この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

足利将軍15代についての入門書が刊行されました!

昨年9月19日の記事の中で私は、『一昔前だと、南北朝時代や、室町時代(但し戦国時代は除く)について書かれた本は、専門書などを除くとほとんど無かったように思いますが、最近は、南北朝時代や室町時代について解説されたこういった一般書が徐々に増えてきており、以前よりは、こういった時代を書籍で調べたり勉強したりする事について、敷居が低くなってきていると思います。良い事です』と書きましたが、本当に、いい時代になったものだなぁと、つくづく実感します。
何と、ついに足利歴代将軍についての一般書(雑誌コードが付されているムック扱い)が出版されたのです!

徳川歴代将軍についての本は、一般向け・子供向けなどでも既に沢山出版されていますが、足利将軍15代についての事実上の入門書といえるような本は、私の知る限りでは、この本が初めてです!

足利将軍15代

上の写真が、この本の表紙ですが、表紙に書かれているコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」は、室町幕府に対する世間での今までの一般的な認識を逆手にとった、“目からウロコ”的な、なかなか秀逸なコピーだなと思いました。

どういう事かというと、室町幕府は今まで、全国的な統一政権としては非常に脆弱なものであったと多くの人達から考えられてきたからです。
実際、江戸幕府では最後までそのような事は起こりませんでしたが、室町幕府では、家臣に暗殺されたり家臣に追放された将軍もおり、また、将軍自身に全国政権の統率者という当事者能力が無かった事が、あの「応仁の乱」を引き起こすきっかけにもなり、その結果、京都を廃墟にしてしまったのみならず、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、幕府・将軍の権威を完全に失墜させる事にもなりました。
室町時代末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国の維持すら困難になるなど、室町幕府にはどうしても“統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージが今まで付きまとってきました。

しかし、本当にそのような脆弱な政権であるのなら、逆に、なぜ室町幕府は約240年間という長きに亘って続いたのでしょうか。
室町幕府の直ぐ前の政権は、後醍醐天皇の親政による、所謂“建武政権”でしたが、その建武政権は、たった2年程しか保ちませんでした。
建武政権の前の政権は、日本で最初の幕府である、源頼朝が開いた鎌倉幕府であり、その鎌倉幕府は、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を輩出し、質実剛健な武家政権というイメージがありますが、それでも、存続出来たのは150年程度でしたから、室町幕府に比べるとやはり短命に終わりました。
鎌倉幕府直前の政権は、平清盛による平氏政権でしたが、こちらも存続期間は非常に短く、事実上、清盛による僅か一代だけの政権でした。
ちなみに、室町幕府の次の政権といえる織豊政権は、室町幕府よりもずっと強力な政権でしたが(そもそも室町幕府を倒したのは織田政権でしたし、その後を継いだ豊臣政権は、義満による最盛期の室町幕府よりも明らかに強大な全国統一政権でした)、こちらも事実上、信長と秀吉という、それぞれ一代だけの政権であり、強大な政権だった割には随分あっさりと終わった感があります。

そういった歴史的事実を鑑みると、「室町幕府はなぜ弱かったのか?」「室町幕府はどうして滅びたのか?」と考える事は確かに重要な事なのですが、全く逆の視点から、「有力な守護大名の台頭や、鎌倉公方の度重なる反逆などにずっと悩まされながらも、どうして室町幕府は二百数十年も存続する事が出来たのか?」「そもそも、二百数十年も続くような長期政権は、脆弱と言えるのか?」と考える事も、同じくらい、とても重要な事であり、前述のコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」は、まさにそういう事だと思うのです

そして、こういった観点から歴史を振り返り始めると、室町幕府に限らず、他の政権・他の国家についても、今までとは少し見方が変わってきます。
例えば、ここからいきなり世界史の話に飛びますが、あの「ローマ帝国」は、共和政から帝政へと移行した紀元前27年から、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが陥落する1453年まで、紆余曲折はあれども一応、形としては国家として存続し続けました。
ローマ帝国は、1世紀末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代に最盛期を迎えますが、それ以降は、各地で内乱が勃発したり、帝国そのものが東西に分裂するなどして混乱し、また、勃興するイスラーム勢力との抗争も起こり、国家としては明らかに衰退していきました。
現在ではそういった衰退の面ばかり強調される事が少なくないため、ローマ帝国というのは初期の頃以外はあまりパッとしないなぁ、という印象をつい持ってしまいがちですが、冷静に考えてみると、形態は変われども曲がりなりにも1400年以上も国家として存続したというのは、かなり凄い事です。
つまり、ローマ帝国についても、「どうして滅んだのか?」という従来かのら視点で考えるだけでなく、逆の視点で「なぜそれ程長く続いたのか?」と考えると、今までとは見方も変わり、新たな発見もあると思うのです。

