この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

太平記のゲームソフト

突然ですが皆さん、「PCエンジン」という家庭用ゲーム機を知っていますか?
PCエンジンとは、昭和62年にNECホームエレクトロニクスから発売された据置型のテレビゲーム機です。昭和62年というと、今から30年近くも前の事ですから、今となっては、PCエンジンはもはや歴史的な存在のレトロゲーム機ですが、発売当時は常識を覆す高速・高性能を誇った、一世を風靡したゲーム機でした。

発売翌年の昭和63年には、家庭用ゲーム機としては世界初となる専用のCD-ROMシステムも発売され、その先進性は今でも高く評価されており、任天堂の絶対的なシェアを崩すには至らなかったものの、PCエンジンは新規ハードとして一定の普及に成功しました。
ちなみに、PCエンジンは、発売当初は主に任天堂のファミリーコンピュータと競合していましたが、後には、任天堂のスーパーファミコンやセガのメガドライブなどと競合しました。

以下の写真2枚は、数ヶ月前に我が家で撮影した、PCエンジンとそのソフトです。PCエンジンの本体は何度もリニューアルされていますが、私が所有しているのは、平成6年に発売された、PCエンジンの最終型「PCエンジンDuo-RX」です。

PCエンジン_01

PCエンジン_02


さて、今回このブログでなぜ突然PCエンジンを取り上げたのかというと、それは、PCエンジン用の以下の2本のゲームソフトを紹介するためです。
平成3年にインテックより発売されたPCエンジンCD-ROMの「太平記」と、平成4年にNHKエンタープライズより発売されたPCエンジンHuCARD(ヒューカード)の「NHK大河ドラマ太平記」の2本です。数年前に中古市場で見つけて購入しました。
どちらも、当時放送されていたNHK大河ドラマ「太平記」に合せて開発・発売された、南北朝時代をテーマにした戦略シミュレーションゲームで、この時代を舞台にしたシミュレーションゲームというのはかなり珍しいです。

PCエンジン「太平記」_01

PCエンジン「太平記」_02


PCエンジンのゲームソフトの形態は、大別すると、独自の規格である「HuCARD」というROMカードと、その後の各種家庭用ゲーム機でソフトの主流となっていった「CD-ROM」の2種類があり、太平記のソフトは、上の写真を見て戴ければお分かりのように、この2種に分かれて発売されました。
メディアとしてはCD-ROMのほうが新しいのですが、両ソフトを比較すると、実際にはCD-ROMの「太平記」よりも、HuCARDの「NHK大河ドラマ太平記」のほうが、ソフトとしては後発でした。

しかし実は私、この両ソフトは、数年前に入手して以来、ずっとしまったままで、まだプレイした事はありません。近々、実際にプレイしてみようと思います!

ちなみに、CD-ROMの「太平記」のほうのキャラクターデザインは、前回の記事で紹介した横山まさみち版のコミック「太平記」の著者である、横山まさみちさんが担当されています。


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太平記のコミック

日本を代表する軍記物語のひとつ「太平記」は、古事記、今昔物語集、宇治拾遺物語、徒然草、平家物語、吾妻鏡、雨月物語などと共に、特に私が大好きな古典文学で、私にとって太平記は、数ある日本の軍記物の中ではあの平家物語と双璧を成す、最高傑作ともいえる作品です。個人的にも、結構思い入れの強い作品です。
残念ながら世間一般では、平家物語や、戦国時代を舞台とした各種の軍記物などに比べると、太平記は必ずしも内容が広く周知されているとは言い難い状況ではありますが…。

太平記は、軍記物語の傑作としてのみならず、中世日本の代表文学のひとつでもあるため、今まで何度かマンガ化もされています。今回は私が所蔵している、それら太平記のコミック(太平記をマンガ化した作品)を、以下に5作品、紹介致します。
なお、昨年11月6日の記事で紹介した「コミック版 日本の歴史」シリーズや、本年4月24日の記事で紹介した「週刊マンガ日本史シリーズ」などは、内容的には太平記の時代も舞台となっているものの、タイトルに太平記を冠していない事から今回の記事では紹介対象から除きました。



