しかしそんな私でも、恥ずかしながら、実は20歳を超えるまで「関東公方(かんとうくぼう)」という存在はほとんど全く認識しておりませんでした。
「関東公方」とは、狭い意味では、室町幕府を創設した足利尊氏の三男である足利基氏(下の写真は基氏の坐像です)に始まる「鎌倉公方」の事を指し、広い意味では、その鎌倉公方と、鎌倉公方の後身である「古河公方」の二つの総称であり、更にもっと広い意味では、鎌倉公方や古河公方に加え、古河公方の傍流である「小弓公方」や、古河公方とは対立関係にあった、8代将軍 足利義政の弟足利政知に始まる「堀越公方」なども含めた総称として使われています。
とはいえ、関東公方の中では、やはり鎌倉公方の存在が最もよく知られおり、そのため「関東公方=鎌倉公方」と認識している人も、かなり多いのではないかと思われます。
鎌倉公方とは、簡潔に一言でまとめると、室町幕府の征夷大将軍が、室町幕府の関東に於ける出先機関として設置した、「鎌倉府」の長官の事です。関東8か国に伊豆・甲斐両国を加えた計10か国の統治を幕府から委託された、関東に於ける地方機関のひとつである鎌倉府の長、という事です。
つまり鎌倉府は、形式的には、奥州探題や九州探題などと同様に、あくまでも幕府が設置した一地方機関に過ぎないのです。しかし実際の鎌倉公方は、単なる一地方機関の長とは言えない程の強大な権限を持ち、守護と関東管領の任免権以外は、ほとんど京都の将軍に匹敵する程の力を持っていました。
そのため鎌倉府は、まるで関東に於ける「ミニ幕府」的な、室町幕府とは別の「独立政府」的な様相さえ見せ、幕府の忠実な手足となって働くどころか、時には京都の幕府と露骨に対立するような事態をも招く事になりました。
という事はつまり、室町時代や、その後に続く戦国時代を正確に理解するためには、その前提知識として、まず、関東公方とは何だったのか、という事を理解しなくてはならないのです。
ところが、中学や高校の日本史の教科書・参考書などに大抵掲載されている、鎌倉・室町・江戸の各幕府の、職制を紹介する大まかな組織図などを丁寧に見ていれば関東公方、特に鎌倉公方の存在を見落とす事は無かったはずなのですが、前述のように、結果的に私は長い間見落としており、しかも、私が学生時代に受けた日本史のテストや、当時使っていた問題集等で関東公方についての問題が出題された事も皆無だったため、日本の中世史に於ける関東公方の意義や重要性を、当時は全く認識していなかったのでした。
そのため、初めて関東公方や、鎌倉公方を補佐する関東管領、その他の関連事項や一連の歴史などを知った時は、少なからず衝撃を受けました。
多分誰もが名前くらいは聞いた事が有るであろう「征夷大将軍」「執権」「管領」「大老」「老中」「奉行」などの、武家政権に於けるメジャーな役職に比べると、確かに「鎌倉公方」や「関東管領」はマイナーな役職ですが、それでも、関東公方や関東管領とは結局いかなるものであったのかという事を理解していないと、日本の中世史をすっきり理解する事はほぼ不可能であり、そうであるにも拘らず、それを今まで認識していなかった自分の無知を、私は恥ずかしく思いました…。
現在の日本の行政・立法・司法などの、国家の根幹となる仕組みの大枠は、基本的には明治維新から始まり、それ以降、断絶する事なく今に続いているものと私は理解しています。
終戦直後アメリカに日本が占領された時期に、かなりの大規模な改革が行われ、国の最高法規である憲法もその時期に変わりましたが、それでも、立憲君主制、議会制度、内閣制度など根本的なものは、戦争以前から既に確立しており、アメリカの日本占領によって突然現れたものではないからです。
では、現在の日本にも直結するその明治維新はなぜ起こったのか、というと、それは「江戸時代」というひとつの時代が終焉したからです。つまり、江戸幕府が崩壊したからです。当然の事ながら、もし江戸幕府がその後も存続していたとしたら、明治維新は起こらなかったか、もし起こっていたとしても、私達が知っている明治維新とは全く違う形になっていた事は間違いありません。
では、なぜ江戸幕府は崩壊したのでしょうか。一般には、「幕末」という時代はペリーの浦賀来航から始まったと解される事が多く、確かに、ペリーの来航が江戸幕府崩壊のひとつの大きな引き金となったのは確かですが、しかし、幕府を直接討幕したのは、ペリーや彼の母国であるアメリカではありません。幕府を倒したのは、よく知られているように、薩摩と長州の両藩を中心とした西国諸藩の勢力です。
では、なぜ薩長が幕府を倒す勢力に成り得たのか、というと、その遠因は、関ヶ原の合戦で西軍に組した島津家(薩摩)や毛利家(長州)に対して、勝者となった東軍(家康)が下した処遇にまで遡る事が出来ます。
特に毛利家は、関ヶ原の合戦以降、凡そ260年もの間、徳川家に対して恨みを抱き続けていました。結果としては、先祖代々のその根深い恨みが幕末に一気に花を開き(?)、関ヶ原以来の積年の恨みを晴らした、とも言えます。
その関ヶ原の合戦は、なぜ起こったのでしょうか。
合戦が起こった当時、既に秀吉は没していたため、この合戦は家康と秀吉が直接対決したわけではありませんが、この合戦が事実上、徳川勢と豊臣勢の対決であった事は誰の目にも明らかです。
つまり、合戦の原因をつくった張本人は、家康と秀吉の二人であったと言って、差し支えないでしょう。西軍の事実上の中心的人物は、よく知られているように石田光成ですが、その光成も、秀吉がいなかったとしたら世に出る事は無かった人でした。
