この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

2014年07月

足利家の菩提寺である等持院を参拝してきました

前回の記事で述べたように、私は今月中旬、2泊3日の日程で関西を旅行してきたのですが、京都府亀岡市に鎮座する篠村八幡宮を参拝・見学した後は、JR嵯峨野線や嵐電(嵐山本線と北野線)を乗り継いで、京都市北区に鎮座する等持院にも行って来ました。
等持院は、臨済宗天竜寺派に所属する洛西の古刹で、足利尊氏の墓所、足利将軍家の菩提寺でもあります。

私は、等持院には以前にも参拝した事がありましたが、今回はその時以来、約10年ぶりの訪問となりました。足利家所縁のお寺であるという事も私の興味を惹いているのは確かですが、その点を除いても、古寺の雰囲気を醸し出しながらもほとんど観光地化されていない等持院は、個人的に私の好きなお寺のひとつで、いずれ改めて再訪したいなと前々から思っておりました。
ちなみに、等持院には文化財も多く収蔵されていますが、国宝・重文の建物はなく、そのため、境内は時代劇等の撮影場所としても重宝されているそうです。

等持院_01

ところで、少しややこしいのですが、昔は、「等持寺」と「等持院」という、よく似た名前の二つのお寺がありました。等持寺のほうは現存しませんが、元々は、等持院よりも等持寺のほうが先に創建されました。
1339年に、足利尊氏は夢窓疎石を開山として、足利家の菩提寺としてまず洛中に等持寺を創建しました。尊氏は足利家の菩提寺を京都に3ヶ寺建てようと決意しており、その決意から、等持寺の名には1字に1個ずつ、合わせて3個の「寺」の字が含まれる事となりました。
等持寺の寺域は、東は高倉通に、西は室町通に至り、北は二条、南は御池通という広大な境内を誇っていました。

その後、尊氏は、よく知られているように後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺(京都五山の第一位、現在は世界遺産にも登録されています)を建立しますが、その天龍寺とは別に、足利氏としての立場から元弘以来の戦没者を供養するため、1341年、洛西の衣笠山麓に等持寺の別院を築きました。それが、現在の等持院です。
但し、正式に等持院と呼ばれるようになるのは尊氏の死後であり(尊氏の法号等持院に因んで、等持寺別院は等持院と呼び改められました)、この別院が築かれた当初は、等持院ではなく、あくまでも、もうひとつの等持寺でした。つまり、等持寺は二つあったのです。
しかしこれではややこしいので、当時、洛中の等持寺のほうは南等持寺または南寺、洛西の等持寺(現在の等持院)のほうは北等持寺または北寺と、それぞれ称されていたようです。

ところが、2代将軍義詮以降、歴代将軍の葬儀は全て北寺(等持院)で行われるようになったため(尊氏の葬儀については、北寺、南寺どちらかで行われたのは確かなのですが、そのどちらであったのかは判りません)、本寺である南寺(等持寺)よりも、別院である北寺のほうが重きをおかれるようになり、そして、3代将軍義満が花の御所の東に広大な相國寺を建てると等持寺塔頭の鹿苑院が僧録(禅宗寺院を管轄し僧の人事を司る機関)の権利を執行するようになったため、南寺の存在は以前にも増して軽くなっていき、更に、応仁の乱の戦火にも遭うなどしたため、南寺はやがて廃寺同然となり、最終的には、南寺は北寺(等持院)に吸収されました。
等持院が現存し等持寺が残っていないのはこのためです。

下の写真2枚は、山門の脇に掲げられている、等持院の由緒等が書かれている看板です。

等持院_03

等持院_02

山門から表門の間にある参道沿いには、等持院が維持・管理している墓地が広がっているのですが、その墓地の出入口となる門には、足利家の家紋(足利二つ引)が大きく表示されていました。

等持院_04

庫裏の玄関に入る表門です。等持院の拝観は午前9時からで、私がこの門前に到着したのはその15分くらい前だったため、私が到着した時はまだ閉まっていました。ちなみに、この門は江戸時代に作られたものだそうです。

