このブログでは、南北朝時代や室町時代について取り上げる事が多いですが、それらの前時代である鎌倉時代に於ける武家社会の権力構造の推移というのも、調べてみるとなかなか興味深いものがあります。

鎌倉時代の武家社会というと、中学校や高校の日本史の授業などでは、武家の棟梁として幕府を統率する将軍と、その将軍に仕える御家人達とが、「御恩と奉公」という双務的・互恵的な主従関係を築いていたと習いましたが、そのような、将軍と御家人の主従関係というのは、今の私は、あくまでも建前に過ぎなかったのではないかと思っています。
現実には、鎌倉幕府の歴代将軍の中で政治的実権を掌握していたのは初代の源頼朝だけですから、鎌倉時代の御家人達にとっての実際の奉公の対象は、頼朝が将軍だった時期を除くと、将軍という個人では無かったはずです。頼朝以外のほとんどの歴代将軍達は、御家人に対する「御恩」、即ち、本領安堵や新恩給与を行う実権を持っていなかったからです。

では、鎌倉時代の御家人達が、自分の命や一族の将来を懸けてまで「一所懸命」に奉公していた対象は何だったのかというと、それは恐らく、御成敗式目などに代表される、幕府による「法による公正な判断と処遇」だったのではないでしょうか。
だからこそ、源氏直系の将軍が僅か三代で絶えた後も、執権や得宗(北条家本家の当主)が有能な人材に恵まれ「公正な判断と処遇」が保障されていた時代は幕府が支持されて栄え、逆に、幕府を運営する執権や得宗、後述する内管領のいずれもが、有能でも公正でも無くなった鎌倉時代末期には、幕府は武家からの信頼を失い、あっさりと崩壊したのでしょう。

勿論実際には、それのみが幕府崩壊の原因ではありません。鎌倉幕府が崩壊した要因を以下にいくつか列記してみると…
元寇は、幕府の領土が拡張する性格の戦争では無く、防衛戦争であったため、元寇で身を挺して活躍した御家人達に対して幕府から恩賞として与える事の出来る土地が無かった。
そもそも鎌倉時代の家の多くは財産の相続を男女平等に、しかも全員に均等に分割していたため、土地がどんどん先細りしていき、仮に元寇が無かったとしても恩賞として土地を与え続ける体制を維持していくには限界が近付いていた。
後醍醐天皇による倒幕の執念が凄まじかった。
…なども、幕府崩壊の重要な要因のひとつとして挙げる事が出来るでしょう。しかし、賄賂が横行するなどして政治が腐敗し「公正な判断と処遇」が保障されなくなった事は、恐らくそれらの要因以上に、幕府崩壊のかなり大きな原因になったであろうと私は思っています。


それにしても、鎌倉時代の武家社会というのは、政治的実権を握る者の地位がどんどん下がっていくという、権力構造としてはかなり特異な特徴が見られます。
そもそも、政治的権力(統治する権限)を朝廷から委任されているという時点で、本当は将軍ですら絶対的なトップではありませんが(建前としては当然、委任される側よりも委任する側のほうが上位ですからね)、とりあえず幕府という組織においては、将軍がトップとして君臨します。実際、初代将軍の頼朝は鎌倉幕府を統べる立場として、ほぼ独裁的な権限を掌中に収めていました。
下の画像は、その頼朝の肖像画として昔から特に有名なもので、初めて武家政権を創立した将軍らしい凛とした威厳が感じられる肖像です(但し近年は、この肖像画は頼朝ではなく、足利直義を描いたものではないかという説もあります)。

