前回の記事で述べたように、私は昨年11月の下旬、1泊2日の日程で鎌倉方面を旅行し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参拝し、同宮境内にある鎌倉国宝館も見学してきました。
今回の記事では、その鎌倉国宝館を見た後に私が参拝・見学してきた、鎌倉市二階堂に鎮座する「鎌倉宮」という神社と、その鎌倉宮で御祭神としてお祀りされている護良親王(大塔宮)について書かせて頂きます。

護良親王(大塔宮)は、建武の新政(建武の中興)を行った事で有名な後醍醐天皇の皇子で、非常に武勇に優れていたため皇子の御身でありながら自ら指揮官として戦場で直接軍勢を率い、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げた事で知られています。
ちなみに、護良は「モリナガ」もしくは「モリヨシ」と読み、大塔宮は「オオトオノミヤ」もしくは「ダイトウノミヤ」と読みます。書物によってフリガナが異なり、現在に於いては読み方が統一されていないのです。

鎌倉宮案内看板

鎌倉幕府を倒し、非情に短い期間ではありましたが一時的に武家から天皇中心の社会へと復帰させる事(建武の新政)に貢献したその護良親王の功績を称え、明治2年2月、明治天皇が護良親王をお祀りする神社の造営を命じられ、同年7月、鎌倉宮の社号が下賜され、同月、護良親王が非業の最期を遂げられた東光寺跡の現在地に社殿が造営され、現在に至っています。

鎌倉宮_01

鎌倉宮_02

鎌倉宮_03


以下の二重鉤括弧内の緑文字は、私がこの時鎌倉宮で入手した「御祭神 護良親王御事蹟」というタイトルの冊子の、「鎌倉宮御由緒」のページに記されていた全文です。御祭神である護良親王の経歴が簡潔にまとめられています。

七百年の昔、鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮された後醍醐天皇は倒幕を志されたが叶わず、かえって隠岐島へ遠流の御身となられました。
後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮尊雲法親王は比叡山延暦寺の天台座主にましまし、幼少より英明にして勇猛をもって知られ、この危機に御自ら鎧兜に身を固め、鎌倉幕府の大軍を迎え撃たれました。

還俗して護良親王と名乗られた大塔宮は、多勢に無難、また険しい山野にあって数々の厳しい困難を、機知と豪胆をもって切り抜けつつ、各地へ鎌倉幕府追討の令旨を発し、これに応じた楠木正成、新田義貞らのめざましい働きにより幕府を打倒、見事に建武の中興を成し遂げられ、その抜群の勲功により征夷大将軍、兵部卿に任ぜられたのです。

しかし、足利尊氏が自ら将軍として幕府を開く野心を持っていることに早くから警戒心を抱かれておられた親王は、かえって尊氏の陰謀の為に無実の罪を着せられ、建武元年十一月、尊氏の弟・直義により鎌倉二階堂谷の東光寺の土牢に幽閉の御身となられました。
翌建武二年七月、北条高時の遺児・時行が鎌倉に攻めこんだ戦(中先代の乱)に敗れた直義は逃れ去る途次、親王を恐れる余り淵辺伊賀守義博に親王の暗殺を密命しました。親王は九ヶ月に幽閉されていた御身では戦うこともままならず、その苦闘の生涯を閉じられました。

明治二年、明治天皇は維新の大業が結ばれたのは、護良親王の御先徳によるものとして、その御功業を深く追慕敬仰され、勅命によって宮号と鎌倉宮と定め、ご終焉の地であるここ鎌倉二階堂の地に御社殿を造営、永く親王の御霊を祀られたのです。


というわけで、護良親王をお祀りする神社としての立場から記され文章なので、当然の如く、護良親王は絶対的に「正義」で、親王と敵対した尊氏は「悪」、という二元論に基づいて書かれています。
現実の情勢は、そのような単純な二元論で語れるものではなく、もっと複雑だったわけですが、ただ、鎌倉幕府が倒された事については、この鎌倉宮御由緒で書かれている通り、護良親王に抜群の勲功があった事は間違い有りません。

以下の文章は、『渡部昇一の中世史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』という本(PHP研究所刊)からの抜粋で、この中でも、鎌倉幕府を倒して建武政権を樹立した最大の功労者は護良親王であると述べられています。

