この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

天下分け目の合戦の舞台ともなった、東寺の不開門(あかずのもん)

先週、私は2泊3日で大阪・京都方面を旅行して来たのですが、その旅行の2日目、お昼過ぎ頃に、東寺真言宗総本山 教王護国寺を参拝・見学してきました。
ここは、平安時代初期の創建時から東寺(とうじ)の名で広く知られている、真言宗開祖の空海(弘法大師)が創建した名刹で(現在は教王護国寺が正式名称ですが、歴史的にはむしろ東寺のほうが公式名として定着していました)、真言宗の根本道場、国宝・重文など多数の貴重な文化財を所蔵する古刹、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されているお寺、京都のランドマークのひとつにもなっている日本一の高さ(54.8m)を誇る五重塔、21体の彫像により講堂内に構成される立体曼荼羅、京都観光や修学旅行の定番スポットのひとつ、などとしても有名なお寺です。

東寺の五重塔

私自身は、新幹線を利用して京都を訪れる事はほとんどありませんが、山陽・九州方面から新幹線を使って上洛する場合、京都駅に着く直前に車窓から東寺の壮麗な五重塔を見る事が出来るので、東寺(特に五重塔)を見ると、京都に帰って来た事、京都へ出張に来た事、京都に遊びに来た事などを実感するという人は、きっと多くおられるのではないかと思います。

私としても個人的に、東寺は以前から特に好きなお寺のひとつであり、過去にも何度か参拝・見学をしているのですが、ただ、前回私が東寺を訪ねてからもう十年は経っているので、今回は、懐かしくも少し新鮮な気持ちで東寺の境内を歩いてきました。
私は、東寺の中では講堂内の立体曼陀羅が最も好きで、勿論今回も見学してきましたが(講堂内は写真撮影禁止だったので残念ながら写真はありません)、このブログの性格から、今日の記事では、東寺の中では一般にはあまり注目される機会の少ない「東大門」を紹介させて頂きます。

東寺の東大門

鎌倉時代に建てられたと伝わる、東寺東側の大宮通に面しているこの東大門は、不開門(あかずのもん)とも称されており、その由来は、下の写真の看板で解説されている通りです。

東寺の東大門解説

以下の鉤括弧内(緑文字)は、東寺塔頭・宝菩提院住職の三浦俊良氏が著した「東寺の謎」(祥伝社黄金文庫)に掲載されている文章で、東大門が不開門と称されるようになった由来が更に詳しく解説されています。門前で起こった“天下分け目の合戦”についても、その前後の状況も含めて詳しく解説されており、とても参考になるので、少し長文になりますが以下に転載致します。


湊川の合戦で楠木軍が破れたという報せをきいて、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。
足利尊氏は都にはいると光厳上皇を迎え、弟の豊仁親王を擁立した。光明天皇である。
六月五日、尊氏はさらに兵をすすめ一挙に比叡山に向かった。弟直義は比叡山の寺町である西坂本に陣をおいた。対して比叡山を守備していた宮方の軍は新田義貞を総指揮官として、比叡山の僧兵も加わり足利軍と対峙した。

六月十四日、足利尊氏は光厳上皇を奉じて東寺にはいった。足利家の紋、丸に二引両の旗が、東寺の境内にたなびいた。東寺が総本陣となる。光厳上皇の御所は西院小子房、尊氏は千手観音菩薩が安置されている食堂に身をおいた。
(中略)
東寺は都城となった。四方を囲む築地の大土塀は城壁であった。境内には馬がつながれ、鎧姿の数千の軍兵であふれていた。北東に見える比叡山には、後醍醐天皇の本陣がおかれている。対峙するように東寺に足利尊氏は本陣をおいた。
(中略)
いま東寺は北朝の光明天皇の御所となり、比叡山は南朝の後醍醐天皇の御所となっていた。

六月十九日、新田義貞ひきいる宮方が反撃にでた。
六月二十日、足利軍が攻撃にでた。だが各所で敗退してしまう。やはり比叡山という山を味方につけた宮方が有利だった。山攻めは不利と見た足利尊氏は、体勢を整えて市街戦に勝敗をかけた。
六月三十日。この日、新田義貞は総攻撃をしかける。都の周囲、糺ノ森、賀茂川、桂川の西で両軍の激しい戦闘がおきた。
市街戦は東寺の北方でも勃発した。相ゆずらぬ攻防が繰り広げられた。東寺からも鬨の声にあわせて、武者の諸声が聞こえたことであろう。
新田義貞がめざすは足利尊氏がいる東寺であった。強靭な肉体に鎧をまとった二万の騎馬武者が、大宮通を東寺に向かった。名和長年ひきいる軍も猪熊通を東寺に向かってひた走った。

本陣、危うし。迎え討つ足利軍は東寺の門を開け、出撃していった。だが新田軍、名和軍ほか宮方勢は破竹の勢いで足利軍に迫った。東寺近くの六条大宮付近で両軍の激しい衝突がおこり、敵味方がみだれての攻防戦がつづいた。戦局は宮方勢にかたむきかけていた。
足利軍は苦戦をしいられた。退却するほかなかった。新田、名和軍に追われるようにして痛手をおった足利軍の武者たちが、ぞくぞくと東大門から境内になだれこんできた。
最後のひとりが境内に足を踏みいれたとき東大門は閉ざされた。その戸をめがけて、なんすじもの矢が打ちこまれた。それほどにあやうい瞬間であった。

約二万の新田、名和軍は東寺を取り囲んだ。そして宮方の総指揮官、新田義貞が門前から足利尊氏に一騎打ちを挑んだ。しかし、東大門は閉じられたまま、開くことはなかった。以来、この門を「不開門」(あけずのもん)という。
いまも不開門に残る、なんすじもの矢の痕が、このときの戦闘の凄まじさを物語っている。

