この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

足利尊氏の書き残した書状

室町幕府を開きその初代将軍となった足利尊氏という人物の人柄・評価・魅力などは、平成26年4月20日の記事同年5月4日の記事昨年10月12日の記事などで詳述しましたが、今回の記事では、その尊氏が直筆し今も残っている書状等の一部を、以下に紹介させて頂きます。
必ずしもそうとは言い切れないのでしょうが、大凡の傾向として、尊氏の直筆文書は、あまり豪快とは言えない線の細い文字が多い、という印象を受けます。

足利高氏願文
▲ 足利高氏自筆 願文

1333年4月、尊氏は、鎌倉幕府の命令により、西国の討幕勢力を鎮圧するため幕府方の司令官として鎌倉を発して上洛しますが、自身の所領である丹波の篠村八幡宮に到着した際に、後醍醐天皇方に転じて討幕する意思を内外に明らかにしました。この文書は、その時に源氏再興を祈って尊氏が奉納した願文です。
ちなみに、尊氏は、北条氏の得宗から偏諱を受けるという足利氏の慣例に従い、鎌倉時代は、得宗・北条高時の偏諱を受けて「高氏」と名乗っていましたが、鎌倉幕府の滅亡後は、後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受けて「尊氏」に改名しており、この文書での自身の署名は、当初名乗っていた「高氏」となっています。

足利尊氏御判御教書
▲ 足利尊氏自筆 御判御教書

1336年1月、尊氏は楠木正成と宇治川で戦いましたが、同年7月になっても、南朝方の残党がまだ宇治橋辺りにいたらしく、この文書は、そういった状況から、尊氏が越中四郎左衛門尉に対して宇治橋に馳せ向かい軍忠を致すべきよう命じたものです。

足利尊氏自筆清水寺奉納願文
▲ 足利尊氏自筆 清水寺奉納願文

1336年8月17日に、尊氏が清水寺に奉納した願文で、意訳すると以下の通りです。
この世は夢のようなもの。もはやこの世で望むものはありません。私は出家しますので、来世の幸福をお与え下さい。現世の幸福は、弟の直義に譲ります。直義をお守りください。」
尊氏はこの年の5月に湊川の合戦で楠木正成を敗死させ、6月に光厳上皇や豊仁親王を奉じて入京し、そして、8月には豊仁親王を光明天皇として擁立し、その2日後に、この願文を奉納しています。当時、政治権力が尊氏に集中しつつある時に、尊氏はその権力に執着を見せるどころか出家を望み、後生の安穏を願い、今生の果報は弟の直義に与えて下さいと祈願しているのです。尊氏の優しさと、心の弱さを垣間見る事が出来る文書です。
そして、後に尊氏と直義は激しく対立して争う事になりますが(観応の擾乱)、この時点ではまだその片鱗は全く見えず、当時は非常に仲の良い兄弟であった事も伝わってきます。
ちなみに、ブログタイトルの「この世は夢のごとくに候」は、この願文の冒頭の一文から拝借しました。

足利尊氏寄進状
▲ 足利尊氏自筆 寄進状

1343年7月12日に墨書された、吸江庵(きゅうこうあん)という庵に対して、土佐国稲吉村地頭職を寄付するという内容の寄進状です。吸江庵は、夢窓国師が土佐国に建てた庵で、この寄進状は、夢窓国師が吸江庵のために尊氏に所領の寄進を願い出て、与えられたものと見られています。
ちなみに、前出の書状「御判御教書」や「清水寺奉納願文」で使われている年号は、いずれも「建武」ですが、この書状では、北朝でだけ使用された「康永」という年号が使われています(但し、南朝は建武2年で終わっているため、建武3年と同4年は北朝でしか使われていません)。

