先日、「いおた」さんという方が作成しユーチューブにアップされていた、関東戦国史についての解説動画3本を観ました。
これらの動画では、関東は、「享徳の乱」の開戦により全国に先駆けて戦国時代に突入し(応仁の乱より12年早いです)、そして、秀吉による「小田原征伐」を以て全国で最も遅く戦国時代が終わった、という解釈のもと、関東に於ける戦国時代の前半の主人公を、第5代鎌倉公方で後に初代古河公方となった足利成氏(しげうじ)、関東戦国時代の後半の主人公を、後北条(小田原北条氏)の祖である北条早雲と位置付けて、動画作成者自身の主観を交えながら歴史初心者にも分りやすく解説されていて、なかなか面白かったです。


一般に、関東を代表する初の本格的な戦国大名として抜群に知名度が高いのは北条早雲ですが、これらの動画では、その早雲が登場してからの関東戦国史は「消化試合みたいなもの」と大胆な解釈をし、その上で、一般にはあまり知名度が高いとは言えない足利成氏を、当時の中央政権である室町幕府と戦って関東に戦国時代をもたらした張本人として大きく取り上げ、成氏が最後まで戦い抜いた「享徳の乱」については、28年間も続いた大乱(応仁の乱ですら10年)でありながら、「最後にみんな負ける戦争」「勝者なき戦い」と断じており、興味深かったです。

関東の戦国時代は、足利将軍家を頂点とする室町幕府、関東公方(鎌倉公方や古河公方など)を歴任した関東足利氏、関東管領である上杉氏の本家や分家、その他の関東武士団などが、敵味方入れ替わりながら長期に亘って戦い続けるカオスな時代であり、南北朝の戦乱や応仁の乱などもそうですが、敵味方がコロコロと変わるためかなり複雑で分かりづらいのですが、足利成氏(とその父・持氏の親子2代)の視点から見ると、あくまでも一方からの見方であるため必ずしも公平な見方ではないのでしょうが、関東戦国史は意外とすっきりと分かりやすく見えてくるのかなと感じました。

そして、これらの動画を見て改めて、将軍家と同じく尊氏の子孫で、将軍家と同じ足利姓の一族(血筋でいえば勿論身内)でありながら、一時期を除いてほとんどの時代で足利将軍家と対立し、時には激しく戦火さえ交えた関東公方足利氏は、やはり“誇り高い一族”だったんだな、と感じました。
父や兄達の仇でもある幕府や上杉氏らと、とことん戦い続け、本拠である鎌倉を奪われても古河に本拠を移し決して屈する事の無かった成氏は、まさに、その関東足利氏歴代の“激しさ”や“矜持”を象徴するような人物といえるでしょう。


平成29年10月30日の記事で詳述した通り、室町幕府が崩壊し足利将軍家が途絶えた後、尊氏の子孫は2系統が存続し、現在も続いておりますが、その2系統のうち、足利将軍家に近く貴種であるはずの平島公方(阿波公方)足利氏は、豊臣政権からも徳川政権からもその存在をほとんど無視され、江戸時代になると、形の上では徳島藩主・蜂須賀氏の客将という扱いを受けはしますが、実際にはその蜂須賀氏からも冷遇され、どんどん没落していきました。
それに対して、室町幕府があった時代に将軍家と対立関係にあった関東公方足利氏のほうは、豊臣政権からも徳川政権からも厚遇され、江戸時代には事実上、足利氏の宗家と見なされ、実高は高家旗本並みの五千高程度でありながら、格式は十万石の国主大名並みという破格の待遇を受けました。
こういった両家の扱いの差は、勿論それだけが原因ではないでしょうが、関東公方足利氏のほうが、平島公方足利氏よりも多くの武士達から“勇猛な武家を束ねる立場の者”として共感や敬意を得、その実績も高く評価されていたからなのではないのか、という気がします。

有力な支持勢力であった細川晴元に裏切られた事をきっかけに堺から阿波へと逃げた平島公方足利氏は、家臣はいても、自前の軍事力はほぼ皆無で、実質、有力な戦国大名から権威として利用されるだけの存在で、江戸時代になるとその権威すら失墜していきましたが、それに対して関東公方足利氏は、源氏一門所縁の関東に本拠を構え、関東武士団の棟梁(関東公方)として直接軍勢を率いて何代にも亘って中央政権(室町幕府)と戦い続け、関東で後北条が台頭するようになるとかつての勢いは失われ歴史の表舞台からは消えていきましたが、兎も角、良くも悪くも多くの実績を残しました。
その野望やプライド、復讐心などから関東に無用の戦乱を招いた、と言えない事もありませんが、別の見方をすると、屈する事なく常に戦い続けた誇り高き一族、という見方も出来、それが、後の世になって両足利家の待遇に格差が生じる一因にもなったのかもしれませんね。


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