この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

2014年11月

天下分け目の合戦の舞台ともなった、東寺の不開門(あかずのもん)

先週、私は2泊3日で大阪・京都方面を旅行して来たのですが、その旅行の2日目、お昼過ぎ頃に、東寺真言宗総本山 教王護国寺を参拝・見学してきました。
ここは、平安時代初期の創建時から東寺(とうじ)の名で広く知られている、真言宗開祖の空海(弘法大師)が創建した名刹で(現在は教王護国寺が正式名称ですが、歴史的にはむしろ東寺のほうが公式名として定着していました)、真言宗の根本道場、国宝・重文など多数の貴重な文化財を所蔵する古刹、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されているお寺、京都のランドマークのひとつにもなっている日本一の高さ(54.8m)を誇る五重塔、21体の彫像により講堂内に構成される立体曼荼羅、京都観光や修学旅行の定番スポットのひとつ、などとしても有名なお寺です。

東寺の五重塔

私自身は、新幹線を利用して京都を訪れる事はほとんどありませんが、山陽・九州方面から新幹線を使って上洛する場合、京都駅に着く直前に車窓から東寺の壮麗な五重塔を見る事が出来るので、東寺(特に五重塔)を見ると、京都に帰って来た事、京都へ出張に来た事、京都に遊びに来た事などを実感するという人は、きっと多くおられるのではないかと思います。

私としても個人的に、東寺は以前から特に好きなお寺のひとつであり、過去にも何度か参拝・見学をしているのですが、ただ、前回私が東寺を訪ねてからもう十年は経っているので、今回は、懐かしくも少し新鮮な気持ちで東寺の境内を歩いてきました。
私は、東寺の中では講堂内の立体曼陀羅が最も好きで、勿論今回も見学してきましたが(講堂内は写真撮影禁止だったので残念ながら写真はありません)、このブログの性格から、今日の記事では、東寺の中では一般にはあまり注目される機会の少ない「東大門」を紹介させて頂きます。

東寺の東大門

鎌倉時代に建てられたと伝わる、東寺東側の大宮通に面しているこの東大門は、不開門(あかずのもん)とも称されており、その由来は、下の写真の看板で解説されている通りです。

東寺の東大門解説

以下の鉤括弧内(緑文字)は、東寺塔頭・宝菩提院住職の三浦俊良氏が著した「東寺の謎」(祥伝社黄金文庫)に掲載されている文章で、東大門が不開門と称されるようになった由来が更に詳しく解説されています。門前で起こった“天下分け目の合戦”についても、その前後の状況も含めて詳しく解説されており、とても参考になるので、少し長文になりますが以下に転載致します。


湊川の合戦で楠木軍が破れたという報せをきいて、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。
足利尊氏は都にはいると光厳上皇を迎え、弟の豊仁親王を擁立した。光明天皇である。
六月五日、尊氏はさらに兵をすすめ一挙に比叡山に向かった。弟直義は比叡山の寺町である西坂本に陣をおいた。対して比叡山を守備していた宮方の軍は新田義貞を総指揮官として、比叡山の僧兵も加わり足利軍と対峙した。

六月十四日、足利尊氏は光厳上皇を奉じて東寺にはいった。足利家の紋、丸に二引両の旗が、東寺の境内にたなびいた。東寺が総本陣となる。光厳上皇の御所は西院小子房、尊氏は千手観音菩薩が安置されている食堂に身をおいた。
(中略)
東寺は都城となった。四方を囲む築地の大土塀は城壁であった。境内には馬がつながれ、鎧姿の数千の軍兵であふれていた。北東に見える比叡山には、後醍醐天皇の本陣がおかれている。対峙するように東寺に足利尊氏は本陣をおいた。
(中略)
いま東寺は北朝の光明天皇の御所となり、比叡山は南朝の後醍醐天皇の御所となっていた。

