この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

熊本県立美術館で開催中の、菊池一族についての特別展を観てきました

前回の記事で述べた通り、私は先週、九州へと行き、熊本県立美術館(熊本県熊本市)と九州国立博物館(福岡県太宰府市)でそれぞれ開催中の特別展を観覧してきました。

1泊2日という短い旅程で、福岡・熊本・太宰府の3都市を回ってきたので、かなりの“強行軍”であり“弾丸旅行”でしたが、主目的の特別展2つを観てきた他に、1日目は、熊本電鉄(菊池電車)の全線を乗車してローカル線の旅を楽しんだり、その日の夜は熊本市内在住の友人と数年ぶりに再会して一緒に飲んだりするなどし、2日目も、太宰府天満宮を参詣したり、博多の駅ビルや地下街を散策するなどし、かなり限られた時間だった割には目一杯楽しめたと思います♪


さて、今回の記事では、旅行1日目に私が熊本県立美術館本館2階の展示室で観覧してきた特別展「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」について、記させて頂きます。
この特別展では、阿蘇外輪山の尾ノ岳南麓を源流として有明海に注ぐ菊池川水系の本流で一級河川の「菊池川」の、流域一帯の歴史や文化、そこに根付いた信仰の形態、そして、菊池川流域に一大拠点を築いて九州屈指の精強な武士団となった菊池一族の盛衰についての、数々の貴重な史料・文化財等が展示されていました。

熊本県立美術館

特別展「菊池一族の戦いと信仰」チラシ_01


個人的には、やはり、南北朝時代に九州に於ける南朝勢力中核の武家として大活躍をした菊池一族についての展示が興味深かったです。
菊池一族は、熊本県の北部、現在の菊池市を中心に、平安時代後期から室町時代にかけての450年にも亘って活躍し、中央にもその名を轟かせた九州の一大豪族ですが、一族としての最盛期(所謂 征西府の春)を迎えた南北朝時代には、全国的な北朝有利の状況にあっても一貫として南朝の雄として戦い抜き、その志を一途に貫き通した事で、後の世にも語り継がれました。

以下のイラストは、この特別展が開催されていた熊本県立美術館の館内に置いてあった、菊池市発行の、その菊池一族についての紹介・概要解説のチラシです。菊池氏の歴代当主達が、現代的なアレンジを加えられてとても格好良く描かれています。

菊池一族のススメ_01

菊池一族のススメ_02

菊池一族のススメ_03


下図は、鎌倉幕府打倒の先陣をきった、鎌倉時代末期の菊池氏第12代当主・菊池武時の肖像です。上畳に座した入道姿で描かれているこの肖像画は、今回の特別展でも展示されていました。

菊池武時

鎌倉幕府滅亡の約2ヶ月前に当たる元弘3年の3月13日、西国(九州)統括のため鎌倉幕府の出先機関として現在の博多に設置されていた鎮西探題を、菊池武時は一族郎党を率いて襲撃し、大いに奮戦するものの、結局は、本人はもとより子息の頼隆や弟の覚勝ともども敗死し、二百余りの首級と共に晒されました。
しかし、同年5月7日に京都で六波羅探題(京都に於ける鎌倉幕府の出先機関)が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にも届くと、それまで鎮西探題に柔順であった少弐貞経、大友貞宗、島津貞久ら九州の在地勢力が鎮西探題に離反し、同月のうちに鎮西探題は攻め滅ぼされ、得宗の北条高時など主だった北条一門が鎌倉で自害し幕府が滅んだ3日後の5月25日に、最後の鎮西探題を務めた北条(赤橋)英時も博多で一族と共に自害して果てました。

つまり、鎮西探題は最終的には九州の在地勢力によって攻め滅ぼされるのですが、それに先駆けて行われた鎮西探題に対する武時の挙兵については失敗に終わり、武時は壮絶な最期を遂げたのでした。
しかし、武時の九州での挙兵は、後に楠木正成をして「忠厚尤も第一たるか」と言わしめ、後醍醐天皇の意向を受けて九州で初めて決起したという武時の判断は、半世紀以上にも及ぶ菊池一族と南朝の関係の “出発点” にもなりました。

武時の跡を継いだ菊池氏第13代当主の菊池武重が、建武政権の発足後、亡父・武時の功績を賞されて肥後一国を与えられ肥後守となったのを筆頭に、菊池武敏は掃部助、菊池武茂は対馬守、菊池武澄は肥前守というように、菊池氏は九州の一在地勢力ながらこぞって異例ともいうべき破格の恩賞を得、これによって菊池氏は、肥後国内の同列の在地勢力に対して優越的地位を公認され、以後の菊池氏の政治的立場と行動を決定付ける事になりました。

