この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

太平記所縁の地 稲村ヶ崎

今から3年程前、鎌倉を旅行した際に、太平記所縁の地である稲村ヶ崎を訪ねました。

稲村ヶ崎は、鎌倉市南西部の由比ヶ浜と七里ヶ浜の間に位置する、相模湾に突き出た岬で、鎌倉幕府を攻め滅ぼさんとする新田義貞が、この岬から海岸に沿って鎌倉に軍勢を進めようとするものの、波打ち際が切り立った崖となっていたためそれが出来ず、そのため義貞が、潮が引く事を祈念しながら太刀を海に投じて龍神に奉納すると潮が引いて海岸が干潟となり、そこから一気に鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼした、という、太平記でも特に有名なエピソードのひとつの舞台となった伝説地です。

新田義貞

稲村ヶ崎_01

稲村ヶ崎_02

「史蹟 稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」と刻まれた石柱や、稲村ヶ崎での義貞の伝説を記した石碑、明治天皇御製(明治天皇が義貞について詠まれた歌)が記された石碑なども立っていました。
太平記が好きな私にとって、ここは前々から一度は訪ねてみたいと思っていた場所でした。

稲村ヶ崎_03

稲村ヶ崎_04

稲村ヶ崎_05

稲村ヶ崎からは、江の島や、江の島と本土を結ぶ江ノ島大橋もはっきりと見えました。
江の島は、鎌倉の西隣の街・藤沢市にある、周囲約4km、標高約60mの陸繋島(砂州によって陸続きになった島)で、鎌倉と共に湘南を代表する一大観光地として全国的に知られています。

稲村ヶ崎から望む江の島


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (後編)

前編から続く)

戦前の日本では、楠木正成は「忠臣の鏡」「大楠公」として過剰なまでに高く評価され、逆に、その正成を討った足利尊氏は大極悪人と解される事が多かったため、明治時代に於いても、常に正成は高く評価され、尊氏は逆賊視されていたのであろうと思っている人が多くいますが、少なくとも明治時代前期から中期にかけての時期は、実はそうでもありませんでした。

明治期にヨーロッパの近代歴史学が入ってくると、史学界では太平記の史料的価値が疑われるようになったため、正成は一般の庶民には尊敬されていたものの、史学の分野に於いては正成の評価は下がっていきます。
東京帝国大学に初めて国史科が出来た頃、重野安繹(しげのやすつぐ)、久米邦武(くめくにたけ)、星野恒(ほしのひさし)という3人の博士が教授になりましたが、3人共、正成の事は随分と低く評価をしました。

重野博士は、「正成は忠臣の道を守らず、自分の意見が朝廷に採択されないので腹を立て、やけを起こして国家を棄て天子を残し、わがままにも討ち死にせんとして湊川に行った」と述べ、久米博士は、「大将というのは一人になっても生き抜くのが本当だ。敗死を覚悟で戦に行くのは真の大将ではない」と言い、星野博士は「初めから死ぬつもりでいた事は良くない」と断じました。
また、ヨーロッパで史学研究をして帰国した坪井九馬三という学者は、「湊川の戦いは現代の暦に直すと7月12日である。そのような暑い季節に午前10時から午後4時まで6時間にも亘って16回も戦闘を行ったため、楠木軍は疲労の極に達して、自殺行為のような戦いをしたのだろう」と、論旨明快な推測をしました。

更に、この時期の代表的な啓蒙家である福沢諭吉も、正成の事は低く評価していたと云われています。これは、俗に「楠木正成権助論」もしくは「楠公権助論」と云われるもので、その趣旨は、概ね以下の通りです。
下男の権助(ごんすけ)が主人の使いに行き、一両のお金を落として途方に暮れ、旦那に申し訳がないと言って思案を定めて、並木の枝にふんどしを掛け首を吊って自殺をする例はよくある事である。この権助が自殺する時の気持ちを察すれば、それは、主君に任務を与えられながら果たす事が出来ない事を申し訳ないと思って自決する武将の気持ちと同じである。ところが世の中の人は、権助の事は軽蔑するのに、武士の場合には石碑を立てたり神社を建てたりする。しかし、権助も忠君義士も、文明の役に立たないという点では同じであり、共に命の捨て場所を知らないのである

一般にこれは、「楠木正成や赤穂浪士の死は、世の中にとっては何の益もない、ただ私的満足のための死であり、一両の金を落として首をくくった権助の死と同じである」と福沢が言ったものと介され、そのため正成に思い入れの強かった一般庶民から福沢は様々な誹謗中傷を受けるのですが、ただ、福沢がその主張をしたとされる「学問のすゝめ」第七編には、確かに赤穂義士については具体例として文中で明示されているものの、実は正成の名前(もしくはそれを示唆するような言葉)は一言も出てきていません。
そうであるにも拘らず、正成と権助が結びついて一人歩きをしてしまい、結果的に、当時の人々の正成や赤穂義士に対する熱烈な思いが怒りとなって爆発して、福沢はバッシングを受ける事になってしまったのです。
当時の正成への大衆の人気を窺い知る事が出来る事例でもあります。


そして、一般大衆レベルでは兎も角、史学において正成の評価が下がってくると、今度はそれに反比例して、尊氏を悪人と決め付けず、歴史を公正に評価しようという流れが主流になってきます。
国定教科書というのは国家がつくる教科書の事ですが、明治37年版の国定教科書「小学日本歴史」には、当時のそういった流れを反映して、後醍醐天皇の建武の新政については以下のように書かれました。
かく一統の政治や整ひしかども、弊害、従ひて起り、内奏、しきりに行はれて、賞罰、その富を得ざるもの多かりき
天皇はまた兵乱の後なるにもかかはらず、諸国に課して大内裏を造営せんとしたまふなど、民力の休養に怠りたまふこともありき。されば新政に対する不平は、しきりに起り、人々、中興の政治を喜ばずして、かへつて、武家の政治を慕ひ、つひに、ふたたび、天下の大乱を見るに至れり