等持院_05

渡り廊下で繋がってはいますが、庫裏や方丈とは別棟になっている、霊光殿という建物です。
霊光殿には、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、歴代足利将軍達の木像や、徳川家康像などが祀られています。なお、ここに奉安されている歴代足利将軍の木像については、後日改めて別の記事で取り上げます。

等持院_06

「足利家十五代供養塔」と伝わる、全高5mの十三重塔です。等持院では、尊氏のお墓と共に大切に供養されてきました。

等持院_07

「足利尊氏の墓」と伝わる全高1.5mの石塔です。尊氏は、1358年4月30日、54歳で、洛中(二条大路高倉)の自邸で亡くなりました。鎌倉幕府を倒し、新たに室町幕府という統一政権を立ち上げた武将のお墓としては、随分小振りだなぁという印象を受けます。

等持院_08

夢窓国師の作と伝わる、東西2つの池を中心として2つの庭に分かれている、等持院の庭園です。但し、池底の状況などは室町時代の作庭を窺わせるものの、室町時代の記録とは充分に整合していない点もあり、様式的には江戸時代中頃の作とも云われています。足利家十五代供養塔や足利尊氏の墓はこの庭園の一画にあります。

等持院_09

等持院_10

等持院_11

私は等持院を一通り見学した後、書院にて、冷たいお茶を頂きながら、この庭園を眺めながら少しまったりしてきました。私が行ったのは平日の午前9時台という事もあり、境内にいた参拝者は私一人だけで、完全に貸切状態でした。

等持院_12

ちなみに、今年5月4日の記事で詳述したように、戦前・戦中の日本では、南朝を正統とする立場から足利尊氏は「朝敵」と看做される事が多かったのですが、等持院はその尊氏が建てた足利家の菩提寺であるが故に、世間から「朝敵の寺」として糾弾される事も少なくはなかったそうで、当時の等持院関係者はかなり苦労をされたようです。


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足利尊氏が旗あげした地として知られる篠村八幡宮を参拝してきました

先週、私は2泊3日の日程で関西(主に京都・大阪・和歌山方面)を旅行してきたのですが、2日目の朝、以前からずっと行きたいと思っていた、京都府亀岡市篠町に鎮座する篠村八幡宮を参拝・見学してきました。
誉田別命、仲哀天皇、神功皇后の三柱をお祀りする八幡宮で、歴史的には、足利尊氏(挙兵当時は高氏)の倒幕挙兵地として知られるお宮です。

篠村八幡宮_01

篠村八幡宮_02

鎌倉幕府の命令により、幕府に敵対する後醍醐天皇方の軍勢を討つため、幕府を代表する有力武将の一人として鎌倉を出陣してこの地に到達した尊氏は、1333年4月29日、この地に於いて、後醍醐天皇側に寝返って討幕する意思を表明します。
尊氏の心中では、鎌倉を出る時には既にその決意が固まっていましたが、全軍にその事を明らかにしたのは篠村八幡宮に於いてであり、この地は、云わば、その決定的な地点となりました。

同日、戦勝祈願の願文を神前で読み上げた尊氏は、直ちに全国各地の武将達に密書を送って協力を求め、同宮一帯に数日間陣を張って滞在した後、尊氏は、後醍醐天皇方の千種、赤松軍などと連絡を取りながら、鎌倉幕府の京都に於ける最重要拠点であった六波羅探題を攻め滅ぼしました。
そして、六波羅を守っていた北条仲時ら四百余人は、近江の番場(現在の滋賀県米原市)まで逃れて悉く自刃しました。

篠村八幡宮_03

尊氏は、篠村八幡宮で討幕の意思を明らかにした際、願文に添えて鏑矢(合戦開始の合図として双方が最初に敵側に射込む唸り音を発する矢)も神前に一本奉納したのですが、尊氏の弟・直義を始め、一族の吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も、それに倣って矢を一本ずつ納めて必勝を祈願し、そのため社壇には矢が塚のように高く積み上げられました。
これらの矢を埋納した場所が、下の写真の「矢塚」です。ちなみに、矢塚の石碑は、江戸時代中期の1702年(赤穂浪士の討入りがあった年です)に奉納されました。

