突然ですが、「将軍」と聞くと、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。ちなみに、パットン将軍とかロンメル将軍とかではなく、我が国の征夷大将軍のほうですよ(笑)。
あまり日本史に詳しくはない人でも、とりあえず中学校で習った歴史を何となくは覚えているいる、という人であれば、坂上田村麻呂、源頼朝、徳川家康、徳川家光、徳川吉宗といった将軍は、直ぐに思い浮かぶかもしれません。しかし、直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かべるという人は、恐らく、あまり多くはないと思います。
その要因のひとつとしては、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、室町幕府や、室町幕府の歴代将軍というのは、いまいち存在感が薄い、という点が挙げられると思います。

ちなみに下の写真は、一昨年8月4日の記事にアップしたものを転載したもので、足利将軍家の菩提寺「等持院」境内の霊光殿に奉安されている、歴代足利将軍の木像の一部です。手前から、室町幕府第7代将軍の足利義勝像、第6代将軍の足利義教像、第4代将軍の足利義持像です。義勝は、赤痢のため僅か10歳で没した幼い将軍だったため、木像の表情も、子供らしさが強調されたものとなっています。

歴代足利将軍木像

鎌倉幕府といえば、源氏の嫡子ではあっても当初は流人に過ぎなかった源頼朝が、その実力によって、当時の中央政権であった平氏政権を打倒して開幕し、頼朝の没後も、幕府の実権を掌握した北条氏らは、承久の乱での勝利によって朝廷の権力を無力化させて幕府権力を更に拡大・絶対化させ、また、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を次々と輩出した、質実剛健な武家政権というイメージがあります。

江戸幕府も、幼少期には人質として生活するなどした徳川家康が大変な苦労と忍耐の末に開幕し、関ヶ原の合戦や大坂の陣を経て全国全ての反徳川勢力を一掃し絶対的な安定政権となり、その後、家光・綱吉・吉宗など実力を持った将軍や、新井白石や松平定信などの有能な幕臣を多数輩出し(西国雄藩が台頭してきた幕末の混迷期ですら、小栗上野介や中島三郎助のような優れた幕臣達がいました)、300年近くにも及ぶ、戦争の無い太平の世の中を築いた武家政権というイメージがあります。
つまり、鎌倉幕府や江戸幕府は、マイナスイメージも当然あるものの、全体的にみると、一般的には大凡プラスイメージで評価される事が多いのです。

それに対して室町幕府はどうかというと、将軍が家臣に暗殺されたり、将軍が家臣に追放されて諸国を放浪したり、将軍自身が当事者能力に著しく欠けていたため応仁の大乱が始まって京都を廃墟にしてしまったり、その大乱によって将軍や幕府の権力が更に低下した結果、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、将軍の権威を更に失墜させ、末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国すら維持出来なくなるなど、幕府全盛期の義満の時代を除くと、室町幕府は、世間一般に“は統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージがあると思います。
そのため、室町幕府の歴代将軍の中には有能で実力のある将軍はほとんどいなかったのではないか、というマイナスイメージがどうしても付きまとってしまう事になります。将軍と聞いても直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かぶ人は少ないのでは、と前述したのも、そのイメージに因る所がかなり大きいのではないかと思います。

実際、歴代の足利将軍の中で、世間にそれなりに知れ渡っていると思われる名前は、初代将軍の尊氏、3代将軍の義満、8代将軍の義政、あとは、最後の15代将軍である義昭くらいではないでしょうか。これらの名前は、一応、中学校で習う歴史の教科書にも登場していますから。
しかし、そのうち8代将軍の義政は、優柔不断で無責任極まりない将軍で、はっきり言うと、明らかに無能な将軍でした(但し、政治家としては無能でしたが文化人としてはかなり優秀な人でした)。政治には全く興味を示さず、そうであるならとっとと将軍を辞めればいいのに、その決断すら出来ず、政治的な野心も実力も無いのに、無意味に将軍の地位にしがみつきながら、只管趣味に生きた人です。
また、15代将軍の義昭も、政治に対しては強い執着を見せるものの、残念ながら実力が全く伴っておらず、臣下からの支持も薄く、結果的に、世間一般に対しては「室町幕府最後の将軍」「織田信長に利用され、最後はその信長に追放された人」というイメージだけを残した将軍、と言ってほぼ差し支えないと思います。