もっとも、ローマ帝国が1400年以上も続いたと聞いてしまうと、「いくら長期政権だったとはいえ、約240年続いた程度の室町幕府って、ローマ帝国に比べると別に大した事ないんじゃね? やっぱり、外国のほうが歴史は深くて凄いんだなぁ」と感じてしまうかもしれません(笑)。
しかし、今回の記事の本題からは外れてしまうものの一応この点についても補足させて頂くと、実はこの点に於いて一番凄いのは、この日本なのです。どういう事かというと、我が国は、現在も存続し続ける「世界最古の国家」だからです。

よく、「中国三千年の歴史」とか「中国四千年の歴史」といった言葉が一人歩きしている事から、中国を世界最古の国と勘違いしている方が多いのですが、現在の中華人民共和国は、建国してからはまだ六十数年しか経っていない、とても若い国家です。
中国にはかつて様々な帝国や王国が存在していましたが、王朝が替わると、新王朝により前王朝の皇帝やその一族は処刑されたり追放されるなどし(前王朝に於ける歴代皇帝のお墓が荒らされることすらありました)、あるいは、前王朝の皇帝やその一族は新王朝の皇帝に臣下として完全に服従するなどし、そのため、その度に国家や王朝としての歴史は完全に断絶しており、中華圏という一地域としての歴史は確かに古いのですが、中国にひとつの国家としての連続性は無いのです。
それに対して日本は、政権を担う政体が、天皇から摂関家へ、朝廷から幕府へ、もしくは内閣へと変わろうとも、皇統は初代・神武天皇からただの一度も途切れる事なく現在に連綿と続いており、役職名は変われども時の政権の最高責任者(摂政、関白、征夷大将軍、内務卿、内閣総理大臣など)はいずれも天皇から任命(大命降下)される事でその正当性が保障されてきたため、ひとつの国家としての連続性が認められるのです。
これは何も日本だけが「ウチって凄いんだよ!」と勝手に主張している事ではなく、世界で共通認識されている事であり、ギネス世界記録(ギネスブック)で「世界最古の王家」として日本の皇室が認定されている事からも、それは明らかです。

話しが随分飛んでしまった感があるので、ここで一気に話を戻しますが(笑)、そういった観点を持ちながら、つまり、前述のコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」を意識しながら、これからこの本をじっくりと読んでみようと思います!


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護良親王の最期

大塔宮護良親王

大塔宮護良親王(上の画像の馬上の人物)については前回の記事で取り上げたばかりですが、先月16日、その護良親王に関するニュースがネット(毎日新聞)にアップされました。
以下の画像は、そのニュース記事を画像として取り込んだものです。私にとっては、ニュースそのものよりも、このニュース記事に貼付されていた写真(護良親王の首級)が、ちょっと衝撃的でした…。

公開された護良親王と伝わる首級

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、当該記事の本文全文です。携帯電話等の小さい画面で上の画像の文字がはっきりと判読出来ない方は、こちらをお読み下さい。

都留市朝日馬場の石船神社で15日、後醍醐天皇の皇子、護良(もりなが)親王(1308~1335年)と伝わる首級(しゅきゅう)が公開された。
親王は、鎌倉幕府の討幕計画に尽力したが、足利氏と対立し、鎌倉で殺害されたとされる。首級を携えた寵妃の雛鶴(ひなづる)姫が、上野原市秋山から都留市方面の峠を越える途中で亡くなり、首級は同神社に祭られたと伝わる。
15日は首級を確認する神事が行われた。神職が本殿から首級を取り出し、地元関係者が保管状況を確かめて本殿に戻した。首級は漆や木片、木くずなどで肉付けされている。
地元住民は親王と姫を大切に祭ってきたといい、小俣政英さん(62)は「自分が生まれる前から行われている神事を今後も続けていきたい」と話した。

