この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

北朝の天皇・皇族・公家・武家

今上陛下の御即位と、時代によって変化が生じる歴代天皇代数

上皇陛下(先月までの「平成」の御代に於ける天皇陛下)は、先月末日、今上天皇のお立場としては江戸時代後期の光格天皇以来約200年ぶりに御譲位遊ばされ、畏くも新帝陛下(先月までの「平成」の御代に於ける皇太子殿下)が受禅なされて、今月1日「第126代天皇」の御位に就かれ、それに伴い元号も「平成」から「令和」に改元されました。
御譲位は、近代以降(憲政史上)では前例の無い事でありましたが、践祚の諸儀式や改元が恙なく行われ、新しき「令和」の御代を迎える事が出来ました事、謹んでお慶び申し上げます。

天皇皇后両陛下

我が国は長い歴史の中で、政権を担う政体は朝廷や摂関家、幕府、内閣など幾度も変遷を続けてきましたが、世界の王室には類の無い万世一系の皇統によって、皇位は初代・神武天皇からただの一度も途切れる事なく連綿と現在に継承されており、時の政権の最高責任者(摂政、関白、太政大臣、征夷大将軍、内務卿、内閣総理大臣など)はいずれも天皇から任命(大命降下)される事でその正当性が保障され、天皇の権威によって、国民はその御高恩に畏敬と感謝の念を捧げつつ、歴史・伝統文化を築き上げてきました。

このような世界に冠たる誇りある天皇・皇室を戴く日本に生を受けました事と、御即位より30年の長きに亘って「平成」の御代を常に私達国民と共に歩まれた上皇陛下の御厚恩に深く感謝し、そして、新帝陛下の御代「令和」の隆昌、皇室の弥栄、我が国の安寧を、令和元年がまだ幕開けして間もない本日、改めて心より祈念申し上げます。

奉祝幟


ところで、私は今回の記事の冒頭で、新帝陛下は「第126代天皇」であると記しましたが、この代数(126という具体的な数字)については、誤解を恐れずに言えば、誠に畏れ多い事ながら私は格別に重要なものであるとは認識していません。神武天皇の御代から現在に至るまで、御歴代(皇統譜に記されている正統な歴代天皇)が一貫して不変であるのなら、それはとても重い意味があるものであろうとは思いますが、現実には、歴代天皇代数は後世の判断(天皇御自身による勅裁、という形を採りつつも実際には時の政府の決定)によってあっさりと変更されるからです。

例えば、北朝の5天皇(光厳天皇・光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇)は、いずれも天皇として即位されていた事実があり、実際、我が国では数百年間に亘ってずっと正統な天皇として扱われてきましたが、帝国議会で南北朝正閏問題が大きく取り上げられた明治44年、明治天皇の勅裁によって、これら北朝の5天皇は正統から外され、代わって、南朝の義良親王と熙成親王が正統な天皇と認定され、これら南朝の2天皇は、それぞれ「後村上天皇」「後亀山天皇」として、新たに御歴代に加列されました。
以下の画像2枚のうち、1枚目が後村上天皇、2枚目が後亀山天皇の肖像と伝わるもので、現在はそれぞれ第97代と第99代の天皇とされています。
ちなみに、南北朝正閏問題(南北朝正閏論争)については平成26年5月4日の記事の中で解説させて頂きましたので、興味のある方はそちらの記事も併せて御一読下さい。

後村上天皇

後亀山天皇

もっとも、「明治天皇の勅裁により」とはいっても、紛うことなき北朝の御子孫であられる明治天皇が、本当にこのように北朝を否定する御見解を示されたのか、そもそも明治天皇御自身は南北朝正閏についてどのように考えておられたのか、という事は、実はよく分りません。この勅裁については「明治天皇記」に記されているのですが、同記は当時の宮内省が勅旨を奉じて編修した明治天皇の伝記(実録)であり、そういった公式記録は政府の決定を追認しているため、仮に天皇御自身の本音が逆であられたとしても、それがそのまま記される事は無いからです。
「明治天皇記」には、この時の枢密院会議について「明治天皇御欠席」と書かれているため、その一事を以て、明治天皇なりの御抵抗であったのではないか(つまり、南朝のみを正統とする勅裁に、明治天皇は内心では反対されていたのではないか)、と推察する解釈も一部にはあります。