さて戦局は一転して足利軍が有利となる。各所で市街戦を繰り広げていた足利勢が大挙して東寺をとり囲む宮方勢に攻めいり、ついに名和長年が討ち死にする。宮方勢は退却をよぎなくされた。
この戦いをもって両軍の明暗ははっきりとする。七月、八月と宮方勢の反撃がおこなわれるが、ことごとく失敗におわる。のちに東寺をめぐっておこなわれた戦闘が「天下分け目の合戦」といわれるゆえんである。
(中略)
天下分け目の合戦を制した足利軍が、つぎの世をとることになる。


下の絵図は、埼玉県立歴史と民俗の博物館が所蔵している「東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞」の図です。尊氏が本陣を構えた東寺(右・手前側)には、足利家の紋が入った幕や幟が棚引いております。
ここで義貞は東寺に矢文を放って尊氏に一騎打ちを呼び掛け、その挑発に対して尊氏はいきり立って「望むところだ」と腰をあげるものの、近臣から諌められて誘いに乗らなかった、とも伝えられています。

東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞

後に、室町幕府最後の将軍・足利義昭を伴って上洛した織田信長も、尊氏の先例に倣って東寺に本陣を置きました。
ちなみに、昨年3月11日の記事の後段でも紹介しましたが、東寺では平成20年に、尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要を厳修しています。


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足利尊氏・後醍醐天皇・楠木正成の、子供向け伝記コミック

先日、ポプラ社から刊行されている「コミック版 日本の歴史」シリーズの、室町人物伝の3冊「足利尊氏」「後醍醐天皇」「楠木正成」を読みました。いずれも、小学校中学年から高学年向けの内容と思われる平易な内容のマンガ(児童書)で、とても読みやすかったです。
ただ、正成が湊川の戦いに敗れて自刃したのは室町幕府が成立する以前なので、「楠木正成」も、室町人物伝と銘打ったシリーズに含まれているのはちょっと微妙な気もしましたが(笑)。

コミック室町人物殿

これらの3冊に共通しているのは、そもそも児童書であるのでこれは仕方が無い事ではあるのですが、鎌倉幕府からの人心の離反、赤坂城や千早城での正成の活躍、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇による建武の新政、建武政権からの尊氏の離反、湊川の戦い、室町幕府の成立などの主要なエピソードは当然描かれているもののそれ以外のエピソードはかなり省略されており(例えば、尊氏と護良親王の対立、桜井の別れ、足利直義と高師直の対立、観応の擾乱などは、全く、もしくはほとんど、触れられていません)、そのため、どうしてもダイジェスト版のような内容になってしまっている感は拒めません。
当時の時代背景や3人各々の伝記について、それ以上詳しく知りたいお子さんは、更に別の書籍等も併せて読んで自分で勉強してネ、という事なのでしょう(笑)。


コミック「足利尊氏」に於ける、主人公の尊氏は、圧政を敷く鎌倉幕府を倒して新たに室町幕府を創設した英傑、南北朝時代の英雄にして最大の権力者、などとしてではなく、あくまでも、気弱で優柔不断で決断力にも欠ける、どことなく頼りない武将として描かれており、私としてはむしろ、ヒーロー然とはしていないその実直な描き方に好感が持てました。
尊氏は決して、信長・秀吉・家康のように自ら積極的に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではないですし、頼朝のように常に猜疑心を抱いている孤高な独裁者タイプの武将でもなく、私が抱く尊氏像は、元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある“おぼっちゃん”ではあるけれど、その割には傲慢な所や私利私欲は全く無く、育ちがいいだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容で、はっきり言ってあまり英雄らしくはないけれど、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確かに持っている、というイメージです。
尊氏が、何度も窮地に陥りながらも常にそれを脱し、武士達から圧倒的な支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府や建武政権による失政の受け皿となった、という点だけではなく、やはり尊氏個人の人望による所が少なくはなかったのではないか、と私は思っています。

コミック「後醍醐天皇」に於ける、主人公の後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも傑出してカリスマに満ち、且つ聡明で、「延喜・天暦」の時代を模範として高く遠大な理想を掲げていた天皇として描かれていましたが、その信念は余りにも一途で強固過ぎ、後醍醐天皇の目指す天皇親政・律令国家再興という理念と、延喜・天暦の頃とは違い時代を動かす主勢力はもはや朝廷や公家ではなく武家に移行しているという現実との乖離も描かれており、この作品「後醍醐天皇」もなかなか興味深かったです。
作中の後醍醐天皇は、窮地に陥ってもほとんど弱音をはく事はなく、安易に妥協する事もない、とても凛々しく力強い天皇として描かれておりました。そもそも、「朕が新儀は未来の先例たるべし」「玉骨はたとひ南山の苔に埋ずむるとも魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と仰せられる程の凛とした後醍醐天皇に弱々しいイメージは皆無なので、作中の後醍醐天皇は、恐らく大多数の人が思い描くイメージ通りの後醍醐天皇であったと思います。
京都から吉野へと遷って以降のエピソードとしては、実子である恒良親王の薨去を母親として悲しむ阿野廉子を咎めたり、それに対して「主上は血を分けた自分の御子がかわいくはないのですか…」と問い返す廉子に、一人の父親としてではなくあくまでも公人としての立場から「嘆き悲しむ帝に民がついてくると思うてか?朕は帝ぞ!」と言い放たれたりする様なども描かれておりました。

コミック「楠木正成」に於ける、主人公の楠木正成は、よく強調される朝廷・後醍醐天皇への一途な忠誠心についてだけではなく、相応の財力と共に、戦いに於いては臨機応変な兵員動員力にも富み、特に奇計・謀計を主としたゲリラ戦(籠城戦)を得意としていた事などが具体的に描かれており、この作品も面白かったです。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての激動期に忽然と現れて、その持てる智力・胆力・人徳を背景に、武将として天才的ともいえる能力を発揮した正成は、やはりカッコイイです。
それにしても、この作品を読み終えて改めて思ったのですが、朝廷内に正成の良き理解者となってくれる人物がほとんどいなかった事が、正成にとっての何よりの不幸だったのかもしれませんね…。


というわけで、私としても3冊とも、お子様に読ませるにはオススメの歴史(伝記)マンガです!


