この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

足利義詮と楠木正行の菩提寺である宝筐院を参拝してきました

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪・京都・高松方面を旅行してきました。3日目の午前中は、京都の嵯峨・嵐山地区を散策してきたのですが、その際、嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という、臨済宗系の単立寺院を参拝・見学してきました。

宝筐院_01

宝筐院_02

宝筐院は、境内にある庭園の景色が美しく、特に、初夏の新緑、晩秋から初冬にかけての紅葉、冬の雪景色などは大変美しいと評判ですが、私が行った時期は緑も紅葉も雪も無く、そのため季節的には「ちょっと微妙かも…」という感じでした。
そうであるにも拘らず、今回私があえて宝筐院に行ってきたのは、庭園の景色を楽しむためではなく、足利義詮のお墓と楠木正行の首塚をお参りするためだったからです。お墓参りをする分には、境内の景色は別に関係無いですからね。
宝筐院は、生前は敵同士であった、室町幕府第2代将軍 足利義詮のお墓と、南朝に仕えた楠木正行(名将・楠木正成の息子)の首塚が、仲良く並んで立っているお寺としても知られています。


宝筐院は、平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、南北朝時代に夢窓国師の高弟・黙庵周諭禅師が中興開山した寺院です。
その黙庵に帰依した足利義詮によって伽藍の整備が進められ、当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていたと記録されています。
その一方で、足利家とは敵対関係にあった楠木正行もまた黙庵に帰依していた事から、四條畷の戦いで正行が足利方の高師直・師泰兄弟に敗れて討死した後、正行の首級も黙庵によって同寺に葬られました。

義詮が没した後、宝筐院(当時の名は善入寺)は義詮の菩提寺となり、室町幕府歴代将軍の保護もあって大いに隆盛しました。最盛期には、備中や周防などにも寺領を構えていたそうです。
しかし応仁の乱以後、宝筐院は幕府の衰えと共に衰退していき、江戸時代には天龍寺末寺の小院となり、伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり、幕末には一旦廃寺となります。
その後、臨済宗天龍寺派管長の高木龍淵や、神戸の実業家 川崎芳太郎などによって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興(旧境内地の買い戻し、新築、古建築の移築、主な什物類の回収など)が行なわれ、廃寺から五十数年を経て復興されて、現在に至っています。


下の写真2枚は、本堂の正面全景と本堂内で、ここには木造十一面千手観世音菩薩立像が本尊としてお祀りされています。

宝筐院_03

宝筐院_05

そして本堂には、本尊とは別に正行の木造もお祀りされていました。
元々は義詮の菩提寺であり、宝筐院という寺名も義詮の院号である宝筐院から取られたものなのですが、大正期に復興されて以降の宝筐院は、義詮の菩提寺というよりは、正行の菩提寺である事のほうが強調されている感があります。

宝筐院_04


下の写真が、境内の一画に並んで立っている義詮のお墓と正行の首塚です。門と柵で囲われており、中央の門扉には、足利家と楠木家それぞれの家紋が描かれています。

宝筐院_06

宝筐院_07

下の写真の左側が、義詮のお墓と伝えられる三層石塔で、右側が、正行の首塚と伝えられる五輪石塔です。
生前は敵であった正行が宝筐院(当時の名は観林寺)に埋葬された事を知った義詮は、正行の人柄を褒め称え、「自分が死んだ後は、かねてより敬慕していた観林寺の楠木正行の墓の傍らに葬って貰いたい」と言い、その遺言に従って義詮のお墓は正行の首塚のすぐ隣に立てられたと伝えられています。

宝筐院_08

なお、今回の記事に添付した写真には写っていませんが、墓前にある石灯籠の書は、明治・大正期の文人画家 富岡鉄斎の揮毫で、そこに記されている「精忠」は、最も優れた忠を意味し、「碎徳」は、一片の徳、即ち敵将を褒め称えその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片に過ぎないという意味で、義詮の徳の大きさを褒めた言葉とされています。