意外な事に、はっきりと建武の新政の混乱を述べ、後醍醐天皇の事も容赦なく批判しています。その一方で、尊氏については以下のように書かれました。
才智に富み、巧に、将士の心を収めたりしかば、人々、源氏の昔を思ひて、心を、これに寄する者多かりき

はっきりと尊氏の人柄を褒めており、これが、戦前の国定教科書の記述であるという事には少々驚かされます。
また、明治42年には、自らを平民史家と名乗る思想家・ジャーナリストの山路愛山(やまじあいざん)が、「足利尊氏」を出版していますが、この作品の中で愛山は、建武の新政や南北朝の争乱を革命と捉え、尊氏を、時代を代表する英雄として情熱的に描きました。
更に山路は、尊氏の政治活動だけではなく、尊氏の性格まで掘り下げ、尊氏は貴族的な優雅さに満ち溢れ、度量は真に海の如きである、と高い評価を下しています。

現代の人達は、「戦前は足利尊氏は逆賊、楠木正成は忠臣とされ、戦後はその反動から、尊氏の評価が高まり、正成についてはあまり触れられなくなった」と思っている人が多く、確かにそういった面はあるのでそれは決して間違いではないのですが、このように現実はもっと複雑で、戦前であっても尊氏が高く評価されたり、逆に、戦前でも正成が低く評価される事もあったのです。


しかし、その後、尊氏を高く評価する内容であった、前出の国定教科書の記述は大きな問題になります。
山路愛山の「足利尊氏」が出版されてから僅か2年後の明治44年、国定教科書が南朝を正統とせず南北朝を併記しているのはおかしい、と読売新聞が紙上で大きく取り上げたのです。所謂、南北朝正閏(せいじゅん)論争です。

読売新聞(明治44年1月19日)

丁度この頃は、明治天皇を弑逆(暗殺)しようとする計画を企てたとして幸徳秋水ら社会主義者が処刑されるという大逆事件が起こった時期であり、当時のそうした世相もあって、帝国議会も、この歴史教科書の記述を国家的な問題として大きく取り上げました。
そして、時の第二次桂太郎内閣は、国定教科書の記述は誤りであるという結論を下して、この教科書を執筆した教科書編集官の喜田貞吉を休職処分にし、この教科書の使用も禁じました。
更に同年3月、明治天皇の勅裁という形で、南朝こそが正統であると定められました。南朝と敵対した北朝の御子孫であられる明治天皇がそのようにお定めになった、というのは何とも不思議な話ではありますが、兎も角これで、公式に南朝が正統とされ、尊氏には逆賊という烙印が押される事になったのです。

そういった経緯を経て、その後の国定教科書では、南北朝時代についての記述が大きく改定されました。それまでの「南北朝時代」というタイトルは消え、この時代のタイトルは、南朝が政権を置いた吉野に因み「吉野時代」と変えられました。更に、人物評も大きく変化します。
明治44年に改定された国定教科書「尋常小学日本歴史」では、尊氏について以下のように記されました。
尊氏大望を抱き、北条氏に屈従するを快しとせず、幕府の命により兵を率ゐて京都に上るや、にはかに鉾をさかさまにして、勤皇の軍に加り、遂に六波羅を陥れしなり。されど尊氏はもとより王政の復古を希ひしにあらず、自ら源氏の幕府を再興せんとせしなり (中略) 尊氏は是等不平の武人をかたらひ、遂に鎌倉に拠りて反せり

つまり、尊氏は己の欲望のために、後醍醐天皇を利用し、その上で叛旗をひるがえして政権を奪取した、という内容で、教科書での尊氏に対しての評価は一変してしまったのです。
更に、『尊氏擅(ほしいまま)に幕府を開きしが、無道の行甚だ多く、直義とも睦まじからずして遂に之を殺し、部下の将士も屡々(しばしば)叛き』とも記され、その無道な性格のため、尊氏は部下にも全く人望が無かったというように書き改められました。
更に、教科書の巻末に付録として付けられていた歴代天皇の年表も、改定前は南北両朝並列であったものから、南朝の天皇のみを記載したものに変えられました。北朝の光厳天皇、光明天皇、祟光天皇、後光厳天皇、後円融天皇は、教科書から削除されたのです。


そして、それから20年程経った昭和9年、尊氏は再び政争の具となります。
同年、雑誌「現代」に、古河財閥を創設した実業界の重鎮で、当時は斎藤実内閣の商工務大臣でもあった中島久万吉(なかじまくまきち)の雑文が掲載されました。それは、中島が十数年前に文学雑誌に発表したものを転載(再掲載)した文章で、その内容は「尊氏は人間的には優れた人物だった」と尊氏を高評するものでした。

中島久万吉による足利尊氏についての雑文

この年は、建武の新政(当時は「建武の中興」と称されていました)から丁度600年後に当たり、後醍醐天皇と南朝の事績を顕彰する運動が全国的に盛り上がっている時期であった事もあり、「国務大臣が、逆賊である足利尊氏を讃えるとはとんでもない!」という非難が衆議院予算総会で起り、更に貴族院では、男爵菊池武夫議員が、「国務大臣の地位にある者が、乱臣賊子を礼賛するがごとき文章を天下に発表したような大問題が、議会に対し陳謝しただけで済むものではない。よろしく罪を闕下(けつか)に謝して、辞職すべきではないか」と糾弾し、子爵三室戸敬光議員に至っては、「ここは言論の府である。この私の要求を認めないならば言論破壊者である。逆賊礼賛者はまた言論の破壊者である。恐縮するだけでは足らぬ。商相としては、この際辞職し辞爵すべきである」とまで極論して、いずれもが中島を激しく批判し、斎藤首相に中島の大臣罷免を求め、本人にも爵位の辞退を要求するなどしました。
現代人の感覚からすると、これは明らかに学問・思想・言論の自由に対する弾圧であり、特に三室戸議員の極論については「オイオイ、どちらが言論の破壊者だよ」という感覚ですが、当時はこういった動きに右翼も大々的に便乗し、中島攻撃はどんどんエスカレートし、遂に中島は、自ら商工務大臣を辞職せざるを得なくなり、終戦まで隠遁生活を余儀なくされました。
しかし、実はこの過剰な中島攻撃の裏には、陸軍の大陸政策に消極的であった斎藤内閣を困らせようとする政治的な意図が隠されていたと云われています。