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中公文庫『マンガ日本の古典18 太平記(上)』
中公文庫『マンガ日本の古典19 太平記(中)』
中公文庫『マンガ日本の古典20 太平記(下)』

著者:さいとう・たかを、 発行:中央公論新社、 初版:平成12年

ゴルゴ13で有名な、日本を代表するマンガ家のひとりで劇画の第一人者であもる さいとう・たかを氏が、迫真の筆致で描く、太平記の決定版といえるコミックです。
現実の歴史と虚構の物語が入り混じっている太平記を、そのまま忠実にマンガ化する事よりも、太平記で描かれている時代の一連の流れを、時系列に沿ってリアルにマンガ化しようとしたと思われる作品で、そのため、史実としての鎌倉時代末期から南北朝時代の一連の流れを知りたい人にとっては、歴史の勉強にもなる作品です。
鎌倉幕府末期から観応の擾乱までが描かれていますが、史実に拘る傾向からか、原作の太平記に登場する悪霊などのエピソードは全て割愛されています。
ちなみに、上巻の表紙は北条高時、中巻の表紙は楠木正成です。
個人的には、かなりオススメの作品です。



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『歴史コミック86 コミック太平記(一) 楠木正成 笠置の巻』
『歴史コミック87 コミック太平記(二) 楠木正成 千早の巻』
『歴史コミック88 コミック太平記(三) 足利尊氏 六波羅の巻』
『歴史コミック89 コミック太平記(四) 足利尊氏 室町の巻』
『歴史コミック90 コミック太平記(五) 新田義貞 鎌倉の巻』
『歴史コミック91 コミック太平記(六) 新田義貞 燈明寺畷の巻』

著者:横山まさみち、 発行:講談社、 初版:平成2~3年

各巻の副題を見ればお分かりのように、他の太平記のコミックとは違い、楠木正成、足利尊氏、新田義貞の3人を主人公として、2巻毎に、それぞれの主人公の視点から描かれています。
そのため、時系列的には当然重複する箇所が多数あり、また絵柄には、いかにも“昭和”という感じの古臭さも感じられるものの、ストーリーはいたって真面目で、普通に面白かったです。
義貞の視点から太平記が描かれる事はあまり多くないので、個人的には、義貞が主人公の5・6巻が新鮮でした。
あと、全体を通して、坊門宰相清忠なる人物がどうしようもない無能として描かれていたのも、印象に残りました(笑)。



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『マンガ太平記 上巻』
『マンガ太平記 下巻』

監修:兵藤裕己、 画:甲斐謙二、 発行:河出書房新社、 初版:平成2~3年

原作だと全40巻にも及ぶ長大な太平記を、僅か上下2巻のコミックとしてまとめているので、どうしてもダイジェスト版的な内容になってしまっている感は拒めませんが、その割には意外とうまくまとまっているとも思います。最後のほうは駆け足ながら、一応、原作同様、足利義詮の死去まで描かれていますし。
正成が死後に怨霊となって現れるエピソードは割愛されていますが、「宮方の怨霊六本杉に会する事」のエピソードは再現されています。太平記の中で描かれている怨霊のエピソードまでマンガ化されるのは、珍しい事だと思います。
てっとり早く太平記を知りたい人にはオススメの作品です。多少の前提知識は必要になるかもしれませんが。



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SP comics『私本 太平記 一』
SP comics『私本 太平記 二』
SP comics『私本 太平記 三』
SP comics『私本 太平記 四』