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関東公方と関東管領と私の雑感

私は、中学生や高校生の頃から日本史が好きで、他の教科はとりあえず置いておきますが(笑)、日本史については、テストでも、決して悪くはない点数を取っていました。
しかしそんな私でも、恥ずかしながら、実は20歳を超えるまで「関東公方(かんとうくぼう)」という存在はほとんど全く認識しておりませんでした。

「関東公方」とは、狭い意味では、室町幕府を創設した足利尊氏の三男である足利基氏(下の写真は基氏の坐像です)に始まる「鎌倉公方」の事を指し、広い意味では、その鎌倉公方と、鎌倉公方の後身である「古河公方」の二つの総称であり、更にもっと広い意味では、鎌倉公方や古河公方に加え、古河公方の傍流である「小弓公方」や、古河公方とは対立関係にあった、8代将軍 足利義政の弟足利政知に始まる「堀越公方」なども含めた総称として使われています。
とはいえ、関東公方の中では、やはり鎌倉公方の存在が最もよく知られおり、そのため「関東公方=鎌倉公方」と認識している人も、かなり多いのではないかと思われます。

足利基氏坐像(瑞泉寺)

鎌倉公方とは、簡潔に一言でまとめると、室町幕府の征夷大将軍が、室町幕府の関東に於ける出先機関として設置した、「鎌倉府」の長官の事です。関東8か国に伊豆・甲斐両国を加えた計10か国の統治を幕府から委託された、関東に於ける地方機関のひとつである鎌倉府の長、という事です。
つまり鎌倉府は、形式的には、奥州探題や九州探題などと同様に、あくまでも幕府が設置した一地方機関に過ぎないのです。しかし実際の鎌倉公方は、単なる一地方機関の長とは言えない程の強大な権限を持ち、守護と関東管領の任免権以外は、ほとんど京都の将軍に匹敵する程の力を持っていました。
そのため鎌倉府は、まるで関東に於ける「ミニ幕府」的な、室町幕府とは別の「独立政府」的な様相さえ見せ、幕府の忠実な手足となって働くどころか、時には京都の幕府と露骨に対立するような事態をも招く事になりました。
という事はつまり、室町時代や、その後に続く戦国時代を正確に理解するためには、その前提知識として、まず、関東公方とは何だったのか、という事を理解しなくてはならないのです。

ところが、中学や高校の日本史の教科書・参考書などに大抵掲載されている、鎌倉・室町・江戸の各幕府の、職制を紹介する大まかな組織図などを丁寧に見ていれば関東公方、特に鎌倉公方の存在を見落とす事は無かったはずなのですが、前述のように、結果的に私は長い間見落としており、しかも、私が学生時代に受けた日本史のテストや、当時使っていた問題集等で関東公方についての問題が出題された事も皆無だったため、日本の中世史に於ける関東公方の意義や重要性を、当時は全く認識していなかったのでした。

そのため、初めて関東公方や、鎌倉公方を補佐する関東管領、その他の関連事項や一連の歴史などを知った時は、少なからず衝撃を受けました。
多分誰もが名前くらいは聞いた事が有るであろう「征夷大将軍」「執権」「管領」「大老」「老中」「奉行」などの、武家政権に於けるメジャーな役職に比べると、確かに「鎌倉公方」や「関東管領」はマイナーな役職ですが、それでも、関東公方や関東管領とは結局いかなるものであったのかという事を理解していないと、日本の中世史をすっきり理解する事はほぼ不可能であり、そうであるにも拘らず、それを今まで認識していなかった自分の無知を、私は恥ずかしく思いました…。


現在の日本の行政・立法・司法などの、国家の根幹となる仕組みの大枠は、基本的には明治維新から始まり、それ以降、断絶する事なく今に続いているものと私は理解しています。
終戦直後アメリカに日本が占領された時期に、かなりの大規模な改革が行われ、国の最高法規である憲法もその時期に変わりましたが、それでも、立憲君主制、議会制度、内閣制度など根本的なものは、戦争以前から既に確立しており、アメリカの日本占領によって突然現れたものではないからです。