源頼朝

頼朝は、治承・寿永の乱、即ち「源平の合戦」を勝ち抜いた事で、日本初の武家政権である鎌倉幕府を開幕する事が出来たわけですが、その「源平の合戦」というのは、実際には、必ずしも源氏と平氏との戦いではありませんでした。
どういう事かというと、頼朝は、同族である従兄弟の木曽義仲と戦って義仲を討ち死にさせ、平氏の滅亡後には自分の弟である義経も討ち、その後、更にもうひとりの弟である範頼も誅殺するなど、凄惨な同族争いをしており、また、頼朝に味方した関東武士の中には、北条氏・千葉氏・三浦氏・和田氏・畠山氏・熊谷氏など、家系としては平氏に連なる一門も多かった事から、結果として彼らも頼朝と共に平氏政権とは対峙しており、つまり実際には、源氏と源氏の間、平氏と平氏の間でも激しい死闘が行われていたのです。
では、「源平の合戦」が、純粋に源氏と平氏という二大勢力が争った合戦ではないのなら、結局あの大乱では、何と何が戦っていたのかというと、一言でまとめるなら、それは「貴族化した平氏を中心とした中央政権」と「源頼朝という源氏の貴種を神輿として担いだ、源氏も平氏も含んだ東国武士団」との戦いであったと言えます。もっと端的に言うと、「京を中心とした西国」と「関東を中心とした東国」、もしくは「中央」と「地方」の戦いであったとも言えます。

ようするに、当初の頼朝は、あくまでも東国武士団の“神輿”に過ぎなかったのです。極論すれば、関東の武士団にとっては、自分達の旗印となるに相応しい(平氏政権に対抗出来そうな)血筋の良い御曹司でさえあれば、別に頼朝以外の人物を担ぎあげても良かったのです。
そのため、挙兵して間もない頃の頼朝は、まだ独裁的な強権を発動できる程の力はありませんでした。例えば、富士川の戦いで平維盛の率いる軍勢に勝利した後、頼朝自身は、その勢いに乗ってそのまま上洛する事を望みますが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らが、まず東国を平定すべきであると諌めたため、頼朝はその意見に従って、黄瀬川に兵を引き返しています。この時点ではまだ、自分の意見を押し通す事は出来なかったのです。

しかし、その後の頼朝は実力をつけ、軍人としてよりもむしろ政治家として著しく頭角を現し(軍の指揮官としては弟の義経のほうが明らかに優秀でした)、権謀術数をめぐらして自分の抵抗勢力となりそうな者は味方といえども次々と粛清し、幕府が成立する頃には、「鎌倉殿」として独裁的な権力を振るうようになっていました。
つまり、頼朝の強大な権力は、単に血筋だけで自動的に継承されたものではなく、自分自身の能力や実績により得たものであるわけですから、その点については私も素直に「凄いな」と思います。頼朝は結構苦労人なのです。もっとも、この点については、他の初代将軍である足利尊氏や徳川家康も同じですが。2代目以降は兎も角、初代だけは、単に血筋だけでは旧政権を打倒して自らの新政権を築き上げる事は出来ませんからね。
頼朝は猜疑心の塊のようなイメージがあるので、もし私の身の回りにいたとしたら、個人的にはあまりお友達にはなりたくないタイプですが(笑)、それは兎も角、全く何の権限も持たない(むしろ権限を制限される立場の)伊豆の流人から、日本で初めて創設された幕府の初代将軍にまで上り詰めただけあって、その政治力やカリスマ性などは卓越したものがあり、頼朝が極めて有能な人物であった事は間違いありません。

ところが、その頼朝が没すると、2代目の将軍となった頼家は、頼朝に比べると能力的にかなり劣っていた上に公正な態度でもなかったため、大多数の御家人達から支持を得られず、政治的な実権を奪われてしまいます。
そして、有力御家人達による合議制で政治が行われるようになるものの、権力闘争の末にその合議制は崩壊し、頼家は失脚後に暗殺され、その跡を継いで3代将軍となった実朝も暗殺され、源氏の直系は絶えてしまいます。
そういった血なまぐさい抗争期を経て、本来は将軍の補佐役に過ぎない「執権」という役職に幕府の政治的実権が移るようになり、更に、評論家の山本七平氏が“日本史上最大の事件”と定義付ける「承久の乱」で幕府が後鳥羽上皇に勝利した事により幕府の権力は絶対的なものとなり、それに比例して執権の権力もより高まり、そしてその執権の地位は、幕府の中では最有力御家人の北条氏が代々世襲するようになります。
実朝が暗殺されて以降の鎌倉幕府が北条幕府と称される事もあるのはそのためです。

