この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

皇居外苑の楠木正成騎馬像

今から9年も前になりますが、当時私が東京を旅行した際に見学・撮影してきた、皇居外苑南東の一角に立つ楠木正成騎馬像の写真をアップします。
全国にある楠木正成像の中では、恐らくこの騎馬像が最も有名ではないかと思います。像本体の高さは約4m、台座も加えると約8mもあります。御覧のように、躍動感溢れる実に力強い銅像です。

楠木正成騎馬像_01

楠木正成騎馬像_02

楠木正成騎馬像_03

楠木正成騎馬像_04

この楠木正成騎馬像は、住友の別子銅山開山200年を記念して、明治23年に住友家(住友財閥)が献納したもので、別子銅山で産出した銅で鋳造されています。
製作は東京美術学校が担当し、複数の美術家が部分毎に分担して作成していきました。像の要となる正成の顔は、当時東京美術学校の職員でこの像の製作主任であった、仏師・彫刻家として高名な高村光雲が担当しました。
ちなみに、上野恩賜公園のシンボルとなっている西郷隆盛像も、高村光雲が製作したものです。


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八朔と足利兄弟

今日は「八朔(はっさく)」です。
八朔とは、八月朔日(8月1日)の略で、本来は旧暦の8月1日を指すのですが、現在は新暦の8月1日(つまり今日)も八朔と云い、かつて八朔には、日頃お世話になっている人達にその恩を感謝する意味で贈り物をするという習慣がありました。
この時期は早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあったそうで、その風習が公家や武家にも広まり、全国的な風習として広まっていったそうです。

現在、八朔の風習はほとんど廃れてしまい、一般的なものではありませんが、京都を代表する花街として知られる祇園一帯では、新暦の8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へ挨拶に回るという風習が、八朔の伝統行事として新暦の現在も残っています。
礼装の黒紋付き姿の芸舞妓達が、「おめでとうさんどす。相変わりませず、おたの申します」とにこやかに挨拶を交わしながら祇園を行き交うその艶やかな風情は、夏の京都の風物詩にもなっています。

ところで、事実上の平氏政権である北条幕府(鎌倉幕府)を倒し、源氏の棟梁として新たに京都に幕府を開いた足利尊氏と、おおらかで気前が良かった反面かなり優柔不断な性格でもあったその尊氏とは対照的な性格であった、尊氏の弟・足利直義(ただよし)は、実の兄弟でありながら全くタイプの異なる武将でしたが、この二人の性格の違いを物語る逸話としてよく知られているのが、八朔の贈り物のエピソードです。
厳格な性格の直義は、八朔の習俗そのものを「無駄なもの」として嫌い、八朔の贈り物は、「賄賂は受け取らん」と言って誰からも一切受け取らず、贈られた物は全て送り返したと云われています。

それに対して、国師号を賜った当時の高僧・夢窓疎石(むそうそせき)から「勇気、慈悲、無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍」と評された尊氏は、山のように届けられる八朔の贈り物を全て受け取り、その上で、貰ったそれらの贈り物を、自分に挨拶に来た人々に惜しげもなく全て分け与え、自分の手元にはいつも何も残さなかったと云われています。
尊氏も直義も、お互いに自分の手元に八朔の贈り物は何一つ残らなかったという「結果」は同じなのですが、その結果に至る「経過」が、二人の性格の違いを如実に反映しており、興味深いです。

ちなみに、直義は、当初は献身的に兄の尊氏を支え、尊氏が京都で幕府を開いた時は、尊氏とは阿吽の呼吸で新政権を運営していましたが、後に尊氏と対立し、その対立は「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)という、全国を二分する兄弟間の戦争に発展し、最後は尊氏に敗れて無念の死を遂げました。
後醍醐天皇崩御の後、南朝の勢力は衰退する一方で、誰もが南朝は近いうちに消え去るだろうと思っていたのですが、北朝陣営の内ゲバともいえる尊氏・直義兄弟の争いが、結果的に、北朝と対立関係にあった南朝方を利する事になり、南朝はその後も暫く存続し続ける事になるのです。