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阿部野神社と北畠親房・北畠顕家

先週、1泊2日で、大阪・堺方面を旅行して来た際、大阪市阿倍野区北畠の閑静な住宅街の一画に鎮座する阿部野神社を参拝・見学してきました。
この神社は、南北朝時代に南朝の有力な公卿・武将として活躍をした北畠親房(きたばたけちかふさ)と、その子の顕家(あきいえ)の二柱を御祭神としてお祀りする神社で、南北朝時代に強い関心を抱いている私としては、以前から一度訪れてみたい神社のうちの一社でした。

ちなみに同神社は、今年1月20日の記事で詳しく紹介した、建武の新政に尽力した天皇・皇子・公家・武将等をお祀りする神社によって平成4年に結成された「建武中興十五社会」に所属しており、また、それとは別に、近畿を中心とした121の社寺により平成20年に結成された「神仏霊場会」(その後151の社寺に拡大)にも所属しています。

以下の写真4枚は、いずれも私が今回の参拝・見学の際に撮影してきた、阿部野神社の境内と社殿の様子です。
職員が沢山いるような雰囲気の神社ではありませんでしたが、その割には境内の掃除は行き届いており、全体的に綺麗に整備されている神社でした。

阿部野神社_01

阿部野神社_02

阿部野神社_03

阿部野神社_04


以下の鉤括弧内(緑文字)は、阿部野神社で頂いてきた、同神社の由緒略記に書かれている「御祭神の由緒」です。北畠親房・顕家親子の経歴や功績などがまとめられています。

北畠親房公は、第六十二代村上天皇の皇子、具平親王の子息である師房が源の姓を賜ったことに始まる村上源氏の血筋を引く方でございます。
親房公は、当時の学識の高い貴族である吉田定房・万手小路宣房と並び「後の三房」と称された一人です。
また後醍醐天皇の皇子である世良親王の養育係を仰せつかったことからも、殊に天皇のご信任が厚かったといわれております。
建武の新政下では、鎮守府将軍となった御長子の顕家公と共に義良親王を奉じて奥州へ下向されます。その後、足利尊氏謀叛による二度目の京都攻めのため、後醍醐天皇が吉野御潜幸をされると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは陸奥において、京都回復に尽力されました。
後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論の一つである「神皇正統記」を著し、それ以外にも「職原抄」・「二十一社記」などを著して官職の本義や神社の意義を明らかにされました。
厳しい戦況下にあって親房公は、我が国の歴史と伝統を明らかにして、大義を説き、道義を教えた数多くの著述は、後世の人々に深い感動を与え、日本思想史上に大きな足跡を残しました。
興国四年(一三四三)、親房公は吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、一度は京都を回復しましたが、再び京都を脱出して賀名生にうつられました。その後も国家中興に挺身されましたが、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられました。御年六十二歳でした。

北畠顕家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三三三)八月、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、同十月、父親房公と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、陸奥はたちまちにその威風に靡きました。
延元元年(一三三六)、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功いたします。この功績により顕家公は鎮守府大将軍の号を賜ることになり、再び奥州に戻られました。
しかし、勢力を盛り返した尊氏が、兵庫の湊川で楠木正成公を破って京都を占領し、後醍醐天皇が吉野に御潜幸されると、延元三年(一三三八)京都回復のため精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し、鎌倉を落としたあと、美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いにおいては北朝方を破りましたが、同年三月十六日、摂津での戦いに惜しくも敗れられてしまい、顕家公は一時撤退を余儀なくされ、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠りました。
やがて五月十六日、賊将高師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、顕家公率いる官軍は進撃して、数刻にわたり激戦を繰りかえしました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げる結果となってしまったのです。御年二十一歳でございました。

また、顕家公は戦死される一週間前に、後醍醐天皇へ「上奏文」を送っておられます。その内容は
一 地方機関を通じて非常時に備えること
一 諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること
一 官爵登用を重んじること
一 公卿や僧侶の朝恩を定めること
一 臨時の行幸及び宴飲をやめること
一 法令を厳にすべきこと
一 政道に益無き愚直の輩を除くこと
の七箇条から成ります。
この「上奏文」は、顕家公の卓越した政治理念を知ることのできる資料として今日に至るまで高く評価されております。


北畠親房といえば、「大日本ハ神国ナリ」という言葉で始まる、親房の代表的な著書である神皇正統記をまず連想する方も多いのではないかと思いますが、この「御祭神の由緒」の中でも、やはり神皇正統記について触れられています。あくまでも“触れられている”というだけで、特に詳しい解説はありませんが。
江戸時代になってから水戸学と結びついた神皇正統記は、明治以降の皇国史観にも強い影響を与えており、その件についてはいずれこのブログでも、改めて詳しく取り上げてみたいと思っております。

そして、この「御祭神の由緒」を一読して、私が「やはりな」と思ったのは、楠木正成に対しては「公」という敬称が付けられ「楠木正成公」と称しているのに対して、高師直に対しては、わざわざ名前の前に「賊将」という言葉を付けた上で「賊将高師直」と呼び捨てにしている事です。このあたりは、当然の事ながら、この神社はやはり南朝史観の立場に立っているのだなという事を実感させられます。
ただ、その割には「建武の中興」ではなく「建武の新政」と書いていたり、また、高師直が賊将であるならその親玉である足利尊氏も当然賊将になるわけですが、尊氏に対しては、謀反を起こした、という程度の説明しかなく、特に必要以上に貶めるような記述は無いので、南朝の公卿・武将をお祀りする神社としての公の立場は堅持しつつも、意外と冷静な態度をとっているのかなとも感じました(あくまでも私が勝手にそう感じただけです)。


ところで、どうしてこの地に北畠父子をお祀りする神社が創建されたのかというと、それは、当地が北畠顕家が足利軍と戦った古戦場の近くであり、その近隣(現在の阿部野神社の御旅所)には顕家のお墓として伝えられている墓碑があった事に由来します。
顕家の墓所の存在がきっかけとなって、明治11年2月、近隣住民より、顕家をお祀りする神社を創建しようという運動が起こり、当時の政府もこれを受けて明治14年1月、御祭神を北畠顕家とその父である親房の両神とする事を決定したのです。
下の画像は、その顕家の肖像画です。いかにも“武装した青年公卿”という感じの、なかなか優雅な出で立ちです。

