私は先月中旬、奈良の春日大社(厳密にいうと、同大社境内に鎮座する摂社の若宮神社ですが)で斎行された神前結婚式に媒酌人として参列するため、その日にちに合せて2泊3日の日程で京都・奈良方面を旅行してきたのですが、京都に立ち寄った際、室町幕府や足利将軍家と深い関わりがある古刹である、京都御苑の北隣に位置する臨済宗相国寺派大本山・相国寺を参拝・見学してきました。

相国寺は、京都五山の第二位に列せられている、寺格の高い名刹で、また、寺院としての知名度では、世界的にも有名な京都観光定番スポットの鹿苑寺金閣(所謂 金閣寺)や慈照寺銀閣(所謂 銀閣寺)のほうが有名ではあるものの、相国寺はその鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣の2ヶ寺を山外塔頭として擁し、更に、全国に100ヶ寺もの末寺を擁する大寺院でもあり(ちはみに、相国寺境内には本山相国寺をはじめ13の塔頭寺院があります)、そして、鹿苑寺金閣同様、特に室町幕府第3代将軍の足利義満に深い所縁がある古刹でもあります。
というわけで、私は今まで一度も相国寺には行った事が無かったのでいずれ行ってみたいとずっと思っていた事もあり、今回の旅行に合せて同寺へと行って参りました。

以下の写真はいずれも、今回の訪問で私が撮影してきた、相国寺の総門と境内の景観です。
最盛期に比べるとその規模は縮小されているとはいえ、それでも、一宗派の大本山らしく十分な威容を誇っている巨大な寺院でした。

相国寺_01

相国寺_02

相国寺_03

相国寺_04

相国寺_05

相国寺_06


平成25年11月26日の記事で述べたように、足利義満は、現在の住所でいう京都市上京区室町通り上立売の辺りに、壮麗な将軍家邸宅を構え、そこで将軍として政務を執っていました。広大な邸宅の敷地には大きな池が掘られて鴨川の水が引かれ、庭には四季の花が植えられ、それらの花が爛漫と咲き乱れていたと云い、その美しい様から室町の足利将軍邸は、人々から「花の御所」と称されました。
永徳2年(1382年)、義満はその花の御所の東側の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、早速寺院の建設工事が始まります。その寺院が、現在の相国寺です。

相国寺の造営予定地には既に多くの家々が建っており、御所に仕える公家達の屋敷なども立ち並んでいましたが、相国寺の造営に当たっては、家主の身分に関係無くそれらの家屋は全て余所へと移転させられ、その有様は、まるで平清盛による福原遷都にも似た、かなり強引なものであったと云われています。
ちなみに、寺名の「相国」とは、国を扶ける、国を治める、という意味です。元々は中国からきた言葉ですが、日本ではその由来から、左大臣の位を相国と呼んでいました。つまり、相国寺を創建した義満が当時左大臣で、相国であった事から、相国寺と名付けられたのです。

そして義満は、禅の師であった春屋妙葩に、相国寺の開山となることを要請します。しかし妙葩はこれを固辞し、妙葩の師である夢窓疎石を開山とするのなら、自分は喜んで第二祖になると返答したため、義満はそれを了承し、既に故人となっていた疎石を形の上でだけ開山として、妙葩は第二祖(事実上の開山)となりました。
但し妙葩は、相国寺造営の責任者として終始陣頭で指揮を執ったものの、相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没しています。

ちなみに、義満は相国寺を是非とも京都五山のひとつに入れたいと熱望していましたが、既に五山は確定していたため、もし相国寺を強引に五山に入れると、既に五山に入っているいずれかの寺院が五山から脱落しなければならず、そのため義満は、どの寺院を五山から除くべきか、もしくは、相国寺を準五山とするか、あるいは、五山ではなく六山の制にするか、大いに悩んでいたようです。
最終的には、天皇によって建立された南禅寺を五山よりも上位の寺格(別格)として五山から外す事で、相国寺を五山に列位させて、義満の願いは成就しました。これ以降の具体的な順位は、南禅寺が別格、天龍寺が第一位、相国寺が第二位、建仁寺が第三位、東福寺が第四位、万寿寺が第五位となります。
当初は、義満の意向により相国寺が第一位、天龍寺が第二位とされたのですが、義満没後に再び天竜寺が第一位、相国寺が第二位に戻され、それ以降は順位の変動はありません。

そして、着工から10年を経た明徳3年(1392年)、ついに相国寺の堂塔伽藍が竣工し、盛大な落慶供養が執り行われました。
「相国寺供養記」という本によりますと、落慶供養当日の模様は、「路頭縦と云い横と云い、桟敷左に在り右に在り、都鄙群集して堵(かき)のごとく、綺羅充満して市をなす」と記されており、境内には、聳え立つ真新しい殿堂、威儀を正した僧侶達、義満に供奉する公武の人々、見物の群集などの景色が広がり、祝賀ムード全開、お祭り一色の派手な様相が広がっていたようです。
そしてそのほぼ1ヶ月後に、南朝と北朝との間で和議が成立し、約60年に亘って続いてきた南北朝の抗争も終結し、待望の平和が蘇る事となりました。

創建当時の相国寺は、室町一条辺りに総門があったと云われ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約144万坪の壮大な敷地に50あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。兎に角巨大な寺院でした。
そして、残念ながら現存はしませんが、義満の時代の相国寺で確実に最も目立っていたのは、史上最も高かった日本様式の仏塔でもある「七重大塔」です。この仏塔は、義満の絶大な権勢を象徴するモニュメントでもあり、その高さ(尖塔高)は109.1mを誇り、構築物として高さ日本一というその記録は、大正3年(1914年)に日立鉱山の煙突(高さ155.7m)が完成するまでの凡そ515年間も破られる事がありませんでした。
下のイラストは、「週刊 新発見!日本の歴史 24」誌上からの転載で、義満の時代の相国寺伽藍の全景です。巨大な七重大塔が、強烈な存在感を醸し出しています。

相国寺伽藍


ところが、竣工後の相国寺は度々火災に見舞われ(七重大塔が現存しないのはそのためです)、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に境内は全焼し、その後復興されたものの、義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼しています。
応仁元年(1467年)には、応仁の乱で細川方の陣地となったあおりでまた焼失し(相国寺の戦い)、天文20年(1551年)にも、細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれてまた焼失しています(相国寺の戦い)。
天正12年(1584年)、相国寺中興の祖とされる西笑承兌が住職となって復興が進められ、日本最古の法堂建築として現存する法堂は、この時期に建立されました。しかしその後も、元和6年(1620年)に火災に遭い、天明8年(1788年)の「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇をまた焼失しました。そのため、現存の伽藍の大部分は、19世紀はじめの文化年間の再建となっています。

このように、長い歴史の中で幾度も焼失と復興を繰り返してきた相国寺ですが、相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として、そして、室町幕府の厚い保護と将軍の帰依とによって、これだけの火災に遭いながらも大いに栄えてきた大寺院で、幾多の禅傑を生み出し、我が国の文化にも決して小さくはない役割を果たしてきました。
ちなみに、室町時代中頃の「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)という日記によりますと、第8代将軍の足利義政は、寛正5年(1464年)の一年間だけで、実に四十数回も相国寺を参詣しています。現職の将軍が一年間にこのように何十回も参詣したお寺は他には無く、足利将軍の深い帰依の様子が窺えます。


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