍、兵部卿に任ぜられたのです。

しかし、足利尊氏が自ら将軍として幕府を開く野心を持っていることに早くから警戒心を抱かれておられた親王は、かえって尊氏の陰謀の為に無実の罪を着せられ、建武元年十一月、尊氏の弟・直義により鎌倉二階堂谷の東光寺の土牢に幽閉の御身となられました。
翌建武二年七月、北条高時の遺児・時行が鎌倉に攻めこんだ戦(中先代の乱)に敗れた直義は逃れ去る途次、親王を恐れる余り淵辺伊賀守義博に親王の暗殺を密命しました。親王は九ヶ月に幽閉されていた御身では戦うこともままならず、その苦闘の生涯を閉じられました。

明治二年、明治天皇は維新の大業が結ばれたのは、護良親王の御先徳によるものとして、その御功業を深く追慕敬仰され、勅命によって宮号と鎌倉宮と定め、ご終焉の地であるここ鎌倉二階堂の地に御社殿を造営、永く親王の御霊を祀られたのです。


というわけで、護良親王をお祀りする神社としての立場から記され文章なので、当然の如く、護良親王は絶対的に「正義」で、親王と敵対した尊氏は「悪」、という二元論に基づいて書かれています。
現実の情勢は、そのような単純な二元論で語れるものではなく、もっと複雑だったわけですが、ただ、鎌倉幕府が倒された事については、この鎌倉宮御由緒で書かれている通り、護良親王に抜群の勲功があった事は間違い有りません。

以下の文章は、『渡部昇一の中世史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』という本(PHP研究所刊)からの抜粋で、この中でも、鎌倉幕府を倒して建武政権を樹立した最大の功労者は護良親王であると述べられています。

建武の中興に最も功績があったのは誰だろうか。先ず大塔宮護良親王である。この親王が笠置落城後も屈せずに諸国の武士に令旨を出したから武士が動きだしたのである。
次に楠木正成である。大軍を動員しながら北條方がしばしば楠木軍に破られ、しかも千剱破城をついに落とせなかったことは、武力を拠り所にする幕府の決定的イメージ・ダウンになった。ベトナム戦争の時のアメリカみたいなものである。
第三に赤松円心がいる。彼は大塔宮の令旨を受けるや直ちに挙兵し、まっしぐらに京都に攻めのぼった。そして円心の軍が名越高家を殺したのをきっかけに、足利尊氏も北條に叛く決心をするのである。
第四は新田義貞である。彼は千剱破城で楠木正成を攻めていたが、この小城がいつまでも落ちないので北條幕府を見限った。それで家臣の船田義昌に命じて、大塔宮からひそかに幕府討伐の令旨を得た。それで病気と称して本国に帰ってしまったのである。そして幕府討伐の計画をひそかに立てていた。

(中略)
足利尊氏の功績は、前に上げた四人にくらべれば断然見劣りがする。新田義貞が鎌倉を落とした上に、楠木正成が頑張り、赤松円心が奮戦し、その上に大塔宮がいたのだから、足利尊氏はぐずぐずしておれば討伐されたのである。それはすでに根を失った軍勢だったのだ。

渡部さんのこの見解には、私もほぼ納得です。鎌倉幕府倒幕の最大の功績者を護良親王と考えるか、それとも楠木正成と考えるかについては、人によって見解が分かれる所だと思いますが、兎も角、護良親王と正成の両人が第一もしくは第二の軍功であった事はほぼ間違いなく、その二人に果たした役割に比べると、尊氏の功績は然程大したものではなかったと言えます。
もっとも現実には、足利氏の出自の良さなどから、朝廷は尊氏を武功の第一としたわけで、そこがまた複雑な所ではありますが。まぁ、複雑というよりは、単に「建武政権の行った論功行賞が滅茶苦茶なだけだった」とも言えますが…。


ところで、前出の鎌倉宮御由緒では、鎌倉宮としての立場から護良親王を賛美しているのは当然として、親王の御父である後醍醐天皇についても、「鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮され」と書かれていて、国や民の事を深く思っていた天皇として描かれています。
物事にはいろいろな見方があるので、私としては別にそういった「後醍醐天皇は大変素晴らしい!」といった見方をここで特に否定しようとは思いませんが、しかし、護良親王が失脚し幽閉の御身となった事については、そもそもその後醍醐天皇が了解されたからこそ実行された、というのも事実です。

自分がこれから捕らわれるという事を全く知らずに参内した護良親王は、突然、御所の一画で武者所の武士数十人に囲まれその場で捕らわれてしまったわけですが、その武士達をその場で指揮していたのは、後醍醐天皇側近の武士である名和長年と結城親光であると云われており、護良親王はその二人の姿を見た時に、天皇の意思をはっきりと知って愕然とされたのではないでしょうか。

護良親王の失脚について、梅松論では以下のような見方をしています。
大塔宮の謀反は天皇の命令によるものであるが、天皇はその罪を大塔宮に着せたのである。大塔宮は鎌倉へ捕らわれの身となって送られて、二階堂の薬師堂の谷に幽閉されてからは、足利尊氏よりも天皇のなされ方がうらめしいとひとりごとをいっていたということである。

