この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

足利市の鑁阿寺に残る、足利将軍へのかつての尊崇・信仰の形

前回の記事で述べたように、私は先月下旬、栃木県足利市に行ってきたのですが、私が足利市で見てきたいくつかのスポットの中で、個人的に一番興味深かったのは、足利学校のすぐ近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)という古刹でした。
現在の鑁阿寺は、真言宗大日派の本山で、「足利氏宅跡」として境内全体が国の史跡に指定されており、四方に門が設けられ土塁と堀がめぐらされているなど平安時代後期の武士の館の面影が残されている事から「日本の名城百選」のひとつにも選ばれています。
また、本堂は国宝に、境内にあるその他の堂宇も国の重要文化財や県もしくは市の文化財などに指定されており、歴史的建造物としても大変貴重なお寺です。

下の写真2枚は、その鑁阿寺を今回参拝・見学した際に私が撮影してきた、県の指定文化財でもある楼門(山門)と、国宝に指定されている大御堂(本堂)です。
楼門(下の写真の1枚目)は、室町幕府第13代将軍の足利義輝が室町時代後期に再建したもので、大御堂(下の写真の2枚目)は、源姓足利氏2代目で鑁阿寺を開創した足利義兼が鎌倉時代初期に建立し、鎌倉時代後期に足利尊氏の父・貞氏が再建したものです。

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楼門と大御堂、どちらの屋根の上にも、足利家の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が入っており、金色に光り輝いています。

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前出の足利義兼が邸宅内に持仏堂を建てたのが鑁阿寺創建の由緒とされており、鎌倉時代以降、次第に本格的且つ大規模な寺院として整備されていき、室町時代には、京都の足利将軍家や、鎌倉公方足利家により、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
現在は、平成26年7月2日の記事で紹介させて頂いた「全国足利氏ゆかりの会」の会員ともなっています。


ところで、私が今回鑁阿寺を参拝・見学してきて、現地で「おおっ、これは!」と特に括目したのは、大御堂の裏手に建つ「御霊屋」(おたまや)と、その直ぐ隣に建つ「大酉堂」(おおとりどう)です。

下の写真4枚はいずれも御霊屋で、鑁阿寺という寺院の境内に建つ建物ではありますが、これは仏教建築ではなく、明らかな神社建築であるのが特徴です。手前側にある入母屋造りの拝殿と、その奥に鎮座する一間社流れ造りの本殿の2殿を中心として、全体が、正面の神門と連なる瑞垣で囲まれています。
御霊屋の当初の建物は鎌倉時代に建てられましたが、現在のものは、江戸時代に江戸幕府第11代将軍 徳川家斉が寄進したものです。

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御霊屋の神門前に立てられている解説板によると、この御霊屋は、当初は足利大権現と称され、本殿では「源氏の祖」」を御祭神としてお祀りし、拝殿内には、歴代足利将軍15人全員の木像がお祀りされていたそうです(現在は、その15体の歴代将軍の座像は、いずれも鑁阿寺の経堂内に移されています)。
また、本殿の直ぐ裏には、鑁阿寺を開創した足利義兼の父・義康と、その父(つまり義兼の祖父)である義国二人のお墓もあります。下の写真がそのお墓で、本殿の直ぐ真裏、瑞垣の内側にあります。本殿御祭神の「源氏の祖」というのは、この二人の事らしいです。

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神道は、何よりも清浄を尊び、人の死や遺骸などは「不浄」や「ケガレ」として捉えるため、本来の神社であれば、本殿とお墓が隣接して建つという事はまずほとんど有り得ないのですが、ただ、久能山東照宮の廟所、日光東照宮の奥宮、といった例外もあるので(これらの二例はいずれも、御祭神のお墓と本殿が極めて近接しています)、本殿とお墓が隣接しているのが必ずしも絶対にアウト、というわけではないのでしょう。
そもそもこの御霊屋は寺院の境内に建つ、非常に神仏習合色の濃いお宮なので、どのみち普通の神社とは性格が異なりますし。


