この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

後醍醐天皇をお祀りする吉野神宮を参拝してきました

私は今月の初め頃、2泊3日の日程で、関西(主に吉野・京都・大阪など)を旅行してきました。
2日目の朝からお昼にかけては、日本を代表する桜の名所としても知られる、奈良県の吉野方面を車で回ってきたのですが、その際、同県吉野町に鎮座する吉野神宮にも立ち寄り、同神宮を参拝・見学してきました。

吉野神宮は、南北朝動乱の悲史に於ける主人公のおひとりで、天皇親政による「建武の新政」(建武の中興)を行い、その後吉野に南朝を開かれて京都の北朝や室町幕府と戦われた、太平記でお馴染みの第96代・後醍醐天皇を主祭神としてお祀りするお宮です。
下の画像は、日本史の教科書にもよく掲載されている、その御醍醐天皇の肖像画です。いくつか伝わっている御醍醐天皇肖像の中でも特に有名な画像で、法服である袈裟を着て密教の法具を両手に持たれており、天皇としてはかなり“異形”なお姿で描かれています。また、天皇の上方(頭上)には、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三社託宣が掲げられています。

後醍醐天皇

歴代天皇の中でも傑出した政治力とカリスマ性を発揮され、天皇親政・公家一統の政治の実現を只管目指されて武家政権と激しく対立し続けるも、遂に京都奪還を達し給わず御無念のうちに吉野の山奥に崩ぜられた後醍醐天皇の崩御から550年が経った明治22年(大日本帝国憲法が発布された年)、かつて南朝の本拠であった吉野山で後醍醐天皇の御霊を慰撫するため、明治天皇が吉野神宮の御創立を仰せだされ、それを受けて明治25年に御鎮座祭が執り行われて、吉野神宮は創建されました。
最後の武家政権である江戸幕府が倒れて明治時代に入ると、かつて天皇親政を目指した南朝が再評価されるようになり、南朝関係者をお祀りする神社が全国にいくつも創建されましたが、吉野神宮は、南朝最大の中心人物である後醍醐天皇をお祀りしている事や、旧社格が最上位の「官幣大社」であった事などから、そうした「建武中興十五社」の中でも、筆頭に位置付けられました。
吉野神宮は、創建が近代なのでお宮としての歴史は然程深いとはいえないものの、以上のような経緯を持つ、南朝所縁のお宮なので、昔から太平記が好きな私としては、一度は訪れてみたいお宮でした。

なお、現在の同神宮境内地は、元々は丈六山一の蔵王堂があり、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のため挙兵された大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が吉野山に陣を構えられた際、鎌倉幕府方の侍大将二階堂道蘊(どううん)に占領されて本陣になった場所、と伝えられています。

吉野神宮_01

吉野神宮_02

南朝所縁のお宮だけあって、吉野神宮の境内に鎮座する各摂社の御祭神も、やはり、後醍醐天皇にお仕えした南朝の公家や武将達です。
具体的には、藤原(日野)資朝、藤原(日野)俊基、児島範長、児島高徳、桜山茲俊、土居通増、得能通綱の7柱が、御影神社・船岡神社・瀧櫻神社の3社で、それぞれ御祭神としてお祀りされております。

吉野神宮_03

吉野神宮は、明治25年の御鎮座から僅か30年で境内が手狭となり、神域を拡張して主要な社殿も一新する事になりました。
そのため現在の社殿は、いずれも大正11年から昭和7年にかけて改築造営されたもので、特に、三間社流造りの本殿、入母屋造りで銅板葺きの拝殿、切妻造りの神門、それを取り囲む玉垣などは、昭和(戦前)の近代神社建築を代表する様式となっています。

吉野神宮_03b

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吉野神宮_06

ところで、神社の社殿(本殿・拝殿など)は、ごく一部の例外を除いて、そのほとんどは南か東を向いて建てられるのが通例ですが、吉野神宮の社殿は、珍しく北を向いています。
これは、御祭神の後醍醐天皇が、京都への御帰還を強く熱望されながらも南朝の勢力衰退によりそれが叶わず崩御されたため、後醍醐天皇のその心情を酌んで、北、即ち吉野から見た京都方面に向けられた事に因ります。
全く同じ理由から、後醍醐天皇の勅願寺であった如意輪寺の裏山に築かれた塔尾陵(後醍醐天皇の御陵)も、皇室の墓陵の中では唯一の北向きとなっております。

