この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

足利義満所縁の相国寺を参拝してきました

私は先月中旬、奈良の春日大社(厳密にいうと、同大社境内に鎮座する摂社の若宮神社ですが)で斎行された神前結婚式に媒酌人として参列するため、その日にちに合せて2泊3日の日程で京都・奈良方面を旅行してきたのですが、京都に立ち寄った際、室町幕府や足利将軍家と深い関わりがある古刹である、京都御苑の北隣に位置する臨済宗相国寺派大本山・相国寺を参拝・見学してきました。

相国寺は、京都五山の第二位に列せられている、寺格の高い名刹で、また、寺院としての知名度では、世界的にも有名な京都観光定番スポットの鹿苑寺金閣(所謂 金閣寺)や慈照寺銀閣(所謂 銀閣寺)のほうが有名ではあるものの、相国寺はその鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣の2ヶ寺を山外塔頭として擁し、更に、全国に100ヶ寺もの末寺を擁する大寺院でもあり(ちはみに、相国寺境内には本山相国寺をはじめ13の塔頭寺院があります)、そして、鹿苑寺金閣同様、特に室町幕府第3代将軍の足利義満に深い所縁がある古刹でもあります。
というわけで、私は今まで一度も相国寺には行った事が無かったのでいずれ行ってみたいとずっと思っていた事もあり、今回の旅行に合せて同寺へと行って参りました。

以下の写真はいずれも、今回の訪問で私が撮影してきた、相国寺の総門と境内の景観です。
最盛期に比べるとその規模は縮小されているとはいえ、それでも、一宗派の大本山らしく十分な威容を誇っている巨大な寺院でした。

相国寺_01

相国寺_02

相国寺_03

相国寺_04

相国寺_05

相国寺_06


平成25年11月26日の記事で述べたように、足利義満は、現在の住所でいう京都市上京区室町通り上立売の辺りに、壮麗な将軍家邸宅を構え、そこで将軍として政務を執っていました。広大な邸宅の敷地には大きな池が掘られて鴨川の水が引かれ、庭には四季の花が植えられ、それらの花が爛漫と咲き乱れていたと云い、その美しい様から室町の足利将軍邸は、人々から「花の御所」と称されました。
永徳2年(1382年)、義満はその花の御所の東側の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、早速寺院の建設工事が始まります。その寺院が、現在の相国寺です。

相国寺の造営予定地には既に多くの家々が建っており、御所に仕える公家達の屋敷なども立ち並んでいましたが、相国寺の造営に当たっては、家主の身分に関係無くそれらの家屋は全て余所へと移転させられ、その有様は、まるで平清盛による福原遷都にも似た、かなり強引なものであったと云われています。
ちなみに、寺名の「相国」とは、国を扶ける、国を治める、という意味です。元々は中国からきた言葉ですが、日本ではその由来から、左大臣の位を相国と呼んでいました。つまり、相国寺を創建した義満が当時左大臣で、相国であった事から、相国寺と名付けられたのです。

そして義満は、禅の師であった春屋妙葩に、相国寺の開山となることを要請します。しかし妙葩はこれを固辞し、妙葩の師である夢窓疎石を開山とするのなら、自分は喜んで第二祖になると返答したため、義満はそれを了承し、既に故人となっていた疎石を形の上でだけ開山として、妙葩は第二祖(事実上の開山)となりました。
但し妙葩は、相国寺造営の責任者として終始陣頭で指揮を執ったものの、相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没しています。

ちなみに、義満は相国寺を是非とも京都五山のひとつに入れたいと熱望していましたが、既に五山は確定していたため、もし相国寺を強引に五山に入れると、既に五山に入っているいずれかの寺院が五山から脱落しなければならず、そのため義満は、どの寺院を五山から除くべきか、もしくは、相国寺を準五山とするか、あるいは、五山ではなく六山の制にするか、大いに悩んでいたようです。
最終的には、天皇によって建立された南禅寺を五山よりも上位の寺格(別格)として五山から外す事で、相国寺を五山に列位させて、義満の願いは成就しました。これ以降の具体的な順位は、南禅寺が別格、天龍寺が第一位、相国寺が第二位、建仁寺が第三位、東福寺が第四位、万寿寺が第五位となります。
当初は、義満の意向により相国寺が第一位、天龍寺が第二位とされたのですが、義満没後に再び天竜寺が第一位、相国寺が第二位に戻され、それ以降は順位の変動はありません。

そして、着工から10年を経た明徳3年(1392年)、ついに相国寺の堂塔伽藍が竣工し、盛大な落慶供養が執り行われました。
「相国寺供養記」という本によりますと、落慶供養当日の模様は、「路頭縦と云い横と云い、桟敷左に在り右に在り、都鄙群集して堵(かき)のごとく、綺羅充満して市をなす」と記されており、境内には、聳え立つ真新しい殿堂、威儀を正した僧侶達、義満に供奉する公武の人々、見物の群集などの景色が広がり、祝賀ムード全開、お祭り一色の派手な様相が広がっていたようです。
そしてそのほぼ1ヶ月後に、南朝と北朝との間で和議が成立し、約60年に亘って続いてきた南北朝の抗争も終結し、待望の平和が蘇る事となりました。

