武家の頂点に君臨する征夷大将軍の地位を代々継承した家はどこでしょうか、と問われると、このブログを読んで下さっている方は、直ぐに足利家の名を挙げて下さるかもしれませんが(笑)、一般的には、先ず徳川家の名を挙げる人のほうが多いでしょう。やはり、足利家よりは徳川家のほうが、世間には広く知られていますからね(笑)。
時代的にも、中世に将軍を世襲した足利家より、近世に将軍を世襲した徳川家のほうが、より私達の時代に近いですし(ちなみに、本年は徳川政権=江戸幕府が終焉を遂げた大政奉還から、丁度150年の節目に当たります)、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」などの時代劇でも、徳川家の人達は私達に馴染みが深いですからね。

では、その徳川家は、将軍職が廃止されて将軍を世襲しなくなった後、つまり、明治時代以降はどうなったのかというと、最後の将軍であった徳川慶喜については、朝廷に政権を返上したにも拘わらず結果的には官軍側から朝敵とされてしまった経緯があったため復権には時間がかかりましたが(それでも、明治35年に慶喜は華族最高位の公爵に叙せられて完全に名誉が回復し、徳川宗家とは別に新たに徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて35年ぶりに国政に関わるようにもなりました)、大半の徳川一門は、明治時代に入って直ぐに復権を果たしており、かつての将軍家であった徳川宗家は公爵に、御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)は侯爵に、御三卿(田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家)は伯爵にそれぞれ叙されて華族となっており、華族制度が廃止された戦後も、その多くは断絶する事なく続き現在に至っています。
但し、徳川慶喜家は、つい最近の本年9月に第4代当主の慶朝氏(慶喜のひ孫に当たります)が病没した事により、嫡流が断絶してしまったそうです。ちなみに、平成25年に、徳川慶喜のひ孫に当たる徳川康久氏が、東京都千代田区九段北に鎮座する靖國神社の宮司に就任し、「戊辰戦争での官軍の戦没者を祀るために創建された神社の宮司に、その官軍と対立して賊軍とされた慶喜の子孫が就任した」として話題になりましたが(平成29年10月現在も在任されています)、その康久氏は、徳川慶喜家の分家筋に当たる方のようです。

なお、今回の記事の本題からは外れるので、これについては簡単に触れる程度にしますが、慶喜が将軍を辞して明治新政府に対して恭順・謹慎の姿勢を明らかにして以降の、徳川宗家の「その後」の流れは、おおよそ以下の通りです。
明治天皇の命により、御三卿の田安亀之助(後の徳川家達)が宗家の家督を相続し、後に家達(いえさと)は公爵に叙され、帝国議会開設と共に貴族院議員になり、明治36年からは、31年にも亘って貴族院議長を務めました。
その子の家正(いえまさ)は外交官となり、父である家達の死後は、公爵、貴族院議長となり、大正11年には、ワシントン軍縮会議に全権として赴いて条約締結に寄与しました。
しかし、家正の跡取りとなる子は早世していたため、家正は、徳川一門である会津松平家(江戸幕府第2代将軍 徳川秀忠の四男であった保科正之を家祖とする御家門)の次男であった恒孝(つねなり)氏を養子として宗家に迎え入れ、平成29年現在は、その恒孝氏が、徳川宗家の現(第18代)当主となっています。
徳川恒孝氏は、日本郵船副社長、公益財団法人徳川記念財団初代理事長などを歴任し、現在は、WWFジャパン代表理事、公益財団法人東京慈恵会会長、公益財団法人斯文会名誉会長などを務めているそうです。

さて、前置きはこのくらいにして(笑)、ここから漸く本題に入りますが、将軍職を世襲した家は、徳川氏だけではありません。徳川氏が世に出る前に、将軍を代々世襲して“将軍家”と言われていた家がありましたよね。
はい、そうです、このブログでよく取り上げる、足利氏です。
江戸幕府を開いてその初代将軍となった徳川家康の子孫達の「その後」は、大凡前述の通りであり、その内容については、世間でも意外と知っている人が少なくありませんが、それに対して、室町幕府を開いてその初代将軍となった足利尊氏の子孫の「その後」について知っている人は、かなり少ないのではないでしょうか。

