今からほぼ一年前の昨年3月の初め、東京・千葉方面を旅行してきたのですが、その旅行の3日目に、私は、千葉県市原市八幡に鎮座する、国府総社と尊称される飯香岡八幡宮を参拝・見学してきました。

飯香岡八幡宮 鳥居と社号標

飯香岡八幡宮は、かつては六所御影神社と称され、創祀の起源は、白鳳年間(675年)に一国一社の八幡宮として勧請された事とされています。
759年に全国放生の地に鎮座する国府八幡宮と定められ、中世以降は上総総社としての機能を持つようになり、その名残から、国府総社と尊称されています。御祭神は、俗に八幡大神と称される誉田別尊、息長帯姫尊、玉依姫尊などです。
同宮では、私の友人でもある神職(飯香岡八幡宮禰宜)のHさんが、社殿や境内等を丁寧に案内して下さいました。

飯香岡八幡宮 拝殿

上の写真は飯香岡八幡宮の拝殿で、正面は5間、側面は3間あり、屋根は入母屋造りで、正面中央には千鳥破風があり、向拝中央は軒唐破風となっています。この拝殿は、千葉県の有形文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮 本殿

上の写真は、拝殿内から撮影した飯香岡八幡宮本殿(正面)で、拝殿の奥に鎮座するこの立派な本殿は、正面が3間、側面が2間あり、屋根は拝殿と同じく入母屋造りです。
神社の本殿としてはかなり大きな社殿で、小弓公方と称された足利義明が寄進したものと伝わっています。この本殿は、国の重要文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている御神輿

飯香岡八幡宮では、禰宜のHさんの御配慮により、平時は施錠されている同宮の宝物殿内も見学させて頂き、いろいろと貴重な史料や文化財等を拝見する事ができました。
上の写真は同宮の宝物殿に奉案されている、第3代将軍の足利義満が同宮に奉納した4基の御神輿のうちの一基です。室町時代前期の特徴がよく窺える造形で、同宮拝殿と共にこれも千葉県の有形文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている甲冑

上の写真は、飯香岡八幡宮の宝物殿に収蔵されている、紺糸素懸威二枚胴具足(こんいとすがけおどしにまいぐそく)という甲冑です。これは安土桃山時代のものと伝わっており、市原市指定文化財に登録されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている大般若経

上の写真は、飯香岡八幡宮の宝物殿に収蔵されている、春日版大般若経(大乗仏教の基礎的教義が書かれている600巻余の膨大な経典)の一部です。
第3代古河公方の足利高基と、その高基の弟に当る前出の足利義明の、家門繁栄を祈願して天文年間(戦国時代)に同宮に奉納されたものです。ちなみに、春日版というのは、奈良の興福寺で印刷された経典という意味らしいです。
やはり飯香岡八幡宮は、歴史的に足利氏と関わりが深いようです。


Hさんは、私が鎌倉公方や古河公方に興味・関心を抱いているのを知って、同宮の境内だけではなく、同宮からは少し離れた所にある小弓公方足利義明夫妻の供養塔へも車で連れて行って下さいました。
この供養塔は、近年になってここに移設されたもので、昔からこの地にあった訳ではありませんが、足利義明夫妻の墓石と伝わる、文化財・史跡としても価値が高いとされる五輪塔です。

小弓公方足利義明夫妻の供養塔_01

小弓公方足利義明夫妻の供養塔_02

ちなみに、足利義明は、初代将軍・足利尊氏の四男で初代の鎌倉公方(関東公方)とされる足利基氏からは6代後の子孫に当たり、また、幕府(第6代将軍足利義教)と関東管領(上杉憲実)に追討されて自害した第4代鎌倉公方の足利持氏からは曾孫に当たり、その持氏の子で古河公方の初代となった足利成氏からは孫に当たります。
義明自身は北条氏綱との戦い(第一次国府台合戦)で戦死していますが、その子孫は後に喜連川氏となり、江戸時代になってからも喜連川藩として存続し、明治時代になってから足利に復姓し、華族となりました(当主は子爵に叙されました)。

つまり、喜連川氏から復姓した足利家は、足利を名乗ってはいても、足利将軍家(幕府を創設した足利尊氏の嫡男として2代将軍の地位に就いた足利義詮の血統)の子孫ではなく、関東で鎌倉公方や古河公方となってその足利将軍家とは長い間対立関係にあった関東公方足利家(足利尊氏の四男・足利基氏の血統)の子孫に当たるという事です。

飯香岡八幡宮 拝殿前

小弓公方足利義明夫妻の供養塔をお参りした後は、再び飯香岡八幡宮に戻り、最後に拝殿前でHさんと一緒に写真を撮らせて頂きました。上の写真の右がHさんで、左が私です。
Hさん、御多忙のところ社殿や境内等を丁寧に案内して下さり、また、小弓公方足利義明夫妻の供養塔へも車で連れて行って下さり、どうもありがとうございました!


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