こうして、もはや尊氏を高評価するのは完全にタブーとなり、これ以降、尊氏の評価は更に悪化し、日本史における大極悪人というべき地位にまで落ちました。軍部や右翼などが、皇国史観を強調するための手段として、過剰なまでに正成を忠臣として持ち上げ、逆に、過剰なまでに尊氏を逆賊として吊るし上げていったのです。

中島の発言が問題視された昭和9年には、皇国史観を集大成したとされる、戦前の代表的な日本中世史家である平泉澄(ひらいずみきよし)が、「建武中興の本義」を出版していますが、平泉は同書の結論部に於いて、以下のように述べています。
建武中興失敗の原因は明瞭となった。即ちそれは天下の人心多く義を忘れて利を求むるが故に、朝廷正義の御政にあきたらず、功利の奸雄足利高氏誘ふに利を以てするに及び、翕然としてその旗下に馳せ参じ、其等の逆徒、滔々として天下に充満するに及び、中興の大業遂に失敗に終わったのである。ここに我等は、この失敗の原因を恐れ多くも朝廷の御失敗、殊には後醍醐天皇の御失徳に帰し奉った従来の俗説と、大地に一擲しなければならぬ

尊氏は「奸雄」であるとし、しかも、高氏が後醍醐天皇の諱(いみな)である「尊治」の尊の一字を賜り尊氏と改名した事をも認めたくないのか、わざわざ「高氏」と表記し、更に、尊氏の旗下に馳せ参じた者達をも「逆徒」呼ばわりするなど、尊氏に対しての評価は最低です。
教科書の記述も、尊氏に対しては更に厳しくなり、昭和18年に編纂された国定教科書「初等科国史」には、以下のように書かれました。
足利尊氏が、よくない武士をみかたにつけて、朝廷にそむきたてまつつたのです。
尊氏は、かねがね、征夷大将軍になつて天下の武士に号令したいと、望んでゐました。北条氏をうら切つて、朝廷に降つたのは、さうした下心があつたからです。なんといふ不とどきな心がけでせう。
しかも、六波羅を落しただけで、正成や義貞さへはるかに及ばないほどの恩賞をたまはりながら、今、朝廷にそむきたてまつつて、国をみださうとするのですから、まつたく無道とも何とも、いひやうがありません


戦後、尊氏への評価は多様な価値観の芽生えと共に一転しますが、何も、戦争が終わってすぐに尊氏の評価が好転していったわけではありません。尊氏を逆賊と決め付けず歴史を公正に評価しようという動きは、昭和30年近くになってから、徐々に広がっていきます。

昭和29年に発表された高柳光壽の論文「足利尊氏」には、尊氏が天皇に叛いた事について、以下のように書かれましたが、戦中であれば、このような内容はまず発表出来なかったであろう事は想像に難くありません。
後醍醐天皇が尊氏に庇護を加えてゐる間は尊氏も天皇に対して忠誠を尽す。けれども、天皇が尊氏の生命を奪はんとすることになれば、尊氏といへどもこれに反抗せざるを得ない。これが当時の社会通念であり、一般道徳であった

高柳は、尊氏が北条に叛いた事を称賛し、天皇に叛いた事を攻撃する従来の学説に対して、どうして、天皇に叛くのは悪く、北条に叛くのはなぜ良いのであろうかと反論し、観念的に、忠義は報賞を予想するものではないと説くが如きは、為政者の代弁に過ぎないと厳しく批判しました。

昭和32年に発表された林家辰三郎の論文「足利尊氏」では、大きな歴史の流れの中で後醍醐天皇のように律令国家を復活させる事が正しい道なのかどうかをはっきりと見極める事が大切であり、全国の名主階級に基礎をおいた守護大名制を伸ばしていく事が社会発展のための大道であったと論じられ、その意味で、尊氏は時代の進歩を担う存在であったと述べられました。
また、1336年に清水寺に納めた尊氏願文や、観音・地蔵に対する信仰などから、尊氏の武将としての強さの陰に人間らしい弱さを読みとり、「そのような尊氏であったからこそ、ついに幕府の創設をも成し遂げる事が出来たのだ」とも述べられ、全体的に尊氏に対しては高い評価が与えられています。

しかし、これらの論文は、国民の間で広く読まれたというわけではなく、大多数の人達の認識としては、戦後も暫くの間は、やはりまだ「正成=忠臣、尊氏=逆賊」であったと思われます。
一般庶民の間でも尊氏への評価が好転する大きなきっかけとなったのは、時代小説の大家であった吉川英治が著した長編小説「私本太平記」でした。
吉川は、昭和33年から数年間に亘って「私本太平記」を執筆しますが、この作品に主人公として登場した尊氏は、ひとりの男として、また正直なロマンチストとして、人間味たっぷりに生き生きと描かれました。
また吉川は、尊氏について「随筆私本太平記」の中で、『尊氏は、いわば颱風時代に揉まれた生命中の巨なるものだ』と、最大級の賛辞も贈っています。
南北朝時代は日本の歴史が始まって以来、稀にみる動乱期であり、吉川は、政治的にターニングポイントを迎えた混沌としたその時代に、日本を一定方向に導いた巨星として、尊氏を高く評価したのです。