しかし、執権で最も有名な人物といえば、平成13年のNHK大河ドラマの主人公にもなった、元寇(文永の役・弘安の役)という未曾有の国難に対処した北条時宗ですが、その時宗の官位・官職は正五位下相模守で、朝廷の官位でいえばかなり下位であり、名目上はあくまでも関東の一地方官に過ぎません(但し没後600年以上経った明治時代に、元による日本侵攻を退けた功績により、時宗は明治天皇から従一位が追贈されています)。
建前としては一地方官に過ぎないその執権が、事実上の日本の最高権力者として国政を取り仕切り、そして、当時世界最大の帝国であった元の軍勢と戦い(時宗自身が戦場で直接軍勢を率いて戦ったわけではありませんが)、それを撃退したのです。
下の画像は、その北条時宗の肖像画(出家後の姿を描いたもの)です。時宗の生涯は、まるで元寇に対処するために生まれ、そのために全ての力を使い切ったかのような生き様で、二度に亘る元寇を防ぎ、古代・中世を通して日本最大ともいえる国難を乗り切った後、時宗は満32歳という若さで病没しました。

北条時宗

その後、幕府の実権は執権から得宗へと移り、執権の地位すら形骸化していきます。時宗の時代より少し前に遡りますが、時宗の父である、「鉢の木」のエピソードでも有名な北条時頼は、執権を引退した後も得宗としてそのまま強大な政治権力を保持し続けたので、既にその頃から、執権の形骸化は進んでいました。
そう考えると、時頼や時宗は確かに有能な執権ではありましたが、実際には、執権という役職であったからというよりも、むしろ得宗であったからこそ、その政治的手腕を存分に発揮する事が出来たのではないかという気もします。実際、得宗であった執権には実権がありましたが、得宗ではない執権、即ち北条家傍流の執権は、あくまでも“中継ぎ”と見なされ、あまり政治的な実権はありませんでした。
ちなみに、知名度でいえばやはり時宗のほうが上ですが時頼も、その態度は公正で、質素・堅実でもあり、大多数の御家人(弾圧対象となった反得宗勢力の御家人を除く)や民衆に対して善政を敷いた事から、一般には名君として高く評価されています。

そして鎌倉時代末期には、得宗家の家臣(得宗の家政を司る執事)に過ぎない内管領が、得宗に代わって権力を振るうようになります。
そもそも内管領は、幕府の公式な役職名ではなく、その立場も、現代でいえば県知事(朝廷の官位でいえば執権はその位に相当)が個人的に抱えている何人かいる秘書の中では主席の人、という程度の役職と思われますが、そんな下位の地位にある者が、事実上、内政・外交・軍事・裁判まで行っていたのですから、本来であれば越権も甚だしい事になります。
内管領といえば、個人的には、平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」に登場した、フランキー堺さんが演じた長崎円喜が思い出されます。円喜は、末期の鎌倉幕府に於ける実質的な最高権力者で、得宗以上の絶大な権力を振るいましたが、同時に、末期の鎌倉幕府の腐敗ぶりを象徴する、かなりダーティーな人物でもありました。

以上の事からも分かるように、鎌倉幕府というのは、表面的なトップは一貫して将軍であるものの、実際にその政治的実権を握る者(フィクサー)は、「将軍 → 執権 → 得宗 → 内管領」という順に、どんどん下降していった組織なのです。
厳密にいえば、将軍(頼朝)独裁期から執権専制期にかけての過渡期には、前述のように有力御家人による合議制という政治体制もあったのですが、兎も角、後の室町時代とも江戸時代とも明らかに違う、鎌倉時代特有のこの独特な武家社会の構造は、なかなか興味深いものがあります。