足利氏系図

では、室町幕府の歴代将軍は、やはり無為無策で無能な人ばかりだったのでしょうか。
実は、私自身はそうは思っておりません。無能で実力の無い将軍が多く見えるのは、単なる結果論です。つまり、後期以降の室町幕府がグダグダで、どうしようもなかったから、結果的にそう感じてしまうだけで、前半の頃、具体的にいうと、病弱のため十代で早世した5代将軍の義量を除くと、初代将軍の尊氏から6代将軍の義教までは、いずれも実力もあって、しかも、かなり有能、もしくはそこそこ有能といえる将軍ばかりだったと私は解しています。

「くじ引き将軍」とも称された6代目の義教については、万人恐怖と云われる独裁政治を行ったり、些細な事で激怒し厳しい処断を行った事などから、世間での評価は今もあまり芳しくはなく(苛烈で横暴な暴君として捉えられている事が多いようです)、私も、その人格についてはかなり問題があったと思っていますが、しかし人格と、政治家として有能であったか否かは基本的に別問題であり、落ちかけていた幕府の権威・権力を高める事に成功し、九州平定や関東制圧など義満すら出来なかった事を成し遂げて最大領土を獲得した、その政治的手腕は見事であり、歴代の足利将軍の中でも相当に有能な人物であったと思います。
そもそも、単に人格だけをいうのであれば、政治家としても軍人としても極めて有能であった、日本史の偉人のひとりであるあの織田信長も、相当に問題がありました。

というわけで、今回の記事では、室町時代前期に活躍した、室町幕府の初代・第2代・第3代・第4代・第6代の、5人の将軍それぞれの功績・長所・特徴などを、改めてざっとまとめてみようと思います。
ちなみに、今回の記事では取り上げませんが、第13代将軍の義輝も、時代が違えば(例えば室町時代の前半頃に生まれていれば)、恐らくは有能で実力のあった将軍として、もっと後世に広く知れ渡っていたのではないかなと思います。


【初代将軍 足利尊氏】

室町幕府を開幕し、その初代将軍となった
尊氏が幕府を創った事は、今更あえて言うまでもない、日本史の“常識”ですが、しかし、何千人、何万人といる日本史の偉人の中で、幕府を開幕してその初代征夷大将軍となった人物はたった3人しかおらず、尊氏はそのうちの一人なわけですから、これはやはり凄い事です。
源氏の嫡流が源実朝で絶えて以降、足利家はそれに代わる源氏の棟梁と見做されるようになり、また、後述するように尊氏には人を惹きつける個人的な魅力もありましたが、しかし、そのようにいくら血統や人柄が素晴らしくても、やはりそれだけでは、武士達は自分の命や一族郎党の将来を懸けてまで付いてはいきませんし、あの激動の戦乱の世を生き抜き、更に幕府まで開く事などは出来ません。そう考えると、室町幕府を開幕し、その初代将軍になった、という事実だけを以てしても、尊氏は確実に有能な人物であったと推定出来ます。少なくともそれは、同時代の他の人には誰も出来なかった事なのですから。
ちなみに、尊氏の生涯を辿ってみると、尊氏は特に、軍人(指揮官)としての才能はかなり高かったように思えます。政治家としての資質は、弟の直義のほうが優秀だったようですが、直義には、逆に軍人としての才能はやや欠如している面がありました。

