私は北海道の札幌に住んでいますが、年に数回は関西方面へ行く機会があり、毎回ではないものの関西へ行った際は神戸にも足を運ぶ事が少なくありません。
そして神戸に行った際には、これも毎回ではないものの、大抵、湊川(みなとがわ)神社へお参りに行きます。
湊川神社は、神戸最大の繁華街である三宮からは少し離れていますが、JRや神戸高速鉄道の神戸駅とは目と鼻の先の一角に鎮座しており、「忠臣の鏡」「稀代の英雄」などと評され「大楠公」という尊称でも知られている、南朝方の名将 楠木正成(くすのきまさしげ)を主祭神としてお祀りしています。
神戸市民からは “なんこうさん” とも呼ばれて広く親しまれている神社で、同社は、生田神社や長田神社などと共に神戸を代表する大社のひとつです。
その湊川神社の主祭神としてお祀りされている楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代初め(但し南朝の天皇や武将を御祭神としてお祀りしている神社では、この時代の事はあえて「南北朝時代」とは云わずに「吉野朝時代」もしくは「吉野時代」と称している事もあります)にかけて活躍した河内(現在の大阪府)の武将で、鎌倉幕府を倒すに当っては足利尊氏や新田義貞を上回る、武功第一とも云える軍功を残した名将です。
特に、金剛山の千早城という小城に篭城して、これを攻め落とそうとする幕府の大軍を多彩な計略を用いて翻弄させた事は、当時80万と云われた幕府軍が小城一つ攻め落とす事が出来ない様を日本中に知らしめ、全国の反幕府分子を大いに奮い立たせました。
鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇による親政「建武の新政」(但し南朝こそが正統であるという歴史観からは「建武の中興」と云います)が成ったのは、偏に正成の突出した活躍があったからこそと言っても過言ではありません。
しかし新政が成ってみると、公平とはとても言い難かった土地の分配策に全国の武士が一斉に失望し、その失望や不満を源氏の貴種である足利尊氏が吸収した事から、尊氏は後醍醐天皇と決別するに至り、そのため建武の新政は僅か2年程で挫折し、鎌倉幕府を攻め滅ぼす際には味方同士であった正成と尊氏は、それぞれ「建武の新政を継続しようとする者」と「建武の新政を否定して武家政治を復活させようとする者」として、必然的に対峙せざるを得なくなりました。
そして、鎌倉幕府滅亡3年後の1336年5月、正成と義貞の率いる軍は、現在の湊川の地に於いて、陸と海に分かれて九州から東上してくる足利尊氏の大軍を迎え撃つ事になったのです。これが、世に言う「湊川の戦い」です。
ところが、尊氏側の優れた戦略により、というよりも、決戦以前の朝廷(南朝)側の数々の戦略的な失策(そもそも尊氏を京から追い出した時にすぐに追いかけて討ち取る事を怠り、更に、赤松則村の白旗城攻撃に50日も費やして尊氏に軍の再起を許した新田貞義の二重の失策があり、また、「天皇は比叡山に行幸して戴き、自分は河内へ下って義貞と共に尊氏を前後から挟み撃ちにする」という旨の進言をした正成の献策を体面を気にした公卿らが突っぱねた事など)により正成・義貞の軍は敗北を喫し、義貞は丹波路を落ちて行き、正成は、一時は尊氏の弟の直義(ただよし)の軍を苦戦させる程の活躍をしますがついに力尽き、弟の正季と刺し違えて壮烈な最期(自刃)を遂げました。
その最期の地が、現在の湊川神社境内の西北隅だったと云われています。
湊川神社は、神戸という大都市の都心の一角とは思えない程の、楠の深い緑が印象的な広大な神域を有する神社で、境内には、1692年に水戸藩主の徳川光圀が筆をとった「嗚呼忠臣楠子之墓」の八字を刻んだ石碑や、同藩の佐々木助三郎が監督して建てた墓碑などがあり、また、正成所縁の品々が多数収蔵されている宝物館もあります。
