この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

楠木正成・大河ドラマ誘致協の活動が広がりを見せています

特に関西などを中心に「楠公(なんこう)さん」の愛称で親しまれている、鎌倉時代末期や南北朝時代に南朝方の有力武将として活躍した楠木正成と、その嫡男である正行(まさつら)の2人を主人公にしてNHK大河ドラマ化の実現を目指す、自治体で作る誘致協議会が、ここ最近、着実な広がりをみせています。

この誘致協議会に会員として入会している自治体は近畿圏が中心で、現在のところ、京都市・神戸市・大阪市・堺市など関西の政令指定都市全てを含む5府県35市町村が加盟しており、今月16日には、誘致協議会の会長である島田智明 河内長野市長が、阪口伸六 高石市長(府市長会会長)や、松本昌親 千早赤阪村長(府町村長会会長)達と共に、門川大作 京都市長を表敬訪問し、楠木親子の大河ドラマ化についての意見交換も行っています。

広がる「楠木正成・大河ドラマ誘致協」

誘致協議会は、今年4月に25市町村で発足し、最近では近畿以外の自治体にも広がりを見せ、鳥取県大山町なども参加するなどしていました。この勢いを更に拡大させるため、また、太平記には「隠岐から脱出されて鎌倉幕府を倒された後醍醐天皇は、楠木正成の先導で京都へ御帰還された」といった内容が記されており京都は正成を語るうえで欠かせない場所のひとつとされている事から、誘致協議会は京都市へも参加を呼びかけていました。

そして、その呼びかけに応じる形で、9月下旬に誘致協議会への京都市の加入が決まり、前述の京都市への表敬訪問は、それを踏まえた上での返礼として行われたのでした。
報道によると、会長である島田 河内長野市長は、「京都は日本の歴史を語るうえで欠かせない。京都市が入ってくれた事でますます大河(ドラマ化実現)に近づいた」と述べて、大河ドラマ実現への期待を寄せ、門川 京都市長も、「子供の頃に楠木正成の本を読み、強烈な印象が残っている。今の日本を作った先人をしっかりと学んで未来に生かしていく、さらに地域振興に生かす事は非常に大事。しっかりと連携し(大河ドラマ化実現に)取り組んでいきたい」と語り、大河ドラマ実現に向けて協力する姿勢を示しました。

楠木正成・正行が実際に歴史の表舞台で活躍したのは、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけてのごく短い期間だけですから、私の個人的な所感としては、1年間にも及ぶ長期の大河ドラマでその二人の生涯だけを描いていくのは、ちょっと長過ぎるのではないか、ドラマとして何となく間延びしてしまわないかな、という懸念が正直無くはありませんが、その反面、楠木正成・正行がドラマでどのように描かれ活躍するのか見てみたい、という期待感も勿論あります。
私としては、以前民放で毎年年末に放送されていた、12時間ぶっ続けの「年末時代劇スペシャル」などの枠で放送されると、短かすぎず長すぎずで丁度いいのかな、という気もします。もっとも、今はもう、その枠も番組もありませんが…。


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楠木正成と足利尊氏をそれぞれ主人公にしたコミック

先日、たまたまコンビニの書籍コーナーで見かけた、『劇画 楠木正成』と『劇画 足利尊氏』という2冊のコミックを同時に買って、早速読んでみました。
著者は異なりますが、どちらもゴマブックスという同じ出版社から刊行されている、所謂コンビニコミック(装丁は簡易な厚紙の外装のみで、普通の漫画単行本と違ってコスト削減のためカバーは付いていない廉価版コミックス)です。

楠木正成と足利尊氏をそれぞれ主人公にしたコミック


劇画 楠木正成』は、そのタイトルから、正成の生涯を描いた伝記コミックなのかと思いきや、正成の誕生から湊川の戦いに至るまでの流れは、プロローグの数ページで済ませており、本編のほぼ全ては、正成と尊氏が戦い正成にとっては最期の戦いとなった湊川の戦いを、太平記などの記述に従ってほぼ忠実に描いたものとなっていました。
つまり実態は、正成の生涯をマンガ化した伝記コミックではなく、主に正成の視点から、湊川の戦いというひとつの合戦(正成にとって人生最後の日となる一日の出来事)をマンガ化した作品といえます。

ですから、それまで数々の奇策により常勝を続けてきた正成の華々しい活躍は見られませんが、この作中での正成は、私達が楠木正成と聞いてイメージする人物像・性格の正成そのもの(戦上手、人望が厚い、領民思い、一貫して後醍醐天皇に尽くした忠臣)であり、ラストはやはり、「七生報国」という言葉を後世に遺した事で有名な、楠木一党のあの自害シーンで終わる事になります。
ちなみに、尊氏は敵方の大将として、一応作中には登場はしますが、尊氏の顔が正面からはっきりと描かれるシーンは一度だけで、作中で存在感は示すものの、メインキャラの扱いではありませんでした。


もう一方の『劇画 足利尊氏』は、読んでみると、『劇画 楠木正成』以上に予想を裏切られました。
この作品は、誕生から病没までの尊氏の一生が描かれているので、史実に忠実ではあるか否かとい点を除くと、とりあえず尊氏の伝記的なコミック(一代記)ではあると言えない事もないのですが、実際には、尊氏が御家人として鎌倉幕府に仕える所から鎌倉幕府を討幕する所までの期間の描写に作品の大半が費やされていて、その後(建武の新政から尊氏の病没まで)については、一応50数ページは費やされているものの元々コンビニコミックとしては分厚い本なので、作品全体の中では、本編の一部というよりはエピローグ的な扱いになっています。

そして、この作品『劇画 足利尊氏』の何よりも凄い所は、前出の『劇画 楠木正成』とは違って、時に史実をほぼ無視し、作者の独創的なオリジナルの設定やストーリーが随所で自由に展開されているという事です(笑)。
とはいっても、所謂“架空戦記”の類ではないの、鎌倉幕府は後醍醐天皇方が興した討幕軍の完全鎮圧に成功してその後も鎌倉幕府は存続したとか、一旦鎌倉幕府は滅びたものの北条時行が幕府の再興に成功したとか、湊川の戦いでは尊氏のほうが戦死したとか、そういったトンデモな事態は起こりませんが、例えばこの作品の中で描かれていた以下の3点は、明らかに史実ではないと思われます。