足利市の足利尊氏公像

初期の室町幕府は、後世の織豊政権や徳川政権などに比べれば確かに脆弱な政権ではありましたが、それでも、足利尊氏は、曲がりなりにも室町幕府という中央政権を創設して全国の武家の頂点に君臨し、天下人となった人物です。
その尊氏の子孫達が、その後どのような道を辿ったのかがほとんど知られていないのは、個人的には残念に思うので、今回の記事では、かつて武家の棟梁として栄華を誇った足利氏の「その後」を、私の分かる範囲でまとめてみようと思います。


室町幕府最後の将軍は、第15代将軍の足利義昭で、その義昭までは足利将軍家の血統は継承されていきましたが、義昭の子である、大乗院門跡となった義尋(ぎじん)の男子二人が、いずれも僧籍に入って子を儲けなかった事から、足利将軍家の直系はそこで断絶しました。つまり、室町時代に足利氏の宗家であった足利将軍家は、室町時代の終焉と共に15代で終わってしまったという事です。
しかし、直系以外では、尊氏の血統は断絶する事無くその後も継承されていきました。

とはいえ、徳川氏のように多くの支流・別家が続いたわけではなく、室町幕府が滅びた後も続いて現在にまで至っている足利氏は、二系統だけです。
尊氏の三男であり関東に下向して初代鎌倉公方となった足利基氏の系統と、室町幕府第11代将軍である足利義澄の次男で「堺公方」「平島公方」などと称された足利義維(義冬とも名乗っています)の系統です。

前者の足利氏は、鎌倉公方や古河公方など(総称して関東公方とも言います)として関東に本拠を置いた事から関東足利氏(もしくは関東公方足利氏)と総称され、秀吉の時代に喜連川(きつれがわ)氏を名乗るようになり、江戸時代には喜連川藩となりました。
一方、後者の足利氏は、阿波国の平島(現在の徳島県阿南市)に居住した事から平島公方と称され、江戸時代に入ると平島氏を名乗り、その後、京都へと移りました。ちなみに、平島公方は阿波公方と称される事も多く、実際、下の家系図の中ではそのように表記されていますが、今回の記事の中では、平島公方という呼称に統一します。
喜連川の姓と平島の姓を名乗るのようになったどちらの足利氏も、後に足利の姓に復し、現在に至っています。

足利氏系図

上の家系図を見ればお分かりのように、このどちらの系統も、尊氏の子孫である事には変わりありません。
しかし、室町幕府創立期より早々と幕府本拠地の京都を離れて建前は幕府の出先機関でありながら実際には半独立政権として関東に本拠を置き、つまり、京都の幕府と距離を置き、その上で度々幕府(足利将軍家)と対立し、時には幕府と戦火を交える事すらあった、足利将軍家にとっては身内でありながら“鬼子”的な存在であった関東足利氏よりは、室町時代後期に将軍家より分かれて“足利将軍家の別家”として平島公方となった義維(よしつな)の系統のほうが、足利氏の宗家たる足利将軍家により近いといえます。

実際、義維にとっては、実父の義澄が室町幕府の第11代将軍に、養父の義植が第10代将軍に、実兄の義晴が第12代将軍に、実子の義栄が14代将軍にそれぞれ就いており、義維自身も、正式には将軍に就かなかったものの朝廷からは従五位下・左馬頭に叙任されていて、事実上次期将軍が約束されていた立場であり、そういった状況や血統からみても、義維は、将軍家に近いというよりは将軍家の一員、と言ってもほぼ差し支えないでしょう。
関東足利氏の本拠であった関東では兎も角、全国的には、やはり京都の足利将軍家こそが源氏一門の嫡流、足利一門の宗家と見なされていた事はほぼ間違いなく、その宗家には、平島公方足利氏のほうが近かったであろうという事です。

ところが実際には、足利将軍家が絶えて以降は、関東足利氏のほうが、足利氏の嫡流・宗家としての扱いを受けるようになり、後述するように、関東足利氏(喜連川氏)と平島公方足利氏(平島氏)はその後、はっきりと明暗が分かれるようになりました。


