この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

平成二十九年の年頭挨拶

新年おめでとうございます。
謹んで新春のお慶びを申し上げます。

このブログ「この世は夢のごとくに候」で今まで度々取り上げてきた足利尊氏の生誕からは712年、後醍醐天皇による建武の新政(建武中興)からは683年、建武式目制定(室町幕府の成立)からは681年、南北朝の合一(南北朝時代の終わり)からは625年、応仁の乱発生からは550年、将軍足利義昭追放(室町幕府の事実上の滅亡)からは444年となる本年の年頭に当り、このブログを読んで下さる全ての読者の皆様方の御健勝・御繁栄を、心より祈念申し上げます。

また、大河ドラマ化、映画化、漫画化等される機会が多い戦国時代や幕末などに比べると、昔からいまいち人気が無い、鎌倉時代や南北朝時代、そして、室町時代の前期から中期にかけての時代に、もっと多くの人達が興味・関心を持ってくれるようになる事も、併せて、本年も密かに祈念致します(笑)。

このブログを開設して、当月で丁度4年が経ちました。
更新は怠りがちで、内容的にもまだ拙く未成熟なブログですが、読者の皆様方に於かれましては本年も何卒一層の御指導・御鞭撻を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

皇紀2677年 仏暦2560年 西暦2017年
元旦


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応仁の乱についての解釈の違い

室町時代の応仁元年(1467年)に発生した、日本の歴史上屈指の大乱である「応仁の乱」とは、よく知られているように、全国の武士達が東軍(当初の中心人物は細川勝元)と西軍(当初の中心人物は山名宗全)に分かれて、11年もの長きに亘って戦った大乱です。
この戦いによって、開戦から僅か一年で京の都はほとんどが焼き尽くされ、その戦火は全国各地にも飛び火し、落ちかけていた室町幕府の権威は完全に失墜する事となり、守護大名の衰退も加速していき、その結果、戦国大名と呼ばれる新たな勢力が出現し、世は戦国時代へと突入する事になりました。

しかし、それだけ大きな戦であったにも拘わらず、そもそも応仁の乱とは一体誰が何のために戦っていた戦だったのか、どうしてこれだけ大きな戦に発展したのか、という事を一言で説明しようとすると、その事情が余りにも複雑過ぎるため、誰もが困難を極めるのが実情です。
実際、主戦場となった狭い京の都で戦っていた当事者達でさえ、今自分の目の前にいるのが誰であるのかも分からないまま戦かっていた、という事も少なくはなかったと云われています。

応仁の乱対立図

この応仁の乱について、乱が起こるに至った原因や、終了に至る経緯などを詳しく解説している動画が、動画投稿・共有サービスの「YouTube」(ユーチューブ)にアップロードされており、先程、それらの動画を視聴しました。
以下に貼付する2本の番組がそれで、いずれも過去にテレビで放送された、約45分程の歴史ドキュメンタリー番組です。


まず1本目は、「その時歴史が動いた 応仁の乱、天下を滅ぼす 終わりなき“戦いの連鎖”」という番組で、これは前編・後編の2編に分かれてアップロードされていました。


2本目は、「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー 応仁の乱」という番組で、こちらは前編・後編に分ける事なく1本の動画としてアップロードされています。室町幕府第8代将軍である足利義政の妻・日野富子が、特に大きく取り上げられていました。


これらの2本の番組は、どちらも「応仁の乱」という同じ大乱を取り上げているにも拘わらず、乱の原因や経緯については異なった解釈をしているのが、とても興味深かったです。
「その時歴史が動いた」では、応仁の乱のそもそもの発端となったのは、近畿南部の大名・畠山氏の跡継ぎをめぐる争いで、その争いに、他の大名家同士の家督争いが絡み、更には将軍家の内紛も絡み、戦いが当事者達の思惑を離れて余りにも大きくなり過ぎて当事者達にも制御が出来なくなり、結果として、戦いを始めたそもそもの理由に比べてその規模が不相応に大きい大乱となった、という解釈がされていました。
一方、「世紀のワイドショー!」では、応仁の乱のそもそもの発端は、足利義政と日野富子による、将軍家後継者を巡っての夫婦喧嘩であり、将軍家内部のその家庭問題が全国を巻き込む戦争に発展していき、戦争の途中からは、大名家同士、守護家同士の主導権争いにもなっていった、という解釈がされていました。

つまり、将軍家内部の争いと、大名家同士の争いが絡み合っているという点では同じなのですが、まず大名家の争いが有りきだったのか、まず将軍家の争いが有りきだったのか、そこが正反対の解釈となっているのです。
また、足利義政についても、「その時歴史が動いた」では、最終的には政治には全く関心を示さなくなるものの若かりし頃は将軍としての務めを積極的に果たそうとしていた人物として描かれていたのに対し、「世紀のワイドショー!」では、義政は若い頃から一貫して、政治には何の関心も示さなかった人物として描かれていました。

皆さんも、もしお時間があれば、是非これらの番組を視聴してみて下さい。
ちなみに、私は中学校や高校の歴史の授業では「応仁の乱」という名称で習いましたが、近年の教科書では、「応仁・文明の乱」という呼称で書かれているそうです。


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もしかするとあなたも、足利将軍って無能なヤツばかりだとか思っていませんか!?

突然ですが、「将軍」と聞くと、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。ちなみに、パットン将軍とかロンメル将軍とかではなく、我が国の征夷大将軍のほうですよ(笑)。
あまり日本史に詳しくはない人でも、とりあえず中学校で習った歴史を何となくは覚えている、という人であれば、例えば坂上田村麻呂、源頼朝、徳川家康、徳川家光、徳川吉宗といった有名な将軍は、直ぐに思い浮かぶかもしれません。しかし、直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かべるという人は、恐らく、あまり多くはないと思います。
その要因のひとつとしては、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、室町幕府や、室町幕府の歴代将軍というのは、いまいち存在感が薄い、という点が挙げられると思います。

ちなみに下の写真は、一昨年8月4日の記事にアップしたものを転載したもので、足利将軍家の菩提寺「等持院」境内の霊光殿に奉安されている、歴代足利将軍の木像の一部です。手前から、室町幕府第7代将軍の足利義勝像、第6代将軍の足利義教像、第4代将軍の足利義持像です。義勝は、赤痢のため僅か10歳で没した幼い将軍だったため、木像の表情も、子供らしさが強調されたものとなっています。

歴代足利将軍木像

鎌倉幕府といえば、源氏の嫡子ではあっても当初は流人に過ぎなかった源頼朝が、その実力によって、当時の中央政権であった平氏政権を打倒して開幕し、頼朝の没後も、幕府の実権を掌握した北条氏らは、承久の乱での勝利によって朝廷の権力を無力化させて幕府権力を更に拡大・絶対化させ、また、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を次々と輩出した、質実剛健な武家政権というイメージがあります。

