日本史に登場する人物達の中には、平清盛、松永弾正、明智光秀、吉良上野介、徳川綱吉、田沼意次、井伊直弼など、戦前はどちらかというと “悪役” というイメージが強かったものの戦後はそのイメージが徐々に薄まり “時代の先駆者” や “偉大な名君” として評価される事も多くなってきた、という人物が少なからずおり、逆に、和気清麻呂、菅原道真、児島高徳、山中鹿之助、二宮尊徳、高山彦九郎、乃木希典など、戦前・戦中はほとんど誰もが知っている人物であったにも拘らず戦後はすっかり影が薄くなってしまった、という人物も少なくはありません。
昨年3月11日の記事で詳述したように、鎌倉時代末期から南北朝時代(建武の新政期)にかけて活躍した名将・楠木正成も、時代によって評価が大きく変わる事で知られています。しかし、私が知る限り、時代によってこうも評価が激変するのか、という程、最も評価が二転三転している人物は、何といっても、やはり足利尊氏です。
尊氏は、南朝が正統である事が特に強調された戦前・戦中は “朝廷に弓を引いた逆賊” とされ、徹底的に酷評されたものの、戦後は一転して、それまでの皇国史観に対する反動から、また、吉川英治の長編歴史小説「私本太平記」やNHK大河ドラマ「太平記」で主人公として取り上げられた事などから “室町幕府を開いた英雄” として再評価されるようになった、という事は、一般にもそれなりに知られており、確かにそれは間違いではないのですが、実際には、尊氏に対しての評価の変遷はそのように単純なものではありません。もっと複雑です。
今回(前編)と次回の記事(後編)ではその複雑な、尊氏への評価の変遷について、正成への評価の変遷も絡めながら、おおよその時代毎にまとめてみたいと思います。
まず、尊氏と同時代に生きた人達の、尊氏に対する評価をみてみましょう。
尊氏・直義兄弟や、後醍醐天皇など、南北朝の立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、1349年頃に成立したとされる、鎌倉幕府崩壊から室町幕府創成期までが描かれている歴史物語「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた源頼朝と尊氏を比較し、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方で尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と絶賛しています。
更に疎石は、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」とし、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。
尊氏は疎石に深く帰依していましたが、疎石もまた、尊氏に対しては深い尊敬の念を抱いていたようです。
しかし、尊氏と同時代に生きた人達の中には、尊氏の事を酷評する人もいました。
例えば、南朝方の代表的な武将の一人である新田義貞は、尊氏の事を強く憎んでいました。尊氏は、関東に於ける管領の勅許を朝廷から得た事を理由に、新田一族が鎌倉幕府を滅ぼした恩賞として拝領した領地を没収し、それを、自分の家臣達や自分に味方してくれた武将達に恩賞として分け与えるなどしたのですが、義貞もその報復として、足利一族の領地を取り上げるなどしたため、祖先を同じくする源氏一門でありながら足利と新田は激しく対立するようになり、そのような折、尊氏が朝廷に義貞追討を上奏したと聞き、ついに義貞の怒りは頂点に達します。
義貞は後醍醐天皇に、「尊氏・直義兄弟は、無能無才で卑しい身分を恥じず、共に高い地位に就いています」「鋭利な剣で切り裂くように、逆臣尊氏・直義兄弟を誅伐すべきとの宣旨をいただきたい」という旨の内容を上奏し、尊氏の事を “無能無才で卑しい身分” と激しく罵っています。
また、南朝の有力な公家でありながら、南朝方の武士を率いて各地を転戦するなど武将としても活躍した北畠親房も、尊氏を「功も無く徳も無き盗人」などと酷評しています。
親房は、武士とは常に天皇や公家に従属すべきもの、という考え方を持っていたため、武家が公家と同等の存在になる事を認めませんでした。親房のその視点に立つと、鎌倉幕府が滅びたのは朝廷の威光と時の運によるものであり、武士の力によるものという認識は誤っており、そうであるにも拘らず、それを自分の手柄と思っている尊氏は「功も無く徳も無き盗人」となるのです。
更に親房は、代表的な著作の一つである「神皇正統記」の中で、尊氏の事を「凶徒」「朝敵」とも記しており、後の「尊氏=逆賊」というイメージはこれが端緒となっているのではないかと云われています。