不屈の闘志があり、どんな困難からも何度でも蘇る
尊氏はその生涯のうちに何度も何度も、権力闘争や武力闘争を経験し、滅亡寸前の窮地に追い込まれた事も一度や二度ではありませんが、その度に有能な部下達に支えられて復活し、戦場では自ら先頭に立って戦い続け、ついには幕府を開きました。これは、武家の棟梁として戦う自負を失わず、どんな逆境にも負けない不屈の闘志があったからこそ達成出来た事といえるでしょう。
もっとも、その一方で尊氏には、「不屈の闘志」とは明らかに矛盾する一面もあり、例えば、重要な局面では決断力にやや欠けるという優柔不断な所があって、部下達から強く勧められて漸く重い腰を動かしたり、また、精神的にも不安定な所があって、後醍醐天皇に叛いてしまった事を悔やんで出家しようとしたり、戦いが劣勢になると「切腹する」と言って部下に止められたり、悲しい事が起きると地蔵菩薩の絵が描きたくなるなどというちょっと変わった癖もありました(こういったネガティブな所が、あと2人の初代征夷大将軍である頼朝や家康とは、決定的に違う所でもあります)。
これは推測に過ぎませんが、もしかすると尊氏は、現在でいう双極性障害(躁鬱病)か、もしくはそれに近い気があったのかもしれません。もしそうであるのなら、部下達を鼓舞しながら武家の棟梁らしく颯爽と戦場を駆け巡る時は躁(そう)の時で、消極的になって問題を先送りしたり、悲観的になって落ち込む時は鬱(うつ)の時だったのかもしれません。
しかし、そうであるにしろ違うにしろ、結局の所、尊氏は常にどんな困難からも立ち上がって最終的には勝利してしまうのですから、やはりそれは凄い事です。

人を惹きつけてやまない人間的な魅力がある
南朝側からも、北朝側からも、立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた頼朝と尊氏を比較して、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方、尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と褒め称えています。
更に疎石は、尊氏について、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」と絶賛し、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。疎石のこういった言葉から、尊氏は戦勝に驕る事なく“我”を控えた、調整型の政治家だった側面が窺えます。
尊氏という人物は、後世の天下人である信長・秀吉・家康などのような、自ら果敢に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの猛将ではなく、むしろ、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある、所謂“おぼっちゃん”タイプの武将であると言ってよいでしょう。
しかしその割には、傲慢な所や私利私欲は無く、育ちが良いだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、敵に対しても慈悲と尊敬の念を忘れず、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確実に持っている、という武将でした。
動乱の世で、しかも「ばさら」が流行したあの時代に、尊氏に傲慢さや私利私欲がほぼ全く無かったという点は、特筆されるべき事だと思います。尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権などによる失政の受け皿となったから、という理由だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所も少なくはなかったでしょう。
ちなみに、尊氏が生きていた同時代に北畠親房によって記された「神皇正統記」では、親房自身が尊氏とは敵対する南朝の公卿であったため、当然の事ながら尊氏については酷評されているのですが、尊氏はそれを知りながら、自分が非難されているその神皇正統記を焚書にはしておらず、こういった事からも、尊氏の大らかな人柄がみてとれます。
もっとも、弟の直義や息子の直冬が最終的には尊氏に造反したり、尊氏の部下である高師直や佐々木道誉などが所謂“ばさら大名”としてどんどん増長していったり、尊氏とは敵対していた南朝が勢力を弱めながらも壊滅する事はなく暫く存続し、その結果として初期の室町幕府がかなり不安定な政権となってしまったのも、全ては尊氏個人の大らかさや寛容さに起因していると言えない事もないため(冷徹な処断はほとんど出来ない人でした)、この項で述べた尊氏の人間的な魅力というのは、実は長所であると同時に、武家政権を束ねる最高権力者としては、時には短所として現れてしまう事もしばしばありました。

