前回の記事で述べた通り、私は先週、九州へと行き、熊本県立美術館(熊本県熊本市)と九州国立博物館(福岡県太宰府市)でそれぞれ開催中の特別展を観覧してきました。
1泊2日という短い旅程で、福岡・熊本・太宰府の3都市を回ってきたので、かなりの“強行軍”であり“弾丸旅行”でしたが、主目的の特別展2つを観てきた他に、1日目は、熊本電鉄(菊池電車)の全線を乗車してローカル線の旅を楽しんだり、その日の夜は熊本市内在住の友人と数年ぶりに再会して一緒に飲んだりするなどし、2日目も、太宰府天満宮を参詣したり、博多の駅ビルや地下街を散策するなどし、かなり限られた時間だった割には目一杯楽しめたと思います♪
さて、今回の記事では、旅行1日目に私が熊本県立美術館本館2階の展示室で観覧してきた特別展「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」について、記させて頂きます。
この特別展では、阿蘇外輪山の尾ノ岳南麓を源流として有明海に注ぐ菊池川水系の本流で一級河川の「菊池川」の、流域一帯の歴史や文化、そこに根付いた信仰の形態、そして、菊池川流域に一大拠点を築いて九州屈指の精強な武士団となった菊池一族の盛衰についての、数々の貴重な史料・文化財等が展示されていました。
個人的には、やはり、南北朝時代に九州に於ける南朝勢力中核の武家として大活躍をした菊池一族についての展示が興味深かったです。
菊池一族は、熊本県の北部、現在の菊池市を中心に、平安時代後期から室町時代にかけての450年にも亘って活躍し、中央にもその名を轟かせた九州の一大豪族ですが、一族としての最盛期(所謂 征西府の春)を迎えた南北朝時代には、全国的な北朝有利の状況にあっても一貫として南朝の雄として戦い抜き、その志を一途に貫き通した事で、後の世にも語り継がれました。
以下のイラストは、この特別展が開催されていた熊本県立美術館の館内に置いてあった、菊池市発行の、その菊池一族についての紹介・概要解説のチラシです。菊池氏の歴代当主達が、現代的なアレンジを加えられてとても格好良く描かれています。
下図は、鎌倉幕府打倒の先陣をきった、鎌倉時代末期の菊池氏第12代当主・菊池武時の肖像です。上畳に座した入道姿で描かれているこの肖像画は、今回の特別展でも展示されていました。
鎌倉幕府滅亡の約2ヶ月前に当たる元弘3年の3月13日、西国(九州)統括のため鎌倉幕府の出先機関として現在の博多に設置されていた鎮西探題を、菊池武時は一族郎党を率いて襲撃し、大いに奮戦するものの、結局は、本人はもとより子息の頼隆や弟の覚勝ともども敗死し、二百余りの首級と共に晒されました。
しかし、同年5月7日に京都で六波羅探題(京都に於ける鎌倉幕府の出先機関)が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にも届くと、それまで鎮西探題に柔順であった少弐貞経、大友貞宗、島津貞久ら九州の在地勢力が鎮西探題に離反し、同月のうちに鎮西探題は攻め滅ぼされ、得宗の北条高時など主だった北条一門が鎌倉で自害し幕府が滅んだ3日後の5月25日に、最後の鎮西探題を務めた北条(赤橋)英時も博多で一族と共に自害して果てました。
つまり、鎮西探題は最終的には九州の在地勢力によって攻め滅ぼされるのですが、それに先駆けて行われた鎮西探題に対する武時の挙兵については失敗に終わり、武時は壮絶な最期を遂げたのでした。
しかし、武時の九州での挙兵は、後に楠木正成をして「忠厚尤も第一たるか」と言わしめ、後醍醐天皇の意向を受けて九州で初めて決起したという武時の判断は、半世紀以上にも及ぶ菊池一族と南朝の関係の “出発点” にもなりました。
武時の跡を継いだ菊池氏第13代当主の菊池武重が、建武政権の発足後、亡父・武時の功績を賞されて肥後一国を与えられ肥後守となったのを筆頭に、菊池武敏は掃部助、菊池武茂は対馬守、菊池武澄は肥前守というように、菊池氏は九州の一在地勢力ながらこぞって異例ともいうべき破格の恩賞を得、これによって菊池氏は、肥後国内の同列の在地勢力に対して優越的地位を公認され、以後の菊池氏の政治的立場と行動を決定付ける事になりました。
以上のような経緯から、当人にとって敗死は “無念な最期” であったろうとは思いますが、その後一族に与えた多大な影響という観点からは、武時は菊地氏にとっては「中興の祖」的な、“偉大な御先祖様” であったといえそうです。
ちなみに、明治政府が南朝を正統とする立場であった事などから、武時は没後570年近く経った明治35年、明治天皇より贈従一位に叙され、同日、子の菊池武重(菊池氏第13代)と菊池武光(菊池氏第15代)も、それぞれ贈従三位に叙されています。
下の写真は、菊地一族関係のものではありませんが、私が今回の特別展で撮影してきた太刀「銘 来国俊」(めい らいこくとし)です。会場内は原則として写真撮影禁止ですが、例外としてこの太刀のみ、撮影が許可されていました。
この太刀は、菊池氏と共に足利尊氏と戦った阿蘇氏第10代当主・阿蘇惟澄(あそこれずみ)が多々良浜の戦いで使用した、「蛍丸」と称される、来国俊作の大太刀の写しで、昭和50年に復元されたものです。
原品は、近代に旧国宝(現国指定重要文化財)に指定され、第二次大戦中は地元警察に預けられていましたが、戦後行方不明となり、GHQが民間から接収した刀剣類の中に蛍丸が含まれていたとも云われていますが、詳細は不明です。
ちなみに、阿蘇氏も、菊池氏同様南朝方として戦った、九州に於ける有力な豪族で、式内社・肥後国一宮・官幣大社の「阿蘇神社」の大宮司職を継承する社家でもありました。
下図は、今回の特別展のチラシの一部で、このチラシにも写真が掲載されているように、この特別展には、菊池一族の「代表的な敵役」として、足利尊氏の木像も展示されていました。
大分県国東市の安国寺が所蔵する、国の重要文化財にも指定されているこの等身・束帯姿の尊氏像は、尊氏の彫像としては現存最古とされており、垂れ目の穏やかな面貌が特徴的で、像主の面貌を忠実に写したと推察されています。
ちなみに、菊池一族と尊氏が対決した合戦は、箱根竹ノ下の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いなどがよく知られており、そのいずれも、尊氏方の勝利で終わっています。
今回の特別展、北海道ではまず開催される事も観る機会も無いであろう、菊地氏所縁の地である熊本県ならではの特別展だったので、私としてはとても興味深く、面白かったです!
今回の旅行では時間の都合上行けませんでしたが、平成26年1月20日の記事でも述べた通り、熊本県菊池市には、菊池氏の当主 武時(第12代)・武重(第13代)・武光(第15代)の父子を主祭神として祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀している「菊池神社」が鎮座しており、次に熊本県を訪れた際は、菊池家所縁のその菊池神社へも是非行ってみたいです。
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