創建当時の相国寺は、室町一条辺りに総門があったと云われ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約144万坪の壮大な敷地に50あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。兎に角巨大な寺院でした。
そして、残念ながら現存はしませんが、義満の時代の相国寺で確実に最も目立っていたのは、史上最も高かった日本様式の仏塔でもある「七重大塔」です。この仏塔は、義満の絶大な権勢を象徴するモニュメントでもあり、その高さ(尖塔高)は109.1mを誇り、構築物として高さ日本一というその記録は、大正3年(1914年)に日立鉱山の煙突(高さ155.7m)が完成するまでの凡そ515年間も破られる事がありませんでした。
下のイラストは、「週刊 新発見!日本の歴史 24」誌上からの転載で、義満の時代の相国寺伽藍の全景です。巨大な七重大塔が、強烈な存在感を醸し出しています。

相国寺伽藍


ところが、竣工後の相国寺は度々火災に見舞われ(七重大塔が現存しないのはそのためです)、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に境内は全焼し、その後復興されたものの、義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼しています。
応仁元年(1467年)には、応仁の乱で細川方の陣地となったあおりでまた焼失し(相国寺の戦い)、天文20年(1551年)にも、細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれてまた焼失しています(相国寺の戦い)。
天正12年(1584年)、相国寺中興の祖とされる西笑承兌が住職となって復興が進められ、日本最古の法堂建築として現存する法堂は、この時期に建立されました。しかしその後も、元和6年(1620年)に火災に遭い、天明8年(1788年)の「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇をまた焼失しました。そのため、現存の伽藍の大部分は、19世紀はじめの文化年間の再建となっています。

このように、長い歴史の中で幾度も焼失と復興を繰り返してきた相国寺ですが、相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として、そして、室町幕府の厚い保護と将軍の帰依とによって、これだけの火災に遭いながらも大いに栄えてきた大寺院で、幾多の禅傑を生み出し、我が国の文化にも決して小さくはない役割を果たしてきました。
ちなみに、室町時代中頃の「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)という日記によりますと、第8代将軍の足利義政は、寛正5年(1464年)の一年間だけで、実に四十数回も相国寺を参詣しています。現職の将軍が一年間にこのように何十回も参詣したお寺は他には無く、足利将軍の深い帰依の様子が窺えます。


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鎌倉幕府の権力構造の推移についての考察

このブログでは、南北朝時代や室町時代について取り上げる事が多いですが、それらの前時代である鎌倉時代に於ける武家社会の権力構造の推移というのも、調べてみるとなかなか興味深いものがあります。

鎌倉時代の武家社会というと、中学校や高校の日本史の授業などでは、武家の棟梁として幕府を統率する将軍と、その将軍に仕える御家人達とが、「御恩と奉公」という双務的・互恵的な主従関係を築いていたと習いましたが、そのような、将軍と御家人の主従関係というのは、今の私は、あくまでも建前に過ぎなかったのではないかと思っています。
現実には、鎌倉幕府の歴代将軍の中で政治的実権を掌握していたのは初代の源頼朝だけですから、鎌倉時代の御家人達にとっての実際の奉公の対象は、頼朝が将軍だった時期を除くと、将軍という個人では無かったはずです。頼朝以外のほとんどの歴代将軍達は、御家人に対する「御恩」、即ち、本領安堵や新恩給与を行う実権を持っていなかったからです。

では、鎌倉時代の御家人達が、自分の命や一族の将来を懸けてまで「一所懸命」に奉公していた対象は何だったのかというと、それは恐らく、御成敗式目などに代表される、幕府による「法による公正な判断と処遇」だったのではないでしょうか。
だからこそ、源氏直系の将軍が僅か三代で絶えた後も、執権や得宗(北条家本家の当主)が有能な人材に恵まれ「公正な判断と処遇」が保障されていた時代は幕府が支持されて栄え、逆に、幕府を運営する執権や得宗、後述する内管領のいずれもが、有能でも公正でも無くなった鎌倉時代末期には、幕府は武家からの信頼を失い、あっさりと崩壊したのでしょう。

勿論実際には、それのみが幕府崩壊の原因ではありません。鎌倉幕府が崩壊した要因を以下にいくつか列記してみると…
元寇は、幕府の領土が拡張する性格の戦争では無く、防衛戦争であったため、元寇で身を挺して活躍した御家人達に対して幕府から恩賞として与える事の出来る土地が無かった。
そもそも鎌倉時代の家の多くは財産の相続を男女平等に、しかも全員に均等に分割していたため、土地がどんどん先細りしていき、仮に元寇が無かったとしても恩賞として土地を与え続ける体制を維持していくには限界が近付いていた。
後醍醐天皇による倒幕の執念が凄まじかった。
…なども、幕府崩壊の重要な要因のひとつとして挙げる事が出来るでしょう。しかし、賄賂が横行するなどして政治が腐敗し「公正な判断と処遇」が保障されなくなった事は、恐らくそれらの要因以上に、幕府崩壊のかなり大きな原因になったであろうと私は思っています。


それにしても、鎌倉時代の武家社会というのは、政治的実権を握る者の地位がどんどん下がっていくという、権力構造としてはかなり特異な特徴が見られます。
そもそも、政治的権力(統治する権限)を朝廷から委任されているという時点で、本当は将軍ですら絶対的なトップではありませんが(建前としては当然、委任される側よりも委任する側のほうが上位ですからね)、とりあえず幕府という組織においては、将軍がトップとして君臨します。実際、初代将軍の頼朝は鎌倉幕府を統べる立場として、ほぼ独裁的な権限を掌中に収めていました。
下の画像は、その頼朝の肖像画として昔から特に有名なもので、初めて武家政権を創立した将軍らしい凛とした威厳が感じられる肖像です(但し近年は、この肖像画は頼朝ではなく、足利直義を描いたものではないかという説もあります)。

