この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

鎌倉時代・鎌倉幕府

大河ドラマ新作の主人公が、鎌倉幕府第2代執権の北条義時になると発表されました

2年後の令和4年に放送される、第61作となるNHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」というタイトルの作品となる事が、先日NHKから発表されました。
作品の詳細な内容はまだ不明ですが、主人公は、鎌倉幕府第2代の執権で北条得宗家の祖となった北条義時(下の画像は彼の肖像画)、その義時役は俳優の小栗旬さんが演じ、脚本は、「新選組!」と「真田丸」に次いで大河ドラマ3作目となる三谷幸喜さんが担当する事なども、併せて発表されました。

ちなみに、タイトル中の「13人」とは、初代の「鎌倉殿」(鎌倉幕府将軍)であった源頼朝の没後に発足した、2代目の鎌倉殿である源頼家の政権下での、集団指導体制「十三人の合議制」を構成した御家人達(義時も含まれます)を指しているそうです。
まぁ、結局その集団指導体制は、何だかんだであっという間に崩壊する事になるわけですが…。

北条義時


世間一般には、義時よりも、義時の父である北条時政(まだ一介の流人に過ぎなかった頼朝に賭けて平氏政権に反旗を翻し、頼朝最大の後援者として鎌倉幕府の成立に尽力し、幕府成立後は初代執権に就任)や、義時の姉である北条政子(頼朝の正室で、頼朝亡き後は落飾して「尼将軍」と称され、義時と共に幕政の実権を握った)のほうが知名度が高い気もしますが、あえて義時をドラマの主人公にするという事は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての大変革期(動乱)の時代が、義時からの目線で、恐らく、ほぼ1年かけて丁寧に描かれる事になるのでしょう。
という事は、まだどうなるかは分りませんが多分、ドラマ前半のハイライトは、以仁王の挙兵から壇ノ浦で平氏が滅亡するまでの所謂「源平の合戦」、ドラマ中盤のハイライトは、幕府成立後の頼朝による独裁政治(義経が討たれる所も含めて)と、頼朝没後に幕府内で行われたドロドロの権力闘争(北条氏が他の有力御家人達を粛正して幕府の実権を完全に掌握する様や、北条氏一門内でも対立が生じ時政が失脚する様など)、そして後半のハイライトは、後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げて後に “主上御謀叛” とされた「承久の乱」、という感じでしょうか。

昨年放送された大河ドラマ「いだてん」は珍しく違いましたし、過去作の一部(草燃える、太平記、北条時宗、平清盛など)にも違うものはありましたが、そういった一部の例外を除くとNHKの大河ドラマは、時代設定が「戦国時代」もしくは「幕末」のふたつの時代にほぼずっと固定されていましたから、鎌倉時代や南北朝時代など他の時代も好きな私にとって、今回発表された新作大河「鎌倉殿の13人」の放送は、今から楽しみです!

個人的にも、北条義時という人物は、昔から「ずっと気になっていた人」でした。好感の持てる人物かどうかと問われると、ちょっと微妙ではありますが(笑)。
北条政子が事実上の主人公だった、昭和54年の大河ドラマ「草燃える」(古い作品なのでさすがに私もオンエアでは見ておらず、総集編のビデオでしか見た事ありませんが)で、松平健さんの演じた北条義時が、私の中では今でも強烈に印象に残っています。
当初は、伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎず、性格も純朴で涙もろいおぼっちゃんだった義時が、権謀術数の限りを尽くして政敵を次々と追い落としていく冷徹な政治家へと変貌していき、幕府の事実上のトップに立って朝廷をも完全に制圧し、北条氏による独裁政権を築いていく様は、なかなか興味深く見応えがありました。
まぁ、一個人として性格が良かったかどうかは兎も角(笑)、義時が日本の歴史上屈指の有能な政治家・武将のひとりであった事は、間違い無いでしょうね。