 全国から秀才が集まるとされる「京都学問所」という、都にある学舎で、鎌倉時代末期、尊氏、正成、新田義貞、日野資朝の娘である日野紫の4人が、同期の学友として1年間共に学んだ。この時、尊氏・正成・義貞の3人は、「立場は違ってもこれからも俺たちは親友だ」と約束もし合っている。 …この解釈だと、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕の挙兵する以前から、尊氏と正成は個人的な友人であった事になりますね。
 「我が命を縮め三代の後に天下を取らしめ給え」といった内容の遺言(置文)を残して足利家時が自害した部屋が、床に血糊も付いたままの状態で、足利館では開かずの間として密かにそのまま保存されていて、尊氏は初めてその部屋に入って、「俺は天下を取るために生まれた、足利の申し子なのか!」と知り決意を新たにする。
 湊川の戦いでは、尊氏と正成の一騎打ちが展開され(オイオイ!)、その後正成は、「尊氏、こんなふうになってしまったが、俺はおまえと会えて嬉しかった…」とその場で尊氏に直接言い残し、そのまま尊氏の眼前で自害して果てる。

あと、尊氏はかなりやんちゃな跳ねっ返りで、鎌倉幕府の武士であった当時から、北条高時に対して露骨に反抗的な態度を示すなどの描かれ方がされており、それに対して正成のほうは どちらかとういうとクールでニヒルな二枚目で、泥臭さが全く無い描かれ方をされており、私としてはそれも違和感を感じましたが、逆に、ちょっと新鮮で面白かった作品ともいえます(笑)。

ちなみに、足利家時の置文伝説は、難太平記にも記されている事から有名なエピソードではありますが、今日では史実としては認められていません。


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結局のところ、室町幕府は強かったのか?弱かったのか?

前回の記事では、「有力な守護大名の台頭や、鎌倉公方の度重なる反逆などにずっと悩まされながらも、どうして室町幕府は二百数十年も存続する事が出来たのか?」「そもそも、二百数十年も続くような長期政権は、脆弱と言えるのか?」という問題提起をし、つまり、従来の弱々しいイメージとは違い、「室町幕府って、実は結構強大な政権だったのではないか?」という可能性を示しました。
しかし、一般的には、室町幕府に対してはやはり「全国的な統一政権としては非常に脆弱」「統制力や実行力の欠けた弱々しい政権」「統率力が無かったからこそ、戦国時代を招いてしまった」というイメージが定着しています。

では、結局のところ、室町幕府は強大で強力な政権だったのでしょうか、それとも脆弱で実行力の無い政権だったのでしょうか。

室町幕府の組織図


先ず、室町幕府は弱かった、という立場から考えてみます。

江戸幕府の歴代将軍にはそのような者は一人もおりませんでしたが、室町幕府の歴代将軍の中には、家臣に暗殺されたり、家臣に追放されたりした者がおりました。そのような下克上が何度も起こってしまうという事は、当時の幕府や将軍の権威・権力は必ずしも絶対的なものではなく、かなり不安定なものであった、と考えるのが妥当でしょう。

また、実質的に「応仁の乱」を引き起こしてしまったといえる8代将軍義政のように、非常時にも拘わらず将軍としての覚悟も資質も全く無かった者さえおり、そして、その応仁の乱の結果、戦国時代の到来を許す事となり、世の中を更に混沌とさせ、室町幕府や足利将軍家の権威は完全に失墜する事になりました。
室町幕府歴代将軍の中には、初代将軍尊氏のようにカリスマ性の高い将軍や、3代将軍義満のように絶対的な権力を誇った将軍もいましたが、室町時代という時代全体を通してみると、そのような将軍はむしろ例外的な存在といえるでしょう。

それだけではありません。室町幕府は、本来は幕府の出先機関(地方の一部署)に過ぎない鎌倉府(鎌倉公方)による度重なる反乱にもずっと悩まされ続けました。そのため関東に於いては、応仁の乱勃発以前から、既に幕府の権威は失墜していたと見る事も出来ます。
室町時代末期の頃には、幕府の将軍職はもはや有名無実となっており、将軍家の領土すら他の大名達に掠め取られる有様で、幕府は自分達のお膝元である山城国一国の維持すら困難な状態になっていました。

以上のような歴史的事実を鑑みると、室町幕府に「統制力や実行力が欠けていた」「全国的な統一政権としては弱々しかった」といった側面があったのは確かです。ですから、「室町幕府が弱かった」という認識は間違いである、とは言い切れないでしょう。
では、どうして応仁の乱の勃発を防げなかったのか、どうして大名達は将軍の言う事を聞かなくなったのか、というと、それは一言で言うと「室町幕府が諸大名の統制に失敗したから」という事になります。

ではどうして、室町幕府は諸大名の統制に失敗したのでしょうか。
それにはいくつもの要因があり、よく云われるのは、形式的ではあっても一応は「御恩と奉公」という双務的・互恵的な主従関係を築いていた鎌倉時代の将軍と御家人の関係に比べると、室町時代の将軍と大名の関係はやや希薄な主従関係といえ、鎌倉幕府や江戸幕府に比べても室町幕府は“緩やかな連合政権”という性格が強かった、という事です。

しかし、それ以外にも勿論大きな要因はありました。
前述の「室町時代の将軍と大名の関係はやや希薄な主従関係であった」という点をその第一の要因とすると、第二の要因(とはいっても、これは第一の要因とも深く関わりがある事ですが)として挙げられるのは、新たな将軍家となった足利氏は確かに源氏一門の名門ではありましたが、それでも、沢山ある源氏一門の中ではそのひとつに過ぎず、足利政権下に於ける他の守護大名達と家柄に格段の差があったわけではなかった、という点です。
室町幕府の守護大名達にとっては、かつての同僚だった足利氏が将軍職に就いたのでとりあえず臣従しているだけであり、別の言い方をすると、「後醍醐天皇による建武政権の政治が武士達にとっては余りにも酷過ぎたたため、それを対抗するために、とりあえず、たまたま実力と人望があった足利尊氏を“神輿”として担いでみた」という事であり、そもそもは自分達だって足利氏とは家格や血筋に格別の差があるわけではないだろうという意識がかなり強く、つまり室町幕府は、源氏の宗家が将軍職を継承した鎌倉幕府とは違い(もっとも、その宗家は鎌倉幕府が開かれてから僅か三代で滅び、その後は藤原氏や皇族が将軍職を継承しましたが)、元々、大名達の将軍への臣従意識が低かったのです。