源頼朝

頼朝は、治承・寿永の乱、即ち「源平の合戦」を勝ち抜いた事で、日本初の武家政権である鎌倉幕府を開幕する事が出来たわけですが、その「源平の合戦」というのは、実際には、必ずしも源氏と平氏との戦いではありませんでした。
どういう事かというと、頼朝は、同族である従兄弟の木曽義仲と戦って義仲を討ち死にさせ、平氏の滅亡後には自分の弟である義経も討ち、その後、更にもうひとりの弟である範頼も誅殺するなど、凄惨な同族争いをしており、また、頼朝に味方した関東武士の中には、北条氏・千葉氏・三浦氏・和田氏・畠山氏・熊谷氏など、家系としては平氏に連なる一門も多かった事から、結果として彼らも頼朝と共に平氏政権とは対峙しており、つまり実際には、源氏と源氏の間、平氏と平氏の間でも激しい死闘が行われていたのです。
では、「源平の合戦」が、純粋に源氏と平氏という二大勢力が争った合戦ではないのなら、結局あの大乱では、何と何が戦っていたのかというと、一言でまとめるなら、それは「貴族化した平氏を中心とした中央政権」と「源頼朝という源氏の貴種を神輿として担いだ、源氏も平氏も含んだ東国武士団」との戦いであったと言えます。もっと端的に言うと、「京を中心とした西国」と「関東を中心とした東国」、もしくは「中央」と「地方」の戦いであったとも言えます。

ようするに、当初の頼朝は、あくまでも東国武士団の“神輿”に過ぎなかったのです。極論すれば、関東の武士団にとっては、自分達の旗印となるに相応しい(平氏政権に対抗出来そうな)血筋の良い御曹司でさえあれば、別に頼朝以外の人物を担ぎあげても良かったのです。
そのため、挙兵して間もない頃の頼朝は、まだ独裁的な強権を発動できる程の力はありませんでした。例えば、富士川の戦いで平維盛の率いる軍勢に勝利した後、頼朝自身は、その勢いに乗ってそのまま上洛する事を望みますが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らが、まず東国を平定すべきであると諌めたため、頼朝はその意見に従って、黄瀬川に兵を引き返しています。この時点ではまだ、自分の意見を押し通す事は出来なかったのです。

しかし、その後の頼朝は実力をつけ、軍人としてよりもむしろ政治家として著しく頭角を現し(軍の指揮官としては弟の義経のほうが明らかに優秀でした)、権謀術数をめぐらして自分の抵抗勢力となりそうな者は味方といえども次々と粛清し、幕府が成立する頃には、「鎌倉殿」として独裁的な権力を振るうようになっていました。
つまり、頼朝の強大な権力は、単に血筋だけで自動的に継承されたものではなく、自分自身の能力や実績により得たものであるわけですから、その点については私も素直に「凄いな」と思います。頼朝は結構苦労人なのです。もっとも、この点については、他の初代将軍である足利尊氏や徳川家康も同じですが。2代目以降は兎も角、初代だけは、単に血筋だけでは旧政権を打倒して自らの新政権を築き上げる事は出来ませんからね。
頼朝は猜疑心の塊のようなイメージがあるので、もし私の身の回りにいたとしたら、個人的にはあまりお友達にはなりたくないタイプですが(笑)、それは兎も角、全く何の権限も持たない(むしろ権限を制限される立場の)伊豆の流人から、日本で初めて創設された幕府の初代将軍にまで上り詰めただけあって、その政治力やカリスマ性などは卓越したものがあり、頼朝が極めて有能な人物であった事は間違いありません。

ところが、その頼朝が没すると、2代目の将軍となった頼家は、頼朝に比べると能力的にかなり劣っていた上に公正な態度でもなかったため、大多数の御家人達から支持を得られず、政治的な実権を奪われてしまいます。
そして、有力御家人達による合議制で政治が行われるようになるものの、権力闘争の末にその合議制は崩壊し、頼家は失脚後に暗殺され、その跡を継いで3代将軍となった実朝も暗殺され、源氏の直系は絶えてしまいます。
そういった血なまぐさい抗争期を経て、本来は将軍の補佐役に過ぎない「執権」という役職に幕府の政治的実権が移るようになり、更に、評論家の山本七平氏が“日本史上最大の事件”と定義付ける「承久の乱」で幕府が後鳥羽上皇に勝利した事により幕府の権力は絶対的なものとなり、それに比例して執権の権力もより高まり、そしてその執権の地位は、幕府の中では最有力御家人の北条氏が代々世襲するようになります。
実朝が暗殺されて以降の鎌倉幕府が北条幕府と称される事もあるのはそのためです。