しかしその後は、尊氏に対してのそのような低評価はほぼ無くなっていきます。
尊氏が生きていた時代は南北朝動乱の激動期で、尊氏が築いた新政権はまだ安定しておらず、南朝との戦いだけではなく幕府でも内紛が起こるなど尊氏にとっては敵や戦が多い状況でもあったため、そういった当時の状況を反映して、尊氏の事を褒め称える人が多くいる一方で、尊氏の事を厳しく評価する人もまた多くいたわけですが、尊氏の死後暫くして、室町幕府が全国的な統一政権として安定してくるようになると、当然の事ながら、その幕府を創設した尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていったのです。
室町幕府は、3代将軍足利義満の時代を最盛期として、その後は次第に衰退していき、戦国時代になると、幕府は本拠地である山城国一国の維持すら困難な程弱体化しますが、それでも、尊氏が酷評される事はほとんどありませんでした。
室町時代から江戸時代中期頃までは、一般的に北朝が正統と認識されており、その歴史観に立てば、楠木正成を始めとする南朝の武将達のほうこそ “朝廷に弓を引いた逆賊” であり、尊氏は朝廷(北朝)を支えた勲功第一の忠臣であったからです。
室町時代半ばに、後小松天皇の命により洞院満季が撰進した、皇室の系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、北朝が正統であるという立場が採られており、室町幕府と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、この時点では正式な天皇としては認められていません。
ちなみに、戦前・戦中に忠臣の鏡として大絶賛された楠木正成は、後述する水戸藩の「大日本史」で高く評価されるまで、むしろ、大多数の日本人にはほぼ忘れ去られた存在であり、正成の価値は、江戸時代になってから “再発見” されたといえます。
江戸時代に入ってからも当初は、尊氏は優れた武将である、という評価に大きな変化はありませんでした。
徳川家は南朝方の武将であった新田氏の後裔であると自称していましたが、徳川家康自身は、南北朝時代の解釈については室町幕府の立場を引き継いで北朝を正統としたため、その北朝を建てた尊氏の評価が急に下落するような事は無かったのです。
その評価に大きな変化が生じるようになったきっかけは、時代劇の “黄門様” として広く知られている、第2代水戸藩主の徳川光圀です。
光圀は、有力な徳川一門(御三家)でありながら、徳川将軍家(江戸幕府)とは立場を異にし、あくまでも天皇の権威を基にして、その上で幕府中心の統治を行うべきという立場でした。
幕末期に尊王派の思想形成に大きな影響を及ぼした歴史書「大日本史」は、光圀のその立場から水戸藩が編纂したもので(大義名分論史観から尊皇論が貫かれています)、大日本史の中では、南朝こそが正統であり、南朝と対決した尊氏は天皇に逆らった悪人であると評されました。
更に光圀は、後醍醐天皇のために討ち死にした正成こそが忠臣であると讃え、正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と題する墓碑も立てるなどしました。
そして、江戸時代中期以降になると、大衆レベルでも尊氏や正成に対しての評価が次第に変わっていきます。
1748年に成立し、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として爆発的な人気を博し、現在に至るまで上演され続けている「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」は、よく知られているように赤穂浪士の仇討ち事件を題材としているのですが、当時はそのままでは上演が許可されなかったため、劇中の時代背景を南北朝時代に移していたのですが、その中で、大石内蔵助は大星由良之助という人物に置き換えられました。
そして、その大星由良之助のモデルになったのが楠木正成であったと云われ、その由良之助に討たれる吉良上野介の役は、尊氏の側近であった高師直が実名で登場しました。これは、尊氏を始めとする北朝側の人物が、当時の大衆にどのように認識されていたかを示す一例として注目されます。
ただこの認識は、当時の一般庶民が必ずしも「南朝が正統であり、その南朝に殉じた正成は忠臣である」という明確な史観を持っていた事を示すものとまでは言い切れず、日本人はその国民性として、敗者に同情したがるという “敗者の美学” とでもいうべき特有の観念があり(例えば、源頼朝よりも頼朝に討たれた弟・義経のほうが昔から人気が高い事や、曽我物語や忠臣蔵などの仇討物語が時代を超えていつの世からも人々から賞賛される事や、幕末期の会津藩白虎隊が悲話として後世に語り継がれる事など)、その観念に基づいて、滅び去った南朝方に同情の念を抱いたという面も多分にあったであろうと推察されます。