江戸幕府も、幼少期には人質として生活するなどした徳川家康が大変な苦労と忍耐の末に開幕し、関ヶ原の合戦や大坂の陣を経て全国全ての反徳川勢力を一掃し絶対的な安定政権となり、その後、家光・綱吉・吉宗など実力を持った将軍や、新井白石や松平定信などの有能な幕臣を多数輩出し(西国雄藩が台頭してきた幕末の混迷期ですら、小栗上野介や中島三郎助のような優れた幕臣達がいました)、300年近くにも及ぶ、戦争の無い太平の世の中を築いた武家政権というイメージがあります。
つまり、鎌倉幕府や江戸幕府は、マイナスイメージも当然あるものの、全体的にみると、一般的には大凡プラスイメージで評価される事が多いのです。

それに対して室町幕府はどうかというと、トップである将軍が、家臣に暗殺されたり、家臣に追放されて諸国を放浪したり、また、将軍自身が当事者能力に著しく欠けていたため応仁の大乱が始まって京都を廃墟にしてしまったり、更に、その大乱によって将軍や幕府の権力が低下した結果、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、結果として、将軍の権威を更に失墜させてしまい、末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国すら維持出来なくなるなど、幕府全盛期の義満の時代を除くと、室町幕府は、世間一般に“は統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージがあると思います。
そのため、室町幕府の歴代将軍の中には有能で実力のある将軍はほとんどいなかったのではないか、というマイナスイメージがどうしても付きまとってしまう事になります。将軍と聞いても直ちに室町幕府の足利将軍を思い浮かぶ人は少ないのでは、と前述したのも、そういったイメージに因る所がかなり大きいのではないかと思います。

実際、歴代の足利将軍の中で、世間にそれなりに知れ渡っていると思われる名前は、初代将軍の尊氏、3代将軍の義満、8代将軍の義政、あとは、最後の15代将軍である義昭くらいではないでしょうか。これらの名前は、一応、中学校で習う歴史の教科書にも登場していますから。
しかし、そのうち8代将軍の義政は、優柔不断で無責任極まりない将軍で、はっきり言うと、明らかに無能な将軍でした(但し、政治家としては無能でしたが文化人としてはかなり優秀な人でした)。政治には全く興味を示さず、そうであるならとっとと将軍を辞めればいいのに、その決断すら出来ず、政治的な野心も実力も無いのに、無意味に将軍の地位にしがみつきながら、只管趣味に生きた人です。
また、15代将軍の義昭も、政治に対しては強い執着を見せるものの、残念ながら実力が全く伴っておらず、臣下からの支持も薄く、結果的に、世間一般に対しては「室町幕府最後の将軍」「織田信長に利用され、最後はその信長に追放された人」というイメージだけを残した将軍、と言ってほぼ差し支えないでしょう。

足利氏系図

では、室町幕府の歴代将軍は、やはり無為無策で無能な人ばかりだったのでしょうか。
実は、私自身はそうは思っておりません。無能で実力の無い将軍が多く見えるのは、単なる結果論です。つまり、後期以降の室町幕府がグダグダで、どうしようもなかったから、結果的にそう感じてしまうだけで、前半の頃、具体的にいうと、病弱のため十代で早世した5代将軍の義量を除くと、初代将軍の尊氏から6代将軍の義教までは、いずれも実力もあって、しかも、かなり有能、もしくはそこそこ有能といえる将軍ばかりだったと私は解しています。

「くじ引き将軍」とも称された6代目の義教については、万人恐怖と云われる独裁政治を行ったり、些細な事で激怒し厳しい処断を行った事などから、世間での評価は今もあまり芳しくはなく(苛烈で横暴な暴君として捉えられている事が多いようです)、私も、その人格についてはかなり問題があったと思っていますが、しかし人格と、政治家として有能であったか否かは基本的に別問題であり、落ちかけていた幕府の権威・権力を高める事に成功し、九州平定や関東制圧など義満すら出来なかった事を成し遂げて最大領土を獲得した、その政治的手腕は見事であり、歴代の足利将軍の中でも相当に有能な人物であったと思います。
そもそも、単に人格だけをいうのであれば、政治家としても軍人としても極めて有能であった、日本史の偉人のひとりであるあの織田信長も、相当に問題がありました。

というわけで、今回の記事では、室町時代前期に活躍した、室町幕府の初代・第2代・第3代・第4代・第6代の、5人の将軍それぞれの功績・長所・特徴などを、改めてざっとまとめてみようと思います(5代将軍の義量については、前述のように早世しており、将軍としての実績はほとんど無いので省略します)。
ちなみに、今回の記事では取り上げませんが、第13代将軍の義輝も、時代が違えば(例えば室町時代の前半頃に生まれていれば)、恐らくは有能で実力のあった将軍として、もっと後世に広く知れ渡っていたのではないかなと思います。


【初代将軍 足利尊氏】

室町幕府を開幕し、その初代将軍となった
尊氏が幕府を創った事は、今更あえて言うまでもない、日本史の“常識”ですが、しかし、何千人、何万人といる“日本史の偉人”とされる人物の中で、幕府を開幕してその初代征夷大将軍となった人物はたった3人しかおらず、尊氏はそのうちの一人なわけですから、これはやはり凄い事です。
源氏の嫡流が源実朝で絶えて以降、足利家はそれに代わる源氏の棟梁の家柄と見做されるようになり、また、後述するように尊氏には人を惹きつける個人的な魅力もありましたが、しかし、そのようにいくら血統や人柄が素晴らしくても、やはりそれだけでは、武士達は自分の命や一族郎党の将来を懸けてまで付いてはいきませんし、あの激動の戦乱の世を生き抜き、更に幕府まで開く事などは出来ません。そう考えると、室町幕府を開幕し、その初代将軍になった、という事実だけを以てしても、尊氏は確実に有能な人物であったと推定出来ます。少なくともそれは、同時代の他の人には誰も出来なかった事なのですから。
ちなみに、尊氏の生涯を辿ってみると、尊氏は特に、軍人(指揮官)としての才能はかなり高かったように思えます。政治家としての資質は、弟の直義のほうが優秀だったようですが、直義には、逆に軍人としての才能はやや欠如している面がありました。

不屈の闘志があり、どんな困難からも何度でも蘇る
尊氏はその生涯のうちに何度も何度も、権力闘争や武力闘争を経験し、滅亡寸前の窮地に追い込まれた事も一度や二度ではありませんが、その度に有能な部下達に支えられて復活し、戦場では自ら先頭に立って戦い続け、ついには幕府を開きました。これは、武家の棟梁として戦う自負を失わず、どんな逆境にも負けない不屈の闘志があったからこそ達成出来た事といえるでしょう。
しかし、その一方で尊氏には、「不屈の闘志」とは明らかに矛盾する一面もあり、例えば、重要な局面では決断力にやや欠けるという優柔不断な所があって、部下達から強く勧められて漸く重い腰を動かしたり、また、精神的にも不安定な所があって、後醍醐天皇に叛いてしまった事を悔やんで出家しようとしたり、戦いが劣勢になると「切腹する」と言って部下に止められたり、悲しい事が起きると地蔵菩薩の絵が描きたくなるなどというちょっと変わった癖もありました(こういったネガティブな所が、あと2人の初代征夷大将軍である頼朝や家康とは、決定的に違う所でもあります)。
これは推測に過ぎませんが、もしかすると尊氏は、現在でいう双極性障害(躁鬱病)か、もしくはそれに近い気があったのかもしれません。もしそうであるのなら、部下達を鼓舞しながら武家の棟梁らしく颯爽と戦場を駆け巡る時は躁(そう)の時で、消極的になって問題を先送りしたり、悲観的になって落ち込む時は鬱(うつ)の時だったのかもしれません。
しかし、そうであるにしろ違うにしろ、結局の所、尊氏は常にどんな困難からも立ち上がって最終的には勝利してしまうのですから、やはりそれは凄い事です。