足利氏系図

だからこそ、大名達をきちんと押さえておかないと、将軍の言う事を全く聞かないという無秩序な事態が起きてしまい、実際そうなってしまったのが応仁の乱でした。
そういった意味では、実は江戸幕府も、構造としては室町幕府に似ていました。江戸幕府を開いた徳川家康は、足利氏と同じように同僚を抜いてトップに立ったわけですから。しかし江戸幕府は、室町幕府とは違って見事な大名統制を行い、幕末の混乱期が到来するまで、二百数十年にも亘って立派に将軍の権威を維持し続けました。

戦国時代と称された、室町時代の末期は、大名同士が好き勝手に領土争いを繰り広げ、隣国や更にその先の国にまで侵攻して合戦を行うなど日常茶飯事でしたが、江戸時代には、そんな事例(領土拡張のため大名が他藩に攻め入り合戦するなど)は一度も起こりませんでした。
ちなみに、幕末から明治期にかけて勃発した戊辰戦争では、藩同士が直接戦火を交える事もありましたが、あれは領土拡張争いではありません。
そういった意味では、江戸幕府の大名統制力はやはり優れており、そして、それが出来なかったのは、室町幕府の失政なのです。

では、江戸幕府とは違って、室町幕府はなぜ将軍の権威を維持出来ない不安定な政権になってしまったのでしょうか。
先程の続きとして、第三の要因としてそれを挙げると、室町幕府を創設し初代将軍となった足利尊氏という個人の人柄にもその要因を求める事が出来ます。ちなみに、下の写真は、足利将軍家の菩提寺である「等持院」霊光殿に奉安されている、その尊氏の木像です。

足利尊氏像_02

尊氏の人柄については平成28年10月12日の記事でも詳述しましたが、尊氏は一言で言うと、「出し惜しみをする事が一切無く、気前が良く、それでいて慈悲深くて優しい」という人物でした。猜疑心が強く次々と政敵を粛正していった頼朝や、常に“老練で計算高い狸親父”というイメージが付いてまわる家康に比べると、幕府を創設した初代将軍3人の中では、尊氏は間違いなく「いい人」でした。

しかし、「いい人」で「気前が良い」というのは、一個人としては長所になるのでしょうが、幕府を率いる将軍としては、かなり問題がありました。
というのも、尊氏は配下の大名達にほとんど何も考えずに気前よくどんどん領地を分け与えてしまったために、所謂「大大名」があちこちに出来る事となり、その結果として、守護大名が必要以上に強くなり過ぎ、後に幕府の言う事を聞かなくなる、という事に繋がったともみる事も出来るからです。
謀反を起こすなどして尊氏に敵対しても、降参さえすれば、尊氏には即座に過去の恨みを忘れ報賞を行う鷹揚さ(良く言えば度量が大きい、悪く言えばいいかげん)があったわけですが、それに対して家康は、大名に対して厳しい処分を行い、譜代大名にさえ広大な領地を分け与える事をせず、そのためケチとも云われました。しかし、その結果江戸時代は戦乱がほとんど無い“泰平の世”になったわけですから、家康としては、大名に権力と財産(領地)を同時に与えたらどうなるのかという事を、室町幕府の失敗からしっかりと学んでいたのかもしれません。

そして「慈悲深くて優しい」というのも、言い換えると「優柔不断で非情の決断が出来ない」という事であり、これも、幕府を創設した将軍としては、やはりかなり問題がありました。
南北朝の動乱が何十年にも及んだ要因は、勿論、南朝(後醍醐天皇の側)にもありますが、というよりも、私個人としてはその要因の半分以上はむしろ南朝側にあると思っていますが、しかし、尊氏の優柔不断さにも、確実にその要因を求める事が出来るからです。
具体的に言うと、かつて鎌倉幕府が後鳥羽上皇や後醍醐天皇を遠島に配流したように、尊氏も、後醍醐天皇の系統(大覚寺統)を配流するなどして政治の表舞台には二度と出られないようにし、更に、政敵となった実弟の直義を早めに処分しておくなどすれば、南北朝時代がああまで混沌とする事はなかったからです。

しかし尊氏は、無慈悲にも弟達を粛正した頼朝や、豊臣家を徹底的に滅ぼした家康とは違い、その「慈悲深くて優しい」性格故に、政敵を追い詰める事が出来ませんでした。
もっとも、尊氏も、政敵である護良親王を建武政権から失脚させたり、遅きに失した感はありますが最終的には直義も処分するなどしていますが(公式には直義は病気による急死ですが、太平記では尊氏による毒殺としています)、それでも、頼朝や家康に比べると尊氏の言動は間違いなく“大甘”で、その“詰めの甘さ”故の失策も多かったです。

特に大きな失策だったのは、目先の敵である直義を討つために、一時的とはいえ、南朝に降伏した事です。
所謂「正平一統」の事で、これが、辛うじて権威は維持していたものの軍事的にはほぼ壊滅状態にあった、衰退著しかった南朝を、政治勢力として復活させる事になり、結果として、幕府政治の確立を遅らせたばかりでなく、南北朝の動乱が長引く大きな要因となりました。
南朝が武家による幕府政治に対して極めて非妥協的な事は最初から分かっていた事であり、実際、その通りになって正平一統は破綻し、幕府は後に大変な苦労をして北朝を再興させる事になったわけですから、一時的とはいえ北朝を見捨てて南朝と安易な妥協をしてしまった事は、幕府にとっては明らかな失策でした。

逆にいうと、優しくはない人で、優柔不断ではなく、甘い判断を下す事なく、非情な決断が出来る人だったからこそ、頼朝や家康は、尊氏とは違って自分が存命のうちにほぼ盤石な体勢を築く事が出来たとも言えます。
尊氏の寛大さや度量の大きさとして評価される部分は、裏を返すと、武家を束ねる棟梁としてはリーダーシップに欠けており、大名達をつけあがらせる事になった、とも解釈する事が出来、それが、室町幕府の不安定さにも繋がっていった、とみる事が出来るのです。


室町幕府は弱かった、という立場からの考察はとりあえずここまでとし、次に、室町幕府は実は強かったのではないか、という逆の立場から考えてみます。

これについては、もうこの文章を紹介すればそれでほぼ全て事足りるでしょう、という文章があったので、その文章を、前回の記事で取り上げた「歴史REAL 足利将軍15代」という本から以下に転載させて頂きます。
これは、国際日本文化研究センター助教で作家の呉座勇一さんへのインタビューで、とても興味深い内容だったので、長い文章ではありますが以下にそのまま転載致します(二重鉤括弧内の緑文字)。


鎌倉幕府、江戸幕府という、前後の武家政権と比較して、力が弱かったのでしょうか?