ちなみに、第二次大戦直後に日本各地に現れた、「我こそが正統な天皇である」などと自称した輩(今で言う所謂“電波系”の人達)の中で、最も有名なのは、「熊沢天皇」こと熊沢寛道ですが、彼は、後述する後南朝の西陣南帝の子孫であると称しており、彼以外にも自分は南朝の子孫であると吹聴した“自称天皇”達は何人もいましたが(一部の支持者がいただけで、当然、世間の大半からはほとんど相手にされませんでした)、彼らの多くは、明治天皇のこの勅裁(南朝が正統とされた事)を受けて、南朝や後南朝の子孫であると主張していました。

そして、大正15年、今度は大正天皇の勅裁(実際には、当時大正天皇の摂政であった、後の昭和天皇による裁定)により、南朝の寛成親王が「長慶天皇」として、新たに御歴代に含まれました。
寛成親王については、明治44年に南朝が正統であると公認された後も、即位の是非については意見が分かれていたのですが(本当に即位されて天皇になっておられたのか、ずっと分らなかったのです)、高野山に納められていた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名がある事などから即位が確認されたとして、崩御から約530年も経ってから、正統な天皇(第98代天皇)と認められたのです。

ちなみに、私は今回の記事の冒頭で、この度の御譲位について「江戸時代後期の光格天皇以来約200年ぶり」と記しましたが、上皇陛下や今上陛下に於かれましては直系の御先祖様であられるその光格天皇が署名された「神武百二十世」では、歴代天皇は北朝を正統とする代数で数えられており、現在正統とされている南朝の天皇は、逆に“存在しなかったもの”として無視されています。
南北朝時代が終わって以降の歴代天皇・皇室・朝廷は、歴史的にはいずれも北朝の延長であるため、その北朝の正統性を疑うなどという“不敬”な発想は、江戸時代に水戸藩主の徳川光圀が南朝を正統とする「大日本史」を編纂するまでは、ほぼ全く出てこなかったのです。


さて、ここまでは南北朝時代の天皇についての、後世に於ける正統性の評価の変遷を紹介しましたが、それ以外の時代の天皇についても、やはり御歴代には変更は生じており、当然、それに伴い歴代天皇の代数も変わってきています。
例えば、三韓征伐などで有名な神功皇后(第14代・仲哀天皇の皇后)は、明治時代以前は天皇(皇后の臨朝)であったとみなされる事が多く、神功皇后を第15代の帝、初の女帝などと記した史書も多数あったのですが、前出の「大日本史」が採った立場に基づいて、大正15年の皇統譜令施行以降、神功皇后は御歴代から外されてしまいました。
そのため、現在、神功皇后は歴代天皇のおひとりとはされていません。仲哀天皇が崩御されてから、実子である皇太子の誉田別尊(現在は第15代の天皇とされている応神天皇)が即位されるまで、摂政として直接政事を執り行っていたものの、崩御から1600年以上の時を経て、正式に「天皇には即位されていなかった」という扱いになったのです。

また、古代日本最大の内乱「壬申の乱」で、大海人皇子(後に第40代・天武天皇として即位)に敗れた大友皇子は、天皇とはみなされていませんでしたが、やはり「大日本史」が採った立場に基づいて即位が確認されたという事になり、明治3年、崩御から約1200年も経って「弘文天皇」の諡号が追諡され、第39代天皇とされました。但し、現在では即位されていなかったとする説が有力なのですが。
それ以外の事例としては、「恵美押勝の乱」の後、恵美押勝(藤原仲麻呂)と関係が深かった事を理由に孝謙上皇によって廃位され淡路国へと配流された「淡路廃帝」は、明治3年に「淳仁天皇」の諡号を追諡されて、第47代天皇とされました。
また、「承久の乱」の後、当時まだ幼帝であったにも拘わらず、乱の責任の一端を取らされる形で鎌倉幕府によって廃位され、摂政・九条道家の邸宅へと引き渡された「九条廃帝」(御在位は僅か78日で、御歴代の中では最も在位期間が短かった天皇です)も、やはり明治3年に「仲恭天皇」の諡号を追諡されて、第85代天皇とされました。


ですから私は、今上陛下が「第126代」という代数の天皇であられる事は、この先数十年経っても変わる事はないであろうとは思うものの、数百年という長いスパンでみると、以上のような“御歴代の変遷”という数々の前例からも、その時の世論・歴史観やそれを受けた政権の意向などによって、歴代天皇の代数に変更が生じるという可能性は否定出来ないと思います。

ちなみに、日本の歴史に於いて、もしかすると天皇として即位されていたかもしれない、もしくは、即位はされていなくても天皇に準じる立場であった、と推察される方々の御名の一部を、以下に列記します。もしかすると遠い将来、これらの中のどなたかが、天皇としての諡号を追諡され、新たに歴代天皇のおひとりとして加列される事があるかもしれません。