もっとも、尊氏を高評価する動きに反発した人もいました。
先程、戦前の代表的な日本中世史家である平泉澄の「建武中興の本義」を紹介しましたが、その平泉は、昭和45年に著した「少年日本史」という本の中で、以下のように述べています。これは子供向けの本だけに、平泉の主張が平易に述べられており、平泉の歴史思想、それも晩年の完成したものをここからは手っ取り早く理解する事が出来ます。

彼等(引用者註-足利氏)には道徳が無く、信義が無く、義烈が無く、情愛が無いのです。あるものは、只私利私欲だけです。すでに無道であり、不信であり、不義であり、非情であれば、それは歴史に於いて只破壊作用をするだけであって、継承及び発展には、微塵も貢献する事は出来ないのです
それ故に吉野時代(引用者註-南北朝時代)がわずか五十七年の短期間であるに拘らず、我が国の歴史に貢献する所、極めて重大であり、記述するべき事の豊富でありますのは、一に吉野の君臣の忠烈、日月と光を争った為であって、足利主従は之に対して逆作用をしたに過ぎないのであります。従って其の吉野の忠烈さびしく消えて、世の中は只足利の一色に塗られた室町時代は、たとえ時間の上では百八十二年、吉野時代の三倍を越えたにしても、是と云ってお話すべき価値のあるものは無いのです

つまり、室町幕府や足利将軍は日本史の継承や発展には全く貢献せず、ただただ歴史を破壊してばかりであり、だから室町時代について特筆するべき価値のある事など微塵も存在しない、という事です。まさに、戦前・戦中の「尊氏=逆賊」史観そのものです。


しかし、吉川の「私本太平記」以降、一般には尊氏が逆賊視される事は少なくなりました。
そして、その「私本太平記」を原作として、平成3年にNHKの大河ドラマで「太平記」が放送され、主人公の尊氏役に、二枚目俳優の真田広之が抜擢されると、尊氏は一躍国民的な英雄として認知されるようになり、新時代を築いた英雄として高く評価されるようになりました。

真田広之(足利尊氏)

勿論、現代でも尊氏は常に高く評価されているというわけではありません。
例えば、吉川英治の弟子で、師の作品である「私本太平記」の執筆も手伝っていた杉本苑子は、平成9年に、尊氏を主人公にした小説「風の群像」を出版しますが、この作品の中での尊氏は、基本的には好漢として、人間味たっぷりに描かれているのですが、尊氏の言動は必ずしも常に絶賛されているわけではありません。
杉本は、『尊氏の大腹中な温情主義は、武士どもを(中略)つけあがらせもした』と断じ、しばしば他者からは尊氏の寛大さや度量の大きさとして評価される部分を、武士の棟梁としてはリーダーシップに欠けていた、どこか頼りない性格として捉えました。
尊氏の“情に溺れる甘さを捨て得なかった”その性格と“統率力に欠けるところ”を、家臣団を制御しきれず、なかなか堅固な政治基盤を形成出来なかった初期の室町幕府の性格と重ね合わせてのでした。

ちなみに、戦前に尊氏を高く評価して激しく非難され、終戦まで隠遁生活を余儀なくされた前出の中島久万吉 元商工務大臣は、戦後は名誉を回復し、日本貿易会を設立して会長を務めるなどして活躍し、昭和35年に死去しました。

現在では、(そういう立場ではない人も勿論いますが)一般的には、南朝、北朝のどちらが正統であったかと論じられる事はほぼ無く、南北朝時代は、ふたつの朝廷が並立していた、という歴史的な事実として受け止められています。
それにしても、時代によってこうも激しく評価が変わるとは、足利尊氏という人物は、本当に奥が深いです。以前の記事でも書きましたが、私自身は、足利尊氏も楠木正成も、どちらも、武将としても一人の人間としても大変魅力的な好漢であったと思っています。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

時代によって千変万化する足利尊氏に対しての評価 (前編)

日本史に登場する人物の中には、平清盛、松永弾正、明智光秀、吉良上野介、徳川綱吉、田沼意次、井伊直弼など、戦前はどちらかというと“悪役”というイメージが強かったものの戦後はそのイメージが徐々に薄まり“時代の先駆者”や“偉大な名君”として評価される事も多くなってきた、という人物が少なからずおり、逆に、和気清麻呂、菅原道真、児島高徳、山中鹿之助、二宮尊徳、高山彦九郎、乃木希典など、戦前・戦中はほとんど誰もが知っている人物であったにも拘らず戦後はすっかり影が薄くなってしまった、という人物も少なくはありません。
昨年3月11日の記事で詳述したように、鎌倉時代末期及び南北朝時代の名将・楠木正成も、時代によって評価が大きく変わる事で知られています。しかし、私が知る限り、時代によってこうも評価が激変するのか、という程、最も評価が二転三転している人物は、何といっても、やはり足利尊氏です。

足利尊氏(浄土寺蔵)

尊氏は、南朝が正統である事が特に強調された戦前・戦中は“朝廷に弓を引いた逆賊”とされ、徹底的に酷評されたものの、戦後は一転して、それまでの皇国史観に対する反動から、また、吉川英治の長編歴史小説「私本太平記」やNHK大河ドラマ「太平記」で主人公として取り上げられた事などから“室町幕府を開いた英雄”として再評価されるようになった、という事は、一般にもそれなりに知られており、確かにそれは間違いではないのですが、実際には、尊氏に対しての評価の変遷はそのように単純なものではありません。もっと複雑です。
今回(前編)と次回の記事(後編)では、尊氏への評価の変遷について、正成への評価の変遷も絡めながら、おおよその時代毎にまとめてみたいと思います。