しかし、執権で最も有名な人物といえば、平成13年のNHK大河ドラマの主人公にもなった、元寇(文永の役・弘安の役)という未曾有の国難に対処した北条時宗ですが、その時宗の官位・官職は正五位下相模守で、朝廷の官位でいえばかなり下位であり、名目上はあくまでも関東の一地方官に過ぎません(但し没後600年以上経った明治時代に、元による日本侵攻を退けた功績により、時宗は明治天皇から従一位が追贈されています)。
建前としては一地方官に過ぎないその執権が、事実上の日本の最高権力者として国政を取り仕切り、そして、当時世界最大の帝国であった元の軍勢と戦い(時宗自身が戦場で直接軍勢を率いて戦ったわけではありませんが)、それを撃退したのです。
下の画像は、その北条時宗の肖像画(出家後の姿を描いたもの)です。時宗の生涯は、まるで元寇に対処するために生まれ、そのために全ての力を使い切ったかのような生き様で、二度に亘る元寇を防ぎ、古代・中世を通して日本最大ともいえる国難を乗り切った後、時宗は満32歳という若さで病没しました。

北条時宗

その後、幕府の実権は執権から得宗へと移り、執権の地位すら形骸化していきます。時宗の時代より少し前に遡りますが、時宗の父である、「鉢の木」のエピソードでも有名な北条時頼は、執権を引退した後も得宗としてそのまま強大な政治権力を保持し続けたので、既にその頃から、執権の形骸化は進んでいました。
そう考えると、時頼や時宗は確かに有能な執権ではありましたが、実際には、執権という役職であったからというよりも、むしろ得宗であったからこそ、その政治的手腕を存分に発揮する事が出来たのではないかという気もします。実際、得宗であった執権には実権がありましたが、得宗ではない執権、即ち北条家傍流の執権は、あくまでも“中継ぎ”と見なされ、あまり政治的な実権はありませんでした。
ちなみに、知名度でいえばやはり時宗のほうが上ですが時頼も、その態度は公正で、質素・堅実でもあり、大多数の御家人(弾圧対象となった反得宗勢力の御家人を除く)や民衆に対して善政を敷いた事から、一般には名君として高く評価されています。

そして鎌倉時代末期には、得宗家の家臣(得宗の家政を司る執事)に過ぎない内管領が、得宗に代わって権力を振るうようになります。
そもそも内管領は、幕府の公式な役職名ではなく、その立場も、現代でいえば県知事(朝廷の官位でいえば執権はその位に相当)が個人的に抱えている何人かいる秘書の中では主席の人、という程度の役職と思われますが、そんな下位の地位にある者が、事実上、内政・外交・軍事・裁判まで行っていたのですから、本来であれば越権も甚だしい事になります。
内管領といえば、個人的には、平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」に登場した、フランキー堺さんが演じた長崎円喜が思い出されます。円喜は、末期の鎌倉幕府に於ける実質的な最高権力者で、得宗以上の絶大な権力を振るいましたが、同時に、末期の鎌倉幕府の腐敗ぶりを象徴する、かなりダーティーな人物でもありました。

以上の事からも分かるように、鎌倉幕府というのは、表面的なトップは一貫して将軍であるものの、実際にその政治的実権を握る者(フィクサー)は、「将軍 → 執権 → 得宗 → 内管領」という順に、どんどん下降していった組織なのです。
厳密にいえば、将軍(頼朝)独裁期から執権専制期にかけての過渡期には、前述のように有力御家人による合議制という政治体制もあったのですが、兎も角、後の室町時代とも江戸時代とも明らかに違う、鎌倉時代特有のこの独特な武家社会の構造は、なかなか興味深いものがあります。


では、鎌倉幕府の次の室町幕府の場合はどうだったのかというと、病弱のため十代で早世した5代将軍・足利義量を除くと、室町幕府では少なくとも6代将軍の足利義教までは、将軍自身が政治的な実権を掌握していました。
その時点でまず鎌倉幕府とは異なりますが、義教が暗殺されて以降は、鎌倉時代末期よりももっとカオスな状況になり、鎌倉幕府のように政治的な実権を握る者の立場が下降していった、というよりは、政治的な実権を握る者がいったい誰なのかも分からない、そもそも誰も実権を握っていない、という無秩序な状態に陥り、その結果として、下克上の戦国時代へと突入していきました。

ちなみに、鎌倉幕府と室町幕府の違いについてもう一点指摘すると、中学や高校の日本史の教科書等に掲載されている幕府の組織図では、鎌倉幕府の場合は執権が、室町幕府の場合は管領が、それぞれ将軍の補佐役として、将軍に次ぐナンバー2の地位として図示されていますが、建前としては兎も角現実には、執権と管領には立場や役割に差があり、その職掌は同一ではありませんでした。
はっきり言うと、単なる“お飾り”に過ぎない実権の無くなった将軍に代わって幕政全般を司る執権のほうが、室町幕府の管領よりも、より政治的な実権を握っていた、と私は解しています。

管領は、幕府の最高権力者として君臨する、直接の上司に当たる将軍と、一応は管領の部下的な立場になるものの鎌倉時代の御家人達よりは強い力を持っている事が多かった守護・守護大名という、明らかに利害が対立する上下関係の板挟みとなって、両者に気を遣いながらその権益を必死に調整するという、地位の高さに反して見返りが少ないばかりか損な役回りでもあり、実際、管領になった者は上からも下からも恨みを買って失脚や敗死する事が多く、足利一門でもある斯波・細川・畠山の三管領家は、管領への就任を嫌がったり、就任しても直ぐに辞任したがるなどしました。
そういった意味では、管領よりも執権のほうが実質的な“うま味”はあったでしょうし、その執権の地位を常に一族(特に得宗家)で独占し続けてきたからこそ、北条家は鎌倉時代末期まで、徐々に陰りが見えながらも一応は何とか権力を維持出来たのでしょう。