この記事によると、護良親王の首級は、地元では長年に亘って大切に扱われ、今も本殿で丁重にお祀りされているようです。非業の最期を遂げられた親王の御霊(みたま)も、六百数十年という長い時を経て、しかもその間、石船神社で祭祀され続け、また、明治の世になってからは鎌倉宮でもお祀りされた事によって、大分慰められたのではないかなと、私個人としては推察します。


建武政権下で護良親王との対立が深刻化していた足利尊氏は、後醍醐天皇の寵姫である阿野廉子(あのれんし)を通じて、後醍醐天皇に対して親王の失脚を働きかけ、その働きかけによって親王は、後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに「皇位簒奪を企てた」として捕らえられて、鎌倉へ流され、尊氏の弟・直義(ただよし)の監視の下、幽閉の御身となります。
その翌年、北条高時の遺児である時行ら(旧鎌倉幕府の残党)が信濃で挙兵し、鎌倉に攻め込んできますが、その直前、現状では鎌倉を守り切れないと判断した直義は、一旦鎌倉を捨てて西へ逃れます。そして、その逃亡のドサクサに紛れる形で、直義は鎌倉を出るに当たって密かに、部下に親王の殺害を命じたのでした。
尊氏ら足利氏を激しく憎まれていた親王を生かしたままにしておくと、将来必ず足利氏の仇になるであろうと判断したとも、また、鎌倉を占拠した時行が前征夷大将軍である親王を宮将軍として擁立して鎌倉幕府を再興する事を恐れたため、とも云われています。

以下の二重鉤括弧内の緑文字は、小学館の「日本の古典を読む16 太平記 長谷川端 [校訂・訳]」という本に掲載されていた、太平記に記されている護良親王最期についてのエピソードの訳文です。親王が具体的にどのような最期を遂げたかについては前回の記事でも述べましたが、太平記によると、その詳細は以下の通りです。

左馬頭(さまのかみ)直義は鎌倉の山内(鎌倉市山ノ内)を通過なされたとき、淵辺甲斐守(ふちのべかいのかみ)を近くへ呼んで、「味方は少数なのでいったん鎌倉から退去するが、美濃・尾張の軍勢を集め、すぐに攻め寄せるから、鎌倉を攻め落として相模二郎時行を滅ぼすのは、時間の問題だ。今後とも我が家のために仇になるにちがいないのは兵部卿親王(大塔宮)でいらっしゃる。死罪に処し申しあげよという勅命はなかったが、この機にただお命をいただこうと思う。お前はすぐに薬師堂の谷(鎌倉市二階堂)へ駆け戻って、宮を刺し殺し申しあげよ」と命ぜられた。
淵辺は「承知いたしました」と、山内から主従七騎で引き返し、宮のいらっしゃる牢び御所へ参内した。

宮は一日中ずっと闇夜のような土牢の中で、朝になるのもご存じなく、なおも灯をかかげて読経されていた。淵辺がかしこまって、お迎えに参上した由を申し入れると、宮は一目ご覧になって、「お前は私を殺せと命を受けた使者であろう。分っておるぞ」とおっしゃって、淵辺の太刀を奪おうと走りかかられた。
淵辺は手にした太刀を持ち直し、御膝のあたりを強くお打ちしたので、宮は土牢の中に半年ほど座ったままでいらっしゃり御足もうまく立たなかったのか、御心はますますはやるもののうつぶせにお倒れになった。そこを淵辺は起きあがらせず、御胸の上に馬乗りになり、腰刀を抜いて御首をかこうとした。だが、宮は御首をすくめて、刀の先をしっかりとくわえられたので、淵辺も剛の者、刀を奪われまいと、無理やり引っ張るうちに刀の切っ先が一寸あまり折れてなくなってしまった。
淵辺はその刀を捨てて、脇差の短刀で宮の胸元を二度まで刺し、宮が少々弱られたところを、御髪をぐいとつかんで御首を斬り落した。

牢は暗かったので、淵辺は外へ走り出て、明るい所で御首を見ると、宮がさきほど食い切った刀の切っ先はまだ口の中にあって、御眼の色も生きているようだった。
これを恐ろしく思って、「そうだ、先例がある。こういう首は主君には見せぬものなのだ」と言って、その辺の藪に放り込み、馬にうち乗って、急ぎ左馬頭殿に合流してこの由を報告したところ、「よくやった」とお褒めになった。