以上のような経緯から、当人にとって敗死は “無念な最期” であったろうとは思いますが、その後一族に与えた多大な影響という観点からは、武時は菊地氏にとっては「中興の祖」的な、“偉大な御先祖様” であったといえそうです。
ちなみに、明治政府が南朝を正統とする立場であった事などから、武時は没後570年近く経った明治35年、明治天皇より贈従一位に叙され、同日、子の菊池武重(菊池氏第13代)と菊池武光(菊池氏第15代)も、それぞれ贈従三位に叙されています。


下の写真は、菊地一族関係のものではありませんが、私が今回の特別展で撮影してきた太刀「銘 来国俊」(めい らいこくとし)です。会場内は原則として写真撮影禁止ですが、例外としてこの太刀のみ、撮影が許可されていました。

大太刀

この太刀は、菊池氏と共に足利尊氏と戦った阿蘇氏第10代当主・阿蘇惟澄(あそこれずみ)が多々良浜の戦いで使用した、「蛍丸」と称される、来国俊作の大太刀の写しで、昭和50年に復元されたものです。
原品は、近代に旧国宝(現国指定重要文化財)に指定され、第二次大戦中は地元警察に預けられていましたが、戦後行方不明となり、GHQが民間から接収した刀剣類の中に蛍丸が含まれていたとも云われていますが、詳細は不明です。

ちなみに、阿蘇氏も、菊池氏同様南朝方として戦った、九州に於ける有力な豪族で、式内社・肥後国一宮・官幣大社の「阿蘇神社」の大宮司職を継承する社家でもありました。


下図は、今回の特別展のチラシの一部で、このチラシにも写真が掲載されているように、この特別展には、菊池一族の「代表的な敵役」として、足利尊氏の木像も展示されていました。
大分県国東市の安国寺が所蔵する、国の重要文化財にも指定されているこの等身・束帯姿の尊氏像は、尊氏の彫像としては現存最古とされており、垂れ目の穏やかな面貌が特徴的で、像主の面貌を忠実に写したと推察されています。

特別展「菊池一族の戦いと信仰」チラシ_02

ちなみに、菊池一族と尊氏が対決した合戦は、箱根竹ノ下の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いなどがよく知られており、そのいずれも、尊氏方の勝利で終わっています。


今回の特別展、北海道ではまず開催される事も観る機会も無いであろう、菊地氏所縁の地である熊本県ならではの特別展だったので、私としてはとても興味深く、面白かったです!
今回の旅行では時間の都合上行けませんでしたが、平成26年1月20日の記事でも述べた通り、熊本県菊池市には、菊池氏の当主 武時(第12代)・武重(第13代)・武光(第15代)の父子を主祭神として祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀している「菊池神社」が鎮座しており、次に熊本県を訪れた際は、菊池家所縁のその菊池神社へも是非行ってみたいです。


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九州国立博物館で特別展「室町将軍」が開催されています

私が住んでいる地域では特に積極的に宣伝されているわけではないので、実は昨日初めて知ったのですが、現在、福岡県太宰府市にある九州国立博物館では、『室町将軍 戦乱と美の足利十五代』と題した特別展が開催されているそうです。
下の画像がその特別展の広告ですが、何せこういったブログを運営しているくらいですから、私としては当然、もの凄く興味・関心がある内容の特別展です!

特別展「室町将軍」

九州国立博物館の公式ホームページによると、この特別展は、『初代の足利尊氏から15代に亘って、時代の波に翻弄されながらも凡そ240年の間政権を保ち独自の価値観と美の世界を築き上げてきた、歴代の足利将軍の肖像や所縁の文化財から、室町幕府の栄枯盛衰と個性溢れる将軍達の魅力に迫り、また、将軍達か愛した芸術や名品などを通して室町時代の多彩な芸術文化を紹介する内容』となっているそうです。
そして、尊氏が夢窓疎石を開山として創建し足利将軍家菩提所となった、京都の等持院に伝わる歴代足利将軍の彫像13体が、寺外て初めて一挙に公開される機会ともなるそうです。
以下の動画3本は、いずれもこの特別展の関連動画です。






建武の新政後、後醍醐天皇から離反し心ならずも後醍醐天皇と敵対する事になってしまった足利尊氏は、九州へと逃れて約1ヶ月間太宰府に滞在しましたが、尊氏所縁のその太宰府の地で、このような素晴らしい特別展が現在開催されており、しかもこの特別展は他都市へ巡回する予定は無いそうなので、これはもう、ワタシ的には何としても、会期中に九州国立博物館へ観に行くしかありません!
というわけで、私は太宰府から遙か遠く離れた北海道に住んでいるのですが、この特別展を観に行くためだけに、来月下旬、1泊2日の日程で九州へ行って来る事にしました。先程ネットで、福岡空港行きの飛行機を予約しました♪

ちなみに、熊本県立美術館では今月19日から、特別展「菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」を開催するそうです。時間の都合がつけば、折角の機会なのでこちらも是非観に行ってみたいです!