尊氏と護良親王が対立していたのは確かですから、護良親王の失脚に尊氏の思惑が深く関わっていた(尊氏側の計略により捕らえられた)事は事実でしょうが、尊氏のみならず、後醍醐天皇の意思も明確にそこに含まれていた事もまた事実でしょうから、そういった意味では、信頼していた実父にも見捨てられた護良親王は本当に気の毒過ぎる、と言えます…。


下の写真は、鎌倉宮境内の宝物殿に展示されていた、明治22年に作られたらしい「護良親王馬上像」です。甲冑を御身にまとって馬にまたがる、凛々しい護良親王の姿が表現されています。

護良親王馬上像


以下の写真は、拝殿前から鎌倉宮本殿をお参りした後に私が見学してきた、本殿後方にある岩窟です。護良親王が凡そ9ヶ月間幽閉されていたと伝わる土牢(護良親王最期の地)を復元したものです。

鎌倉宮 土牢_01

鎌倉宮 土牢_02

鎌倉宮 土牢_03

鎌倉宮 土牢_04


ちなみに、鎌倉宮は、平成26年1月20日の記事で紹介した、南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする神社15社により構成されている「建武中興十五社」のうちの一社で、旧社格(明治維新の後制定され、終戦直後の神道指令によって廃止された、神社としてのランクを表わす制度)では「官幣中社」とされていました。
神社神道系の包括宗教法人としては最大規模で、現在全国の大半の神社が所属している「神社本庁」には、本庁の設立時より入っていない、単立の神社でもあります。


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遠野南部氏所縁の南部神社を参拝してきました

私は今月の上旬、2泊3日の日程で、岩手県を旅行してきました。
今回は主に、岩手県太平洋岸の三陸海岸(久慈から釜石にかけて)と、同県内陸の遠野を中心に見て回り、遠野市内では、“日本の民俗学の父”と称される柳田國男の代表作のひとつとして知られる「遠野物語」所縁の各スポットを見学してきました。

そして、遠野物語とは特に深い関わりがある所ではありませんが、私が宿泊したホテルのたまたま直ぐ隣に「南部神社」と刻字された社号標の立っている神社が鎮座していたので、その南部神社も、参拝・見学してきました。
安土桃山時代から江戸時代までは鍋倉城という山城(遠野南部氏の居城)があったのですが、南部神社は、その城跡に造られた鍋倉公園に鎮座しておりました。

南部神社_01

南部神社_02

南部神社_03

南部神社_04

南部神社_05

南部神社_06


南部神社へは旅行前に事前に調べて行ったわけではなかったので、現地で初めてその事を知りちょっと驚いたのですが、実はこの神社は、私が日頃から特に興味・関心を抱いている鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての時期と、とても深い関わりがある神社でした。
とはいっても、このこの南部神社が創建されたのは近代(明治15年)であり、別に、鎌倉時代や南北朝時代に創建された神社というわけではありません。

では、何がその時代と深い関係があるのかというと、この神社でお祀りされている御祭神が、その時期に活躍した武将達なのです。具体的に言うと、南朝に仕え後に「勤王八世」と称されるようになった、南部実長命、南部実継命、南部長継命、南部師行命、南部政長命、南部信政命、南部信光命、南部政光命の、遠野南部氏8柱を御祭神としてお祀りしているのです。
ちなみに、神社の創建当初は「勤王五世」と称された5柱をお祀りしていたそうですが、昭和34年に南部三公を合祀して、合せて「勤王八世」と称する事にしたようです。

南部氏は、元々は、源義家の弟・新羅三郎義光を祖とする、甲斐源氏の一門で、甲斐国の巨摩郡南部六郷を所領した事から南部姓を名乗るようになりました。その南部氏の庶家が、鎌倉時代後期に陸奥の糠部(ぬかのぶ)地方に所領を得て、陸奥に下向し土着したのが奥州南部氏の始まりで、南北朝時代になると、当初は南朝方として参戦しますが、南朝が衰退すると、南部氏もその多くは南朝を見限り、北朝・室町幕府に帰順するようになります。
しかし、前出の「勤王八世」と云われる遠野南部氏だけは、そのような情勢下にあっても北朝・幕府に帰順する事なく、最後まで南朝を支え続けました。
以下に、その8柱の御祭神の、生前の経歴をまとめてみます。


【初代】 南部実長 (さねなが)
清和源氏新羅三郎義光六世の孫。鎌倉時代中期の御家人。
鎌倉幕府に勤番中、鎌倉で日蓮による辻説法を聞いて深く感銘し、日蓮に帰依し、所領を身延山に寄進するなどして現在の身延山の基を作りました。自らも出家し、法寂院日円と号しました。