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室町期を舞台となっている短編小説「バサラ将軍」

何年か前に、直木賞作家の安部龍太郎さんが著した「バサラ将軍」(文春文庫)という本を買って読みましたが、先日、この本を数年ぶりに読み返してみました。

この本は、建武の新政の時代から4代将軍足利義持の時代にかけて(南北朝時代~室町時代前期頃)を舞台とした短編小説を一冊に纏めた本で、「兄の横顔」「師直の恋」「狼藉なり」「知謀の淵」「バサラ将軍」「アーリアが来た」の6編から成っています。
作中で描かれている足利尊氏や足利基氏などは、私が抱いているイメージとはかなり違う点もあり、そのため私としては、その描写には全面的には賛同しかねる所もあるのですが、しかし、そもそもこの時代が舞台の小説は少ない上、時代考証などはかなりしっかりしているように思えるので、そういった意味では貴重な作品だと思います。

バサラ将軍

兄の横顔』は、足利尊氏の弟・直義を主人公としており、直義の生真面目な性格と、尊氏との政治思想の違いや、尊氏に対しての直義の屈折した感情などが描かれています。
尊氏は、常に飄々としていてあまり深くは考えていないようでいて、実は全てを計算しているかのような腹黒さもあったのではないか、と思わせるような描き方をされており、尊氏が、掴みどころの無い、まるで鵺のような存在として描かれているのが興味深かったです。

師直の恋』は、太平記の中ではよく知られているエピソードのひとつでもある、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕するという話を、師直の視点から取り上げたものです。
一般に師直は、「武将としては足利軍には欠く事が出来ない、極めて有能な猛将であるが、その一方で、好色で、傍若無人で、専横な振る舞いも多かった」と解されていますが、この作品での師直は、まさにそのイメージ通りに描かれていました。

狼藉なり』は、これも太平記の中ではよく知られているエピソードのひとつである、光厳上皇の牛車に対する土岐頼遠の狼藉事件を題材としている作品です。
「師直の恋」同様、この「狼藉なり」も主人公は高師直で、頼遠は勿論、尊氏や直義も登場しますが、あくまでも師直の視点からストーリーは進んでいきます。頼遠の斬首を主張する直義に対して、最後まで頼遠を庇い続ける師直の姿は、従来の悪役一辺倒のイメージとは異なり少し新鮮でした。

知謀の淵』は、はっきり言って非常に後味の悪い作品です。しかし、主人公・竹沢右京亮の心理や彼の境遇についての描写が残酷な程に生々しく描写されており、これをこの本の表題作にしたほうが良かったのではないかとも思える程、かなり力の入った秀作でもあります。
畠山国清の命令により、新田義貞の子・義興を多摩川で奸計によって謀殺した竹沢右京亮が、敵から非難・軽蔑されるのは当然としても、味方からも卑怯者と蔑まれ、どんどん不幸になっていく、転落と悲劇の物語です。

バサラ将軍』は、室町幕府の全盛期を築き上げた3代将軍 足利義満を主人公とした作品で、この本の表題作でもあります。
絶対的な権力者である義満と、後円融帝の寵姫との不義事件を題材としながら、生まれながらにして統治者である義満が帝に対して抱く劣等感やその深層心理が描かれています。

アーリアが来た』は、足利義持に献上するため、南蛮のスマトラ島を治める太守から贈られてきた象のアーリアを、義嗣派(義持と対立している足利義嗣を支持する勢力)からの襲撃を警戒しながら、若狭の小浜から京都まで運搬する馬借(馬を利用して荷物を運搬する輸送業者)のお話です。主人公は、今津の馬借・源太です。
歴史物としては珍しく動物を題材としており、他の5編とはかなり趣きの異なる作品ですが、陰湿な展開は全く無く、この本の中では最も軽快に読み進んでいく事が出来る作品です。