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今上陛下の御即位と、時代によって変化が生じる歴代天皇代数

上皇陛下(先月までの「平成」の御代に於ける天皇陛下)は、先月末日、今上天皇のお立場としては江戸時代後期の光格天皇以来約200年ぶりに御譲位遊ばされ、畏くも新帝陛下(先月までの「平成」の御代に於ける皇太子殿下)が受禅なされて、今月1日「第126代天皇」の御位に就かれ、それに伴い元号も「平成」から「令和」に改元されました。
御譲位は、近代以降(憲政史上)では前例の無い事でありましたが、践祚の諸儀式や改元が恙なく行われ、新しき「令和」の御代を迎える事が出来ました事、謹んでお慶び申し上げます。

天皇皇后両陛下

我が国は長い歴史の中で、政権を担う政体は朝廷や摂関家、幕府、内閣など幾度も変遷を続けてきましたが、世界の王室には類の無い万世一系の皇統によって、皇位は初代・神武天皇からただの一度も途切れる事なく連綿と現在に継承されており、時の政権の最高責任者(摂政、関白、太政大臣、征夷大将軍、内務卿、内閣総理大臣など)はいずれも天皇から任命(大命降下)される事でその正当性が保障され、天皇の権威によって、国民はその御高恩に畏敬と感謝の念を捧げつつ、歴史・伝統文化を築き上げてきました。

このような世界に冠たる誇りある天皇・皇室を戴く日本に生を受けました事と、御即位より30年の長きに亘って「平成」の御代を常に私達国民と共に歩まれた上皇陛下の御厚恩に深く感謝し、そして、新帝陛下の御代「令和」の隆昌、皇室の弥栄、我が国の安寧を、令和元年がまだ幕開けして間もない本日、改めて心より祈念申し上げます。

奉祝幟


ところで、私は今回の記事の冒頭で、新帝陛下は「第126代天皇」であると記しましたが、この代数(126という具体的な数字)については、誤解を恐れずに言えば、誠に畏れ多い事ながら私は格別に重要なものであるとは認識していません。神武天皇の御代から現在に至るまで、御歴代(皇統譜に記されている正統な歴代天皇)が一貫して不変であるのなら、それはとても重い意味があるものであろうとは思いますが、現実には、歴代天皇代数は後世の判断(天皇御自身による勅裁、という形を採りつつも実際には時の政府の決定)によってあっさりと変更されるからです。

例えば、北朝の5天皇(光厳天皇・光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇)は、いずれも天皇として即位されていた事実があり、実際、我が国では数百年間に亘ってずっと正統な天皇として扱われてきましたが、帝国議会で南北朝正閏問題が大きく取り上げられた明治44年、明治天皇の勅裁によって、これら北朝の5天皇は正統から外され、代わって、南朝の義良親王と熙成親王が正統な天皇と認定され、これら南朝の2天皇は、それぞれ「後村上天皇」「後亀山天皇」として、新たに御歴代に加列されました。
以下の画像2枚のうち、1枚目が後村上天皇、2枚目が後亀山天皇の肖像と伝わるもので、現在はそれぞれ第97代と第99代の天皇とされています。
ちなみに、南北朝正閏問題(南北朝正閏論争)については平成26年5月4日の記事の中で解説させて頂きましたので、興味のある方はそちらの記事も併せて御一読下さい。

後村上天皇

後亀山天皇

もっとも、「明治天皇の勅裁により」とはいっても、紛うことなき北朝の御子孫であられる明治天皇が、本当にこのように北朝を否定する御見解を示されたのか、そもそも明治天皇御自身は南北朝正閏についてどのように考えておられたのか、という事は、実はよく分りません。この勅裁については「明治天皇記」に記されているのですが、同記は当時の宮内省が勅旨を奉じて編修した明治天皇の伝記(実録)であり、そういった公式記録は政府の決定を追認しているため、仮に天皇御自身の本音が逆であられたとしても、それがそのまま記される事は無いからです。
「明治天皇記」には、この時の枢密院会議について「明治天皇御欠席」と書かれているため、その一事を以て、明治天皇なりの御抵抗であったのではないか(つまり、南朝のみを正統とする勅裁に、明治天皇は内心では反対されていたのではないか)、と推察する解釈も一部にはあります。