義時以外にも、鎌倉幕府を支えた歴代の執権には有能な人物が多く、例えば、鎌倉幕府の基本法にして日本最初の武家法「御成敗式目」を制定し、人格的にも優れ武家・公家の双方から人望が厚かったと伝わる第3代執権で第2代得宗の北条泰時や、政敵を容赦なく潰して執権権力を着々と強化していく一方で、政敵ではない御家人達や一般民衆に対しては徹底した善政を敷いた事で後世にまで名君として伝わり、能の「鉢の木」のエピソード(廻国伝説)などでも語り継がれていった第5代執権で第4代得宗の北条時頼、得宗権力の更なる強化を図る一方で、元寇(当時世界最大の帝国であったモンゴル帝国による日本侵略)に対峙し二度に亘る元寇を退けた事で “日本の国難を救った英雄” と評された第8代執権で第5代得宗の北条時宗などは、現在も名執権として高く評価されていますが、彼らがその能力を存分に発揮出来る下地を作り上げたのは、第2代執権で得宗家の祖となった義時であったともいえます。
義時の時代に、執権が、将軍の単なる補佐役ではなく、幕府最高権力者の地位である事が確定し、更に、武家政権である幕府が公家政権である朝廷に対しても支配的な地位を持ち、幕府が事実上の全国統一政権となったわけですから。

もっとも、義時が「彼らがその能力を存分に発揮出来る下地を作り上げた」を成し得たのは、義時の父である時政が、義時に先んじてそもそもの下地を作りあげた(伊豆の一豪族に過ぎなかった北条氏を、時政が一代で、他の有力御家人達と肩を並べる幕府有力者の地位にまで高めた)事によってもたらされた成果とも言えます。
平清盛を首班とする平氏政権が全盛だったあの時代に、頼朝に賭けて平氏政権に反旗を翻したのは、時政に時勢を察知しうる優れた先見性があったからであり、時政のそういった点については、十分に評価されて良いと思います。そもそも、時政の活躍がなければ、義時が世に出る事も先ずなかったでしょう。
しかし、時政が築き上げた北条氏の権力基盤を、更に絶対的なものへと昇華させたのは、義時です。鎌倉幕府が「承久の乱」に勝利して事実上の全国統一政権になったのは、明らかに義時の手腕に因る所が大きいです。

しかも時政は、晩年、若い後妻である牧の方と共謀して(というより、首謀者はむしろ牧の方?)、畠山重忠謀殺や源実朝暗殺未遂などに関わる事となり、そのため最終的には息子である義時と娘である政子から見限られて幕府から追放され、寂しく生涯を閉じており、“晩節を汚した” という印象が否めません。
北条一門の子孫達も、「得宗家の初代は義時」と認識し、時政の存在はほぼ無視しており、清廉で知られた第3代執権の北条泰時も、頼朝・政子・義時らを幕府の祖廟として事ある毎に参詣し、彼らに対する仏事は欠かさなかったにも拘わらず、時政に対しては「牧氏事件で実朝を殺害しようとした謀反人」であるとして仏事を行わなかった、と伝わっています。
そう考えると、義時の父・時政は、自業自得とはいえ、少し可哀そうな人ではありますね…。


北条氏 略系図


ところで、朝廷と対決した人物というのは、日本の歴史上、義時以外にも何人かいます。天皇もしくは上皇から追討の勅が下されて正式に「朝敵」と認定され人物として、特に代表的な人物を挙げると、例えば義時以外では以下のような人達がいます。