人を惹きつけてやまない人間的な魅力がある
南朝側からも、北朝側からも、立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた頼朝と尊氏を比較して、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方、尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と褒め称えています。
更に疎石は、尊氏について、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」と絶賛し、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。疎石のこういった言葉から、尊氏は戦勝に驕る事なく“我”を控えた、調整型の政治家だった側面が窺えます。
尊氏という人物は、後世の天下人である信長・秀吉・家康などのような、自ら果敢に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではなく、むしろ、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある、所謂“おぼっちゃん”タイプの武将であると言ってよいでしょう。
しかしその割には、傲慢な所や私利私欲は無く、育ちが良いだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、敵に対しても慈悲と尊敬の念を忘れず、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確実に持っている、という武将でした。
動乱の世で、しかも「ばさら」が流行したあの時代に、尊氏に傲慢さや私利私欲がほぼ全く無かったという点は、特筆されるべき事だと思います。尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権などによる失政の受け皿となったから、という理由だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所も少なくはなかったでしょう。
ちなみに、尊氏が生きていた同時代に北畠親房によって記された「神皇正統記」では、親房自身が尊氏とは敵対する南朝の公卿であったため、当然の事ながら尊氏については酷評されているのですが、尊氏はそれを知りながら、自分が非難されているその神皇正統記を焚書にはしておらず、こういった事からも、尊氏の大らかな人柄がみてとれます。
もっとも、弟の直義や息子の直冬が最終的には尊氏に造反したり、尊氏の部下である高師直や佐々木道誉などが所謂“ばさら大名”としてどんどん増長していったり、尊氏とは敵対していた南朝が勢力を弱めながらも壊滅する事はなく暫く存続し、その結果として初期の室町幕府がかなり不安定な政権となってしまったのも、全ては尊氏個人の大らかさや寛容さに起因していると言えない事もないため(冷徹な処断はほとんど出来ない人でした)、この項で述べた尊氏の人間的な魅力というのは、実は長所であると同時に、武家政権を束ねる最高権力者としては、時には短所として現れてしまう事もしばしばありました。

兎に角、気前が良い
これについては前段で述べた事とも重複しますが、尊氏は「出し惜しみ」をする事が一切無く、後醍醐天皇と敵対する事になった時には、「褒美が少ない」事に不満を持っていた武士達を味方に付けるため、後醍醐天皇が与えられたものよりも多くの褒美を武士達に与えました。そしてその事が、多くの味方を付ける原動力にもなりました。
端的に言うと、ただ単に「味方を増やすためにエサで釣った」だけの事ともいえますが、しかし、それが有効な手段と分かっていながらも現実にはそれが出来ないリーダーが昔も今も多い中で、尊氏はどんな時も常に“気前の良さ”を貫きました。別の言い方をすると、尊氏は「周りに対して常に気配りの出来るリーダー」で、それ故に、有能な人材を引き寄せる事が出来たともいえます。
もっとも、室町幕府が後に弱体化していった大きな原因のひとつは「守護大名が強くなり過ぎた」事ですが、ではなぜ守護大名が強くなり過ぎたかというと、その遠因のひとつは、尊氏が部下達に出し惜しみせずにどんどん領地を分け与えた事にあるので、見方によっては、尊氏の「気前の良さ」というものは、単純に長所としてだけ評価する事は出来ないかもしれませんが。


【第2代将軍 足利義詮】

幕府による天下統一を推し進め、室町幕府を軌道に乗せる
有力大名同士の争いにつけ込んで片方を失脚させ、失脚した側の土地を幕府が奪う事で強大な財力や軍事力を手に入れるなど、義詮は政治的・外交的な手腕に優れていました。特に、有力大名の大内弘世と山名時氏を帰服させた事は、幕府の力をより強固なものとし、仁木義長、桃井直常、石塔頼房らの大名も幕府へと降参させる事となり、将軍の権力を一層高める事となりました。
義詮は、幼少の頃よりずっと戦場に出続け(幼時より将器がありました)、時には敗れる事もありましたが屈せず、将軍になって以降も、幕府による天下統一を目指して各地で反乱分子と戦い続けてきましたが、その甲斐あって、晩年の頃には全国各地の有力大名達の力が大分弱まり、漸く政情が安定するようになってきて、内乱で衰退していた社寺領の再建を命じたり、新たな内裏を造営したり、かつての旧敵である北条高時の33回忌法要を行うなど、内政にも目を向ける事が出来る状態になっていました。
義詮の跡を継いだ3代将軍の義満は、将軍の権力を絶対的なものにしましたが、そのお膳立てをしたのは義詮だったともいえます。

南朝を弱体化させて、南北朝合一への道筋をつける
義詮は、当時日本を二分する勢力だった「北朝」の指揮官として、もう一方の勢力である「南朝」側の諸勢力と幾度も戦い、南朝の重要な基盤である紀伊を制圧したり、南朝の後村上天皇を金剛山中へ遁走せしめるなど、決定的に南朝の勢力を減じる事に成功し、北朝の後光厳天皇を盛り立てました。そしてそれは、尊氏の時代にはまだ盤石とは言えなかった幕府を、次第に安定化させていく事にもなりました。
義詮は軍の指揮官としても優れており、南朝に奪われた京都を何度も奪還するなどの功績も挙げています。もっとも、何度も奪還したという事は、逆に言うと、何度も南朝側に京都を奪われていたという事でもありますが。
また義詮は、京都を南朝に制圧された際、北朝の光厳上皇・光明上皇・祟光上皇・直仁皇太子を南朝に拉致されてしまい、北朝の存続が一時困難になるという大失態を犯してしまった事もあるものの、その一方で、南朝の有力大名を次々と北朝に寝返らせる事にも成功しており、その手腕には目を見張るものがあります。