上の写真の御社殿が、同社の現在の拝殿で、かつての拝殿は昭和20年3月の神戸空襲により本殿と共に一旦烏有に帰しましたが、正成を敬慕する多くの人々の赤誠によって昭和27年に再建されて、現在に至っています。
外部は鉄筋コンクリート造、内部は桧木造、屋根は銅板葺の、権現造に似た社殿で、拝殿の天井には当時の著名画伯による奉納画が埋められています。
ちなみに、この写真で拝殿前の石畳に赤いカーペットが敷かれているのは、この時たまたま神前結婚式が行われていたためです。
同社は明治5年、初めての「別格官幣社」として、正成・正季兄弟最期の地である湊川に、正成を主祭神とする神社として創建され、当時(戦前・戦中)の忠君愛国の風潮にのって広く国民の崇敬を集め、正成の誠忠を貫いた精神と、一篇の叙事詩のような正成の爽やかな生き様は、当時の人々に大きな影響を与えました。
かつて正成が弟と刺し違えて壮絶な最期を遂げた地でありながら、現在はその凄惨な状況からは程遠い清浄な雰囲気が漂う、とても清々しい空気に包まれた神社です。
ところで、室町時代から江戸時代にかけては、水戸藩の歴史観や幕末の混乱期などを除くと、一般には北朝が正統な朝廷と見なされていたため(実際、南北朝期の年号は、ほとんど北朝のものが使われていました)、南朝の武将であった正成は、必ずしも高い評価は受けていませんでした。
しかし、それまで磐石であった江戸幕府の権威が揺らぎ始めた江戸時代末期頃になると、正成は “倒幕のために働いた先輩” として、倒幕を目指す志士達から絶大な人気を集めるようになり、更に、明治維新が起こって武家政治が否定され、皇室を中心に据えた近代的国家建設が目標とされると、幕府や武家との結び付きが強かった北朝はその正統性が疑問視されるようになり、南朝こそが正統とされ、それに伴い、南朝方の武将として後醍醐天皇に殉じた正成の精神は “天皇に忠誠を尽くして命をも顧みずに戦った忠君愛国の手本” として更に高く評価され、全国的に広く称賛されるようになっていきました。
そういった状況を背景として、明治元年、大楠公創祀の沙汰が兵庫県に伝達され、翌2年、正成の墓所や殉節地(最期の地)を含む7,232坪(現在は約7,680坪)が神社の境内地に定められ、明治5年に勅使を迎えて鎮座祭が斎行されて、前述のように湊川神社が創建されたのです。
また明治13年には、正成には正一位が追贈されています。
しかし、正成は明治になってから「忠臣」と「勤皇」の面ばかりが強調され、それに基づいて過大ともいえる程に高く評価されたため、その反動から戦後、正成は一転して “戦前の皇国史観を象徴する人物” と見なされ、学校の歴史の授業では正成の事績はほとんど教えられなくなってしまい、現在では、正成とはどんな人物であったのかよく分からない、という人のほうが多くなってしまいました。
尊氏もそうですが、正成もまた、時代によって著しくその評価が変動する人物といえます。
なお、湊川神社で発行している同社の由緒などを読むと、「大楠公は、後醍醐天皇の目指す親政を阻止せんとする鎌倉幕府の勢力や、また武家の政権を新たにたてようとする足利尊氏と戦い、正義と忠誠を示されました」と書かれています。
御祭神が尊氏に攻め滅ぼされた湊川神社の歴史観や、南朝こそが正統であるという立場に立つのであれば、確かに正成は「皇室に忠義を尽くした第一の功臣」であり、それに対して尊氏は「皇室に弓を引いた逆賊」という見方になるため、この書き方(正成を “大楠公” と尊称で書き記しているの対して尊氏の事は呼び捨てにして、しかも尊氏と戦った事を正義を言い切っている事)は当然であろうと思います。
しかし、北朝こそが正統であるというもう一方の歴史観(前述のように江戸時代末期に至るまではむしろその歴史観の方が主流でした)や立場に立てば、(正平一統という北朝への裏切り行為があった事を考慮しても)尊氏こそが朝廷に忠義を尽くした大忠臣であったという考え方になります。