では、現在の日本にも直結するその明治維新はなぜ起こったのか、というと、それは「江戸時代」というひとつの時代が終焉したからです。つまり、江戸幕府が崩壊したからです。当然の事ながら、もし江戸幕府がその後も存続していたとしたら、明治維新は起こらなかったか、もし起こっていたとしても、私達が知っている明治維新とは全く違う形になっていた事は間違いありません。
では、なぜ江戸幕府は崩壊したのでしょうか。一般には、「幕末」という時代はペリーの浦賀来航から始まったと解される事が多く、確かに、ペリーの来航が江戸幕府崩壊のひとつの大きな引き金となったのは確かですが、しかし、幕府を直接討幕したのは、ペリーや彼の母国であるアメリカではありません。幕府を倒したのは、よく知られているように、薩摩と長州の両藩を中心とした西国諸藩の勢力です。

では、なぜ薩長が幕府を倒す勢力に成り得たのか、というと、その遠因は、関ヶ原の合戦で西軍に組した島津家(薩摩)や毛利家(長州)に対して、勝者となった東軍(家康)が下した処遇にまで遡る事が出来ます。
特に毛利家は、関ヶ原の合戦以降、凡そ260年もの間、徳川家に対して恨みを抱き続けていました。結果としては、先祖代々のその根深い恨みが幕末に一気に花を開き(?)、関ヶ原以来の積年の恨みを晴らした、とも言えます。

その関ヶ原の合戦は、なぜ起こったのでしょうか。
合戦が起こった当時、既に秀吉は没していたため、この合戦は家康と秀吉が直接対決したわけではありませんが、この合戦が事実上、徳川勢と豊臣勢の対決であった事は誰の目にも明らかです。
つまり、合戦の原因をつくった張本人は、家康と秀吉の二人であったと言って、差し支えないでしょう。西軍の事実上の中心的人物は、よく知られているように石田光成ですが、その光成も、秀吉がいなかったとしたら世に出る事は無かった人でした。

しかし、その秀吉も、いや、これについては家康も全く同様ですが、そもそも秀吉や家康は、どちらも、もし織田信長が存在していなかったとしたら恐らくは歴史の表舞台には出て来る事の無かった武将ですから、もし信長がいなかったとしたら、関ヶ原の合戦も恐らく起こってはいなかったはずです。
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに 食ふは徳川」という有名な狂歌にも示されているように、まずは信長が旧体制を次々と打破していき、その後で、信長の家臣であった秀吉が、信長の後継者としてその跡を実質的に継いで、軌道修正を施しながらも信長の政策を引き継いで新体制を築き上げ、そして、その二人の業績があったからこそ、最終的に家康は、260年にも及ぶ徳川時代の基礎(幕藩体制)を確立する事が出来たのです。

織田信長(長興寺蔵)

このように明治維新の遠因をどんどん遡っていくと、実は簡単に信長の時代位にまでは遡る事が出来ます。
そういった意味では、私は特段信長のファンというわけでは無いですし、信長を過大評価する気もありませんが、明治維新に限らず現代の日本の情勢や仕組みといったものに与えた信長の影響は、決して小さくは無いと思っています。
もっとも、信長が「天下布武」を掲げてあれ程縦横無尽に活躍する事が出来たのは、あの時代が「戦国時代」という下克上の時代であったからです。信長が一個人として卓越した能力の持ち主であった事は間違いありませんが、それだけではなく、当時の時代背景や、その時代に恵まれた信長の“運”といったものも、やはり見逃せません。


では、なぜあの時代が戦国の世であったのかというと、それは、室町幕府という当時の中央政権が、その後に成立する江戸幕府よりも非常に緩やかな連合体であった(つまり力が弱かった)という事と、それに加え、室町幕府初代将軍・足利尊氏の長男である2代将軍義詮の血統である足利将軍家と、尊氏の三男である基氏の血統である鎌倉公方足利家の激しい対立(永享の乱、享徳の乱など)が、結果的に関東に大混乱を呼び起こし、そうした混沌とした状況が、初めての戦国大名として登場する北条早雲に付け入る隙を与え、そういった経緯を経てまず関東が全国に先駆けて戦国時代に突入する事となり、そして京都でも、幕府の地位低下から、将軍職の継承と管領家の家督相続をめぐって応仁の大乱が起こり、こうして日本は、全国的に本格的な戦国時代に突入する事になっていったのです。