足利尊氏花押文書
▲ 足利尊氏自筆 花押文書

1353年4月2日に、結城三河守に宛てた、尊氏自筆の感謝状です。この文書でも、北朝で使用された「文和」という年号が使われています。

足利尊氏自筆の梁牌
▲ 足利尊氏自筆 梁牌

1354年12月8日に、尊氏が天下泰平を祈って自ら謹書した梁牌(りょうはい)です。梁牌というのは、仏殿の天井などに掲げられる棟札の事です。

足利尊氏直筆の八幡大菩薩の文字
▲ 足利尊氏自筆 八幡大菩薩の文字

尊氏が書いた「八幡大菩薩」の文字です。八幡大菩薩は、源氏一門の氏神である八幡大神という神様の、仏としての呼び名です。
そういえば、昔、大河ドラマでの合戦シーンで、主人公(甲冑を身につけた源氏方の武将)が、馬上より「南無八幡大菩薩!」と叫び、八幡大菩薩に武運と御加護を願ってから敵陣に突進して行く、というシーンを見た事があります。戦乱の世では、八幡大菩薩は武の神、弓矢の神として、多くの武将達から信仰されていたようです。
ちなみに、「薩」の下には、他の文書同様、尊氏の花押(サイン)が書かれています。

足利尊氏自筆の地蔵菩薩像
▲ 足利尊氏自筆 地蔵菩薩像

尊氏は地蔵信仰が厚く、地蔵菩薩像を多く描きました。尊氏は、悲しい事が起きると地蔵菩薩の絵が描きたくなるという変わった癖があった、とも云われています。まぁ、特に迷惑というような癖ではないので、別に構わないと思いますが(笑)。


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東京で楠木正成についてのシンポジウムが開かれました

先月21日、東京の明治神宮会館で、楠木正成についてのシンポジウム「楠木正成考」が開かれました。

このブログの読者の皆様方には改めて言うまでもない事ですが、楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、南朝方の名将で、特に、鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇による新政権を樹立するにあたっては、最大の功労者と言える大活躍をしました。
私個人としても、楠木正成という人物は、日本史の中では、平安時代末期に大活躍した源義経と共に、一二を争う程の“戦術の天才”だと思います。

戦前から戦中にかけては、正成は「忠臣の鏡」「大楠公」として日本中から絶賛されましたが、残念ながらその絶賛の大半は客観的は評価ではなく、忠臣と勤皇の面ばかりが殊更強調された過大評価で、そのため戦後は、その反動から評価が一転し、正成は“戦前の皇国史観を象徴する人物”のように見なされ、今度は逆に過小評価されてしまう事が多くなってしまいました。
そのため、学校の歴史の授業でも正成の事績はほとんど教えられなくなり、現在では、正成の事を知らないという人も珍しくはありません。
足利尊氏もそうですが、正成もまた、時代によって評価が著しく変わる人物なのです。

そんな正成についてのシンポなので、私としてもその内容は大いに興味があったのですが、生憎私は行く事が出来なかったので、産経新聞の紙上に掲載された当該記事の画像を以下に貼付する事で、このシンポについての詳細を紹介させて頂きます。

産経新聞記事_01

産経新聞記事_02

機会があれば、こういったシンポには私も是非出席してみたいです。
もっとも、私が住んでいる北海道では、こういったシンポはなかなか開かれないと思いますが…。


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遠野南部氏所縁の南部神社を参拝してきました

私は今月の上旬、2泊3日の日程で、岩手県を旅行してきました。
今回は主に、岩手県太平洋岸の三陸海岸(久慈から釜石にかけて)と、同県内陸の遠野を中心に見て回り、遠野市内では、“日本の民俗学の父”と称される柳田國男の代表作のひとつとして知られる「遠野物語」所縁の各スポットを見学してきました。

そして、遠野物語とは特に深い関わりがある所ではありませんが、私が宿泊したホテルのたまたま直ぐ隣に「南部神社」と刻字された社号標の立っている神社が鎮座していたので、その南部神社も、参拝・見学してきました。
安土桃山時代から江戸時代までは鍋倉城という山城(遠野南部氏の居城)があったのですが、南部神社は、その城跡に造られた鍋倉公園に鎮座しておりました。

南部神社_01

南部神社_02

南部神社_03

南部神社_04

南部神社_05

南部神社_06


南部神社へは旅行前に事前に調べて行ったわけではなかったので、現地で初めてその事を知りちょっと驚いたのですが、実はこの神社は、私が日頃から特に興味・関心を抱いている鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての時期と、とても深い関わりがある神社でした。
とはいっても、このこの南部神社が創建されたのは近代(明治15年)であり、別に、鎌倉時代や南北朝時代に創建された神社というわけではありません。