篠村八幡宮_矢塚

矢塚には椎の幼木が植えられ、その椎は樹齢660年を経て周囲の椎と同じ程に成長しますが、昭和9年の室戸台風で倒れ、現在の椎は2代目との事です。
なお、矢塚の脇に立っている看板の説明によると、「足利尊氏の勝ち戦にあやかるべく、地元の太平洋戦争出征者は、椎の倒木から作った肌身守を持参して無事を祈願した」との事なので、尊氏が逆賊視されていた戦時中に於いても、少なくとも地元の人達(篠村八幡宮の氏子さん達)からは尊氏はそうは思われていなかったらしい事が窺えます。

また、境内ではないものの、篠村八幡宮に隣接する地には、「旗立楊(はたたてやなぎ)」と称される楊が立っています(下の2枚の写真)。
尊氏の元に次々と駆けつけてくる武将達に尊氏の本営の所在を示すため、旧山陰街道(横の小道)に面して高く聳え立つ楊の木に、足利家の家紋である「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられており、この楊は、その時代から6~7代を経て引き継がれたものだそうです。前出の矢塚と共に、この楊も亀岡市の史跡に指定されています。

篠村八幡宮_旗立楊02

篠村八幡宮_旗立楊01

なお、尊氏は後醍醐天皇と決別した後の1336年1月、京都攻防戦で敗れた際にも、この地で味方の兵を集めると共に、再起を祈願して篠村八幡宮に社領を寄進しています。
その後、尊氏は逃げ落ちた九州で体勢を立て直して京都へと戻り、後醍醐天皇側の軍勢に勝利して室町幕府を開く事となりました。

こういった経緯から、1349年には尊氏は同宮にお礼参りに訪れ、また、室町幕府の歴代将軍も多くの社領を寄進し、盛時には、篠村八幡宮の社域は篠の東西両村にまで渡りましたが、後に、応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社域の多くは失われました。


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全国足利氏ゆかりの会

本年1月20日の記事では、南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする全国各地の神社15社から構成される「建武中興十五社会」という団体を紹介させて頂きましたが、その北朝版というわけではないものの(そもそも、建武中興十五社会のように、特定の時代の人物所縁の神社のみに限定した団体ではないので、北朝版などと言い切ってしまうのはやや乱暴ですが)、足利氏所縁の団体から構成される「全国足利氏ゆかりの会」という団体があります。

全国足利氏ゆかりの会

建武中興十五社会は、その設立目的を「後醍醐天皇を御祭神とする吉野神宮をはじめ、建武中興関係の十五神社が相諮り、建武中興の精神を体して、わが国体の発揚に尽瘁すること」としていますが、全国足利氏ゆかりの会は、同会のホームページに掲載されている会長(足利市長)挨拶によると、「足利氏ゆかりの市町村や関係団体及び社寺等がともに手を携える」事を目的に昭和61年に設立され、「現在まで会員各位のご努力と連携活動によって、足利氏の顕彰とゆかりの地の発展に貢献」し、「今後も、本会は足利氏の残した偉大な業績を称えながら、会員間の交流と連携の輪を広げ、足利氏に対する正しい認識のための広報活動と更なるイメージアップのための諸活動を進めてまいります」との事です。
同会では、「足利氏は、清和源氏の流れをくみ、日本文化の代表である能や茶道などの文化を築き、全国各地にその偉業を残すとともに歴史にその足跡を印しています」と、足利氏を高く評価しています。

現在、同会の特別顧問には足利家第28代当主の足利義弘氏が、顧問には京都府の山田啓二知事と京都市の門川大作市長が、会長には栃木県足利市の和泉市長が、副会長には京都府綾部市の山崎善也市長と徳島県阿南市の岩浅嘉仁市長らが、それぞれ就任しています。
同会では毎年各地で総会を開催し、その際には地元会員寺院等で追善法要も執り行っており、昨年度(平成25年度)は京都市内の「京都ロイヤルホテル&スパ」で総会が開催され、臨済宗相国寺派大本山相国寺方丈で足利氏歴代の追善法要が営まれました。その法要の後、会員達は西山浄土宗十念寺を訪れ、同寺にある第6代将軍足利義教の墓所も参拝したそうです。
なお、今年度の総会開催地は、栃木県さくら市との事です。