兎に角、気前が良い
これについては前段で述べた事とも重複しますが、尊氏は「出し惜しみ」をする事が一切無く、後醍醐天皇と敵対する事になった時には、「褒美が少ない」事に不満を持っていた武士達を味方に付けるため、後醍醐天皇が与えられたものよりも多くの褒美を武士達に与えました。そしてその事が、多くの味方を付ける原動力にもなりました。
端的に言うと、ただ単に「味方を増やすためにエサで釣った」だけの事ともいえますが、しかし、それが有効な手段と分かっていながらも現実にはそれが出来ないリーダーが昔も今も多い中で、尊氏はどんな時も常に“気前の良さ”を貫きました。別の言い方をすると、尊氏は「周りに対して常に気配りの出来るリーダー」で、それ故に、有能な人材を引き寄せる事が出来たともいえます。
もっとも、室町幕府が後に弱体化していった大きな原因のひとつは「守護大名が強くなり過ぎた」事ですが、ではなぜ守護大名が強くなり過ぎたかというと、その遠因のひとつは、尊氏が部下達に出し惜しみせずにどんどん領地を分け与えた事にあるので、見方によっては、尊氏の「気前の良さ」というものは、単純に長所としてだけ評価する事は出来ないかもしれませんが。


【第2代将軍 足利義詮】

幕府による天下統一を推し進め、室町幕府を軌道に乗せる
有力大名同士の争いにつけ込んで片方を失脚させ、失脚した側の土地を幕府が奪う事で強大な財力や軍事力を手に入れるなど、義詮は政治的・外交的な手腕に優れていました。特に、有力大名の大内弘世と山名時氏を帰服させた事は、幕府の力をより強固なものとし、仁木義長、桃井直常、石塔頼房らの大名も幕府へと降参させる事となり、将軍の権力を一層高める事となりました。
義詮は、幼少の頃よりずっと戦場に出続け(幼時より将器がありました)、時には敗れる事もありましたが屈せず、将軍になって以降も、幕府による天下統一を目指して各地で反乱分子と戦い続けてきましたが、その甲斐あって、晩年の頃には全国各地の有力大名達の力が大分弱まり、漸く政情が安定するようになってきて、内乱で衰退していた社寺領の再建を命じたり、新たな内裏を造営したり、かつての旧敵である北条高時の33回忌法要を行うなど、内政にも目を向ける事が出来る状態になっていました。
義詮の跡を継いだ3代将軍の義満は、将軍の権力を絶対的なものにしましたが、そのお膳立てをしたのは義詮だったともいえます。

南朝を弱体化させて、南北朝合一への道筋をつける
義詮は、当時日本を二分する勢力だった「北朝」の指揮官として、もう一方の勢力である「南朝」側の諸勢力と幾度も戦い、南朝の重要な基盤である紀伊を制圧したり、南朝の後村上天皇を金剛山中へ遁走せしめるなど、決定的に南朝の勢力を減じる事に成功し、北朝の後光厳天皇を盛り立てました。そしてそれは、尊氏の時代にはまだ盤石とは言えなかった幕府を、次第に安定化させていく事にもなりました。
義詮は軍の指揮官としても優れており、南朝に奪われた京都を何度も奪還するなどの功績も挙げています。もっとも、何度も奪還したという事は、逆に言うと、何度も南朝側に京都を奪われていたという事でもありますが。
また義詮は、京都を南朝に制圧された際、北朝の光厳上皇・光明上皇・祟光上皇・直仁皇太子を南朝に拉致されてしまい、北朝の存続が一時困難になるという大失態を犯してしまった事もあるものの、その一方で、南朝の有力大名を次々と北朝に寝返らせる事にも成功しており、その手腕には目を見張るものがあります。

