この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

大河ドラマ新作の主人公が、鎌倉幕府第2代執権の北条義時になると発表されました

2年後の令和4年に放送される、第61作となるNHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」というタイトルの作品となる事が、先日NHKから発表されました。
作品の詳細な内容はまだ不明ですが、主人公は、鎌倉幕府第2代の執権で北条得宗家の祖となった北条義時(下の画像は彼の肖像画)、その義時役は俳優の小栗旬さんが演じ、脚本は、「新選組!」と「真田丸」に次いで大河ドラマ3作目となる三谷幸喜さんが担当する事なども、併せて発表されました。

ちなみに、タイトル中の「13人」とは、初代の「鎌倉殿」(鎌倉幕府将軍)であった源頼朝の没後に発足した、2代目の鎌倉殿である源頼家の政権下での、集団指導体制「十三人の合議制」を構成した御家人達(義時も含まれます)を指しているそうです。
まぁ、結局その集団指導体制は、何だかんだであっという間に崩壊する事になるわけですが…。

北条義時


世間一般には、義時よりも、義時の父である北条時政(まだ一介の流人に過ぎなかった頼朝に賭けて平氏政権に反旗を翻し、頼朝最大の後援者として鎌倉幕府の成立に尽力し、幕府成立後は初代執権に就任)や、義時の姉である北条政子(頼朝の正室で、頼朝亡き後は落飾して「尼将軍」と称され、義時と共に幕政の実権を握った)のほうが知名度が高い気もしますが、あえて義時をドラマの主人公にするという事は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての大変革期(動乱)の時代が、義時からの目線で、恐らく、ほぼ1年かけて丁寧に描かれる事になるのでしょう。
という事は、まだどうなるかは分りませんが多分、ドラマ前半のハイライトは、以仁王の挙兵から壇ノ浦で平氏が滅亡するまでの所謂「源平の合戦」、ドラマ中盤のハイライトは、幕府成立後の頼朝による独裁政治(義経が討たれる所も含めて)と、頼朝没後に幕府内で行われたドロドロの権力闘争(北条氏が他の有力御家人達を粛正して幕府の実権を完全に掌握する様や、北条氏一門内でも対立が生じ時政が失脚する様など)、そして後半のハイライトは、後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げて後に “主上御謀叛” とされた「承久の乱」、という感じでしょうか。

昨年放送された大河ドラマ「いだてん」は珍しく違いましたし、過去作の一部(草燃える、太平記、北条時宗、平清盛など)にも違うものはありましたが、そういった一部の例外を除くとNHKの大河ドラマは、時代設定が「戦国時代」もしくは「幕末」のふたつの時代にほぼずっと固定されていましたから、鎌倉時代や南北朝時代など他の時代も好きな私にとって、今回発表された新作大河「鎌倉殿の13人」の放送は、今から楽しみです!

個人的にも、北条義時という人物は、昔から「ずっと気になっていた人」でした。好感の持てる人物かどうかと問われると、ちょっと微妙ではありますが(笑)。
北条政子が事実上の主人公だった、昭和54年の大河ドラマ「草燃える」(古い作品なのでさすがに私もオンエアでは見ておらず、総集編のビデオでしか見た事ありませんが)で、松平健さんの演じた北条義時が、私の中では今でも強烈に印象に残っています。
当初は、伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎず、性格も純朴で涙もろいおぼっちゃんだった義時が、権謀術数の限りを尽くして政敵を次々と追い落としていく冷徹な政治家へと変貌していき、幕府の事実上のトップに立って朝廷をも完全に制圧し、北条氏による独裁政権を築いていく様は、なかなか興味深く見応えがありました。
まぁ、一個人として性格が良かったかどうかは兎も角(笑)、義時が日本の歴史上屈指の有能な政治家・武将のひとりであった事は、間違い無いでしょうね。