つまり、現代の日本が「関東公方」から直結しているとまで言ってしまうのはさすがに大風呂敷を広げ過ぎかもしれませんが、しかしどんどん歴史を遡っていくと、少なからず関東公方の存在には確実に触れる事にはなるのです。
歴史というのは、過去から未来に向かって絶える事なく連綿と続く長い時間の経過であり、その経過の一部分を輪切りにして一点だけに着目しても、その事柄・事件・人物等の本質は見えてはきません。そういった意味では、現代の日本へと続く歴史を考える上で、特に、どうして戦国時代が起こったのかという事を考える上では、関東公方は避けて通れない存在である事に、私は20歳を過ぎてから漸く気付いたのでした。

更に言えば、私は戦国武将の中では、義に生きた上杉謙信が好きなのですが、その謙信についても、関東管領を知らずに正確に理解する事は極めて困難です。
謙信は、関東管領であった上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られた事により、長尾から上杉へと改姓し関東管領の職も引き継ぎ、謙信にとってはその事が、対外的な戦では常に大きな大義名分となり、そして、謙信の死を以て関東管領という伝統的な職も終焉を迎えたのですから。

上杉謙信


というわけで、かなり長々と書いてしまいましたが、ざっくり一言でまとめると、「関東公方や関東管領は、現在の日本史の中では必ずしもメジャーな存在ではないものの、日本の歴史を語る上では、実は決して小さくはない意味や意義を持っている、という事に私は遅ればせながら気付きました」という事です。

そのため、関東公方や関東管領については、当然このブログでも詳しく取り上げてみたいなと前々から思っていたのですが、まずどこからとっかかれば良いのだろうかとも思ってしまい、今までなかなか取り組めずにいたのですが、今後は関東公方や関東管領についても、このブログで順次取り上げていこうと思います。
まずは、その第一回目という事で、今回の記事では、関東公方や関東管領についての、オススメの動画とオススメの書籍を、以下に紹介させて頂きます。



BlogPaint

とりあえず上の写真の2冊を読めば、関東公方と関東管領についてはかなり正確にその全容が理解出来ると思うので、これから関東公方や関東管領について勉強しようと思っている人には、かなりオススメの本です。
ちなみに、「関東公方足利氏四代」の裏表紙には、『室町時代、二代将軍の弟に始まり、鎌倉府の主として東国を治めた関東公方足利氏。将軍の身辺でささやかれた関東謀反のうわさは、いつから真実となっていったのか。幕府に抵抗し続けた誇り高き一族の一〇〇年を見つめる。』と、「人物叢書 上杉憲実」の裏表紙には、『室町前期の武将。将軍足利義教と関東公方持氏という二人の権力者の間で、翻弄されながらも調停を試みた関東管領。度重なる諌止を拒否する持氏と対立し、終に永享の乱で心ならずも持氏を死に追込む。乱の終息後、政界を退き、僧侶となって諸国を放浪し、長門国で没する。儒学に志篤く、足利学校を再興したことでも知られる武将の波乱の生涯を描く。』と、それぞれ書かれています。
この2冊の解説文だけで、関東公方や関東管領の概要が、もう何となく分かってしまいますね(笑)。


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新年の年頭挨拶

新年おめでとうございます。
謹んで新春のお慶びを申し上げます。

建武の新政(建武中興)から681年、建武式目制定(室町幕府成立)から679年、南北朝の合一から623年、応仁の乱発生から548年、将軍足利義昭追放(室町幕府滅亡)から442年の年頭に当り、このブログ「この世は夢のごとくに候」を読んで下さる全ての読者の皆様方の御健勝・御繁栄を、心より祈念申し上げます。
また、大河ドラマ化、映画化等される機会も多い戦国時代や幕末などに比べると昔からいまいち人気が無い鎌倉時代・南北朝時代・室町時代に、もっと多くの人達が興味・関心を持ってくれるようになる事も、併せて、密かに祈念致します(笑)。