そして下の写真は、御霊屋の直ぐ隣に建つ大酉堂です。こちらは御霊屋とは違い、神社建築ではなく、他の堂宇と同様、仏教本来のお堂の形式が採られています。
大酉堂の前に立てられている解説板によると、このお堂は、元々は足利尊氏をお祀りするお堂として室町時代に建立されたもので、江戸時代や明治時代初期の鑁阿寺伽藍配置図には「足利尊氏公霊屋」と記載されていたそうです。このお堂には、御霊屋の拝殿内にお祀りされていた束帯姿の尊氏座像とは別の、甲冑姿の尊氏像も、お祀りされていたそうです。
しかし明治時代中期以降、尊氏を逆賊とする歴史観が台頭してきた事により、大酉堂の尊氏像はここから本坊に移され、それに代わって、俗に「おとり様」と称される、武神でもある大酉大権現が御本尊になったのだそうです。現在、大酉堂と称されているのはそのためです。

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私は平成26年1月20日の記事の中で、以下のように書いた事があります。
ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。

こういった事を踏まえて、私は、南朝方の天皇・皇族・公家・武将ではなく、北朝方(足利氏や北朝を支援した室町幕府の武将も含む)が信仰対象となっている社寺が無いものか、ずっと探していたのですが、それを、今回の足利市探訪で、鑁阿寺にて漸く見つける事が出来たのでした。

御霊屋は、足利将軍が本殿の主祭神としてお祀りされていたわけではないものの、かつては御霊屋自体が足利大権現と称されていて、拝殿内には歴代の足利将軍像がお祀りされていたとの事ですから、歴代の足利将軍も恐らく信仰の対象、もしくはそれに近い存在として扱われてはいたのでしょう。
ここで言う「歴代の足利将軍像がお祀りされていた」というのが、祀るという字面通り、本当に信仰対象として、配神もしくはそれに準じる御神霊の依代としてお祀りされていたのか、それとも、奉安場所が本殿ではなくあくまでも拝殿なので、単に御神宝や威儀物等に近いような位置付けでそこに奉納されていたのか、その点は不明ですが、歴代の足利将軍像がいずれも比較的綺麗な状態で現存しているらしい事から、兎も角、いろいろな人達の思いを受けながら時代を超えて大切にされてきたのは確かといえそうです。

そして大酉堂は、御祭神としてではないものの、前述のように、はっきりと尊氏が(具体的にどういった形でかは不明ですが、恐らくは神式ではなく仏式で)お祀りされていたようです。
御霊屋と大酉堂それぞれのかつての位置付けは、御霊屋が源氏の祖と歴代の足利将軍全員の霊廟、大酉堂が室町幕府初代将軍である尊氏個人の霊廟、という感じだったのかもしれませんね。

北朝の天皇・皇族・公家や、室町幕府の将軍・武将などをお祀りする社寺は、現在でこそ、その数はほぼ皆無に近いですが、明治時代よりも前の時代は、やはりもっとあったのでしょう。私は今回、鑁阿寺で、その名残を見る事が出来ました。
南朝の天皇・皇族・公家・武将をお祀りする社寺などは、それと反比例して、逆に明治時代以降に多くなったのではないかなと思います。


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栃木県足利市と足利尊氏の関係

私は先週、1泊2日の日程で、東京・栃木方面を旅行してきました。
今回栃木県へ行ったのは、前々から一度は訪ねてみたいと思っていた、同県の足利市を訪問し、市内にいくつかある足利氏所縁の場所や物等を見学するためです。

足利市は、関東平野突き当りの、楓の葉のように広がる山と裾野に位置する、清和源氏 義家流四男・義国からの足利氏所縁の地です。
かつて足利荘と称されたこの辺りは、平安時代末期に足利義兼が源頼朝の縁戚として鎌倉幕府創設に尽力して以降、有力御家人となった足利氏の本貫地として発展し、南北朝時代に足利尊氏が京都で幕府を開いて以降は、足利将軍家発祥の聖地として、幕府の直轄地となりました。
絹の産地として、近世近代に於いては織物業が発達した街でもあります。