下の画像は、後醍醐天皇の崩御の様子が描かれたものです。御病気が重く、最早再起は不能と御自覚された後醍醐天皇は、義良親王(後村上天皇)に譲位され、御遺勅として、南朝関係者一同に新天皇に忠義を尽くすよう命じられ、その翌日、吉野の行宮にて波瀾万丈の御生涯を閉じられました(宝算52)。

後醍醐天皇の崩御

今回私は、左右に回廊が延びる拝殿の奥にある幣殿(下の写真の看板では便宜的に本殿と書かれていますが)に昇殿し、そこで玉串拝礼もさせて頂きました。
具体的には、「修祓、玉串拝礼、塩湯で祓い」という次第で、白衣・白袴の年配の神職さん(狩衣や格衣などは着装されていませんでした)が立礼にて御奉仕して下さいました。 本殿の間近という事もあって、更に御祭神の御神威を感じ、とても厳粛な気持ちになりました。

吉野神宮_07

太平記によると、後醍醐天皇は「たゞ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)玉骨は仮ひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という鬼気迫るお言葉を遺されて、左手には法華経の五巻を、右手には御剣を持って崩御されたとあり、その最期の御様子からも、只管北天を望まれる天皇の激烈なる御気迫が伝わってきます。
まして、前出のように御自分でその想いを「妄念」と仰せられるくらいですから、私としては、吉野神宮には後醍醐天皇のその妄念や御無念の想いが今なお滞留し、失礼ながら、どこかおどろおどろしい陰気な雰囲気が漂っているお宮なのかな、という気もしていたのですが、実際にお参りしてみると、その思いとは正反対で、実に明るく清々しい、開放的な雰囲気のお宮でした。

その吉野神宮の代表的な御利益(御神徳)は、厄除け、合格祈願、病気平癒、家内安全との事です。
幾多の艱難辛苦を重ねられながらも、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権を打倒すべく精力的に活動された御醍醐天皇の芯の強さは、参拝者にも厄除けなどの恩恵をもたらすといい、また近年は、心の浄化にも効果があると云われているそうです。
崩御から六百数十年という長い時を経て、後醍醐天皇の妄念も、今はもうすっかり浄化されたのかもしれません。


ちなみに、南朝関係のスポットとしては、今回訪問の吉野神宮以外だと、私は過去に以下の社寺や関連史跡等を訪れています。

【平成27年1月】
生前は敵対関係にあった楠木正行・足利義詮両名の菩提寺である、京都の嵯峨野にある宝筐院
南朝の重鎮として活躍した北畠親房・顕家父子をお祀りする、大阪市阿倍野区に鎮座する阿部野神社
【平成25年11月】
太平記での代表的なエピソードのひとつ「桜井の別れ」の舞台となった、楠公父子別れの伝説地として有名な、大阪府島本町にある櫻井驛跡
【平成23年6月】
後の南朝の有力武将となる新田義貞が、ここから海岸に沿って鎌倉へ討幕の軍勢を進めたと伝わる、鎌倉市南西部の稲村ヶ崎
後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕に多大な貢献をした護良親王をお祀りする、鎌倉市二階堂に鎮座する鎌倉宮。
【平成14~15年】
大楠公とも称される楠木正成をお祀りする、神戸市中央区に鎮座する湊川神社
小楠公とも称される楠木正行をお祀りする、大阪府四條畷市に鎮座する四条畷神社。


下の写真は、吉野神宮の境内に立てられていた、建武中興十五社の案内看板です。

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熊本・大分両県での地震災害お見舞い

今月14日に発生し、今なお依然として強い余震が続いている「熊本地震」によって被災された皆様方に、謹んでお見舞いを申し上げます。

今回の熊本地震は、気象庁が昭和24年に「震度7」の震度階級を設定してからは、平成23年に発生したあの東日本大震災(地震名は東北地方太平洋沖地震)に続いて国内では4回目、九州では初となる最大震度7の激震でした。
活断層が引き起こしたマグニチュード7.3の直下地震である点、木造家屋に大きな被害を出しやすい周期1~2秒のパルス状の揺れが強い点など、平成7年に発生した阪神・淡路大震災(地震名は兵庫県南部地震)とよく似た地震で、この度は熊本・大分両県を中心に九州北部の広範囲に亘って各地に大きな被害をもたらしました。
倒壊した住宅の下敷きになったり土砂崩れに巻き込まれるなどして、大変残念な事に、現在までに40名以上もの死亡が確認されています。避難所での病死等の関連死も含めると、死者の数はもっと多くなります。
お亡くなりになられた方々の御霊の安らかならん事を、衷心よりお祈り申し上げます…。