それでは、室町幕府の次の江戸幕府の場合はどうだったのかというと、少なくとも江戸時代前期から中期にかけては、江戸幕府では将軍自身が政治的な実権を掌握していた事が多く、その点で、やはり鎌倉幕府とは異なります。
時期によっては大老・老中・側用人・その他の幕臣などが政治を動かす事もありましたが、江戸時代後期以降でも、時には将軍自身が強力なリーダーシップを発揮する事もありました。

例えば、平成10年のNHK大河ドラマの主人公にもなった、最後の将軍として有名な徳川慶喜は、将軍在任期間中は一度も江戸城に入っていないにも拘わらず、京の都から幕府を指揮し、諸外国からも実質的な日本の支配者とみなされていました。この点は、戦国時代という混沌とした時代を招き、末期の頃は幕府の本拠地である山城国一国すら維持出来なかった、弱体化が著しかった室町幕府とも異なる所です。
もっとも、その慶喜の時代に江戸幕府は崩壊し、それにより、頼朝以来続いてきた約700年間の武家政治も終焉を迎えたわけですから、結果的に慶喜の治世は失敗に終わった事になりますが、それでも私は、慶喜は政治家としては極めて優秀な人物であったと思っています。征夷大将軍という武家の棟梁として本当に相応しい人物であったのかどうかは、また別問題ですが。


こうして改めて比較してみると、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は、一見よく似ているように見える武家政権でありながらも、それぞれの権力構造の推移というのは決して同一ではなく、実に興味深いです。


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後醍醐天皇をお祀りする吉野神宮を参拝してきました

私は今月の初め頃、2泊3日の日程で、関西(主に吉野・京都・大阪など)を旅行してきました。
2日目の朝からお昼にかけては、日本を代表する桜の名所としても知られる、奈良県の吉野方面を車で回ってきたのですが、その際、同県吉野町に鎮座する吉野神宮にも立ち寄り、同神宮を参拝・見学してきました。

吉野神宮は、南北朝動乱の悲史に於ける主人公のおひとりで、天皇親政による「建武の新政」(建武の中興)を行い、その後吉野に南朝を開かれて京都の北朝や室町幕府と戦われた、太平記でお馴染みの第96代・後醍醐天皇を主祭神としてお祀りするお宮です。
下の画像は、日本史の教科書にもよく掲載されている、その御醍醐天皇の肖像画です。いくつか伝わっている御醍醐天皇肖像の中でも特に有名な画像で、法服である袈裟を着て密教の法具を両手に持たれており、天皇としてはかなり“異形”なお姿で描かれています。また、天皇の上方(頭上)には、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三社託宣が掲げられています。

後醍醐天皇

歴代天皇の中でも傑出した政治力とカリスマ性を発揮され、天皇親政・公家一統の政治の実現を只管目指されて武家政権と激しく対立し続けるも、遂に京都奪還を達し給わず御無念のうちに吉野の山奥に崩ぜられた後醍醐天皇の崩御から550年が経った明治22年(大日本帝国憲法が発布された年)、かつて南朝の本拠であった吉野山で後醍醐天皇の御霊を慰撫するため、明治天皇が吉野神宮の御創立を仰せだされ、それを受けて明治25年に御鎮座祭が執り行われて、吉野神宮は創建されました。
最後の武家政権である江戸幕府が倒れて明治時代に入ると、かつて天皇親政を目指した南朝が再評価されるようになり、南朝関係者をお祀りする神社が全国にいくつも創建されましたが、吉野神宮は、南朝最大の中心人物である後醍醐天皇をお祀りしている事や、旧社格が最上位の「官幣大社」であった事などから、そうした「建武中興十五社」の中でも、筆頭に位置付けられました。
吉野神宮は、創建が近代なのでお宮としての歴史は然程深いとはいえないものの、以上のような経緯を持つ、南朝所縁のお宮なので、昔から太平記が好きな私としては、一度は訪れてみたいお宮でした。

なお、現在の同神宮境内地は、元々は丈六山一の蔵王堂があり、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のため挙兵された大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が吉野山に陣を構えられた際、鎌倉幕府方の侍大将二階堂道蘊(どううん)に占領されて本陣になった場所、と伝えられています。

吉野神宮_01

吉野神宮_02

南朝所縁のお宮だけあって、吉野神宮の境内に鎮座する各摂社の御祭神も、やはり、後醍醐天皇にお仕えした南朝の公家や武将達です。
具体的には、藤原(日野)資朝、藤原(日野)俊基、児島範長、児島高徳、桜山茲俊、土居通増、得能通綱の7柱が、御影神社・船岡神社・瀧櫻神社の3社で、それぞれ御祭神としてお祀りされております。

吉野神宮_03

吉野神宮は、明治25年の御鎮座から僅か30年で境内が手狭となり、神域を拡張して主要な社殿も一新する事になりました。
そのため現在の社殿は、いずれも大正11年から昭和7年にかけて改築造営されたもので、特に、三間社流造りの本殿、入母屋造りで銅板葺きの拝殿、切妻造りの神門、それを取り囲む玉垣などは、昭和(戦前)の近代神社建築を代表する様式となっています。