では、何がその時代と深い関係があるのかというと、この神社でお祀りされている御祭神が、その時期に活躍した武将達なのです。具体的に言うと、南朝に仕え後に「勤王八世」と称されるようになった、南部実長命、南部実継命、南部長継命、南部師行命、南部政長命、南部信政命、南部信光命、南部政光命の、遠野南部氏8柱を御祭神としてお祀りしているのです。
ちなみに、神社の創建当初は「勤王五世」と称された5柱をお祀りしていたそうですが、昭和34年に南部三公を合祀して、合せて「勤王八世」と称する事にしたようです。

南部氏は、元々は、源義家の弟・新羅三郎義光を祖とする、甲斐源氏の一門で、甲斐国の巨摩郡南部六郷を所領した事から南部姓を名乗るようになりました。その南部氏の庶家が、鎌倉時代後期に陸奥の糠部(ぬかのぶ)地方に所領を得て、陸奥に下向し土着したのが奥州南部氏の始まりで、南北朝時代になると、当初は南朝方として参戦しますが、南朝が衰退すると、南部氏もその多くは南朝を見限り、北朝・室町幕府に帰順するようになります。
しかし、前出の「勤王八世」と云われる遠野南部氏だけは、そのような情勢下にあっても北朝・幕府に帰順する事なく、最後まで南朝を支え続けました。
以下に、その8柱の御祭神の、生前の経歴をまとめてみます。


【初代】 南部実長 (さねなが)
清和源氏新羅三郎義光六世の孫。鎌倉時代中期の御家人。
鎌倉幕府に勤番中、鎌倉で日蓮による辻説法を聞いて深く感銘し、日蓮に帰依し、所領を身延山に寄進するなどして現在の身延山の基を作りました。自らも出家し、法寂院日円と号しました。

【2代】 南部実継 (さねつぐ)
初代・実長の子。鎌倉時代末期の武士。父の代理として身延山の工事にも従事しました。
1331年、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動「元弘の変」が起こると、実継は、当時としては老齢の六十余歳の身ながら後醍醐天皇方として参戦し、護良親王や尊良親王に随従して赤坂城に篭城しました。実継は奮戦しましたが、鎌倉幕府の大軍に攻められて赤坂城は落城し、尊良親王と共に捕らえられ、親王は土佐に流されましたが実継は京都の六条河原で斬首されました。

【3代】 南部長継 (ながつぐ)
2代・実継の子。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武士。
1326年、奥州で安藤氏が謀反を起こした際に、鎌倉幕府の命により、その謀反を討伐するために戦い、戦功大なりと伝わっています。
1330年、父・実継の命により上洛し、護良親王を奉じて楠木正成の麾下となり、鎌倉幕府討幕のため戦いました。
1335年、中先代の乱勃発に乗じて足利直義の配下に護良親王が殺害されると、長継は若宮の子・興良親王を奉じて後醍醐天皇方として足利方と戦いますが、1352年、その興良親王は、足利方に寝返った赤松則祐と摂津国の甲山の麓において戦うも敗れ、長継はこの戦いで戦死したと云われています。

【4代】 南部師行 (もろゆき)
3代・長継の妹の子で、鎌倉幕府の御内人だった南部政行の子。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の挙兵が起こると、師行は一族に倒幕の利を説いて後醍醐天皇の綸旨に呼応し、新田義貞が幕府に反して挙兵し鎌倉を攻めると、弟(5代)の政長と共にこれに従軍して武功を挙げ、鎌倉陥落に貢献しました。同年、後醍醐天皇によって建武の新政が始まると、師行は京都にとどまって武者所に任命され、南部家は一族で名を挙げる事に成功しました。
1334年、鎮守府将軍として奥州平定を命じられた北畠顕家が、義長親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向すると、師行もこれに随行して陸奥へ下り、糠部(ぬかのぶ)郡の目代や鹿角(かづの)郡の地頭に任命されるなど顕家政権下で重用され、八戸に入って根城を築いて主に陸奥北部方面の支配を担当しました。
1337年、顕家に従って足利尊氏討伐軍として京都に進軍し、各地で戦功を挙げるものの、1338年、阿部野で敗れ、和泉国の石津で顕家と共に戦死しました。
明治29年、師行は南朝への忠義を讃えられて正五位を追贈され、明治30年には、その子孫であり当時士族とされていた遠野南部氏当主の南部行義に、特旨を以て男爵が授けられました。