著者:岡村賢二、 原作:吉川英治、 発行:リイド社、 初版:平成19~20年

NHK大河ドラマ「太平記」の原作ともなった、吉川英治氏晩年の傑作「私本太平記」をマンガ化した作品で、私としては、絵柄、各キャラクターの魅力、ストーリー展開などにもかなり好感が持てたコミックなのですが、太平記全体では初期のエピソードにあたる、建武政権下で護良親王が幽閉される所で唐突にストーリーが終わってしまったのが残念でした。
バサラ大名の代表格といえる佐々木道誉は、所属や主人をコロコロと変える所謂“裏切り”が当たり前だった当時にあって首尾一貫、室町幕府・北朝方に仕えた、足利将軍を支え続けた幕府の重鎮ですが、このコミックでは、鎌倉幕府討幕の挙兵をするまでは、道誉と尊氏との関係はかなり緊迫したものとして描かれており、その描写も面白かったです。
あと、コミック1巻で描かれていた、日野資朝が菊王に伝言を託して日野俊基を庇うシーンは、なかなか感動的でした。資朝から俊基へのその伝言は、以下の通りです。「この資朝も貴公と同じことを考えていた。罪はどちらか一人が被ればよい。しかしその一人は、断じてこの資朝でなければならぬ。貴公よりも自分の方が上卿であり年長でもあるゆえ、鎌倉も張本人はこの資朝と断ずるはず。もし貴公が 首謀者は我なり と申せど、それによりこの資朝を不問に付すはずもない。さすれば、貴公の死は無駄になる。罪はこの資朝が一身に被るゆえ、貴公は再び都に帰り、帝座の周囲を鼓舞し続けてほしい。君よ迷うな、世に残れ…!死ぬのはこの資朝一人でよい…!」
原作の私本太平記を最後まで忠実に再現していたら、歴史物の名作マンガになったのではないかと思える作品だけに、未完が惜しまれます。



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『コミグラフィック日本の古典16 太平記』
構成:辻真先、 画:一峰大二、 発行:暁教育図書、 初版:昭和62年

ストーリーは後醍醐天皇崩御までが描かれておりますが、本としてはコミックと絵本の中間のような形態で、しかも1冊にまとまっているため、全体的に見るとストーリーとしてはかなり広く浅く、という感じになっています。絵柄は、先に紹介した横山まささみ氏のコミックよりも更に古臭く、まるで戦中か、戦後間もなくに描かれたマンガを読んでいるかのような印象を受けました。
尊氏は、戦前・戦中の歴史観を反映してか、かなり狡猾な人物として描かれており、この作品での尊氏は、全然好感の持てる人物ではありませんでした。ちなみに、尊氏の外見や容姿は、平成25年1月27日の記事で詳しく取り上げた「南北朝時代の騎馬武者像」をモデルとしているらしく、ざんばら髪が剥き出しになっているのですが、合戦の最中なら兎も角、その姿で衣冠らしい装束を着装して参内している姿には、さすがに違和感を感じました。
というわけで、これはあくまでも私の主観ですが、あえて購入してまで見る価値は低い作品です。古い作品ですから、欲しいと思ってもそもそも入手は困難だとは思いますが。



とりあえず、どの太平記のコミックを読んでも共通して感じるのは、鎌倉幕府は倒れるべくして倒れ、そして、後醍醐天皇による建武政権も、やはり倒れるべくして倒れたのだな、という事です。
後醍醐天皇がおられなくても、(その時期は確実に遅れていたでしょうが)やはり鎌倉幕府は間違いなく崩壊していたでしょうし、そして、尊氏が叛かなかったとしても(そもそも尊氏がいなかったとしても)どのみち建武政権が長期政権となる事は無かったでしょう…。


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光厳天皇の髪塔

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪、京都、四国の高松方面を旅行してきました。
3日目の午前中は京都の嵯峨・嵐山地区を散策し、その際、先月8日の記事で報告したように嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という寺院を参拝・見学してきたのですが、宝筐院を見てきた後は、嵯峨野々宮町に鎮座する「野宮神社」(ののみやじんじゃ)も参拝してきました。