再評価される義詮
以上の事から、義詮は、室町幕府を創設した初代将軍の尊氏と、絶大な権力を手に入れて幕府の最盛期を築いた3代将軍の義満の間に挟まれて将軍としてはあまり目立たない地味な存在かもしれませんが、実は、父・尊氏の期待に見事に応えた、あまり華麗な所は無いものの秀才タイプの将軍だった、ともいえます。
近年では、義詮の果たした役割は決して小さくはなく、太平記が義詮の死を以て閉じられているのもそれなりの理由がある、とする見方も出ています。世代的にみても、鎌倉幕府を倒幕した戦い以来の第1世代は、義詮が亡くなる頃にはほぼ姿を消しており、義詮の死は室町幕府の形成史上に於けるひとつのターニングポイントといえます。
ちなみに、私の個人的な主観としては、義詮は、江戸幕府の将軍の中では特に知名度の高い、初代将軍家康と第3代将軍家光の間に挟まれた、やはり第2代の将軍である秀忠と、何となくイメージが重なります。秀忠も、地味で華麗さはほとんどなく、“天下分け目の合戦”である関ヶ原の合戦に遅参するという大失態も犯していますが、全体を通して見ると、確実に有能な将軍でしたから。


【第3代将軍 足利義満】

有力大名の力を弱めて幕府の権力を絶対的なものにした
室町幕府が強固な統一政権となるためには、強くなり過ぎた家臣達、つまり守護大名を弱体化させ、それによって将軍の権威を高める必要があり、それは、父である前将軍の義詮が推し進めた政策でもありましたが、義満はその政策を更に強く進めて全国各地の守護大名の力を相当弱める事に成功し、それによって幕府の全盛期を築きました。
当時日本の6分の1を支配するまでに強大化していた守護大名・山名氏に対しては、その後継者争いに介入し、義満は、失脚した後継者候補を支援するような動きを見せて、あえて有力後継者を怒らせました。そして、その有力後継者は幕府に襲いかかり、義満は総力を結集して山名氏を撃退すると、幕府に反乱を起こした罰として山名氏から領土の7割を奪って、功績のあった大名に分け与えるなどしました。義満は、これとほぼ同様の方法で、多くの守護大名達を弱体化させていきました。
ただ、幕府の全盛期を築いたとはいっても、その義満時代の幕府も、実は、後の世の豊臣政権や徳川政権などの非常に強力な中央政権に比べると、まだ不完全な点もあり、完全に全国の全てを支配下に置いていたわけではありませんでした。しかし、それでも義満以前の過去の政権と比べると、義満の時代の幕府は、当時としては史上最大とも言える程の、非常に強大な権力を持った政権でした。

南北朝に分かれていた朝廷を統一した
前将軍の義詮や、義満の優秀な側近らの功績により、幕府に抵抗を続けてきた南朝は既に有名無実化していましたが(強硬派であった長慶天皇が和睦派の後亀山天皇に譲位されてからは、南朝による軍事行動もほぼ無くなっていました)、義詮の時代から何度かあった和睦の話はいずれも折り合いが合わず、形の上では依然として南朝は存在し続けていました。
義満はこの問題を解決するため、南朝に使者を送って和睦についての話を進め、そして、義満の将軍就任から24年後、義満が示した和睦条件を南朝側が受け入れる事でついに和睦が成立(事実上、南朝が降伏)し、南朝が奉っていた「三種の神器」を北朝へと譲らせて南朝は北朝に合一され、皇室は再びひとつになりました。
これにより、後醍醐天皇の吉野還幸から60年近くも続いた南北両朝の並立(同時代に二人の天皇が在位するという極めて特異な事態)は終了し、漸く日本は、各地にまだ火種を残しつつもとりあえずは室町幕府の下に全国が統一されました。もっとも、南北両朝の合一を認めない旧南朝の残党はその後も度々騒動を起こすなどしており、「後南朝」とも称されるそれら旧南朝の抵抗運動は、次第に勢力を失いながらも暫くは続いていく事となりました。

北山文化を生み出した
義満が明との貿易で手に入れた豪華な品々は、貴族文化に武家文化が融合した、豪華で華麗な「北山文化」を生み出す事に繋がりました。一層が寝殿造、二層が武家造、三層が禅宗様式の鹿苑寺金閣は、その代表格とされています。
義満の時代には、田植神事と農耕歌舞が結合した「田楽」や、平安時代の猿楽が発展した舞台芸術「猿楽能」なども花開き、観阿弥や世阿弥などの逸材を輩出した他、庭園、絵画、文学などの各分野でも、多くの逸材が活躍しました。
またこの時期は、義満が南宋の官寺の制に倣って五山十刹の制を整えたりするなど、仏教界でも大きな動きが見られました。特に臨済宗は、将軍家・幕府の帰依と保護により大いに発展し、曹洞宗も、地方の武士に広まって北陸で発展するなどしました。


【第4代将軍 足利義持】

幕府の権勢を維持する
義持は、粗暴な所もあって失敗も少なくはなかったようですが、室町幕府の将軍としては最長の在位となる28年間、有能な補佐役達に支えられて幕府を無難に運営した事は、それなりに高く評価されています。
前将軍である父の義満は、征夷大将軍として武家の頂点に立ち、太政大臣として公家の頂点にも立ち、出家した立場から社寺(宗教勢力)の頂点にも立ち、更に、当時の中国の王朝である明に対しては自ら「日本国王」を名乗り、一説によると「治天の君」の地位すらも狙っていたとも云われる程、兎に角絶大な権力を誇っていました。しかし義満が没した後は、それまで義満が力で抑えていた、地方を支配する大名達が再び勢力を盛り返しはじめ、義持はその圧力に悩まされながらも、関東で起こった「上杉禅秀の乱」に対しては、鎌倉公方・足利持氏からの要請に応える形で大軍の幕府軍を派遣し鎮圧するなどして、幕府の権勢維持に努めました。
その後、義持は鎌倉公方の持氏と対立するようになり、その対立は次項で述べる義教の時代に継承されていく事になるため、義持の時代には幕府と関東の確執は解消されませんでしたが、それでも近年では、義持の治世が室町幕府の再安定期だった、という評価もされるようになってきています。

実は水墨画の達人
義持は、決して政治を疎かにしていたわけではありませんが、政治よりも、特に文化・宗教などの方面でより才能を発揮しました。文化の方面では田楽や水墨画を愛好し、現在国宝に指定されている水墨画「瓢鮎図(ひょうねんず)」は、義持が自ら発案し、制作も指導して描かせたものとして伝わっています。義持自身が直接筆をとった水墨画も現存しておりますが、それはいずれも素人離れした高い完成度を誇っています。


【第6代将軍 足利義教】

管領の力を弱めて、将軍が強い実権を持つ政治形態に変えていく
義教は、前述のように「万人恐怖といわれた独裁政治を行った」とされる将軍ですが、なぜそのような政治を行ったのかを理解するためには、当時の時代背景も併せて知っておく必要があります。
義教が将軍に就任した直後、旧南朝勢力の反乱である北畠満雅の乱が起こり、また同時期には、「日本開闢以来、土民蜂起之初めなり」と記された正長の土一揆を切っ掛けに畿内各地で土一揆が起こるなどし、京都周辺は騒然とした状況にありました。地方でも、九州では大内家と大友家の戦が勃発し、関東では、鎌倉公方の足利持氏があからさまに幕府に反発するようになるなどしていました。
そういった騒然とした状況から、義教は将軍の権威を高めて幕府の統制力を強化する事を目指しました。具体的には、廃止されていた評定衆や引付頭人を復活させ、賦別(くばりわけ)奉行を管領直属から将軍直属に変え、政務の決済は将軍臨席の場でする事とし、また、訴訟審理の場からは管領を締め出しました。
管領以下の諸大名の意向を聞きながら政治を行うというそれまでの幕政を変え、将軍が自ら実権を持つ政治形態へと変えていったのです。

