私は今月の上旬、2泊3日の日程で、岩手県を旅行してきました。
今回は主に、岩手県太平洋岸の三陸海岸(久慈から釜石にかけて)と、同県内陸の遠野を中心に見て回り、遠野市内では、“日本の民俗学の父”と称される柳田國男の代表作のひとつとして知られる「遠野物語」所縁の各スポットを見学してきました。

そして、遠野物語とは特に深い関わりがある所ではありませんが、私が宿泊したホテルのたまたま直ぐ隣に「南部神社」と刻字された社号標の立っている神社が鎮座していたので、その南部神社も、参拝・見学してきました。
安土桃山時代から江戸時代までは鍋倉城という山城(遠野南部氏の居城)があったのですが、南部神社は、その城跡に造られた鍋倉公園に鎮座しておりました。

南部神社_01

南部神社_02

南部神社_03

南部神社_04

南部神社_05

南部神社_06


南部神社へは旅行前に事前に調べて行ったわけではなかったので、現地で初めてその事を知りちょっと驚いたのですが、実はこの神社は、私が日頃から特に興味・関心を抱いている鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての時期と、とても深い関わりがある神社でした。
とはいっても、このこの南部神社が創建されたのは近代(明治15年)であり、別に、鎌倉時代や南北朝時代に創建された神社というわけではありません。

では、何がその時代と深い関係があるのかというと、この神社でお祀りされている御祭神が、その時期に活躍した武将達なのです。具体的に言うと、南朝に仕え後に「勤王八世」と称されるようになった、南部実長命、南部実継命、南部長継命、南部師行命、南部政長命、南部信政命、南部信光命、南部政光命の、遠野南部氏8柱を御祭神としてお祀りしているのです。
ちなみに、神社の創建当初は「勤王五世」と称された5柱をお祀りしていたそうですが、昭和34年に南部三公を合祀して、合せて「勤王八世」と称する事にしたようです。

南部氏は、元々は、源義家の弟・新羅三郎義光を祖とする、甲斐源氏の一門で、甲斐国の巨摩郡南部六郷を所領した事から南部姓を名乗るようになりました。その南部氏の庶家が、鎌倉時代後期に陸奥の糠部(ぬかのぶ)地方に所領を得て、陸奥に下向し土着したのが奥州南部氏の始まりで、南北朝時代になると、当初は南朝方として参戦しますが、南朝が衰退すると、南部氏もその多くは南朝を見限り、北朝・室町幕府に帰順するようになります。
しかし、前出の「勤王八世」と云われる遠野南部氏だけは、そのような情勢下にあっても北朝・幕府に帰順する事なく、最後まで南朝を支え続けました。
以下に、その8柱の御祭神の、生前の経歴をまとめてみます。


【初代】 南部実長 (さねなが)
清和源氏新羅三郎義光六世の孫。鎌倉時代中期の御家人。
鎌倉幕府に勤番中、鎌倉で日蓮による辻説法を聞いて深く感銘し、日蓮に帰依し、所領を身延山に寄進するなどして現在の身延山の基を作りました。自らも出家し、法寂院日円と号しました。

【2代】 南部実継 (さねつぐ)
初代・実長の子。鎌倉時代末期の武士。父の代理として身延山の工事にも従事しました。
1331年、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動「元弘の変」が起こると、実継は、当時としては老齢の六十余歳の身ながら後醍醐天皇方として参戦し、護良親王や尊良親王に随従して赤坂城に篭城しました。実継は奮戦しましたが、鎌倉幕府の大軍に攻められて赤坂城は落城し、尊良親王と共に捕らえられ、親王は土佐に流されましたが実継は京都の六条河原で斬首されました。

【3代】 南部長継 (ながつぐ)
2代・実継の子。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武士。
1326年、奥州で安藤氏が謀反を起こした際に、鎌倉幕府の命により、その謀反を討伐するために戦い、戦功大なりと伝わっています。
1330年、父・実継の命により上洛し、護良親王を奉じて楠木正成の麾下となり、鎌倉幕府討幕のため戦いました。
1335年、中先代の乱勃発に乗じて足利直義の配下に護良親王が殺害されると、長継は若宮の子・興良親王を奉じて後醍醐天皇方として足利方と戦いますが、1352年、その興良親王は、足利方に寝返った赤松則祐と摂津国の甲山の麓において戦うも敗れ、長継はこの戦いで戦死したと云われています。