宮をお世話している南の御方(みなみのおんかた)という女房は、この有様を見申しあげて、あまりにも恐ろしく、悲しくなって手足も震えて失神なさるほどだった。少したって気を落ちつけ、淵辺が藪に捨てた宮の御首を拾いあげて御覧になると、まだ御肌も冷えず、御眼もつぶらず、まったく生きていたときのままに見えたので、「これはもしかして夢ではないか。夢なら覚めて現実に戻ってほしい」と泣き悲しみなさったが、その甲斐もない。
こうしたところに、理到光院(鎌倉市二階堂にあった五峰山理智光寺)の老僧がこの事件を聞き、「あまりにお気の毒でございます」と言って、自分の寺へご遺骸をお入れした。そして、葬礼の仏事を形どおり執り行って、荼毘に付しなされたことは、しのびないことであった。
南の御方はすぐに御髪を下ろし、御首を持って、泣く泣く京都へ上って行かれた。哀れで恐ろしかったこの事件を語り伝えなさるたびに、聞く人は涙を流すのであった。

太平記の記述によると、親王は御首を斬り落とされた後も、折れた刀の刃に噛み付き、目も見開いたままで、淵辺も思わず「恐ろしい」と感じてその御首を藪の中へ捨ててしまう程ですから、親王の御首はきっと物凄い形相だったのでしょう…。


以下の画像は、平成27年7月20日の記事でも紹介した、横山まさみちさんの著したコミック「太平記(2) 楠木正成 千早の巻」からの転載です。この作品では、護良親王の最期は以下のように描かれていました。

護良親王の最期_01

護良親王の最期_02

護良親王の最期_03

護良親王の最期_04

前出の太平記訳文とは、細部の描写は異なっている所もありますが、大凡は一致しており、やはり“皇子の薨去”としては全く相応しくない、凄まじい最期であった事は間違いないようです。
そして、こういったエピソードを知っていると、その護良親王の首級(さすがにそのままの状態ではなく、肉付けされて装飾も施され復顔されていますが)の写真が、ネット上のニュース記事に普通にアップされた事に、私は少なからず衝撃を受けました。

ただ、護良親王の首が埋葬されているとされている場所は、実は他にも複数あるため、この首級が正真正銘、護良親王の首級であるのか否かは、定かではありません。作り物ではなく、本物の頭蓋骨である事は間違いないようですが。


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護良親王をお祀りする鎌倉宮を参拝してきました

前回の記事で述べたように、私は昨年11月の下旬、1泊2日の日程で鎌倉方面を旅行し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参拝し、同宮境内にある鎌倉国宝館も見学してきました。
今回の記事では、その鎌倉国宝館を見た後に私が参拝・見学してきた、鎌倉市二階堂に鎮座する「鎌倉宮」という神社と、その鎌倉宮で御祭神としてお祀りされている護良親王(大塔宮)について書かせて頂きます。

護良親王(大塔宮)は、建武の新政(建武の中興)を行った事で有名な後醍醐天皇の皇子で、非常に武勇に優れていたため皇子の御身でありながら自ら指揮官として戦場で直接軍勢を率い、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げた事で知られています。
ちなみに、護良は「モリナガ」もしくは「モリヨシ」と読み、大塔宮は「オオトオノミヤ」もしくは「ダイトウノミヤ」と読みます。書物によってフリガナが異なり、現在に於いては読み方が統一されていないのです。

鎌倉宮案内看板

鎌倉幕府を倒し、非情に短い期間ではありましたが一時的に武家から天皇中心の社会へと復帰させる事(建武の新政)に貢献したその護良親王の功績を称え、明治2年2月、明治天皇が護良親王をお祀りする神社の造営を命じられ、同年7月、鎌倉宮の社号が下賜され、同月、護良親王が非業の最期を遂げられた東光寺跡の現在地に社殿が造営され、現在に至っています。

鎌倉宮_01

鎌倉宮_02

鎌倉宮_03


以下の二重鉤括弧内の緑文字は、私がこの時鎌倉宮で入手した「御祭神 護良親王御事蹟」というタイトルの冊子の、「鎌倉宮御由緒」のページに記されていた全文です。御祭神である護良親王の経歴が簡潔にまとめられています。

七百年の昔、鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮された後醍醐天皇は倒幕を志されたが叶わず、かえって隠岐島へ遠流の御身となられました。
後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮尊雲法親王は比叡山延暦寺の天台座主にましまし、幼少より英明にして勇猛をもって知られ、この危機に御自ら鎧兜に身を固め、鎌倉幕府の大軍を迎え撃たれました。

