私は今年の7月、2泊3日の日程で関西(京都・大阪・和歌山方面)を旅行し、旅行の2日目は、主に足利氏所縁の史跡や社寺等を中心に京都各地をまわってきました。
具体的には、2日目の午前中は、7月22日の記事で述べたように京都府亀岡市篠町に鎮座する篠村八幡宮や、7月28日の記事で述べたように京都市北区等持院北町に鎮座する等持院などへと行き、そしてその日の午後は、京都市北区金閣寺町に鎮座する、臨済宗相国寺派の相国寺山外塔頭「鹿苑寺」を参拝・見学してきました。今回の記事では、その鹿苑寺について、紹介をさせて頂きます。

改めて説明するまでもなく、鹿苑寺は、「金閣寺」という通称(世間一般ではこちらの名前のほうで知られています)と、世界遺産に登録されている事などで広く知られている寺院で、観光都市京都の中でも、昔から清水寺と双璧を成す“定番観光スポットの寺院”のひとつです。
私は、今から○○年前の高校時代(北海道内の高校に在学していました)に修学旅行で京都を訪れ、その時に一度鹿苑寺を見学しており、今回は、私にとってはその時以来、2回目の鹿苑寺訪問となりました。

鹿苑寺の創建は応永4年(1397年)、開山は夢窓疎石、開基は室町幕府三代将軍の足利義満で、鹿苑寺という寺名は、 義満の法号である鹿苑院殿に由来します。但し、鹿苑寺が寺院となったのは義満の死後で、義満の時代には、邸宅(北山山荘)として利用されていました。
邸宅とはいっても、日本の歴史上最大の権力者のひとりといえる義満の邸宅だったわけですから、勿論単なる私邸ではなく、その規模は御所にも匹敵する規模を誇っていました。
義満は、将軍として在職していた当時は、平成25年11月26日の記事で紹介した、足利将軍家の公邸である「花の御所」で政務を執っていましたが、将軍職を息子の義持に譲った後は、政治の実権は握ったまま、北山山荘(北山殿または北山第とも称されます)に移り、そこで引き続き政務を執っており、つまり、義満が将軍を引退してから没するまでの間は、この鹿苑寺に日本の政治中枢のほぼ全てが集約されていた、と言っても過言ではない状況にあったようです。

なお、鹿苑寺の概要については、下の写真の看板を御参照下さい(境内に立っていた看板です)。

鹿苑寺_00


以下の写真3枚は、私が撮影してきた鹿苑寺金閣で、正確には「舎利殿」という名の建物です。
鹿苑寺に於ける、寺院としての最も重要な建物は、御本尊の観音菩薩がお祀りされている「方丈」(他宗派で云う本堂に相当する建物)ですが、一般には、単に金閣寺と云う場合はこの建物を指す事が多く、この舎利殿が、鹿苑寺を最も代表・象徴する建物と広く認識されています。

鹿苑寺_01

鹿苑寺_02

鹿苑寺_03


以下の写真2枚は、私が撮影したものではありませんが、いずれも舎利殿の内部の様子です。
1枚目の写真は、ウィキペディアから借用したもので、「法水院」と称される一層目(1階)の内部です。この層は寝殿造で、中央には宝冠釈迦如来像が、向かって左には法体の足利義満坐像が安置されております。
2枚目の写真は、絵葉書からキャプチャした画像で、「潮音洞」と称される二層目(2階)の内部です。この層は武家造で、岩屋観音坐像と四天王像が安置されております。

鹿苑寺_04

鹿苑寺_05


以下の写真3枚は、鹿苑寺の境内で見学・撮影してきた、足利将軍所縁の遺跡です。

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鹿苑寺_08


京都には時々行く機会がありますが(2年間、住んでもいましたが)、鹿苑寺に行く機会はなかなか無かったので、今夏、久々に鹿苑寺を参拝・見学する事が出来て良かったです。今度は、やはり○○年以来の訪問となる、銀閣にも是非行ってみたいです。

ちなみに、今回私が鹿苑寺の境内で撮影してきた写真は、別のブログとなりますが以下の記事にもアップしておりますので、宜しければこちらも是非御覧になって下さい。
http://shinbutsu.at.webry.info/201407/article_3.html


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