なお、宮内庁のホームページによると、天皇皇后両陛下は発災翌日の15日、熊本県の蒲島郁夫知事に対して、被害についてのお見舞いのお気持ち、災害対策に従事している関係者に対するお労いのお気持ち、被災者の健康を御祈念するお気持ちを、侍従長を通じてお伝えになられました。以下(鉤括弧内緑文字)がその全文です。
天皇皇后両陛下には、昨夜の熊本県を震源とする大地震により、多数の死傷者、避難者が発生するなど県民生活に大きな被害が生じていることに大変お心を痛められ、犠牲者に対するお悼みと被害を被った人々へのお見舞いのお気持ち、並びに災害対策に従事している関係者に対するおねぎらいのお気持ちを知事にお伝えするようにとの御意向でした。まだまだ、朝夕寒い季節であるので被災者をはじめ人々の健康を祈っておられます。以上、謹んでお伝えします。

歴史的にみても、天皇陛下は、一時の例外を除きほぼ常に、世俗的な権力とは無縁で、権力よりも上位に君臨する宗教的な最高権威、つまり、公正無私な祭祀王として只管“国の平安と国民の安寧を祈る”という超越的な御存在であり、その伝統は今も変わる事なく連綿と続いている、という事がよく分かる事例です。
このブログで度々取り上げている南北朝期の後醍醐天皇は、中世以降の歴代天皇としては珍しく、政治的な権力と宗教的な権威の両方を兼ね備えた天皇でありましたが。

ちなみに、念のために一応補足しておくと、両陛下が15日に熊本県の知事にだけお気持ちをお伝えになられたのは、その時点ではまだ、大分県など他県での被害はほとんど報告されていなかったためです。


ところで、熊本・大分両県では、この度の地震により伝統的建築物や歴史的文化財等も大きな被害を受けました。
国の特別史跡でもある熊本城では、全国ニュースでも既に大きく報じられているように、天守閣の屋根瓦が崩れたり、屋根の上にあったしゃちほこが落下したり、石垣もいくつかの場所で崩れたり、更に、築城当初から残っていた重要文化財の東十八間櫓・北十八間櫓が倒壊して隣の熊本大神宮の社務所を押し潰すなどしました。
また、肥後国一宮で旧官幣大社の阿蘇神社(熊本県阿蘇市)でも、重要文化財の楼門と拝殿が全壊し、大分県でも、岡城跡(竹田市)、岡藩主中川家墓所(竹田市)、旧竹田荘(竹田市)、角牟礼城跡(玖珠町)、鬼の岩屋古墳(別府市)などで一部に亀裂やズレが生じるなどの被害が発生しました。

私は一昨年1月20日の記事「南朝の天皇・皇族・武将をお祀りする神社」の中で、建武中興十五社会の神社を紹介させて頂きましたが、その15社のうち、後醍醐天皇の皇子で九州に於ける南朝方の全盛期を築いた懐良親王をお祀りする「八代宮」(熊本県八代市松江城町)と、後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉幕府の鎮西探題を襲撃するもののその戦で敗れて討たれてしまった菊池武時などをお祀りする「菊池神社」(熊本県菊池市大字隈府)の2社は、いずれも九州、しかも、今回の地震で特に大きく被災した熊本県内に鎮座しております。
この2社のうち、八代宮の被害状況は現時点ではまだ不明ですが、菊池神社については、電子掲示板「神道青年全国協議会 災害対策掲示板」への書き込みによると、倒壊まではいかないものの社殿に酷い歪みが生じているとの事です。

これ以上犠牲者が増える事のないようにという事と、大変困難な状況に陥る事を余儀なくされた被災者の皆様方の一日も早い生活の再建、そして、この記事で取り上げた史跡や神社仏閣のみならず被災地の各所が一刻も早く復旧・復興されます事を、改めて心より御祈念させて頂きます。