というわけで、先ずは関東足利氏について、詳しく解説をさせて頂きます。前述のように、近世以降、足利氏の宗家とされているのは、この系統です。

関東足利氏は、第4代鎌倉公方・持氏の時に、室町幕府第6代将軍の義教(足利義教については、昨年10月12日の記事の中で詳しく解説しました)が差し向けた幕府軍と、関東管領・上杉氏の軍勢に敗れ、これにより鎌倉府も一旦は滅亡しますが、持氏の遺児である成氏(しげうじ)の時、鎌倉府は幕府から再興を許され、成氏は第5代鎌倉公方となります。ちなみに、成氏は尊氏から数えると6代目に当たります。
しかし、鎌倉府の再興後、成氏は、父を攻め滅ぼした幕府や関東管領と対立を続け、関東各地を転戦して(成氏は約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜きました)、最終的には下総の古河(現在の茨城県古河市)に移り、初代の古河公方となりました。

その後、第2代古河公方の政氏(まさうじ)の子である、高基(たかもと)・義明(よしあき)兄弟の時に、第3代古河公方となった兄の高基と、小弓公方と称されるようになった弟の義明が、嫡流争いを繰り広げ、この戦いにより、義明の子で第2代の小弓公方となった頼純(よりずみ)が、下野の喜連川(現在の栃木県さくら市)に入りました。

一方、その小弓公方と対立した古河公方は、第5代の義氏まで続きましたが、義氏は男子を残さず没したため、それに伴い古河公方の職は次代に継承される事なく自然に消滅しました。
天正18年、時の天下人である豊臣秀吉は、古河公方家がそのまま絶えてしまう事を惜しみ、古河公方家の氏女(氏姫)と、小弓公方家の国朝(くにとも)を娶せ、これにより、古河公方家は断絶を免れました。

しかし、国朝の代は長くは続きませんでした。
文禄の役が起こり朝鮮出兵のために召集されると、国朝は2000~3000騎を率いて喜連川を発ち、朝鮮出兵の拠点となった肥前の名護屋(現在の佐賀県唐津市)に向かいましたが、その道中、安芸の梅田(現在の広島県梅田町)で病死したのです。
真相は分かりませんが、この件について現在の足利家(関東足利氏の子孫)には、「名護屋へと向かうまでに、国朝の軍勢には足利家に心を寄せる武将が次々と参集し、その数は十数万騎にも膨れ上がったため、国朝の人望を恐れた秀吉によって国朝は毒殺された」と伝わっているそうです。

国朝の没後、氏女は国朝の弟の頼氏(よりうじ)と再婚し、頼氏が跡を継ぎます。
そして頼氏は、小弓公方所縁の喜連川を秀吉から所領として与えられ、この時から、関東足利氏は喜連川という姓を称するようになりました。
秀吉としては、徳川氏に関東地方の大部分の支配を任せつつも、徳川氏の勢力が豊臣政権を脅かす勢力に成長する事も警戒しており、そのため、関東足利氏に所縁のある地であると同時に徳川氏の所領からはやや離れていた喜連川の地を、一種の政治的配慮として関東足利氏に与えたという側面もあったようです。
秀吉は、喜連川家を家臣ではなく客分扱いとしましたが、この扱いは江戸幕府にも引き継がれ、喜連川家は徳川家康が江戸幕府を開いた後も、喜連川藩として存続しました。

江戸幕府は、喜連川家を足利氏の祭祀を営む正統(事実上の足利氏の宗家)と認めて厚遇し、喜連川藩は、江戸時代を通して表高無高(おもてだかむだか)、実高は高家旗本並みの五千高程度でありながら、格式は十万石の国主大名並みという破格の待遇を受けました。
しかも、喜連川家は武家官位を受けず無位無官でありながら自称の名乗りが公式の場でも許され、喜連川家は「天下ノ客位」「無位ノ天臣」などと自称していたそうですが、その自称からは徳川将軍家との主従関係すら曖昧であり、喜連川家は、幕藩体制の枠組みに収まらない極めて例外的な存在だったといえます。