六月十九日、新田義貞ひきいる宮方が反撃にでた。
六月二十日、足利軍が攻撃にでた。だが各所で敗退してしまう。やはり比叡山という山を味方につけた宮方が有利だった。山攻めは不利と見た足利尊氏は、体勢を整えて市街戦に勝敗をかけた。
六月三十日。この日、新田義貞は総攻撃をしかける。都の周囲、糺ノ森、賀茂川、桂川の西で両軍の激しい戦闘がおきた。
市街戦は東寺の北方でも勃発した。相ゆずらぬ攻防が繰り広げられた。東寺からも鬨の声にあわせて、武者の諸声が聞こえたことであろう。
新田義貞がめざすは足利尊氏がいる東寺であった。強靭な肉体に鎧をまとった二万の騎馬武者が、大宮通を東寺に向かった。名和長年ひきいる軍も猪熊通を東寺に向かってひた走った。

本陣、危うし。迎え討つ足利軍は東寺の門を開け、出撃していった。だが新田軍、名和軍ほか宮方勢は破竹の勢いで足利軍に迫った。東寺近くの六条大宮付近で両軍の激しい衝突がおこり、敵味方がみだれての攻防戦がつづいた。戦局は宮方勢にかたむきかけていた。
足利軍は苦戦をしいられた。退却するほかなかった。新田、名和軍に追われるようにして痛手をおった足利軍の武者たちが、ぞくぞくと東大門から境内になだれこんできた。
最後のひとりが境内に足を踏みいれたとき東大門は閉ざされた。その戸をめがけて、なんすじもの矢が打ちこまれた。それほどにあやうい瞬間であった。

約二万の新田、名和軍は東寺を取り囲んだ。そして宮方の総指揮官、新田義貞が門前から足利尊氏に一騎打ちを挑んだ。しかし、東大門は閉じられたまま、開くことはなかった。以来、この門を「不開門」(あけずのもん)という。
いまも不開門に残る、なんすじもの矢の痕が、このときの戦闘の凄まじさを物語っている。

さて戦局は一転して足利軍が有利となる。各所で市街戦を繰り広げていた足利勢が大挙して東寺をとり囲む宮方勢に攻めいり、ついに名和長年が討ち死にする。宮方勢は退却をよぎなくされた。
この戦いをもって両軍の明暗ははっきりとする。七月、八月と宮方勢の反撃がおこなわれるが、ことごとく失敗におわる。のちに東寺をめぐっておこなわれた戦闘が「天下分け目の合戦」といわれるゆえんである。
(中略)
天下分け目の合戦を制した足利軍が、つぎの世をとることになる。


下の絵図は、埼玉県立歴史と民俗の博物館が所蔵している「東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞」の図です。尊氏が本陣を構えた東寺(右・手前側)には、足利家の紋が入った幕や幟が棚引いております。
ここで義貞は東寺に矢文を放って尊氏に一騎打ちを呼び掛け、その挑発に対して尊氏はいきり立って「望むところだ」と腰をあげるものの、近臣から諌められて誘いに乗らなかった、とも伝えられています。

東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞

後に、室町幕府最後の将軍・足利義昭を伴って上洛した織田信長も、尊氏の先例に倣って東寺に本陣を置きました。
ちなみに、昨年3月11日の記事の後段でも紹介しましたが、東寺では平成20年に、尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要を厳修しています。


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足利尊氏・後醍醐天皇・楠木正成の、子供向け伝記コミック

先日、ポプラ社から刊行されている「コミック版 日本の歴史」シリーズの、室町人物伝の3冊「足利尊氏」「後醍醐天皇」「楠木正成」を読みました。いずれも、小学校中学年から高学年向けの内容と思われる平易な内容のマンガ(児童書)で、とても読みやすかったです。
ただ、正成が湊川の戦いに敗れて自刃したのは室町幕府が成立する以前なので、「楠木正成」も、室町人物伝と銘打ったシリーズに含まれているのはちょっと微妙な気もしましたが(笑)。