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ところで、神社の社殿(本殿・拝殿など)は、ごく一部の例外を除いて、そのほとんどは南か東を向いて建てられるのが通例ですが、吉野神宮の社殿は、珍しく北を向いています。
これは、御祭神の後醍醐天皇が、京都への御帰還を強く熱望されながらも南朝の勢力衰退によりそれが叶わず崩御されたため、後醍醐天皇のその心情を酌んで、北、即ち吉野から見た京都方面に向けられた事に因ります。
全く同じ理由から、後醍醐天皇の勅願寺であった如意輪寺の裏山に築かれた塔尾陵(後醍醐天皇の御陵)も、皇室の墓陵の中では唯一の北向きとなっております。

下の画像は、後醍醐天皇の崩御の様子が描かれたものです。御病気が重く、最早再起は不能と御自覚された後醍醐天皇は、義良親王(後村上天皇)に譲位され、御遺勅として、南朝関係者一同に新天皇に忠義を尽くすよう命じられ、その翌日、吉野の行宮にて波瀾万丈の御生涯を閉じられました(宝算52)。

後醍醐天皇の崩御

今回私は、左右に回廊が延びる拝殿の奥にある幣殿(下の写真の看板では便宜的に本殿と書かれていますが)に昇殿し、そこで玉串拝礼もさせて頂きました。
具体的には、「修祓、玉串拝礼、塩湯で祓い」という次第で、白衣・白袴の年配の神職さん(狩衣や格衣などは着装されていませんでした)が立礼にて御奉仕して下さいました。 本殿の間近という事もあって、更に御祭神の御神威を感じ、とても厳粛な気持ちになりました。

吉野神宮_07

太平記によると、後醍醐天皇は「たゞ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)玉骨は仮ひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という鬼気迫るお言葉を遺されて、左手には法華経の五巻を、右手には御剣を持って崩御されたとあり、その最期の御様子からも、只管北天を望まれる天皇の激烈なる御気迫が伝わってきます。
まして、前出のように御自分でその想いを「妄念」と仰せられるくらいですから、私としては、吉野神宮には後醍醐天皇のその妄念や御無念の想いが今なお滞留し、失礼ながら、どこかおどろおどろしい陰気な雰囲気が漂っているお宮なのかな、という気もしていたのですが、実際にお参りしてみると、その思いとは正反対で、実に明るく清々しい、開放的な雰囲気のお宮でした。

その吉野神宮の代表的な御利益(御神徳)は、厄除け、合格祈願、病気平癒、家内安全との事です。
幾多の艱難辛苦を重ねられながらも、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権を打倒すべく精力的に活動された御醍醐天皇の芯の強さは、参拝者にも厄除けなどの恩恵をもたらすといい、また近年は、心の浄化にも効果があると云われているそうです。
崩御から六百数十年という長い時を経て、後醍醐天皇の妄念も、今はもうすっかり浄化されたのかもしれません。


ちなみに、南朝関係のスポットとしては、今回訪問の吉野神宮以外だと、私は過去に以下の社寺や関連史跡等を訪れています。

【平成27年1月】
生前は敵対関係にあった楠木正行・足利義詮両名の菩提寺である、京都の嵯峨野にある宝筐院
南朝の重鎮として活躍した北畠親房・顕家父子をお祀りする、大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社
【平成25年11月】
太平記での代表的なエピソードのひとつ「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、大阪府島本町にある櫻井驛跡
【平成23年6月】
後の南朝の有力武将となる新田義貞が、ここから海岸に沿って鎌倉へ討幕の軍勢を進めたと伝わる、鎌倉市南西部の稲村ヶ崎
後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕に多大な貢献をした護良親王をお祀りする、鎌倉市二階堂に鎮座する鎌倉宮。
【平成14~15年】
大楠公とも称される楠木正成をお祀りする、神戸市中央区に鎮座する湊川神社
小楠公とも称される楠木正行をお祀りする、大阪府四條畷市に鎮座する四条畷神社。


下の写真は、吉野神宮の境内に立てられていた、建武中興十五社の案内看板です。

吉野神宮_08


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熊本・大分両県での地震災害お見舞い

今月14日に発生し、今なお依然として強い余震が続いている「熊本地震」によって被災された皆様方に、謹んでお見舞いを申し上げます。

今回の熊本地震は、気象庁が昭和24年に「震度7」の震度階級を設定してからは、平成23年に発生したあの東日本大震災(地震名は東北地方太平洋沖地震)に続いて国内では4回目、九州では初となる最大震度7の激震でした。
活断層が引き起こしたマグニチュード7.3の直下地震である点、木造家屋に大きな被害を出しやすい周期1~2秒のパルス状の揺れが強い点など、平成7年に発生した阪神・淡路大震災(地震名は兵庫県南部地震)とよく似た地震で、この度は熊本・大分両県を中心に九州北部の広範囲に亘って各地に大きな被害をもたらしました。
倒壊した住宅の下敷きになったり土砂崩れに巻き込まれるなどして、大変残念な事に、現在までに40名以上もの死亡が確認されています。避難所での病死等の関連死も含めると、死者の数はもっと多くなります。
お亡くなりになられた方々の御霊の安らかならん事を、衷心よりお祈り申し上げます…。


