この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

桜井の別れ

本年3月11日の記事では、南北朝時代を代表する武将の一人である楠木正成(くすのきまさしげ)を取り上げましたが、その正成と、正成の息子・正行(まさつら)の二人に関するエピソードの中でも特に代表的なものといえば、何といっても「桜井の別れ」です。

この「桜井の別れ」というエピソード(「桜井の宿の別れ」もしくは「桜井の駅の別れ」とも云います)は、ある一定以上の年齢の方を除くと現在では知らないという人の方が多いのではないかと思われますが、正成・正行親子が「忠臣の鏡」として持て囃されていた戦前・戦中であれば、老若男女を問わずまず知らない人はいない程、全国的に広く知られたエピソードでした。
なぜなら、戦前・戦中の学校教育に於いては、「桜井の別れ」は必ず歴史や修身(道徳)の授業で取り上げられ、教師達は涙ながらにその情景を子供達に熱く語っていたからです。
下の肖像画は、「大楠公」と称される正成に対して「小楠公」と称される、楠木正行です。

楠木正行

「桜井の別れ」とは、桜井(現在の大阪府島本町)の駅(古代の律令制度下で駅逓事務を取扱うため設定された町場の事で、鉄道の駅とは関係ありません)での正成・正行父子の今生の別れを情緒的に描いた、太平記の中でも特に有名なシーンの一つで、一言でいうと忠義の心を問いかけるエピソードなのですが、まずは、「桜井の別れ」に至るまでの当時の国内情勢の流れを、大雑把に以下にまとめてみます。

全国の武士達の間に満ちていた建武の新政(中興)に対しての不満・失望(建武の新政が武士達から支持されなかった最大の要因は論功行賞の失敗に因ります)や、再び武家政権の復活を望む武士達の思いを背景に、鎌倉で後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏は、後醍醐天皇が差遣された新田義貞率いる追討軍を箱根で破り、そのまま京都へと進撃して、一度は京都を占拠して後醍醐天皇の親政を躓かせます。この時後醍醐天皇は比叡山へと逃れられました。

しかし尊氏の勝利も束の間の事で、その後、楠木正成や北畠顕家らの目覚しい活躍により尊氏は京都で大敗し、後醍醐天皇方の軍が再び京都を奪還して、尊氏は海路九州へと敗走して行きました。
九州へと落ちた時、尊氏の手勢は僅か500という惨めさで、後醍醐天皇は再び京都へと還幸されて天皇の親政が復活しました。

ところが、京都で大敗して九州まで逃げてきた尊氏は、九州でたちまち勢力を盛り返し、僅か四ヶ月の間に兵力を整えて大軍となり、再び京都への進撃を開始しました。
足利軍は、尊氏が率いる海路を進む軍と、尊氏の弟・直義(ただよし)が率いる陸路を進む軍の二手に分かれて京都を目指し、それを迎え撃つため後醍醐天皇も軍を差遣されますが、義貞の率いる追討軍は劣勢で、勢いのある足利軍に圧されてじりじりと兵庫まで後退していきました。

このため、後醍醐天皇は正成を召して、急いで兵庫へと下って義貞と合流して戦うようにと命じますが、これに対して正成は、以下のような提案を献言しました。以下の正成のセリフは太平記からの口語訳です。

尊氏卿が九州の兵力を率いて上洛して来たとあっては、定めてその数はおびただしい事でございましょう。味方の疲れた小勢で、この勢い付いた大軍と尋常の戦い方をしたのでは敗北は必至、ここはひとまず新田殿を都へ呼び戻し、彼をお供に、帝は前と同様比叡山にお移り下さい。私も本拠地である河内へ下って畿内の兵力を集めて、淀川尻を封鎖致しましょう。
このようにして新田殿と私で都に入った足利勢を挟み込み、兵糧を費やさせれば、敵は疲れて戦力が低下し、一方味方は日を追って集まって参りましょう。その上で新田殿は山門から、私は河内側から攻め寄せれば、敵を一戦で滅ぼす事ができると思います。
新田殿も多分そう考えておられるのでしょうが、途中で一戦もせずに退却してはあまり不甲斐無く思われるのではないかと、それを恥じて兵庫で防戦しておられるように思われます。しかし合戦は中途はどうあれ、最後の勝利が大切でございます。よくよくお考えあって御決定を下されますよう。

