私は先週、2泊3日の日程で、東京・熱海・浜松方面を旅行してきました。
東京では、いつも通り区内の神社・仏閣・史跡等をいくつかまわってきましたが、今回は区外の日野市にも足を伸ばし、同市高幡にある、関東三大不動のひとつ「高幡不動尊」も参拝・見学してきました。
ちなみに、一般に広く知られている高幡不動尊という名は通称で、寺院としての正式名称は「真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺」と云います。

日野は、江戸時代末期の京都や明治時代初期の戊辰戦争などで活躍し今も人気の高い、新選組副長・土方歳三の出身地としても有名なため、高幡不動尊も、歴史好きの人にとっては新選組関係のスポットとして知られており、実際、高幡不動尊境内には隊服姿の土方歳三の像が立っています。
実は私も個人的に土方歳三は結構好きで、過去には土方所縁の地を何か所も訪ねてもいます(具体的には、京都の壬生寺・西本願寺・金戒光明寺・旧八木邸・旧前川邸・池田屋事件跡・伏見奉行所跡、会津の鶴ヶ城・旧滝沢本陣・近藤勇の墓・清水屋旅館跡・会津新選組記念館、函館の五稜郭・土方歳三最期の地碑・土方歳三凾館記念館など)。

高幡不動尊の土方歳三像


しかし、今回の高幡不動尊参拝・境内散策で、特に私の目を引いたのは、正面に「上杉憲顕公墳」という篇額が掲げられている小さなお堂でした。「上杉堂」「上杉憲顕の墳」などとも称されているこのお堂は、その名が示すように、上杉憲顕という武将の墓所です。

高幡不動尊の上杉堂_1

高幡不動尊の上杉堂_2

一般に上杉憲顕というと、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍し、初代関東管領を務めた、山内上杉家の始祖となった上杉憲顕を思い浮かべる人が多いと思いますが、この上杉堂で祀られている上杉憲顕は、その憲顕とは同名の別人で、室町時代中期の、犬懸上杉家のほうの上杉憲顕です。
はっきり言うと、初代関東管領の上杉憲顕に比べるとかなりマイナーな人物で、しかも、この人物を漢字で表記する場合、大抵は「上杉憲秋」と表記される事のほうが多いので、同名二人の混同を防ぐため、この記事でも以降は憲秋と表記します。


憲秋に関しては、現在学校で習う日本史に於いては、当人よりもその父親であり関東管領も務めた上杉氏憲、通称・上杉禅秀のほうが名前を知られています。禅秀は、俗に云う「上杉禅秀の乱」という戦乱を起こした人物であるからです。
上杉禅秀の乱とは、簡潔にまとめると、犬懸上杉家の上杉禅秀が、主君である第4代鎌倉公方の足利持氏から関東管領を更迭され、自分とは対立関係にあった山内上杉家の上杉憲基が次の関東管領に任じられた事から、それを恨んで、足利持氏に対して起した反乱です。
挙兵した禅秀の軍勢は、一時は鎌倉を制圧下に置くなど善戦しますが、足利持氏と上杉憲基らはその直前に鎌倉の脱出に成功し、持氏は駿河の今川範政の元に逃れ、そこから幕府に援助を求めました。室町幕府第4代将軍 足利義持は、その求めに応じて持氏・憲基らを支持する事を決定し、禅秀討伐の軍勢を差し向け、これにより、駿河や相模などで、幕府・鎌倉公方・関東管領の連合軍と、前関東管領(禅秀)の軍が衝突します。
結果は、禅秀が敗北し、禅秀は鎌倉雪ノ下で自害し、この敗北から犬懸上杉家は没落しました。

憲秋はその禅秀の子で、上杉禅秀の乱では父に従って一軍を率いて足利持氏と戦いましたが、病のため途中で戦線を離脱して京都へと逃れたため、この戦乱では命を落とす事はありませんでした。
しかし関東ではその後、「享徳の乱」が勃発します。この乱は、第8代将軍 足利義政の時代に起こった関東地方に於ける大規模な内乱で、第5代鎌倉公方で後に初代古河公方となる足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を暗殺した事に端を発して、幕府、鎌倉公方(古河公方)、山内上杉家、扇谷上杉家などが争い、その戦火は関東地方一円に拡大し、関東に於ける戦国時代到来の遠因ともなりました。

憲秋は、その享徳の乱の初戦に於いて、足利成氏(憲秋にとっては、父の仇である持氏の子)を討伐するため、扇谷上杉家の上杉顕房や、長尾景仲らと共に転戦し、先陣も務めたものの、成氏の猛攻の前に立川河原で破れ、最期は深手を負って高幡寺に入り、そこで自刃して果てました。
憲秋のその最期の地が、現在の高幡不動尊で、高幡不動尊境内に憲秋の墓所である上杉堂が建っているのは、そういった経緯によるものです。

高幡不動尊の上杉堂_3

上杉堂の堂内中央に安置されている自然石は、「茶灌石」(ちゃそそぎいし)、「茶湯石」などと称され、憲秋の墓標とされています。
壁に立てかけられている沢山の塔婆、あちこちから吊るされている千羽鶴、壁や柱に貼られている多くの千社札、お供えされている綺麗な花、清掃が行き届いている様子など、堂内の現況からは、ここには今も信仰が根付いているんだなという事が感じられました。ただ、その信仰は、上杉憲秋という武将個人に対してというよりは、堂内の仏像や茶灌石に対してのものなのかなとも感じましたが。


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