この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

2015年04月

勇猛果敢な足利尊氏!?

確か一昨年頃だったと思いますが、私は、朝日新聞出版から順次刊行されていた全50号の「週刊 マンガ日本史」というシリーズの、足利尊氏(13号)、足利義満(14号)、足利義政(15号)の3冊を書店で購入しました。
この「週刊 マンガ日本史」は、日本史の偉人のうち特に50人をピックアップして、各号で一人を特集し、その人物の生涯(大まかな概要)や主要エピソードなどをマンガで再現するというシリーズで、このシリーズで室町幕府の将軍は、前記の3人が取り上げられていました。個人的には、足利義詮、足利義教、足利義輝、足利義昭なども取り上げて貰いたかったですが、まぁ、世間一般の評価としては、尊氏・義満・義政以外の足利将軍は、やはりマイナーな存在なのでしょうね(笑)。

週刊マンガ日本史_13号表紙

週刊マンガ日本史_14号表紙

週刊マンガ日本史_15号表紙

この3冊それぞれのマンガを一読したところ、義満と義政の2人については、世間一般が恐らく両者に抱いているであろう通りのイメージにほぼ沿った描かれ方でした。
即ち、義満は、「室町幕府の最盛期を築いた将軍」「絶対的な権力者」「有能ではあるが傲岸不遜」な人物として、義政は、「文化人、もしくは文化を支援する立場としては一流の人物、但し政治家としては限りなく無能」「応仁の乱の原因をつくった張本人のひとり」として、それぞれ描かれていました。

それに対してし、尊氏の描かれ方は、私にとっては意外でした。
昨年11月6日の記事で書いたように、私は尊氏に対しては、「気弱で優柔不断で決断力にも欠ける、どことなく頼りない武将」「信長・秀吉・家康のように自ら積極的に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではない」「元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある“おぼっちゃん”ではあるけれど、その割には傲慢な所や私利私欲は全く無く、育ちがいいだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容」という人物像を抱いています。

足利尊氏とは、武家の棟梁の割には、性格や言動はあまり英雄らしくはなく、しかし、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確実に持っており、その魅力や人望、そして強運によって、幾度となく訪れた困難を乗り切り、環境や運命に半ば強いられる形で表舞台に立ち続けた複雑で屈折した人物である、と私は解釈しているのですが、「週刊 マンガ日本史」13号のマンガで描かれていた尊氏は、私のイメージとはほぼ真逆で、強力なリーダーシップを発揮し、自ら果敢に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの猛将でした(笑)。
以下に、このマンガの一部を転載します。尊氏のビジュアルも、何だか今風の若者です(笑)。


週刊マンガ日本史_足利尊氏01

週刊マンガ日本史_足利尊氏02

週刊マンガ日本史_足利尊氏03

週刊マンガ日本史_足利尊氏04

週刊マンガ日本史_足利尊氏05

週刊マンガ日本史_足利尊氏06

週刊マンガ日本史_足利尊氏07

週刊マンガ日本史_足利尊氏08

…というわけで、兎に角このマンガでの尊氏は勇ましく、「この鬼の刃が足利の時代を斬り開く!」「乱世に挑む気概のある者は我とともに戦え!!」なんて勇ましいセリフも言っちゃいます。凄くカッコイイけれど、私の知っている尊氏ではありません(笑)。

あと、上に転載したマンガにも登場していますが、このこのマンガでは、後醍醐天皇も何だか凄いです。過剰なまでにダークな面が強調されていて、まるでゲームでいう“ラスボス”のような、あるいは、全てを意のままに操るフィクサーであるかのような、独特・異様な雰囲気を醸し出しています。こちらも、私の知っている後醍醐天皇ではありません(笑)。

「週刊 マンガ日本史」シリーズでの、義満や義政についての内容は私の予想の範囲内でしたが、尊氏については、私にとっては何とも斬新でした(笑)。


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足利義詮と楠木正行の菩提寺である宝筐院を参拝してきました