将軍独裁による恐怖政治を進める
義教は、くじ引きで選ばれた将軍ではありましたが、将軍としては優秀で、経済や軍事の改革に成功した他、大名や宗教勢力を弱め、将軍に対して不満を言う者は暗殺したり謀殺したり攻め滅ぼすという「恐怖政治」の手法で、将軍の権力を強大化させていきました。そして、幕府の重鎮だった斯波義淳、畠山満家、三宝院満済、山名時煕らが相次いで死去すると、義教の専制政治化は更に進んでいきました。
義教は、上杉禅秀の乱鎮圧の際には幕府と協調した、鎌倉公方の足利持氏に対しても、関東管領の上杉憲実に攻めさせ、更に後花園天皇に持氏討伐の綸旨を出させるなどして、最終的には自害に追い込み、その持氏の遺児である春王丸らも殺害しました。
義教は朝廷に対しても厳しい態度で臨み、男女別室の制度を設けるなどして風紀を正しました。義教は、公家・武家の別や身分等には拘わらず、特に男女関係の不祥事には厳罰で臨みました。また、一揆に対しても、主力大名を投入するなどして次々と鎮圧していきました。

それまでタブー視されてきた勢力に対しても一切容赦しない
比叡山の焼き討ちといえば、織田信長が行った“悪行”のひとつとして古来から有名ですが、実は、信長に先駆けて初めてそれを行ったのは義教です。
平安時代以来、比叡山延暦寺は治外法権状態にあり、歴代の権力者達は比叡山には手を出しませんでしたが、義教は、荘園の境界問題や坂本の土倉の金貸し問題などで悉く比叡山に不利な裁定を下し、更に、鎌倉公方の持氏と内通していたという嫌疑をかけて所領も没収するなど、比叡山には強硬な態度で臨み、ついには、延暦寺追討を宣言して、幕府軍に比叡山を包囲させて山麓の坂本に火をかけるなどの行動を起こしました。
このため、延暦寺は和睦のため4人の使節を義教の元に派遣するのですが、義教はこの4人も殺害したため、怒った比叡山は、延暦寺の本堂に当たる根本中堂に火をかけて、そこで24人の宗徒が自害する事で、抗議の姿勢を示しました。
比叡山に対しての義教のこういった対応は、義教の治世が恐怖政治と云われる由縁のひとつにもなっていますが、しかし当時の比叡山は、現在のように世の中の平和や人々の平安を願う、純然たる宗教組織だったわけではなく、宗教勢力であると同時に強大な武力を持った一大軍事勢力であり、その武力を背景に朝廷や幕府に対して強い自己主張を行う圧力団体であったという事も、差し引いて考える必要があります。
しかも義教は、10歳に満たない頃から、将軍に就任する直前の30年代の壮年まで、僧侶としてずっと比叡山におり、その間には天台座主という比叡山のトップの座にも就いていました。それだけに義教は、比叡山の世俗化に伴う拝金主義、宗教的堕落、過激化する僧兵などの実態を誰よりも正確に把握しており、それが延暦寺への徹底的な弾圧に繋がったとも云われています。

義教の施策とその死は、幕府混迷への大きな転換点となった
義教の恐怖政治には当然反発もあり、最終的に義教は、義教の次の標的が自分である事を察知していた播磨の大名・赤松満祐により、関東平定の戦勝祝いの宴の席で暗殺されました(嘉吉の変)。宴の席で猿楽が始まって間もなく、義教の背後の障子が開き、そこから甲冑姿の武士数十人が乱入して、たちまち義教の首を刎ねたのです。
そして、義教のそのあっけない最期により、幕府の権力は将軍の手を離れていき、室町幕府の衰退が始まっていく事になります。


…というわけで、こうして5人の足利将軍の功績・長所・特徴などをまとめてみましたが、こうしみてみると、足利将軍は決して、無為無策・無能で実力も無かった人ばかりだった、などとは言えない事がお分かり戴けたかなと思います。
しかし、こうして改めてみてみると、同時に室町幕府の抱える大きな欠陥も見えてきます。それは、将軍が有力大名達を抑え付けて幕府の権勢を高め、政情を安定化させても、その将軍が亡くなって代替わりすると、また有力大名達が力を付けてくる、という事です。つまり、室町時代前期に於ける幕府の安定というものは、将軍個人の力量に依拠している部分が大きいのです。
後の江戸幕府が、将軍が誰であるかに関係なく長期に亘って安定政権であり続けたのは、室町幕府のそういった欠点やその結果を反面教師として体制を整備していったという面もあると思います。


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足利義満所縁の相国寺を参拝してきました

私は先月中旬、奈良の春日大社(厳密にいうと、同大社境内に鎮座する摂社の若宮神社ですが)で斎行された神前結婚式に媒酌人として参列するため、その日にちに合せて2泊3日の日程で京都・奈良方面を旅行してきたのですが、京都に立ち寄った際、室町幕府や足利将軍家と深い関わりがある古刹である、京都御苑の北隣に位置する臨済宗相国寺派大本山・相国寺を参拝・見学してきました。

相国寺は、京都五山の第二位に列せられている、寺格の高い名刹で、また、寺院としての知名度では、世界的にも有名な京都観光定番スポットの鹿苑寺金閣(所謂 金閣寺)や慈照寺銀閣(所謂 銀閣寺)のほうが有名ではあるものの、相国寺はその鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣の2ヶ寺を山外塔頭として擁し、更に、全国に100ヶ寺もの末寺を擁する大寺院でもあり(ちはみに、相国寺境内には本山相国寺をはじめ13の塔頭寺院があります)、そして、鹿苑寺金閣同様、特に室町幕府第3代将軍の足利義満に深い所縁がある古刹でもあります。
というわけで、私は今まで一度も相国寺には行った事が無かったのでいずれ行ってみたいとずっと思っていた事もあり、今回の旅行に合せて同寺へと行って参りました。

以下の写真はいずれも、今回の訪問で私が撮影してきた、相国寺の総門と境内の景観です。
最盛期に比べるとその規模は縮小されているとはいえ、それでも、一宗派の大本山らしく十分な威容を誇っている巨大な寺院でした。

相国寺_01

相国寺_02

相国寺_03

相国寺_04

相国寺_05

相国寺_06


平成25年11月26日の記事で述べたように、足利義満は、現在の住所でいう京都市上京区室町通り上立売の辺りに、壮麗な将軍家邸宅を構え、そこで将軍として政務を執っていました。広大な邸宅の敷地には大きな池が掘られて鴨川の水が引かれ、庭には四季の花が植えられ、それらの花が爛漫と咲き乱れていたと云い、その美しい様から室町の足利将軍邸は、人々から「花の御所」と称されました。
永徳2年(1382年)、義満はその花の御所の東側の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、早速寺院の建設工事が始まります。その寺院が、現在の相国寺です。