義時以外にも、鎌倉幕府を支えた歴代の執権には有能な人物が多く、例えば、鎌倉幕府の基本法にして日本最初の武家法「御成敗式目」を制定し、人格的にも優れ武家・公家の双方から人望が厚かったと伝わる第3代執権で第2代得宗の北条泰時や、政敵を容赦なく潰して執権権力を着々と強化していく一方で、政敵ではない御家人達や一般民衆に対しては徹底した善政を敷いた事で後世にまで名君として伝わり、能の「鉢の木」のエピソード(廻国伝説)などでも語り継がれていった第5代執権で第4代得宗の北条時頼、得宗権力の更なる強化を図る一方で、元寇(当時世界最大の帝国であったモンゴル帝国による日本侵略)に対峙し二度に亘る元寇を退けた事で “日本の国難を救った英雄” と評された第8代執権で第5代得宗の北条時宗などは、現在も名執権として高く評価されていますが、彼らがその能力を存分に発揮出来る下地を作り上げたのは、第2代執権で得宗家の祖となった義時であったともいえます。
義時の時代に、執権が、将軍の単なる補佐役ではなく、幕府最高権力者の地位である事が確定し、更に、武家政権である幕府が公家政権である朝廷に対しても支配的な地位を持ち、幕府が事実上の全国統一政権となったわけですから。

もっとも、義時が「彼らがその能力を存分に発揮出来る下地を作り上げた」を成し得たのは、義時の父である時政が、義時に先んじてそもそもの下地を作りあげた(伊豆の一豪族に過ぎなかった北条氏を、時政が一代で、他の有力御家人達と肩を並べる幕府有力者の地位にまで高めた)事によってもたらされた成果とも言えます。
平清盛を首班とする平氏政権が全盛だったあの時代に、頼朝に賭けて平氏政権に反旗を翻したのは、時政に時勢を察知しうる優れた先見性があったからであり、時政のそういった点については、十分に評価されて良いと思います。そもそも、時政の活躍がなければ、義時が世に出る事も先ずなかったでしょう。
しかし、時政が築き上げた北条氏の権力基盤を、更に絶対的なものへと昇華させたのは、義時です。鎌倉幕府が「承久の乱」に勝利して事実上の全国統一政権になったのは、明らかに義時の手腕に因る所が大きいです。

しかも時政は、晩年、若い後妻である牧の方と共謀して(というより、首謀者はむしろ牧の方?)、畠山重忠謀殺や源実朝暗殺未遂などに関わる事となり、そのため最終的には息子である義時と娘である政子から見限られて幕府から追放され、寂しく生涯を閉じており、“晩節を汚した” という印象が否めません。
北条一門の子孫達も、「得宗家の初代は義時」と認識し、時政の存在はほぼ無視しており、清廉で知られた第3代執権の北条泰時も、頼朝・政子・義時らを幕府の祖廟として事ある毎に参詣し、彼らに対する仏事は欠かさなかったにも拘わらず、時政に対しては「牧氏事件で実朝を殺害しようとした謀反人」であるとして仏事を行わなかった、と伝わっています。
そう考えると、義時の父・時政は、自業自得とはいえ、少し可哀そうな人ではありますね…。


北条氏 略系図


ところで、朝廷と対決した人物というのは、日本の歴史上、義時以外にも何人かいます。天皇もしくは上皇から追討の勅が下されて正式に「朝敵」と認定され人物として、特に代表的な人物を挙げると、例えば義時以外では以下のような人達がいます。

藤原仲麻呂 (恵美押勝の乱を起こして孝謙上皇から政権奪取を企むも、官軍に敗れて敗死)
平将門 (朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し東国の独立を標榜した事により朝敵とされ、 討伐された)
源頼朝 (兄である頼朝と対立した義経が、後白河上皇に頼朝追討の院宣を迫り出させるが、頼朝の圧倒的な優勢により、上皇は直ぐにその院宣を取り消した)
源義経 (自分への追討の院宣を取り消させた頼朝が、逆に義経追討の院宣を出させた)
北条高時 (後醍醐天皇により朝敵とされ、一族とともに自害して果て、鎌倉幕府は滅亡するものの、後に遺児である北条時行が南朝に帰参したため、死後に朝敵を赦免された)
北条時行 (鎌倉幕府再興を掲げて「中先代の乱」を起こして建武政権と対峙したため、後醍醐天皇から朝敵とされたが、後に南朝に帰参したため、朝敵を赦免された)
楠木正成 (南北朝の戦いは北朝の勝利で終わったため、北朝や足利氏との戦いで討死した者達は正成も含め全て朝敵とされたが、永禄2年、正成の子孫を称する楠木正虎の嘆願により、正親町天皇から勅免が下され、正成は正式に朝敵から外された)
武田勝頼 (織田信長が朝廷を動かして、武田家当主の勝頼を朝敵とした)
徳川慶喜 (薩長らの倒幕勢力が朝廷を動かして慶喜追討令を出させるが、慶喜本人は朝廷への徹底恭順を示したため、後に赦免され、明治維新後、名誉を回復して従一位勲一等公爵、貴族院議員などになった)