当然、北朝が正統であると一般に認識されていた江戸時代中期以前は、尊氏が逆賊視される事は少なく、逆に、(戦前の皇国史観の教育を受けられた方には信じ難いかもしれませんが)当時は正成のほうが朝敵として逆賊視されていたのです。
ですから、「大楠公は後醍醐天皇に忠義を貫いた天下の大忠臣であるが、その大楠公を死に至らしめ後醍醐天皇に叛いた尊氏は、史上最大の憎き逆賊である」という解釈や、それとは全く正反対の「足利尊氏公は源氏の棟梁として室町幕府を開いた英傑であるが、正成は、名将の器を持ちながら建武の新政以後は結局は時局に影響を与える事ができなかった悪党」(ここでいう悪党とは勿論歴史用語としての悪党であり、現代用語の悪党の意味ではありません)などという解釈は、どちらも客観的な解釈であるとは言い難く、あくまでも一定の歴史観や価値観に基づいた主観的な解釈であるといえます。
私個人としては、正成も尊氏も、共に人を惹き付けて已まない程の優れた魅力を持った武将であったと思っています。
また、正成を熱烈に敬愛する人達の中には、平成の御世となった現在に於いてもなお尊氏を逆賊・朝敵として非難する人が少なからずおり、私としては正直びっくりさせられますが、私は尊氏の生涯からは、逆賊どころかむしろ、「尊氏自身は熱烈な勤王家であり、後醍醐天皇と戦う事には常に精神的な苦痛を感じていた」という一貫した態度を感じています(これはかなり不思議な事でもあるのですが、しかし尊氏の生涯を辿ってみると、私にはそうとしか思えないのです)。
ちなみに、尊氏が後醍醐天皇の御霊を慰めるために建立した京都の天龍寺(臨済宗天龍寺派大本山)では、平成19年に「足利尊氏公六百五十年忌」の法要が営まれ、尊氏の功績を讃える内容の記念講演が行われるなどし、また翌20年は、京都の東寺(東寺真言宗総本山)に於いて尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要が厳修され、法要後、同宗の砂原長者は「戦時中、尊氏公は賊軍扱いだった。資料を調べたら、東寺に大変な御苦労をされた方で、位牌をつくるのは当然の事と思う。千二百年続いている東寺だが、尊氏公の功績を千年後まで伝えたい」と語っておられましたが、こういった見方(尊氏に対して「公」の尊称を付けたり、尊氏の功績を讃えたりする事)は、尊氏を未だ逆賊視する湊川神社などの立場からはまず考えられない見方であり歴史観であると言えます。
京都の三大祭りの一つとして知られる平安神宮の時代祭でも、「尊氏は逆賊である」という神社側の歴史観の下、室町幕府や足利将軍は常に行列から除外されていましたが、平成19年に初めて室町時代の幕府執政列が行列に加わり、足利将軍も晴れて堂々と都大路を闊歩するようになりました。
しかしこれについて、宗教界の新聞である中外日報によると当時の平安神宮の宮司さんは、「各時代の風俗を展覧するという意味では、室町行列があって不思議ではない」と一定の理解を示しながらも、「時代祭は祭神の桓武天皇と孝明天皇に、今の京都をご覧いただくのが本旨で、行列は両天皇のお供。お供に足利氏がいるのはおかしい」とも語られており、天皇を御祭神としてお祀りする神社の宮司として、複雑な心境を覗かせています。
ちなみに、神戸には湊川神社の他に、湊川公園(私はまだ見ていませんが正成の騎馬像があるそうです)、蓮池(湊川の戦い最大の激戦地)、会下山公園(正成の本陣跡)など、正成に関する史跡はいくつもありますが、湊川の戦いでのもう一方の大将である尊氏の足跡を偲べる史跡は特に何も無く、神戸での尊氏の不人気ぶりが窺えます。
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