相国寺の造営予定地には既に多くの家々が建っており、御所に仕える公家達の屋敷なども立ち並んでいましたが、相国寺の造営に当たっては、家主の身分に関係無くそれらの家屋は全て余所へと移転させられ、その有様は、まるで平清盛による福原遷都にも似た、かなり強引なものであったと云われています。
ちなみに、寺名の「相国」とは、国を扶ける、国を治める、という意味です。元々は中国からきた言葉ですが、日本ではその由来から、左大臣の位を相国と呼んでいました。つまり、相国寺を創建した義満が当時左大臣で、相国であった事から、相国寺と名付けられたのです。

そして義満は、禅の師であった春屋妙葩に、相国寺の開山となることを要請します。しかし妙葩はこれを固辞し、妙葩の師である夢窓疎石を開山とするのなら、自分は喜んで第二祖になると返答したため、義満はそれを了承し、既に故人となっていた疎石を形の上でだけ開山として、妙葩は第二祖(事実上の開山)となりました。
但し妙葩は、相国寺造営の責任者として終始陣頭で指揮を執ったものの、相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没しています。

ちなみに、義満は相国寺を是非とも京都五山のひとつに入れたいと熱望していましたが、既に五山は確定していたため、もし相国寺を強引に五山に入れると、既に五山に入っているいずれかの寺院が五山から脱落しなければならず、そのため義満は、どの寺院を五山から除くべきか、もしくは、相国寺を準五山とするか、あるいは、五山ではなく六山の制にするか、大いに悩んでいたようです。
最終的には、天皇によって建立された南禅寺を五山よりも上位の寺格(別格)として五山から外す事で、相国寺を五山に列位させて、義満の願いは成就しました。これ以降の具体的な順位は、南禅寺が別格、天龍寺が第一位、相国寺が第二位、建仁寺が第三位、東福寺が第四位、万寿寺が第五位となります。
当初は、義満の意向により相国寺が第一位、天龍寺が第二位とされたのですが、義満没後に再び天竜寺が第一位、相国寺が第二位に戻され、それ以降は順位の変動はありません。

そして、着工から10年を経た明徳3年(1392年)、ついに相国寺の堂塔伽藍が竣工し、盛大な落慶供養が執り行われました。
「相国寺供養記」という本によりますと、落慶供養当日の模様は、「路頭縦と云い横と云い、桟敷左に在り右に在り、都鄙群集して堵(かき)のごとく、綺羅充満して市をなす」と記されており、境内には、聳え立つ真新しい殿堂、威儀を正した僧侶達、義満に供奉する公武の人々、見物の群集などの景色が広がり、祝賀ムード全開、お祭り一色の派手な様相が広がっていたようです。
そしてそのほぼ1ヶ月後に、南朝と北朝との間で和議が成立し、約60年に亘って続いてきた南北朝の抗争も終結し、待望の平和が蘇る事となりました。

創建当時の相国寺は、室町一条辺りに総門があったと云われ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約144万坪の壮大な敷地に50あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。兎に角巨大な寺院でした。
そして、残念ながら現存はしませんが、義満の時代の相国寺で確実に最も目立っていたのは、史上最も高かった日本様式の仏塔でもある「七重大塔」です。この仏塔は、義満の絶大な権勢を象徴するモニュメントでもあり、その高さ(尖塔高)は109.1mを誇り、構築物として高さ日本一というその記録は、大正3年(1914年)に日立鉱山の煙突(高さ155.7m)が完成するまでの凡そ515年間も破られる事がありませんでした。
下のイラストは、「週刊 新発見!日本の歴史 24」誌上からの転載で、義満の時代の相国寺伽藍の全景です。巨大な七重大塔が、強烈な存在感を醸し出しています。

相国寺伽藍


ところが、竣工後の相国寺は度々火災に見舞われ(七重大塔が現存しないのはそのためです)、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に境内は全焼し、その後復興されたものの、義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼しています。
応仁元年(1467年)には、応仁の乱で細川方の陣地となったあおりでまた焼失し(相国寺の戦い)、天文20年(1551年)にも、細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれてまた焼失しています(相国寺の戦い)。
天正12年(1584年)、相国寺中興の祖とされる西笑承兌が住職となって復興が進められ、日本最古の法堂建築として現存する法堂は、この時期に建立されました。しかしその後も、元和6年(1620年)に火災に遭い、天明8年(1788年)の「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇をまた焼失しました。そのため、現存の伽藍の大部分は、19世紀はじめの文化年間の再建となっています。

このように、長い歴史の中で幾度も焼失と復興を繰り返してきた相国寺ですが、相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として、そして、室町幕府の厚い保護と将軍の帰依とによって、これだけの火災に遭いながらも大いに栄えてきた大寺院で、幾多の禅傑を生み出し、我が国の文化にも決して小さくはない役割を果たしてきました。
ちなみに、室町時代中頃の「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)という日記によりますと、第8代将軍の足利義政は、寛正5年(1464年)の一年間だけで、実に四十数回も相国寺を参詣しています。現職の将軍が一年間にこのように何十回も参詣したお寺は他には無く、足利将軍の深い帰依の様子が窺えます。


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鎌倉幕府の権力構造の推移についての考察

このブログでは、南北朝時代や室町時代について取り上げる事が多いですが、それらの前時代である鎌倉時代に於ける武家社会の権力構造の推移というのも、調べてみるとなかなか興味深いものがあります。

鎌倉時代の武家社会というと、中学校や高校の日本史の授業などでは、武家の棟梁として幕府を統率する将軍と、その将軍に仕える御家人達とが、「御恩と奉公」という双務的・互恵的な主従関係を築いていたと習いましたが、そのような、将軍と御家人の主従関係というのは、今の私は、あくまでも建前に過ぎなかったのではないかと思っています。
現実には、鎌倉幕府の歴代将軍の中で政治的実権を掌握していたのは初代の源頼朝だけですから、鎌倉時代の御家人達にとっての実際の奉公の対象は、頼朝が将軍だった時期を除くと、将軍という個人では無かったはずです。頼朝以外のほとんどの歴代将軍達は、御家人に対する「御恩」、即ち、本領安堵や新恩給与を行う実権を持っていなかったからです。

では、鎌倉時代の御家人達が、自分の命や一族の将来を懸けてまで「一所懸命」に奉公していた対象は何だったのかというと、それは恐らく、御成敗式目などに代表される、幕府による「法による公正な判断と処遇」だったのではないでしょうか。
だからこそ、源氏直系の将軍が僅か三代で絶えた後も、執権や得宗(北条家本家の当主)が有能な人材に恵まれ「公正な判断と処遇」が保障されていた時代は幕府が支持されて栄え、逆に、幕府を運営する執権や得宗、後述する内管領のいずれもが、有能でも公正でも無くなった鎌倉時代末期には、幕府は武家からの信頼を失い、あっさりと崩壊したのでしょう。