藤原仲麻呂 (恵美押勝の乱を起こして孝謙上皇から政権奪取を企むも、官軍に敗れて敗死)
平将門 (朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し東国の独立を標榜した事により朝敵とされ、 討伐された)
源頼朝 (兄である頼朝と対立した義経が、後白河上皇に頼朝追討の院宣を迫り出させるが、頼朝の圧倒的な優勢により、上皇は直ぐにその院宣を取り消した)
源義経 (自分への追討の院宣を取り消させた頼朝が、逆に義経追討の院宣を出させた)
北条高時 (後醍醐天皇により朝敵とされ、一族とともに自害して果て、鎌倉幕府は滅亡するものの、後に遺児である北条時行が南朝に帰参したため、死後に朝敵を赦免された)
北条時行 (鎌倉幕府再興を掲げて「中先代の乱」を起こして建武政権と対峙したため、後醍醐天皇から朝敵とされたが、後に南朝に帰参したため、朝敵を赦免された)
楠木正成 (南北朝の戦いは北朝の勝利で終わったため、北朝や足利氏との戦いで討死した者達は正成も含め全て朝敵とされたが、永禄2年、正成の子孫を称する楠木正虎の嘆願により、正親町天皇から勅免が下され、正成は正式に朝敵から外された)
武田勝頼 (織田信長が朝廷を動かして、武田家当主の勝頼を朝敵とした)
徳川慶喜 (薩長らの倒幕勢力が朝廷を動かして慶喜追討令を出させるが、慶喜本人は朝廷への徹底恭順を示したため、後に赦免され、明治維新後、名誉を回復して従一位勲一等公爵、貴族院議員などになった)

しかし、朝廷と対決し「朝敵」という不名誉な烙印を押されてしまったこれらの人物(実際にはもっといますけど)の中で、実際に朝廷を完全に敗北させてしまった武将(実質、朝廷を倒してしまった人物)は、日本の歴史上、義時ただひとりです。
しかも追討の勅というのは、少なくとも中世以降は、朝廷の強い意思によって出される事は稀で、ほとんどの場合、時の有力な権力者が政敵を討伐する口実が必要になった時、保護下にある朝廷から引き出す形で下されたのですが、義時追討令だけは、朝廷(後鳥羽上皇)の強い意志によって出されており、それだけに、朝廷主導のその義時追討が失敗し、それによって、鎌倉幕府が京都の朝廷を出し抜いて全国的な統一政権となり、以後、武家政権が全国を支配するという政治体制が、建武の新政などの一時期の中断を除いてほぼ途切れる事なくずっと、江戸幕府が崩壊するまで続く事になるわけですから、その歴史的な意味は極めて大きいものがあります。

そして、そういった事も踏まえて考えると、前述の「一個人として性格が良かったかどうか」なんてのは、歴史上の人物の偉業を論じる際には、別にどうでもよい事なのかもしれません。
そもそも性格の話なんかをしだしたら、日本史の偉人の中で絶大な知名度を誇る源頼朝、足利義満、織田信長、晩年の豊臣秀吉なども、もし自分の身近にいたとしたら、多分あまり近づきたくはないタイプですからね(笑)。

ちなみに、歴史学者の細川重男さんは、義時について、「義時の生涯は降りかかる災難に振り回され続けた一生であった。その中で自分の身と親族を守るために戦い続けた結果、最高権力者になってしまった」 「頼朝の挙兵がなければ、一介の東国武士として一生を終えたであろう」などと評しており、個人的には、こういった評価もなかなか興味深いです。
「鎌倉殿の13人」で、その義時がどのように描かれるのか、今からとても楽しみです♪


ところで、NHKからの今回の発表を受けて、鎌倉市の松尾崇市長は、以下のように喜びのコメントを発表しています。
「鎌倉幕府の礎を築いた北条義時公が主人公となった事を大変喜ばしく思っています。また、三谷幸喜氏作と聞いており、今からとても楽しみです。今後、本市としても大河ドラマの放映と連動した取り組みを進め、鎌倉が育む歴史文化の魅力発信やシティープロモーションにつなげて参りたいと考えています。」

それに対して、小田原市の加藤憲一市長は、NHKからのこの度の発表を受けて「率直に、がっくりきた」と、露骨に失望感をあらわにしたコメントを発表しています。
小田原市は、昨年までの2年間、小田原北条氏5代、所謂「後北条」の初代である伊勢宗瑞(北条早雲)の没後500年に合わせた顕彰事業を展開しており、その一環として、所縁の市町と共に後北条氏5代を大河ドラマに取り上げるよう要望活動にも取り組んできただけに、同じ県内が舞台で、しかも同じ「北条」が選ばれた事がショックだったようで、報道によると小田原市の関係者達からは、「手応えを感じ、期待していただけに残念」「同じ北条姓で、後北条は先送りになるのではないか」「落胆せずに、また粘り強く活動していく」などの声が出ているそうです。