【5代】 南部政長 (まさなが)
4代・師行の弟。南北朝時代に活躍した武将。
1333年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げ、鎌倉幕府方の新田義貞がそれに呼応して天皇方に寝返ると、政長は上野国で義貞と合流して鎌倉攻めに参戦し、殊勲を立てました。
1335年、足利尊氏が後醍醐天皇から離反した際も、義貞と共に後醍醐天皇方に与し、鎮守府将軍として奥州に下向してきた北畠顕家と共に奥州の南朝軍として奮戦しました。
南部家は、奥州では有力国人として勢力を持っていたため、足利直義や高師直などは政長に対して何度も北朝・室町幕府への帰順を申し入れますが、政長はこれを拒絶して南朝支持の立場を一貫し、幕府方に付く諸将が次第に増えていく中、数少ない南朝方の武将として各地を転戦し、南朝の後村上天皇からは恩賞として太刀と甲冑を賜っています。
明治41年には、宮内省から、その功績を讃えられて正五位を追贈されました。

【6代】 南部信政 (のぶまさ)
5代・政長の子。南北朝時代の武将。
1335年、父政長に代わって北畠顕家の西上軍と行動を共にし、敵将である足利尊氏を遠く九州に敗走させる事に功績があり、後醍醐天皇より感状を賜りました。
1345年、北畠顕信に推挙され右近蔵人となり、吉野の南朝に上がって達智門女院に仕え、1348年、四條畷の戦いで高師直軍と戦い戦死したと云われています。

【7代】 南部信光 (のぶみつ)
6代・信政の子。南北朝時代の武将。
それまで奥州で南朝軍の主力だった伊達家が北朝・室町幕府に降り、奥州の南朝勢力は衰退に向い、逆に、幕府による奥州支配が徐々に確立されつつあった時期に、南朝に与して奥州を転戦し続け、1361年、後村上天皇は信光とその一族に、戦功嘉賞の綸旨を下されました。
1367年、正月恒例の年賀の挨拶のため、一族がいる甲斐国の波木井城にいたところ、幕府方の神大和守(かんのやまとのかみ)の軍勢から急襲を受けますが、信光はこれを退け、更に反撃に出て、大和守の居城・神城を陥落させました。同年、南朝に対する長年の功績から、後村上天皇より甲冑と感状を賜り、所領も加増されました。その甲冑は現在、国宝に指定され、八戸の櫛引八幡宮が所蔵しています。

【8代】 南部政光 (まさみつ)
7代・信光の弟。南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将。
足利義満による南北朝合一後もそれに従わなかったため、義満は、南部氏本家(盛岡南部)の南部守行(信光の娘婿)を以て勧降しますが、「二君に仕うるは不義」として政光は節を曲げず、甲州の本領を捨てひとり八戸に移りました。義満もそれ以上は勧降しなかったため、政光はその地で天寿を全うしたと云われています。


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平成二十九年の年頭挨拶

新年おめでとうございます。
謹んで新春のお慶びを申し上げます。

このブログ「この世は夢のごとくに候」で今まで度々取り上げてきた足利尊氏の生誕からは712年、後醍醐天皇による建武の新政(建武中興)からは683年、建武式目制定(室町幕府の成立)からは681年、南北朝の合一(南北朝時代の終わり)からは625年、応仁の乱発生からは550年、将軍足利義昭追放(室町幕府の事実上の滅亡)からは444年となる本年の年頭に当り、このブログを読んで下さる全ての読者の皆様方の御健勝・御繁栄を、心より祈念申し上げます。

また、大河ドラマ化、映画化、漫画化等される機会が多い戦国時代や幕末などに比べると、昔からいまいち人気が無い、鎌倉時代や南北朝時代、そして、室町時代の前期から中期にかけての時代に、もっと多くの人達が興味・関心を持ってくれるようになる事も、併せて、本年も密かに祈念致します(笑)。