勿論実際には、それのみが幕府崩壊の原因ではありません。鎌倉幕府が崩壊した要因を以下にいくつか列記してみると…
元寇は、幕府の領土が拡張する性格の戦争では無く、防衛戦争であったため、元寇で身を挺して活躍した御家人達に対して幕府から恩賞として与える事の出来る土地が無かった。
そもそも鎌倉時代の家の多くは財産の相続を男女平等に、しかも全員に均等に分割していたため、土地がどんどん先細りしていき、仮に元寇が無かったとしても恩賞として土地を与え続ける体制を維持していくには限界が近付いていた。
後醍醐天皇による倒幕の執念が凄まじかった。
…なども、幕府崩壊の重要な要因のひとつとして挙げる事が出来るでしょう。しかし、賄賂が横行するなどして政治が腐敗し「公正な判断と処遇」が保障されなくなった事は、恐らくそれらの要因以上に、幕府崩壊のかなり大きな原因になったであろうと私は思っています。


それにしても、鎌倉時代の武家社会というのは、政治的実権を握る者の地位がどんどん下がっていくという、権力構造としてはかなり特異な特徴が見られます。
そもそも、政治的権力(統治する権限)を朝廷から委任されているという時点で、本当は将軍ですら絶対的なトップではありませんが(建前としては当然、委任される側よりも委任する側のほうが上位ですからね)、とりあえず幕府という組織においては、将軍がトップとして君臨します。実際、初代将軍の頼朝は鎌倉幕府を統べる立場として、ほぼ独裁的な権限を掌中に収めていました。
下の画像は、その頼朝の肖像画として昔から特に有名なもので、初めて武家政権を創立した将軍らしい凛とした威厳が感じられる肖像です(但し近年は、この肖像画は頼朝ではなく、足利直義を描いたものではないかという説もあります)。

源頼朝

頼朝は、治承・寿永の乱、即ち「源平の合戦」を勝ち抜いた事で、日本初の武家政権である鎌倉幕府を開幕する事が出来たわけですが、その「源平の合戦」というのは、実際には、必ずしも源氏と平氏との戦いではありませんでした。
どういう事かというと、頼朝は、同族である従兄弟の木曽義仲と戦って義仲を討ち死にさせ、平氏の滅亡後には自分の弟である義経も討ち、その後、更にもうひとりの弟である範頼も誅殺するなど、凄惨な同族争いをしており、また、頼朝に味方した関東武士の中には、北条氏・千葉氏・三浦氏・和田氏・畠山氏・熊谷氏など、家系としては平氏に連なる一門も多かった事から、結果として彼らも頼朝と共に平氏政権とは対峙しており、つまり実際には、源氏と源氏の間、平氏と平氏の間でも激しい死闘が行われていたのです。
では、「源平の合戦」が、純粋に源氏と平氏という二大勢力が争った合戦ではないのなら、結局あの大乱では、何と何が戦っていたのかというと、一言でまとめるなら、それは「貴族化した平氏を中心とした中央政権」と「源頼朝という源氏の貴種を神輿として担いだ、源氏も平氏も含んだ東国武士団」との戦いであったと言えます。もっと端的に言うと、「京を中心とした西国」と「関東を中心とした東国」、もしくは「中央」と「地方」の戦いであったとも言えます。

ようするに、当初の頼朝は、あくまでも東国武士団の“神輿”に過ぎなかったのです。極論すれば、関東の武士団にとっては、自分達の旗印となるに相応しい(平氏政権に対抗出来そうな)血筋の良い御曹司でさえあれば、別に頼朝以外の人物を担ぎあげても良かったのです。
そのため、挙兵して間もない頃の頼朝は、まだ独裁的な強権を発動できる程の力はありませんでした。例えば、富士川の戦いで平維盛の率いる軍勢に勝利した後、頼朝自身は、その勢いに乗ってそのまま上洛する事を望みますが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らが、まず東国を平定すべきであると諌めたため、頼朝はその意見に従って、黄瀬川に兵を引き返しています。この時点ではまだ、自分の意見を押し通す事は出来なかったのです。

しかし、その後の頼朝は実力をつけ、軍人としてよりもむしろ政治家として著しく頭角を現し(軍の指揮官としては弟の義経のほうが明らかに優秀でした)、権謀術数をめぐらして自分の抵抗勢力となりそうな者は味方といえども次々と粛清し、幕府が成立する頃には、「鎌倉殿」として独裁的な権力を振るうようになっていました。
つまり、頼朝の強大な権力は、単に血筋だけで自動的に継承されたものではなく、自分自身の能力や実績により得たものであるわけですから、その点については私も素直に「凄いな」と思います。頼朝は結構苦労人なのです。もっとも、この点については、他の初代将軍である足利尊氏や徳川家康も同じですが。2代目以降は兎も角、初代だけは、単に血筋だけでは旧政権を打倒して自らの新政権を築き上げる事は出来ませんからね。
頼朝は猜疑心の塊のようなイメージがあるので、もし私の身の回りにいたとしたら、個人的にはあまりお友達にはなりたくないタイプですが(笑)、それは兎も角、全く何の権限も持たない(むしろ権限を制限される立場の)伊豆の流人から、日本で初めて創設された幕府の初代将軍にまで上り詰めただけあって、その政治力やカリスマ性などは卓越したものがあり、頼朝が極めて有能な人物であった事は間違いありません。

ところが、その頼朝が没すると、2代目の将軍となった頼家は、頼朝に比べると能力的にかなり劣っていた上に公正な態度でもなかったため、大多数の御家人達から支持を得られず、政治的な実権を奪われてしまいます。
そして、有力御家人達による合議制で政治が行われるようになるものの、権力闘争の末にその合議制は崩壊し、頼家は失脚後に暗殺され、その跡を継いで3代将軍となった実朝も暗殺され、源氏の直系は絶えてしまいます。
そういった血なまぐさい抗争期を経て、本来は将軍の補佐役に過ぎない「執権」という役職に幕府の政治的実権が移るようになり、更に、評論家の山本七平氏が“日本史上最大の事件”と定義付ける「承久の乱」で幕府が後鳥羽上皇に勝利した事により幕府の権力は絶対的なものとなり、それに比例して執権の権力もより高まり、そしてその執権の地位は、幕府の中では最有力御家人の北条氏が代々世襲するようになります。
実朝が暗殺されて以降の鎌倉幕府が北条幕府と称される事もあるのはそのためです。