なお、宮内庁のホームページによると、天皇皇后両陛下は発災翌日の15日、熊本県の蒲島郁夫知事に対して、被害についてのお見舞いのお気持ち、災害対策に従事している関係者に対するお労いのお気持ち、被災者の健康を御祈念するお気持ちを、侍従長を通じてお伝えになられました。以下(鉤括弧内緑文字)がその全文です。
天皇皇后両陛下には、昨夜の熊本県を震源とする大地震により、多数の死傷者、避難者が発生するなど県民生活に大きな被害が生じていることに大変お心を痛められ、犠牲者に対するお悼みと被害を被った人々へのお見舞いのお気持ち、並びに災害対策に従事している関係者に対するおねぎらいのお気持ちを知事にお伝えするようにとの御意向でした。まだまだ、朝夕寒い季節であるので被災者をはじめ人々の健康を祈っておられます。以上、謹んでお伝えします。

歴史的にみても、天皇陛下は、一時の例外を除きほぼ常に、世俗的な権力とは無縁で、権力よりも上位に君臨する宗教的な最高権威、つまり、公正無私な祭祀王として只管“国の平安と国民の安寧を祈る”という超越的な御存在であり、その伝統は今も変わる事なく連綿と続いている、という事がよく分かる事例です。
このブログで度々取り上げている南北朝期の後醍醐天皇は、中世以降の歴代天皇としては珍しく、政治的な権力と宗教的な権威の両方を兼ね備えた天皇でありましたが。

ちなみに、念のために一応補足しておくと、両陛下が15日に熊本県の知事にだけお気持ちをお伝えになられたのは、その時点ではまだ、大分県など他県での被害はほとんど報告されていなかったためです。


ところで、熊本・大分両県では、この度の地震により伝統的建築物や歴史的文化財等も大きな被害を受けました。
国の特別史跡でもある熊本城では、全国ニュースでも既に大きく報じられているように、天守閣の屋根瓦が崩れたり、屋根の上にあったしゃちほこが落下したり、石垣もいくつかの場所で崩れたり、更に、築城当初から残っていた重要文化財の東十八間櫓・北十八間櫓が倒壊して隣の熊本大神宮の社務所を押し潰すなどしました。
また、肥後国一宮で旧官幣大社の阿蘇神社(熊本県阿蘇市)でも、重要文化財の楼門と拝殿が全壊し、大分県でも、岡城跡(竹田市)、岡藩主中川家墓所(竹田市)、旧竹田荘(竹田市)、角牟礼城跡(玖珠町)、鬼の岩屋古墳(別府市)などで一部に亀裂やズレが生じるなどの被害が発生しました。

私は一昨年1月20日の記事「南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする神社」の中で、建武中興十五社会の神社を紹介させて頂きましたが、その15社のうち、後醍醐天皇の皇子で九州に於ける南朝方の全盛期を築いた懐良親王をお祀りする「八代宮」(熊本県八代市松江城町)と、後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉幕府の鎮西探題を襲撃するもののその戦で敗れて討たれてしまった菊池武時などをお祀りする「菊池神社」(熊本県菊池市大字隈府)の2社は、いずれも九州、しかも、今回の地震で特に大きく被災した熊本県内に鎮座しております。
この2社のうち、八代宮の被害状況は現時点ではまだ不明ですが、菊池神社については、電子掲示板「神道青年全国協議会 災害対策掲示板」への書き込みによると、倒壊まではいかないものの社殿に酷い歪みが生じているとの事です。

これ以上犠牲者が増える事のないようにという事と、大変困難な状況に陥る事を余儀なくされた被災者の皆様方の一日も早い生活の再建、そして、この記事で取り上げた史跡や神社仏閣のみならず被災地の各所が一刻も早く復旧・復興されます事を、改めて心より御祈念させて頂きます。


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足利市の鑁阿寺に残る、足利将軍へのかつての尊崇・信仰の形

前回の記事で述べたように、私は先月下旬、栃木県足利市に行ってきたのですが、私が足利市で見てきたいくつかのスポットの中で、個人的に一番興味深かったのは、足利学校のすぐ近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)という古刹でした。
現在の鑁阿寺は、真言宗大日派の本山で、「足利氏宅跡」として境内全体が国の史跡に指定されており、四方に門が設けられ土塁と堀がめぐらされているなど平安時代後期の武士の館の面影が残されている事から「日本の名城百選」のひとつにも選ばれています。
また、本堂は国宝に、境内にあるその他の堂宇も国の重要文化財や県もしくは市の文化財などに指定されており、歴史的建造物としても大変貴重なお寺です。

下の写真2枚は、その鑁阿寺を今回参拝・見学した際に私が撮影してきた、県の指定文化財でもある楼門(山門)と、国宝に指定されている大御堂(本堂)です。
楼門(下の写真の1枚目)は、室町幕府第13代将軍の足利義輝が室町時代後期に再建したもので、大御堂(下の写真の2枚目)は、源姓足利氏2代目で鑁阿寺を開創した足利義兼が鎌倉時代初期に建立し、鎌倉時代後期に足利尊氏の父・貞氏が再建したものです。

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楼門と大御堂、どちらの屋根の上にも、足利家の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が入っており、金色に光り輝いています。

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前出の足利義兼が邸宅内に持仏堂を建てたのが鑁阿寺創建の由緒とされており、鎌倉時代以降、次第に本格的且つ大規模な寺院として整備されていき、室町時代には、京都の足利将軍家や、鎌倉公方足利家により、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
現在は、平成26年7月2日の記事で紹介させて頂いた「全国足利氏ゆかりの会」の会員ともなっています。


