今日は「八朔(はっさく)」です。
八朔とは、八月朔日(8月1日)の略で、本来は旧暦の8月1日を指すのですが、現在は新暦の8月1日(つまり今日)も八朔と云い、かつて八朔には、日頃お世話になっている人達にその恩を感謝する意味で贈り物をするという習慣がありました。
この時期は早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあったそうで、その風習が公家や武家にも広まり、全国的な風習として広まっていったそうです。

現在、八朔の風習はほとんど廃れてしまい、一般的なものではありませんが、京都を代表する花街として知られる祇園一帯では、新暦の8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へ挨拶に回るという風習が、八朔の伝統行事として新暦の現在も残っています。
礼装の黒紋付き姿の芸舞妓達が、「おめでとうさんどす。相変わりませず、おたの申します」とにこやかに挨拶を交わしながら祇園を行き交うその艶やかな風情は、夏の京都の風物詩にもなっています。

ところで、事実上の平氏政権である北条幕府(鎌倉幕府)を倒し、源氏の棟梁として新たに京都に幕府を開いた足利尊氏と、おおらかで気前が良かった反面かなり優柔不断な性格でもあったその尊氏とは対照的な性格であった、尊氏の弟・足利直義(ただよし)は、実の兄弟でありながら全くタイプの異なる武将でしたが、この二人の性格の違いを物語る逸話としてよく知られているのが、八朔の贈り物のエピソードです。
厳格な性格の直義は、八朔の習俗そのものを「無駄なもの」として嫌い、八朔の贈り物は、「賄賂は受け取らん」と言って誰からも一切受け取らず、贈られた物は全て送り返したと云われています。

それに対して、国師号を賜った当時の高僧・夢窓疎石(むそうそせき)から「勇気、慈悲、無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍」と評された尊氏は、山のように届けられる八朔の贈り物を全て受け取り、その上で、貰ったそれらの贈り物を、自分に挨拶に来た人々に惜しげもなく全て分け与え、自分の手元にはいつも何も残さなかったと云われています。
尊氏も直義も、お互いに自分の手元に八朔の贈り物は何一つ残らなかったという「結果」は同じなのですが、その結果に至る「経過」が、二人の性格の違いを如実に反映しており、興味深いです。

ちなみに、直義は、当初は献身的に兄の尊氏を支え、尊氏が京都で幕府を開いた時は、尊氏とは阿吽の呼吸で新政権を運営していましたが、後に尊氏と対立し、その対立は「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)という、全国を二分する兄弟間の戦争に発展し、最後は尊氏に敗れて無念の死を遂げました。
後醍醐天皇崩御の後、南朝の勢力は衰退する一方で、誰もが南朝は近いうちに消え去るだろうと思っていたのですが、北朝陣営の内ゲバともいえる尊氏・直義兄弟の争いが、結果的に、北朝と対立関係にあった南朝方を利する事になり、南朝はその後も暫く存続し続ける事になるのです。


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