先週、私は2泊3日の日程で関西(主に京都・大阪・和歌山方面)を旅行してきたのですが、2日目の朝、以前からずっと行きたいと思っていた、京都府亀岡市篠町に鎮座する篠村八幡宮を参拝・見学してきました。
誉田別命、仲哀天皇、神功皇后の三柱をお祀りする八幡宮で、歴史的には、足利尊氏(挙兵当時は高氏)の倒幕挙兵地として知られるお宮です。

篠村八幡宮_01

篠村八幡宮_02

鎌倉幕府の命令により、幕府に敵対する後醍醐天皇方の軍勢を討つため、幕府を代表する有力武将の一人として鎌倉を出陣してこの地に到達した尊氏は、1333年4月29日、この地に於いて、後醍醐天皇側に寝返って討幕する意思を表明します。
尊氏の心中では、鎌倉を出る時には既にその決意が固まっていましたが、全軍にその事を明らかにしたのは篠村八幡宮に於いてであり、この地は、云わば、その決定的な地点となりました。

同日、戦勝祈願の願文を神前で読み上げた尊氏は、直ちに全国各地の武将達に密書を送って協力を求め、同宮一帯に数日間陣を張って滞在した後、尊氏は、後醍醐天皇方の千種、赤松軍などと連絡を取りながら、鎌倉幕府の京都に於ける最重要拠点であった六波羅探題を攻め滅ぼしました。
そして、六波羅を守っていた北条仲時ら四百余人は、近江の番場(現在の滋賀県米原市)まで逃れて悉く自刃しました。

篠村八幡宮_03

尊氏は、篠村八幡宮で討幕の意思を明らかにした際、願文に添えて鏑矢(合戦開始の合図として双方が最初に敵側に射込む唸り音を発する矢)も神前に一本奉納したのですが、尊氏の弟・直義を始め、一族の吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も、それに倣って矢を一本ずつ納めて必勝を祈願し、そのため社壇には矢が塚のように高く積み上げられました。
これらの矢を埋納した場所が、下の写真の「矢塚」です。ちなみに、矢塚の石碑は、江戸時代中期の1702年(赤穂浪士の討入りがあった年です)に奉納されました。

篠村八幡宮_矢塚

矢塚には椎の幼木が植えられ、その椎は樹齢660年を経て周囲の椎と同じ程に成長しますが、昭和9年の室戸台風で倒れ、現在の椎は2代目との事です。
なお、矢塚の脇に立っている看板の説明によると、「足利尊氏の勝ち戦にあやかるべく、地元の太平洋戦争出征者は、椎の倒木から作った肌身守を持参して無事を祈願した」との事なので、尊氏が逆賊視されていた戦時中に於いても、少なくとも地元の人達(篠村八幡宮の氏子さん達)からは尊氏はそうは思われていなかったらしい事が窺えます。

また、境内ではないものの、篠村八幡宮に隣接する地には、「旗立楊(はたたてやなぎ)」と称される楊が立っています(下の2枚の写真)。
尊氏の元に次々と駆けつけてくる武将達に尊氏の本営の所在を示すため、旧山陰街道(横の小道)に面して高く聳え立つ楊の木に、足利家の家紋である「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられており、この楊は、その時代から6~7代を経て引き継がれたものだそうです。前出の矢塚と共に、この楊も亀岡市の史跡に指定されています。

篠村八幡宮_旗立楊02

篠村八幡宮_旗立楊01

なお、尊氏は後醍醐天皇と決別した後の1336年1月、京都攻防戦で敗れた際にも、この地で味方の兵を集めると共に、再起を祈願して篠村八幡宮に社領を寄進しています。
その後、尊氏は逃げ落ちた九州で体勢を立て直して京都へと戻り、後醍醐天皇側の軍勢に勝利して室町幕府を開く事となりました。

こういった経緯から、1349年には尊氏は同宮にお礼参りに訪れ、また、室町幕府の歴代将軍も多くの社領を寄進し、盛時には、篠村八幡宮の社域は篠の東西両村にまで渡りましたが、後に、応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社域の多くは失われました。


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