【2代】 南部実継 (さねつぐ)
初代・実長の子。鎌倉時代末期の武士。父の代理として身延山の工事にも従事しました。
1331年、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動「元弘の変」が起こると、実継は、当時としては老齢の六十余歳の身ながら後醍醐天皇方として参戦し、護良親王や尊良親王に随従して赤坂城に篭城しました。実継は奮戦しましたが、鎌倉幕府の大軍に攻められて赤坂城は落城し、尊良親王と共に捕らえられ、親王は土佐に流されましたが実継は京都の六条河原で斬首されました。

【3代】 南部長継 (ながつぐ)
2代・実継の子。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武士。
1326年、奥州で安藤氏が謀反を起こした際に、鎌倉幕府の命により、その謀反を討伐するために戦い、戦功大なりと伝わっています。
1330年、父・実継の命により上洛し、護良親王を奉じて楠木正成の麾下となり、鎌倉幕府討幕のため戦いました。
1335年、中先代の乱勃発に乗じて足利直義の配下に護良親王が殺害されると、長継は若宮の子・興良親王を奉じて後醍醐天皇方として足利方と戦いますが、1352年、その興良親王は、足利方に寝返った赤松則祐と摂津国の甲山の麓において戦うも敗れ、長継はこの戦いで戦死したと云われています。

【4代】 南部師行 (もろゆき)
3代・長継の妹の子で、鎌倉幕府の御内人だった南部政行の子。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の挙兵が起こると、師行は一族に倒幕の利を説いて後醍醐天皇の綸旨に呼応し、新田義貞が幕府に反して挙兵し鎌倉を攻めると、弟(5代)の政長と共にこれに従軍して武功を挙げ、鎌倉陥落に貢献しました。同年、後醍醐天皇によって建武の新政が始まると、師行は京都にとどまって武者所に任命され、南部家は一族で名を挙げる事に成功しました。
1334年、鎮守府将軍として奥州平定を命じられた北畠顕家が、義長親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向すると、師行もこれに随行して陸奥へ下り、糠部(ぬかのぶ)郡の目代や鹿角(かづの)郡の地頭に任命されるなど顕家政権下で重用され、八戸に入って根城を築いて主に陸奥北部方面の支配を担当しました。
1337年、顕家に従って足利尊氏討伐軍として京都に進軍し、各地で戦功を挙げるものの、1338年、阿部野で敗れ、和泉国の石津で顕家と共に戦死しました。
明治29年、師行は南朝への忠義を讃えられて正五位を追贈され、明治30年には、その子孫であり当時士族とされていた遠野南部氏当主の南部行義に、特旨を以て男爵が授けられました。

【5代】 南部政長 (まさなが)
4代・師行の弟。南北朝時代に活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げ、鎌倉幕府方の新田義貞がそれに呼応して天皇方に寝返ると、政長は上野国で義貞と合流して鎌倉攻めに参戦し、殊勲を立てました。
1335年、足利尊氏が後醍醐天皇から離反した際も、義貞と共に後醍醐天皇方に与し、鎮守府将軍として奥州に下向してきた北畠顕家と共に奥州の南朝軍として奮戦しました。
南部家は、奥州では有力国人として勢力を持っていたため、足利直義や高師直などは政長に対して何度も北朝・室町幕府への帰順を申し入れますが、政長はこれを拒絶して南朝支持の立場を一貫し、幕府方に付く諸将が次第に増えていく中、数少ない南朝方の武将として各地を転戦し、南朝の後村上天皇からは恩賞として太刀と甲冑を賜っています。
明治41年には、宮内省から、その功績を讃えられて正五位を追贈されました。

【6代】 南部信政 (のぶまさ)
5代・政長の子。南北朝時代の武将。
1335年、父政長に代わって北畠顕家の西上軍と行動を共にし、敵将である足利尊氏を遠く九州に敗走させる事に功績があり、後醍醐天皇より感状を賜りました。
1345年、北畠顕信に推挙され右近蔵人となり、吉野の南朝に上がって達智門女院に仕え、1348年、四條畷の戦いで高師直軍と戦い戦死したと云われています。

【7代】 南部信光 (のぶみつ)
6代・信政の子。南北朝時代の武将。
それまで奥州で南朝軍の主力だった伊達家が北朝・室町幕府に降り、奥州の南朝勢力は衰退に向い、逆に、幕府による奥州支配が徐々に確立されつつあった時期に、南朝に与して奥州を転戦し続け、1361年、後村上天皇は信光とその一族に、戦功嘉賞の綸旨を下されました。
1367年、正月恒例の年賀の挨拶のため、一族がいる甲斐国の波木井城にいたところ、幕府方の神大和守(かんのやまとのかみ)の軍勢から急襲を受けますが、信光はこれを退け、更に反撃に出て、大和守の居城・神城を陥落させました。同年、南朝に対する長年の功績から、後村上天皇より甲冑と感状を賜り、所領も加増されました。その甲冑は現在、国宝に指定され、八戸の櫛引八幡宮が所蔵しています。