当時、京都の台所の過半は琵琶湖と淀川の水運が支えていた事から、京都の糧道を断つ事はさして難事ではなく、このため正成は、尊氏に京都を一旦明け渡し、兵糧が尽きるのを待って挟撃し、一挙に殲滅しようという作戦を献言したのです。
実際、正成のこの献策は、劣勢にあった後醍醐天皇方がこの状況下で勝機を生み出しうる唯一の作戦であり、諸卿も「まことに、合戦の事は武士に任せるべきだ」と正成の意見に従う決定がなされかけました。
しかし、諸卿の中の一人である坊門清忠が、以下のように正成の献策に対して異議を差し挟み、結局正成の献策は否定されてしまいました。以下の清忠のセリフも太平記からの口語訳です。

正成の言う所ももっともではありますが、勅命を受けて出発した将軍の義貞が一戦も交えないうちに、我々がいち早く都を棄て、一年のうちに二度までも帝が比叡山に避難されるというのでは、帝の威厳が失われ、かつ官軍の面目も失われてしまいます。尊氏がいくら筑紫の兵力を率いて上洛して来るといっても、よもや昨年関東八カ国の軍勢を従えてやって来た時以上の事はありますまい。
この度の合戦にあっては初戦から敵が西国へ敗走するまで、味方は小勢ながら常に大敵を破っております。これは武略が優れているのではなくて、ひとえに天皇の御運が天意に叶い、その助けを得られているからでございます。されば敵を都へ引き入れず、都の外で滅ぼす事も容易いはず。時を移さず、楠木は兵庫に罷り下るべきであります。

つまり、官軍の体面や面子のため、正成の献策した唯一の必勝の戦略は簡単に退けられてしまったのです。
清忠の見解は全く非現実的であり、客観的に考えても、勢いづいている圧倒的な大軍の足利軍に対して、地の利がある訳でもない兵庫の地に於いて僅かな小勢で当たれというのは、正成に対して「死ね」と言っているようなものなのですが、しかし正成は、「この上は異議を申しますまい」と言ってもはや反論はせず、自らの死を覚悟して五百余騎を率いて兵庫へと向かいました。

そして正成は、決戦の地となる兵庫の湊川へと向かう途中、それまで行動を共にしてきた11才の嫡子・正行を河内の本領へと返すのですが、この時の正成と正行の別れが、俗に「桜井の別れ」と称されているのです。
正成は既に死を覚悟しているだけに、正成・正行父子の別れは感動的でもあります。以下は、戦前の小学校で使われていた日本史の教科書「尋常小学国史」からの引用です。

この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰へるのを待つて、一度にうちほろぼさうという謀を建てたが、用ひられなかつた。それ故、正成は、おほせに従つて、ただちに京都を立つた。
途中、桜井の駅に着いたとき、かねて天皇からいただいてゐた菊水の刀を、かたみとして子の正行に与へ、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した時は、天下は足利氏のものとならう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあつても、自分に代つて忠義の志を全うしてもらひたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。
それから、進んで湊川に陣を取り、直義の陸軍と戦つたが、その間に尊氏の海軍も上陸して、後から攻めかかつて来た。正成は大いに奮戦した。
けれども、小勢で、かやうに前後(まへうしろ)に大敵を受けてはどうすることも出来ず、部下はたいてい戦死し、正成も身に十一箇所の傷を受けた。そこで、もはやこれまでと覚悟して、湊川の近くにある民家にはいつて自害しようとした。
この時、正成は弟の正季(まさすゑ)に向つて、「最期にのぞんで、何か願ふことはないか。」とたづねた。正季は、ただちに「七度人間に生まれかはつて、あくまでも朝敵をほろぼしたい。ただそればかりが願である。」と答へた。正成は、いかにも満足そうににつこりと笑ひ、「自分もさう思つてゐるぞ。」といつて、兄弟互に刺しあつて死んだ。
時に、正成は年四十三であつた。今、正成をまつつた神戸の湊川神社のあるところは、正成が戦死した地で、境内には徳川光圀の建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」としるした碑がある。実に、正成は古今忠臣のかがみである。