しかし足利は、確かに足利氏所縁の地ではあるのですが、歴史的にみると、実は足利尊氏所縁の地とはいえません。尊氏自身は丹波国(現在の京都府綾部市)で生まれ、鎌倉で育ち、建武の新政以後はほぼずっと京都に拠点を置いており、彼自身は一度も足利を訪れた事が無いからです。
戦の都合とはいえ、尊氏は九州など、鎌倉や京都からみるとかなり遠い所にも行っているのですが、鎌倉と同じく関東地方であるはずの足利には一度も足を踏み入れていない事から、尊氏自身も足利という土地には特に強い思い入れは無かったのかもしれません。

つまり足利という地は、尊氏個人や足利将軍家所縁の地というよりは、尊氏の父・貞氏以前7代の足利家所縁の地、と云ったほうが、より正確かもしれません。
勿論、前述のように室町幕府も足利を特別な地として保護し、将軍家から足利の社寺への寄進等も行われてはいましたが、実際には、その立地関係から、むしろ足利は、足利将軍家よりも鎌倉公方足利家との関わりのほうが深かったようです。

というわけで、現在の足利には、本来であれば尊氏所縁のものは然程多くは無いはずなのですが、なぜか足利市内には、尊氏に関するものがいろいろとあります。
今回の記事では、私が足利市内で見てきた、それら尊氏と関係のあるものを紹介致します。


まずは、束帯姿の足利尊氏像です。
足利市のランドマークともいえる、日本最古の学校で日本遺産にも指定されている「足利学校」の直ぐ近くに立っており、台座には「征夷大将軍足利尊氏公像」と記されています。
日本史の偉人の一人ではあっても、足利という郷土の偉人というわけではない尊氏のこの像を、足利市民はどのように思っているのでしょうか。

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足利学校の近くには、平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」の放送を記念して建てられた「太平記館」という観光案内所・お土産屋さんがありました。
この建物の名前を見た時、「あれ、足利って太平記の舞台になっていたっけ?」という疑問が一瞬過りましたが、そういう細かい事は言わない約束です(笑)。

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太平記館の中には、NHK大河ドラマ「太平記」で主人公・尊氏の役を演じた真田広之さんが、劇中で実際に着装していた甲冑一式が展示されていました。これが足利市に置いてある必然性については兎も角、これはこれでなかなか興味深い展示物でした。

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太平記館では、足利市のイメージキャラクター「たかうじ君」のグッズも売られていました。
足利市の公式ホームページによると、「足利学校の学校門と足利尊氏公の兜(かぶと)をかたどった帽子をかぶり、手には織物を持ち、足利市章を盛り込み、足利市をキャラクター全体で表現しています」との事です。
足利市が足利氏と歴史的に関係が深いのは確かなので、足利一門を代表する人物を市の象徴として使いたいというのは分かりますが、尊氏よりも前の世代の足利さんだと、誰を起用した所で知名度ではやはり尊氏に負けてしまうため、ここでも、あえて尊氏の名前を使う事にしたのでしょう。

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ちなみに、前出の「足利学校の学校門」というのは、下の写真の門の事です。今回、私は足利市には約3時間半滞在し、足利学校も見学してきました。
学校門に掲げられている扁額「學校」の文字は、明人の蒋 龍渓(しょうりゅうけい)が弘治元年(1555年)に来日した時の書を、当時の国史館の狛庸(こまやすし)が縮模したものだそうです。たかうじ君の額に記されている「學校」という旧字は、この扁額からきています。

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足利市中心部を東西に走るメインストリートのひとつである中央通り(旧国道50号)には、「尊氏通り」という愛称が付けられていて、尊氏通りの歩道には、その名称と尊氏の花押が刻印されたプレートが数メートルおきに埋め込まれていました。
室町時代なら、尊氏の花押の上を通行人が歩く(場合によっては踏みつける)なんて当然許されなかったでしょうね(笑)。

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というわけで、現在の足利市に、直接尊氏に関する史料・史跡等はほとんど残っていないものの、比較的最近になって作られた、尊氏に関するものはいろいろとあり、今回の旅行ではそういったものについても楽しみながら見てきました。
ちなみに、「足利氏宅跡」として国の史跡にも指定されている、足利市内の鑁阿寺(ばんなじ)というお寺には、足利家歴代大位牌、尊氏を含む歴代足利将軍15人の木像、尊氏直筆の書状など、直接尊氏に関わるものが現在もいろいろと保管されている事も、最後に一言補足しておきます。