【8代】 南部政光 (まさみつ)
7代・信光の弟。南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将。
足利義満による南北朝合一後もそれに従わなかったため、義満は、南部氏本家(盛岡南部)の南部守行(信光の娘婿)を以て勧降しますが、「二君に仕うるは不義」として政光は節を曲げず、甲州の本領を捨てひとり八戸に移りました。義満もそれ以上は勧降しなかったため、政光はその地で天寿を全うしたと云われています。


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後醍醐天皇をお祀りする吉野神宮を参拝してきました

私は今月の初め頃、2泊3日の日程で、関西(主に吉野・京都・大阪など)を旅行してきました。
2日目の朝からお昼にかけては、日本を代表する桜の名所としても知られる、奈良県の吉野方面を車で回ってきたのですが、その際、同県吉野町に鎮座する吉野神宮にも立ち寄り、同神宮を参拝・見学してきました。

吉野神宮は、南北朝動乱の悲史に於ける主人公のおひとりで、天皇親政による「建武の新政」(建武の中興)を行い、その後吉野に南朝を開かれて京都の北朝や室町幕府と戦われた、太平記でお馴染みの第96代・後醍醐天皇を主祭神としてお祀りするお宮です。
下の画像は、日本史の教科書にもよく掲載されている、その御醍醐天皇の肖像画です。いくつか伝わっている御醍醐天皇肖像の中でも特に有名な画像で、法服である袈裟を着て密教の法具を両手に持たれており、天皇としてはかなり“異形”なお姿で描かれています。また、天皇の上方(頭上)には、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三社託宣が掲げられています。

後醍醐天皇

歴代天皇の中でも傑出した政治力とカリスマ性を発揮され、天皇親政・公家一統の政治の実現を只管目指されて武家政権と激しく対立し続けるも、遂に京都奪還を達し給わず御無念のうちに吉野の山奥に崩ぜられた後醍醐天皇の崩御から550年が経った明治22年(大日本帝国憲法が発布された年)、かつて南朝の本拠であった吉野山で後醍醐天皇の御霊を慰撫するため、明治天皇が吉野神宮の御創立を仰せだされ、それを受けて明治25年に御鎮座祭が執り行われて、吉野神宮は創建されました。
最後の武家政権である江戸幕府が倒れて明治時代に入ると、かつて天皇親政を目指した南朝が再評価されるようになり、南朝関係者をお祀りする神社が全国にいくつも創建されましたが、吉野神宮は、南朝最大の中心人物である後醍醐天皇をお祀りしている事や、旧社格が最上位の「官幣大社」であった事などから、そうした「建武中興十五社」の中でも、筆頭に位置付けられました。
吉野神宮は、創建が近代なのでお宮としての歴史は然程深いとはいえないものの、以上のような経緯を持つ、南朝所縁のお宮なので、昔から太平記が好きな私としては、一度は訪れてみたいお宮でした。

なお、現在の同神宮境内地は、元々は丈六山一の蔵王堂があり、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のため挙兵された大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が吉野山に陣を構えられた際、鎌倉幕府方の侍大将二階堂道蘊(どううん)に占領されて本陣になった場所、と伝えられています。

吉野神宮_01

吉野神宮_02

南朝所縁のお宮だけあって、吉野神宮の境内に鎮座する各摂社の御祭神も、やはり、後醍醐天皇にお仕えした南朝の公家や武将達です。
具体的には、藤原(日野)資朝、藤原(日野)俊基、児島範長、児島高徳、桜山茲俊、土居通増、得能通綱の7柱が、御影神社・船岡神社・瀧櫻神社の3社で、それぞれ御祭神としてお祀りされております。

吉野神宮_03

吉野神宮は、明治25年の御鎮座から僅か30年で境内が手狭となり、神域を拡張して主要な社殿も一新する事になりました。
そのため現在の社殿は、いずれも大正11年から昭和7年にかけて改築造営されたもので、特に、三間社流造りの本殿、入母屋造りで銅板葺きの拝殿、切妻造りの神門、それを取り囲む玉垣などは、昭和(戦前)の近代神社建築を代表する様式となっています。

吉野神宮_03b

吉野神宮_04

吉野神宮_05

吉野神宮_06

ところで、神社の社殿(本殿・拝殿など)は、ごく一部の例外を除いて、そのほとんどは南か東を向いて建てられるのが通例ですが、吉野神宮の社殿は、珍しく北を向いています。
これは、御祭神の後醍醐天皇が、京都への御帰還を強く熱望されながらも南朝の勢力衰退によりそれが叶わず崩御されたため、後醍醐天皇のその心情を酌んで、北、即ち吉野から見た京都方面に向けられた事に因ります。
全く同じ理由から、後醍醐天皇の勅願寺であった如意輪寺の裏山に築かれた塔尾陵(後醍醐天皇の御陵)も、皇室の墓陵の中では唯一の北向きとなっております。

下の画像は、後醍醐天皇の崩御の様子が描かれたものです。御病気が重く、最早再起は不能と御自覚された後醍醐天皇は、義良親王(後村上天皇)に譲位され、御遺勅として、南朝関係者一同に新天皇に忠義を尽くすよう命じられ、その翌日、吉野の行宮にて波瀾万丈の御生涯を閉じられました(宝算52)。