北畠顕家

つまり、阿部野神社の御祭神の序列としてはまず父親である北畠親房、次いで息子の北畠顕家、という順なのですが、神社創建のきっかけとなったのは親房ではなく顕家の故事であり、親房は、顕家の父親であった事から結果的に一緒にお祀りされる事になった、といえます。
こういった経緯を経て、明治15年1月24日、同神社は阿部野神社と号して別格官幣社に列せられ、同18年5月28日に創立され、同23年3月31日に鎮座祭が斎行されました。ちなみに、平成2年には、神社の御鎮座百年祭が行われました。

社殿は、昭和20年3月の空襲で一旦焼失しましたが、その後再建され、現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。
春季大祭は顕家の忌日に当たる5月22日、秋季大祭は親房の忌日に当たる10月18日で、現在、同神社の両御祭神は、勇気の神、知恵の神、学問の神として多くの崇敬を集めています。
下の写真は、阿部野神社の境内に立てられている「北畠顕家公像」と、その像の台座脇に立つ、顕家を称える歌詞の看板です。ちなみに、私が見た限り、境内に親房の像は無いようでした。

阿部野神社_05

阿部野神社_06


ところで、平成3年に放送されたNHK大河ドラマ「太平記」では、北畠親房役を近藤正臣さんが、顕家役を後藤久美子さんが演じていました。
顕家は美少年であったと云われている事から、当時“国民的美少女”と持て囃されていた女性アイドルの後藤久美子さんが顕家役に抜擢されたようですが、男性の役を女性が演じるというこのキャスティングには、私は昔も今も疑問を感じています。

北畠親房・顕家(大河ドラマ太平記)

何年か前、たまたまテレビで見たバラエティ番組の中で、昭和53年から55年にかけて放送された、堺正章さん主演のテレビドラマ「西遊記」の事が話題になっていたのですが、その番組の中である芸人さんが、三蔵法師は本当に美しい女性だ、あのドラマを見ていた当時の自分は三蔵法師に惚れていた、といった内容の発言をし、周りの芸人さん達から、「いや、本当の三蔵法師は男だから!」と突っ込まれて、その芸人さんが「えぇっ!そうだったの!」と驚くシーンがありました。ドラマの中では三蔵法師の役は女優の夏目雅子さんが演じていたため、実在もしくは原作に登場する三蔵法師も女性なのであろうとずっと誤解をしていたようでした。
こういった無用な誤解を招く事もありますし、誤解まではしなくても元の人物に対してイメージがかなり改変されてしまう(無意識のうちに勝手に中性的な人物だったのだろうと思い込んでしまう)事もあるので、宝塚歌劇のような例外を除くと、元の人物とその人物を演じる役者の性別はやはり一致させるべきだと思います。


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今年の“読書の秋”に私が読んでみようと思っている本

今月は、公私共々いろいろと忙しかったのですが、その忙しさも概ね一段落してきたので、買ってはいたもののまだ未読に近かった書籍などを、これから集中的に読書していきたいなと思っています。

読書の秋

上の写真は、これから私が読んでみようと思っている室町幕府・足利将軍家関係の3冊ですが、どちらかというとこれらの本は、最初から順番にじっくり読んでいく、というよりは、分からない事や調べたい事が発生した時に、目次や索引のページなどからその項目を調べていく、というように辞書に近い形で使うのが現実的かなという気もするのですが、あえて最初からじっくり読んでいくのも面白いかなと。物凄く時間はかかりそうですけどね(笑)。

「鎌倉・室町将軍家総覧」(平成元年発行)は、何年か前に東京を旅行した際に、古書街として知られる神田神保町の古書店で購入しました。徳川将軍家についての本は巷に溢れており特に珍しくもありませんが(そもそも大抵の人は単に将軍家と聞くと、まず徳川家を連想するでしょうね)、鎌倉幕府や室町幕府の将軍家についての本というのは書店ではほとんど見かける事が無いので、「これは即買いだな!」と思って買いました。
「足利将軍列伝」(昭和50年発行)は、昨年か一昨年、ネットで購入した古書です。そのタイトル通り、歴代足利将軍についての本で、これもかなり珍しい本だと思います。

「室町時代人物事典」は、つい最近、普通に大型書店で買ってきた新刊です。この本は今年刊行されたばかりの本なので、入手は容易です。
第1章 天皇家・足利家、 第2章 三管四職家、 第3章 東北地方の氏族、 第4章 関東地方の氏族、 第5章 中部地方の氏族、 第6章 近畿地方の氏族、 第7章 中国・四国地方の氏族、 第8章 九州地方の氏族、 第9章 公家、 第10章 女性・僧侶・文化人など、の全10章から成っています。


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等持院発行の冊子と、建武中興十五社会発行の冊子を読み比べる

先月28日の記事今月4日の記事では、足利将軍家の菩提寺である京都の等持院を取り上げましたが、その等持院でかつて頒布していた冊子(私がその冊子を入手したのは今から10年程前に等持院を参拝した時の事なので、現在も等持院でそれを頒布しているかどうかは分かりません)に、足利尊氏についての詳しい解説が載っていました。

等持院

今改めて読み返してみると、いかにも等持院らしいなと思える、なかなか興味深い内容の解説だったので、以下にその文章をそのまま転載致します。


足利尊氏

仁山妙義という法名で祀られた足利尊氏は、先にも述べたように、決して武断一辺の武人ではなかった。その法名からでも衣笠の山容が連想されるほど、尊氏という人は豊かな人間味の満ち溢れた温情家であった。

延元一年(建武三年、一三三六)五月二五日に、新田義貞の大軍を兵庫に撃破し、義貞敗退のあとに小勢を以て踏みとどまった楠木正成が湊川に討死にをされた時も、ただ一すじに後醍醐天皇のご安泰を願って行動をつづけていた正成の真情に、いたく同情して、その首級の供養堂に五〇町の寺領をそえているばかりでなく、天龍寺所蔵の光厳上皇宛のお伺い書にも、正成を直接取り囲んで窮地に逐いこんだ美濃・播磨の党には、希望どおりの恩賞を与えることを差控え、これらの者が義貞討伐に功をたてた上で改めて賞賜の沙汰をいたしたいと記しているほどである。