【 日本武尊 】 熊襲征討や東国征討などを行った事で有名な、日本古代史上の伝説的英雄。第12代・景行天皇の皇子で、第14代・仲哀天皇の御父に当たります。駿河で野火攻めに遭った時、三種の神器のひとつである草薙剣で草を薙ぎ払って難を逃れたというエピソードも有名です。記紀では皇位に即いたという記録はありませんが、常陸国風土記に於いて「倭武天皇」、阿波国風土記に於いて「倭健天皇」と記す例が見られます。
【 菟道稚郎子 】 第15代・応神天皇の皇子(日本書紀に於いては皇太子)で、第16代・仁徳天皇の異母弟。古事記には単に「夭折」と記されているのみですが、日本書紀によると、実父である応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられるものの、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るため自殺されたとされています。播磨国風土記に於いて「宇治天皇」と記す例が見られます。
【 市辺押磐皇子 】 第17代・履中天皇の皇子で、第23代・顕宗天皇や第24代・仁賢天皇の御父。第20代・安康天皇は皇位を継承させようとしていましたが、それを良く思っていなかった従兄弟の大泊瀬皇子(後の第21代・雄略天皇)に狩猟に誘い出され、猪と見間違ったふりをして射殺されてしまったと云われています。播磨国風土記に於いて「市辺天皇」と記す例が見られ、実際に天皇に即位していた可能性が指摘されています。
【 飯豊青皇女 】 第17代・履中天皇の皇女で、第22代・清寧天皇の崩御後、第23代・顕宗天皇と第24代・仁賢天皇がお互いに皇位を譲り合っている間、女帝として政務を行っていたとされています。記紀では天皇として認められていませんが、扶桑略記や本朝皇胤紹運録に「飯豊天皇」、先代旧事本紀大成経に「清貞天皇」と記す例が見られます。明治時代以降、宮内省は「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」とし、現在の宮内庁も、やはり御歴代には含めていないものの「飯豊天皇」と称しています。
【 聖徳太子 】 第31代・用明天皇の第二皇子で、現在認定されている歴代天皇のなかでは初の女帝とされている第33代・推古天皇の摂政。冠位十二階や十七条憲法などを制定して天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図り、また、当時の中国の王朝である隋へ小野妹子を派遣し国交を開き大陸文化導入に努め、国史の編纂も行ない、更に仏教興隆にも尽力して、法隆寺や四天王寺を建立するなど、数多くの業績を残しました。日本書紀に於いて「豊聡耳法大王」「法主王」などと記す例が見られます。
【 間人皇女 】 第34代・舒明天皇の皇女で、第36代・孝徳天皇の皇后。第37代・斉明天皇が崩御されてから、第38代・天智天皇が即位されるまでの間、皇位に即いていたとする説があり、万葉集での「中皇命」は間人皇女の事であるとも云われています。
【 塩焼王 】 第40代・天武天皇の皇孫で、第45代・聖武天皇の女婿。孝謙上皇に対して太師(太政大臣)の恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした叛乱「恵美押勝の乱」勃発時、淳仁天皇(前出の淡路廃帝)を連れ出せなかった恵美押勝によって新たな天皇として擁立され「今帝」を名乗りました。このため、一時、二つの朝廷が並立しましたが、孝謙上皇が派遣した討伐軍と近江国で交戦した際、塩焼王も恵美押勝と共に敗死されました。
【 恒良親王 】 第96代・後醍醐天皇の皇子のひとりで、後醍醐天皇によって北陸へ派遣される際に皇位と三種の神器を譲られ、北陸で新田義貞・義顕父子に奉じられました。天皇の命令書である「綸旨」を発給するなど、実際に天皇として活動されていましたが、後に後醍醐天皇が吉野で南朝を開かれ、御自身のみが正統な天皇であり退位もしていなかったと宣言した事により、恒良親王への譲位は“無かった事”にされました(恒良親王に譲られた三種の神器もニセモノであったとされました)。
【 懐良親王 】 第96代・後醍醐天皇の皇子のひとりで、南朝方の征西将軍として肥後国隈府(現在の熊本県菊池市)を拠点に勢力を広げ、九州に於ける南朝方の全盛期を築きました。当時の中国の王朝である明の皇帝・太祖から「日本国王」の冊封も受けたため、後に足利義満が明の皇帝・建文帝から新たに「日本国王」の冊封を受けるまで、明側の認識では懐良親王こそが日本国王であり、そのため義満も当初は、明から外交関係を結ぶ相手と認識されず苦労する事になりました。
【 金蔵主 】 嘉吉3年(1443年)9月に後南朝の初代天皇「中興天皇」として即位したと伝えられています。第99代・後亀山天皇の皇子、もしくは小倉宮良泰親王(後亀山天皇の皇子)の子、あるいは護聖院宮惟成親王(後亀山天皇の弟)の孫、などとも伝わっており、出自についてはよく分っておりません。
【 尊秀王 】 後南朝の第2代天皇とされています。地元住民の間には「自天王」の名が伝えられ、呼び名としてはそちらの方が有名です。
【 南天皇 】 後南朝の第3代天皇とされています。
【 西陣南帝 】 応仁の乱の際、西軍大将の山名宗全により洛中の西陣に迎え入れられて擁立された南朝の皇胤で、後南朝最後の天皇。宗全の没後、東軍と西軍は和議に向かい、更に足利義視が西陣南帝の擁立を快く思っていなかった事もあって、西軍から放擲されてしまい、これ以降、後南朝は歴史上に現れなくなりました。
【 北白川宮能久親王 】 当時幼君であられた明治天皇を奉じる薩長を中心とした新政府に対抗するために結成された奥羽越列藩同盟が「東武皇帝」として推戴されたと云われています。当時のアメリカ公使も本国に対して、「今、日本には二人のミカドがいる」と伝えており、当時の新聞にも同様の記事が掲載されました。戊辰戦争後は蟄居を申し付けられ親王の身分も解かれますが、明治2年に処分を解かれ、伏見宮に復帰した後、北白川宮家を相続されました。日清戦争後は、日本に割譲された台湾の征討近衛師団長として出征し、台湾平定(乙未戦争)の英雄とされ、台湾で薨去された後、陸軍大将に昇進し日本で国葬が執り行われました。幼くして都から遠く離れた江戸で僧侶(寛永寺貫主・日光輪王寺門跡)として過ごし、一時は“朝敵”の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定に尽力され、異国の地で不運の死を遂げられたという御生涯から、当時は日本武尊に例えられて讃えられました。下の写真は、その北白川宮能久親王です。