以下は、全国足利氏ゆかりの会に入会している会員一覧です。
関東から九州に至るまでの各地の自治体、商工会議所、観光協会、神社仏閣など約60の団体によって構成されており、会としての活動も活発なようです(具体的な活動内容については同会のホームページを御参照下さい)。


◆茨城県
古河市、古河商工会議所(古河市)、古河市観光協会(古河市)
 
◆栃木県
さくら市、喜連川観光協会(さくら市)、龍光寺(さくら市)、安國寺(下野市)、足利市、足利商工会議所(足利市)、足利市観光協会(足利市)、鑁阿寺(足利市)、吉祥寺(足利市)、樺崎八幡宮(足利市)、法楽寺(足利市)、法玄寺(足利市)、能仁寺(真岡市)、下野國一社八幡宮(足利市)  
 
◆埼玉県
寳聚寺(久喜市)    
 
◆千葉県
飯香岡八幡宮(市原市)    
 
◆東京都
高安寺(府中市)    
 
◆神奈川県
鎌倉市、鎌倉商工会議所(鎌倉市)、浄妙寺(鎌倉市)、浄光明寺(鎌倉市)    
 
◆長野県
桃源院(佐久市)    
 
◆愛知県
長母寺(名古屋市)    
 
◆福井県
全国安国寺会(小浜市)    
 
◆滋賀県
安楽寺(長浜市)    
 
◆京都府
京都商工会議所(京都市)、京都市観光協会(京都市)、京都室町の会(京都市)、六孫王神社(京都市)、法界寺(京都市)、等持院(京都市)、相國寺(京都市)、鹿苑寺〈金閣寺〉(京都市)、慈照寺〈銀閣寺〉(京都市)、亀岡市、亀岡商工会議所(亀岡市)、亀岡市観光協会(亀岡市)、篠村八幡宮(亀岡市)、綾部市、綾部商工会議所(綾部市)、綾部市観光協会(綾部市)、綾部あしかが会(綾部市)、安国寺総代会(綾部市)、相光寺(京丹後市)    
 
◆兵庫県
川西市商工会(川西市)、川西市観光協会(川西市)、石龕寺(丹波市)、福海寺(神戸市)  
 
◆広島県
福山商工会議所(福山市)、尾道市、尾道商工会議所(尾道市)、浄土寺(尾道市)、尾道足利氏ゆかりの会、足利ゆかりの会(広島市)
 
◆徳島県
阿南市、那賀川町商工会(阿南市)、西光寺(阿南市)、地蔵寺(小松島市)    
 
◆大分県
豊後安國寺(国東市)   
 
全国足利氏ゆかりの会


この会員一覧を見ますと、本年3月5日の記事で紹介した、千葉県市原市に鎮座する飯香岡八幡宮も、足利氏所縁の神社として同会に入会されています。

しかし、昨年10月2日の記事で紹介した、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮は、当該記事で詳述したように足利将軍家とはかなり深い関係を持っていたにも拘わらず、全国足利氏ゆかりの会には入会していないようです。
これはあくまでも私の勝手な推測ですが、石清水八幡宮は、武門の神様として、足利氏以外の源氏一門や、その他の有力武将達(豊臣秀吉、織田信長など)からも篤く崇敬され、また、時代を問わず朝廷からも深く崇敬されてきたので(同宮への天皇や上皇の行幸・御幸は、第64代円融天皇の御参拝以来実に240回にも及んでいます)、同宮としては別に足利氏との深い関係を隠したり否定したりする気は全くないものの、だからとって、殊更足利氏との関係だけを強調したいというわけではないのかもしれません。
後醍醐天皇も行幸されたり、楠木正成も境内にクスノキを植えるなど、そもそも同宮は、足利氏とは対立した南朝勢力とも浅からぬ関係があったようですし。


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