まず、尊氏と同時代に生きた人達の、尊氏に対する評価をみてみましょう。
尊氏・直義兄弟や、後醍醐天皇など、南北朝の立場を超えて多くの権力者達から熱心な帰依を受けた禅僧・夢窓疎石は、1349年頃に成立したとされる、鎌倉幕府崩壊から室町幕府創成期までが描かれている歴史物語「梅松論」の中で、鎌倉幕府を開いた源頼朝と尊氏を比較し、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」と評する一方で尊氏については、「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と絶賛しています。
更に疎石は、「第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なくお手に取ったまま下される」とし、以上の「三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない有難い将軍であられる」と、談義の度に評したとも記されています。
尊氏は疎石に深く帰依していましたが、疎石もまた、尊氏に対しては深い尊敬の念を抱いていたようです。

しかし、尊氏と同時代に生きた人達の中には、尊氏の事を酷評する人もいました。
例えば、南朝方の代表的な武将の一人である新田義貞は、尊氏の事を強く憎んでいました。尊氏は、関東に於ける管領の勅許を朝廷から得た事を理由に、新田一族が鎌倉幕府を滅ぼした恩賞として拝領した領地を没収し、それを、自分の家臣達や自分に味方してくれた武将達に恩賞として分け与えるなどしたのですが、義貞もその報復として、足利一族の領地を取り上げるなどしたため、祖先を同じくする源氏一門でありながら足利と新田は激しく対立するようになり、そのような折、尊氏が朝廷に義貞追討を上奏したと聞き、ついに義貞の怒りは頂点に達します。
義貞は後醍醐天皇に、「尊氏・直義兄弟は、無能無才で卑しい身分を恥じず、共に高い地位に就いています」「鋭利な剣で切り裂くように、逆臣尊氏・直義兄弟を誅伐すべきとの宣旨をいただきたい」という旨の内容を上奏し、尊氏の事を“無能無才で卑しい身分”と激しく罵っています。

また、南朝の有力な公家でありながら、南朝方の武士を率いて各地を転戦するなど武将としても活躍した北畠親房も、尊氏を「功も無く徳も無き盗人」などと酷評しています。
親房は、武士とは常に天皇や公家に従属すべきもの、という考え方を持っていたため、武家が公家と同等の存在になる事を認めませんでした。親房のその視点に立つと、鎌倉幕府が滅びたのは朝廷の威光と時の運によるものであり、武士の力によるものという認識は誤っており、そうであるにも拘らず、それを自分の手柄と思っている尊氏は「功も無く徳も無き盗人」となるのです。
更に親房は、代表的な著作の一つである「神皇正統記」の中で、尊氏の事を「凶徒」「朝敵」とも記しており、後の「尊氏=逆賊」というイメージはこれが端緒となっているのではないかと云われています。


しかし、その後は、尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていきます。
尊氏が生きていた時代は南北朝動乱の激動期で、尊氏が築いた新政権はまだ安定しておらず、南朝との戦いだけではなく幕府でも内紛が起こるなど尊氏にとっては敵や戦が多い状況でもあったため、そういった当時の状況を反映して、尊氏の事を褒め称える人が多くいる一方で、尊氏の事を厳しく評価する人もまた多くいたわけですが、尊氏の死後暫くして、室町幕府が全国的な統一政権として安定してくるようになると、当然の事ながら、その幕府を創設した尊氏に対しての低評価はほぼ無くなっていったのです。

室町幕府は、3代将軍足利義満の時代を最盛期として、その後は次第に衰退していき、戦国時代になると、幕府は本拠地である山城国一国の維持すら困難な程弱体化しますが、それでも、尊氏が酷評される事はほとんどありませんでした。
室町時代から江戸時代中期頃までは、一般的に北朝が正統と認識されており、その歴史観に立てば、楠木正成を始めとする南朝の武将達のほうが“朝廷に弓を引いた逆賊”であり、尊氏は朝廷(北朝)を支えた勲功第一の忠臣であったからです。
室町時代半ばに、後小松天皇の命により洞院満季が撰進した、皇室の系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、北朝が正統であるという立場が採られており、室町幕府と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、天皇としては認められていません。
ちなみに、戦前・戦中に忠臣の鏡として大絶賛された楠木正成は、後述する水戸藩の「大日本史」で高く評価されるまで、むしろ、大多数の日本人にはほぼ忘れ去られた存在であり、正成の価値は、江戸時代になってから“再発見”されたといえます。

江戸時代に入ってからも当初は、尊氏は優れた武将である、という評価に大きな変化はありませんでした。
徳川家康は、徳川家は南朝方の武将であった新田氏の後裔であると自称しますが、南北朝時代の解釈については、室町幕府の立場を引き継いで北朝を正統としたため、その北朝を建てた尊氏の評価が急に下落するような事は無かったのです。

その評価に大きな変化が生じるようになったきっかけは、時代劇の“黄門様”として広く知られている、第2代水戸藩主の徳川光圀です。
光圀は、有力な徳川一門(御三家)でありながら、徳川将軍家(江戸幕府)とは立場を異にし、あくまでも天皇の権威を基にして、その上で幕府中心の統治を行うべきという立場でした。
幕末期に尊王派の思想形成に大きな影響を及ぼした歴史書「大日本史」は、光圀のその立場から水戸藩が編纂したもので(大義名分論史観から尊皇論が貫かれています)、大日本史の中では、南朝こそが正統であり、南朝と対決した尊氏は天皇に逆らった悪人であると評されました。
更に光圀は、後醍醐天皇のために討ち死にした正成こそが忠臣であると讃え、正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と題する墓碑も立てるなどしました。