ところで、私が今回鑁阿寺を参拝・見学してきて、現地で「おおっ、これは!」と特に括目したのは、大御堂の裏手に建つ「御霊屋」(おたまや)と、その直ぐ隣に建つ「大酉堂」(おおとりどう)です。

下の写真4枚はいずれも御霊屋で、鑁阿寺という寺院の境内に建つ建物ではありますが、これは仏教建築ではなく、明らかな神社建築であるのが特徴です。手前側にある入母屋造りの拝殿と、その奥に鎮座する一間社流れ造りの本殿の2殿を中心として、全体が、正面の神門と連なる瑞垣で囲まれています。
御霊屋の当初の建物は鎌倉時代に建てられましたが、現在のものは、江戸時代に江戸幕府第11代将軍 徳川家斉が寄進したものです。

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御霊屋の神門前に立てられている解説板によると、この御霊屋は、当初は足利大権現と称され、本殿では「源氏の祖」」を御祭神としてお祀りし、拝殿内には、歴代足利将軍15人全員の木像がお祀りされていたそうです(現在は、その15体の歴代将軍の座像は、いずれも鑁阿寺の経堂内に移されています)。
また、本殿の直ぐ裏には、鑁阿寺を開創した足利義兼の父・義康と、その父(つまり義兼の祖父)である義国二人のお墓もあります。下の写真がそのお墓で、本殿の直ぐ真裏、瑞垣の内側にあります。本殿御祭神の「源氏の祖」というのは、この二人の事らしいです。

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神道は、何よりも清浄を尊び、人の死や遺骸などは「不浄」や「ケガレ」として捉えるため、本来の神社であれば、本殿とお墓が隣接して建つという事はまずほとんど有り得ないのですが、ただ、久能山東照宮の廟所、日光東照宮の奥宮、といった例外もあるので(これらの二例はいずれも、御祭神のお墓と本殿が極めて近接しています)、本殿とお墓が隣接しているのが必ずしも絶対にアウト、というわけではないのでしょう。
そもそもこの御霊屋は寺院の境内に建つ、非常に神仏習合色の濃いお宮なので、どのみち普通の神社とは性格が異なりますし。


そして下の写真は、御霊屋の直ぐ隣に建つ大酉堂です。こちらは御霊屋とは違い、神社建築ではなく、他の堂宇と同様、仏教本来のお堂の形式が採られています。
大酉堂の前に立てられている解説板によると、このお堂は、元々は足利尊氏をお祀りするお堂として室町時代に建立されたもので、江戸時代や明治時代初期の鑁阿寺伽藍配置図には「足利尊氏公霊屋」と記載されていたそうです。このお堂には、御霊屋の拝殿内にお祀りされていた束帯姿の尊氏座像とは別の、甲冑姿の尊氏像も、お祀りされていたそうです。
しかし明治時代中期以降、尊氏を逆賊とする歴史観が台頭してきた事により、大酉堂の尊氏像はここから本坊に移され、それに代わって、俗に「おとり様」と称される、武神でもある大酉大権現が御本尊になったのだそうです。現在、大酉堂と称されているのはそのためです。

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私は平成26年1月20日の記事の中で、以下のように書いた事があります。
ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。

こういった事を踏まえて、私は、南朝方の天皇・皇族・公家・武将ではなく、北朝方(足利氏や北朝を支援した室町幕府の武将も含む)が信仰対象となっている社寺が無いものか、ずっと探していたのですが、それを、今回の足利市探訪で、鑁阿寺にて漸く見つける事が出来たのでした。

御霊屋は、足利将軍が本殿の主祭神としてお祀りされていたわけではないものの、かつては御霊屋自体が足利大権現と称されていて、拝殿内には歴代の足利将軍像がお祀りされていたとの事ですから、歴代の足利将軍も恐らく信仰の対象、もしくはそれに近い存在として扱われてはいたのでしょう。
ここで言う「歴代の足利将軍像がお祀りされていた」というのが、祀るという字面通り、本当に信仰対象として、配神もしくはそれに準じる御神霊の依代としてお祀りされていたのか、それとも、奉安場所が本殿ではなくあくまでも拝殿なので、単に御神宝や威儀物等に近いような位置付けでそこに奉納されていたのか、その点は不明ですが、歴代の足利将軍像がいずれも比較的綺麗な状態で現存しているらしい事から、兎も角、いろいろな人達の思いを受けながら時代を超えて大切にされてきたのは確かといえそうです。

そして大酉堂は、御祭神としてではないものの、前述のように、はっきりと尊氏が(具体的にどういった形でかは不明ですが、恐らくは神式ではなく仏式で)お祀りされていたようです。
御霊屋と大酉堂それぞれのかつての位置付けは、御霊屋が源氏の祖と歴代の足利将軍全員の霊廟、大酉堂が室町幕府初代将軍である尊氏個人の霊廟、という感じだったのかもしれませんね。

北朝の天皇・皇族・公家や、室町幕府の将軍・武将などをお祀りする社寺は、現在でこそ、その数はほぼ皆無に近いですが、明治時代よりも前の時代は、やはりもっとあったのでしょう。私は今回、鑁阿寺で、その名残を見る事が出来ました。
南朝の天皇・皇族・公家・武将をお祀りする社寺などは、それと反比例して、逆に明治時代以降に多くなったのではないかなと思います。


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