このブログを開設して、当月で丁度2年が経ちました。
更新は怠りがちで、内容的にもまだ拙く未成熟なブログですが、読者の皆様方に於かれましては本年も何卒一層の御指導・御鞭撻を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

皇紀2675年 仏暦2558年 西暦2015年
元旦


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足利義満所縁の鹿苑寺を参拝してきました

私は今年の7月、2泊3日の日程で関西(京都・大阪・和歌山方面)を旅行し、旅行の2日目は、主に足利氏所縁の史跡や社寺等を中心に京都各地をまわってきました。
具体的には、2日目の午前中は、7月22日の記事で述べたように京都府亀岡市篠町に鎮座する篠村八幡宮や、7月28日の記事で述べたように京都市北区等持院北町に鎮座する等持院などへと行き、そしてその日の午後は、京都市北区金閣寺町に鎮座する、臨済宗相国寺派の相国寺山外塔頭「鹿苑寺」を参拝・見学してきました。今回の記事では、その鹿苑寺について、紹介をさせて頂きます。

改めて説明するまでもなく、鹿苑寺は、「金閣寺」という通称(世間一般ではこちらの名前のほうで知られています)と、世界遺産に登録されている事などで広く知られている寺院で、観光都市京都の中でも、昔から清水寺と双璧を成す“定番観光スポットの寺院”のひとつです。
私は、今から○○年前の高校時代(北海道内の高校に在学していました)に修学旅行で京都を訪れ、その時に一度鹿苑寺を見学しており、今回は、私にとってはその時以来、2回目の鹿苑寺訪問となりました。

鹿苑寺の創建は応永4年(1397年)、開山は夢窓疎石、開基は室町幕府三代将軍の足利義満で、鹿苑寺という寺名は、 義満の法号である鹿苑院殿に由来します。但し、鹿苑寺が寺院となったのは義満の死後で、義満の時代には、邸宅(北山山荘)として利用されていました。
邸宅とはいっても、日本の歴史上最大の権力者のひとりといえる義満の邸宅だったわけですから、勿論単なる私邸ではなく、その規模は御所にも匹敵する規模を誇っていました。
義満は、将軍として在職していた当時は、平成25年11月26日の記事で紹介した、足利将軍家の公邸である「花の御所」で政務を執っていましたが、将軍職を息子の義持に譲った後は、政治の実権は握ったまま、北山山荘(北山殿または北山第とも称されます)に移り、そこで引き続き政務を執っており、つまり、義満が将軍を引退してから没するまでの間は、この鹿苑寺に日本の政治中枢のほぼ全てが集約されていた、と言っても過言ではない状況にあったようです。

なお、鹿苑寺の概要については、下の写真の看板を御参照下さい(境内に立っていた看板です)。

鹿苑寺_00


以下の写真3枚は、私が撮影してきた鹿苑寺金閣で、正確には「舎利殿」という名の建物です。
鹿苑寺に於ける、寺院としての最も重要な建物は、御本尊の観音菩薩がお祀りされている「方丈」(他宗派で云う本堂に相当する建物)ですが、一般には、単に金閣寺と云う場合はこの建物を指す事が多く、この舎利殿が、鹿苑寺を最も代表・象徴する建物と広く認識されています。

鹿苑寺_01

鹿苑寺_02

鹿苑寺_03


以下の写真2枚は、私が撮影したものではありませんが、いずれも舎利殿の内部の様子です。
1枚目の写真は、ウィキペディアから借用したもので、「法水院」と称される一層目(1階)の内部です。この層は寝殿造で、中央には宝冠釈迦如来像が、向かって左には法体の足利義満坐像が安置されております。
2枚目の写真は、絵葉書からキャプチャした画像で、「潮音洞」と称される二層目(2階)の内部です。この層は武家造で、岩屋観音坐像と四天王像が安置されております。