私としては、読後に後味の悪さが残るものも何編かはあったものの、どのエピソードも、かなり興味深く読む事が出来ました。
ただ、南北朝時代・室町時代や室町幕府に興味を持ち始めたばかりの、所謂“初心者”の方々には、個人的には、この本はあまりオススメ出来ません。登場する人物が余りにも俗物や小物ばかりで(それが悪いと言っているわけではありませんが)、そのくせに、傍若無人であったり奸計を謀ったりするので、この時代や室町幕府に興味を持ち始めたばかりの“初心者”だと、そういった事に新鮮さを感じるより、むしろ、室町幕府や、幕府を支えている武将達の言動に勝手に失望して、この時代や室町幕府に呆れるか興味を無くしてしまうのではないか、という懸念を感じてしまうからです(笑)。


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南北朝時代の代表的な甲冑

私は、日本の甲冑が好きです。単に好きなだけで、別に全然詳しくはないのですが(笑)。
というわけで今回は、甲冑、それも南北朝時代の甲冑について、かなり大雑把にではありますが紹介をさせて頂きます。

平安時代末期や鎌倉時代の武将達は、太刀や腰刀は、矢を射尽くした時の決戦時や、平時の際の武器として使い、合戦に於いては、専ら馬に乗って弓矢を主要な武器として戦いました。
そのため当時の甲冑「大鎧」は、馬上で弓矢を操作しやすい機能と構造を持ち、また、敵の弓矢を防ぐために堅牢でなければなりませんでした。そういった構造のために甲冑の重量はかなり重くなりますが、この負担は馬に乗るので然程でもありませんでした(但し、大鎧はあくまでも武将の甲冑であり、一般の兵卒はもっと簡易な、胴丸系の甲冑を着ていました)。

しかし、南北朝時代になると、騎馬で駆け回るには不適当な山中や丘陵地が戦場となる事が多くなり、どうしても歩兵戦が増え、また、戦闘の様相も一騎がけから集団での激しい接戦や大規模な戦闘に発展していったため、もっと身軽に動くため、従来の大鎧は改造されて軽量化され、軽快な胴丸(従来の胴丸より更に発展したもの)や腹巻となりました。
しかし、伝統的な大鎧も、名のある武将の間では依然として使用されてもいました。

以下に、そのような南北朝期の甲冑のうち、現存するものの一部(特に代表的な甲冑)を写真と共に紹介させて頂きます。


南北朝時代の甲冑_07

▲ 黒韋威胴丸 (くろかわおどしどうまる)
兜、大袖付 一領。 広島・厳島神社所蔵。 国宝。 盛上小札の手法や金具廻の様相から推して、胴丸の盛期である南北朝時代の代表的遺品とされています。


南北朝時代の甲冑_08

▲ 白糸威肩赤胴丸 (しろいとおどしかたあかどうまる)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 重文。 南部政長が奉納したと伝えられる、南北朝時代から室町時代にかけての典型的な胴丸です。


南北朝時代の甲冑_31

▲ 萌葱綾威腰取鎧 (もえぎあやおどしこしとりよろい)
大袖付 一領。 愛媛・大山祇神社所蔵。 重文。 繊弱な綾威鎧の色調に、中世武士の優雅な出で立ちが偲ばれます。綾威しの甲冑は上級武士の出で立ちとされますが現存するものは少なく、貴重な甲冑です。


南北朝時代の甲冑_32

▲ 白色威褄取鎧 (しろいとおどしつまとりよろい)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 国宝。 南部信光が南朝の後村上天皇から拝領したと伝わる、南北朝時代の特色をよく示す甲冑です。


南北朝時代の甲冑_35

▲ 紫糸威肩白浅葱鎧 (むらさきいとおどしかたじろあさぎよろい)
兜、大袖付 一領。 青森・櫛引八幡宮所属。 重文。 兜の鍬型を欠失しているものの、他は全て完存で、雄大で作域の優れた、南北朝時代の典型的な甲冑です。これも南部氏の奉納と伝えられています。


南北朝時代の甲冑_36

▲ 黒韋威矢筈札胴丸 (くろかわおどしやはずざねどうまる)
兜、大袖付 一領。 奈良・春日大社所蔵。 国宝。 兜鉢や饅頭しころなどの様相から、南北朝時代初期のものと推察される胴丸で、楠木正成が奉納したと伝えられています。