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高幡不動尊の上杉堂

私は先週、2泊3日の日程で、東京・熱海・浜松方面を旅行してきました。
東京では、いつも通り区内の神社・仏閣・史跡等をいくつかまわってきましたが、今回は区外の日野市にも足を伸ばし、同市高幡にある、関東三大不動のひとつ「高幡不動尊」も参拝・見学してきました。
ちなみに、一般に広く知られている高幡不動尊という名は通称で、寺院としての正式名称は「真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺」と云います。

日野は、江戸時代末期の京都や明治時代初期の戊辰戦争などで活躍し今も人気の高い、新選組副長・土方歳三の出身地としても有名なため、高幡不動尊も、歴史好きの人にとっては新選組関係のスポットとして知られており、実際、高幡不動尊境内には隊服姿の土方歳三の像が立っています。
実は私も個人的に土方歳三は結構好きで、過去には土方所縁の地を何か所も訪ねてもいます(具体的には、京都の壬生寺・西本願寺・金戒光明寺・旧八木邸・旧前川邸・池田屋事件跡・伏見奉行所跡、会津の鶴ヶ城・旧滝沢本陣・近藤勇の墓・清水屋旅館跡・会津新選組記念館、函館の五稜郭・土方歳三最期の地碑・土方歳三凾館記念館など)。

高幡不動尊の土方歳三像


しかし、今回の高幡不動尊参拝・境内散策で、特に私の目を引いたのは、正面に「上杉憲顕公墳」という篇額が掲げられている小さなお堂でした。「上杉堂」「上杉憲顕の墳」などとも称されているこのお堂は、その名が示すように、上杉憲顕という武将の墓所です。

高幡不動尊の上杉堂_1

高幡不動尊の上杉堂_2

一般に上杉憲顕というと、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍し、初代関東管領を務めた、山内上杉家の始祖となった上杉憲顕を思い浮かべる人が多いと思いますが、この上杉堂で祀られている上杉憲顕は、その憲顕とは同名の別人で、室町時代中期の、犬懸上杉家のほうの上杉憲顕です。
はっきり言うと、初代関東管領の上杉憲顕に比べるとかなりマイナーな人物で、しかも、この人物を漢字で表記する場合、大抵は「上杉憲秋」と表記される事のほうが多いので、同名二人の混同を防ぐため、この記事でも以降は憲秋と表記します。


憲秋に関しては、現在学校で習う日本史に於いては、当人よりもその父親であり関東管領も務めた上杉氏憲、通称・上杉禅秀のほうが名前を知られています。禅秀は、俗に云う「上杉禅秀の乱」という戦乱を起こした人物であるからです。
上杉禅秀の乱とは、簡潔にまとめると、犬懸上杉家の上杉禅秀が、主君である第4代鎌倉公方の足利持氏から関東管領を更迭され、自分とは対立関係にあった山内上杉家の上杉憲基が次の関東管領に任じられた事から、それを恨んで、足利持氏に対して起した反乱です。
挙兵した禅秀の軍勢は、一時は鎌倉を制圧下に置くなど善戦しますが、足利持氏と上杉憲基らはその直前に鎌倉の脱出に成功し、持氏は駿河の今川範政の元に逃れ、そこから幕府に援助を求めました。室町幕府第4代将軍 足利義持は、その求めに応じて持氏・憲基らを支持する事を決定し、禅秀討伐の軍勢を差し向け、これにより、駿河や相模などで、幕府・鎌倉公方・関東管領の連合軍と、前関東管領(禅秀)の軍が衝突します。
結果は、禅秀が敗北し、禅秀は鎌倉雪ノ下で自害し、この敗北から犬懸上杉家は没落しました。

憲秋はその禅秀の子で、上杉禅秀の乱では父に従って一軍を率いて足利持氏と戦いましたが、病のため途中で戦線を離脱して京都へと逃れたため、この戦乱では命を落とす事はありませんでした。
しかし関東ではその後、「享徳の乱」が勃発します。この乱は、第8代将軍 足利義政の時代に起こった関東地方に於ける大規模な内乱で、第5代鎌倉公方で後に初代古河公方となる足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を暗殺した事に端を発して、幕府、鎌倉公方(古河公方)、山内上杉家、扇谷上杉家などが争い、その戦火は関東地方一円に拡大し、関東に於ける戦国時代到来の遠因ともなりました。