また、禄高が低かった代わりに、喜連川藩には様々な特権も与えられ、具体的には、参勤交代の免除、国役金の免除、軍役を含めた諸役御免などが認められていました。
しかも養子・婚姻で喜連川家の縁戚となった家が、織田、松平(飯山)、榊原、加賀前田、毛利、肥後細川など名家だったため、それらの家からの持参金により、喜連川家は意外と裕福でもあったようです。
ただ、江戸城での扱いは、御三家と同格であったり、御三家に次ぐ地位であったり、外様大名と同じく大広間詰めであったり、外様の小藩同様の柳の間詰めであったりと、江戸時代を通して様々に変遷していたようです。

ちなみに、一般には吉良上野介の名で知られている、赤穂浪士に討ち取られた吉良義央(きらよしひさ)は、喜連川家の支流です。
義央は、足利氏=喜連川家を思う事に篤く、その政治手腕によって、喜連川藩を喜連川から足利の地へと転封する事と、喜連川藩の禄高を名実共に十万石とする事に尽力していたそうですが、その働きかけがほぼ成功する直前に討ち取られてしまいました。もしあの時点で討ち入りされていなければ、喜連川家のその後はかなり変わっていたかもしれません。

そして、水戸藩主・徳川斉昭の11男で、喜連川家に養子として入って喜連川藩の第11代藩主となった縄氏(つなうじ)の時に、明治元年を迎え、同年、喜連川家は足利に復姓しました。
明治17年には、尊氏から起算して25代目に当たる足利於菟丸(おとまる)が子爵に叙され、足利家は華族となりました。
前述のように、徳川宗家と徳川慶喜家は公爵に、徳川家の御三家は侯爵に、徳川家の御三卿は伯爵にそれぞれ叙されているので、関東足利氏の末裔である足利家は、それらに次ぐ家格(他の多くの大名家と同格)として扱われた事になります。
ちなみに、一応補足しておくと、華族制度での爵位の順位は、上から順に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵です。

しかし、華族に列せられたとはいっても、足利家の人達は、明治・大正・昭和という時代を通して、相当な苦労を味わったようです。
というのも、明治時代以降は、後醍醐天皇から始まった南朝を正統とする説が主流となり、その後醍醐天皇と対立して北朝を擁立した尊氏は「皇室に弓を引いた逆賊」とか「日本三悪人のひとり」(あとの二人は道鏡と平将門です)などと陰口を叩かれてその名を徹底的に貶められた事から、その子孫である足利家の人達は、「逆賊の家の者」として、特に戦前・戦中は非常に肩身の狭い思いをせざるを得なかったのです。

平成29年現在、足利家の当主(尊氏から起算して27代目)である足利浩平氏(こうへい)は、今年6月に宝島社から刊行されたムック「別冊宝島2586 日本史再検証 名家のその後」の中で、以下のように述べています。
学習院で昭和天皇と同窓だった先代の惇氏(あつうじ)は、歴史の授業に足利の名が出るたびに、クラス中から憎悪の目で見られ、校長だった乃木希典に校長室に呼ばれて、「悪かったのは尊氏であって君じゃない」といわれて非常に腹が立ったと述懐しています。鎌倉の長寿寺境内に尊氏を弔う五輪塔があり、小学校の先生黙認のもと、児童が塔を崩すこと度々だったと、惇氏は聞いたそうです。明治維新後、特に昭和初期から戦中まで、日本中に身の置き所がない。そういう家だったのです。
一方で、学者仲間だった故三笠宮殿下と惇氏は親交があり、「(北朝系の)うちが天皇をやっているのは足利のお蔭だ」といわれたそうです。祖父の伝聞では、明治天皇は尊氏を大人物として評していたそうですから、おもしろいものです。

ちなみに、足利家の先代の当主である足利惇氏(あつうじ)氏は、前出の於菟丸の長男に当たり、インド学において大きな業績を残すと共に日本に本格的なイラン学を導入した、我が国を代表するインド・ペルシア学者でした。日本オリエント学会の会長や、東海大学の学長なども歴任しました。
現当主である浩平氏は、その惇氏氏の甥に当たり、浩平氏は現在、造形美術関係の会社の代表取締役を務めています。