そして、野宮神社を参拝した後はJR嵯峨嵐山駅から京都方面行きの電車に乗ったのですが、野宮神社から嵯峨嵐山駅へ徒歩で移動中、天龍寺の山門(正門)や京福電鉄嵐山駅の直ぐ近くでたまたま見かけたのが、この「光厳天皇髪塔」です。
光厳天皇は、持明院統の後伏見天皇の第三皇子で、一般には、「北朝の初代天皇」と解されている天皇です。足利尊氏の後ろ盾を得て復権した後醍醐天皇が、光厳天皇を廃して重祚し、その後尊氏との抗争に敗れて吉野へと逃れた事によって、吉野の後醍醐天皇と、光厳上皇の院宣を受けて京都で即位していた光明天皇により南北朝の並立が始まる事から、そういった時系列を考査すると厳密には、光厳天皇ではなく光明天皇が北朝初代の天皇なのですが…。

光厳天皇髪塔_01
光厳天皇髪塔_02

光厳天皇は、鎌倉幕府によって隠岐島へと配流された後醍醐天皇が隠岐島から笠置へと出奔した事により、幕府に擁立されて、「三種の神器」無しで践祚されますが、後醍醐天皇の綸旨を受けて討幕のため挙兵した尊氏の軍勢が京都の六波羅探題を襲撃した際、探題北条仲時・北条時益らと共に東国へ逃れようとして近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。
そして、復権した後醍醐天皇により「天皇としては即位していなかったが特例として上皇待遇とする」とされて、即位の事実も否定されてしまいます。

しかし、後醍醐天皇と尊氏が決別した後は、光厳上皇は尊氏からの求めに応じて新田義貞追討の院宣を下すなどして尊氏と協調し、室町幕府が成立してからは「治天の君」として、幕府庇護の下、北朝で院政を行います。
ところが、南朝軍が京都を一時奪回した際に南朝側に拉致されてしまい、その後は南朝側の本拠地である吉野の賀名生で失意のうちに出家し、帰京を許された後は嵯峨小倉に隠凄し、世俗を断って禅宗に深く帰依します。その後、巡礼の旅に出て、法隆寺や高野山を経て再び吉野を訪れるなどし、最終的には京都の常照皇寺で崩御されました。
武家同士、朝廷内部、武家と朝廷間、それぞれの熾烈な派閥争いに否応なく巻き込まれ、南北朝動乱に翻弄される激動の人生を送られた天皇といえます…。

「光厳天皇髪塔」は、その光厳天皇の御遺髪が納めらている場所です。その名の通り本来は髪塔でしたが、いつの頃からか「塔」は無くなり、現在は「塚」となっています。
ちなみに、光厳天皇の陵墓は、崩御の地である京都市右京区京北井戸町の常照皇寺にあり、分骨所は、大阪府河内長野市天野町の金剛寺にあります。

なお、昨年4月20日の記事でも述べたように、室町時代から江戸時代中期頃までの約400年間は、現在とは異なり一般には北朝が正統と認識されており、室町時代半ばに後小松天皇の命により洞院満季が撰進した皇室系図「本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)」でも、光厳天皇を始めとする北朝の天皇が正統な天皇として記され、北朝と対立した南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は、歴代天皇としては認められていませんでした。
しかし、昨年5月4日の記事で解説したように、国定教科書の記述内容の是非をめぐって沸き起こった南北朝正閏論争により明治時代以降(今から約100年前から)は南朝が正統とされるようになり、そのため北朝は正統性が否定されて、そのまま現在に至っています。
とはいえ、北朝側の天皇も皇族である事には変わりありませんし、そもそも現在の皇室は、血統としては南朝ではなく北朝の系統でもあるので、北朝の正統性が否定されても「光厳天皇髪塔」は今も宮内庁の管理地となっており、また、宮中では現在も、光厳天皇を始めとする北朝側の天皇も皇霊殿(宮中三殿のひとつ)で、他の歴代天皇や皇族と共にお祀りされています。


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勇猛果敢な足利尊氏!?