今回の件で、鎌倉市と小田原市が示した反応は正反対で、まさに “大河ドラマ悲喜こもごも” です…。


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鎌倉幕府の権力構造の推移についての考察

このブログでは、南北朝時代や室町時代について取り上げる事が多いですが、それらの前時代である鎌倉時代に於ける武家社会の権力構造の推移というのも、調べてみるとなかなか興味深いものがあります。

鎌倉時代の武家社会というと、中学校や高校の日本史の授業などでは、武家の棟梁として幕府を統率する将軍と、その将軍に仕える御家人達とが、「御恩と奉公」という双務的・互恵的な主従関係を築いていたと習いましたが、そのような、将軍と御家人の主従関係というのは、今の私は、あくまでも建前に過ぎなかったのではないかと思っています。
現実には、鎌倉幕府の歴代将軍の中で政治的実権を掌握していたのは初代の源頼朝だけですから、鎌倉時代の御家人達にとっての実際の奉公の対象は、頼朝が将軍だった時期を除くと、将軍という個人では無かったはずです。頼朝以外のほとんどの歴代将軍達は、御家人に対する「御恩」、即ち、本領安堵や新恩給与を行う実権を持っていなかったからです。

では、鎌倉時代の御家人達が、自分の命や一族の将来を懸けてまで「一所懸命」に奉公していた対象は何だったのかというと、それは恐らく、御成敗式目などに代表される、幕府による「法による公正な判断と処遇」だったのではないでしょうか。
だからこそ、源氏直系の将軍が僅か三代で絶えた後も、執権や得宗(北条家本家の当主)が有能な人材に恵まれ「公正な判断と処遇」が保障されていた時代は幕府が支持されて栄え、逆に、幕府を運営する執権や得宗、後述する内管領のいずれもが、有能でも公正でも無くなった鎌倉時代末期には、幕府は武家からの信頼を失い、あっさりと崩壊したのでしょう。

勿論実際には、それのみが幕府崩壊の原因ではありません。鎌倉幕府が崩壊した要因を以下にいくつか列記してみると…
元寇は、幕府の領土が拡張する性格の戦争では無く、防衛戦争であったため、元寇で身を挺して活躍した御家人達に対して幕府から恩賞として与える事の出来る土地が無かった。
そもそも鎌倉時代の家の多くは財産の相続を男女平等に、しかも全員に均等に分割していたため、土地がどんどん先細りしていき、仮に元寇が無かったとしても恩賞として土地を与え続ける体制を維持していくには限界が近付いていた。
後醍醐天皇による倒幕の執念が凄まじかった。
…なども、幕府崩壊の重要な要因のひとつとして挙げる事が出来るでしょう。しかし、賄賂が横行するなどして政治が腐敗し「公正な判断と処遇」が保障されなくなった事は、恐らくそれらの要因以上に、幕府崩壊のかなり大きな原因になったであろうと私は思っています。


それにしても、鎌倉時代の武家社会というのは、政治的実権を握る者の地位がどんどん下がっていくという、権力構造としてはかなり特異な特徴が見られます。
そもそも、政治的権力(統治する権限)を朝廷から委任されているという時点で、本当は将軍ですら絶対的なトップではありませんが(建前としては当然、委任される側よりも委任する側のほうが上位ですからね)、とりあえず幕府という組織においては、将軍がトップとして君臨します。実際、初代将軍の頼朝は鎌倉幕府を統べる立場として、ほぼ独裁的な権限を掌中に収めていました。
下の画像は、その頼朝の肖像画として昔から特に有名なもので、初めて武家政権を創立した将軍らしい凛とした威厳が感じられる肖像です(但し近年は、この肖像画は頼朝ではなく、足利直義を描いたものではないかという説もあります)。