その年の八月一五日に清水寺の観世音の宝前に捧げられた願文には、世のはかなさを述べて、尊氏自身に仏心を起こさせるようにと観世音の済度を哀願し、一刻も早く世のわずらわしさから抜け出したいと念じて、現世の果報よりも後世の安隠に、ひたすら祈願をこめる旨が美しい筆蹟で記されている。

かって、元弘三年(正慶二年、一三三三)五月、足利高氏(尊氏)が京都六波羅の北条勢を攻め、新田義貞が鎌倉を陥れたにもかかわらず、建武中興の後、またまた鎌倉に北条氏の残党が活発な動きを見せだした時、尊氏は後醍醐天皇の勅許をまたずに征東将軍と称して関東へ下った。建武二年(一三三五)八月二日のことである。尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである。殊に、武蔵・相模・伊豆は尊氏が朝廷から与えられた知行国であり、八月九日には、おくればせながら尊氏を征東将軍に補任する旨が発令されたのであるから、決して、尊氏自身が叛逆の意図をもって鎌倉へ向かったと非難することはできない。つまり、義貞の鎌倉征めの不手ぎわを後始末をつけに行かれたと見るべきである。

しかし、この尊氏の行動は、却って義貞の思うつぼに陥ることとなった。尊氏が鎌倉におちつき、北条の再起を抑え関東の平穏を願って奥羽を警戒されたことが、義貞をして尊氏を謀叛心ありと言わせる口実となった。

尊氏は、義貞や公家たちが王朝政権を掌握することをあやぶんで、幕府の再編を図ることを良策とされたが、新田・足利両氏共に源氏の正統であり、将軍職に就いて政権を樹立する資格を持っていただけに、義貞・尊氏の対立は、ここに至って一そう激しさを加えた。かくて義貞は、尊氏朝敵なりと強張した。

楠木正成は、ひたすら天皇のご安泰を祈って行動された人であるから、王朝勢力を背景にしようとした義貞側にあると言えるわけではあるが、尊氏の考え方にも大いに同調して、義貞らの確信の持てない政治よりは、むしろ尊氏の幕府政治の方が、天皇はご安泰であるとさえ考えておられた。

北条氏の失政を憎まれて討幕を企図された後醍醐天皇にお味方した義貞も、源氏の名門として天下を握ろうと念願していたことは事実である。しかし、尊氏ほどの政治力がなかった。

そこで、楠木正成が朝廷の軍議で、尊氏との和睦を主張されたという梅松論の所伝も、正成が、鎌倉時代のような朝幕関係に立ち戻ることの賢明さを、よくわきまえておられたことを明らかにしていると言える。

延元一年(建武三年、一三三六)二月一一日に、尊氏の大軍が京都の戦いに敗れて九州に走った時も、正成は摂津の西宮まで追いながらも、夜には兵をまとめて京都に引きあげ、その後も、勝利に酔いしれている公家たちの振舞いを快しとせず、後醍醐天皇に対して、義貞を討って尊氏を召し返し、尊氏と和睦されるのが何よりの得策と考えるから、その使者は自分がお引受け申したいと献言し、更に、朝権回復ができたのは尊氏の功績によるところで、義貞が鎌倉を攻めおとしたとは言っても、その後の天下の武士が尊氏に伏しなびき心服していることを見ると、尊氏は武力ばかりでなく人徳によって敵を随従させる人である。つまり、尊氏は戦争と政治とを併せ行っている。それに反して、義貞にはその徳がない。義貞につき従うべき軍勢すなわち尊氏に降って官軍に参加した京都の武士までが、尊氏について九州へ走っている。これを思えば、尊氏がやがて九州の大軍をまとめて京都に征め上ることは明らかなことである―と、時の情勢を見通し、人心の動きを見抜いた意見を述べられたのである。

源氏の主流でありながら、尊氏に政権掌握の機先を制せられたと考えて、巧みに尊氏を朝敵に仕立て、独り尊王家をよそおっていた義貞が、正成を低い旗頭程度に扱って、湊川の死地に陥れたことを、尊氏が天下国家のために大いに憤慨されたのは当然である。それが、光厳上皇へのお伺い書でも感じ取れる。

後に正成の子の正儀が、足利方の細川頼之らと工作して南北朝の合体を実現し、正成・尊氏の霊に報いたのである。


足利将軍家の菩提寺であり境内に尊氏のお墓もある等持院の立場からすると当然の事なのでしょうが、やはりこの冊子では、尊氏の事はかなり高く評価されています。冒頭から「決して武断一辺の武人ではなかった。その法名からでも衣笠の山容が連想されるほど、尊氏という人は豊かな人間味の満ち溢れた温情家であった」と惜しみない賛辞を贈っている事からも、それは明らかです。
私自身も尊氏の事は高く評価しているので、その姿勢には特に異論は無いのですが、ただ、どうもやや過剰に高く評価し過ぎているような気もします(笑)。

それは兎も角、一般的には、敵対している二つの勢力の一方を主人公として高く評価すると、それに反比例して、もう一方の勢力は低く評価される傾向がありますが、等持院発行のこの冊子に於いては、尊氏の事を極めて高く評価しつつも、尊氏と敵対した楠木正成に対しても、同様に高い評価が与えられています。
つまり、尊氏を高評価しているとはいっても、この等持院の冊子の立場は、北朝方の人物のみを高評価しているという単純な“北朝史観”ではないのです。