鹿苑寺_04

鹿苑寺_05


以下の写真3枚は、鹿苑寺の境内で見学・撮影してきた、足利将軍所縁の遺跡です。

鹿苑寺_06

鹿苑寺_07

鹿苑寺_08


京都には時々行く機会がありますが(2年間、住んでもいましたが)、鹿苑寺に行く機会はなかなか無かったので、今夏、久々に鹿苑寺を参拝・見学する事が出来て良かったです。今度は、やはり○○年以来の訪問となる、銀閣にも是非行ってみたいです。

ちなみに、今回私が鹿苑寺の境内で撮影してきた写真は、別のブログとなりますが以下の記事にもアップしておりますので、宜しければこちらも是非御覧になって下さい。
http://shinbutsu.at.webry.info/201407/article_3.html


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天下分け目の合戦の舞台ともなった、東寺の不開門(あかずのもん)

先週、私は2泊3日で大阪・京都方面を旅行して来たのですが、その旅行の2日目、お昼過ぎ頃に、東寺真言宗総本山 教王護国寺を参拝・見学してきました。
ここは、平安時代初期の創建時から東寺(とうじ)の名で広く知られている、真言宗開祖の空海(弘法大師)が創建した名刹で(現在は教王護国寺が正式名称ですが、歴史的にはむしろ東寺のほうが公式名として定着していました)、真言宗の根本道場、国宝・重文など多数の貴重な文化財を所蔵する古刹、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されているお寺、京都のランドマークのひとつにもなっている日本一の高さ(54.8m)を誇る五重塔、21体の彫像により講堂内に構成される立体曼荼羅、京都観光や修学旅行の定番スポットのひとつ、などとしても有名なお寺です。

東寺の五重塔

私自身は、新幹線を利用して京都を訪れる事はほとんどありませんが、山陽・九州方面から新幹線を使って上洛する場合、京都駅に着く直前に車窓から東寺の壮麗な五重塔を見る事が出来るので、東寺(特に五重塔)を見ると、京都に帰って来た事、京都へ出張に来た事、京都に遊びに来た事などを実感するという人は、きっと多くおられるのではないかと思います。

私としても個人的に、東寺は以前から特に好きなお寺のひとつであり、過去にも何度か参拝・見学をしているのですが、ただ、前回私が東寺を訪ねてからもう十年は経っているので、今回は、懐かしくも少し新鮮な気持ちで東寺の境内を歩いてきました。
私は、東寺の中では講堂内の立体曼陀羅が最も好きで、勿論今回も見学してきましたが(講堂内は写真撮影禁止だったので残念ながら写真はありません)、このブログの性格から、今日の記事では、東寺の中では一般にはあまり注目される機会の少ない「東大門」を紹介させて頂きます。

東寺の東大門

鎌倉時代に建てられたと伝わる、東寺東側の大宮通に面しているこの東大門は、不開門(あかずのもん)とも称されており、その由来は、下の写真の看板で解説されている通りです。

東寺の東大門解説

以下の鉤括弧内(緑文字)は、東寺塔頭・宝菩提院住職の三浦俊良氏が著した「東寺の謎」(祥伝社黄金文庫)に掲載されている文章で、東大門が不開門と称されるようになった由来が更に詳しく解説されています。門前で起こった“天下分け目の合戦”についても、その前後の状況も含めて詳しく解説されており、とても参考になるので、少し長文になりますが以下に転載致します。


湊川の合戦で楠木軍が破れたという報せをきいて、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。
足利尊氏は都にはいると光厳上皇を迎え、弟の豊仁親王を擁立した。光明天皇である。
六月五日、尊氏はさらに兵をすすめ一挙に比叡山に向かった。弟直義は比叡山の寺町である西坂本に陣をおいた。対して比叡山を守備していた宮方の軍は新田義貞を総指揮官として、比叡山の僧兵も加わり足利軍と対峙した。