そして、江戸時代中期以降になると、大衆レベルでも尊氏や正成に対しての評価が次第に変わっていきます。
1748年に成立し、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として爆発的な人気を博し、現在に至るまで上演され続けている「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」は、よく知られているように赤穂浪士の仇討ち事件を題材としているのですが、当時はそのままでは上演が許可されなかったため、劇中の時代背景を南北朝時代に移していたのですが、その中で、大石内蔵助は大星由良之助という人物に置き換えられました。

仮名手本忠臣蔵

そして、その大星由良之助のモデルになったのが楠木正成であったと云われ、その由良之助に討たれる吉良上野介の役は、尊氏の側近であった高師直が実名で登場しました。これは、尊氏を始めとする北朝側の人物が、当時の大衆にどのように認識されていたかを示す一例として注目されます。
ただこの認識は、当時の一般庶民が必ずしも「南朝が正統であり、その南朝に殉じた正成は忠臣である」という明確な史観を持っていた事を示すものとまでは言い切れず、日本人はその国民性として、敗者に同情したがるという“敗者の美学”とでもいうべき特有の観念があり(例えば、源頼朝よりも頼朝に討たれた弟・義経のほうが昔から人気が高い事や、曽我物語や忠臣蔵などの仇討物語が時代を超えていつの世からも人々から賞賛される事や、幕末期の会津藩白虎隊が悲話として後世に語り継がれる事など)、その観念に基づいて、滅び去った南朝方に同情の念を抱いたという面も多分にあったであろうと推察されます。

しかし、江戸時代中期でも、正成に対する批判は少なからずありました。
例えば、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)は、著書「駿台雑話」の中で、「正成は孔孟の道を学ばず、孫子・呉子の道を学んだから、三国志の諸葛孔明に比べて人物が落ちる」とし、特に湊川で自害する時に弟の正季と共に「七生報国」と言ったのは、「甚(はなは)だ陋(つたな)し」と非難しています。
また、山城国正法寺の僧、釋大我(しゃくたいが)も、「楠石論(なんせきろん)」で正成の死を激しく非難しています。


そして幕末になって、江戸幕府の権威が大きく揺らぎ出し、尊皇攘夷・倒幕の動きが加速化していくと、前出の「大日本史」の影響を強く受けた強烈な尊王主義者達は、尊氏の事を“天皇に叛いて政権を奪った憎むべき逆賊”と評価するようになっていきます。
江戸幕府の威光が強ければ、水戸藩のような例外を除くと、家康と同じく“源氏の長者”として武家政権を築いた尊氏を露骨に貶めるような機運にはまずならなかったのでしょうが、幕府の権威が失墜し、それに反比例して朝廷の権威が増大してくると、江戸幕府と室町幕府という違いはあるものの、幕府を創設した人物である尊氏は尊王主義者達から忌み嫌われる存在になっていき、逆に、“倒幕の先輩”として正成の人気は急速に高まっていったのです。

幕末期の1863年に、足利将軍の木像の首級が京都の三条河原に晒されるという珍妙な事件が起きましたが、これは、尊氏が当時の尊王主義者達から忌み嫌われていた事を端的に象徴する事件といえます。
伊予の神職である三輪田綱一郎ら十数人が、足利将軍家の菩提寺である京都の等持院に入り込んで、等持院に安置されている、尊氏・義詮・義満を象ったとされる足利将軍3代3人の木像の首を斬り取り、「鎌倉以来の逆臣、一々吟味を遂げ、誅戮致すべきの処、この三賊、巨魁たるによりて、先ず其の醜像へ誅を加ふる者なり」と書いた木札を掲げて、河原に晒したのです。
犯人達はいずれも強烈な倒幕・尊王主義者であり、朝廷をないがしろにし、列強に屈する幕府の弱腰を非難し、足利将軍の首を徳川将軍に見立てて晒したとも云われています。

足利三代木像梟首事件

当時、京都所司代、京都町奉行、見廻組、新選組などの京都に於ける各治安維持機関を総括する立場であった京都守護職の松平容保(第9代会津藩主)はこの事件を知って、「足利家は朝廷から征夷大将軍に任命されており、徳川家もまた同じである。足利将軍の木像の首を晒す事は、幕府だけでなく朝廷をも侮辱する行為だ」と激怒し、直ちに犯人の捕縛を命じ、木像の首は寺に返されました。
そして、それまでは倒幕派の者とも地道に話し合っていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を取っていた容保は、この事件を契機に、倒幕派の者と話し合うのはもはや無用と悟り、倒幕派を徹底して弾圧する政策に転換する事になりました。
ちなみに、「鎌倉・室町将軍家総覧」(秋田書店刊)によると、これは像の首が寺に返されてから分かった事なのですが義満の首として晒されたのは、実は第4代将軍義持のものだったそうです。寺僧が間違えて義持の木像を義満の木像の前に並べてしまっていたため、犯人達は義持の木像を義満と思い込んでその首を斬り落としたそうです。但し、義満と義持の首を間違えたというこの話は、私が確認した限りでは「鎌倉・室町将軍家総覧」でしか紹介されておらず、その他の資料・文献には記されていないので、これが事実であったかどうかは、明確ではありません。

こういった、幕末期の、足利氏や尊氏に対しての見方、そして正成に対しての評価は、一般の民衆にも大きな影響を与えたようで、明治3年に日本を視察したグリフィスというアメリカ人がいろいろな日本人に「尊敬する歴史上の人物は誰か」と尋ねたところ、誰もが楠木正成の名を挙げた、という記録が残っています。
正成を賛美するのは戦前の日本の教育のせいである、と言う人がいますが、明治3年といえば義務教育制度施行以前であり、国家権力が自分達に都合の良い正成像を押し付けていたという事はあり得ないので、明治維新が始まって間もない時期から既に、正成の生き方を理想化する考え方が日本の社会に浸透していたものと思われます。