鎌倉幕府は公家のことは朝廷に任せていますし、地域的に東国中心で守備範囲が狭く、全国政権という意識はあまりなかった。蒙古襲来の後ぐらいから徐々に全国政権化してくる動きもありますが、鎌倉幕府は基本的に東国武士のための政権です。全国政権である室町幕府の方が権力として進歩しているといえます。一方で、その後の織豊政権、江戸幕府という統一政権に比べると、そこまでの力はないのも事実です。

ただ、鎌倉幕府は最後の得宗北条高時の自害、江戸幕府は江戸城明け渡し、と終わり方が明確なのに対し、室町幕府はいつ滅んだのかよくわからないのです。一般に信長が義昭を追放したことで室町幕府は終わったと説明されますが、それは後世から見た結果論にすぎません。衰退しながらも結構しぶとく生き残り、最終的に秀吉が天下を取るまで室町幕府は続いていたとみることもできます。

というのも、室町幕府後半の将軍たちは、しょっちゅう京都からいなくなるし、むしろ京都にいるほうが珍しいくらいです。そうすると当時の人たちは「またか」くらいの感覚で、幕府が終わったとはおそらく思っていなかったでしょう。実際、信長は義昭の子どもを将軍に擁立しようと考えていた節がありますし、義昭に対し京都へ戻ってきてくれないかみたいな交渉もしています。
我われは結果を知っているから、信長が義昭を追放したから室町幕府が終わったといいますが、結果、衰退しながらも結構しぶとく生き残り、最終的に秀吉が天下をとるまで室町幕府は続いていたと見ることもできます。

鎌倉幕府が滅亡したときは建武の新政で大混乱に陥り、江戸幕府のときは明治政府が比較的うまく混乱を収拾しましたが、うまくいかなかった可能性もあった。当時の人たちにとっては、幕府が一瞬で崩壊して世の中が大混乱する事態は好ましいことではなかったはずです。ゆるゆると衰退しながら、そのなかで新しい政治秩序が徐々に形成されていったほうが、混乱がおきにくいはずで、室町幕府があっさり投げ出さないでしぶとく生き残ったことは、評価すべきだと思うんです。

これまでは、信長という革命児の登場によって室町幕府にかわる新しい政治体制がつくられたといわれていました。しかし最近の研究では、信長はどちらかというと、それまでの細川や三好とそんなに変わらず、将軍を立てつつ自分が実権を握ろうとしていた、つまり室町幕府の存在を前提としていたという理解に変わってきています。

要するに、室町幕府後半の将軍があまり力を持っていないにもかかわらず、その枠組みは結構強固だったんです。将軍個人のカリスマや権力に頼るのはある意味で非常に不安定で、現代の象徴天皇制を見ればわかるように、なんとなくみんながその存在を前提としているほうが強靱なのです。そういう意味で、室町幕府の存在をまわりが当然視したという点では、強い仕組みをつくったといえると思います。

なぜそのような仕組みをつくれたのでしょうか?

足利将軍家が源氏のなかで一番尊いのだという血統の権威を示して将軍を中心とする武家の家格秩序をつくったり、顕密・禅といった寺社勢力をおおむね支配下に置いたり、と複合的な要因があるのですが、注目すべきなのは三代義満期に将軍が公家社会に入っていって、公武の一体化がなされたことです。

以前は、義満が皇位簒奪を狙っていたという、天皇の権威を足利将軍が収奪していくイメージもありましたが、現在では、そうした公武対立という見方とはむしろ逆で、公武が一体化しているのが室町時代の特徴だといわれています。天皇と将軍がある時期に対立していたことがあったとしても、個人レベルのいざこざはどこの世界でもあるわけで、そういうレベルを超えた大きな仕組みとして公武は一体化していたのです。
これは、いままで足利将軍の人気がなかった原因とかかわってくると思うんですが、公家化していることでどこか軟弱なイメージがあったと思うんです。八代将軍義政はその典型で、東山文化に象徴される文化人で、全然武士っぽくない。

でもそれは、室町幕府が全国政権として機能するために朝廷を取り込んだ結果であって、政権として鎌倉幕府より一段上にいったということです。だから義満期以降、公家の側が積極的に武家から権力を取り戻そうとはならなかった。本能寺の変で朝廷黒幕説が一時いわれましたが、はっきりいってあり得ないです。
朝廷は武家に丸抱えの状態で経済的な支援をしてもらっているので、武家は大事なスポンサーです。ときどきカチンとくることはあったかもしれないですが、スポンサーに文句をいうなんてとんでもない話です。

じつはこうした公武対立という見方は、明治維新の影響がすごく大きいんです。明治政府はみずからを正当化するために、王政復古によって武家政権である江戸幕府を打倒したという、公武は対立していたというイメージをつくりあげました。
最近では幕末維新期の研究も進み、大政奉還で政権を返上したあとも徳川慶喜中心でやっていこうとほとんどの大名たちが思っていて、岩倉具視などなにがなんでも幕府を倒すというほうがむしろ少数派だったことがわかってきています。我われは、明治以降の公武対立という見方に、いまだに縛られているところがあるんです。

(中略)

一方で、全国政権化しながらその後の幕府は、有力守護大名の台頭に悩まされ続けます。

鎌倉幕府より守備範囲が広がったことで、将軍ひとりでなんでも決めるのは難しくなり、細川や山名や斯波といった有力大名との合議で政治を行うことになった。それは幕府の中身が発展したということから考えれば当然の流れで、避けられなかったと思います。