さて、ここまでは関東足利氏の子孫である足利家について解説させて頂きましたが、ここからは、現代に残るもう一方の足利氏である、平島公方(阿波公方)足利氏の子孫である足利家について、詳しく解説をさせて頂きます。

室町幕府第11代将軍・義澄の実子で、第10代将軍・義植の養子であった足利義維(よしつな)は、和泉国で、次期将軍としての新政権樹立の足掛かりを築くようになり、そのため一時は「堺公方」と称されました。
しかし、義維の有力な支持勢力であった管領の細川晴元は、その後義維を裏切り、それまでの敵対勢力であった義晴(第12代将軍)を推戴するようになったため、義維は将軍就任の道を絶たれ、阿波国(現在の徳島県)へと逃げ、これにより堺公方という立場は消滅しました。

義維は、足利氏と所縁が深い天龍寺の寺領であった平島庄(現在の徳島県阿南市那賀川町)に居を構えて閉塞し、これが、義維の血統が「平島公方」と呼ばれる起源となりました。
義維の没後も平島公方の血統は、阿波を治めるようになった戦国大名・三好氏の庇護を受けて、いざという時の切り札として養われ続けました。三好氏は、元は阿波守護代を務めていましたが、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を築くようになっていました。

義維の子の義栄(よしひで)は、その三好氏によって室町幕府第14代将軍として擁立され、平島公方足利氏から出た唯一の将軍となりましたが、義栄は将軍宣下を受けても、激化する室町幕府内部の激しい権力抗争や義栄自身の体調不良等によりなかなか入京出来ず、摂津国に留まり続けました。
しかも、そうこうしているうちに、前将軍(第13代将軍)義輝の実弟である義昭を次期(第15代)将軍として推戴する織田信長が上洛軍を発し、三好氏は、その大軍を前にして阿波へ退避せざるを得なくなり、三好氏の切り札であった肝心の義栄も、29歳の若さで病没してしまいました。
結局、義栄は、時の権力者であった三好氏に擁立された、一時的な傀儡将軍に過ぎませんでした。

義栄が没した後も、弟の義助によって平島公方足利氏は存続しましたが、その後は徐々に存在感が薄れていき、江戸時代になると、新たに阿波国を治めるようになった徳島藩主の蜂須賀氏(秀吉に仕えて活躍した事で有名な蜂須賀小六の家系)から客将として扱われはしますが、その扱いは“形だけ”で、実際には、義維以来の3千貫の所領は没収され、その上、茶湯料として僅か百石の捨扶持(すてぶち)しか与えられませんでした。
室町幕府が滅び豊臣秀吉の天下になっても1万石という待遇を保てた室町幕府最後の将軍・義昭や、前述のように江戸幕府から大名格の扱いを受けて厚遇された喜連川氏(関東足利氏)などとは対照的に、平島公方足利氏はかなり冷遇されたのでした。
ただ、徳島藩の立場からすると、自藩の中に、藩主である蜂須賀氏と同等もしくはそれ以上の家格の特別な家が存在しているという事は、決して愉快な事ではなかったでしょうし、かといって他所の藩へと追い出すわけにもいかず、藩としても、平島公方足利氏の扱いには苦慮していたのかもしれません。

そして、義維から数えて4代目となる義次の時に、足利という家名は平島に改姓させられ、足利義次は平島又八郎と名乗らされ、更に、平島家の徳島藩に対しての取り次ぎ窓口も家老職から一般寄合階級に振り替えられるなど、平島家は徳島藩から一層の冷遇を受けました。
その後、義維から数えて9代目となる義根は、自身の病気療養を名目に、藩主の蜂須賀治昭に阿波退去の許可を請い、それが認められて、平島家は文化2年(1805年)阿波を出て京都へと移り、京都で再び足利を名乗るようになりました。
阿波退去の真の理由は不明ですが、義根が徳島藩からの余りの冷遇に耐え切れなかった(←この説が有力です)とか、義根の子・義寛を紀州藩に仕官させる内約があったため急いで退去した、などの説があります。
ちなみに、義維から義根の代まで、平島公方足利氏は270年間も平島にいた事になります。

