大塔宮護良親王

大塔宮護良親王(上の画像の馬上の人物)については前回の記事で取り上げたばかりですが、先月16日、その護良親王に関するニュースがネット(毎日新聞)にアップされました。
以下の画像は、そのニュース記事を画像として取り込んだものです。私にとっては、ニュースそのものよりも、このニュース記事に貼付されていた写真(護良親王の首級)が、ちょっと衝撃的でした…。

公開された護良親王と伝わる首級

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、当該記事の本文全文です。携帯電話等の小さい画面で上の画像の文字がはっきりと判読出来ない方は、こちらをお読み下さい。

都留市朝日馬場の石船神社で15日、後醍醐天皇の皇子、護良(もりなが)親王(1308~1335年)と伝わる首級(しゅきゅう)が公開された。
親王は、鎌倉幕府の討幕計画に尽力したが、足利氏と対立し、鎌倉で殺害されたとされる。首級を携えた寵妃の雛鶴(ひなづる)姫が、上野原市秋山から都留市方面の峠を越える途中で亡くなり、首級は同神社に祭られたと伝わる。
15日は首級を確認する神事が行われた。神職が本殿から首級を取り出し、地元関係者が保管状況を確かめて本殿に戻した。首級は漆や木片、木くずなどで肉付けされている。
地元住民は親王と姫を大切に祭ってきたといい、小俣政英さん(62)は「自分が生まれる前から行われている神事を今後も続けていきたい」と話した。

この記事によると、護良親王の首級は、地元では長年に亘って大切に扱われ、今も本殿で丁重にお祀りされているようです。非業の最期を遂げられた親王の御霊(みたま)も、六百数十年という長い時を経て、しかもその間、石船神社で祭祀され続け、また、明治の世になってからは鎌倉宮でもお祀りされた事によって、大分慰められたのではないかなと、私個人としては推察します。


建武政権下で護良親王との対立が深刻化していた足利尊氏は、後醍醐天皇の寵姫である阿野廉子(あのれんし)を通じて、後醍醐天皇に対して親王の失脚を働きかけ、その働きかけによって親王は、後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに「皇位簒奪を企てた」として捕らえられて、鎌倉へ流され、尊氏の弟・直義(ただよし)の監視の下、幽閉の御身となります。
その翌年、北条高時の遺児である時行ら(旧鎌倉幕府の残党)が信濃で挙兵し、鎌倉に攻め込んできますが、その直前、現状では鎌倉を守り切れないと判断した直義は、一旦鎌倉を捨てて西へ逃れます。そして、その逃亡のドサクサに紛れる形で、直義は鎌倉を出るに当たって密かに、部下に親王の殺害を命じたのでした。
尊氏ら足利氏を激しく憎まれていた親王を生かしたままにしておくと、将来必ず足利氏の仇になるであろうと判断したとも、また、鎌倉を占拠した時行が前征夷大将軍である親王を宮将軍として擁立して鎌倉幕府を再興する事を恐れたため、とも云われています。

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、小学館の「日本の古典を読む16 太平記 長谷川端 [校訂・訳]」という本に掲載されていた、太平記に記されている護良親王最期についてのエピソードの訳文です。親王が具体的にどのような最期を遂げたかについては前回の記事でも述べましたが、太平記によると、その詳細は以下の通りです。

左馬頭(さまのかみ)直義は鎌倉の山内(鎌倉市山ノ内)を通過なされたとき、淵辺甲斐守(ふちのべかいのかみ)を近くへ呼んで、「味方は少数なのでいったん鎌倉から退去するが、美濃・尾張の軍勢を集め、すぐに攻め寄せるから、鎌倉を攻め落として相模二郎時行を滅ぼすのは、時間の問題だ。今後とも我が家のために仇になるにちがいないのは兵部卿親王(大塔宮)でいらっしゃる。死罪に処し申しあげよという勅命はなかったが、この機にただお命をいただこうと思う。お前はすぐに薬師堂の谷(鎌倉市二階堂)へ駆け戻って、宮を刺し殺し申しあげよ」と命ぜられた。
淵辺は「承知いたしました」と、山内から主従七騎で引き返し、宮のいらっしゃる牢び御所へ参内した。