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足利市の鑁阿寺に残る、足利将軍へのかつての尊崇・信仰の形

前回の記事で述べたように、私は先月下旬、栃木県足利市に行ってきたのですが、私が足利市で見てきたいくつかのスポットの中で、個人的に一番興味深かったのは、足利学校のすぐ近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)という古刹でした。
現在の鑁阿寺は、真言宗大日派の本山で、「足利氏宅跡」として境内全体が国の史跡に指定されており、四方に門が設けられ土塁と堀がめぐらされているなど平安時代後期の武士の館の面影が残されている事から「日本の名城百選」のひとつにも選ばれています。
また、本堂は国宝に、境内にあるその他の堂宇も国の重要文化財や県もしくは市の文化財などに指定されており、歴史的建造物としても大変貴重なお寺です。

下の写真2枚は、その鑁阿寺を今回参拝・見学した際に私が撮影してきた、県の指定文化財でもある楼門(山門)と、国宝に指定されている大御堂(本堂)です。
楼門(下の写真の1枚目)は、室町幕府第13代将軍の足利義輝が室町時代後期に再建したもので、大御堂(下の写真の2枚目)は、源姓足利氏2代目で鑁阿寺を開創した足利義兼が鎌倉時代初期に建立し、鎌倉時代後期に足利尊氏の父・貞氏が再建したものです。

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楼門と大御堂、どちらの屋根の上にも、足利家の家紋である「丸に二つ引(足利二つ引)」が入っており、金色に光り輝いています。

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前出の足利義兼が邸宅内に持仏堂を建てたのが鑁阿寺創建の由緒とされており、鎌倉時代以降、次第に本格的且つ大規模な寺院として整備されていき、室町時代には、京都の足利将軍家や、鎌倉公方足利家により、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
現在は、平成26年7月2日の記事で紹介させて頂いた「全国足利氏ゆかりの会」の会員ともなっています。


ところで、私が今回鑁阿寺を参拝・見学してきて、現地で「おおっ、これは!」と特に括目したのは、大御堂の裏手に建つ「御霊屋」(おたまや)と、その直ぐ隣に建つ「大酉堂」(おおとりどう)です。

下の写真4枚はいずれも御霊屋で、鑁阿寺という寺院の境内に建つ建物ではありますが、これは仏教建築ではなく、明らかな神社建築であるのが特徴です。手前側にある入母屋造りの拝殿と、その奥に鎮座する一間社流れ造りの本殿の2殿を中心として、全体が、正面の神門と連なる瑞垣で囲まれています。
御霊屋の当初の建物は鎌倉時代に建てられましたが、現在のものは、江戸時代に江戸幕府第11代将軍 徳川家斉が寄進したものです。

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御霊屋の神門前に立てられている解説板によると、この御霊屋は、当初は足利大権現と称され、本殿では「源氏の祖」」を御祭神としてお祀りし、拝殿内には、歴代足利将軍15人全員の木像がお祀りされていたそうです(現在は、その15体の歴代将軍の座像は、いずれも鑁阿寺の経堂内に移されています)。
また、本殿の直ぐ裏には、鑁阿寺を開創した足利義兼の父・義康と、その父(つまり義兼の祖父)である義国二人のお墓もあります。下の写真がそのお墓で、本殿の直ぐ真裏、瑞垣の内側にあります。本殿御祭神の「源氏の祖」というのは、この二人の事らしいです。

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神道は、何よりも清浄を尊び、人の死や遺骸などは「不浄」や「ケガレ」として捉えるため、本来の神社であれば、本殿とお墓が隣接して建つという事はまずほとんど有り得ないのですが、ただ、久能山東照宮の廟所、日光東照宮の奥宮、といった例外もあるので(これらの二例はいずれも、御祭神のお墓と本殿が極めて近接しています)、本殿とお墓が隣接しているのが必ずしも絶対にアウト、というわけではないのでしょう。
そもそもこの御霊屋は寺院の境内に建つ、非常に神仏習合色の濃いお宮なので、どのみち普通の神社とは性格が異なりますし。