北白川宮能久親王

また、皇族以外で、天皇に準ずる立場にあった者としては、以下のような人達もいました。万世一系という皇統の揺るぎない大原則から、さすがにこういった人達が御歴代に含まれるという事は、今後もまず無いであろうとは思いますが。

【 蘇我馬子 】 3代の天皇(第31代・用明天皇、第32代・崇峻天皇、第33代・推古天皇)の外祖父として絶大な権勢を振るい、蘇我氏の全盛期を築いた大臣。皇室(大王家)とは二重三重の縁戚ではあったものの、皇族ではなくあくまで人臣でしたが、そうであるにも拘わらず蘇我氏の邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、自ら「宮家」を名乗り、自分の子を「皇子」と称しました。
【 弓削道鏡 】 女帝であった孝謙上皇(第48代・称徳天皇)から寵愛を受けた僧侶で、上皇の引き立てにより「法王」に就任し天皇に準ぜられました。皇族では無いので、あくまでも「法王」であり、「法皇」ではありませんでしたが、後世の史書に於いては「弓削法皇」という表記も見られます。明治時代から戦前・戦中にかけては、当時の皇国史観から、天皇の座を脅かした極悪人と評価され、次項で紹介する平将門や、このブログで度々取り上げてきた足利尊氏と共に「日本三悪人」のひとりとされました。
【 平将門 】 平氏の姓を授けられた高望王の三男・平良将の子で、第50代・桓武天皇の5世子孫。下総国や常陸国に広がった平氏一族の抗争から、関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、八幡大菩薩(八幡大神)の神託を得て「新皇」に即位しました。信望があり現地の人達からは尊敬されたと云われていますが、当今である第61代・朱雀天皇に対抗して新皇(新しい天皇)を名乗って関東に独立政権を築いた将門は、朝廷から見れば謀反人でしかなく、追討軍が派遣され“朝敵”として征伐されました。
【 足利義満 】 室町幕府第3代将軍。征夷大将軍として武家の、太政大臣や准三后(皇后・皇太后・太皇太后に準じた待遇)として公家の、両勢力の頂点に上り詰めた、日本史上有数の絶対的な権力者でした。明からは「日本国王」の冊封を受け、没後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の宣下も受けました。室町幕府はその宣下を辞退しますが、義満が建立した相国寺では受け入れたようで、同寺の過去帳には「鹿苑院太上天皇」と記されています。