宮は一日中ずっと闇夜のような土牢の中で、朝になるのもご存じなく、なおも灯をかかげて読経されていた。淵辺がかしこまって、お迎えに参上した由を申し入れると、宮は一目ご覧になって、「お前は私を殺せと命を受けた使者であろう。分っておるぞ」とおっしゃって、淵辺の太刀を奪おうと走りかかられた。
淵辺は手にした太刀を持ち直し、御膝のあたりを強くお打ちしたので、宮は土牢の中に半年ほど座ったままでいらっしゃり御足もうまく立たなかったのか、御心はますますはやるもののうつぶせにお倒れになった。そこを淵辺は起きあがらせず、御胸の上に馬乗りになり、腰刀を抜いて御首をかこうとした。だが、宮は御首をすくめて、刀の先をしっかりとくわえられたので、淵辺も剛の者、刀を奪われまいと、無理やり引っ張るうちに刀の切っ先が一寸あまり折れてなくなってしまった。
淵辺はその刀を捨てて、脇差の短刀で宮の胸元を二度まで刺し、宮が少々弱られたところを、御髪をぐいとつかんで御首を斬り落した。

牢は暗かったので、淵辺は外へ走り出て、明るい所で御首を見ると、宮がさきほど食い切った刀の切っ先はまだ口の中にあって、御眼の色も生きているようだった。
これを恐ろしく思って、「そうだ、先例がある。こういう首は主君には見せぬものなのだ」と言って、その辺の藪に放り込み、馬にうち乗って、急ぎ左馬頭殿に合流してこの由を報告したところ、「よくやった」とお褒めになった。

宮をお世話している南の御方(みなみのおんかた)という女房は、この有様を見申しあげて、あまりにも恐ろしく、悲しくなって手足も震えて失神なさるほどだった。少したって気を落ちつけ、淵辺が藪に捨てた宮の御首を拾いあげて御覧になると、まだ御肌も冷えず、御眼もつぶらず、まったく生きていたときのままに見えたので、「これはもしかして夢ではないか。夢なら覚めて現実に戻ってほしい」と泣き悲しみなさったが、その甲斐もない。
こうしたところに、理到光院(鎌倉市二階堂にあった五峰山理智光寺)の老僧がこの事件を聞き、「あまりにお気の毒でございます」と言って、自分の寺へご遺骸をお入れした。そして、葬礼の仏事を形どおり執り行って、荼毘に付しなされたことは、しのびないことであった。
南の御方はすぐに御髪を下ろし、御首を持って、泣く泣く京都へ上って行かれた。哀れで恐ろしかったこの事件を語り伝えなさるたびに、聞く人は涙を流すのであった。

太平記の記述によると、親王は御首を斬り落とされた後も、折れた刀の刃に噛み付き、目も見開いたままで、淵辺も思わず「恐ろしい」と感じてその御首を藪の中へ捨ててしまう程ですから、親王の御首はきっと物凄い形相だったのでしょう…。


以下の画像は、平成27年7月20日の記事でも紹介した、横山まさみちさんの著したコミック「太平記(2) 楠木正成 千早の巻」からの転載です。この作品では、護良親王の最期は以下のように描かれていました。

護良親王の最期_01

護良親王の最期_02

護良親王の最期_03

護良親王の最期_04

前出の太平記訳文とは、細部の描写は異なっている所もありますが、大凡は一致しており、やはり“皇子の薨去”としては全く相応しくない、凄まじい最期であった事は間違いないようです。
そして、こういったエピソードを知っていると、その護良親王の首級(さすがにそのままの状態ではなく、肉付けされて装飾も施され復顔されていますが)の写真が、ネット上のニュース記事に普通にアップされた事に、私は少なからず衝撃を受けました。

ただ、護良親王の首が埋葬されているとされている場所は、実は他にも複数あるため、この首級が正真正銘、護良親王の首級であるのか否かは、定かではありません。作り物ではなく、本物の頭蓋骨である事は間違いないようですが。


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