そして下の写真は、御霊屋の直ぐ隣に建つ大酉堂です。こちらは御霊屋とは違い、神社建築ではなく、他の堂宇と同様、仏教本来のお堂の形式が採られています。
大酉堂の前に立てられている解説板によると、このお堂は、元々は足利尊氏をお祀りするお堂として室町時代に建立されたもので、江戸時代や明治時代初期の鑁阿寺伽藍配置図には「足利尊氏公霊屋」と記載されていたそうです。このお堂には、御霊屋の拝殿内にお祀りされていた束帯姿の尊氏座像とは別の、甲冑姿の尊氏像も、お祀りされていたそうです。
しかし明治時代中期以降、尊氏を逆賊とする歴史観が台頭してきた事により、大酉堂の尊氏像はここから本坊に移され、それに代わって、俗に「おとり様」と称される、武神でもある大酉大権現が御本尊になったのだそうです。現在、大酉堂と称されているのはそのためです。

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私は平成26年1月20日の記事の中で、以下のように書いた事があります。
ところで、このように南朝系の神社が団結しているのに対し、北朝系の神社というのは、具体的に団結もしくは何らかの活動をしているのでしょうか。歴史的に足利氏と縁が深いという神社はたまに聞きますが、北朝の天皇・皇族や、足利一門を御祭神としてお祀りしている神社というのは、もしかするとどこかにあるのかもしれませんが、生憎私はまだ一度も聞いた事がありません…。
一般に北朝が正統とされていた時代(室町時代から江戸時代中期頃にかけて)であれば、むしろ、南朝系よりも北朝系の神社があるほうが自然だったはずですから、現在、北朝系の神社をほぼ全く聞かないというのは、尊氏が逆賊視されるようになった明治以降に、そういった神社が廃祀されたり、もしくは御祭神を変更したりといった事があったのかもしれませんね。

こういった事を踏まえて、私は、南朝方の天皇・皇族・公家・武将ではなく、北朝方(足利氏や北朝を支援した室町幕府の武将も含む)が信仰対象となっている社寺が無いものか、ずっと探していたのですが、それを、今回の足利市探訪で、鑁阿寺にて漸く見つける事が出来たのでした。

御霊屋は、足利将軍が本殿の主祭神としてお祀りされていたわけではないものの、かつては御霊屋自体が足利大権現と称されていて、拝殿内には歴代の足利将軍像がお祀りされていたとの事ですから、歴代の足利将軍も恐らく信仰の対象、もしくはそれに近い存在として扱われてはいたのでしょう。
ここで言う「歴代の足利将軍像がお祀りされていた」というのが、祀るという字面通り、本当に信仰対象として、配神もしくはそれに準じる御神霊の依代としてお祀りされていたのか、それとも、奉安場所が本殿ではなくあくまでも拝殿なので、単に御神宝や威儀物等に近いような位置付けでそこに奉納されていたのか、その点は不明ですが、歴代の足利将軍像がいずれも比較的綺麗な状態で現存しているらしい事から、兎も角、いろいろな人達の思いを受けながら時代を超えて大切にされてきたのは確かといえそうです。

そして大酉堂は、御祭神としてではないものの、前述のように、はっきりと尊氏が(具体的にどういった形でかは不明ですが、恐らくは神式ではなく仏式で)お祀りされていたようです。
御霊屋と大酉堂それぞれのかつての位置付けは、御霊屋が源氏の祖と歴代の足利将軍全員の霊廟、大酉堂が室町幕府初代将軍である尊氏個人の霊廟、という感じだったのかもしれませんね。

北朝の天皇・皇族・公家や、室町幕府の将軍・武将などをお祀りする社寺は、現在でこそ、その数はほぼ皆無に近いですが、明治時代よりも前の時代は、やはりもっとあったのでしょう。私は今回、鑁阿寺で、その名残を見る事が出来ました。
南朝の天皇・皇族・公家・武将をお祀りする社寺などは、それと反比例して、逆に明治時代以降に多くなったのではないかなと思います。


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栃木県足利市と足利尊氏の関係

私は先週、1泊2日の日程で、東京・栃木方面を旅行してきました。
今回栃木県へ行ったのは、前々から一度は訪ねてみたいと思っていた、同県の足利市を訪問し、市内にいくつかある足利氏所縁の場所や物等を見学するためです。