再評価される義詮
以上の事から、義詮は、室町幕府を創設した初代将軍の尊氏と、絶大な権力を手に入れて幕府の最盛期を築いた3代将軍の義満の間に挟まれて将軍としてはあまり目立たない地味な存在かもしれませんが、実は、父・尊氏の期待に見事に応えた、あまり華麗な所は無いものの秀才タイプの将軍だった、ともいえます。
近年では、義詮の果たした役割は決して小さくはなく、太平記が義詮の死を以て閉じられているのもそれなりの理由がある、とする見方も出ています。世代的にみても、鎌倉幕府を倒幕した戦い以来の第1世代は、義詮が亡くなる頃にはほぼ姿を消しており、義詮の死は室町幕府の形成史上に於けるひとつのターニングポイントといえます。
ちなみに、私の個人的な主観としては、義詮は、江戸幕府の将軍の中では特に知名度の高い、初代将軍家康と第3代将軍家光の間に挟まれた、やはり第2代の将軍である秀忠と、何となくイメージが重なります。秀忠も、地味で華麗さはほとんどなく、“天下分け目の合戦”である関ヶ原の合戦に遅参するという大失態も犯していますが、全体を通して見ると、確実に有能な将軍でしたから。


【第3代将軍 足利義満】

有力大名の力を弱めて幕府の権力を絶対的なものにした
室町幕府が強固な統一政権となるためには、強くなり過ぎた家臣達、つまり守護大名を弱体化させ、それによって将軍の権威を高める必要があり、それは、父である前将軍の義詮が推し進めた政策でもありましたが、義満はその政策を更に強く進めて全国各地の守護大名の力を相当弱める事に成功し、それによって幕府の全盛期を築きました。
当時日本の6分の1を支配するまでに強大化していた守護大名・山名氏に対しては、その後継者争いに介入し、義満は、失脚した後継者候補を支援するような動きを見せて、あえて有力後継者を怒らせました。そして、その有力後継者は幕府に襲いかかり、義満は総力を結集して山名氏を撃退すると、幕府に反乱を起こした罰として山名氏から領土の7割を奪って、功績のあった大名に分け与えるなどしました。義満は、これとほぼ同様の方法で、多くの守護大名達を弱体化させていきました。

南北朝に分かれていた朝廷を統一した
前将軍の義詮や、義満の優秀な側近らの功績により、幕府に抵抗を続けてきた南朝は既に有名無実化していましたが(強硬派であった長慶天皇が和睦派の後亀山天皇に譲位されてからは、南朝による軍事行動もほぼ無くなっていました)、義詮の時代から何度かあった和睦の話はいずれも折り合いが合わず、形の上では依然として南朝は存在し続けていました。
義満はこの問題を解決するため、南朝に使者を送って和睦についての話を進め、そして、義満の将軍就任から24年後、義満が示した和睦条件を南朝側が受け入れる事でついに和睦が成立(事実上、南朝が降伏)し、南朝が奉っていた「三種の神器」を北朝へと譲らせて南朝は北朝に合一され、皇室は再びひとつになりました。
これにより、後醍醐天皇の吉野還幸から60年近くも続いた南北両朝の並立(同時代に二人の天皇が在位するという極めて特異な事態)は終了し、漸く日本は、各地にまだ火種を残しつつもとりあえずは室町幕府の下に全国が統一されました。もっとも、南北両朝の合一を認めない旧南朝の残党はその後も度々騒動を起こすなどしており、「後南朝」とも称されるそれら旧南朝の抵抗運動は、次第に勢力を失いながらも暫くは続いていく事となりました。

北山文化を生み出した
義満が明との貿易で手に入れた豪華な品々は、貴族文化に武家文化が融合した、豪華で華麗な「北山文化」を生み出す事に繋がりました。一層が寝殿造、二層が武家造、三層が禅宗様式の鹿苑寺金閣は、その代表格とされています。
義満の時代には、田植神事と農耕歌舞が結合した「田楽」や、平安時代の猿楽が発展した舞台芸術「猿楽能」なども花開き、観阿弥や世阿弥などの逸材を輩出した他、庭園、絵画、文学などの各分野でも、多くの逸材が活躍しました。
またこの時期は、義満が南宋の官寺の制に倣って五山十刹の制を整えたりするなど、仏教界でも大きな動きが見られました。特に臨済宗は、将軍家・幕府の帰依と保護により大いに発展し、曹洞宗も、地方の武士に広まって北陸で発展するなどしました。