太平記によると、正成は正行に対して、「獅子は子を産んで3日も経てば、数千丈の谷底へ蹴落とす。もし子にその気力があれば、谷底から這い上がってくるという。お前は既に11歳である。この教訓を心の底に深く留めておくように」と言ったとも記されています。
また、河内へ帰るように諭す正成の説得に対して、正行は「父上を見捨てて帰る訳にはまいりません。どうかお供をさせて下さい」と涙を流しながら訴える場面も、ドラマや小説などではよく描かれています。

こうして、正行と別れた正成は、弟の正季と共に湊川で壮絶な最期を遂げたのですが、正成が特に立派とされたのは、敗戦必至と予測したにも拘らず(実際その通りになったわけですが)、あくまでも忠臣としての道を貫き、息子・正行にもその道を説いて、後醍醐天皇の皇恩に応えるために死を覚悟して出撃したという点です。
京都で尊氏を迎え撃つ献策が退けられ、兵庫への出陣を命じられた時、正成は、その勅命を無視して河内へ引き上げる事も可能だったはずですが、忠に生き義に殉じる覚悟を決めていた正成は、いなかる命令であれ勅定に意義を唱えるつもりはなく、死を覚悟して即座に出陣を決意したのです。

もっとも、戦前・戦中は正成のその点ばかりが過剰に喧伝されたために、戦後はその反動から、正成は一転して“皇国史観を象徴する人物”として日陰に追いやられてしまったのですが。
天皇に対する帰趨性を何としても打ち砕きたかったGHQにとっても、正成・正行の事跡を教科書から削除する事は必須だったようです。ちなみに、下の絵が、その「桜井の別れ」を描いたと伝わる絵です。

桜井の宿訣別図

そして、以下は戦前の小学校で使われたいた道徳の教科書「尋常小学修身」からの引用で、この「桜井の別れ」の後日談です。成長した正行のその後の様子が描かれています。

家に帰つてゐた正行は、父が討ち死したと聞いて、悲しさのあまり、そつと一間に入つて自殺しようとしました。
我が子の様子に気を付けてゐた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしつかりとおさへて、「父上がお前をお返しになつたのは、父上に代つて朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。
正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守つて、一日も忠義の心を失わず、遊戯にも賊を討つまねをしゐました。
正行は大きくなつて、後村上天皇にお仕へ申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかはして正行を攻めさせました。
正行は、ただちに一族四十人ばかりをつれて、吉野にまゐつて天皇に拝謁し、また後醍醐天皇の御陵に参拝して御暇乞を申し、如意輪堂の壁板に一族の名を書きつらねて、その末に、

かへらじとかねて思へば梓弓、なき数にいる名をぞとどむる

といふ歌を記し、死を決して河内に帰り、賊軍と大いに四条畷で戦つた。
この時、正行はどうかして師直を討取らうと考へ、たびたびその陣に迫つたが、身に多くの矢きずを受け、力もつきはてたので、たうたう弟の正時を刺しちがへて死んだ。ときに、正行は年やうやく二十三であつた。

正行は父の遺言通り、正成や義貞亡き後は南朝の支柱として戦い続け、狭山池尻の戦い、藤井寺の戦い、爪生野の戦いなどで相次いで幕府軍を撃退させ、目覚しい活躍を見せました。
そのため、事態を重く見た幕府は足利家の有力な武将である高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の率いる大軍を正行追討のため出陣させ、正行は四条畷(しじょうなわて)に於いて、幕府軍を迎え撃つ事になりました。