こうして、徳島藩との一切の縁を切って阿波の平島から離れた足利家は、京都に新たに居を定めましたが、江戸幕府から領主身分に取り立てられる事はなく、禄も無いので、次第に窮迫し家臣の数も減らしていき、紀州徳川家からの援助と、等持院など足利氏所縁の寺院からの援助を受けて何とか生計を立てていたようです。

明治時代になって、平島公方足利氏の末裔である足利家は、足利将軍家の正当な末裔として華族に列せられるように請願活動を行い、特に岩倉具視に対して熱心に華族昇格を訴えるなどしましたが、明治政府は足利氏と対立した南朝を正統とする立場であり、更に、経済的基盤の弱い新華族増加には消極的だった事などもあり、他の多くの華族取り立て志願の家と同じようにその訴えは却下されてしまいました。
しかも、足利家は受爵に失敗したのみならず、徳島藩から脱藩していたため士族にもなれず、平島公方足利氏の一族は平民籍に編入されました。関東足利氏の末裔の足利家は、前述のように明治時代に子爵家となっていたので、平島公方足利氏の一族はここでも、関東足利氏の一族とはその扱いに大きな差を受けたのでした。

一方、脱藩された側の、徳島藩の蜂須賀氏は、最終的には徳川将軍家の血筋となった事などもあり(江戸幕府第11代将軍 徳川家斉の実子が、養子として蜂須賀家に迎えられて徳島藩第13代藩主となっています)、明治時代になると侯爵に叙せられ、紀州徳川家や水戸徳川家と並ぶ屈指の富豪華族となりました。これも、足利家にとっては何とも言えない複雑な気分だった事でしょう。
但し、北海道での大規模な農場経営が失敗した事や、度々犯罪に絡んだ事などから、それ以後の蜂須賀氏は没落していきました。

ちなみに、平成26年7月2日の記事の中では、「全国足利氏ゆかりの会」について、『同会の特別顧問には足利家第28代当主の足利義弘氏が、顧問には京都府の山田啓二知事と京都市の門川大作市長が、会長には栃木県足利市の和泉市長が、副会長には京都府綾部市の山崎善也市長と徳島県阿南市の岩浅嘉仁市長らが、それぞれ就任しています』と紹介しましたが、その一文の中で足利家の当主として紹介した足利義弘氏は、平島公方足利氏の系譜のほうの、足利家当主です。

平成29年現在の現況は分かりませんが、宗教界の新聞である「中外日報」の平成25年8月20日号に掲載された「足利氏の末裔から見えるもの 室町文化を見直す時」という対談記事の中で、その足利義弘氏は自身の近況について、以下のように語っておられました。
間もなく79歳です。この3月まで、解散した群馬県高崎市の創造学園大で教員を務め、この春、ほぼ40年ぶりに京都に居を戻しました。大学が倒産しても事後処理は簡単ではない。将来ある学生たちに迷惑を掛けるわけにはいかない。最後の学生たちが卒業できるよう3月まで大学に残り面倒を見ました。給料は1年7カ月未払いが続き、いわばボランティアです。
年金だけでは足りないので、借金しながらですよ。元同級生で大手企業の会長を務める友人は年収1億円以上だというが、こちらは最低の生活も保障されない。あらてめて日本の社会の格差の大きさ、社会福祉の遅れを痛感しましたね。一方で、教員の本能でしょうか、教えるという目的を失ったのはやはりショックです。

国際福祉論の専門家で教育者でもある足利義弘氏は、大学の教員として、熱心に学生達の指導を続けておられたようです。


こうして見てみると、現在も続く二系統の足利家は、ほとんど関わり合う事なく、全く別の道を歩んでおり、どちらが良いか悪いかという事ではありませんが、現在に至るまでの経緯に相当な差が生じているのが興味深いです。

前述のように、関東足利氏の末裔である足利家の平成29年現在の当主・足利浩平氏は27代目、平島公方足利氏の末裔である足利家の平成26年現在の当主・足利義弘氏は28代目を数えており、尊氏からそれだけの代数と年数を重ねていれば、同じ足利姓ではあっても、両家はただ“尊氏が先祖”という共通点があるだけの全く別の家、といってもいいのかもしれませんね。


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