後編に続く)


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

足利氏所縁の飯香岡八幡宮と、小弓公方足利義明の供養塔を参拝してきました

今からほぼ一年前の昨年3月の初め、東京・千葉方面を旅行してきたのですが、その旅行の3日目に、私は、千葉県市原市八幡に鎮座する、国府総社と尊称される飯香岡八幡宮を参拝・見学してきました。

飯香岡八幡宮 鳥居と社号標

飯香岡八幡宮は、かつては六所御影神社と称され、創祀の起源は、白鳳年間(675年)に一国一社の八幡宮として勧請された事とされています。
759年に全国放生の地に鎮座する国府八幡宮と定められ、中世以降は上総総社としての機能を持つようになり、その名残から、国府総社と尊称されています。御祭神は、俗に八幡大神と称される誉田別尊、息長帯姫尊、玉依姫尊などです。
同宮では、私の友人でもある神職(飯香岡八幡宮禰宜)のHさんが、社殿や境内等を丁寧に案内して下さいました。

飯香岡八幡宮 拝殿

上の写真は飯香岡八幡宮の拝殿で、正面は5間、側面は3間あり、屋根は入母屋造りで、正面中央には千鳥破風があり、向拝中央は軒唐破風となっています。この拝殿は、千葉県の有形文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮 本殿

上の写真は、拝殿内から撮影した飯香岡八幡宮本殿(正面)で、拝殿の奥に鎮座するこの立派な本殿は、正面が3間、側面が2間あり、屋根は拝殿と同じく入母屋造りです。
神社の本殿としてはかなり大きな社殿で、小弓公方と称された足利義明が寄進したものと伝わっています。この本殿は、国の重要文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている御神輿

飯香岡八幡宮では、禰宜のHさんの御配慮により、平時は施錠されている同宮の宝物殿内も見学させて頂き、いろいろと貴重な史料や文化財等を拝見する事ができました。
上の写真は同宮の宝物殿に奉案されている、第3代将軍の足利義満が同宮に奉納した4基の御神輿のうちの一基です。室町時代前期の特徴がよく窺える造形で、同宮拝殿と共にこれも千葉県の有形文化財に指定されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている甲冑

上の写真は、飯香岡八幡宮の宝物殿に収蔵されている、紺糸素懸威二枚胴具足(こんいとすがけおどしにまいぐそく)という甲冑です。これは安土桃山時代のものと伝わっており、市原市指定文化財に登録されています。

飯香岡八幡宮宝物殿に収蔵されている大般若経

上の写真は、飯香岡八幡宮の宝物殿に収蔵されている、春日版大般若経(大乗仏教の基礎的教義が書かれている600巻余の膨大な経典)の一部です。
第3代古河公方の足利高基と、その高基の弟に当る前出の足利義明の、家門繁栄を祈願して天文年間(戦国時代)に同宮に奉納されたものです。ちなみに、春日版というのは、奈良の興福寺で印刷された経典という意味らしいです。
やはり飯香岡八幡宮は、歴史的に足利氏と関わりが深いようです。


Hさんは、私が鎌倉公方や古河公方に興味・関心を抱いているのを知って、同宮の境内だけではなく、同宮からは少し離れた所にある小弓公方足利義明夫妻の供養塔へも車で連れて行って下さいました。
この供養塔は、近年になってここに移設されたもので、昔からこの地にあった訳ではありませんが、足利義明夫妻の墓石と伝わる、文化財・史跡としても価値が高いとされる五輪塔です。

小弓公方足利義明夫妻の供養塔_01

小弓公方足利義明夫妻の供養塔_02

ちなみに、足利義明は、初代将軍・足利尊氏の四男で初代の鎌倉公方(関東公方)とされる足利基氏からは6代後の子孫に当たり、また、幕府(第6代将軍足利義教)と関東管領(上杉憲実)に追討されて自害した第4代鎌倉公方の足利持氏からは曾孫に当たり、その持氏の子で古河公方の初代となった足利成氏からは孫に当たります。
義明自身は北条氏綱との戦い(第一次国府台合戦)で戦死していますが、その子孫は後に喜連川氏となり、江戸時代になってからも喜連川藩として存続し、明治時代になってから足利に復姓し、華族となりました(当主は子爵に叙されました)。

つまり、喜連川氏から復姓した足利家は、足利を名乗ってはいても、足利将軍家(幕府を創設した足利尊氏の嫡男として2代将軍の地位に就いた足利義詮の血統)の子孫ではなく、関東で鎌倉公方や古河公方となってその足利将軍家とは長い間対立関係にあった関東公方足利家(足利尊氏の四男・足利基氏の血統)の子孫に当たるという事です。

飯香岡八幡宮 拝殿前

小弓公方足利義明夫妻の供養塔をお参りした後は、再び飯香岡八幡宮に戻り、最後に拝殿前でHさんと一緒に写真を撮らせて頂きました。上の写真の右がHさんで、左が私です。
Hさん、御多忙のところ社殿や境内等を丁寧に案内して下さり、また、小弓公方足利義明夫妻の供養塔へも車で連れて行って下さり、どうもありがとうございました!