後醍醐天皇の崩御

今回私は、左右に回廊が延びる拝殿の奥にある幣殿(下の写真の看板では便宜的に本殿と書かれていますが)に昇殿し、そこで玉串拝礼もさせて頂きました。
具体的には、「修祓、玉串拝礼、塩湯で祓い」という次第で、白衣・白袴の年配の神職さん(狩衣や格衣などは着装されていませんでした)が立礼にて御奉仕して下さいました。 本殿の間近という事もあって、更に御祭神の御神威を感じ、とても厳粛な気持ちになりました。

吉野神宮_07

太平記によると、後醍醐天皇は「たゞ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)玉骨は仮ひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という鬼気迫るお言葉を遺されて、左手には法華経の五巻を、右手には御剣を持って崩御されたとあり、その最期の御様子からも、只管北天を望まれる天皇の激烈なる御気迫が伝わってきます。
まして、前出のように御自分でその想いを「妄念」と仰せられるくらいですから、私としては、吉野神宮には後醍醐天皇のその妄念や御無念の想いが今なお滞留し、失礼ながら、どこかおどろおどろしい陰気な雰囲気が漂っているお宮なのかな、という気もしていたのですが、実際にお参りしてみると、その思いとは正反対で、実に明るく清々しい、開放的な雰囲気のお宮でした。

その吉野神宮の代表的な御利益(御神徳)は、厄除け、合格祈願、病気平癒、家内安全との事です。
幾多の艱難辛苦を重ねられながらも、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権を打倒すべく精力的に活動された御醍醐天皇の芯の強さは、参拝者にも厄除けなどの恩恵をもたらすといい、また近年は、心の浄化にも効果があると云われているそうです。
崩御から六百数十年という長い時を経て、後醍醐天皇の妄念も、今はもうすっかり浄化されたのかもしれません。


ちなみに、南朝関係のスポットとしては、今回訪問の吉野神宮以外だと、私は過去に以下の社寺や関連史跡等を訪れています。

【平成27年1月】
生前は敵対関係にあった楠木正行・足利義詮両名の菩提寺である、京都の嵯峨野にある宝筐院
南朝の重鎮として活躍した北畠親房・顕家父子をお祀りする、大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社
【平成25年11月】
太平記での代表的なエピソードのひとつ「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、大阪府島本町にある櫻井驛跡
【平成23年6月】
後の南朝の有力武将となる新田義貞が、ここから海岸に沿って鎌倉へ討幕の軍勢を進めたと伝わる、鎌倉市南西部の稲村ヶ崎
後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕に多大な貢献をした護良親王をお祀りする、鎌倉市二階堂に鎮座する鎌倉宮。
【平成14~15年】
大楠公とも称される楠木正成をお祀りする、神戸市中央区に鎮座する湊川神社
小楠公とも称される楠木正行をお祀りする、大阪府四條畷市に鎮座する四条畷神社。


下の写真は、吉野神宮の境内に立てられていた、建武中興十五社の案内看板です。

吉野神宮_08


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阿部野神社と北畠親房・北畠顕家

先週、1泊2日で、大阪・堺方面を旅行して来た際、大阪市阿倍野区北畠の閑静な住宅街の一画に鎮座する阿部野神社を参拝・見学してきました。
この神社は、南北朝時代に南朝の有力な公卿・武将として活躍をした北畠親房(きたばたけちかふさ)と、その子の顕家(あきいえ)の二柱を御祭神としてお祀りする神社で、南北朝時代に強い関心を抱いている私としては、以前から一度訪れてみたい神社のうちの一社でした。

ちなみに同神社は、今年1月20日の記事で詳しく紹介した、建武の新政に尽力した天皇・皇子・公家・武将等をお祀りする神社によって平成4年に結成された「建武中興十五社会」に所属しており、また、それとは別に、近畿を中心とした121の社寺により平成20年に結成された「神仏霊場会」(その後151の社寺に拡大)にも所属しています。

以下の写真4枚は、いずれも私が今回の参拝・見学の際に撮影してきた、阿部野神社の境内と社殿の様子です。
職員が沢山いるような雰囲気の神社ではありませんでしたが、その割には境内の掃除は行き届いており、全体的に綺麗に整備されている神社でした。