コミック室町人物殿

これらの3冊に共通しているのは、そもそも児童書であるのでこれは仕方が無い事ではあるのですが、鎌倉幕府からの人心の離反、赤坂城や千早城での正成の活躍、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇による建武の新政、建武政権からの尊氏の離反、湊川の戦い、室町幕府の成立などの主要なエピソードは当然描かれているもののそれ以外のエピソードはかなり省略されており(例えば、尊氏と護良親王の対立、桜井の別れ、足利直義と高師直の対立、観応の擾乱などは、全く、もしくはほとんど、触れられていません)、そのため、どうしてもダイジェスト版のような内容になってしまっている感は拒めません。
当時の時代背景や3人各々の伝記について、それ以上詳しく知りたいお子さんは、更に別の書籍等も併せて読んで自分で勉強してネ、という事なのでしょう(笑)。


コミック「足利尊氏」に於ける、主人公の尊氏は、圧政を敷く鎌倉幕府を倒して新たに室町幕府を創設した英傑、南北朝時代の英雄にして最大の権力者、などとしてではなく、あくまでも、気弱で優柔不断で決断力にも欠ける、どことなく頼りない武将として描かれており、私としてはむしろ、ヒーロー然とはしていないその実直な描き方に好感が持てました。
尊氏は決して、信長・秀吉・家康のように自ら積極的に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではないですし、頼朝のように常に猜疑心を抱いている孤高な独裁者タイプの武将でもなく、私が抱く尊氏像は、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある“おぼっちゃん”ではあるけれど、その割には傲慢な所や私利私欲は全く無く、育ちがいいだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確かに持っている、というイメージです。
尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権による失政の受け皿となった、という点だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所が少なくはなかったのではないか、と私は思っています。

コミック「後醍醐天皇」に於ける、主人公の後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも傑出してカリスマに満ち、且つ聡明で、「延喜・天暦」の時代を模範として高く遠大な理想を掲げていた天皇として描かれていましたが、その信念は余りにも一途で強固過ぎ、後醍醐天皇の目指す天皇親政・律令国家再興という理念と、延喜・天暦の頃とは違い時代を動かす主勢力はもはや朝廷や公家ではなく武家に移行しているという現実との乖離も描かれており、この作品「後醍醐天皇」もなかなか興味深かったです。
作中の後醍醐天皇は、窮地に陥ってもほとんど弱音をはく事はなく、安易に妥協する事もない、とても凛々しく力強い天皇として描かれておりました。そもそも、「朕が新儀は未来の先例たるべし」「玉骨はたとひ南山の苔に埋ずむるとも魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と仰せられる程の凛とした後醍醐天皇に弱々しいイメージは皆無なので、作中の後醍醐天皇は、恐らく大多数の人が思い描くイメージ通りの後醍醐天皇であったと思います。
京都から吉野へと遷って以降のエピソードとしては、実子である恒良親王の薨去を母親として悲しむ阿野廉子を咎めたり、それに対して「主上は血を分けた自分の御子がかわいくはないのですか…」と問い返す廉子に、一人の父親としてではなくあくまでも公人としての立場から「嘆き悲しむ帝に民がついてくると思うてか?朕は帝ぞ!」と言い放たれたりする様なども描かれておりました。

コミック「楠木正成」に於ける、主人公の楠木正成は、よく強調される朝廷・後醍醐天皇への一途な忠誠心についてだけではなく、相応の財力と共に、戦いに於いては臨機応変な兵員動員力にも富み、特に奇計・謀計を主としたゲリラ戦(籠城戦)を得意としていた事などが具体的に描かれており、この作品も面白かったです。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての激動期に忽然と現れて、その持てる智力・胆力・人徳を背景に、武将として天才的ともいえる能力を発揮した正成は、やはりカッコイイです。
それにしても、この作品を読み終えて改めて思ったのですが、朝廷内に正成の良き理解者となってくれる人物がほとんどいなかった事が、正成にとっての何よりの不幸だったのかもしれませんね…。


というわけで、私としても3冊とも、お子様に読ませるにはオススメの歴史(伝記)マンガです!


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