しかし江戸時代中期でも、正成に対する批判は少なからずありました。
例えば、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)は、著書「駿台雑話」の中で、「正成は孔孟の道を学ばず、孫子・呉子の道を学んだから、三国志の諸葛孔明に比べて人物が落ちる」とし、特に湊川で自害する時に弟の正季と共に「七生報国」と言ったのは、「甚(はなは)だ陋(つたな)し」と非難しています。
また、山城国正法寺の僧、釋大我(しゃくたいが)も、「楠石論(なんせきろん)」で正成の死を激しく非難しています。
そして幕末になって、江戸幕府の権威が大きく揺らぎ出し、尊皇攘夷・倒幕の動きが加速化していくと、前出の「大日本史」の影響を強く受けた強烈な尊王主義者達は、尊氏の事を “天皇に叛いて政権を奪った憎むべき逆賊” と評価するようになっていきます。
江戸幕府の威光が強ければ、水戸藩のような例外を除くと、家康と同じく “源氏の長者” として武家政権を築いた尊氏を露骨に貶めるような機運にはまずならなかったのでしょうが、幕府の権威が失墜し、それに反比例して朝廷の権威が増大してくると、江戸幕府と室町幕府という違いはあるものの、幕府を創設した人物である尊氏は尊王主義者達から忌み嫌われる存在になっていき、逆に、“倒幕の先輩” として正成の人気は急速に高まっていったのです。
幕末期の1863年に、足利将軍の木像の首級が京都の三条河原に晒されるという珍妙な事件が起きましたが、これは、尊氏が当時の尊王主義者達から忌み嫌われていた事を端的に象徴する事件といえます。
伊予の神職である三輪田綱一郎ら十数人が、足利将軍家の菩提寺である京都の等持院に入り込んで、等持院に安置されている、尊氏・義詮・義満を象ったとされる足利将軍3代3人の木像の首を斬り取り、「鎌倉以来の逆臣、一々吟味を遂げ、誅戮致すべきの処、この三賊、巨魁たるによりて、先ず其の醜像へ誅を加ふる者なり」と書いた木札を掲げて、河原に晒したのです。
犯人達はいずれも強烈な倒幕・尊王主義者であり、朝廷をないがしろにし、列強に屈する幕府の弱腰を非難し、足利将軍の首を徳川将軍に見立てて晒したとも云われています。
当時、京都所司代、京都町奉行、見廻組、新選組などの京都に於ける各治安維持機関を総括する立場であった京都守護職の松平容保(第9代会津藩主)はこの事件を知って、「足利家は朝廷から征夷大将軍に任命されており、徳川家もまた同じである。足利将軍の木像の首を晒す事は、幕府だけでなく朝廷をも侮辱する行為だ」と激怒し、直ちに犯人の捕縛を命じ、木像の首は寺に返されました。
そして、それまでは倒幕派の者とも地道に話し合っていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を取っていた容保は、この事件を契機に、倒幕派の者と話し合うのはもはや無用と悟り、倒幕派を徹底して弾圧する政策に転換する事になりました。
ちなみに、「鎌倉・室町将軍家総覧」(秋田書店刊)によると、これは像の首が寺に返されてから分かった事なのですが義満の首として晒されたのは、実は第4代将軍義持のものだったそうです。寺僧が間違えて義持の木像を義満の木像の前に並べてしまっていたため、犯人達は義持の木像を義満と思い込んでその首を斬り落としたそうです。但し、義満と義持の首を間違えたというこの話は、私が確認した限りでは「鎌倉・室町将軍家総覧」でしか紹介されておらず、その他の資料・文献には記されていないので、これが事実であったかどうかは、明確ではありません。
こういった、幕末期の、足利氏や尊氏に対しての見方、そして正成に対しての評価は、一般の民衆にも大きな影響を与えたようで、明治3年に日本を視察したグリフィスというアメリカ人がいろいろな日本人に「尊敬する歴史上の人物は誰か」と尋ねたところ、誰もが楠木正成の名を挙げた、という記録が残っています。
正成を賛美するのは戦前の日本の教育のせいである、と言う人がいますが、明治3年といえば義務教育制度施行以前であり、国家権力が自分達に都合の良い正成像を押し付けていたという事はあり得ないので、明治維新が始まって間もない時期から既に、正成の生き方を理想化する考え方が日本の社会に浸透していたものと思われます。
(後編に続く)
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