阿部野神社_01

阿部野神社_02

阿部野神社_03

阿部野神社_04


以下の鉤括弧内(緑文字)は、阿部野神社で頂いてきた、同神社の由緒略記に書かれている「御祭神の由緒」です。北畠親房・顕家親子の経歴や功績などがまとめられています。

北畠親房公は、第六十二代村上天皇の皇子、具平親王の子息である師房が源の姓を賜ったことに始まる村上源氏の血筋を引く方でございます。
親房公は、当時の学識の高い貴族である吉田定房・万手小路宣房と並び「後の三房」と称された一人です。
また後醍醐天皇の皇子である世良親王の養育係を仰せつかったことからも、殊に天皇のご信任が厚かったといわれております。
建武の新政下では、鎮守府将軍となった御長子の顕家公と共に義良親王を奉じて奥州へ下向されます。その後、足利尊氏謀叛による二度目の京都攻めのため、後醍醐天皇が吉野御潜幸をされると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力されました。
後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論の一つである「神皇正統記」を著し、それ以外にも「職原抄」・「二十一社記」などを著して官職の本義や神社の意義を明らかにされました。
厳しい戦況下にあって親房公は、我が国の歴史と伝統を明らかにして、大義を説き、道義を教えた数多くの著述は、後世の人々に深い感動を与え、日本思想史上に大きな足跡を残しました。
興国四年(一三四三)、親房公は吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、一度は京都を回復しましたが、再び京都を脱出して賀名生にうつられました。その後も国家中興に挺身されましたが、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられました。御年六十二歳でした。

北畠顕家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三三三)八月、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、同十月、父親房公と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、陸奥はたちまちにその威風に靡きました。
延元元年(一三三六)、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功いたします。この功績により顕家公は鎮守府大将軍の号を賜ることになり、再び奥州に戻られました。
しかし、勢力を盛り返した尊氏が、兵庫の湊川で楠木正成公を破って京都を占領し、後醍醐天皇が吉野に御潜幸されると、延元三年(一三三八)京都回復のため精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し、鎌倉を落としたあと、美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いにおいては北朝方を破りましたが、同年三月十六日、摂津での戦いに惜しくも敗れられてしまい、顕家公は一時撤退を余儀なくされ、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠りました。
やがて五月十六日、賊将高師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、顕家公率いる官軍は進撃して、数刻にわたり激戦を繰りかえしました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げる結果となってしまったのです。御年二十一歳でございました。

また、顕家公は戦死される一週間前に、後醍醐天皇へ「上奏文」を送っておられます。その内容は
一 地方機関を通じて非常時に備えること
一 諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること
一 官爵登用を重んじること
一 公卿や僧侶の朝恩を定めること
一 臨時の行幸及び宴飲をやめること
一 法令を厳にすべきこと
一 政道に益無き愚直の輩を除くこと
の七箇条から成ります。
この「上奏文」は、顕家公の卓越した政治理念を知ることのできる資料として今日に至るまで高く評価されております。


北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」という言葉で始まる、親房の代表的な著書である神皇正統記をまず連想する方も多いのではないかと思いますが、この「御祭神の由緒」の中でも、やはり神皇正統記について触れられています。あくまでも“触れられている”というだけで、特に詳しい解説はありませんが。
江戸時代になってから水戸学と結びついた神皇正統記は、明治以降の皇国史観にも強い影響を与えており、その件についてはいずれこのブログでも、改めて詳しく取り上げてみたいと思っております。

そして、この「御祭神の由緒」を一読して、私が「やはりな」と思ったのは、楠木正成に対しては「公」という敬称が付けられ「楠木正成公」と称しているのに対して、高師直に対しては、わざわざ名前の前に「賊将」という言葉を付けた上で「賊将高師直」と呼び捨てにしている事です。このあたりは、当然の事ながら、この神社はやはり南朝史観の立場に立っているのだなという事を実感させられます。
ただ、その割には「建武の中興」ではなく「建武の新政」と書いていたり、また、高師直が賊将であるならその親玉である足利尊氏も当然賊将になるわけですが、尊氏に対しては、謀反を起こした、という程度の説明しかなく、特に必要以上に貶めるような記述は無いので、南朝の公卿・武将をお祀りする神社としての公の立場は堅持しつつも、意外と冷静な態度をとっているのかなとも感じました(あくまでも私が勝手にそう感じただけです)。


ところで、どうしてこの地に北畠父子をお祀りする神社が創建されたのかというと、それは、当地が北畠顕家が足利軍と戦った古戦場の近くであり、その近隣(現在の阿部野神社の御旅所)には顕家のお墓として伝えられている墓碑があった事に由来します。
顕家の墓所の存在がきっかけとなって、明治11年2月、近隣住民より、顕家をお祀りする神社を創建しようという運動が起こり、当時の政府もこれを受けて明治14年1月、御祭神を北畠顕家とその父である親房の両神とする事を決定したのです。
下の画像は、その顕家の肖像画です。いかにも“武装した青年公卿”という感じの、なかなか優雅な出で立ちです。

北畠顕家

つまり、阿部野神社の御祭神の序列としてはまず父親である北畠親房、次いで息子の北畠顕家、という順なのですが、神社創建のきっかけとなったのは親房ではなく顕家の故事であり、親房は、顕家の父親であった事から結果的に一緒にお祀りされる事になった、といえます。
こういった経緯を経て、明治15年1月24日、同神社は阿部野神社と号して別格官幣社に列せられ、同18年5月28日に創立され、同23年3月31日に鎮座祭が斎行されました。ちなみに、平成2年には、神社の御鎮座百年祭が行われました。