【4代】 南部師行 (もろゆき)
3代・長継の妹の子で、鎌倉幕府の御内人だった南部政行の子。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の挙兵が起こると、師行は一族に倒幕の利を説いて後醍醐天皇の綸旨に呼応し、新田義貞が幕府に反して挙兵し鎌倉を攻めると、弟(5代)の政長と共にこれに従軍して武功を挙げ、鎌倉陥落に貢献しました。同年、後醍醐天皇によって建武の新政が始まると、師行は京都にとどまって武者所に任命され、南部家は一族で名を挙げる事に成功しました。
1334年、鎮守府将軍として奥州平定を命じられた北畠顕家が、義長親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向すると、師行もこれに随行して陸奥へ下り、糠部(ぬかのぶ)郡の目代や鹿角(かづの)郡の地頭に任命されるなど顕家政権下で重用され、八戸に入って根城を築いて主に陸奥北部方面の支配を担当しました。
1337年、顕家に従って足利尊氏討伐軍として京都に進軍し、各地で戦功を挙げるものの、1338年、阿部野で敗れ、和泉国の石津で顕家と共に戦死しました。
明治29年、師行は南朝への忠義を讃えられて正五位を追贈され、明治30年には、その子孫であり当時士族とされていた遠野南部氏当主の南部行義に、特旨を以て男爵が授けられました。

【5代】 南部政長 (まさなが)
4代・師行の弟。南北朝時代に活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げ、鎌倉幕府方の新田義貞がそれに呼応して天皇方に寝返ると、政長は上野国で義貞と合流して鎌倉攻めに参戦し、殊勲を立てました。
1335年、足利尊氏が後醍醐天皇から離反した際も、義貞と共に後醍醐天皇方に与し、鎮守府将軍として奥州に下向してきた北畠顕家と共に奥州の南朝軍として奮戦しました。
南部家は、奥州では有力国人として勢力を持っていたため、足利直義や高師直などは政長に対して何度も北朝・室町幕府への帰順を申し入れますが、政長はこれを拒絶して南朝支持の立場を一貫し、幕府方に付く諸将が次第に増えていく中、数少ない南朝方の武将として各地を転戦し、南朝の後村上天皇からは恩賞として太刀と甲冑を賜っています。
明治41年には、宮内省から、その功績を讃えられて正五位を追贈されました。

【6代】 南部信政 (のぶまさ)
5代・政長の子。南北朝時代の武将。
1335年、父政長に代わって北畠顕家の西上軍と行動を共にし、敵将である足利尊氏を遠く九州に敗走させる事に功績があり、後醍醐天皇より感状を賜りました。
1345年、北畠顕信に推挙され右近蔵人となり、吉野の南朝に上がって達智門女院に仕え、1348年、四條畷の戦いで高師直軍と戦い戦死したと云われています。

【7代】 南部信光 (のぶみつ)
6代・信政の子。南北朝時代の武将。
それまで奥州で南朝軍の主力だった伊達家が北朝・室町幕府に降り、奥州の南朝勢力は衰退に向い、逆に、幕府による奥州支配が徐々に確立されつつあった時期に、南朝に与して奥州を転戦し続け、1361年、後村上天皇は信光とその一族に、戦功嘉賞の綸旨を下されました。
1367年、正月恒例の年賀の挨拶のため、一族がいる甲斐国の波木井城にいたところ、幕府方の神大和守(かんのやまとのかみ)の軍勢から急襲を受けますが、信光はこれを退け、更に反撃に出て、大和守の居城・神城を陥落させました。同年、南朝に対する長年の功績から、後村上天皇より甲冑と感状を賜り、所領も加増されました。その甲冑は現在、国宝に指定され、八戸の櫛引八幡宮が所蔵しています。

【8代】 南部政光 (まさみつ)
7代・信光の弟。南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将。
足利義満による南北朝合一後もそれに従わなかったため、義満は、南部氏本家(盛岡南部)の南部守行(信光の娘婿)を以て勧降しますが、「二君に仕うるは不義」として政光は節を曲げず、甲州の本領を捨てひとり八戸に移りました。義満もそれ以上は勧降しなかったため、政光はその地で天寿を全うしたと云われています。


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