しかし、執権で最も有名な人物といえば、平成13年のNHK大河ドラマの主人公にもなった、元寇(文永の役・弘安の役)という未曾有の国難に対処した北条時宗ですが、その時宗の官位・官職は正五位下相模守で、朝廷の官位でいえばかなり下位であり、名目上はあくまでも関東の一地方官に過ぎません(但し没後600年以上経った明治時代に、元による日本侵攻を退けた功績により、時宗は明治天皇から従一位が追贈されています)。
建前としては一地方官に過ぎないその執権が、事実上の日本の最高権力者として国政を取り仕切り、そして、当時世界最大の帝国であった元の軍勢と戦い(時宗自身が戦場で直接軍勢を率いて戦ったわけではありませんが)、それを撃退したのです。
下の画像は、その北条時宗の肖像画(出家後の姿を描いたもの)です。時宗の生涯は、まるで元寇に対処するために生まれ、そのために全ての力を使い切ったかのような生き様で、二度に亘る元寇を防ぎ、古代・中世を通して日本最大ともいえる国難を乗り切った後、時宗は満32歳という若さで病没しました。

北条時宗

その後、幕府の実権は執権から得宗へと移り、執権の地位すら形骸化していきます。時宗の時代より少し前に遡りますが、時宗の父である、「鉢の木」のエピソードでも有名な北条時頼は、執権を引退した後も得宗としてそのまま強大な政治権力を保持し続けたので、既にその頃から、執権の形骸化は進んでいました。
そう考えると、時頼や時宗は確かに有能な執権ではありましたが、実際には、執権という役職であったからというよりも、むしろ得宗であったからこそ、その政治的手腕を存分に発揮する事が出来たのではないかという気もします。実際、得宗であった執権には実権がありましたが、得宗ではない執権、即ち北条家傍流の執権は、あくまでも“中継ぎ”と見なされ、あまり政治的な実権はありませんでした。
ちなみに、知名度でいえばやはり時宗のほうが上ですが時頼も、その態度は公正で、質素・堅実でもあり、大多数の御家人(弾圧対象となった反得宗勢力の御家人を除く)や民衆に対して善政を敷いた事から、一般には名君として高く評価されています。

そして鎌倉時代末期には、得宗家の家臣(得宗の家政を司る執事)に過ぎない内管領が、得宗に代わって権力を振るうようになります。
そもそも内管領は、幕府の公式な役職名ではなく、その立場も、現代でいえば県知事(朝廷の官位でいえば執権はその位に相当)が個人的に抱えている何人かいる秘書の中では主席の人、という程度の役職と思われますが、そんな下位の地位にある者が、事実上、内政・外交・軍事・裁判まで行っていたのですから、本来であれば越権も甚だしい事になります。
内管領といえば、個人的には、平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」に登場した、フランキー堺さんが演じた長崎円喜が思い出されます。円喜は、末期の鎌倉幕府に於ける実質的な最高権力者で、得宗以上の絶大な権力を振るいましたが、同時に、末期の鎌倉幕府の腐敗ぶりを象徴する、かなりダーティーな人物でもありました。

以上の事からも分かるように、鎌倉幕府というのは、表面的なトップは一貫して将軍であるものの、実際にその政治的実権を握る者(フィクサー)は、「将軍 → 執権 → 得宗 → 内管領」という順に、どんどん下降していった組織なのです。
厳密にいえば、将軍(頼朝)独裁期から執権専制期にかけての過渡期には、前述のように有力御家人による合議制という政治体制もあったのですが、兎も角、後の室町時代とも江戸時代とも明らかに違う、鎌倉時代特有のこの独特な武家社会の構造は、なかなか興味深いものがあります。


では、鎌倉幕府の次の室町幕府の場合はどうだったのかというと、病弱のため十代で早世した5代将軍・足利義量を除くと、室町幕府では少なくとも6代将軍の足利義教までは、将軍自身が政治的な実権を掌握していました。
その時点でまず鎌倉幕府とは異なりますが、義教が暗殺されて以降は、鎌倉時代末期よりももっとカオスな状況になり、鎌倉幕府のように政治的な実権を握る者の立場が下降していった、というよりは、政治的な実権を握る者がいったい誰なのかも分からない、そもそも誰も実権を握っていない、という無秩序な状態に陥り、その結果として、下克上の戦国時代へと突入していきました。

ちなみに、鎌倉幕府と室町幕府の違いについてもう一点指摘すると、中学や高校の日本史の教科書等に掲載されている幕府の組織図では、鎌倉幕府の場合は執権が、室町幕府の場合は管領が、それぞれ将軍の補佐役として、将軍に次ぐナンバー2の地位として図示されていますが、建前としては兎も角現実には、執権と管領には立場や役割に差があり、その職掌は同一ではありませんでした。
はっきり言うと、単なる“お飾り”に過ぎない実権の無くなった将軍に代わって幕政全般を司る執権のほうが、室町幕府の管領よりも、より政治的な実権を握っていた、と私は解しています。

管領は、幕府の最高権力者として君臨する、直接の上司に当たる将軍と、一応は管領の部下的な立場になるものの鎌倉時代の御家人達よりは強い力を持っている事が多かった守護・守護大名という、明らかに利害が対立する上下関係の板挟みとなって、両者に気を遣いながらその権益を必死に調整するという、地位の高さに反して見返りが少ないばかりか損な役回りでもあり、実際、管領になった者は上からも下からも恨みを買って失脚や敗死する事が多く、足利一門でもある斯波・細川・畠山の三管領家は、管領への就任を嫌がったり、就任しても直ぐに辞任したがるなどしました。
そういった意味では、管領よりも執権のほうが実質的な“うま味”はあったでしょうし、その執権の地位を常に一族(特に得宗家)で独占し続けてきたからこそ、北条家は鎌倉時代末期まで、徐々に陰りが見えながらも一応は何とか権力を維持出来たのでしょう。


それでは、室町幕府の次の江戸幕府の場合はどうだったのかというと、少なくとも江戸時代前期から中期にかけては、江戸幕府では将軍自身が政治的な実権を掌握していた事が多く、その点で、やはり鎌倉幕府とは異なります。
時期によっては大老・老中・側用人・その他の幕臣などが政治を動かす事もありましたが、江戸時代後期以降でも、時には将軍自身が強力なリーダーシップを発揮する事もありました。

例えば、平成10年のNHK大河ドラマの主人公にもなった、最後の将軍として有名な徳川慶喜は、将軍在任期間中は一度も江戸城に入っていないにも拘わらず、京の都から幕府を指揮し、諸外国からも実質的な日本の支配者とみなされていました。この点は、戦国時代という混沌とした時代を招き、末期の頃は幕府の本拠地である山城国一国すら維持出来なかった、弱体化が著しかった室町幕府とも異なる所です。
もっとも、その慶喜の時代に江戸幕府は崩壊し、それにより、頼朝以来続いてきた約700年間の武家政治も終焉を迎えたわけですから、結果的に慶喜の治世は失敗に終わった事になりますが、それでも私は、慶喜は政治家としては極めて優秀な人物であったと思っています。征夷大将軍という武家の棟梁として本当に相応しい人物であったのかどうかは、また別問題ですが。


こうして改めて比較してみると、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は、一見よく似ているように見える武家政権でありながらも、それぞれの権力構造の推移というのは決して同一ではなく、実に興味深いです。


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