私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪、京都、四国の高松方面を旅行してきました。
3日目の午前中は京都の嵯峨・嵐山地区を散策し、その際、先月8日の記事で報告したように嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という寺院を参拝・見学してきたのですが、宝筐院を見てきた後は、嵯峨野々宮町に鎮座する「野宮神社」(ののみやじんじゃ)も参拝してきました。

そして、野宮神社を参拝した後はJR嵯峨嵐山駅から京都方面行きの電車に乗ったのですが、野宮神社から嵯峨嵐山駅へ徒歩で移動中、天龍寺の山門(正門)や京福電鉄嵐山駅の直ぐ近くでたまたま見かけたのが、この「光厳天皇髪塔」です。
光厳天皇は、持明院統の後伏見天皇の第三皇子で、一般には、「北朝の初代天皇」と解されている天皇です。足利尊氏の後ろ盾を得て復権した後醍醐天皇が、光厳天皇を廃して重祚し、その後尊氏との抗争に敗れて吉野へと逃れた事によって、吉野の後醍醐天皇と、光厳上皇の院宣を受けて京都で即位していた光明天皇により南北朝の並立が始まる事から、そういった時系列を考査すると厳密には、光厳天皇ではなく光明天皇が北朝初代の天皇なのですが…。

光厳天皇髪塔_01
光厳天皇髪塔_02

光厳天皇は、鎌倉幕府によって隠岐島へと配流された後醍醐天皇が隠岐島から笠置へと出奔した事により、幕府に擁立されて、「三種の神器」無しで践祚されますが、後醍醐天皇の綸旨を受けて討幕のため挙兵した尊氏の軍勢が京都の六波羅探題を襲撃した際、探題北条仲時・北条時益らと共に東国へ逃れようとして近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。
そして、復権した後醍醐天皇により「天皇としては即位していなかったが特例として上皇待遇とする」とされて、即位の事実も否定されてしまいます。

しかし、後醍醐天皇と尊氏が決別した後は、光厳上皇は尊氏からの求めに応じて新田義貞追討の院宣を下すなどして尊氏と協調し、室町幕府が成立してからは「治天の君」として、幕府庇護の下、北朝で院政を行います。
ところが、南朝軍が京都を一時奪回した際に南朝側に拉致されてしまい、その後は南朝側の本拠地である吉野の賀名生で失意のうちに出家し、帰京を許された後は嵯峨小倉に隠凄し、世俗を断って禅宗に深く帰依します。その後、巡礼の旅に出て、法隆寺や高野山を経て再び吉野を訪れるなどし、最終的には京都の常照皇寺で崩御されました。
武家同士、朝廷内部、武家と朝廷間、それぞれの熾烈な派閥争いに否応なく巻き込まれ、南北朝動乱に翻弄される激動の人生を送られた天皇といえます…。

「光厳天皇髪塔」は、その光厳天皇の御遺髪が納めらている場所です。その名の通り本来は髪塔でしたが、いつの頃からか「塔」は無くなり、現在は「塚」となっています。
ちなみに、光厳天皇の陵墓は、崩御の地である京都市右京区京北井戸町の常照皇寺にあり、分骨所は、大阪府河内長野市天野町の金剛寺にあります。

なお、昨年4月20日の記事でも述べたように、室町時代から江戸時代中期頃までの約400年間は、現在とは異なり一般には北朝が正統と認識されており、室町時代半ばに後小松天皇の命により洞院満季が撰進した皇室系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、光厳天皇を始めとする北朝の天皇が正統な天皇として記され、北朝と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、歴代天皇としては認められていませんでした。
しかし、昨年5月4日の記事で解説したように、国定教科書の記述内容の是非をめぐって沸き起こった南北朝正閏論争により明治時代以降(今から約100年前から)は南朝が正統とされるようになり、そのため北朝は正統性が否定されて、そのまま現在に至っています。
とはいえ、北朝側の天皇も皇族である事には変わりありませんし、そもそも現在の皇室は、血統としては南朝ではなく北朝の系統でもあるので、北朝の正統性が否定されても「光厳天皇髪塔」は今も宮内庁の管理地となっており、また、宮中では現在も、光厳天皇を始めとする北朝側の天皇も皇霊殿(宮中三殿のひとつ)で、他の歴代天皇や皇族と共にお祀りされています。


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