ちなみに、第二次大戦直後に日本各地に現れた、「我こそが正統な天皇である」などと自称した輩(今で言う所謂“電波系”の人達)の中で、最も有名なのは、「熊沢天皇」こと熊沢寛道ですが、彼は、後述する後南朝の西陣南帝の子孫であると称しており、彼以外にも自分は南朝の子孫であると吹聴した“自称天皇”達は何人もいましたが(一部の支持者がいただけで、当然、世間の大半からはほとんど相手にされませんでした)、彼らの多くは、明治天皇のこの勅裁(南朝が正統とされた事)を受けて、南朝や後南朝の子孫であると主張していました。

そして、大正15年、今度は大正天皇の勅裁(実際には、当時大正天皇の摂政であった、後の昭和天皇による裁定)により、南朝の寛成親王が「長慶天皇」として、新たに御歴代に含まれました。
寛成親王については、明治44年に南朝が正統であると公認された後も、即位の是非については意見が分かれていたのですが(本当に即位されて天皇になっておられたのか、ずっと分らなかったのです)、高野山に納められていた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名がある事などから即位が確認されたとして、崩御から約530年も経ってから、正統な天皇(第98代天皇)と認められたのです。

ちなみに、私は今回の記事の冒頭で、この度の御譲位について「江戸時代後期の光格天皇以来約200年ぶり」と記しましたが、上皇陛下や今上陛下に於かれましては直系の御先祖様であられるその光格天皇が署名された「神武百二十世」では、歴代天皇は北朝を正統とする代数で数えられており、現在正統とされている南朝の天皇は、逆に“存在しなかったもの”として無視されています。
南北朝時代が終わって以降の歴代天皇・皇室・朝廷は、歴史的にはいずれも北朝の延長であるため、その北朝の正統性を疑うなどという“不敬”な発想は、江戸時代に水戸藩主の徳川光圀が南朝を正統とする「大日本史」を編纂するまでは、ほぼ全く出てこなかったのです。


さて、ここまでは南北朝時代の天皇についての、後世に於ける正統性の評価の変遷を紹介しましたが、それ以外の時代の天皇についても、やはり御歴代には変更は生じており、当然、それに伴い歴代天皇の代数も変わってきています。
例えば、三韓征伐などで有名な神功皇后(第14代・仲哀天皇の皇后)は、明治時代以前は天皇(皇后の臨朝)であったとみなされる事が多く、神功皇后を第15代の帝、初の女帝などと記した史書も多数あったのですが、前出の「大日本史」が採った立場に基づいて、大正15年の皇統譜令施行以降、神功皇后は御歴代から外されてしまいました。
そのため、現在、神功皇后は歴代天皇のおひとりとはされていません。仲哀天皇が崩御されてから、実子である皇太子の誉田別尊(現在は第15代の天皇とされている応神天皇)が即位されるまで、摂政として直接政事を執り行っていたものの、崩御から1600年以上の時を経て、正式に「天皇には即位されていなかった」という扱いになったのです。

また、古代日本最大の内乱「壬申の乱」で、大海人皇子(後に第40代・天武天皇として即位)に敗れた大友皇子は、天皇とはみなされていませんでしたが、やはり「大日本史」が採った立場に基づいて即位が確認されたという事になり、明治3年、崩御から約1200年も経って「弘文天皇」の諡号が追諡され、第39代天皇とされました。但し、現在では即位されていなかったとする説が有力なのですが。
それ以外の事例としては、「恵美押勝の乱」の後、恵美押勝(藤原仲麻呂)と関係が深かった事を理由に孝謙上皇によって廃位され淡路国へと配流された「淡路廃帝」は、明治3年に「淳仁天皇」の諡号を追諡されて、第47代天皇とされました。
また、「承久の乱」の後、当時まだ幼帝であったにも拘わらず、乱の責任の一端を取らされる形で鎌倉幕府によって廃位され、摂政・九条道家の邸宅へと引き渡された「九条廃帝」(御在位は僅か78日で、御歴代の中では最も在位期間が短かった天皇です)も、やはり明治3年に「仲恭天皇」の諡号を追諡されて、第85代天皇とされました。


ですから私は、今上陛下が「第126代」という代数の天皇であられる事は、この先数十年経っても変わる事はないであろうとは思うものの、数百年という長いスパンでみると、以上のような“御歴代の変遷”という数々の前例からも、その時の世論・歴史観やそれを受けた政権の意向などによって、歴代天皇の代数に変更が生じるという可能性は否定出来ないと思います。

ちなみに、日本の歴史に於いて、もしかすると天皇として即位されていたかもしれない、もしくは、即位はされていなくても天皇に準じる立場であった、と推察される方々の御名の一部を、以下に列記します。もしかすると遠い将来、これらの中のどなたかが、天皇としての諡号を追諡され、新たに歴代天皇のおひとりとして加列される事があるかもしれません。