確か一昨年頃だったと思いますが、私は、朝日新聞出版から順次刊行されていた全50号の「週刊 マンガ日本史」というシリーズの、足利尊氏(13号)、足利義満(14号)、足利義政(15号)の3冊を書店で購入しました。
この「週刊 マンガ日本史」は、日本史の偉人のうち特に50人をピックアップして、各号で一人を特集し、その人物の生涯(大まかな概要)や主要エピソードなどをマンガで再現するというシリーズで、このシリーズで室町幕府の将軍は、前記の3人が取り上げられていました。個人的には、足利義詮、足利義教、足利義輝、足利義昭なども取り上げて貰いたかったですが、まぁ、世間一般の評価としては、尊氏・義満・義政以外の足利将軍は、やはりマイナーな存在なのでしょうね(笑)。

週刊マンガ日本史_13号表紙

週刊マンガ日本史_14号表紙

週刊マンガ日本史_15号表紙

この3冊それぞれのマンガを一読したところ、義満と義政の2人については、世間一般が恐らく両者に抱いているであろう通りのイメージにほぼ沿った描かれ方でした。
即ち、義満は、「室町幕府の最盛期を築いた将軍」「絶対的な権力者」「有能ではあるが傲岸不遜」な人物として、義政は、「文化人、もしくは文化を支援する立場としては一流の人物、但し政治家としては限りなく無能」「応仁の乱の原因をつくった張本人のひとり」として、それぞれ描かれていました。

それに対してし、尊氏の描かれ方は、私にとっては意外でした。
昨年11月6日の記事で書いたように、私は尊氏に対しては、「気弱で優柔不断で決断力にも欠ける、どことなく頼りない武将」「信長・秀吉・家康のように自ら積極的に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの武将ではない」「元から地位も名誉もあるお金持ちで、それ故少し世間知らずな所もある“おぼっちゃん”ではあるけれど、その割には傲慢な所や私利私欲は全く無く、育ちがいいだけあって物惜しみもせずいつでも気前が良く、性格も寛容」という人物像を抱いています。

足利尊氏とは、武家の棟梁の割には、性格や言動はあまり英雄らしくはなく、しかし、英雄にとって重要な要素である“人を惹き付ける魅力”は確実に持っており、その魅力や人望、そして強運によって、幾度となく訪れた困難を乗り切り、環境や運命に半ば強いられる形で表舞台に立ち続けた複雑で屈折した人物である、と私は解釈しているのですが、「週刊 マンガ日本史」13号のマンガで描かれていた尊氏は、私のイメージとはほぼ真逆で、強力なリーダーシップを発揮し、自ら果敢に運命を切り拓いて突き進んでいくタイプの猛将でした(笑)。
以下に、このマンガの一部を転載します。尊氏のビジュアルも、何だか今風の若者です(笑)。


週刊マンガ日本史_足利尊氏01

週刊マンガ日本史_足利尊氏02

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…というわけで、兎に角このマンガでの尊氏は勇ましく、「この鬼の刃が足利の時代を斬り開く!」「乱世に挑む気概のある者は我とともに戦え!!」なんて勇ましいセリフも言っちゃいます。凄くカッコイイけれど、私の知っている尊氏ではありません(笑)。

あと、上に転載したマンガにも登場していますが、このこのマンガでは、後醍醐天皇も何だか凄いです。過剰なまでにダークな面が強調されていて、まるでゲームでいう“ラスボス”のような、あるいは、全てを意のままに操るフィクサーであるかのような、独特・異様な雰囲気を醸し出しています。こちらも、私の知っている後醍醐天皇ではありません(笑)。

「週刊 マンガ日本史」シリーズでの、義満や義政についての内容は私の予想の範囲内でしたが、尊氏については、私にとっては何とも斬新でした(笑)。


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足利義詮と楠木正行の菩提寺である宝筐院を参拝してきました