畏れ多くも歴代天皇の正統性について言及した今回の記事は、もしかすると、新帝陛下の御即位と「令和」への改元で全国的に盛り上がっている奉祝ムードに水を差すような、一部不適切で不敬な内容であったかもしれませんが、私としては勿論、天皇陛下が例え何代目であられようとも、この度の践祚改元は誠にお目出度い事、慶賀の至りと思っております。
新たな大御代の弥栄をお祈り申しあげますと共に、謹んで皇統の隆昌を言祝ぎ奉ります。


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光厳天皇の髪塔

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪、京都、四国の高松方面を旅行してきました。
3日目の午前中は京都の嵯峨・嵐山地区を散策し、その際、先月8日の記事で報告したように嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という寺院を参拝・見学してきたのですが、宝筐院を見てきた後は、嵯峨野々宮町に鎮座する「野宮神社」(ののみやじんじゃ)も参拝してきました。

そして、野宮神社を参拝した後はJR嵯峨嵐山駅から京都方面行きの電車に乗ったのですが、野宮神社から嵯峨嵐山駅へ徒歩で移動中、天龍寺の山門(正門)や京福電鉄嵐山駅の直ぐ近くでたまたま見かけたのが、この「光厳天皇髪塔」です。
光厳天皇は、持明院統の後伏見天皇の第三皇子で、一般には、「北朝の初代天皇」と解されている天皇です。足利尊氏の後ろ盾を得て復権した後醍醐天皇が、光厳天皇を廃して重祚し、その後尊氏との抗争に敗れて吉野へと逃れた事によって、吉野の後醍醐天皇と、光厳上皇の院宣を受けて京都で即位していた光明天皇により南北朝の並立が始まる事から、そういった時系列を考査すると厳密には、光厳天皇ではなく光明天皇が北朝初代の天皇なのですが…。

光厳天皇髪塔_01
光厳天皇髪塔_02

光厳天皇は、鎌倉幕府によって隠岐島へと配流された後醍醐天皇が隠岐島から笠置へと出奔した事により、幕府に擁立されて、「三種の神器」無しで践祚されますが、後醍醐天皇の綸旨を受けて討幕のため挙兵した尊氏の軍勢が京都の六波羅探題を襲撃した際、探題北条仲時・北条時益らと共に東国へ逃れようとして近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。
そして、復権した後醍醐天皇により「天皇としては即位していなかったが特例として上皇待遇とする」とされて、即位の事実も否定されてしまいます。

しかし、後醍醐天皇と尊氏が決別した後は、光厳上皇は尊氏からの求めに応じて新田義貞追討の院宣を下すなどして尊氏と協調し、室町幕府が成立してからは「治天の君」として、幕府庇護の下、北朝で院政を行います。
ところが、南朝軍が京都を一時奪回した際に南朝側に拉致されてしまい、その後は南朝側の本拠地である吉野の賀名生で失意のうちに出家し、帰京を許された後は嵯峨小倉に隠凄し、世俗を断って禅宗に深く帰依します。その後、巡礼の旅に出て、法隆寺や高野山を経て再び吉野を訪れるなどし、最終的には京都の常照皇寺で崩御されました。
武家同士、朝廷内部、武家と朝廷間、それぞれの熾烈な派閥争いに否応なく巻き込まれ、南北朝動乱に翻弄される激動の人生を送られた天皇といえます…。

「光厳天皇髪塔」は、その光厳天皇の御遺髪が納めらている場所です。その名の通り本来は髪塔でしたが、いつの頃からか「塔」は無くなり、現在は「塚」となっています。
ちなみに、光厳天皇の陵墓は、崩御の地である京都市右京区京北井戸町の常照皇寺にあり、分骨所は、大阪府河内長野市天野町の金剛寺にあります。

なお、昨年4月20日の記事でも述べたように、室町時代から江戸時代中期頃までの約400年間は、現在とは異なり一般には北朝が正統と認識されており、室町時代半ばに後小松天皇の命により洞院満季が撰進した皇室系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、光厳天皇を始めとする北朝の天皇が正統な天皇として記され、北朝と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、歴代天皇としては認められていませんでした。
しかし、昨年5月4日の記事で解説したように、国定教科書の記述内容の是非をめぐって沸き起こった南北朝正閏論争により明治時代以降(今から約100年前から)は南朝が正統とされるようになり、そのため北朝は正統性が否定されて、そのまま現在に至っています。
とはいえ、北朝側の天皇も皇族である事には変わりありませんし、そもそも現在の皇室は、血統としては南朝ではなく北朝の系統でもあるので、北朝の正統性が否定されても「光厳天皇髪塔」は今も宮内庁の管理地となっており、また、宮中では現在も、光厳天皇を始めとする北朝側の天皇も皇霊殿(宮中三殿のひとつ)で、他の歴代天皇や皇族と共にお祀りされています。


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