還俗して護良親王と名乗られた大塔宮は、多勢に無難、また険しい山野にあって数々の厳しい困難を、機知と豪胆をもって切り抜けつつ、各地へ鎌倉幕府追討の令旨を発し、これに応じた楠木正成、新田義貞らのめざましい働きにより幕府を打倒、見事に建武の中興を成し遂げられ、その抜群の勲功により征夷大将軍、兵部卿に任ぜられたのです。

しかし、足利尊氏が自ら将軍として幕府を開く野心を持っていることに早くから警戒心を抱かれておられた親王は、かえって尊氏の陰謀の為に無実の罪を着せられ、建武元年十一月、尊氏の弟・直義により鎌倉二階堂谷の東光寺の土牢に幽閉の御身となられました。
翌建武二年七月、北条高時の遺児・時行が鎌倉に攻めこんだ戦(中先代の乱)に敗れた直義は逃れ去る途次、親王を恐れる余り淵辺伊賀守義博に親王の暗殺を密命しました。親王は九ヶ月に幽閉されていた御身では戦うこともままならず、その苦闘の生涯を閉じられました。

明治二年、明治天皇は維新の大業が結ばれたのは、護良親王の御先徳によるものとして、その御功業を深く追慕敬仰され、勅命によって宮号と鎌倉宮と定め、ご終焉の地であるここ鎌倉二階堂の地に御社殿を造営、永く親王の御霊を祀られたのです。


というわけで、護良親王をお祀りする神社としての立場から記され文章なので、当然の如く、護良親王は絶対的に「正義」で、親王と敵対した尊氏は「悪」、という二元論に基づいて書かれています。
現実の情勢は、そのような単純な二元論で語れるものではなく、もっと複雑だったわけですが、ただ、鎌倉幕府が倒された事については、この鎌倉宮御由緒で書かれている通り、護良親王に抜群の勲功があった事は間違い有りません。

以下の文章は、『渡部昇一の中世史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』という本(PHP研究所刊)からの抜粋で、この中でも、鎌倉幕府を倒して建武政権を樹立した最大の功労者は護良親王であると述べられています。

建武の中興に最も功績があったのは誰だろうか。先ず大塔宮護良親王である。この親王が笠置落城後も屈せずに諸国の武士に令旨を出したから武士が動きだしたのである。
次に楠木正成である。大軍を動員しながら北條方がしばしば楠木軍に破られ、しかも千剱破城をついに落とせなかったことは、武力を拠り所にする幕府の決定的イメージ・ダウンになった。ベトナム戦争の時のアメリカみたいなものである。
第三に赤松円心がいる。彼は大塔宮の令旨を受けるや直ちに挙兵し、まっしぐらに京都に攻めのぼった。そして円心の軍が名越高家を殺したのをきっかけに、足利尊氏も北條に叛く決心をするのである。
第四は新田義貞である。彼は千剱破城で楠木正成を攻めていたが、この小城がいつまでも落ちないので北條幕府を見限った。それで家臣の船田義昌に命じて、大塔宮からひそかに幕府討伐の令旨を得た。それで病気と称して本国に帰ってしまったのである。そして幕府討伐の計画をひそかに立てていた。

(中略)
足利尊氏の功績は、前に上げた四人にくらべれば断然見劣りがする。新田義貞が鎌倉を落とした上に、楠木正成が頑張り、赤松円心が奮戦し、その上に大塔宮がいたのだから、足利尊氏はぐずぐずしておれば討伐されたのである。それはすでに根を失った軍勢だったのだ。

渡部さんのこの見解には、私もほぼ納得です。鎌倉幕府倒幕の最大の功績者を護良親王と考えるか、それとも楠木正成と考えるかについては、人によって見解が分かれる所だと思いますが、兎も角、護良親王と正成の両人が第一もしくは第二の軍功であった事はほぼ間違いなく、その二人に果たした役割に比べると、尊氏の功績は然程大したものではなかったと言えます。
もっとも現実には、足利氏の出自の良さなどから、朝廷は尊氏を武功の第一としたわけで、そこがまた複雑な所ではありますが。まぁ、複雑というよりは、単に「建武政権の行った論功行賞が滅茶苦茶なだけだった」とも言えますが…。