建武の中興に最も功績があったのは誰だろうか。先ず大塔宮護良親王である。この親王が笠置落城後も屈せずに諸国の武士に令旨を出したから武士が動きだしたのである。
次に楠木正成である。大軍を動員しながら北條方がしばしば楠木軍に破られ、しかも千剱破城をついに落とせなかったことは、武力を拠り所にする幕府の決定的イメージ・ダウンになった。ベトナム戦争の時のアメリカみたいなものである。
第三に赤松円心がいる。彼は大塔宮の令旨を受けるや直ちに挙兵し、まっしぐらに京都に攻めのぼった。そして円心の軍が名越高家を殺したのをきっかけに、足利尊氏も北條に叛く決心をするのである。
第四は新田義貞である。彼は千剱破城で楠木正成を攻めていたが、この小城がいつまでも落ちないので北條幕府を見限った。それで家臣の船田義昌に命じて、大塔宮からひそかに幕府討伐の令旨を得た。それで病気と称して本国に帰ってしまったのである。そして幕府討伐の計画をひそかに立てていた。

(中略)
足利尊氏の功績は、前に上げた四人にくらべれば断然見劣りがする。新田義貞が鎌倉を落とした上に、楠木正成が頑張り、赤松円心が奮戦し、その上に大塔宮がいたのだから、足利尊氏はぐずぐずしておれば討伐されたのである。それはすでに根を失った軍勢だったのだ。

渡部さんのこの見解には、私もほぼ納得です。鎌倉幕府倒幕の最大の功績者を護良親王と考えるか、それとも楠木正成と考えるかについては、人によって見解が分かれる所だと思いますが、兎も角、護良親王と正成の両人が第一もしくは第二の軍功であった事はほぼ間違いなく、その二人に果たした役割に比べると、尊氏の功績は然程大したものではなかったと言えます。
もっとも現実には、足利氏の出自の良さなどから、朝廷は尊氏を武功の第一としたわけで、そこがまた複雑な所ではありますが。まぁ、複雑というよりは、単に「建武政権の行った論功行賞が滅茶苦茶なだけだった」とも言えますが…。


ところで、前出の鎌倉宮御由緒では、鎌倉宮としての立場から護良親王を賛美しているのは当然として、親王の御父である後醍醐天皇についても、「鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮され」と書かれていて、国や民の事を深く思っていた天皇として描かれています。
物事にはいろいろな見方があるので、私としては別にそういった「後醍醐天皇は大変素晴らしい!」といった見方をここで特に否定しようとは思いませんが、しかし、護良親王が失脚し幽閉の御身となった事については、そもそもその後醍醐天皇が了解されたからこそ実行された、というのも事実です。

自分がこれから捕らわれるという事を全く知らずに参内した護良親王は、突然、御所の一画で武者所の武士数十人に囲まれその場で捕らわれてしまったわけですが、その武士達をその場で指揮していたのは、後醍醐天皇側近の武士である名和長年と結城親光であると云われており、護良親王はその二人の姿を見た時に、天皇の意思をはっきりと知って愕然とされたのではないでしょうか。

護良親王の失脚について、梅松論では以下のような見方をしています。
大塔宮の謀反は天皇の命令によるものであるが、天皇はその罪を大塔宮に着せたのである。大塔宮は鎌倉へ捕らわれの身となって送られて、二階堂の薬師堂の谷に幽閉されてからは、足利尊氏よりも天皇のなされ方がうらめしいとひとりごとをいっていたということである。

尊氏と護良親王が対立していたのは確かですから、護良親王の失脚に尊氏の思惑が深く関わっていた(尊氏側の計略により捕らえられた)事は事実でしょうが、尊氏のみならず、後醍醐天皇の意思も明確にそこに含まれていた事もまた事実でしょうから、そういった意味では、信頼していた実父にも見捨てられた護良親王は本当に気の毒過ぎる、と言えます…。


下の写真は、鎌倉宮境内の宝物殿に展示されていた、明治22年に作られたらしい「護良親王馬上像」です。甲冑を御身にまとって馬にまたがる、凛々しい護良親王の姿が表現されています。

護良親王馬上像


以下の写真は、拝殿前から鎌倉宮本殿をお参りした後に私が見学してきた、本殿後方にある岩窟です。護良親王が凡そ9ヶ月間幽閉されていたと伝わる土牢(護良親王最期の地)を復元したものです。

鎌倉宮 土牢_01

鎌倉宮 土牢_02

鎌倉宮 土牢_03

鎌倉宮 土牢_04


ちなみに、鎌倉宮は、平成26年1月20日の記事で紹介した、南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする神社15社により構成されている「建武中興十五社」のうちの一社で、旧社格(明治維新の後制定され、終戦直後の神道指令によって廃止された、神社としてのランクを表わす制度)では「官幣中社」とされていました。
神社神道系の包括宗教法人としては最大規模で、現在全国の大半の神社が所属している「神社本庁」には、本庁の設立時より入っていない、単立の神社でもあります。


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