本年の8月下旬、所用により、2泊3日の日程で関西に行ってきました。
主に京都・大阪・神戸を回ってきたのですが、京都では私一人だけで行動する時間が少しあったので、その際に、以前から一度訪れてみたいと思っていた、地下鉄烏丸線 丸太町駅の直ぐ近くにある「足利義輝邸跡」を、サクっと一人で見学してきました。

足利義輝邸跡_01

ここは、現在は「平安女学院」という学校の京都キャンパス(同学院の大学・高校・中学校・学院本部などが置かれています)の敷地の一部で、かつて義輝邸があった事などを示す石柱がただ立っているだけで、当時の面影は微塵もありませんが(そもそも室町幕府や足利将軍家関係の史跡は、金閣・銀閣・相国寺等持院などの一部を除くと、大抵はどこも往事の面影など全くありませんが)、かつてはこの地に、室町幕府第13代将軍の足利義輝が屋敷を構え、この地で将軍として政務を執っていました。

足利義輝邸跡_02

義輝は、近年は「剣豪将軍」として知られており、実際、室町幕府に限らず我が国の歴史に登場する歴代の征夷大将軍の中では、一個人が持つ剣技としては間違い無く最強の人物であったと私も思っていますが(一説によると義輝は、剣聖と称された塚原卜伝から指導を受けた直弟子のひとりで、その卜伝から奥義「一之太刀」を伝授された、とも云われています)、ここは、その義輝が壮絶な最期を遂げた場所でもあります。

足利義輝邸跡_03

義輝の最期は、いくつかの異説はあるものの一般には、概ね以下のようであったと伝えられています。但し、これについても、江戸時代後期以降に創作された武勇伝であるという説もありますが。

松永久秀と三好三人衆らは、邪魔な存在となった将軍・義輝を弑逆すべく、約1万の軍勢で義輝の屋敷を襲撃しますが、剣豪レベルにまで鍛えまくっていた義輝は自身で直接刀や薙刀を振るい、屋敷の中に入り込んできた軍勢を次々と斬り殺し、血や脂が付いて切れ味が悪くなると、自身の周囲の畳などにぶっ刺した予備の刀を握りしめてまた戦うなどしたため、松永勢はいつまで経っても義輝一人を討ち取る事が出来ませんでした。そこで、最後は四方から一斉に畳を義輝に覆い被せ、それらの畳の上から一斉に突き刺して義輝を殺害しました。

他にも、「大勢の槍刀によって傷ついて地面に伏せた義輝を、一斉に襲いかかって殺害した」とか、「槍で足を払われた義輝が倒れたところを、上から刺し殺した」とか、「義輝は自ら薙刀や刀で戦った後、自害した」などとも云われておりますが、兎も角、壮絶な最期だった事は間違いないようです。

ただ、義輝のこの壮絶な最期は、武勇伝として「剣豪将軍」の名を大いに高めはしましたが、一介の武士としてなら兎も角、全国の大名達を率いる征夷大将軍としては決して賞賛されるべき最期ではなく、武家の棟梁であるはずの将軍の権威が完全に失墜した事を全国に強く印象付ける事件となりました。


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