ところで、前出の鎌倉宮御由緒では、鎌倉宮としての立場から護良親王を賛美しているのは当然として、親王の御父である後醍醐天皇についても、「鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮され」と書かれていて、国や民の事を深く思っていた天皇として描かれています。
物事にはいろいろな見方があるので、私としては別にそういった「後醍醐天皇は大変素晴らしい!」といった見方をここで特に否定しようとは思いませんが、しかし、護良親王が失脚し幽閉の御身となった事については、そもそもその後醍醐天皇が了解されたからこそ実行された、というのも事実です。

自分がこれから捕らわれるという事を全く知らずに参内した護良親王は、突然、御所の一画で武者所の武士数十人に囲まれその場で捕らわれてしまったわけですが、その武士達をその場で指揮していたのは、後醍醐天皇側近の武士である名和長年と結城親光であると云われており、護良親王はその二人の姿を見た時に、天皇の意思をはっきりと知って愕然とされたのではないでしょうか。

護良親王の失脚について、梅松論では以下のような見方をしています。
大塔宮の謀反は天皇の命令によるものであるが、天皇はその罪を大塔宮に着せたのである。大塔宮は鎌倉へ捕らわれの身となって送られて、二階堂の薬師堂の谷に幽閉されてからは、足利尊氏よりも天皇のなされ方がうらめしいとひとりごとをいっていたということである。

尊氏と護良親王が対立していたのは確かですから、護良親王の失脚に尊氏の思惑が深く関わっていた(尊氏側の計略により捕らえられた)事は事実でしょうが、尊氏のみならず、後醍醐天皇の意思も明確にそこに含まれていた事もまた事実でしょうから、そういった意味では、信頼していた実父にも見捨てられた護良親王は本当に気の毒過ぎる、と言えます…。


下の写真は、鎌倉宮境内の宝物殿に展示されていた、明治22年に作られたらしい「護良親王馬上像」です。甲冑を御身にまとって馬にまたがる、凛々しい護良親王の姿が表現されています。

護良親王馬上像


以下の写真は、拝殿前から鎌倉宮本殿をお参りした後に私が見学してきた、本殿後方にある岩窟です。護良親王が凡そ9ヶ月間幽閉されていたと伝わる土牢(護良親王最期の地)を復元したものです。

鎌倉宮 土牢_01

鎌倉宮 土牢_02

鎌倉宮 土牢_03

鎌倉宮 土牢_04


ちなみに、鎌倉宮は、平成26年1月20日の記事で紹介した、南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする神社15社により構成されている「建武中興十五社」のうちの一社で、旧社格(明治維新の後制定され、終戦直後の神道指令によって廃止された、神社としてのランクを表わす制度)では「官幣中社」とされていました。
神社神道系の包括宗教法人としては最大規模で、現在全国の大半の神社が所属している「神社本庁」には、本庁の設立時より入っていない、単立の神社でもあります。


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鎌倉国宝館で、鎌倉公方所縁の史料を見学してきました

先月2日の記事では、鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある鎌倉市立博物館「鎌倉国宝館」で、 鎌倉国宝館(鎌倉市教育委員会)の主催により「鎌倉公方 足利基氏 ―新たなる東国の王とゆかりの寺社―」と題された特別展が開催されているという事を紹介しましたが、私は先月下旬、鎌倉に行ってその特別展を観てきました!

私は鎌倉から遙か遠く離れた北海道に住んでいて、しかもこの時期は年末に向けて仕事も忙しくなってきているため、当初は、多分観に行く事は出来ないだろうと半分諦めていたのですが、幸いにも先月下旬、休みを確保する事が出来、しかも、ANAのマイレージを確認すると、札幌(新千歳空港)~東京(羽田空港)間を一往復できる分のマイルも貯まっていたので、今回はそのマイルを全部使って、実質タダで鎌倉まで行って帰って来る事が出来ました♪


鎌倉に着いた私は、先ずは、鶴岡八幡宮を参拝してきました。
鶴岡八幡宮は、言わずもがなですが、源氏一門の氏神、鎌倉武士達の守護神として、鎌倉幕府の精神的な中心地でもあり、鎌倉幕府と非常に深い関わりがあったお宮ですが、勿論、室町幕府や、鎌倉府(関東公方や関東管領)とも深い関係があったお宮です。
関東から遠く離れた京都に幕府を開いた足利氏は、関東との関係を強めるため、鎌倉幕府同様、鶴岡八幡宮を崇敬し、関東管領の下に、神社行政を取り扱う社家奉行とは別に鶴岡惣奉行も設置するなどしています。