源頼朝

頼朝は、治承・寿永の乱、即ち「源平の合戦」を勝ち抜いた事で、日本初の武家政権である鎌倉幕府を開幕する事が出来たわけですが、その「源平の合戦」というのは、実際には、必ずしも源氏と平氏との戦いではありませんでした。
どういう事かというと、頼朝は、同族である従兄弟の木曽義仲と戦って義仲を討ち死にさせ、平氏の滅亡後には自分の弟である義経も討ち、その後、更にもうひとりの弟である範頼も誅殺するなど、凄惨な同族争いをしており、また、頼朝に味方した関東武士の中には、北条氏・千葉氏・三浦氏・和田氏・畠山氏・熊谷氏など、家系としては平氏に連なる一門も多かった事から、結果として彼らも頼朝と共に平氏政権とは対峙しており、つまり実際には、源氏と源氏の間、平氏と平氏の間でも激しい死闘が行われていたのです。
では、「源平の合戦」が、純粋に源氏と平氏という二大勢力が争った合戦ではないのなら、結局あの大乱では、何と何が戦っていたのかというと、一言でまとめるなら、それは「貴族化した平氏を中心とした中央政権」と「源頼朝という源氏の貴種を神輿として担いだ、源氏も平氏も含んだ東国武士団」との戦いであったと言えます。もっと端的に言うと、「京を中心とした西国」と「関東を中心とした東国」、もしくは「中央」と「地方」の戦いであったとも言えます。

ようするに、当初の頼朝は、あくまでも東国武士団の“神輿”に過ぎなかったのです。極論すれば、関東の武士団にとっては、自分達の旗印となるに相応しい(平氏政権に対抗出来そうな)血筋の良い御曹司でさえあれば、別に頼朝以外の人物を担ぎあげても良かったのです。
そのため、挙兵して間もない頃の頼朝は、まだ独裁的な強権を発動できる程の力はありませんでした。例えば、富士川の戦いで平維盛の率いる軍勢に勝利した後、頼朝自身は、その勢いに乗ってそのまま上洛する事を望みますが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らが、まず東国を平定すべきであると諌めたため、頼朝はその意見に従って、黄瀬川に兵を引き返しています。この時点ではまだ、自分の意見を押し通す事は出来なかったのです。

しかし、その後の頼朝は実力をつけ、軍人としてよりもむしろ政治家として著しく頭角を現し(軍の指揮官としては弟の義経のほうが明らかに優秀でした)、権謀術数をめぐらして自分の抵抗勢力となりそうな者は味方といえども次々と粛清し、幕府が成立する頃には、「鎌倉殿」として独裁的な権力を振るうようになっていました。
つまり、頼朝の強大な権力は、単に血筋だけで自動的に継承されたものではなく、自分自身の能力や実績により得たものであるわけですから、その点については私も素直に「凄いな」と思います。頼朝は結構苦労人なのです。もっとも、この点については、他の初代将軍である足利尊氏や徳川家康も同じですが。2代目以降は兎も角、初代だけは、単に血筋だけでは旧政権を打倒して自らの新政権を築き上げる事は出来ませんからね。
頼朝は猜疑心の塊のようなイメージがあるので、もし私の身の回りにいたとしたら、個人的にはあまりお友達にはなりたくないタイプですが(笑)、それは兎も角、全く何の権限も持たない(むしろ権限を制限される立場の)伊豆の流人から、日本で初めて創設された幕府の初代将軍にまで上り詰めただけあって、その政治力やカリスマ性などは卓越したものがあり、頼朝が極めて有能な人物であった事は間違いありません。