ただ、これは完全に私ひとりの考えなのですが、細川や山名が勢力を持ったのは結果論ではないかと思っています。
彼らがなぜ強いかというと、細川は四国、山名は山陰というように、複数の国の守護職をブロック領域として持っていたからです。それに比べると、例えば室町時代前期には三管領の筆頭だった斯波氏は尾張・遠江・越前とバラバラに持っていた。
我われは「信長の野望」の日本全国色分け地図のような、大名が一円支配を目指して勢力を拡大していくイメージを持っていますが、それは後の時代の話。ブロック的なまとまりで領地を持っていたほうが強いという意識は、尊氏や二代義詮のときは薄かったんじゃないかと思うんです。

というのも、鎌倉幕府の北条得宗家や有力御家人たちは領域的な所領を持っていたのではなく、経済的先進地域を分散的に持っていたんです。だから鎌倉時代からの流れを考えると、田舎でまとまっているよりも、バラバラでも稼ぎのいいところを点で持っていたほうが得だという考えが普通だったんじゃないかと思うんです。斯波が持っていた遠江や越前は港があってまさにいい場所です。
細川も山名も、もともとは南朝方と戦って勝ち取った場所を、実効支配の追認として与えられていただけで、幕府のほうはそれによって彼らがすごい力を持ってしまうなどとは、おそらく南北朝時代くらいまでは考えていなかったんじゃないかと私は思っているんです。

それはなぜかというと、ブロック支配というのは守護分国が世襲されて、代を重ねきめ細やかな行政支配ができるようになって初めて効力を発揮するからです。守護が更迭されて頻繁に入れかわるような状況では、面の支配もなにもない。それに、守護職は本来世襲するものという意識はなく、直義も「守護職は幕府によって任命される役職だから世襲できる財産ではない」と言っています。実際、南北朝期は軍事的な目的で守護が置かれ、戦闘が終わると交代してということがよく行われていました。
だから守護職が世襲され、ある程度時間が経って初めて、面の支配が意味を持ちだす。それが義満期になるとそうした長期的な支配の重みがはっきり出てきて、そうした大名たちの勢力が大きくなっていくのです。

そこで義満は、十一ヵ国を有した山名や尾張、美濃、伊勢という、京都に近い東海道筋の国々をブロック的に支配していた土岐に対し、ちょっと潰さないといけないということで、干渉していくのです。
結果、そのあとの四代義持や六代義教のころには、彼らの既得権益を尊重する形でパワーバランスを保ちつつ、話し合いで進めていくしかないという方向になっていくのです。

守護配置図

そうなると幕府の安定期はどのあたりなのでしょうか?

以前は義満期がピークで、義政でガクッと落ちるという認識が強かったのですが、室町時代の研究が進んだ結果、義満と義政との間に挟まれた義持・義教期が一番の安定期ではないかという議論が一般的になってきています。

これも私の持論なんですが、ひとつのバロメーターとして、将軍がみずから兵を率いて出陣したことがあるかどうかが重要だと思っています。
義満は明徳の乱で、甲冑を着て出陣していますし。九代義尚(よしひさ)も六角氏征伐で近江に出陣しています。一方、五代義量(よしかず)と七代義勝(よしかつ)は将軍在位が短いので外しますが、義持、義教、義政は出陣していません。

義持から義政まではみずから出陣して、これ見よがしに武威を示さなくても、将軍の武威を周りが認めてくれた。だから彼らは公家化しても軟弱と軽んじられる心配はなかった。むしろ公家化することで、ほかの大名との格の違いを示すことができたのです。
それが義尚段階になると、武威という前提そのものが危うくなってくるから、出陣して見せつけないといけなくなる。義満段階もまだちょっと武威が不足していたからこそ、みずから戦わなければいけなかった。自分が陣頭に立たないとほかの大名たちがついてきてくれないからです。

そうすると、室町幕府の政治機構が確立して安定していた義持から応仁の乱が勃発するまでの義政までが、全盛期と見ていいと思います。
まとめると、初代尊氏から三代義満までが確立期、四代義持から八代義政までが安定期、応仁の乱は例外として、九代義尚以降の衰退期の三つに区分できます。

最近、明応の政変が室町幕府の分岐点としてクローズアップされていますが、その前の義尚段階、将軍がみずから兵を率いて出陣しなきゃいけなくなった時点で、すでにおかしくなっていたと思います。
徳川将軍に置き換えても、家光を最後に幕末の家茂まで二百年以上、将軍の上洛はありませんでした。家光のときはまだイベントが必要で、幕末の家茂のときは幕府の武威の衰えを象徴的に示していますし、同じことがいえるのです。

ただし、その後の室町幕府が全国政権から畿内政権下したという議論もありますが、将軍が大名たちの上にいるという前提は一応守られていて、大名間の争いを将軍が調停する仕組みは残っています。
確かに十代義材(のちの義稙)くらいから、実際に直接支配できる領域は畿内にほぼ限定されてしまうのですが、このような間接的な影響という意味では、全国政権としての体裁は存続していたといえます。


室町幕府は弱かった、という立場から考察した前出の見方・見解とは、明らかに正反対な事を述べている所もあり、しかし説得力があり、とても興味深かったです。

今日では一般に、信長が15代将軍義昭を追放した政変を以て「室町幕府は滅亡した」と理解されていますが、その当時の人達は、義昭が追放された時点では「また、将軍様が京を離れたらしいよ」という程度の感覚で「幕府が終わった」とまでは認識していなかったのではないか、という見方も新鮮でした。
確かに、鎌倉幕府の場合は、新田義貞らの軍勢により鎌倉が陥落し、それにより北条高時ら北条一族・家臣の大半が一斉に自害し果てた事などを以て「幕府が滅亡した」と言い切る事が出来、江戸幕府の場合も、大政奉還や、徳川慶喜の朝廷への恭順・自主的な謹慎、新政府への江戸城の明け渡しなど「幕府が滅亡した」と明確に実感出来る出来事がいくつもありましたが、それに対して室町幕府の場合は、いつ滅んだのかよく分りづらい、と言えます。