当初、正行は「敵の大軍が押し寄せて来たら金剛山に立て籠もって戦え」という父・正成の遺言に従って戦うため東条、赤坂、千早の各城の防備を固めていたのですが(実際、楠木一族は平地で大軍同士が正面切ってぶつかり合う正攻法的な合戦よりも、篭城城、山岳戦、ゲリラ戦を特に得意としていました)、その正行の戦術を理解しない公卿の北畠親房がなかなか出陣をしない正行を叱責した事から、正行は僅か二千余騎の小勢で、四国・中国・東海・東山から動員された二十ヶ国もの幕府の大軍と四条畷で戦う事になったのです。

かつて正成が、兵庫で戦う不利を説いて京都で足利軍を迎え撃つという必勝法を説いたものの、結局その献言が受け入れられなかったのと同様、正行の採ろうとした戦法も、また受け入れられなかったのです。
このため正行は死を覚悟し、出陣するとすぐに、「今生の別れに今一度竜顔(天皇のお顔)を拝したく、参内つかまつりました」と言ってまず吉野の御所を訪れました。
伝奏からその言葉を聞いた南朝の後村上天皇は、御簾(みす)を高く巻かせて正行を近くに召し寄せ、「前二度の戦いで敵軍を挫いた事を嬉しく思っている。いや二代にわたる武功、返す返すも神妙である。大敵と聞けば戦の安否が気遣われるが、機に応じて進退を決めるのが勇士の心掛けと聞いた。早まらずに命を全うせよ。お前は私の股肱の臣だ」と言われました。

しかし、勝手知ったる金剛山に篭って得意の山岳戦を挑めない以上、兵力の差が余りにも大き過ぎるこの状況下で、正行が生きて帰る事はまず望めませんでした。こうして正行は、後村上天皇に最後の挨拶をした後、後醍醐天皇陵を参拝し、その後、御陵の北にある如意輪堂に立ち寄って、その板壁に「かへらじとかねて思へば梓弓、なき数にいる名をぞとどむる」という一首をしたためて、討死を誓った143人の名を矢じりで刻みました(この歌の「なき数にいる」とは過去帳に入るという意味です)。

そして、正月5日の早朝、四条畷で、正行にとっては人生最後となる合戦の戦端が開かれ、正行達は幕府の大軍と死闘を展開しました。
正行は、討死を誓った143人と共に高師直の本陣へ駆け寄って師直の首を狙いますが、上山六郎左衛門が師直の身代わりとして討たれて師直を逃がしたため、ついに師直を討ち取る事はできず、正行達は激戦の末に敗れました。
そして正行は、父・正成と全く同じように、弟(正時)と刺し違えてその生涯を終えたのです。正行は、父・正成の精神の余りにも忠実な体現者として生き、もう一人の弟・正儀(まさのり)が正行の死後才智ある政治性を発揮したのに対し、愚直な程真っ直ぐに忠義を貫いたのでした。

現代人の一般的な感覚からは、「桜井の別れ」や、正成・正季・正行・正時ら楠木一族の生き様には、「天皇への絶対的な忠誠」というものがひしひしと感じられ、それだけに“時代錯誤”的な違和感を感じてしまう人も少なくはないようですが、しかし私としては、そういった「忠誠」や「七生報告」に象徴される楠木一族の忠臣としての一面よりも、むしろ、楠木一族の持つ絶対的な律儀さや自己犠牲の精神のほうこそ注目・強調されるべきではないかなと思っています。


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皇居外苑の楠木正成騎馬像

今から9年も前になりますが、当時私が東京を旅行した際に見学・撮影してきた、皇居外苑南東の一角に立つ楠木正成騎馬像の写真をアップします。
全国にある楠木正成像の中では、恐らくこの騎馬像が最も有名ではないかと思います。像本体の高さは約4m、台座も加えると約8mもあります。御覧のように、躍動感溢れる実に力強い銅像です。