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする神社

3年程前に鎌倉を旅行した際、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王を御祭神としてお祀りする鎌倉宮を参拝・見学してきたのですが、その時に同宮の授与所で受けてきたのが、この冊子「建武中興六七〇年記念 南朝関係十五神社巡拝案内記 -附・十五社御朱印帳-」です。奥付によると、発行は平成15年12月15日です。

南朝関係十五神社巡拝案内記

巻尾の御朱印帳も含めて全84ページ(そのうち各神社の紹介ページはカラー)の冊子で、以下は、この冊子の冒頭にある「はじめに」のページに記されている、建武中興十五社会の会長挨拶です。これを読むと、この冊子の発行された趣旨がおおよそ分かります。

後醍醐天皇を御祭神とする吉野神宮をはじめ、建武中興関係の十五神社が相諮(あいはか)り、建武中興の精神を体して、わが国体の発揚に尽瘁(じんすい)することを目的として、平成四年に「建武中興十五社会」が結成された。当会では、明年三月十三日を以って、建武改元の日から数えて六七〇年を迎えることから、建武中興の偉業を偲び、その意義を改めて想い起こすと共に、これの宣揚を図るため、祭典及び事業を行うこととなった。
「建武中興」、その言葉は、戦後教育制度の偏向によってか、今日では教科書からも消え、「建武の新政」に言い替えられたようである。
「建武中興」とは、第九十六代後醍醐天皇が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を皇祖とする天皇を中心として形成する国家、「神国」の本義をふまえ、延喜・天暦の御代にならって、天皇親政の理想国家を実現されようとした功業(こうぎょう)である。単に後醍醐天皇が新しい政治改革をされたというだけではない。
しかし、後醍醐天皇により一旦はなった建武中興も、足利尊氏の謀反により中断の已むなきに至るが、その度同天皇の崩御の後も、御遺志を継がれた天皇、皇子達を中心に、幾多の忠臣義士が、その国家中興の理想実現のため、一族一門を投げうって幕府政治と闘った。その歴史には、まことに尊いものがある。そして多くの苦難と犠牲を伴い、ようやく五百余年の歳月を経て、明治維新を迎え、王政復古となったのである。明治天皇の鴻業(こうぎょう)が、近代日本国家建設の重要な基盤となったことを想うとき、建武中興の深くて尊い意義を思わずにはおれないのである。
戦後わが国の姿は一変した。教育の荒廃は日本人の心まで変えた。翻って国の肇(はじ)めに立ち返り、わが国体の本義を深く認識すべきである。
こんな秋(とき)において、建武中興六七〇年という節目を迎えた。建武中興の偉業を偲び、一人でも多くの人に、本誌を手に十五社を御参拝願い、朱印を受けられつつ、御神徳にふれて戴きたいと願う次第である。
(後略)
平成十五年十二月
建武中興十五社会 会長 寺井種伯


建武中興(建武の新政)から丁度670年経つ事を記念して、後醍醐天皇を始めとする南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする、特に南朝に所縁の深い神社15社が集まって「建武中興十五社会」を結成し、その記念事業として、また、建武中興の啓発事業として、祭典や各種の事業(その事業のひとつにこの冊子の発行も含まれていたのでしょう)を行なうという事らしいです。
なお、その15社とは、北は福島県から南は熊本県に至る、以下の各神社です。

① 吉野神宮
主神 … 後醍醐天皇
旧社格 … 官幣大社
鎮座地 … 奈良県吉野郡吉野町吉野山3226

② 鎌倉宮(大塔の宮)
主神 … 大塔宮 護良親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 神奈川県鎌倉市二階堂154

③ 井伊谷宮(新宮さん)
主神 … 宗良親王(一品中務卿宗良親王)
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 静岡県引佐郡引佐町井伊谷1991-1

④ 八代宮(将軍さん)
主神 … 懐良親王
配祀 … 良成親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 熊本県八代市松江城町7-34

⑤ 金崎宮(親王さん)
主神 … 尊良親王、恒良親王
旧社格 … 官幣中社
鎮座地 … 福井県敦賀市金ケ崎町1-1

⑥ 小御門神社(文貞公)
主神 … 贈太政大臣 藤原師賢公(文貞公)
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 千葉県香取郡下総町名古屋898

⑦ 菊池神社(新宮さん)
主神 … 贈従一位 菊池武時公、贈従三位 菊池武重公、贈従三位 菊池武光公
配祀 … 贈従三位菊池武政命 以下二十六柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 熊本県菊池市大字隈府1257

⑧ 湊川神社(楠公さん)
主神 … 楠木正成公(大楠公)
配祀 … 楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿
摂社 … 甘南備神社御祭神(大楠公夫人)
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 兵庫県神戸市中央区多門通3-1-1

⑨ 名和神社
主神 … 伯耆守従一位 源朝臣名和長年公
配祀 … 御一族以下四十二柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 鳥取県西伯郡名和町名和556

⑩ 阿部野神社(阿部野さん)
主神 … 北畠親房公、北畠顕家公
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 大阪市阿倍野区北畠3-7-20

⑪ 藤島神社(藤島さん)
主神 … 新田義貞公
配祀 … 新田義宗卿、脇屋義助卿、新田義顕卿、新田義興卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 福井県福井市毛矢3-8-21

⑫ 結城神社(結城さん)
主神 … 結城宗広卿
配祀 … 結城親光朝臣一族殉難将士
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 三重県津市大字藤方2341

⑬ 靈山神社(官幣社)
主神 … 大納言 北畠親房卿、陸奥大介・鎮守府大将軍 北畠顕家卿、陸奥介・鎮守府将軍 北畠顕信卿、陸奥國司 北畠守親卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 福島県伊達郡霊山町大石字古屋舘1

⑭ 四條畷神社(小楠公さん)
主神 … 楠木正行卿
配祀 … 楠正時朝臣以下二十四柱
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 大阪府四條畷市南野2-18-1

⑮ 北畠神社(国司さん)
主神 … 北畠顕能卿
配祀 … 北畠親房卿、北畠顕家卿
旧社格 … 別格官幣社
鎮座地 … 三重県一志郡美杉村上多気1148


実際には、上記の15社以外にも、南朝の天皇・皇族・武将をお祀りしている神社はあるので、この15社が南朝に所縁のある神社全てというわけではありませんが、この15社が、特に代表的な南朝系の神社である事は確かです。15社共、旧社格はいずれも官幣社ですし。

ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村
プロフィール
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