社殿は、昭和20年3月の空襲で一旦焼失しましたが、その後再建され、現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。
春季大祭は顕家の忌日に当たる5月22日、秋季大祭は親房の忌日に当たる10月18日で、現在、同神社の両御祭神は、勇気の神、知恵の神、学問の神として多くの崇敬を集めています。
下の写真は、阿部野神社の境内に立てられている「北畠顕家公像」と、その像の台座脇に立つ、顕家を称える歌詞の看板です。ちなみに、私が見た限り、境内に親房の像は無いようでした。

阿部野神社_05

阿部野神社_06


ところで、平成3年に放送されたNHK大河ドラマ「太平記」では、北畠親房役を近藤正臣さんが、顕家役を後藤久美子さんが演じていました。
顕家は美少年であったと云われている事から、当時“国民的美少女”と持て囃されていた女性アイドルの後藤久美子さんが顕家役に抜擢されたようですが、男性の役を女性が演じるというこのキャスティングには、私は昔も今も疑問を感じています。

北畠親房・顕家(大河ドラマ太平記)

何年か前、たまたまテレビで見たバラエティ番組の中で、昭和53年から55年にかけて放送された、堺正章さん主演のテレビドラマ「西遊記」の事が話題になっていたのですが、その番組の中である芸人さんが、三蔵法師は本当に美しい女性だ、あのドラマを見ていた当時の自分は三蔵法師に惚れていた、といった内容の発言をし、周りの芸人さん達から、「いや、本当の三蔵法師は男だから!」と突っ込まれて、その芸人さんが「えぇっ!そうだったの!」と驚くシーンがありました。ドラマの中では三蔵法師の役は女優の夏目雅子さんが演じていたため、実在もしくは原作に登場する三蔵法師も女性なのであろうとずっと誤解をしていたようでした。
こういった無用な誤解を招く事もありますし、誤解まではしなくても元の人物に対してイメージがかなり改変されてしまう(無意識のうちに勝手に中性的な人物だったのだろうと思い込んでしまう)事もあるので、宝塚歌劇のような例外を除くと、元の人物とその人物を演じる役者の性別はやはり一致させるべきだと思います。


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太平記所縁の地 稲村ヶ崎

今から3年程前、鎌倉を旅行した際に、太平記所縁の地である稲村ヶ崎を訪ねました。

稲村ヶ崎は、鎌倉市南西部の由比ヶ浜と七里ヶ浜の間に位置する、相模湾に突き出た岬で、鎌倉幕府を攻め滅ぼさんとする新田義貞が、この岬から海岸に沿って鎌倉に軍勢を進めようとするものの、波打ち際が切り立った崖となっていたためそれが出来ず、そのため義貞が、潮が引く事を祈念しながら太刀を海に投じて龍神に奉納すると潮が引いて海岸が干潟となり、そこから一気に鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼした、という、太平記でも特に有名なエピソードのひとつの舞台となった伝説地です。

新田義貞

稲村ヶ崎_01

稲村ヶ崎_02

「史蹟 稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」と刻まれた石柱や、稲村ヶ崎での義貞の伝説を記した石碑、明治天皇御製(明治天皇が義貞について詠まれた歌)が記された石碑なども立っていました。
太平記が好きな私にとって、ここは前々から一度は訪ねてみたいと思っていた場所でした。

稲村ヶ崎_03

稲村ヶ崎_04

稲村ヶ崎_05

稲村ヶ崎からは、江の島や、江の島と本土を結ぶ江ノ島大橋もはっきりと見えました。
江の島は、鎌倉の西隣の街・藤沢市にある、周囲約4km、標高約60mの陸繋島(砂州によって陸続きになった島)で、鎌倉と共に湘南を代表する一大観光地として全国的に知られています。

稲村ヶ崎から望む江の島


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南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする神社

3年程前に鎌倉を旅行した際、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王を御祭神としてお祀りする鎌倉宮を参拝・見学してきたのですが、その時に同宮の授与所で受けてきたのが、この冊子「建武中興六七〇年記念 南朝関係十五神社巡拝案内記 -附・十五社御朱印帳-」です。奥付によると、発行は平成15年12月15日です。

南朝関係十五神社巡拝案内記

巻尾の御朱印帳も含めて全84ページ(そのうち各神社の紹介ページはカラー)の冊子で、以下は、この冊子の冒頭にある「はじめに」のページに記されている、建武中興十五社会の会長挨拶です。これを読むと、この冊子の発行された趣旨がおおよそ分かります。