【第4代将軍 足利義持】

幕府の権勢を維持する
義持は、粗暴な所もあって失敗も少なくはなかったようですが、室町幕府の将軍としては最長の在位となる28年間、有能な補佐役達に支えられて幕府を無難に運営した事は、それなりに高く評価されています。
前将軍である父の義満は、征夷大将軍として武家の頂点に立ち、太政大臣として公家の頂点にも立ち、出家した立場から社寺(宗教勢力)の頂点にも立ち、更に、当時の中国の王朝である明に対しては自ら「日本国王」を名乗り、一説によると「治天の君」の地位すらも狙っていたとも云われる程、兎に角絶大な権力を誇っていました。しかし義満が没した後は、それまで義満が力で抑えていた、地方を支配する大名達が再び勢力を盛り返しはじめ、義持はその圧力に悩まされながらも、関東で起こった「上杉禅秀の乱」に対しては、鎌倉公方・足利持氏からの要請に応える形で大軍の幕府軍を派遣し鎮圧するなどして、幕府の権勢維持に努めました。
その後、義持は鎌倉公方の持氏と対立するようになり、その対立は次項で述べる義教の時代に継承されていく事になるため、義持の時代には幕府と関東の確執は解消されませんでしたが、それでも近年では、義持の治世が室町幕府の再安定期だった、という評価もされるようになってきています。

実は水墨画の達人
義持は、決して政治を疎かにしていたわけではありませんが、政治よりも、特に文化・宗教などの方面でより才能を発揮しました。文化の方面では田楽や水墨画を愛好し、現在国宝に指定されている水墨画「瓢鮎図(ひょうねんず)」は、義持が自ら発案し、制作も指導して描かせたものとして伝わっています。義持自身が直接筆をとった水墨画も現存しておりますが、それはいずれも素人離れした高い完成度を誇っています。


【第6代将軍 足利義教】

管領の力を弱めて、将軍が強い実権を持つ政治形態に変えていく
義教は、前述のように「万人恐怖といわれた独裁政治を行った」とされる将軍ですが、なぜそのような政治を行ったのかを理解するためには、当時の時代背景も併せて知っておく必要があります。
義教が将軍に就任した直後、旧南朝勢力の反乱である北畠満雅の乱が起こり、また同時期には、「日本開闢以来、土民蜂起之初めなり」と記された正長の土一揆を切っ掛けに畿内各地で土一揆が起こるなどし、京都周辺は騒然とした状況にありました。地方でも、九州では大内家と大友家の戦が勃発し、関東では、鎌倉公方の足利持氏があからさまに幕府に反発するようになるなどしていました。
そういった騒然とした状況から、義教は将軍の権威を高めて幕府の統制力を強化する事を目指しました。具体的には、廃止されていた評定衆や引付頭人を復活させ、賦別(くばりわけ)奉行を管領直属から将軍直属に変え、政務の決済は将軍臨席の場でする事とし、また、訴訟審理の場からは管領を締め出しました。
管領以下の諸大名の意向を聞きながら政治を行うというそれまでの幕政を変え、将軍が自ら実権を持つ政治形態へと変えていったのです。

将軍独裁による恐怖政治を進める
義教は、くじ引きで選ばれた将軍ではありましたが、将軍としては優秀で、経済や軍事の改革に成功した他、大名や宗教勢力を弱め、将軍に対して不満を言う者は暗殺したり謀殺したり攻め滅ぼすという「恐怖政治」の手法で、将軍の権力を強大化させていきました。そして、幕府の重鎮だった斯波義淳、畠山満家、三宝院満済、山名時煕らが相次いで死去すると、義教の専制政治化は更に進んでいきました。
義教は、上杉禅秀の乱鎮圧の際には幕府と協調した、鎌倉公方の足利持氏に対しても、関東管領の上杉憲実に攻めさせ、更に後花園天皇に持氏討伐の綸旨を出させるなどして、最終的には自害に追い込み、その持氏の遺児である春王丸らも殺害しました。
義教は朝廷に対しても厳しい態度で臨み、男女別室の制度を設けるなどして風紀を正しました。義教は、公家・武家の別や身分等には拘わらず、特に男女関係の不祥事には厳罰で臨みました。また、一揆に対しても、主力大名を投入するなどして次々と鎮圧していきました。