【 日本武尊 】 熊襲征討や東国征討などを行った事で有名な、日本古代史上の伝説的英雄。第12代・景行天皇の皇子で、第14代・仲哀天皇の御父に当たります。駿河で野火攻めに遭った時、三種の神器のひとつである草薙剣で草を薙ぎ払って難を逃れたというエピソードも有名です。記紀では皇位に即いたという記録はありませんが、常陸国風土記に於いて「倭武天皇」、阿波国風土記に於いて「倭健天皇」と記す例が見られます。
【 菟道稚郎子 】 第15代・応神天皇の皇子(日本書紀に於いては皇太子)で、第16代・仁徳天皇の異母弟。古事記には単に「夭折」と記されているのみですが、日本書紀によると、実父である応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられるものの、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るため自殺されたとされています。播磨国風土記に於いて「宇治天皇」と記す例が見られます。
【 市辺押磐皇子 】 第17代・履中天皇の皇子で、第23代・顕宗天皇や第24代・仁賢天皇の御父。第20代・安康天皇は皇位を継承させようとしていましたが、それを良く思っていなかった従兄弟の大泊瀬皇子(後の第21代・雄略天皇)に狩猟に誘い出され、猪と見間違ったふりをして射殺されてしまったと云われています。播磨国風土記に於いて「市辺天皇」と記す例が見られ、実際に天皇に即位していた可能性が指摘されています。
【 飯豊青皇女 】 第17代・履中天皇の皇女で、第22代・清寧天皇の崩御後、第23代・顕宗天皇と第24代・仁賢天皇がお互いに皇位を譲り合っている間、女帝として政務を行っていたとされています。記紀では天皇として認められていませんが、扶桑略記や本朝皇胤紹運録に「飯豊天皇」、先代旧事本紀大成経に「清貞天皇」と記す例が見られます。明治時代以降、宮内省は「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」とし、現在の宮内庁も、やはり御歴代には含めていないものの「飯豊天皇」と称しています。
【 聖徳太子 】 第31代・用明天皇の第二皇子で、現在認定されている歴代天皇のなかでは初の女帝とされている第33代・推古天皇の摂政。冠位十二階や十七条憲法などを制定して天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図り、また、当時の中国の王朝である隋へ小野妹子を派遣し国交を開き大陸文化導入に努め、国史の編纂も行ない、更に仏教興隆にも尽力して、法隆寺や四天王寺を建立するなど、数多くの業績を残しました。日本書紀に於いて「豊聡耳法大王」「法主王」などと記す例が見られます。
【 間人皇女 】 第34代・舒明天皇の皇女で、第36代・孝徳天皇の皇后。第37代・斉明天皇が崩御されてから、第38代・天智天皇が即位されるまでの間、皇位に即いていたとする説があり、万葉集での「中皇命」は間人皇女の事であるとも云われています。
【 塩焼王 】 第40代・天武天皇の皇孫で、第45代・聖武天皇の女婿。孝謙上皇に対して太師(太政大臣)の恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした叛乱「恵美押勝の乱」勃発時、淳仁天皇(前出の淡路廃帝)を連れ出せなかった恵美押勝によって新たな天皇として擁立され「今帝」を名乗りました。このため、一時、二つの朝廷が並立しましたが、孝謙上皇が派遣した討伐軍と近江国で交戦した際、塩焼王も恵美押勝と共に敗死されました。
【 恒良親王 】 第96代・後醍醐天皇の皇子のひとりで、後醍醐天皇によって北陸へ派遣される際に皇位と三種の神器を譲られ、北陸で新田義貞・義顕父子に奉じられました。天皇の命令書である「綸旨」を発給するなど、実際に天皇として活動されていましたが、後に後醍醐天皇が吉野で南朝を開かれ、御自身のみが正統な天皇であり退位もしていなかったと宣言した事により、恒良親王への譲位は“無かった事”にされました(恒良親王に譲られた三種の神器もニセモノであったとされました)。
【 懐良親王 】 第96代・後醍醐天皇の皇子のひとりで、南朝方の征西将軍として肥後国隈府(現在の熊本県菊池市)を拠点に勢力を広げ、九州に於ける南朝方の全盛期を築きました。当時の中国の王朝である明の皇帝・太祖から「日本国王」の冊封も受けたため、後に足利義満が明の皇帝・建文帝から新たに「日本国王」の冊封を受けるまで、明側の認識では懐良親王こそが日本国王であり、そのため義満も当初は、明から外交関係を結ぶ相手と認識されず苦労する事になりました。
【 金蔵主 】 嘉吉3年(1443年)9月に後南朝の初代天皇「中興天皇」として即位したと伝えられています。第99代・後亀山天皇の皇子、もしくは小倉宮良泰親王(後亀山天皇の皇子)の子、あるいは護聖院宮惟成親王(後亀山天皇の弟)の孫、などとも伝わっており、出自についてはよく分っておりません。
【 尊秀王 】 後南朝の第2代天皇とされています。地元住民の間には「自天王」の名が伝えられ、呼び名としてはそちらの方が有名です。
【 南天皇 】 後南朝の第3代天皇とされています。
【 西陣南帝 】 応仁の乱の際、西軍大将の山名宗全により洛中の西陣に迎え入れられて擁立された南朝の皇胤で、後南朝最後の天皇。宗全の没後、東軍と西軍は和議に向かい、更に足利義視が西陣南帝の擁立を快く思っていなかった事もあって、西軍から放擲されてしまい、これ以降、後南朝は歴史上に現れなくなりました。
【 北白川宮能久親王 】 当時幼君であられた明治天皇を奉じる薩長を中心とした新政府に対抗するために結成された奥羽越列藩同盟が「東武皇帝」として推戴されたと云われています。当時のアメリカ公使も本国に対して、「今、日本には二人のミカドがいる」と伝えており、当時の新聞にも同様の記事が掲載されました。戊辰戦争後は蟄居を申し付けられ親王の身分も解かれますが、明治2年に処分を解かれ、伏見宮に復帰した後、北白川宮家を相続されました。日清戦争後は、日本に割譲された台湾の征討近衛師団長として出征し、台湾平定(乙未戦争)の英雄とされ、台湾で薨去された後、陸軍大将に昇進し日本で国葬が執り行われました。幼くして都から遠く離れた江戸で僧侶(寛永寺貫主・日光輪王寺門跡)として過ごし、一時は“朝敵”の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定に尽力され、異国の地で不運の死を遂げられたという御生涯から、当時は日本武尊に例えられて讃えられました。下の写真は、その北白川宮能久親王です。