しかし、味方と敵、双方の武将が、共に政治家としても軍人としても優秀で、あまつさえ人格も優れていたとしたら、そもそも最初から戦いなどは起こらないような気がします。
というわけで、誰かを悪役にする必要があったから、とまで言ってしまうとさすがにそれは私の邪推かもしれませんが、恐らくは尊氏と正成を高く評価したしわ寄せとして、結果的に、この等持院の冊子では新田義貞が随分と低く評価されているように感じられます。
戦前や戦中の、所謂“皇国史観”の全盛とされた時代(特に明治時代末期頃から終戦頃までの時期)は、後醍醐天皇は歴代天皇の中でも屈指の名君と評され、5月4日の記事で詳述したように、その後醍醐天皇に叛いた尊氏は朝廷に弓を引いた逆賊として極悪人扱いされましたが、戦後は一転して、後醍醐天皇こそが南北朝動乱の混乱を招いた当人として、堂々と後醍醐天皇を批判する歴史学者や歴史作家等も多くなってきましたが、この等持院の冊子ではさすがに後醍醐天皇への批判は控えており(「建武の新政」ではなく「建武中興」という言葉を用いている事から、むしろ後醍醐天皇の政治姿勢は評価していると思われます)、結果としてその分、(もしかするとこれは私の曲解かもしれませんが)義貞が批判の全てを背負わされてしまったという感も、無くはありません。

特に、以下の文章などには、尊氏への高評価と義貞への低評価が凝縮されています。これが歴史的に真実であるか否かは別にして、少なくとも南朝史観の立場に立つ人達にとっては、これをそのまま認める事は出来ないでしょう。
「尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである(中略)義貞の鎌倉征めの不手ぎわを後始末をつけに行かれたと見るべきである」
「巧みに尊氏を朝敵に仕立て、独り尊王家をよそおっていた義貞が、正成を低い旗頭程度に扱って、湊川の死地に陥れたことを、尊氏が天下国家のために大いに憤慨されたのは当然である」

また、何かと内輪もめを繰り返していた北朝(幕府)側に比べて、南朝は、勢力としては小さくても忠臣揃いで、常に団結し、皆、心を一つにしていた、という南朝史観を抱く人にとっては、その前提を覆す事になってしまうためなるべく触れて貰いたくはない、南朝から幕府に寝返った楠木正儀(後にまた南朝に帰順しますが)についてあえて文末で触れているのも、些細な事ながらもこの等持院の冊子の特徴の一つと言えるかもしれません。


さて、ここでもうひとつ、全く別の文章を紹介致します。
これは、1月20日の記事で紹介した冊子「建武中興六七〇年記念 南朝関係十五神社巡拝案内記 -附・十五社御朱印帳-」に掲載されていた、建武の新政についての解説文で、内容的には、等持院発行の冊子に書かれている文章とはほぼ“正反対”の立場を採っています。
ちなみに、下の画像は建武の新政を行なった後醍醐天皇で、日本史の教科書にも掲載されている特に有名な肖像画です。

後醍醐天皇

等持院の冊子に掲載されていた文章は足利尊氏について書かれたものですが、こちらの文章は建武の新政について書かれたもの(尊氏についても触れられていますが、尊氏について限定して書かれてものではありません)なので、テーマは異なるのですが、同時代という事もあって取り上げる範囲についてはかなり重複する部分が多いので、長文になりますが以下にそのまま転載致します。


建武中興について

第九十六代後醍醐天皇は後宇多天皇の第二皇子で、文保二年(一三一八)に異例の三十一歳で即位され、延元四年(一三三九)に崩御されるまで、二十一年間の永きにわたって在位せられた。その間、幾多の苦難をたどりつつ、天皇親政による国家中興への力をつくされ、その強い御決意の実現となったのが「建武中興」である。しかし、足利尊氏の謀反によって、わずか二年余で中断されることとなるが、この建武中興は、わが国の歴史において、実に重要な意義を有するのであった。

源頼朝の武家政治に始まる鎌倉時代には、注目すべき二つの事件があった。その一つは承久三年(一二二一)の「承久の変」で、後鳥羽上皇による討幕計画が失敗に終って、上皇は隠岐に流され、崩御された。いま一つの事件は、蒙古襲来である。二度にわたる強大な国家を誇る蒙古の襲来は、政治・経済などに多くの影響を与えた。かつてない外圧に国民は悲観絶望の感を深くするが、この二事件を通じて“わが国は「神国」(天照大御神の皇孫たる天皇を大君とあおぐ国)なり”との思想・信仰を深め、やがて政治を顧みて、わが国中興の機運が高まってゆくのである。
そんな中で後醍醐天皇は、御父帝・後宇多上皇の院政を廃止され、朝廷内での天皇親政を実現された。天皇は、かつて延喜・天暦の御代の盛時を思われ、醍醐・村上両天皇の善政を理想とし、国家の中興を志された。もって御在世のときから「後醍醐」と称せられ、その心を継いで盛時を復古する目標を示されたのである。
そして意欲的に親政の徹底を図るよう、人材の登用、朝儀の復興、因習の廃止、記録所の復活など、果敢に改革を進められたが、その理想実現には、どうしても幕府打倒が不可欠、且つ、喫緊の課題となり、専横を極めていた鎌倉幕府を倒して、政治の一元化を図る決意を示されたのである。
よって倒幕に向けて、正中元年(一三二四)と元弘元年(一三三一)の二度にわたり計画が進められたが、残念にも失敗に終わった。