幕府が一瞬で崩壊して世の中が大混乱する事態は好ましいことではなかったはず」で、「室町幕府があっさり投げ出さないでしぶとく生き残ったことは、評価すべきだと思う」という見方も、私にとっては今までほとんど聞いた事の無い見方であり、新鮮でした。
そして、こういった見方に立つと、室町幕府は弱々しい政権だった、とは必ずしも言えない事になり、それを踏まえて呉座勇一さんは、「室町幕府後半の将軍があまり力を持っていないにもかかわらず、その枠組みは結構強固だった」「室町幕府の存在をまわりが当然視したという点では、強い仕組みをつくったといえる」と述べているわけです。

呉座さん曰く、応仁の乱以降の混乱期でさえ、「将軍が大名たちの上にいるという前提は一応守られていて、大名間の争いを将軍が調停する仕組みは残っています」「間接的な影響という意味では、全国政権としての体裁は存続していた」わけですから、さすがにそれを以て「鎌倉幕府や江戸幕府と比較して、室町幕府は特に強大な政権だった」とまでは言えないものの、少なくとも、一般に思われている以上は「室町幕府は意外としっかりとした全国政権だった」とは言えるのかもしれません。

また、室町幕府が京都に置かれた事から足利将軍家が朝廷が強く結びつき、ある意味融合したともいえる所謂「公武一体」についても、従来は、将軍家が公家化した事で軟弱なイメージを持たれてしまう傾向がありましたが、呉座さんは、「室町幕府が全国政権として機能するために朝廷を取り込んだ結果であって、政権として鎌倉幕府より一段上にいったということ」「これ見よがしに武威を示さなくても、将軍の武威を周りが認めてくれた。だから彼らは公家化しても軟弱と軽んじられる心配はなかった。むしろ公家化することで、ほかの大名との格の違いを示すことができた」という見解を示されており、これも私にとってはなかなか斬新な見方でした。

前出の、室町幕府は弱かった、という立場からの考察では、「尊氏は配下の大名達にほとんど何も考えずに気前よくどんどん領地を分け与えてしまったために、大大名があちこちに出来る事となり、その結果として、守護大名が必要以上に強くなり過ぎ、後に幕府の言う事を聞かなくなった」という事を述べましたが、こういった、領土の拡張が守護大名達の台頭を招いたという見方についても、呉座さんは、「細川や山名が勢力を持ったのは結果論ではないか」「ブロック的なまとまりで領地を持っていたほうが強いという意識は、尊氏や二代義詮のときは薄かったんじゃないかと思う」「細川も山名も、もともとは南朝方と戦って勝ち取った場所を、実効支配の追認として与えられていただけで、幕府のほうはそれによって彼らがすごい力を持ってしまうなどとは、おそらく南北朝時代くらいまでは考えていなかったんじゃないか」と述べており、だとすると、尊氏の気前の良さ、領土の大盤振る舞いは、必ずしも「かなり問題があった」とまでは言えない事になります。
問題があったように見えるのは、あくまでも後世からみた結果論に過ぎず、当事の人達にそこまでの先見の明を期待するのは些か酷ではないのか、という事になるからです。


全体を通してみると、室町幕府(全盛期は除く)は、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、確かに不安定な要素が多い政権であり、「全国的な統一政権としてはやや脆弱」と言う事が出来ますが、しかし、一般に思われている以上は、「意外としっかりした部分も多かったのではないか」とも言えそうです。


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足利将軍15代についての入門書が刊行されました!

昨年9月19日の記事の中で私は、『一昔前だと、南北朝時代や、室町時代(但し戦国時代は除く)について書かれた本は、専門書などを除くとほとんど無かったように思いますが、最近は、南北朝時代や室町時代について解説されたこういった一般書が徐々に増えてきており、以前よりは、こういった時代を書籍で調べたり勉強したりする事について、敷居が低くなってきていると思います。良い事です』と書きましたが、本当に、いい時代になったものだなぁと、つくづく実感します。
何と、ついに足利歴代将軍についての一般書(雑誌コードが付されているムック扱い)が出版されたのです!

徳川歴代将軍についての本は、一般向け・子供向けなどでも既に沢山出版されていますが、足利将軍15代についての事実上の入門書といえるような本は、私の知る限りでは、この本が初めてです!

足利将軍15代

上の写真が、この本の表紙ですが、表紙に書かれているコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」は、室町幕府に対する世間での今までの一般的な認識を逆手にとった、“目からウロコ”的な、なかなか秀逸なコピーだなと思いました。

どういう事かというと、室町幕府は今まで、全国的な統一政権としては非常に脆弱なものであったと多くの人達から考えられてきたからです。
実際、江戸幕府では最後までそのような事は起こりませんでしたが、室町幕府では、家臣に暗殺されたり家臣に追放された将軍もおり、また、将軍自身に全国政権の統率者という当事者能力が無かった事が、あの「応仁の乱」を引き起こすきっかけにもなり、その結果、京都を廃墟にしてしまったのみならず、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、幕府・将軍の権威を完全に失墜させる事にもなりました。
室町時代末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国の維持すら困難になるなど、室町幕府にはどうしても“統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージが今まで付きまとってきました。

しかし、本当にそのような脆弱な政権であるのなら、逆に、なぜ室町幕府は約240年間という長きに亘って続いたのでしょうか。
室町幕府の直ぐ前の政権は、後醍醐天皇の親政による、所謂“建武政権”でしたが、その建武政権は、たった2年程しか保ちませんでした。
建武政権の前の政権は、日本で最初の幕府である、源頼朝が開いた鎌倉幕府であり、その鎌倉幕府は、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を輩出し、質実剛健な武家政権というイメージがありますが、それでも、存続出来たのは150年程度でしたから、室町幕府に比べるとやはり短命に終わりました。
鎌倉幕府直前の政権は、平清盛による平氏政権でしたが、こちらも存続期間は非常に短く、事実上、清盛による僅か一代だけの政権でした。
ちなみに、室町幕府の次の政権といえる織豊政権は、室町幕府よりもずっと強力な政権でしたが(そもそも室町幕府を倒したのは織田政権でしたし、その後を継いだ豊臣政権は、義満による最盛期の室町幕府よりも明らかに強大な全国統一政権でした)、こちらも事実上、信長と秀吉という、それぞれ一代だけの政権であり、強大な政権だった割には随分あっさりと終わった感があります。