しかし、朝廷と対決し「朝敵」という不名誉な烙印を押されてしまったこれらの人物(実際にはもっといますけど)の中で、実際に朝廷を完全に敗北させてしまった武将(実質、朝廷を倒してしまった人物)は、日本の歴史上、義時ただひとりです。
しかも追討の勅というのは、少なくとも中世以降は、朝廷の強い意思によって出される事は稀で、ほとんどの場合、時の有力な権力者が政敵を討伐する口実が必要になった時、保護下にある朝廷から引き出す形で下されたのですが、義時追討令だけは、朝廷(後鳥羽上皇)の強い意志によって出されており、それだけに、朝廷主導のその義時追討が失敗し、それによって、鎌倉幕府が京都の朝廷を出し抜いて全国的な統一政権となり、以後、武家政権が全国を支配するという政治体制が、建武の新政などの一時期の中断を除いてほぼ途切れる事なくずっと、江戸幕府が崩壊するまで続く事になるわけですから、その歴史的な意味は極めて大きいものがあります。

そして、そういった事も踏まえて考えると、前述の「一個人として性格が良かったかどうか」なんてのは、歴史上の人物の偉業を論じる際には、別にどうでもよい事なのかもしれません。
そもそも性格の話なんかをしだしたら、日本史の偉人の中で絶大な知名度を誇る源頼朝、足利義満、織田信長、晩年の豊臣秀吉なども、もし自分の身近にいたとしたら、多分あまり近づきたくはないタイプですからね(笑)。

ちなみに、歴史学者の細川重男さんは、義時について、「義時の生涯は降りかかる災難に振り回され続けた一生であった。その中で自分の身と親族を守るために戦い続けた結果、最高権力者になってしまった」 「頼朝の挙兵がなければ、一介の東国武士として一生を終えたであろう」などと評しており、個人的には、こういった評価もなかなか興味深いです。
「鎌倉殿の13人」で、その義時がどのように描かれるのか、今からとても楽しみです♪


ところで、NHKからの今回の発表を受けて、鎌倉市の松尾崇市長は、以下のように喜びのコメントを発表しています。
「鎌倉幕府の礎を築いた北条義時公が主人公となった事を大変喜ばしく思っています。また、三谷幸喜氏作と聞いており、今からとても楽しみです。今後、本市としても大河ドラマの放映と連動した取り組みを進め、鎌倉が育む歴史文化の魅力発信やシティープロモーションにつなげて参りたいと考えています。」

それに対して、小田原市の加藤憲一市長は、NHKからのこの度の発表を受けて「率直に、がっくりきた」と、露骨に失望感をあらわにしたコメントを発表しています。
小田原市は、昨年までの2年間、小田原北条氏5代、所謂「後北条」の初代である伊勢宗瑞(北条早雲)の没後500年に合わせた顕彰事業を展開しており、その一環として、所縁の市町と共に後北条氏5代を大河ドラマに取り上げるよう要望活動にも取り組んできただけに、同じ県内が舞台で、しかも同じ「北条」が選ばれた事がショックだったようで、報道によると小田原市の関係者達からは、「手応えを感じ、期待していただけに残念」「同じ北条姓で、後北条は先送りになるのではないか」「落胆せずに、また粘り強く活動していく」などの声が出ているそうです。

今回の件で、鎌倉市と小田原市が示した反応は正反対で、まさに “大河ドラマ悲喜こもごも” です…。


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NHK大河ドラマ「太平記」完全版のDVDを入手しました!

本年から遡る事28年前の平成3年にNHKで毎週放送されていた、大河ドラマ第29作「太平記」の全話を収録した、太平記完全版DVDを、先日、ついに購入しました!