しかし、その秀吉も、いや、これについては家康も全く同様ですが、そもそも秀吉や家康は、どちらも、もし織田信長が存在していなかったとしたら恐らくは歴史の表舞台には出て来る事の無かった武将ですから、もし信長がいなかったとしたら、関ヶ原の合戦も恐らく起こってはいなかったはずです。
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに 食ふは徳川」という有名な狂歌にも示されているように、まずは信長が旧体制を次々と打破していき、その後で、信長の家臣であった秀吉が、信長の後継者としてその跡を実質的に継いで、軌道修正を施しながらも信長の政策を引き継いで新体制を築き上げ、そして、その二人の業績があったからこそ、最終的に家康は、260年にも及ぶ徳川時代の基礎(幕藩体制)を確立する事が出来たのです。
このように明治維新の遠因をどんどん遡っていくと、実は簡単に信長の時代位にまでは遡る事が出来ます。
そういった意味では、私は特段信長のファンというわけでは無いですし、信長を過大評価する気もありませんが、明治維新に限らず現代の日本の情勢や仕組みといったものに与えた信長の影響は、決して小さくは無いと思っています。
もっとも、信長が「天下布武」を掲げてあれ程縦横無尽に活躍する事が出来たのは、あの時代が「戦国時代」という下克上の時代であったからです。信長が一個人として卓越した能力の持ち主であった事は間違いありませんが、それだけではなく、当時の時代背景や、その時代に恵まれた信長の“運”といったものも、やはり見逃せません。
では、なぜあの時代が戦国の世であったのかというと、それは、室町幕府という当時の中央政権が、その後に成立する江戸幕府よりも非常に緩やかな連合体であった(つまり力が弱かった)という事と、それに加え、室町幕府初代将軍・足利尊氏の長男である2代将軍義詮の血統である足利将軍家と、尊氏の三男である基氏の血統である鎌倉公方足利家の激しい対立(永享の乱、享徳の乱など)が、結果的に関東に大混乱を呼び起こし、そうした混沌とした状況が、初めての戦国大名として登場する北条早雲に付け入る隙を与え、そういった経緯を経てまず関東が全国に先駆けて戦国時代に突入する事となり、そして京都でも、幕府の地位低下から、将軍職の継承と管領家の家督相続をめぐって応仁の大乱が起こり、こうして日本は、全国的に本格的な戦国時代に突入する事になっていったのです。
つまり、現代の日本が「関東公方」から直結しているとまで言ってしまうのはさすがに大風呂敷を広げ過ぎかもしれませんが、しかしどんどん歴史を遡っていくと、少なからず関東公方の存在には確実に触れる事にはなるのです。
歴史というのは、過去から未来に向かって絶える事なく連綿と続く長い時間の経過であり、その経過の一部分を輪切りにして一点だけに着目しても、その事柄・事件・人物等の本質は見えてはきません。そういった意味では、現代の日本へと続く歴史を考える上で、特に、どうして戦国時代が起こったのかという事を考える上では、関東公方は避けて通れない存在である事に、私は20歳を過ぎてから漸く気付いたのでした。
更に言えば、私は戦国武将の中では、義に生きた上杉謙信が好きなのですが、その謙信についても、関東管領を知らずに正確に理解する事は極めて困難です。
謙信は、関東管領であった上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られた事により、長尾から上杉へと改姓し関東管領の職も引き継ぎ、謙信にとってはその事が、対外的な戦では常に大きな大義名分となり、そして、謙信の死を以て関東管領という伝統的な職も終焉を迎えたのですから。
というわけで、かなり長々と書いてしまいましたが、ざっくり一言でまとめると、「関東公方や関東管領は、現在の日本史の中では必ずしもメジャーな存在ではないものの、日本の歴史を語る上では、実は決して小さくはない意味や意義を持っている、という事に私は遅ればせながら気付きました」という事です。
そのため、関東公方や関東管領については、当然このブログでも詳しく取り上げてみたいなと前々から思っていたのですが、まずどこからとっかかれば良いのだろうかとも思ってしまい、今までなかなか取り組めずにいたのですが、今後は関東公方や関東管領についても、このブログで順次取り上げていこうと思います。
まずは、その第一回目という事で、今回の記事では、関東公方や関東管領についての、オススメの動画とオススメの書籍を、以下に紹介させて頂きます。
とりあえず上の写真の2冊を読めば、関東公方と関東管領についてはかなり正確にその全容が理解出来ると思うので、これから関東公方や関東管領について勉強しようと思っている人には、かなりオススメの本です。
ちなみに、「関東公方足利氏四代」の裏表紙には、『室町時代、二代将軍の弟に始まり、鎌倉府の主として東国を治めた関東公方足利氏。将軍の身辺でささやかれた関東謀反のうわさは、いつから真実となっていったのか。幕府に抵抗し続けた誇り高き一族の一〇〇年を見つめる。』と、「人物叢書 上杉憲実」の裏表紙には、『室町前期の武将。将軍足利義教と関東公方持氏という二人の権力者の間で、翻弄されながらも調停を試みた関東管領。度重なる諌止を拒否する持氏と対立し、終に永享の乱で心ならずも持氏を死に追込む。乱の終息後、政界を退き、僧侶となって諸国を放浪し、長門国で没する。儒学に志篤く、足利学校を再興したことでも知られる武将の波乱の生涯を描く。』と、それぞれ書かれています。
この2冊の解説文だけで、関東公方や関東管領の概要が、もう何となく分かってしまいますね(笑)。
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