六月十四日、足利尊氏は光厳上皇を奉じて東寺にはいった。足利家の紋、丸に二引両の旗が、東寺の境内にたなびいた。東寺が総本陣となる。光厳上皇の御所は西院小子房、尊氏は千手観音菩薩が安置されている食堂に身をおいた。
(中略)
東寺は都城となった。四方を囲む築地の大土塀は城壁であった。境内には馬がつながれ、鎧姿の数千の軍兵であふれていた。北東に見える比叡山には、後醍醐天皇の本陣がおかれている。対峙するように東寺に足利尊氏は本陣をおいた。
(中略)
いま東寺は北朝の光明天皇の御所となり、比叡山は南朝の後醍醐天皇の御所となっていた。

六月十九日、新田義貞ひきいる宮方が反撃にでた。
六月二十日、足利軍が攻撃にでた。だが各所で敗退してしまう。やはり比叡山という山を味方につけた宮方が有利だった。山攻めは不利と見た足利尊氏は、体勢を整えて市街戦に勝敗をかけた。
六月三十日。この日、新田義貞は総攻撃をしかける。都の周囲、糺ノ森、賀茂川、桂川の西で両軍の激しい戦闘がおきた。
市街戦は東寺の北方でも勃発した。相ゆずらぬ攻防が繰り広げられた。東寺からも鬨の声にあわせて、武者の諸声が聞こえたことであろう。
新田義貞がめざすは足利尊氏がいる東寺であった。強靭な肉体に鎧をまとった二万の騎馬武者が、大宮通を東寺に向かった。名和長年ひきいる軍も猪熊通を東寺に向かってひた走った。

本陣、危うし。迎え討つ足利軍は東寺の門を開け、出撃していった。だが新田軍、名和軍ほか宮方勢は破竹の勢いで足利軍に迫った。東寺近くの六条大宮付近で両軍の激しい衝突がおこり、敵味方がみだれての攻防戦がつづいた。戦局は宮方勢にかたむきかけていた。
足利軍は苦戦をしいられた。退却するほかなかった。新田、名和軍に追われるようにして痛手をおった足利軍の武者たちが、ぞくぞくと東大門から境内になだれこんできた。
最後のひとりが境内に足を踏みいれたとき東大門は閉ざされた。その戸をめがけて、なんすじもの矢が打ちこまれた。それほどにあやうい瞬間であった。

約二万の新田、名和軍は東寺を取り囲んだ。そして宮方の総指揮官、新田義貞が門前から足利尊氏に一騎打ちを挑んだ。しかし、東大門は閉じられたまま、開くことはなかった。以来、この門を「不開門」(あけずのもん)という。
いまも不開門に残る、なんすじもの矢の痕が、このときの戦闘の凄まじさを物語っている。

さて戦局は一転して足利軍が有利となる。各所で市街戦を繰り広げていた足利勢が大挙して東寺をとり囲む宮方勢に攻めいり、ついに名和長年が討ち死にする。宮方勢は退却をよぎなくされた。
この戦いをもって両軍の明暗ははっきりとする。七月、八月と宮方勢の反撃がおこなわれるが、ことごとく失敗におわる。のちに東寺をめぐっておこなわれた戦闘が「天下分け目の合戦」といわれるゆえんである。
(中略)
天下分け目の合戦を制した足利軍が、つぎの世をとることになる。


下の絵図は、埼玉県立歴史と民俗の博物館が所蔵している「東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞」の図です。尊氏が本陣を構えた東寺(右・手前側)には、足利家の紋が入った幕や幟が棚引いております。
ここで義貞は東寺に矢文を放って尊氏に一騎打ちを呼び掛け、その挑発に対して尊氏はいきり立って「望むところだ」と腰をあげるものの、近臣から諌められて誘いに乗らなかった、とも伝えられています。

東寺に立て籠る尊氏を襲う義貞

後に、室町幕府最後の将軍・足利義昭を伴って上洛した織田信長も、尊氏の先例に倣って東寺に本陣を置きました。
ちなみに、昨年3月11日の記事の後段でも紹介しましたが、東寺では平成20年に、尊氏没後六百五十年記念で新調された尊氏の位牌の開眼法要を厳修しています。


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