ところが、その頼朝が没すると、2代目の将軍となった頼家は、頼朝に比べると能力的にかなり劣っていた上に公正な態度でもなかったため、大多数の御家人達から支持を得られず、政治的な実権を奪われてしまいます。
そして、有力御家人達による合議制で政治が行われるようになるものの、権力闘争の末にその合議制は崩壊し、頼家は失脚後に暗殺され、その跡を継いで3代将軍となった実朝も暗殺され、源氏の直系は絶えてしまいます。
そういった血なまぐさい抗争期を経て、本来は将軍の補佐役に過ぎない「執権」という役職に幕府の政治的実権が移るようになり、更に、評論家の山本七平氏が“日本史上最大の事件”と定義付ける「承久の乱」で幕府が後鳥羽上皇に勝利した事により幕府の権力は絶対的なものとなり、それに比例して執権の権力もより高まり、そしてその執権の地位は、幕府の中では最有力御家人の北条氏が代々世襲するようになります。
実朝が暗殺されて以降の鎌倉幕府が北条幕府と称される事もあるのはそのためです。

しかし、執権で最も有名な人物といえば、平成13年のNHK大河ドラマの主人公にもなった、元寇(文永の役・弘安の役)という未曾有の国難に対処した北条時宗ですが、その時宗の官位・官職は正五位下相模守で、朝廷の官位でいえばかなり下位であり、名目上はあくまでも関東の一地方官に過ぎません(但し没後600年以上経った明治時代に、元による日本侵攻を退けた功績により、時宗は明治天皇から従一位が追贈されています)。
建前としては一地方官に過ぎないその執権が、事実上の日本の最高権力者として国政を取り仕切り、そして、当時世界最大の帝国であった元の軍勢と戦い(時宗自身が戦場で直接軍勢を率いて戦ったわけではありませんが)、それを撃退したのです。
下の画像は、その北条時宗の肖像画(出家後の姿を描いたもの)です。時宗の生涯は、まるで元寇に対処するために生まれ、そのために全ての力を使い切ったかのような生き様で、二度に亘る元寇を防ぎ、古代・中世を通して日本最大ともいえる国難を乗り切った後、時宗は満32歳という若さで病没しました。

北条時宗

その後、幕府の実権は執権から得宗へと移り、執権の地位すら形骸化していきます。時宗の時代より少し前に遡りますが、時宗の父である、「鉢の木」のエピソードでも有名な北条時頼は、執権を引退した後も得宗としてそのまま強大な政治権力を保持し続けたので、既にその頃から、執権の形骸化は進んでいました。
そう考えると、時頼や時宗は確かに有能な執権ではありましたが、実際には、執権という役職であったからというよりも、むしろ得宗であったからこそ、その政治的手腕を存分に発揮する事が出来たのではないかという気もします。実際、得宗であった執権には実権がありましたが、得宗ではない執権、即ち北条家傍流の執権は、あくまでも“中継ぎ”と見なされ、あまり政治的な実権はありませんでした。
ちなみに、知名度でいえばやはり時宗のほうが上ですが時頼も、その態度は公正で、質素・堅実でもあり、大多数の御家人(弾圧対象となった反得宗勢力の御家人を除く)や民衆に対して善政を敷いた事から、一般には名君として高く評価されています。

そして鎌倉時代末期には、得宗家の家臣(得宗の家政を司る執事)に過ぎない内管領が、得宗に代わって権力を振るうようになります。
そもそも内管領は、幕府の公式な役職名ではなく、その立場も、現代でいえば県知事(朝廷の官位でいえば執権はその位に相当)が個人的に抱えている何人かいる秘書の中では主席の人、という程度の役職と思われますが、そんな下位の地位にある者が、事実上、内政・外交・軍事・裁判まで行っていたのですから、本来であれば越権も甚だしい事になります。
内管領といえば、個人的には、平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」に登場した、フランキー堺さんが演じた長崎円喜が思い出されます。円喜は、末期の鎌倉幕府に於ける実質的な最高権力者で、得宗以上の絶大な権力を振るいましたが、同時に、末期の鎌倉幕府の腐敗ぶりを象徴する、かなりダーティーな人物でもありました。

以上の事からも分かるように、鎌倉幕府というのは、表面的なトップは一貫して将軍であるものの、実際にその政治的実権を握る者(フィクサー)は、「将軍 → 執権 → 得宗 → 内管領」という順に、どんどん下降していった組織なのです。
厳密にいえば、将軍(頼朝)独裁期から執権専制期にかけての過渡期には、前述のように有力御家人による合議制という政治体制もあったのですが、兎も角、後の室町時代とも江戸時代とも明らかに違う、鎌倉時代特有のこの独特な武家社会の構造は、なかなか興味深いものがあります。