この完全版DVDは、DVD7枚組の「第壱集」とDVD6枚組の「第弐集」の二つのパッケージから成り、その二つに全49話が収録されています。
第壱集と第弐集を合わせると、そこそこいいお値段でしたが、「廃盤になる前に、いずれは必ず買わなければ!」とずっと思い続けいたものなので、ワタシ的には満足な買い物でした。

大河ドラマ「太平記」 DVD_01

大河ドラマ「太平記」 DVD_02

大河ドラマ「太平記」 DVD_03

言わずもがなですが、この大河ドラマ「太平記」は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての動乱期を、室町幕府初代将軍の足利尊氏を主人公に描いた、吉川英治晩年の大作「私本太平記」を原作とした作品で、当時30歳頃だった真田広之さんがその尊氏を清々しく演じました。
大河ドラマとしては初めて南北朝時代を本格的に取り上げた作品でもあり、私も、自分が今まで見た大河ドラマの中では、この太平記は最も好きな作品です。

とはいっても、実は放送当時、私はオンエアではこの作品はほとんど見ておらず(まだ子供だった当時の私は、戦国時代には興味がありましたが、太平記の時代にはあまり興味がなかったのです)、後に、再放送や、ビデオのレンタルカセットなどを観てハマったクチです(笑)。

真田広之(足利尊氏)

特に、作中での以下の人物は、私の中で今も強く印象に残っています。

信長や秀吉のような絶対的・専制的なリーダータイプではなく、よく迷い、戦に負ける事も多々あり、しかしなぜか時々 “謎のカリスマ” としか言いようのない神がかった強烈な魅力を発揮して周りを引きつけ、何だかんだで結局同時代の大多数の人達から支持された、足利尊氏
血気盛んで直情・短気な人物として描かれていた、高嶋政伸さんが演じていた足利直義
常に鎌倉幕府(特に長崎親子)から抑圧されながらも、尊氏を導き、動乱の足音を間近に聞きながら尊氏に後を託して病没した、緒形拳さんが演じた忍耐の人・足利貞氏
豪胆かつ奔放な性格で、これぞまさに「ばさら大名」の典型というような人物でありながら、有能で先読みする能力に長け、一見敵なのか味方なのかよく分らなそうな人物にも見えて結局何だかんだで最後まで尊氏を裏切る事はなかった、陣内孝則さんが好演した佐々木道誉
「南朝方の中心的な武将」「後世にも忠臣として名を馳せた大楠公」というよりは、「河内の気のいいおっさん」感のほうが前面に出ていて、それに加え、役者が武田鉄矢さんであった事からやはり「金八先生」感も強かった、楠木正成
「闘犬と田楽にうつつを抜かす暗君」という、従来から広く知られてきた人物像を忠実に再現しながら、演者である片岡鶴太郎さんの熱演・怪演が光っていた、北条高時
退廃した末期の鎌倉幕府を象徴するような人物で、貞氏や尊氏など足利氏を執拗にいじめ、フランキー堺さんが「本当に嫌なヤツ!」という嫌われ役を見事に熱演した、幕府の事実上の最高権力者・長崎円喜

これから、計13枚あるこれらのDVDを、時間のある時などにゆっくりと楽しみながら観ようと思います!


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京都にある史跡「足利義輝邸跡」と、義輝の壮絶な最期

本年の8月下旬、所用により、2泊3日の日程で関西に行ってきました。
主に京都・大阪・神戸を回ってきたのですが、京都では私一人だけで行動する時間が少しあったので、その際に、以前から一度訪れてみたいと思っていた、地下鉄烏丸線 丸太町駅の直ぐ近くにある「足利義輝邸跡」を、サクっと一人で見学してきました。

足利義輝邸跡_01

ここは、現在は「平安女学院」という学校の京都キャンパス(同学院の大学・高校・中学校・学院本部などが置かれています)の敷地の一部で、かつて義輝邸があった事などを示す石柱がただ立っているだけで、当時の面影は微塵もありませんが(そもそも室町幕府や足利将軍家関係の史跡は、金閣・銀閣・相国寺等持院などの一部を除くと、大抵はどこも往事の面影など全くありませんが)、かつてはこの地に、室町幕府第13代将軍の足利義輝が屋敷を構え、この地で将軍として政務を執っていました。

足利義輝邸跡_02

義輝は、近年は「剣豪将軍」として知られており、実際、室町幕府に限らず我が国の歴史に登場する歴代の征夷大将軍の中では、一個人が持つ剣技としては間違い無く最強の人物であったと私も思っていますが(一説によると義輝は、剣聖と称された塚原卜伝から指導を受けた直弟子のひとりで、その卜伝から奥義「一之太刀」を伝授された、とも云われています)、ここは、その義輝が壮絶な最期を遂げた場所でもあります。