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪・京都・高松方面を旅行してきました。3日目の午前中は、京都の嵯峨・嵐山地区を散策してきたのですが、その際、嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という、臨済宗系の単立寺院を参拝・見学してきました。

宝筐院_01

宝筐院_02

宝筐院は、境内にある庭園の景色が美しく、特に、初夏の新緑、晩秋から初冬にかけての紅葉、冬の雪景色などは大変美しいと評判ですが、私が行った時期は緑も紅葉も雪も無く、そのため季節的には「ちょっと微妙かも…」という感じでした。
そうであるにも拘らず、今回私があえて宝筐院に行ってきたのは、庭園の景色を楽しむためではなく、足利義詮のお墓と楠木正行の首塚をお参りするためだったからです。お墓参りをする分には、境内の景色は別に関係無いですからね。
宝筐院は、生前は敵同士であった、室町幕府第2代将軍 足利義詮のお墓と、南朝に仕えた楠木正行(名将・楠木正成の息子)の首塚が、仲良く並んで立っているお寺としても知られています。


宝筐院は、平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、南北朝時代に夢窓国師の高弟・黙庵周諭禅師が中興開山した寺院です。
その黙庵に帰依した足利義詮によって伽藍の整備が進められ、当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていたと記録されています。
その一方で、足利家とは敵対関係にあった楠木正行もまた黙庵に帰依していた事から、四條畷の戦いで正行が足利方の高師直・師泰兄弟に敗れて討死した後、正行の首級も黙庵によって同寺に葬られました。

義詮が没した後、宝筐院(当時の名は善入寺)は義詮の菩提寺となり、室町幕府歴代将軍の保護もあって大いに隆盛しました。最盛期には、備中や周防などにも寺領を構えていたそうです。
しかし応仁の乱以後、宝筐院は幕府の衰えと共に衰退していき、江戸時代には天龍寺末寺の小院となり、伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり、幕末には一旦廃寺となります。
その後、臨済宗天龍寺派管長の高木龍淵や、神戸の実業家 川崎芳太郎などによって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興(旧境内地の買い戻し、新築、古建築の移築、主な什物類の回収など)が行なわれ、廃寺から五十数年を経て復興されて、現在に至っています。


下の写真2枚は、本堂の正面全景と本堂内で、ここには木造十一面千手観世音菩薩立像が本尊としてお祀りされています。

宝筐院_03

宝筐院_05

そして本堂には、本尊とは別に正行の木造もお祀りされていました。
元々は義詮の菩提寺であり、宝筐院という寺名も義詮の院号である宝筐院から取られたものなのですが、大正期に復興されて以降の宝筐院は、義詮の菩提寺というよりは、正行の菩提寺である事のほうが強調されている感があります。

宝筐院_04


下の写真が、境内の一画に並んで立っている義詮のお墓と正行の首塚です。門と柵で囲われており、中央の門扉には、足利家と楠木家それぞれの家紋が描かれています。

宝筐院_06

宝筐院_07

下の写真の左側が、義詮のお墓と伝えられる三層石塔で、右側が、正行の首塚と伝えられる五輪石塔です。
生前は敵であった正行が宝筐院(当時の名は観林寺)に埋葬された事を知った義詮は、正行の人柄を褒め称え、「自分が死んだ後は、かねてより敬慕していた観林寺の楠木正行の墓の傍らに葬って貰いたい」と言い、その遺言に従って義詮のお墓は正行の首塚のすぐ隣に立てられたと伝えられています。

宝筐院_08

なお、今回の記事に添付した写真には写っていませんが、墓前にある石灯籠の書は、明治・大正期の文人画家 富岡鉄斎の揮毫で、そこに記されている「精忠」は、最も優れた忠を意味し、「碎徳」は、一片の徳、即ち敵将を褒め称えその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片に過ぎないという意味で、義詮の徳の大きさを褒めた言葉とされています。


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