後醍醐天皇は、ひそかに御所を逃れられ、笠置山に入られた。笠置山に義旗が上がったのに呼応し、お召しを受けた楠木正成公が赤坂城にて挙兵、智謀をつくして幕府の大軍と戦われるのである。やがて笠置山は落城し、元弘二年(一三三二)天皇は幕府(北条高時)によって隠岐の島に配流される。楠木正成公は赤坂城を逃れ、一時姿を隠され、のち千早城にたてこもられることとなる。同様に身をひそめつつ活動を続けられる大塔宮尊雲法親王(護良親王)は、正成公と連絡をとられつつ吉野に挙兵、しかしまもなく吉野城は陥落、北条の大軍は孤城千早を一挙に落すべく激しい攻撃をかけた。だが智謀・策略の手段をつくされた正成公の必死の戦いには、幕府大軍勢といえども、数ヶ月かかってもなお、陥れることができなかった。この間大塔宮は、北条軍の糧道を絶つなどの活躍をされるとともに、全国の武士に令旨を発して決起を促された。
楠木正成公が千早城で幕府の大軍と戦っておられる間に、後醍醐天皇は、元弘三年(一三三三)ひそかに隠岐を脱出、名和長年公を召されて、伯耆国(現鳥取県)船上山にお入りになった。天皇の非常な危険を犯してまでの行動から、国家中興の理想実現へのなみなみならぬ決意が推察される。
船上山に義旗がひるがえると、名和氏・千種氏の活躍に呼応する者も出て、赤松円心が義軍に加わるなど、また九州の菊池武時公も義兵をあげられた。
足利尊氏は、幕府の督促を受けるが、謀反して義軍に加わり、六波羅を攻撃。これと時を同じくして新田義貞公は、結城宗広公等と連絡をとりつつ関東に兵をあげられ、鎌倉幕府の本拠を攻撃、元弘三年五月、ついに鎌倉を手中におさめられた。北条高時は自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡した。このような東西義軍の奮起を促したのは、大塔宮の御活躍の功によるところ大きく、そしてその宮の御活動を支えたのは、実に楠木正成公が千早城に拠って半年間も戦い続けたことによるものといえよう。
かくて元弘三年(一三三三)六月、後醍醐天皇は船上山から京都に還幸され、皇位に復帰、天皇による新しい政治が行われることとなった。そして翌年年号は、「建武」と改元された。

中興が実現すると、国内の安定と治安の維持に向けて、各方面の新しい政策が進められた。まず交易流通を円滑にして経済の発達をはかるため関所を停止し、その他商業を保護する方策や貨幣の鋳造・紙幣の発行を行い、奢侈を禁止し、所領安堵を図り、徳政を実施するなど、新しい政治が取り進められたのである。
だがそんな中興政治が進められる中、足利尊氏は、武士の関心を集め、次第に武家勢力を拡大させ、それに乗じて護良親王を鎌倉に幽閉、やがて反尊氏勢力の中心となった新田義貞公と対立を深めることとなる。尊氏は武家政治を実現しようとするのに対して、義貞公は幕府を否定して天皇を中心とした国家の姿を維持しようとする点で、根本的に異なる立場にあるからである。
そんな中、建武二年(一三三五)、北条氏の残党、北条時行が兵をあげて鎌倉を占拠(中先代の乱)。これがもとで尊氏は、義貞公を討つことを名目に、公然と朝廷に反旗をひるがえした。これによって世は再び混乱に陥り、建武中興はここに瓦解の已むなきに至るのである。
その後叛逆の尊氏は、北畠顕家公等の朝廷軍に敗れて、九州へ敗走する。九州では足利軍に対して、菊池軍が奮戦されるが、敗退を余儀なくされた。
やがて足利尊氏は、弟直義と共に、大軍を率いて上洛して来る。これを阻止しようとする新田・楠木両軍は、兵庫・湊川でこれを迎え撃つが、多勢に無勢で力つき、義貞公は敗走、正成公は「七生滅賊」を誓い、討死された。後醍醐天皇は再び比叡山に逃れられた。足利尊氏は、建武三年(一三三六)入京、光明天皇を践祚させる。これをもって事実上の幕府再興となり、同時に建武中興の御代は、二年半ばで終わることとなった。楠木正成公の戦死によって事実上の崩壊となった、と言えよう。

後醍醐天皇は、この年の二月に元号を「延元」と改められたのであるが、のち十二月には吉野へ遷られて再起を期されることとなった。「吉野ハ延元元年、京都ハ建武三年也。一天両帝南北京也」と言われたように、南北両朝に二人の天皇が、二つの年号を用いて、南北朝分立の時代を迎えたのである。
かかる窮地へと追われても後醍醐天皇は、理想実現にはいささかも揺ぐことのない堅い御決意をもって、京都回復への策を進められた。新田義貞公は、越前・金崎城に拠って足利軍と戦われる。天皇は陸奥の北畠顕家公に上京を命じられる。また東海道・遠江には尊澄法親王が下向される。尊澄法親王は、延元二年還俗せられて、名を“宗良”と改められた。九州では菊池氏が奮起され、もって九州義軍の活動もさかんとなった。
天皇の命にこたえ陸奥の北畠顕家公が京へ向って霊山を出発されたのは、延元二年(建武四年・一三三七)、この報をきっかけに、各地義軍の京都進撃が促された。霊山を発した北畠顕家公は、南下されて鎌倉から遠江へ。ここで宗良親王の軍と合流、足利軍と戦われながら摂津に至り、一挙に京を衝く態勢となった。しかしその矢先、大将顕家公が戦死されて敗退。新田義貞公の義軍も京都回復が絶望となり、義貞公は、越前の藤島で討死されたのである。
京都回復の計画は、京都を目前にして、失敗に帰した。しかし後醍醐天皇は、これにもくじけられなかった。義良親王を奥州に下され、結城宗広公が護衛となられ、北畠親房公も同伴された。また宗良親王は遠江に向わせられ、その皇子がこれに従われるなど、天皇は、京都中心の勢力を奥州へ移されるとともに、九州へは征西将軍として懐良親王を派遣された。だが、計画は困難を極め、成功するに至らなかった。
後醍醐天皇が吉野に遷らせられて二年有余、ひたすら京都を回復して国家中興を図ろうとされた雄図は、あいつぐ武将の戦死、計画の挫折によって、実現の途は遠くなり、後醍醐天皇は、悲痛のうちに延元四年八月十六日、御歳五十二歳で崩御せられたのである。
「玉骨はたとえ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕を望まんと思う」と、最後まで国家中興を願われた。天皇親政による神国理想の国づくりのため、不撓不屈の御精神をもって闘われ、尊い御生涯を閉じられたのである。