北白川宮能久親王

また、皇族以外で、天皇に準ずる立場にあった者としては、以下のような人達もいました。万世一系という皇統の揺るぎない大原則から、さすがにこういった人達が御歴代に含まれるという事は、今後もまず無いであろうとは思いますが。

【 蘇我馬子 】 3代の天皇(第31代・用明天皇、第32代・崇峻天皇、第33代・推古天皇)の外祖父として絶大な権勢を振るい、蘇我氏の全盛期を築いた大臣。皇室(大王家)とは二重三重の縁戚ではあったものの、皇族ではなくあくまで人臣でしたが、そうであるにも拘わらず蘇我氏の邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、自ら「宮家」を名乗り、自分の子を「皇子」と称しました。
【 弓削道鏡 】 女帝であった孝謙上皇(第48代・称徳天皇)から寵愛を受けた僧侶で、上皇の引き立てにより「法王」に就任し天皇に準ぜられました。皇族では無いので、あくまでも「法王」であり、「法皇」ではありませんでしたが、後世の史書に於いては「弓削法皇」という表記も見られます。明治時代から戦前・戦中にかけては、当時の皇国史観から、天皇の座を脅かした極悪人と評価され、次項で紹介する平将門や、このブログで度々取り上げてきた足利尊氏と共に「日本三悪人」のひとりとされました。
【 平将門 】 平氏の姓を授けられた高望王の三男・平良将の子で、第50代・桓武天皇の5世子孫。下総国や常陸国に広がった平氏一族の抗争から、関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、八幡大菩薩(八幡大神)の神託を得て「新皇」に即位しました。信望があり現地の人達からは尊敬されたと云われていますが、当今である第61代・朱雀天皇に対抗して新皇(新しい天皇)を名乗って関東に独立政権を築いた将門は、朝廷から見れば謀反人でしかなく、追討軍が派遣され“朝敵”として征伐されました。
【 足利義満 】 室町幕府第3代将軍。征夷大将軍として武家の、太政大臣や准三后(皇后・皇太后・太皇太后に準じた待遇)として公家の、両勢力の頂点に上り詰めた、日本史上有数の絶対的な権力者でした。明からは「日本国王」の冊封を受け、没後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の宣下も受けました。室町幕府はその宣下を辞退しますが、義満が建立した相国寺では受け入れたようで、同寺の過去帳には「鹿苑院太上天皇」と記されています。


畏れ多くも歴代天皇の正統性について言及した今回の記事は、もしかすると、新帝陛下の御即位と「令和」への改元で全国的に盛り上がっている奉祝ムードに水を差すような、一部不適切で不敬な内容であったかもしれませんが、私としては勿論、天皇陛下が例え何代目であられようとも、この度の践祚改元は誠にお目出度い事、慶賀の至りと思っております。
新たな大御代の弥栄をお祈り申しあげますと共に、謹んで皇統の隆昌を言祝ぎ奉ります。


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来月から始まる新元号「令和」と、室町時代中期の元号「応永」