そういった歴史的事実を鑑みると、「室町幕府はなぜ弱かったのか?」「室町幕府はどうして滅びたのか?」と考える事は確かに重要な事なのですが、全く逆の視点から、「有力な守護大名の台頭や、鎌倉公方の度重なる反逆などにずっと悩まされながらも、どうして室町幕府は二百数十年も存続する事が出来たのか?」「そもそも、二百数十年も続くような長期政権は、脆弱と言えるのか?」と考える事も、同じくらい、とても重要な事であり、前述のコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」は、まさにそういう事だと思うのです

そして、こういった観点から歴史を振り返り始めると、室町幕府に限らず、他の政権・他の国家についても、今までとは少し見方が変わってきます。
例えば、ここからいきなり世界史の話に飛びますが、あの「ローマ帝国」は、共和政から帝政へと移行した紀元前27年から、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが陥落する1453年まで、紆余曲折はあれども一応、形としては国家として存続し続けました。
ローマ帝国は、1世紀末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代に最盛期を迎えますが、それ以降は、各地で内乱が勃発したり、帝国そのものが東西に分裂するなどして混乱し、また、勃興するイスラーム勢力との抗争も起こり、国家としては明らかに衰退していきました。
現在ではそういった衰退の面ばかり強調される事が少なくないため、ローマ帝国というのは初期の頃以外はあまりパッとしないなぁ、という印象をつい持ってしまいがちですが、冷静に考えてみると、形態は変われども曲がりなりにも1400年以上も国家として存続したというのは、かなり凄い事です。
つまり、ローマ帝国についても、「どうして滅んだのか?」という従来かのら視点で考えるだけでなく、逆の視点で「なぜそれ程長く続いたのか?」と考えると、今までとは見方も変わり、新たな発見もあると思うのです。

もっとも、ローマ帝国が1400年以上も続いたと聞いてしまうと、「いくら長期政権だったとはいえ、約240年続いた程度の室町幕府って、ローマ帝国に比べると別に大した事ないんじゃね? やっぱり、外国のほうが歴史は深くて凄いんだなぁ」と感じてしまうかもしれません(笑)。
しかし、今回の記事の本題からは外れてしまうものの一応この点についても補足させて頂くと、実はこの点に於いて一番凄いのは、この日本なのです。どういう事かというと、我が国は、現在も存続し続ける「世界最古の国家」だからです。

よく、「中国三千年の歴史」とか「中国四千年の歴史」といった言葉が一人歩きしている事から、中国を世界最古の国と勘違いしている方が多いのですが、現在の中華人民共和国は、建国してからはまだ六十数年しか経っていない、とても若い国家です。
中国にはかつて様々な帝国や王国が存在していましたが、王朝が替わると、新王朝により前王朝の皇帝やその一族は処刑されたり追放されるなどし(前王朝に於ける歴代皇帝のお墓が荒らされることすらありました)、あるいは、前王朝の皇帝やその一族は新王朝の皇帝に臣下として完全に服従するなどし、そのため、その度に国家や王朝としての歴史は完全に断絶しており、中華圏という一地域としての歴史は確かに古いのですが、中国にひとつの国家としての連続性は無いのです。
それに対して日本は、政権を担う政体が、天皇から摂関家へ、朝廷から幕府へ、もしくは内閣へと変わろうとも、皇統は初代・神武天皇からただの一度も途切れる事なく現在に連綿と続いており、役職名は変われども時の政権の最高責任者(摂政、関白、征夷大将軍、内務卿、内閣総理大臣など)はいずれも天皇から任命(大命降下)される事でその正当性が保障されてきたため、ひとつの国家としての連続性が認められるのです。
これは何も日本だけが「ウチって凄いんだよ!」と勝手に主張している事ではなく、世界で共通認識されている事であり、ギネス世界記録(ギネスブック)で「世界最古の王家」として日本の皇室が認定されている事からも、それは明らかです。

話しが随分飛んでしまった感があるので、ここで一気に話を戻しますが(笑)、そういった観点を持ちながら、つまり、前述のコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」を意識しながら、これからこの本をじっくりと読んでみようと思います!


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護良親王の最期

大塔宮護良親王

大塔宮護良親王(上の画像の馬上の人物)については前回の記事で取り上げたばかりですが、先月16日、その護良親王に関するニュースがネット(毎日新聞)にアップされました。
以下の画像は、そのニュース記事を画像として取り込んだものです。私にとっては、ニュースそのものよりも、このニュース記事に貼付されていた写真(護良親王の首級)が、ちょっと衝撃的でした…。

公開された護良親王と伝わる首級

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、当該記事の本文全文です。携帯電話等の小さい画面で上の画像の文字がはっきりと判読出来ない方は、こちらをお読み下さい。

都留市朝日馬場の石船神社で15日、後醍醐天皇の皇子、護良(もりなが)親王(1308~1335年)と伝わる首級(しゅきゅう)が公開された。
親王は、鎌倉幕府の討幕計画に尽力したが、足利氏と対立し、鎌倉で殺害されたとされる。首級を携えた寵妃の雛鶴(ひなづる)姫が、上野原市秋山から都留市方面の峠を越える途中で亡くなり、首級は同神社に祭られたと伝わる。
15日は首級を確認する神事が行われた。神職が本殿から首級を取り出し、地元関係者が保管状況を確かめて本殿に戻した。首級は漆や木片、木くずなどで肉付けされている。
地元住民は親王と姫を大切に祭ってきたといい、小俣政英さん(62)は「自分が生まれる前から行われている神事を今後も続けていきたい」と話した。

この記事によると、護良親王の首級は、地元では長年に亘って大切に扱われ、今も本殿で丁重にお祀りされているようです。非業の最期を遂げられた親王の御霊(みたま)も、六百数十年という長い時を経て、しかもその間、石船神社で祭祀され続け、また、明治の世になってからは鎌倉宮でもお祀りされた事によって、大分慰められたのではないかなと、私個人としては推察します。