もっとも、歴史的には室町時代の出来事よりも、鎌倉時代に起こったいくつかの出来事、具体的には、義経の一味として捕らえられた静御前が頼朝の求めに応じて舞を舞った場所である事や、鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が公暁に暗殺された現場となった事などで、一般には広く知られているお宮です。
ちなみに、鶴岡八幡宮の旧社格(神社としてのランク)は国幣中社で、全国の八幡宮や八幡神社の中では特に知名度が高い事から、近年では「三大八幡宮」のひとつに同宮を含める事もあるそうです。

鶴岡八幡宮


その鶴岡八幡宮をお参りした後、私は、今回の1泊2日の鎌倉旅行の主目的地である、同宮境内にある鎌倉国宝館に行ってきました。
ここでは、特別展「鎌倉公方 足利基氏 ―新たなる東国の王とゆかりの寺社―」と、平常展示「鎌倉の仏像」を、じっくりと観賞してきました。特別展で展示されていた史料の多くは古文書でしたが、どれも興味深い内容で面白かったです。

ちなみに、館内は写真撮影禁止だったため、館内や展示物の写真は撮っておりません。以下の2枚はいずれも、鎌倉国宝館の建物外観の写真です。

鎌倉国宝館_01

鎌倉国宝館_02


鎌倉国宝館の展示を見終えた後、館内の窓口(ミュージアムショップといえる程の規模はありませんでしたが)で、下の写真に写っている2冊の図録を買ってきました。特別展「北条時頼とその時代」は、平成25年に開催されていたそうです。

鎌倉国宝館で買った書籍

ちなみに、今回の特別展「鎌倉公方 足利基氏」の図録は、今回の特別展開催までには完成が間に合わなかったとの事ですが、年内には完成するそうなので、窓口で購入を予約してきました。完成次第、送料無料で各予約者へ郵送してくれるそうです。到着が楽しみです!
今回は、久々に鎌倉へ行けて良かったです♪


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足利尊氏の顔だち、ついにこれで決まり? 肖像画の写しが発見される

先月27日にニュースとして報道された、毎日新聞や朝日新聞等の記事によると、室町幕府初代将軍・足利尊氏の没後間もない14世紀末に描かれたとみられる、尊氏の肖像画の写し(下の画像)が発見されました。

尊氏_01

今回確認された「足利尊氏像」は、個人が所有しているもので、栃木県立博物館の本田諭特別研究員や鎌倉歴史文化交流館の高橋真作学芸員などが、資料調査の際に発見しました。
大きさは縦88.5センチ、横38.5センチで、軸装された画の下側に正装して着座する人物が描かれており、上方には十数行にわたって画中の人物の来歴が文章で綴られています。
その文章の中に、尊氏を示す「長寿寺殿」という言葉があり、また、尊氏の業績として知られる国内の66州に寺や塔を建立した旨が記されている事などから、この度、尊氏の肖像画であると判断されました。
下の画像は、その尊氏の肖像画写しの、顔の部分を拡大したものです。大きな鼻と垂れ目が特徴的ですね。

尊氏_02

室町時代以前に描かれた事が確実な尊氏の肖像画は、他には広島県の浄土寺が所蔵している「絹本著色(ちゃくしょく)足利尊氏将軍画像」(下の画像)があるのみで、また肖像画以外では、室町幕府第2代将軍の足利義詮(よしあきら)が14世紀に京都の東岩蔵寺に奉納したと云われている「木造足利尊氏坐像」(大分県安国寺蔵)があるだけで、そのため尊氏の顔だちを巡っては今まで意見が分かれてきました。

しかし今回の発見により、今まで分かれていたそれらの意見がまとまる可能性も高く、専門家達は以下のようにコメントしています。
「尊氏の顔がこれではっきりした!」
「垂れ目や大きな鼻の特徴が、2つの作品(前出の、浄土寺蔵の尊氏肖像画や、安国寺蔵の木造の足利尊坐像)と似ている。尊氏はこの通りの顔つきをしていたのでは。意見が分かれる尊氏の顔立ちを伝える貴重な資料だ」
「木像の顔貌(がんぼう)と似た肖像画が出現したのは、尊氏像の議論にとっても重要な発見」

足利尊氏(浄土寺蔵)

ちなみに、今回発見されたこの肖像画の写しは、宇都宮市の栃木県立博物館で今月29日まで公開されるそうです。


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