では、鎌倉幕府の次の室町幕府の場合はどうだったのかというと、病弱のため十代で早世した5代将軍・足利義量を除くと、室町幕府では少なくとも6代将軍の足利義教までは、将軍自身が政治的な実権を掌握していました。
その時点でまず鎌倉幕府とは異なりますが、義教が暗殺されて以降は、鎌倉時代末期よりももっとカオスな状況になり、鎌倉幕府のように政治的な実権を握る者の立場が下降していった、というよりは、政治的な実権を握る者がいったい誰なのかも分からない、そもそも誰も実権を握っていない、という無秩序な状態に陥り、その結果として、下克上の戦国時代へと突入していきました。

ちなみに、鎌倉幕府と室町幕府の違いについてもう一点指摘すると、中学や高校の日本史の教科書等に掲載されている幕府の組織図では、鎌倉幕府の場合は執権が、室町幕府の場合は管領が、それぞれ将軍の補佐役として、将軍に次ぐナンバー2の地位として図示されていますが、建前としては兎も角現実には、執権と管領には立場や役割に差があり、その職掌は同一ではありませんでした。
はっきり言うと、単なる“お飾り”に過ぎない実権の無くなった将軍に代わって幕政全般を司る執権のほうが、室町幕府の管領よりも、より政治的な実権を握っていた、と私は解しています。

管領は、幕府の最高権力者として君臨する、直接の上司に当たる将軍と、一応は管領の部下的な立場になるものの鎌倉時代の御家人達よりは強い力を持っている事が多かった守護・守護大名という、明らかに利害が対立する上下関係の板挟みとなって、両者に気を遣いながらその権益を必死に調整するという、地位の高さに反して見返りが少ないばかりか損な役回りでもあり、実際、管領になった者は上からも下からも恨みを買って失脚や敗死する事が多く、足利一門でもある斯波・細川・畠山の三管領家は、管領への就任を嫌がったり、就任しても直ぐに辞任したがるなどしました。
そういった意味では、管領よりも執権のほうが実質的な“うま味”はあったでしょうし、その執権の地位を常に一族(特に得宗家)で独占し続けてきたからこそ、北条家は鎌倉時代末期まで、徐々に陰りが見えながらも一応は何とか権力を維持出来たのでしょう。


それでは、室町幕府の次の江戸幕府の場合はどうだったのかというと、少なくとも江戸時代前期から中期にかけては、江戸幕府では将軍自身が政治的な実権を掌握していた事が多く、その点で、やはり鎌倉幕府とは異なります。
時期によっては大老・老中・側用人・その他の幕臣などが政治を動かす事もありましたが、江戸時代後期以降でも、時には将軍自身が強力なリーダーシップを発揮する事もありました。

例えば、平成10年のNHK大河ドラマの主人公にもなった、最後の将軍として有名な徳川慶喜は、将軍在任期間中は一度も江戸城に入っていないにも拘わらず、京の都から幕府を指揮し、諸外国からも実質的な日本の支配者とみなされていました。この点は、戦国時代という混沌とした時代を招き、末期の頃は幕府の本拠地である山城国一国すら維持出来なかった、弱体化が著しかった室町幕府とも異なる所です。
もっとも、その慶喜の時代に江戸幕府は崩壊し、それにより、頼朝以来続いてきた約700年間の武家政治も終焉を迎えたわけですから、結果的に慶喜の治世は失敗に終わった事になりますが、それでも私は、慶喜は政治家としては極めて優秀な人物であったと思っています。征夷大将軍という武家の棟梁として本当に相応しい人物であったのかどうかは、また別問題ですが。


こうして改めて比較してみると、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は、一見よく似ているように見える武家政権でありながらも、それぞれの権力構造の推移というのは決して同一ではなく、実に興味深いです。


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