楠木正成騎馬像_01

楠木正成騎馬像_02

楠木正成騎馬像_03

楠木正成騎馬像_04

この楠木正成騎馬像は、住友の別子銅山開山200年を記念して、明治23年に住友家(住友財閥)が献納したもので、別子銅山で産出した銅で鋳造されています。
製作は東京美術学校が担当し、複数の美術家が部分毎に分担して作成していきました。像の要となる正成の顔は、当時東京美術学校の職員でこの像の製作主任であった、仏師・彫刻家として高名な高村光雲が担当しました。
ちなみに、上野恩賜公園のシンボルとなっている西郷隆盛像も、高村光雲が製作したものです。


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八朔と足利兄弟

今日は「八朔(はっさく)」です。
八朔とは、八月朔日(8月1日)の略で、本来は旧暦の8月1日を指すのですが、現在は新暦の8月1日(つまり今日)も八朔と云い、かつて八朔には、日頃お世話になっている人達にその恩を感謝する意味で贈り物をするという習慣がありました。
この時期は早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあったそうで、その風習が公家や武家にも広まり、全国的な風習として広まっていったそうです。

現在、八朔の風習はほとんど廃れてしまい、一般的なものではありませんが、京都を代表する花街として知られる祇園一帯では、新暦の8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へ挨拶に回るという風習が、八朔の伝統行事として新暦の現在も残っています。
礼装の黒紋付き姿の芸舞妓達が、「おめでとうさんどす。相変わりませず、おたの申します」とにこやかに挨拶を交わしながら祇園を行き交うその艶やかな風情は、夏の京都の風物詩にもなっています。

ところで、事実上の平氏政権である北条幕府(鎌倉幕府)を倒し、源氏の棟梁として新たに京都に幕府を開いた足利尊氏と、おおらかで気前が良かった反面かなり優柔不断な性格でもあったその尊氏とは対照的な性格であった、尊氏の弟・足利直義(ただよし)は、実の兄弟でありながら全くタイプの異なる武将でしたが、この二人の性格の違いを物語る逸話としてよく知られているのが、八朔の贈り物のエピソードです。
厳格な性格の直義は、八朔の習俗そのものを「無駄なもの」として嫌い、八朔の贈り物は、「賄賂は受け取らん」と言って誰からも一切受け取らず、贈られた物は全て送り返したと云われています。

それに対して、国師号を賜った当時の高僧・夢窓疎石(むそうそせき)から「勇気、慈悲、無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍」と評された尊氏は、山のように届けられる八朔の贈り物を全て受け取り、その上で、貰ったそれらの贈り物を、自分に挨拶に来た人々に惜しげもなく全て分け与え、自分の手元にはいつも何も残さなかったと云われています。
尊氏も直義も、お互いに自分の手元に八朔の贈り物は何一つ残らなかったという「結果」は同じなのですが、その結果に至る「経過」が、二人の性格の違いを如実に反映しており、興味深いです。

ちなみに、直義は、当初は献身的に兄の尊氏を支え、尊氏が京都で幕府を開いた時は、尊氏とは阿吽の呼吸で新政権を運営していましたが、後に尊氏と対立し、その対立は「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)という、全国を二分する兄弟間の戦争に発展し、最後は尊氏に敗れて無念の死を遂げました。
後醍醐天皇崩御の後、南朝の勢力は衰退する一方で、誰もが南朝は近いうちに消え去るだろうと思っていたのですが、北朝陣営の内ゲバともいえる尊氏・直義兄弟の争いが、結果的に、北朝と対立関係にあった南朝方を利する事になり、南朝はその後も暫く存続し続ける事になるのです。