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湊川神社と楠木正成

私は北海道の札幌に住んでいますが、年に数回程度は関西へ行く機会があり、毎回ではないものの関西へ行った際は神戸にも足を運ぶ事が少なくありません。
そして神戸に行った際には、これも毎回ではないものの、大抵、湊川(みなとがわ)神社へお参りに行きます。

湊川神社は、神戸最大の繁華街である三宮からは少し離れていますが、JRや神戸高速鉄道の神戸駅とは目と鼻の先の一角に鎮座しており、「忠臣の鏡」「稀代の英雄」などと評され「大楠公」という尊称でも知られている、南朝方の武将・楠木正成(くすのきまさしげ)を主祭神としてお祀りしています。
神戸市民からは“なんこうさん”とも呼ばれて広く親しまれている神社で、同社は、生田神社長田神社と共に神戸を代表する大社の一社です。

湊川神社_1

その湊川神社の主祭神としてお祀りされている楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代初め(但し南朝の天皇や武将を御祭神としてお祀りしている神社では、この時代の事はあえて「南北朝時代」とは云わずに「吉野朝時代」もしくは「吉野時代」と称しているようです)にかけて活躍した河内(現在の大阪府)の武将で、鎌倉幕府を倒すに当っては足利尊氏や新田義貞を上回る程の、武功第一とも云える軍功を残した名将です。
特に、金剛山の千早城という小城に篭城して、これを攻め落とそうとする幕府の大軍を多彩な計略を用いて翻弄させた事は、当時80万と云われた幕府軍が小城一つ攻め落とす事が出来ない様を日本中に知らしめ、全国の反幕府分子を奮い立たせました。
鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇による親政「建武の新政」(但し南朝こそが正統であるという歴史観からは「建武の中興」と云います)が成ったのは、偏に正成の突出した活躍があったからこそと言っても過言ではありません。

楠正成
しかし新政が成ってみると、公平とはとても言い難かった土地の分配策に全国の武士が一斉に失望し、その失望や不満を源氏の貴種である足利尊氏が吸収した事から、尊氏は後醍醐天皇と決別するに至り、そのため建武の新政は僅か2年程で挫折し、鎌倉幕府を攻め滅ぼす際には味方同士であった正成と尊氏は、それぞれ「建武の新政を継続しようとする者」と「建武の新政を否定して武家政治を復活させようとする者」として、必然的に対峙せざるを得なくなりました。
そして、鎌倉幕府滅亡3年後の1336年5月、正成と義貞の率いる軍は、現在の湊川の地に於いて、陸と海に分かれて九州から東上してくる足利尊氏の大軍を迎え撃つ事になったのです。これが、世に言う「湊川の戦い」です。

ところが、尊氏側の優れた戦略により、というよりも、決戦以前の朝廷(南朝)側の数々の戦略的な失策(そもそも尊氏を京から追い出した時にすぐに追いかけて討ち取る事を怠り、更に、赤松則村の白旗城攻撃に50日も費やして尊氏に軍の再起を許した新田貞義の二重の失策があり、また、「天皇は比叡山に行幸して戴き、自分は河内へ下って義貞と共に尊氏を前後から挟み撃ちにする」という旨の進言をした正成の献策を体面を気にした公卿らが突っぱねた事など)により正成・義貞の軍は敗北を喫し、義貞は丹波路を落ちて行き、正成は、一時は尊氏の弟の直義(ただよし)の軍を苦戦させる程の活躍をしますがついに力尽き、弟の正季と刺し違えて壮烈な戦死を遂げました。
その場所が、現在の湊川神社境内の西北隅だったと云われています。

湊川神社は、神戸という大都市の都心の一角とは思えない程の、楠の深い緑が印象的な広大な神域を有する神社で、境内には、1692年に水戸藩主の徳川光圀が筆をとった「嗚呼忠臣楠子之墓」の八字を刻んだ石碑や、同藩の佐々木助三郎が監督して建てた墓碑などがあり、また、正成所縁の品々が多数収蔵されている宝物館もあります。