新年度(平成31年度)の初日となる昨日、政府から、新しい元号が「令和(れいわ)」であると発表されました。
あくまでも、昨日は単に発表されたというだけで、実際に「令和」という元号が施行されるのは来月1日からですが、昨日のこの発表が、今上陛下から新帝陛下への「御代替り」を象徴する、歴史的な出来事であった事は間違いありません。実際、新元号発表のニュースは、日本全国で中継や号外として直ちに速報され、世界各国のメディアでも大きく報道されたようですし。

新元号「令和」号外

新たな元号「令和」は、日本最初の元号である「大化」からは248番目となる元号で、千二百年余り前に編纂された日本最古の歌集「万葉集」の、梅の花の歌、三十二首の序文にある『初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す』から引用されました。
これまでの元号は、いずれも漢籍(中国の古典)から選ばれており、今回、初めて日本の古典から選ばれたという事も、大きな話題になっています。恐らく今後は、これが前例となって、日本の古典が新元号の典拠となる、という流れが慣例・伝統になっていく事でしょう。

今回典拠となった万葉集は、天皇・皇族・貴族だけでなく、下級官吏・防人・農民に至るまで、身分に関係無く幅広い階層の人達が詠んだ歌が収められた、我が国の国民文化と長い伝統を象徴する国書であり、そういった点も、個人的には大いに共感出来る所です。


ところで、「平成」の御代が今月いっぱいで終わる事により、我が国に於ける元号の長さ(期間)としては、「平成」は史上4番目に長い元号になります。
最も長かった元号は、多分誰もが直ぐに想像はつくと思いますが、その通り(笑)、64年まで続いた「昭和」です。そして、2番目に長かった元号は、これもやはり想像がつく人が多いのではないかと思いますが、45年まで続いた「明治」です。
では、3番目に長かった元号は何かというと、これは恐らく知らない人が結構多いのではないかと思いますが、35年まで続いた、室町時代中期の元号「応永」です。

応永の35年間は、後小松天皇と称光天皇のお二方が御在位され、その期間、国政の実権を握っていたのは、このブログでも今まで何度か取り上げてきた室町幕府第3代将軍の足利義満と、その後を継いだ第4代将軍の足利義持でした。
義満は、当時の中国の王朝「明」に強い憧れを抱いていた事から、「明徳」(応永の前の元号)を改元する際、明の太祖洪武帝の治世にあやかって新元号に「洪」の文字を撰字するよう働きかけ、その結果、「洪徳」が新元号の候補になるのですが、それに対して公家達は、「洪の字は洪水につながる」「これまで永徳・至徳・明徳と“徳”の字が使われる元号が連続しており、3回連続“治”のつく元号(天治・大治・永治)を用いた崇徳天皇や、5回連続“元”のつく元号(元応・元亨・元徳・元弘・延元)を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉である」などの理由から反対し、結局、新元号は「応永」に決まりました。

一説によると、自分の望み通りにはならなかったこの結果に怒った義満が、自分が生きている間に元号を変えさせる事を許さなかったと云われており、また、義満の後を継いで将軍となった義持もやはり改元を一切させませんでしたが、それは、義持が「応永」という元号に愛着を持っていたためと云われています。
義持が将軍として在位していた間(室町幕府将軍としては最長の在位となる28年間)に、後小松天皇から称光天皇への御代替りがありましたが、義持の「応永」への個人的な愛着によって、称光天皇は即位から16年間、代始改元が出来なかったのです。
そして、応永35年の1月に義持が死去した後、その年の4月に、漸く代始として「応永」から「正長」へと改元されました。

本来、改元手続きは天皇の勅命によって始まり、新元号は勅裁によって決まるのですが、朝廷が持っていたその改元大権は次第に形式だけのものとなり、室町時代になると、このように改元は時の権力者(将軍)の気分によって、行われたり、逆に行われるのが中止されるなどし、江戸時代になると、改元の手続きに幕府が関与する事が法律に明記されるまでになり、改元大権の形式化は更に進みましたが、明治時代になると「一世一元の制」が定められ、改元は代始に限られるようになり、これによって改元大権は漸くその運用が落ち着く事となりました。


このように、過去には改元に様々な問題や混乱が生じた事もありましたが、近代以降、改元は平和裏に穏やかに進められ、31年まで続いた現在の元号「平成」については、今月30日まで続き、皇太子殿下が践祚(皇位を受禅)される本年5月1日の午前0時を以て、次の元号「令和」の御代が始まる事になります。
1ヶ月後に践祚改元を迎えるに当たって、改めて、我が国が誇る悠久の歴史に想いを馳せ、謹んで聖寿の万歳と皇室の弥栄を祈念申し上げます。


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足利成氏の生き様と享徳の乱から垣間見える関東足利氏の誇り