後醍醐天皇を御祭神とする吉野神宮をはじめ、建武中興関係の十五神社が相諮(あいはか)り、建武中興の精神を体して、わが国体の発揚に尽瘁(じんすい)することを目的として、平成四年に「建武中興十五社会」が結成された。当会では、明年三月十三日を以って、建武改元の日から数えて六七〇年を迎えることから、建武中興の偉業を偲び、その意義を改めて想い起こすと共に、これの宣揚を図るため、祭典及び事業を行うこととなった。
「建武中興」、その言葉は、戦後教育制度の偏向によってか、今日では教科書からも消え、「建武の新政」に言い替えられたようである。
「建武中興」とは、第九十六代後醍醐天皇が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を皇祖とする天皇を中心として形成する国家、「神国」の本義をふまえ、延喜・天暦の御代にならって、天皇親政の理想国家を実現されようとした功業(こうぎょう)である。単に後醍醐天皇が新しい政治改革をされたというだけではない。
しかし、後醍醐天皇により一旦はなった建武中興も、足利尊氏の謀反により中断の已むなきに至るが、その度同天皇の崩御の後も、御遺志を継がれた天皇、皇子達を中心に、幾多の忠臣義士が、その国家中興の理想実現のため、一族一門を投げうって幕府政治と闘った。その歴史には、まことに尊いものがある。そして多くの苦難と犠牲を伴い、ようやく五百余年の歳月を経て、明治維新を迎え、王政復古となったのである。明治天皇の鴻業(こうぎょう)が、近代日本国家建設の重要な基盤となったことを想うとき、建武中興の深くて尊い意義を思わずにはおれないのである。
戦後わが国の姿は一変した。教育の荒廃は日本人の心まで変えた。翻って国の肇(はじ)めに立ち返り、わが国体の本義を深く認識すべきである。
こんな秋(とき)において、建武中興六七〇年という節目を迎えた。建武中興の偉業を偲び、一人でも多くの人に、本誌を手に十五社を御参拝願い、朱印を受けられつつ、御神徳にふれて戴きたいと願う次第である。
(後略)
平成十五年十二月
建武中興十五社会 会長 寺井種伯


建武中興(建武の新政)から丁度670年経つ事を記念して、後醍醐天皇を始めとする南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする、特に南朝に所縁の深い神社15社が集まって「建武中興十五社会」を結成し、その記念事業として、また、建武中興の啓発事業として、祭典や各種の事業(その事業のひとつにこの冊子の発行も含まれていたのでしょう)を行なうという事らしいです。
なお、その15社とは、北は福島県から南は熊本県に至る、以下の各神社です。

① 吉野神宮
主神 … 後醍醐天皇
旧社格 … 官幣大社
鎮座地 … 奈良県吉野郡吉野町吉野山3226

② 鎌倉宮(大塔の宮)
主神 … 大塔宮 護良親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 神奈川県鎌倉市二階堂154

③ 井伊谷宮(新宮さん)
主神 … 宗良親王(一品中務卿宗良親王)
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 静岡県引佐郡引佐町井伊谷1991-1

④ 八代宮(将軍さん)
主神 … 懐良親王
配祀 … 良成親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 熊本県八代市松江城町7-34

⑤ 金崎宮(親王さん)
主神 … 尊良親王、恒良親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 福井県敦賀市金ケ崎町1-1

⑥ 小御門神社(文貞公)
主神 … 贈太政大臣 藤原師賢公(文貞公)
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 千葉県香取郡下総町名古屋898

⑦ 菊池神社(新宮さん)
主神 … 贈従一位 菊池武時公、贈従三位 菊池武重公、贈従三位 菊池武光公
配祀 … 贈従三位菊池武政命 以下二十六柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 熊本県菊池市大字隈府1257

⑧ 湊川神社(楠公さん)
主神 … 楠木正成公(大楠公)
配祀 … 楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿
摂社 … 甘南備神社御祭神(大楠公夫人)
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 兵庫県神戸市中央区多門通3-1-1

⑨ 名和神社
主神 … 伯耆守従一位 源朝臣名和長年公
配祀 … 御一族以下四十二柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 鳥取県西伯郡名和町名和556

⑩ 阿部野神社(阿部野さん)
主神 … 北畠親房公、北畠顕家公
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 大阪市阿倍野区北畠3-7-20

⑪ 藤島神社(藤島さん)
主神 … 新田義貞公
配祀 … 新田義宗卿、脇屋義助卿、新田義顕卿、新田義興卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 福井県福井市毛矢3-8-21

⑫ 結城神社(結城さん)
主神 … 結城宗広卿
配祀 … 結城親光朝臣一族殉難将士
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 三重県津市大字藤方2341

⑬ 靈山神社(官幣社)
主神 … 大納言 北畠親房卿、陸奥大介・鎮守府大将軍 北畠顕家卿、陸奥介・鎮守府将軍 北畠顕信卿、陸奥國司 北畠守親卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 福島県伊達郡霊山町大石字古屋舘1

⑭ 四條畷神社(小楠公さん)
主神 … 楠木正行卿
配祀 … 楠正時朝臣以下二十四柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 大阪府四條畷市南野2-18-1

⑮ 北畠神社(国司さん)
主神 … 北畠顕能卿
配祀 … 北畠親房卿、北畠顕家卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 三重県一志郡美杉村上多気1148


実際には、上記の15社以外にも、南朝の天皇・皇族・武将をお祀りしている神社はあるので、この15社が南朝に所縁のある神社全てというわけではありませんが、この15社が、特に代表的な南朝系の神社である事は確かです。15社共、旧社格はいずれも官幣社ですし。

ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。


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