湊川神社_2

上の写真の御社殿が、同社の現在の拝殿で、かつての拝殿は昭和20年3月の神戸空襲により本殿と共に一旦烏有に帰しましたが、正成を敬慕する多くの人々の赤誠によって昭和27年に再建されて、現在に至っています。
外部は鉄筋コンクリート造、内部は桧木造、屋根は銅板葺の、権現造に似た社殿で、拝殿の天井には当時の著名画伯による奉納画が埋められています。
ちなみに、この写真で拝殿前の石畳に赤いカーペットが敷かれているのは、この時たまたま結婚式が行われていたためです。

同社は明治5年、初めての「別格官幣社」として、正成・正季兄弟最期の地である湊川に、正成を主祭神とする神社として創建され、当時(戦前・戦中)の忠君愛国の風潮にのって広く国民の崇敬を集め、正成の誠忠を貫いた精神と、一篇の叙事詩のような正成の爽やかな生き様は、当時の人々に大きな影響を与えました。
かつて正成が弟と刺し違えて壮絶な最期を遂げた地でありながら、現在はその凄惨な状況からは程遠い清浄な雰囲気が漂う、とても清々しい空気に包まれた神社です。


ところで、室町時代から江戸時代にかけては、水戸藩の歴史観や幕末の混乱期などを除くと、一般には北朝が正統な朝廷と見なされていたため(実際、南北朝期の年号は、ほとんど北朝のものが使われていました)、南朝の武将であった正成は、必ずしも高い評価は受けていませんでした。
しかし、それまで磐石であった江戸幕府の権威が揺らぎ始めた江戸時代の後期以降は、正成は“倒幕のために働いた先輩”として、倒幕を目指す志士達から絶大な人気を集めるようになり、更に、明治維新が起こって武家政治が否定され、皇室を中心に据えた近代的国家建設が目標とされると、幕府や武家との結び付きが強かった北朝はその正統性が疑問視されるようになり、南朝こそが正統とされ、それに伴い、南朝方の武将として後醍醐天皇に殉じた正成の精神は“天皇に忠誠を尽くして命をも顧みずに戦った忠君愛国の手本”として更に高く評価され、全国的に広く称賛されるようになっていきました。

そういった当時の状況を背景として、明治元年、大楠公創祀の沙汰が兵庫県に伝達され、翌2年、正成の墓所や殉節地(最期の地)を含む7,232坪(現在は約7,680坪)が神社の境内地に定められ、明治5年に勅使を迎えて鎮座祭が斎行されて、前述のように湊川神社が創建されたのです。
また明治13年には、正成には正一位が追贈されています。

しかし、正成は明治になってから「忠臣」と「勤皇」の面ばかりが強調され、それに基づいて過大ともいえる程に高く評価されたため、その反動から戦後、正成は一転して“戦前の皇国史観を象徴する人物”と見なされ、学校の歴史の授業では正成の事績はほとんど教えられなくなってしまい、現在では、正成とはどんな人物であったのかよく分からない、という人のほうが多くなってしまいました。
尊氏もそうですが、正成もまた、時代によって著しくその評価が変動する人物といえます。

なお、湊川神社で発行している同社の由緒などを読むと、「大楠公は、後醍醐天皇の目指す親政を阻止せんとする鎌倉幕府の勢力や、また武家の政権を新たにたてようとする足利尊氏と戦い、正義と忠誠を示されました」と書かれています。
御祭神を尊氏に攻め滅ぼされた湊川神社の歴史観や、南朝こそが正統であるという立場に立つのであれば、確かに正成は「皇室に忠義を尽くした第一の功臣」であり、それに対して尊氏は「皇室に弓を引いた逆賊」という見方になるため、この書き方(正成を“大楠公”と尊称で書き記しているの対して尊氏の事は呼び捨てにして、しかも尊氏と戦った事を正義を言い切っている事)は当然であろうと思います。