このブログを開設して、当月で丁度4年が経ちました。
更新は怠りがちで、内容的にもまだ拙く未成熟なブログですが、読者の皆様方に於かれましては本年も何卒一層の御指導・御鞭撻を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

皇紀2677年 仏暦2560年 西暦2017年
元旦


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応仁の乱についての解釈の違い

室町時代の応仁元年(1467年)に発生した、日本の歴史上屈指の大乱である「応仁の乱」とは、よく知られているように、全国の武士達が東軍(当初の中心人物は細川勝元)と西軍(当初の中心人物は山名宗全)に分かれて、11年もの長きに亘って戦った大乱です。
この戦いによって、開戦から僅か一年で京の都はほとんどが焼き尽くされ、その戦火は全国各地にも飛び火し、落ちかけていた室町幕府の権威は完全に失墜する事となり、守護大名の衰退も加速していき、その結果、戦国大名と呼ばれる新たな勢力が出現し、世は戦国時代へと突入する事になりました。

しかし、それだけ大きな戦であったにも拘わらず、そもそも応仁の乱とは一体誰が何のために戦っていた戦だったのか、どうしてこれだけ大きな戦に発展したのか、という事を一言で説明しようとすると、その事情が余りにも複雑過ぎるため、誰もが困難を極めるのが実情です。
実際、主戦場となった狭い京の都で戦っていた当事者達でさえ、今自分の目の前にいるのが誰であるのかも分からないまま戦かっていた、という事も少なくはなかったと云われています。

応仁の乱対立図

この応仁の乱について、乱が起こるに至った原因や、終了に至る経緯などを詳しく解説している動画が、動画投稿・共有サービスの「YouTube」(ユーチューブ)にアップロードされており、先程、それらの動画を視聴しました。
以下に貼付する2本の番組がそれで、いずれも過去にテレビで放送された、約45分程の歴史ドキュメンタリー番組です。


まず1本目は、「その時歴史が動いた 応仁の乱、天下を滅ぼす 終わりなき“戦いの連鎖”」という番組で、これは前編・後編の2編に分かれてアップロードされていました。


2本目は、「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー 応仁の乱」という番組で、こちらは前編・後編に分ける事なく1本の動画としてアップロードされています。室町幕府第8代将軍である足利義政の妻・日野富子が、特に大きく取り上げられていました。


これらの2本の番組は、どちらも「応仁の乱」という同じ大乱を取り上げているにも拘わらず、乱の原因や経緯については異なった解釈をしているのが、とても興味深かったです。
「その時歴史が動いた」では、応仁の乱のそもそもの発端となったのは、近畿南部の大名・畠山氏の跡継ぎをめぐる争いで、その争いに、他の大名家同士の家督争いが絡み、更には将軍家の内紛も絡み、戦いが当事者達の思惑を離れて余りにも大きくなり過ぎて当事者達にも制御が出来なくなり、結果として、戦いを始めたそもそもの理由に比べてその規模が不相応に大きい大乱となった、という解釈がされていました。
一方、「世紀のワイドショー!」では、応仁の乱のそもそもの発端は、足利義政と日野富子による、将軍家後継者を巡っての夫婦喧嘩であり、将軍家内部のその家庭問題が全国を巻き込む戦争に発展していき、戦争の途中からは、大名家同士、守護家同士の主導権争いにもなっていった、という解釈がされていました。

つまり、将軍家内部の争いと、大名家同士の争いが絡み合っているという点では同じなのですが、まず大名家の争いが有りきだったのか、まず将軍家の争いが有りきだったのか、そこが正反対の解釈となっているのです。
また、足利義政についても、「その時歴史が動いた」では、最終的には政治には全く関心を示さなくなるものの若かりし頃は将軍としての務めを積極的に果たそうとしていた人物として描かれていたのに対し、「世紀のワイドショー!」では、義政は若い頃から一貫して、政治には何の関心も示さなかった人物として描かれていました。

皆さんも、もしお時間があれば、是非これらの番組を視聴してみて下さい。
ちなみに、私は中学校や高校の歴史の授業では「応仁の乱」という名称で習いましたが、近年の教科書では、「応仁・文明の乱」という呼称で書かれているそうです。


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