後醍醐天皇の大いなる御志は、後村上、長慶、後亀山の三代の天皇とその皇子達に継承され、更に幾多の忠臣、義士の純忠至誠をもって、以後の幕府政治に対して、大義をかけた永い闘いが続けられてゆくのである。一門一家をあげて忠義を貫いて已まず、楠氏にあっては一族全滅して痕跡を残さぬまでに至った。ここに楠公精神があり、これに象徴される多くの忠臣義士の尊い精神が、時代を超えて全国に伝わり、幾多の志士を奮起せしめることとなるのである。
「太平記」「神皇正統記」をはじめとして、「日本外史」などの普及と共に、山崎闇斎等儒学者によっても、建武中興への忠臣義士の精神が広められ、また南朝を正統と定めた「大日本史」の編纂と、その他水戸光圀公の楠公景仰に伴う事蹟は、後世へ多大の影響を与えた。更に幕末志士は、水戸学の影響を受け、西郷隆盛、橋本景岳、吉田松陰など会沢正志斎の感化も大きく、また真木和泉守は、のち明治天皇の治世に大きな影響を及ぼしたと言われる。
こうして江戸幕末の一大国難に直面して、幕末の志士は、わが国の真姿回復に向け、明治維新を断行した。王政復古がなり天皇親政が実現したのは、建武中興から数えて、実に五三〇年もの永きを経てからのことであった。
わが国の本義は、「神国」にあり、建武中興において、わずかにでも曙光を歴史に留められた意義は大きい。日本民族の奥深く流れる思潮等は、やがて重大国難に著しくその姿を現わし、もって明治維新を招いた。そして明治の御代、明治天皇の鴻業によって、近代日本の理想国家への道が開かれたのである。


この冊子を発行している建武中興十五社会が、南朝の天皇・皇族・公卿・武将を御祭神としてお祀りしているお宮(言い方を変えると、北朝や足利将軍を是としない立場にあるお宮)により構成されているという事情から、当然の如く、南朝に対しては好意的で高評価な文章で、逆に、尊氏に対しては厳しい内容となっています。
楠木正成に対しての評価が高い点以外、先に紹介した等持院発行の冊子の文章とは、基本的にほぼ真逆の内容といえます。

例えば、等持院の冊子では、「尊氏が勅許もまたずに北条攻めに向かわれたのは、政権が朝廷に復古した建武の中興という画期的な大事業が無意義になることをおそれたからである」と書かれ、尊氏はあくまでも建武の新政を守ろうとしていた、という事が強調されていますが、建武中興十五社会の冊子のほうでは、建武の新政については、「足利尊氏の謀反によって、わずか二年余で中断されることとなる」「これがもとで尊氏は、義貞公を討つことを名目に、公然と朝廷に反旗をひるがえした。これによって世は再び混乱に陥り、建武中興はここに瓦解の已むなきに至るのである」などとあり、建武の新政が崩壊した元凶は尊氏にあるかのように書かれています。
今日、日本の歴史学では、建武の新政の崩壊は、建武政権による論功行賞の失敗が最大の原因と解されており、それはつまり、その論功行賞を実行した後醍醐天皇にその原因があるという見方なのですが、十五社会の冊子は、その見方とは全く相反する見解となっているのです。

そもそも、建武中興十五社会に加盟しているお宮で御祭神としてお祀りされている公家や武将(北畠親房、北畠顕家、楠木正成、新田義貞、名和長年、菊池武時、結城宗広)や、南朝に理解のあった人物(徳川光圀)については、文中では「公」という敬称が付けられており、それに対して、それ以外の人物については呼び捨てにしている、という時点で、十五社会の冊子の立場は至極明らかです。
ちなみに、播磨の守護・赤松円心は、大塔宮護良親王に従って鎌倉幕府の討幕に大きな功績を挙げ、幕府崩壊後も暫くは大塔宮と行動を共にしたため尊氏とは対立的な関係にありましたが、その後、尊氏の陣営に加わり南朝と敵対するようになったため、十五社会の冊子の中では呼び捨てにされています。もし最後まで大塔宮と運命を共にしていれば、円心は御祭神として神社にお祀りされ、十五社会の冊子でも「公」という敬称を付けて貰えた事でしょう。しかし、途中経過はどうあれ、円心は最後に北朝に付いてしまったため、もうダメなのです。
北朝方の人物は、兎に角全く評価するに値しない、というのがこの十五社会の冊子の立場で、これはまさに典型的な“南朝史観”です。

「一門一家をあげて忠義を貫いて已まず、楠氏にあっては一族全滅して痕跡を残さぬまでに至った。ここに楠公精神があり」とも書かれていますが、前出の楠木正儀(先程紹介した等持院の冊子に掲載されていた文章の文末で取り上げられています)については、いなかったという扱いになっているのでしょうか。
正儀は、「忠臣の鏡」とされた大楠公・正成の三男で、「桜井の別れ」で知られる小楠公・正行の弟に当たる楠木一族の武将ですが、南朝から北朝へ投降し、一時は室町幕府方の武将となった人物です。私自身は、実は正儀の事は高く評価しているのですが(卑怯者と謗られながらも最後まで南北朝和平を貫こうとした人物であると私は解しています)、少なくとも十五社会の冊子が言う、南朝に只管忠義を尽くすという意の“楠公精神”には、あまり合致しない人物であろうと思います。

あと、「幕末の志士は、わが国の真姿回復に向け、明治維新を断行した。王政復古がなり天皇親政が実現したのは、建武中興から数えて、実に五三〇年もの永きを経てからのことであった」とも書かれていますが、明治の王政復古というのは、建前としては兎も角、実態としては、天皇親政がその言葉通りに実現したわけではなかったと思います。
大日本帝国憲法が施行され内閣が誕生するようになって以降の日本は立憲君主制ですから、当然、天皇親政ではありませんが、それ以前についても、つまり、江戸幕府が崩壊してから憲法がつくられるまでの明治時代初期についても、明治天皇による独裁が行われていたわけではありませんから、天皇親政と言い切ってしまうのは、少なくとも実態としてはやはり語弊があるような気がします。


等持院発行の冊子と、建武中興十五社会発行の冊子を読み比べてみてはっきりと分かるのは、結局、どの立場に立つかによって、足利尊氏という人物や南北朝時代に対しての評価は、全く異なるものになってしまう、という現実を、今更ながら改めて再認識させられるという事です。


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