しかし、北朝こそが正統であるというもう一方の歴史観(前述のように江戸時代後期に至るまではむしろこの歴史観の方が主流でした)や立場に立てば、(正平一統という北朝への裏切り行為があった事を考慮しても)尊氏こそが朝廷に忠義を尽くした大忠臣であったという考え方になります。
当然、北朝が正統であると一般に認識されていた江戸時代中期以前は、尊氏が逆賊視される事は少なく、逆に、(戦前の皇国史観の教育を受けられた方には信じ難いかもしれませんが)当時は正成のほうが朝敵として逆賊視されていたのです。

ですから、「大楠公は後醍醐天皇に忠義を貫いた天下の大忠臣であるが、その大楠公を死に至らしめ後醍醐天皇に叛いた尊氏は、史上最大の憎き逆賊である」という解釈や、それとは全く正反対の「足利尊氏公は源氏の棟梁として室町幕府を開いた英傑であるが、正成は、名将の器を持ちながら建武の新政以後は結局は時局に影響を与える事ができなかった悪党」(ここでいう悪党とは勿論歴史用語としての悪党であり、現代用語の悪党の意味ではありません)などという解釈は、どちらも客観的な解釈であるとは言い難く、あくまでも一定の歴史観や価値観に基づいた主観的な解釈であるといえます。

私個人としては、正成も尊氏も、共に人を惹き付けて已まない程の優れた魅力を持った武将であったと思っています。
また、正成を熱烈に敬愛する人達の中には、平成の御世となった現在に於いてもなお尊氏を逆賊・朝敵として非難する人が少なからずおり、私としては正直びっくりさせられますが、私は尊氏の生涯からは、逆賊どころかむしろ、「尊氏自身は熱烈な勤王家であり、後醍醐天皇と戦う事には常に精神的な苦痛を感じていた」という一貫した態度を感じています(これはかなり不思議な事でもあるのですが、しかし尊氏の生涯を辿ってみると、私にはそうとしか思えないのです)。

ちなみに、尊氏が後醍醐天皇の御霊を慰めるために建立した京都の天龍寺(臨済宗天龍寺派大本山)では、平成19年に「足利尊氏公六百五十年忌」の法要が営まれ、尊氏の功績を讃える内容の記念講演が行われるなどし、また翌20年は、京都の東寺(東寺真言宗総本山)に於いて尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要が厳修され、法要後、同宗の砂原長者は「戦時中、尊氏公は賊軍扱いだった。資料を調べたら、東寺に大変な御苦労をされた方で、位牌をつくるのは当然の事と思う。千二百年続いている東寺だが、尊氏公の功績を千年後まで伝えたい」と語っておられましたが、こういった見方(尊氏に対して「公」の尊称を付けたり、尊氏の功績を讃えたりする事)は、尊氏を未だ逆賊視する湊川神社などの立場からはまず考えられない見方であり歴史観であると言えます。

京都の三大祭りの一つとして知られる平安神宮の時代祭でも、「尊氏は逆賊である」という神社側の歴史観の下、室町幕府や足利将軍は常に行列から除外されていたのですが、平成19年に初めて室町時代の幕府執政列が行列に加わり、足利将軍も晴れて堂々と都大路を闊歩するようになりました。
しかしこれについて当時の平安神宮の宮司さんは、「各時代の風俗を展覧するという意味では、室町行列があって不思議ではない」と一定の理解を示しながらも、「時代祭は祭神の桓武天皇と孝明天皇に、今の京都をご覧いただくのが本旨で、行列は両天皇のお供。お供に足利氏がいるのはおかしい」とも語られており、天皇を御祭神としてお祀りする神社の宮司として、複雑な心境を覗かせています。

ちなみに、神戸には湊川神社の他に、湊川公園(私はまだ見ていませんが正成の騎馬像があるそうです)、蓮池(湊川の戦い最大の激戦地)、会下山公園(正成の本陣跡)など、正成に関する史跡はいくつもありますが、湊川の戦いでのもう一方の大将である尊氏の足跡を偲べる史跡は特に何も無く、神戸での尊氏の不人気ぶりが窺えます。


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