足利義輝邸跡_03

義輝の最期は、いくつかの異説はあるものの一般には、概ね以下のようであったと伝えられています。但し、これについても、江戸時代後期以降に創作された武勇伝であるという説もありますが。

松永久秀と三好三人衆らは、邪魔な存在となった将軍・義輝を弑逆すべく、約1万の軍勢で義輝の屋敷を襲撃しますが、剣豪レベルにまで鍛えまくっていた義輝は自身で直接刀や薙刀を振るい、屋敷の中に入り込んできた軍勢を次々と斬り殺し、血や脂が付いて切れ味が悪くなると、自身の周囲の畳などにぶっ刺した予備の刀を握りしめてまた戦うなどしたため、松永勢はいつまで経っても義輝一人を討ち取る事が出来ませんでした。そこで、最後は四方から一斉に畳を義輝に覆い被せ、それらの畳の上から一斉に突き刺して義輝を殺害しました。

他にも、「大勢の槍刀によって傷ついて地面に伏せた義輝を、一斉に襲いかかって殺害した」とか、「槍で足を払われた義輝が倒れたところを、上から刺し殺した」とか、「義輝は自ら薙刀や刀で戦った後、自害した」などとも云われておりますが、兎も角、壮絶な最期だった事は間違いないようです。

ただ、義輝のこの壮絶な最期は、武勇伝として「剣豪将軍」の名を大いに高めはしましたが、一介の武士としてなら兎も角、全国の大名達を率いる征夷大将軍としては決して賞賛されるべき最期ではなく、武家の棟梁であるはずの将軍の権威が完全に失墜した事を全国に強く印象付ける事件となりました。


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九州国立博物館で開催されていた特別展「室町将軍展」を観てきました

前々の記事で述べた通り、私は先月下旬、九州へと行き、熊本県立美術館(熊本県熊本市)と九州国立博物館(福岡県太宰府市)でそれぞれ開催中の特別展を観覧してきました。

前回の記事では、その2つの特別展のうち、旅行1日目に観てきた熊本県立美術館の特別展「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」について詳述しましたが、今回の記事では、旅行2日目に観てきた九州国立博物館の特別展「室町将軍 戦乱と美の足利十五代」について、私の思った事などを記させて頂きます。

太宰府天満宮参道


旅行2日目(1泊2日の旅行なので最終日です)の朝、前夜宿泊した熊本市から九州新幹線、在来線、西鉄線などを乗り継いで太宰府市に着いた私は、先ず、京都の北野天満宮と共に全国の天満宮・天満神社・菅原神社などの総本宮として知られる「太宰府天満宮」を参拝・見学し(上の写真は、西鉄の太宰府駅からその太宰府天満宮へと伸びる参道で撮ったものです)、それから、同宮に隣接する九州国立博物館へと行って、同館で開催されていた特別展「室町将軍展」を観覧してきました。
そもそも今回の九州旅行は、九博でのこの特別展が観たくて企画したものだったので(しかもこの特別展は他都市には巡回しないので、この機を逃すともう観る事は出来ないのです)、観覧出来て良かったです!
私は、会場内では有料(500円)の音声ガイドも利用しながら、この特別展、じっくりと観てきました♪

特別展「室町将軍展」チラシ_01

特別展「室町将軍展」チラシ_02


ところで、実際に室町幕府が置かれた京都や、室町幕府と直接的な関わりは薄いものの足利氏発祥の地である栃木県の足利で、足利将軍に関する特別展が開催されたというのであれば普通に分りやすいのですが、なぜ、足利氏と特に関係が深そうではない太宰府の九州国立博物館でこの度の特別展が開催されたのかというと、それは主に、以下の2つの理由によるそうです。

後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、建武政権の発足後、後醍醐天皇に離反して九州へと逃れるが、多々良川を挟んで南朝方の菊池武敏らと対峙しその合戦に勝利した後は、太宰府原山に入って約1ヶ月間滞在し、そこで、尊氏に味方して軍忠を尽くした武士達の恩賞申請の受理や審査を行ったり、九州の反足利方の討伐指令を出すなどし、その後、尊氏は京を目指して快進撃を続け、結果、室町幕府が開かれる事となった。