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室町期を舞台となっている短編小説「バサラ将軍」

何年か前に、直木賞作家の安部龍太郎さんが著した「バサラ将軍」(文春文庫)という本を買って読みましたが、先日、この本を数年ぶりに読み返してみました。

この本は、建武の新政の時代から4代将軍足利義持の時代にかけて(南北朝時代~室町時代前期頃)を舞台とした短編小説を一冊に纏めた本で、「兄の横顔」「師直の恋」「狼藉なり」「知謀の淵」「バサラ将軍」「アーリアが来た」の6編から成っています。
作中で描かれている足利尊氏や足利基氏などは、私が抱いているイメージとはかなり違う点もあり、そのため私としては、その描写には全面的には賛同しかねる所もあるのですが、しかし、そもそもこの時代が舞台の小説は少ない上、時代考証などはかなりしっかりしているように思えるので、そういった意味では貴重な作品だと思います。

バサラ将軍

兄の横顔』は、足利尊氏の弟・直義を主人公としており、直義の生真面目な性格と、尊氏との政治思想の違いや、尊氏に対しての直義の屈折した感情などが描かれています。
尊氏は、常に飄々としていてあまり深くは考えていないようでいて、実は全てを計算しているかのような腹黒さもあったのではないか、と思わせるような描き方をされており、尊氏が、掴みどころの無い、まるで鵺のような存在として描かれているのが興味深かったです。

師直の恋』は、太平記の中ではよく知られているエピソードのひとつでもある、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕するという話を、師直の視点から取り上げたものです。
一般に師直は、「武将としては足利軍には欠く事が出来ない、極めて有能な猛将であるが、その一方で、好色で、傍若無人で、専横な振る舞いも多かった」と解されていますが、この作品での師直は、まさにそのイメージ通りに描かれていました。

狼藉なり』は、これも太平記の中ではよく知られているエピソードのひとつである、光厳上皇の牛車に対する土岐頼遠の狼藉事件を題材としている作品です。
「師直の恋」同様、この「狼藉なり」も主人公は高師直で、頼遠は勿論、尊氏や直義も登場しますが、あくまでも師直の視点からストーリーは進んでいきます。頼遠の斬首を主張する直義に対して、最後まで頼遠を庇い続ける師直の姿は、従来の悪役一辺倒のイメージとは異なり少し新鮮でした。

知謀の淵』は、はっきり言って非常に後味の悪い作品です。しかし、主人公・竹沢右京亮の心理や彼の境遇についての描写が残酷な程に生々しく描写されており、これをこの本の表題作にしたほうが良かったのではないかとも思える程、かなり力の入った秀作でもあります。
畠山国清の命令により、新田義貞の子・義興を多摩川で奸計によって謀殺した竹沢右京亮が、敵から非難・軽蔑されるのは当然としても、味方からも卑怯者と蔑まれ、どんどん不幸になっていく、転落と悲劇の物語です。

バサラ将軍』は、室町幕府の全盛期を築き上げた3代将軍 足利義満を主人公とした作品で、この本の表題作でもあります。
絶対的な権力者である義満と、後円融帝の寵姫との不義事件を題材としながら、生まれながらにして統治者である義満が帝に対して抱く劣等感やその深層心理が描かれています。

アーリアが来た』は、足利義持に献上するため、南蛮のスマトラ島を治める太守から贈られてきた象のアーリアを、義嗣派(義持と対立している足利義嗣を支持する勢力)からの襲撃を警戒しながら、若狭の小浜から京都まで運搬する馬借(馬を利用して荷物を運搬する輸送業者)のお話です。主人公は、今津の馬借・源太です。
歴史物としては珍しく動物を題材としており、他の5編とはかなり趣きの異なる作品ですが、陰湿な展開は全く無く、この本の中では最も軽快に読み進んでいく事が出来る作品です。