憲秋は、その享徳の乱の初戦に於いて、足利成氏(憲秋にとっては、父の仇である持氏の子)を討伐するため、扇谷上杉家の上杉顕房や、長尾景仲らと共に転戦し、先陣も務めたものの、成氏の猛攻の前に立川河原で破れ、最期は深手を負って高幡寺に入り、そこで自刃して果てました。
憲秋のその最期の地が、現在の高幡不動尊で、高幡不動尊境内に憲秋の墓所である上杉堂が建っているのは、そういった経緯によるものです。

高幡不動尊の上杉堂_3

上杉堂の堂内中央に安置されている自然石は、「茶灌石」(ちゃそそぎいし)、「茶湯石」などと称され、憲秋の墓標とされています。
壁に立てかけられている沢山の塔婆、あちこちから吊るされている千羽鶴、壁や柱に貼られている多くの千社札、お供えされている綺麗な花、清掃が行き届いている様子など、堂内の現況からは、ここには今も信仰が根付いているんだなという事が感じられました。ただ、その信仰は、上杉憲秋という武将個人に対してというよりは、堂内の仏像や茶灌石に対してのものなのかなとも感じましたが。


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太平記のゲームソフト

突然ですが皆さん、「PCエンジン」という家庭用ゲーム機を知っていますか?
PCエンジンとは、昭和62年にNECホームエレクトロニクスから発売された据置型のテレビゲーム機です。昭和62年というと、今から30年近くも前の事ですから、今となっては、PCエンジンはもはや歴史的な存在のレトロゲーム機ですが、発売当時は常識を覆す高速・高性能を誇った、一世を風靡したゲーム機でした。

発売翌年の昭和63年には、家庭用ゲーム機としては世界初となる専用のCD-ROMシステムも発売され、その先進性は今でも高く評価されており、任天堂の絶対的なシェアを崩すには至らなかったものの、PCエンジンは新規ハードとして一定の普及に成功しました。
ちなみに、PCエンジンは、発売当初は主に任天堂のファミリーコンピュータと競合していましたが、後には、任天堂のスーパーファミコンやセガのメガドライブなどと競合しました。

以下の写真2枚は、数ヶ月前に我が家で撮影した、PCエンジンとそのソフトです。PCエンジンの本体は何度もリニューアルされていますが、私が所有しているのは、平成6年に発売された、PCエンジンの最終型「PCエンジンDuo-RX」です。

PCエンジン_01

PCエンジン_02


さて、今回このブログでなぜ突然PCエンジンを取り上げたのかというと、それは、PCエンジン用の以下の2本のゲームソフトを紹介するためです。
平成3年にインテックより発売されたPCエンジンCD-ROMの「太平記」と、平成4年にNHKエンタープライズより発売されたPCエンジンHuCARD(ヒューカード)の「NHK大河ドラマ太平記」の2本です。数年前に中古市場で見つけて購入しました。
どちらも、当時放送されていたNHK大河ドラマ「太平記」に合せて開発・発売された、南北朝時代をテーマにした戦略シミュレーションゲームで、この時代を舞台にしたシミュレーションゲームというのはかなり珍しいです。

PCエンジン「太平記」_01

PCエンジン「太平記」_02


PCエンジンのゲームソフトの形態は、大別すると、独自の規格である「HuCARD」というROMカードと、その後の各種家庭用ゲーム機でソフトの主流となっていった「CD-ROM」の2種類があり、太平記のソフトは、上の写真を見て戴ければお分かりのように、この2種に分かれて発売されました。
メディアとしてはCD-ROMのほうが新しいのですが、両ソフトを比較すると、実際にはCD-ROMの「太平記」よりも、HuCARDの「NHK大河ドラマ太平記」のほうが、ソフトとしては後発でした。

しかし実は私、この両ソフトは、数年前に入手して以来、ずっとしまったままで、まだプレイした事はありません。近々、実際にプレイしてみようと思います!