九州国立博物館は「日本文化の形成をアジア的観点から捉える」という基本理念に基づいて博物館活動を行っており、室町将軍(特に第3代将軍の足利義満)が積極的に主導した東アジアとの交流や、それによって創出された新たな文化は、その後の日本に大きな影響を与えた。

…などの理由から、この度、九博ではこの特別展を開催する事にしたそうですが、前出の特別展ポスターには、「これって、義満が主人公の、義満についての特別展か?」と思える程、義満の木像顔面が際立つ形で掲載されているので、どちらかというと、②のほうが理由としては大きいのかもしれませんね。


今回の特別展では、足利将軍家の菩提寺として知られる京都の等持院が所蔵している足利歴代将軍の木像13体が、特別展に於ける “目玉” として出展・公開されましたが、現在その等持院は、耐震補強に伴う解体修理工事中のため、方丈(本堂)や、普段歴代将軍の木像が奉安されている霊光殿の拝観を停止しており、つまり、歴代将軍の木像全てを寺外に出展して貰うためには等持院が工事中の今が都合が良かった、といった事情も、もしかしたらあったのかもしれませんね。まぁ、これについてはあくまでも私の推測ですが。
ちなみに、足利歴代将軍全15人のうち等持院の将軍木像は、第5代の義量と第14代の義栄の2人を欠いているため13体で「全て」となり、その13体全てが等持院の外でこのように揃ったのは、今回が初めての事だそうです。

足利歴代将軍一覧_01

足利歴代将軍一覧_02

以下の写真6枚は、いずれも私が特別展の会場内で撮影してきた、その足利歴代将軍木像です。原則として会場内は写真撮影禁止でしたが、例外としてこれらの木像のみ、「ストロボ発光禁止」「所定の位置からのみ撮影可」という条件付ながら、カメラでの撮影が許可されていました。
全13体の歴代将軍木像が、半円状にズラっと横一列に並んでいる景観は、圧巻でした!

足利歴代将軍木像_01

足利歴代将軍木像_02

足利歴代将軍木像_03

足利歴代将軍木像_04

足利歴代将軍木像_05

足利歴代将軍木像_06


以下の画像2枚は、今回の特別展のチラシの一部と、会場で配布されていたワークシートです。興味深い内容となっておりますので、これらの画像も、是非それぞれクリックし拡大表示させて御覧になって下さい。

特別展「室町将軍展」チラシ_03

特別展「室町将軍展」ワークシート


上の2枚の画像では、どちらも、足利義稙(第10代将軍)と足利義澄(第11代将軍)の、いとこ同士でもある二人の将軍の対立がクローズアップされていますが、その二人の対立(特に、義澄から義稙への憎悪)を特に象徴するのが、今回の特別展でも展示されていた、下の画像の「足利義澄願文(石清水八幡宮文書)」です。

足利義澄願文(石清水八幡宮文書)

国の重要文化財にも指定されているこの文書は、第10代将軍の義稙(但し1回目の将軍在職時の名は義材で、義稙という名は、2回目の将軍在職時から名乗るようになった名です)が将軍職を更迭された「明応の政変」の後、細川政元らによって第11代将軍に擁立された義澄が、源氏一門の氏神とされる石清水八幡宮に奉納した、自筆の願文です。
願意の筆頭に、憚る事なく堂々と、今出川義材(いまでがわよしき)、つまり足利義稙の死去を挙げている事に、先ず驚かされます。現将軍が前将軍の死を神仏に願うなど、鎌倉幕府や江戸幕府の歴代将軍間の関係ではまず考えられない事でもあります。

義稙の父である足利義視は、その邸宅の所在地から「今出川殿」と呼ばれ、そのため義澄はこの願文で、義稙を「足利」ではなく「今出川」と記しているのですが、そこには自分こそが足利家の正統であるという強い主張が込められており、義稙へとの強烈な敵愾心が感じられます。
ちなみに、願意の二つ目は、義稙の弟で醍醐寺三宝院の前門主・周台の死去、3つ目は自らの威勢の伸張、4つ目は諸大名が上洛し自らの政権を支える事、5つ目は無病息災を願っています。