では、鎌倉幕府の次の室町幕府の場合はどうだったのかというと、病弱のため十代で早世した5代将軍・足利義量を除くと、室町幕府では少なくとも6代将軍の足利義教までは、将軍自身が政治的な実権を掌握していました。
その時点でまず鎌倉幕府とは異なりますが、義教が暗殺されて以降は、鎌倉時代末期よりももっとカオスな状況になり、鎌倉幕府のように政治的な実権を握る者の立場が下降していった、というよりは、政治的な実権を握る者がいったい誰なのかも分からない、そもそも誰も実権を握っていない、という無秩序な状態に陥り、その結果として、下克上の戦国時代へと突入していきました。

ちなみに、鎌倉幕府と室町幕府の違いについてもう一点指摘すると、中学や高校の日本史の教科書等に掲載されている幕府の組織図では、鎌倉幕府の場合は執権が、室町幕府の場合は管領が、それぞれ将軍の補佐役として、将軍に次ぐナンバー2の地位として図示されていますが、建前としては兎も角現実には、執権と管領には立場や役割に差があり、その職掌は同一ではありませんでした。
はっきり言うと、単なる“お飾り”に過ぎない実権の無くなった将軍に代わって幕政全般を司る執権のほうが、室町幕府の管領よりも、より政治的な実権を握っていた、と私は解しています。

管領は、幕府の最高権力者として君臨する、直接の上司に当たる将軍と、一応は管領の部下的な立場になるものの鎌倉時代の御家人達よりは強い力を持っている事が多かった守護・守護大名という、明らかに利害が対立する上下関係の板挟みとなって、両者に気を遣いながらその権益を必死に調整するという、地位の高さに反して見返りが少ないばかりか損な役回りでもあり、実際、管領になった者は上からも下からも恨みを買って失脚や敗死する事が多く、足利一門でもある斯波・細川・畠山の三管領家は、管領への就任を嫌がったり、就任しても直ぐに辞任したがるなどしました。
そういった意味では、管領よりも執権のほうが実質的な“うま味”はあったでしょうし、その執権の地位を常に一族(特に得宗家)で独占し続けてきたからこそ、北条家は鎌倉時代末期まで、徐々に陰りが見えながらも一応は何とか権力を維持出来たのでしょう。


それでは、室町幕府の次の江戸幕府の場合はどうだったのかというと、少なくとも江戸時代前期から中期にかけては、江戸幕府では将軍自身が政治的な実権を掌握していた事が多く、その点で、やはり鎌倉幕府とは異なります。
時期によっては大老・老中・側用人・その他の幕臣などが政治を動かす事もありましたが、江戸時代後期以降でも、時には将軍自身が強力なリーダーシップを発揮する事もありました。

例えば、平成10年のNHK大河ドラマの主人公にもなった、最後の将軍として有名な徳川慶喜は、将軍在任期間中は一度も江戸城に入っていないにも拘わらず、京の都から幕府を指揮し、諸外国からも実質的な日本の支配者とみなされていました。この点は、戦国時代という混沌とした時代を招き、末期の頃は幕府の本拠地である山城国一国すら維持出来なかった、弱体化が著しかった室町幕府とも異なる所です。
もっとも、その慶喜の時代に江戸幕府は崩壊し、それにより、頼朝以来続いてきた約700年間の武家政治も終焉を迎えたわけですから、結果的に慶喜の治世は失敗に終わった事になりますが、それでも私は、慶喜は政治家としては極めて優秀な人物であったと思っています。征夷大将軍という武家の棟梁として本当に相応しい人物であったのかどうかは、また別問題ですが。


こうして改めて比較してみると、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は、一見よく似ているように見える武家政権でありながらも、それぞれの権力構造の推移というのは決して同一ではなく、実に興味深いです。


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