私は今年の1月下旬、2泊3日の日程で大阪・京都・高松方面を旅行してきました。3日目の午前中は、京都の嵯峨・嵐山地区を散策してきたのですが、その際、嵯峨釈迦堂門前南中院町にある「宝筐院」(ほうきょういん)という、臨済宗系の単立寺院を参拝・見学してきました。

宝筐院_01

宝筐院_02

宝筐院は、境内にある庭園の景色が美しく、特に、初夏の新緑、晩秋から初冬にかけての紅葉、冬の雪景色などは大変美しいと評判ですが、私が行った時期は緑も紅葉も雪も無く、そのため季節的には「ちょっと微妙かも…」という感じでした。
そうであるにも拘らず、今回私があえて宝筐院に行ってきたのは、庭園の景色を楽しむためではなく、足利義詮のお墓と楠木正行の首塚をお参りするためだったからです。お墓参りをする分には、境内の景色は別に関係無いですからね。
宝筐院は、生前は敵同士であった、室町幕府第2代将軍 足利義詮のお墓と、南朝に仕えた楠木正行(名将・楠木正成の息子)の首塚が、仲良く並んで立っているお寺としても知られています。


宝筐院は、平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、南北朝時代に夢窓国師の高弟・黙庵周諭禅師が中興開山した寺院です。
その黙庵に帰依した足利義詮によって伽藍の整備が進められ、当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていたと記録されています。
その一方で、足利家とは敵対関係にあった楠木正行もまた黙庵に帰依していた事から、四條畷の戦いで正行が足利方の高師直・師泰兄弟に敗れて討死した後、正行の首級も黙庵によって同寺に葬られました。

義詮が没した後、宝筐院(当時の名は善入寺)は義詮の菩提寺となり、室町幕府歴代将軍の保護もあって大いに隆盛しました。最盛期には、備中や周防などにも寺領を構えていたそうです。
しかし応仁の乱以後、宝筐院は幕府の衰えと共に衰退していき、江戸時代には天龍寺末寺の小院となり、伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり、幕末には一旦廃寺となります。
その後、臨済宗天龍寺派管長の高木龍淵や、神戸の実業家 川崎芳太郎などによって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興(旧境内地の買い戻し、新築、古建築の移築、主な什物類の回収など)が行なわれ、廃寺から五十数年を経て復興されて、現在に至っています。


下の写真2枚は、本堂の正面全景と本堂内で、ここには木造十一面千手観世音菩薩立像が本尊としてお祀りされています。

宝筐院_03

宝筐院_05

そして本堂には、本尊とは別に正行の木造もお祀りされていました。
元々は義詮の菩提寺であり、宝筐院という寺名も義詮の院号である宝筐院から取られたものなのですが、大正期に復興されて以降の宝筐院は、義詮の菩提寺というよりは、正行の菩提寺である事のほうが強調されている感があります。

宝筐院_04


下の写真が、境内の一画に並んで立っている義詮のお墓と正行の首塚です。門と柵で囲われており、中央の門扉には、足利家と楠木家それぞれの家紋が描かれています。

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下の写真の左側が、義詮のお墓と伝えられる三層石塔で、右側が、正行の首塚と伝えられる五輪石塔です。
生前は敵であった正行が宝筐院(当時の名は観林寺)に埋葬された事を知った義詮は、正行の人柄を褒め称え、「自分が死んだ後は、かねてより敬慕していた観林寺の楠木正行の墓の傍らに葬って貰いたい」と言い、その遺言に従って義詮のお墓は正行の首塚のすぐ隣に立てられたと伝えられています。

宝筐院_08

なお、今回の記事に添付した写真には写っていませんが、墓前にある石灯籠の書は、明治・大正期の文人画家 富岡鉄斎の揮毫で、そこに記されている「精忠」は、最も優れた忠を意味し、「碎徳」は、一片の徳、即ち敵将を褒め称えその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片に過ぎないという意味で、義詮の徳の大きさを褒めた言葉とされています。


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