結局、義澄の願意は叶わず、義澄が「死んでくれ!」と願う程に忌み嫌っていた義稙は、大内家の軍事力や細川家の一部の勢力に支えられて上洛を果たし、将軍職をめぐって義澄と義澄との抗争が始まりました。そして、その抗争の最中、当の義澄は病死し、義稙側は合戦にも勝利したため、義稙は見事将軍への復職を果たしたのでした。
もっとも、折角将軍に復職した義稙も、結局は政権運営を投げ出して出奔し、事実上将軍職を奪われる形となり、逃亡先の阿波で病死するんですどね…。
ちなみに、実子のいなかった義稙が養子としていた義冬(義維)は、その後、平成29年10月30日の記事で詳述した「平島公方」(阿波公方)の祖となりました。


下の写真は、九博内で限定販売されていた、足利歴代将軍(とはいっても15人全員ではないんですけどね)の花押入りトートバッグです。
私の場合、今までトートバッグを使った事はほぼ全くないのですが、「なんというマニアックなトートバッグだ!」と感心して、特別展を見終えた後、自分自身へのお土産として特別展観覧記念に買ってきました。ちなみに、お値段はお手頃な1,600円也。
花押を知らない人が見たら、梵字が書かれているようなバッグに見えるかもしれませんね(笑)。

トートバッグ


というわけで、短かったですが、とても充実した九州旅行でした♪
しかし次に九州へ行く時は、やはり、少なくとも2泊くらいはしたいですね~。


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熊本県立美術館で開催中の、菊池一族についての特別展を観てきました

前回の記事で述べた通り、私は先週、九州へと行き、熊本県立美術館(熊本県熊本市)と九州国立博物館(福岡県太宰府市)でそれぞれ開催中の特別展を観覧してきました。

1泊2日という短い旅程で、福岡・熊本・太宰府の3都市を回ってきたので、かなりの“強行軍”であり“弾丸旅行”でしたが、主目的の特別展2つを観てきた他に、1日目は、熊本電鉄(菊池電車)の全線を乗車してローカル線の旅を楽しんだり、その日の夜は熊本市内在住の友人と数年ぶりに再会して一緒に飲んだりするなどし、2日目も、太宰府天満宮を参詣したり、博多の駅ビルや地下街を散策するなどし、かなり限られた時間だった割には目一杯楽しめたと思います♪


さて、今回の記事では、旅行1日目に私が熊本県立美術館本館2階の展示室で観覧してきた特別展「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」について、記させて頂きます。
この特別展では、阿蘇外輪山の尾ノ岳南麓を源流として有明海に注ぐ菊池川水系の本流で一級河川の「菊池川」の、流域一帯の歴史や文化、そこに根付いた信仰の形態、そして、菊池川流域に一大拠点を築いて九州屈指の精強な武士団となった菊池一族の盛衰についての、数々の貴重な史料・文化財等が展示されていました。

熊本県立美術館

特別展「菊池一族の戦いと信仰」チラシ_01


個人的には、やはり、南北朝時代に九州に於ける南朝勢力中核の武家として大活躍をした菊池一族についての展示が興味深かったです。
菊池一族は、熊本県の北部、現在の菊池市を中心に、平安時代後期から室町時代にかけての450年にも亘って活躍し、中央にもその名を轟かせた九州の一大豪族ですが、一族としての最盛期(所謂 征西府の春)を迎えた南北朝時代には、全国的な北朝有利の状況にあっても一貫として南朝の雄として戦い抜き、その志を一途に貫き通した事で、後の世にも語り継がれました。

以下のイラストは、この特別展が開催されていた熊本県立美術館の館内に置いてあった、菊池市発行の、その菊池一族についての紹介・概要解説のチラシです。菊池氏の歴代当主達が、現代的なアレンジを加えられてとても格好良く描かれています。

菊池一族のススメ_01

菊池一族のススメ_02

菊池一族のススメ_03


下図は、鎌倉幕府打倒の先陣をきった、鎌倉時代末期の菊池氏第12代当主・菊池武時の肖像です。上畳に座した入道姿で描かれているこの肖像画は、今回の特別展でも展示されていました。

菊池武時

鎌倉幕府滅亡の約2ヶ月前に当たる元弘3年の3月13日、西国(九州)統括のため鎌倉幕府の出先機関として現在の博多に設置されていた鎮西探題を、菊池武時は一族郎党を率いて襲撃し、大いに奮戦するものの、結局は、本人はもとより子息の頼隆や弟の覚勝ともども敗死し、二百余りの首級と共に晒されました。
しかし、同年5月7日に京都で六波羅探題(京都に於ける鎌倉幕府の出先機関)が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にも届くと、それまで鎮西探題に柔順であった少弐貞経、大友貞宗、島津貞久ら九州の在地勢力が鎮西探題に離反し、同月のうちに鎮西探題は攻め滅ぼされ、得宗の北条高時など主だった北条一門が鎌倉で自害し幕府が滅んだ3日後の5月25日に、最後の鎮西探題を務めた北条(赤橋)英時も博多で一族と共に自害して果てました。