私としては、読後に後味の悪さが残るものも何編かはあったものの、どのエピソードも、かなり興味深く読む事が出来ました。
ただ、南北朝時代・室町時代や室町幕府に興味を持ち始めたばかりの、所謂“初心者”の方々には、個人的には、この本はあまりオススメ出来ません。登場する人物が余りにも俗物や小物ばかりで(それが悪いと言っているわけではありませんが)、そのくせに、傍若無人であったり奸計を謀ったりするので、この時代や室町幕府に興味を持ち始めたばかりの“初心者”だと、そういった事に新鮮さを感じるより、むしろ、室町幕府や、幕府を支えている武将達の言動に勝手に失望して、この時代や室町幕府に呆れるか興味を無くしてしまうのではないか、という懸念を感じてしまうからです(笑)。


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南北朝時代の代表的な甲冑

私は、日本の甲冑が好きです。単に好きなだけで、別に全然詳しくはないのですが(笑)。
というわけで今回は、甲冑、それも南北朝時代の甲冑について、かなり大雑把にではありますが紹介をさせて頂きます。

平安時代末期や鎌倉時代の武将達は、太刀や腰刀は、矢を射尽くした時の決戦時や、平時の際の武器として使い、合戦に於いては、専ら馬に乗って弓矢を主要な武器として戦いました。
そのため当時の甲冑「大鎧」は、馬上で弓矢を操作しやすい機能と構造を持ち、また、敵の弓矢を防ぐために堅牢でなければなりませんでした。そういった構造のために甲冑の重量はかなり重くなりますが、この負担は馬に乗るので然程でもありませんでした(但し、大鎧はあくまでも武将の甲冑であり、一般の兵卒はもっと簡易な、胴丸系の甲冑を着ていました)。

しかし、南北朝時代になると、騎馬で駆け回るには不適当な山中や丘陵地が戦場となる事が多くなり、どうしても歩兵戦が増え、また、戦闘の様相も一騎がけから集団での激しい接戦や大規模な戦闘に発展していったため、もっと身軽に動くため、従来の大鎧は改造されて軽量化され、軽快な胴丸(従来の胴丸より更に発展したもの)や腹巻となりました。
しかし、伝統的な大鎧も、名のある武将の間では依然として使用されてもいました。

以下に、そのような南北朝期の甲冑のうち、現存するものの一部(特に代表的な甲冑)を写真と共に紹介させて頂きます。


南北朝時代の甲冑_07

▲ 黒韋威胴丸 (くろかわおどしどうまる)
兜、大袖付 一領。 広島・厳島神社所蔵。 国宝。 盛上小札の手法や金具廻の様相から推して、胴丸の盛期である南北朝時代の代表的遺品とされています。


南北朝時代の甲冑_08

▲ 白糸威肩赤胴丸 (しろいとおどしかたあかどうまる)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 重文。 南部政長が奉納したと伝えられる、南北朝時代から室町時代にかけての典型的な胴丸です。


南北朝時代の甲冑_31

▲ 萌葱綾威腰取鎧 (もえぎあやおどしこしとりよろい)
大袖付 一領。 愛媛・大山祇神社所蔵。 重文。 繊弱な綾威鎧の色調に、中世武士の優雅な出で立ちが偲ばれます。綾威しの甲冑は上級武士の出で立ちとされますが現存するものは少なく、貴重な甲冑です。


南北朝時代の甲冑_32

▲ 白色威褄取鎧 (しろいとおどしつまとりよろい)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 国宝。 南部信光が南朝の後村上天皇から拝領したと伝わる、南北朝時代の特色をよく示す甲冑です。


南北朝時代の甲冑_35

▲ 紫糸威肩白浅葱鎧 (むらさきいとおどしかたじろあさぎよろい)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 重文。 兜の鍬型を欠失しているものの、他は全て完存で、雄大で作域の優れた、南北朝時代の典型的な甲冑です。これも南部氏の奉納と伝えられています。


南北朝時代の甲冑_36

▲ 黒韋威矢筈札胴丸 (くろかわおどしやはずざねどうまる)
兜、大袖付 一領。 奈良・春日大社所蔵。 国宝。 兜鉢や饅頭しころなどの様相から、南北朝時代初期のものと推察される胴丸で、楠木正成が奉納したと伝えられています。


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