ちなみに、CD-ROMの「太平記」のほうのキャラクターデザインは、前回の記事で紹介した横山まさみち版のコミック「太平記」の著者である、横山まさみちさんが担当されています。


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太平記のコミック

日本を代表する軍記物語のひとつ「太平記」は、古事記、今昔物語集、宇治拾遺物語、徒然草、平家物語、吾妻鏡、雨月物語などと共に、特に私が大好きな古典文学で、私にとって太平記は、数ある日本の軍記物の中ではあの平家物語と双璧を成す、最高傑作ともいえる作品です。個人的にも、結構思い入れの強い作品です。
残念ながら世間一般では、平家物語や、戦国時代を舞台とした各種の軍記物などに比べると、太平記は必ずしも内容が広く周知されているとは言い難い状況ではありますが…。

太平記は、軍記物語の傑作としてのみならず、中世日本の代表文学のひとつでもあるため、今まで何度かマンガ化もされています。今回は私が所蔵している、それら太平記のコミック(太平記をマンガ化した作品)を、以下に5作品、紹介致します。
なお、昨年11月6日の記事で紹介した「コミック版 日本の歴史」シリーズや、本年4月24日の記事で紹介した「週刊マンガ日本史シリーズ」などは、内容的には太平記の時代も舞台となっているものの、タイトルに太平記を冠していない事から今回の記事では紹介対象から除きました。



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中公文庫『マンガ日本の古典18 太平記(上)』
中公文庫『マンガ日本の古典19 太平記(中)』
中公文庫『マンガ日本の古典20 太平記(下)』

著者:さいとう・たかを、 発行:中央公論新社、 初版:平成12年

ゴルゴ13で有名な、日本を代表するマンガ家のひとりで劇画の第一人者であもる さいとう・たかを氏が、迫真の筆致で描く、太平記の決定版といえるコミックです。
現実の歴史と虚構の物語が入り混じっている太平記を、そのまま忠実にマンガ化する事よりも、太平記で描かれている時代の一連の流れを、時系列に沿ってリアルにマンガ化しようとしたと思われる作品で、そのため、史実としての鎌倉時代末期から南北朝時代の一連の流れを知りたい人にとっては、歴史の勉強にもなる作品です。
鎌倉幕府末期から観応の擾乱までが描かれていますが、史実に拘る傾向からか、原作の太平記に登場する悪霊などのエピソードは全て割愛されています。
ちなみに、上巻の表紙は北条高時、中巻の表紙は楠木正成です。
個人的には、かなりオススメの作品です。



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『歴史コミック86 コミック太平記(一) 楠木正成 笠置の巻』
『歴史コミック87 コミック太平記(二) 楠木正成 千早の巻』
『歴史コミック88 コミック太平記(三) 足利尊氏 六波羅の巻』
『歴史コミック89 コミック太平記(四) 足利尊氏 室町の巻』
『歴史コミック90 コミック太平記(五) 新田義貞 鎌倉の巻』
『歴史コミック91 コミック太平記(六) 新田義貞 燈明寺畷の巻』

著者:横山まさみち、 発行:講談社、 初版:平成2~3年

各巻の副題を見ればお分かりのように、他の太平記のコミックとは違い、楠木正成、足利尊氏、新田義貞の3人を主人公として、2巻毎に、それぞれの主人公の視点から描かれています。
そのため、時系列的には当然重複する箇所が多数あり、また絵柄には、いかにも“昭和”という感じの古臭さも感じられるものの、ストーリーはいたって真面目で、普通に面白かったです。
義貞の視点から太平記が描かれる事はあまり多くないので、個人的には、義貞が主人公の5・6巻が新鮮でした。
あと、全体を通して、坊門宰相清忠なる人物がどうしようもない無能として描かれていたのも、印象に残りました(笑)。



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『マンガ太平記 上巻』
『マンガ太平記 下巻』

監修:兵藤裕己、 画:甲斐謙二、 発行:河出書房新社、 初版:平成2~3年

原作だと全40巻にも及ぶ長大な太平記を、僅か上下2巻のコミックとしてまとめているので、どうしてもダイジェスト版的な内容になってしまっている感は拒めませんが、その割には意外とうまくまとまっているとも思います。最後のほうは駆け足ながら、一応、原作同様、足利義詮の死去まで描かれていますし。
正成が死後に怨霊となって現れるエピソードは割愛されていますが、「宮方の怨霊六本杉に会する事」のエピソードは再現されています。太平記の中で描かれている怨霊のエピソードまでマンガ化されるのは、珍しい事だと思います。
てっとり早く太平記を知りたい人にはオススメの作品です。多少の前提知識は必要になるかもしれませんが。