つまり、鎮西探題は最終的には九州の在地勢力によって攻め滅ぼされるのですが、それに先駆けて行われた鎮西探題に対する武時の挙兵については失敗に終わり、武時は壮絶な最期を遂げたのでした。
しかし、武時の九州での挙兵は、後に楠木正成をして「忠厚尤も第一たるか」と言わしめ、後醍醐天皇の意向を受けて九州で初めて決起したという武時の判断は、半世紀以上にも及ぶ菊池一族と南朝の関係の “出発点” にもなりました。

武時の跡を継いだ菊池氏第13代当主の菊池武重が、建武政権の発足後、亡父・武時の功績を賞されて肥後一国を与えられ肥後守となったのを筆頭に、菊池武敏は掃部助、菊池武茂は対馬守、菊池武澄は肥前守というように、菊池氏は九州の一在地勢力ながらこぞって異例ともいうべき破格の恩賞を得、これによって菊池氏は、肥後国内の同列の在地勢力に対して優越的地位を公認され、以後の菊池氏の政治的立場と行動を決定付ける事になりました。

以上のような経緯から、当人にとって敗死は “無念な最期” であったろうとは思いますが、その後一族に与えた多大な影響という観点からは、武時は菊地氏にとっては「中興の祖」的な、“偉大な御先祖様” であったといえそうです。
ちなみに、明治政府が南朝を正統とする立場であった事などから、武時は没後570年近く経った明治35年、明治天皇より贈従一位に叙され、同日、子の菊池武重(菊池氏第13代)と菊池武光(菊池氏第15代)も、それぞれ贈従三位に叙されています。


下の写真は、菊地一族関係のものではありませんが、私が今回の特別展で撮影してきた太刀「銘 来国俊」(めい らいこくとし)です。会場内は原則として写真撮影禁止ですが、例外としてこの太刀のみ、撮影が許可されていました。

大太刀

この太刀は、菊池氏と共に足利尊氏と戦った阿蘇氏第10代当主・阿蘇惟澄(あそこれずみ)が多々良浜の戦いで使用した、「蛍丸」と称される、来国俊作の大太刀の写しで、昭和50年に復元されたものです。
原品は、近代に旧国宝(現国指定重要文化財)に指定され、第二次大戦中は地元警察に預けられていましたが、戦後行方不明となり、GHQが民間から接収した刀剣類の中に蛍丸が含まれていたとも云われていますが、詳細は不明です。

ちなみに、阿蘇氏も、菊池氏同様南朝方として戦った、九州に於ける有力な豪族で、式内社・肥後国一宮・官幣大社の「阿蘇神社」の大宮司職を継承する社家でもありました。


下図は、今回の特別展のチラシの一部で、このチラシにも写真が掲載されているように、この特別展には、菊池一族の「代表的な敵役」として、足利尊氏の木像も展示されていました。
大分県国東市の安国寺が所蔵する、国の重要文化財にも指定されているこの等身・束帯姿の尊氏像は、尊氏の彫像としては現存最古とされており、垂れ目の穏やかな面貌が特徴的で、像主の面貌を忠実に写したと推察されています。

特別展「菊池一族の戦いと信仰」チラシ_02

ちなみに、菊池一族と尊氏が対決した合戦は、箱根竹ノ下の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いなどがよく知られており、そのいずれも、尊氏方の勝利で終わっています。


今回の特別展、北海道ではまず開催される事も観る機会も無いであろう、菊地氏所縁の地である熊本県ならではの特別展だったので、私としてはとても興味深く、面白かったです!
今回の旅行では時間の都合上行けませんでしたが、平成26年1月20日の記事でも述べた通り、熊本県菊池市には、菊池氏の当主 武時(第12代)・武重(第13代)・武光(第15代)の父子を主祭神として祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀している「菊池神社」が鎮座しており、次に熊本県を訪れた際は、菊池家所縁のその菊池神社へも是非行ってみたいです。


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