建武政権下で護良親王との対立が深刻化していた足利尊氏は、後醍醐天皇の寵姫である阿野廉子(あのれんし)を通じて、後醍醐天皇に対して親王の失脚を働きかけ、その働きかけによって親王は、後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに「皇位簒奪を企てた」として捕らえられて、鎌倉へ流され、尊氏の弟・直義(ただよし)の監視の下、幽閉の御身となります。
その翌年、北条高時の遺児である時行ら(旧鎌倉幕府の残党)が信濃で挙兵し、鎌倉に攻め込んできますが、その直前、現状では鎌倉を守り切れないと判断した直義は、一旦鎌倉を捨てて西へ逃れます。そして、その逃亡のドサクサに紛れる形で、直義は鎌倉を出るに当たって密かに、部下に親王の殺害を命じたのでした。
尊氏ら足利氏を激しく憎まれていた親王を生かしたままにしておくと、将来必ず足利氏の仇になるであろうと判断したとも、また、鎌倉を占拠した時行が前征夷大将軍である親王を宮将軍として擁立して鎌倉幕府を再興する事を恐れたため、とも云われています。

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、小学館の「日本の古典を読む16 太平記 長谷川端 [校訂・訳]」という本に掲載されていた、太平記に記されている護良親王最期についてのエピソードの訳文です。親王が具体的にどのような最期を遂げたかについては前回の記事でも述べましたが、太平記によると、その詳細は以下の通りです。

左馬頭(さまのかみ)直義は鎌倉の山内(鎌倉市山ノ内)を通過なされたとき、淵辺甲斐守(ふちのべかいのかみ)を近くへ呼んで、「味方は少数なのでいったん鎌倉から退去するが、美濃・尾張の軍勢を集め、すぐに攻め寄せるから、鎌倉を攻め落として相模二郎時行を滅ぼすのは、時間の問題だ。今後とも我が家のために仇になるにちがいないのは兵部卿親王(大塔宮)でいらっしゃる。死罪に処し申しあげよという勅命はなかったが、この機にただお命をいただこうと思う。お前はすぐに薬師堂の谷(鎌倉市二階堂)へ駆け戻って、宮を刺し殺し申しあげよ」と命ぜられた。
淵辺は「承知いたしました」と、山内から主従七騎で引き返し、宮のいらっしゃる牢び御所へ参内した。

宮は一日中ずっと闇夜のような土牢の中で、朝になるのもご存じなく、なおも灯をかかげて読経されていた。淵辺がかしこまって、お迎えに参上した由を申し入れると、宮は一目ご覧になって、「お前は私を殺せと命を受けた使者であろう。分っておるぞ」とおっしゃって、淵辺の太刀を奪おうと走りかかられた。
淵辺は手にした太刀を持ち直し、御膝のあたりを強くお打ちしたので、宮は土牢の中に半年ほど座ったままでいらっしゃり御足もうまく立たなかったのか、御心はますますはやるもののうつぶせにお倒れになった。そこを淵辺は起きあがらせず、御胸の上に馬乗りになり、腰刀を抜いて御首をかこうとした。だが、宮は御首をすくめて、刀の先をしっかりとくわえられたので、淵辺も剛の者、刀を奪われまいと、無理やり引っ張るうちに刀の切っ先が一寸あまり折れてなくなってしまった。
淵辺はその刀を捨てて、脇差の短刀で宮の胸元を二度まで刺し、宮が少々弱られたところを、御髪をぐいとつかんで御首を斬り落した。

牢は暗かったので、淵辺は外へ走り出て、明るい所で御首を見ると、宮がさきほど食い切った刀の切っ先はまだ口の中にあって、御眼の色も生きているようだった。
これを恐ろしく思って、「そうだ、先例がある。こういう首は主君には見せぬものなのだ」と言って、その辺の藪に放り込み、馬にうち乗って、急ぎ左馬頭殿に合流してこの由を報告したところ、「よくやった」とお褒めになった。

宮をお世話している南の御方(みなみのおんかた)という女房は、この有様を見申しあげて、あまりにも恐ろしく、悲しくなって手足も震えて失神なさるほどだった。少したって気を落ちつけ、淵辺が藪に捨てた宮の御首を拾いあげて御覧になると、まだ御肌も冷えず、御眼もつぶらず、まったく生きていたときのままに見えたので、「これはもしかして夢ではないか。夢なら覚めて現実に戻ってほしい」と泣き悲しみなさったが、その甲斐もない。
こうしたところに、理到光院(鎌倉市二階堂にあった五峰山理智光寺)の老僧がこの事件を聞き、「あまりにお気の毒でございます」と言って、自分の寺へご遺骸をお入れした。そして、葬礼の仏事を形どおり執り行って、荼毘に付しなされたことは、しのびないことであった。
南の御方はすぐに御髪を下ろし、御首を持って、泣く泣く京都へ上って行かれた。哀れで恐ろしかったこの事件を語り伝えなさるたびに、聞く人は涙を流すのであった。

太平記の記述によると、親王は御首を斬り落とされた後も、折れた刀の刃に噛み付き、目も見開いたままで、淵辺も思わず「恐ろしい」と感じてその御首を藪の中へ捨ててしまう程ですから、親王の御首はきっと物凄い形相だったのでしょう…。


以下の画像は、平成27年7月20日の記事でも紹介した、横山まさみちさんの著したコミック「太平記(2) 楠木正成 千早の巻」からの転載です。この作品では、護良親王の最期は以下のように描かれていました。

護良親王の最期_01

護良親王の最期_02

護良親王の最期_03

護良親王の最期_04

前出の太平記訳文とは、細部の描写は異なっている所もありますが、大凡は一致しており、やはり“皇子の薨去”としては全く相応しくない、凄まじい最期であった事は間違いないようです。
そして、こういったエピソードを知っていると、その護良親王の首級(さすがにそのままの状態ではなく、肉付けされて装飾も施され復顔されていますが)の写真が、ネット上のニュース記事に普通にアップされた事に、私は少なからず衝撃を受けました。

ただ、護良親王の首が埋葬されているとされている場所は、実は他にも複数あるため、この首級が正真正銘、護良親王の首級であるのか否かは、定かではありません。作り物ではなく、本物の頭蓋骨である事は間違いないようですが。


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