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SP comics『私本 太平記 一』
SP comics『私本 太平記 二』
SP comics『私本 太平記 三』
SP comics『私本 太平記 四』

著者:岡村賢二、 原作:吉川英治、 発行:リイド社、 初版:平成19~20年

NHK大河ドラマ「太平記」の原作ともなった、吉川英治氏晩年の傑作「私本太平記」をマンガ化した作品で、私としては、絵柄、各キャラクターの魅力、ストーリー展開などにもかなり好感が持てたコミックなのですが、太平記全体では初期のエピソードにあたる、建武政権下で護良親王が幽閉される所で唐突にストーリーが終わってしまったのが残念でした。
バサラ大名の代表格といえる佐々木道誉は、所属や主人をコロコロと変える所謂“裏切り”が当たり前だった当時にあって首尾一貫、室町幕府・北朝方に仕えた、足利将軍を支え続けた幕府の重鎮ですが、このコミックでは、鎌倉幕府討幕の挙兵をするまでは、道誉と尊氏との関係はかなり緊迫したものとして描かれており、その描写も面白かったです。
あと、コミック1巻で描かれていた、日野資朝が菊王に伝言を託して日野俊基を庇うシーンは、なかなか感動的でした。資朝から俊基へのその伝言は、以下の通りです。「この資朝も貴公と同じことを考えていた。罪はどちらか一人が被ればよい。しかしその一人は、断じてこの資朝でなければならぬ。貴公よりも自分の方が上卿であり年長でもあるゆえ、鎌倉も張本人はこの資朝と断ずるはず。もし貴公が 首謀者は我なり と申せど、それによりこの資朝を不問に付すはずもない。さすれば、貴公の死は無駄になる。罪はこの資朝が一身に被るゆえ、貴公は再び都に帰り、帝座の周囲を鼓舞し続けてほしい。君よ迷うな、世に残れ…!死ぬのはこの資朝一人でよい…!」
原作の私本太平記を最後まで忠実に再現していたら、歴史物の名作マンガになったのではないかと思える作品だけに、未完が惜しまれます。



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『コミグラフィック日本の古典16 太平記』
構成:辻真先、 画:一峰大二、 発行:暁教育図書、 初版:昭和62年

ストーリーは後醍醐天皇崩御までが描かれておりますが、本としてはコミックと絵本の中間のような形態で、しかも1冊にまとまっているため、全体的に見るとストーリーとしてはかなり広く浅く、という感じになっています。絵柄は、先に紹介した横山まささみ氏のコミックよりも更に古臭く、まるで戦中か、戦後間もなくに描かれたマンガを読んでいるかのような印象を受けました。
尊氏は、戦前・戦中の歴史観を反映してか、かなり狡猾な人物として描かれており、この作品での尊氏は、全然好感の持てる人物ではありませんでした。ちなみに、尊氏の外見や容姿は、平成25年1月27日の記事で詳しく取り上げた「南北朝時代の騎馬武者像」をモデルとしているらしく、ざんばら髪が剥き出しになっているのですが、合戦の最中なら兎も角、その姿で衣冠らしい装束を着装して参内している姿には、さすがに違和感を感じました。
というわけで、これはあくまでも私の主観ですが、あえて購入してまで見る価値は低い作品です。古い作品ですから、欲しいと思ってもそもそも入手は困難だとは思いますが。



とりあえず、どの太平記のコミックを読んでも共通して感じるのは、鎌倉幕府は倒れるべくして倒れ、そして、後醍醐天皇による建武政権も、やはり倒れるべくして倒れたのだな、という事です。
後醍醐天皇がおられなくても、(その時期は確実に遅れていたでしょうが)やはり鎌倉幕府は間違いなく崩壊していたでしょうし、そして、尊氏が叛かなかったとしても(そもそも尊氏がいなかったとしても)どのみち建武政権が長期政権となる事は無かったでしょう…。


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