それまでタブー視されてきた勢力に対しても一切容赦しない
比叡山の焼き討ちといえば、織田信長が行った“悪行”のひとつとして古来から有名ですが、実は、信長に先駆けて初めてそれを行ったのは義教です。
平安時代以来、比叡山延暦寺は治外法権状態にあり、歴代の権力者達は比叡山には手を出しませんでしたが、義教は、荘園の境界問題や坂本の土倉の金貸し問題などで悉く比叡山に不利な裁定を下し、更に、鎌倉公方の持氏と内通していたという嫌疑をかけて所領も没収するなど、比叡山には強硬な態度で臨み、ついには、延暦寺追討を宣言して、幕府軍に比叡山を包囲させて山麓の坂本に火をかけるなどの行動を起こしました。
このため、延暦寺は和睦のため4人の使節を義教の元に派遣するのですが、義教はこの4人も殺害したため、怒った比叡山は、延暦寺の本堂に当たる根本中堂に火をかけて、そこで24人の宗徒が自害する事で、抗議の姿勢を示しました。
比叡山に対しての義教のこういった対応は、義教の治世が恐怖政治と云われる由縁のひとつにもなっていますが、しかし当時の比叡山は、現在のように世の中の平和や人々の平安を願う、純然たる宗教組織だったわけではなく、宗教勢力であると同時に強大な武力を持った一大軍事勢力であり、その武力を背景に朝廷や幕府に対して強い自己主張を行う圧力団体であったという事も、差し引いて考える必要があります。
しかも義教は、10歳に満たない頃から、将軍に就任する直前の30年代の壮年まで、僧侶としてずっと比叡山におり、その間には天台座主という比叡山のトップの座にも就いていました。それだけに義教は、比叡山の世俗化に伴う拝金主義、宗教的堕落、過激化する僧兵などの実態を誰よりも正確に把握しており、それが延暦寺への徹底的な弾圧に繋がったとも云われています。

義教の施策とその死は、幕府混迷への大きな転換点となった
義教の恐怖政治には当然反発もあり、最終的に義教は、義教の次の標的が自分である事を察知していた播磨の大名・赤松満祐により、関東平定の戦勝祝いの宴の席で暗殺されました(嘉吉の変)。宴の席で猿楽が始まって間もなく、義教の背後の障子が開き、そこから甲冑姿の武士数十人が乱入して、たちまち義教の首を刎ねたのです。
そして、義教のそのあっけない最期により、幕府の権力は将軍の手を離れていき、室町幕府の衰退が始まっていく事になります。


…というわけで、こうして5人の足利将軍の功績・長所・特徴などをまとめてみましたが、こうしみてみると、足利将軍は決して、無為無策・無能で実力も無かった人ばかりだった、などとは言えない事がお分かり戴けたかなと思います。
しかし、こうして改めてみてみると、同時に室町幕府の抱える大きな欠陥も見えてきます。それは、将軍が有力大名達を抑え付けて幕府の権勢を高め、政情を安定化させても、その将軍が亡くなって代替わりすると、また有力大名達が力を付けてくる、という事です。つまり、室町時代前期に於ける幕府の安定というものは、将軍個人の力量に依拠している部分が大きいのです。
後の江戸幕府が、将軍が誰であるかに関係なく長期に亘って安定政権であり続けたのは、室町幕府のそういった欠点やその結果を反面教師として体制を整備していったという面もあると思います。


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