  先日、「いおた」さんという方が作成しユーチューブにアップされていた、関東戦国史についての解説動画3本を観ました。
これらの動画では、関東は、「享徳の乱」の開戦により全国に先駆けて戦国時代に突入し(応仁の乱より12年早いです)、そして、秀吉による「小田原征伐」を以て全国で最も遅く戦国時代が終わった、という解釈のもと、関東に於ける戦国時代の前半の主人公を、第5代鎌倉公方で後に初代古河公方となった足利成氏(しげうじ)、関東戦国時代の後半の主人公を、後北条(小田原北条氏)の祖である北条早雲と位置付けて、動画作成者自身の主観を交えながら歴史初心者にも分りやすく解説されていて、なかなか面白かったです。


一般に、関東を代表する初の本格的な戦国大名として抜群に知名度が高いのは北条早雲ですが、これらの動画では、その早雲が登場してからの関東戦国史は「消化試合みたいなもの」と大胆な解釈をし、その上で、一般にはあまり知名度が高いとは言えない足利成氏を、当時の中央政権である室町幕府と戦って関東に戦国時代をもたらした張本人として大きく取り上げ、成氏が最後まで戦い抜いた「享徳の乱」については、28年間も続いた大乱(応仁の乱ですら10年)でありながら、「最後にみんな負ける戦争」「勝者なき戦い」と断じており、興味深かったです。

関東の戦国時代は、足利将軍家を頂点とする室町幕府、関東公方(鎌倉公方や古河公方など)を歴任した関東足利氏、関東管領である上杉氏の本家や分家、その他の関東武士団などが、敵味方入れ替わりながら長期に亘って戦い続けるカオスな時代であり、南北朝の戦乱や応仁の乱などもそうですが、敵味方がコロコロと変わるためかなり複雑で分かりづらいのですが、足利成氏(とその父・持氏の親子2代)の視点から見ると、あくまでも一方からの見方であるため必ずしも公平な見方ではないのでしょうが、関東戦国史は意外とすっきりと分かりやすく見えてくるのかなと感じました。

そして、これらの動画を見て改めて、将軍家と同じく尊氏の子孫で、将軍家と同じ足利姓の一族(血筋でいえば勿論身内)でありながら、一時期を除いてほとんどの時代で足利将軍家と対立し、時には激しく戦火さえ交えた関東公方足利氏は、やはり“誇り高い一族”だったんだな、と感じました。
父や兄達の仇でもある幕府や上杉氏らと、とことん戦い続け、本拠である鎌倉を奪われても古河に本拠を移し決して屈する事の無かった成氏は、まさに、その関東足利氏歴代の“激しさ”や“矜持”を象徴するような人物といえるでしょう。


平成29年10月30日の記事で詳述した通り、室町幕府が崩壊し足利将軍家が途絶えた後、尊氏の子孫は2系統が存続し、現在も続いておりますが、その2系統のうち、足利将軍家に近く貴種であるはずの平島公方(阿波公方)足利氏は、豊臣政権からも徳川政権からもその存在をほとんど無視され、江戸時代になると、形の上では徳島藩主・蜂須賀氏の客将という扱いを受けはしますが、実際にはその蜂須賀氏からも冷遇され、どんどん没落していきました。
それに対して、室町幕府があった時代に将軍家と対立関係にあった関東公方足利氏のほうは、豊臣政権からも徳川政権からも厚遇され、江戸時代には事実上、足利氏の宗家と見なされ、実高は高家旗本並みの五千高程度でありながら、格式は十万石の国主大名並みという破格の待遇を受けました。
こういった両家の扱いの差は、勿論それだけが原因ではないでしょうが、関東公方足利氏のほうが、平島公方足利氏よりも多くの武士達から“勇猛な武家を束ねる立場の者”として共感や敬意を得、その実績も高く評価されていたからなのではないのか、という気がします。

有力な支持勢力であった細川晴元に裏切られた事をきっかけに堺から阿波へと逃げた平島公方足利氏は、家臣はいても、自前の軍事力はほぼ皆無で、実質、有力な戦国大名から権威として利用されるだけの存在で、江戸時代になるとその権威すら失墜していきましたが、それに対して関東公方足利氏は、源氏一門所縁の関東に本拠を構え、関東武士団の棟梁(関東公方)として直接軍勢を率いて何代にも亘って中央政権(室町幕府)と戦い続け、関東で後北条が台頭するようになるとかつての勢いは失われ歴史の表舞台からは消えていきましたが、兎も角、良くも悪くも多くの実績を残しました。
その野望やプライド、復讐心などから関東に無用の戦乱を招いた、と言えない事もありませんが、別の見方をすると、屈する事なく常に戦い続けた誇り高き一族、という見方も出来、それが、後の世になって両足利家の待遇に格差が生じる一因にもなったのかもしれませんね。


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