足利市は、関東平野突き当りの、楓の葉のように広がる山と裾野に位置する、清和源氏 義家流四男・義国からの足利氏所縁の地です。
かつて足利荘と称されたこの辺りは、平安時代末期に足利義兼が源頼朝の縁戚として鎌倉幕府創設に尽力して以降、有力御家人となった足利氏の本貫地として発展し、南北朝時代に足利尊氏が京都で幕府を開いて以降は、足利将軍家発祥の聖地として、幕府の直轄地となりました。
絹の産地として、近世近代に於いては織物業が発達した街でもあります。

しかし足利は、確かに足利氏所縁の地ではあるのですが、歴史的にみると、実は足利尊氏所縁の地とはいえません。尊氏自身は丹波国(現在の京都府綾部市)で生まれ、鎌倉で育ち、建武の新政以後はほぼずっと京都に拠点を置いており、彼自身は一度も足利を訪れた事が無いからです。
戦の都合とはいえ、尊氏は九州など、鎌倉や京都からみるとかなり遠い所にも行っているのですが、鎌倉と同じく関東地方であるはずの足利には一度も足を踏み入れていない事から、尊氏自身も足利という土地には特に強い思い入れは無かったのかもしれません。

つまり足利という地は、尊氏個人や足利将軍家所縁の地というよりは、尊氏の父・貞氏以前7代の足利家所縁の地、と云ったほうが、より正確かもしれません。
勿論、前述のように室町幕府も足利を特別な地として保護し、将軍家から足利の社寺への寄進等も行われてはいましたが、実際には、その立地関係から、むしろ足利は、足利将軍家よりも鎌倉公方足利家との関わりのほうが深かったようです。

というわけで、現在の足利には、本来であれば尊氏所縁のものは然程多くは無いはずなのですが、なぜか足利市内には、尊氏に関するものがいろいろとあります。
今回の記事では、私が足利市内で見てきた、それら尊氏と関係のあるものを紹介致します。


まずは、束帯姿の足利尊氏像です。
足利市のランドマークともいえる、日本最古の学校で日本遺産にも指定されている「足利学校」の直ぐ近くに立っており、台座には「征夷大将軍足利尊氏公像」と記されています。
日本史の偉人の一人ではあっても、足利という郷土の偉人というわけではない尊氏のこの像を、足利市民はどのように思っているのでしょうか。

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足利学校の近くには、平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」の放送を記念して建てられた「太平記館」という観光案内所・お土産屋さんがありました。
この建物の名前を見た時、「あれ、足利って太平記の舞台になっていたっけ?」という疑問が一瞬過りましたが、そういう細かい事は言わない約束です(笑)。

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太平記館の中には、NHK大河ドラマ「太平記」で主人公・尊氏の役を演じた真田広之さんが、劇中で実際に着装していた甲冑一式が展示されていました。これが足利市に置いてある必然性については兎も角、これはこれでなかなか興味深い展示物でした。

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太平記館では、足利市のイメージキャラクター「たかうじ君」のグッズも売られていました。
足利市の公式ホームページによると、「足利学校の学校門と足利尊氏公の兜(かぶと)をかたどった帽子をかぶり、手には織物を持ち、足利市章を盛り込み、足利市をキャラクター全体で表現しています」との事です。
足利市が足利氏と歴史的に関係が深いのは確かなので、足利一門を代表する人物を市の象徴として使いたいというのは分かりますが、尊氏よりも前の世代の足利さんだと、誰を起用した所で知名度ではやはり尊氏に負けてしまうため、ここでも、あえて尊氏の名前を使う事にしたのでしょう。

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ちなみに、前出の「足利学校の学校門」というのは、下の写真の門の事です。今回、私は足利市には約3時間半滞在し、足利学校も見学してきました。
学校門に掲げられている扁額「學校」の文字は、明人の蒋 龍渓(しょうりゅうけい)が弘治元年(1555年)に来日した時の書を、当時の国史館の狛庸(こまやすし)が縮模したものだそうです。たかうじ君の額に記されている「學校」という旧字は、この扁額からきています。

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足利市中心部を東西に走るメインストリートのひとつである中央通り(旧国道50号)には、「尊氏通り」という愛称が付けられていて、尊氏通りの歩道には、その名称と尊氏の花押が刻印されたプレートが数メートルおきに埋め込まれていました。
室町時代なら、尊氏の花押の上を通行人が歩く(場合によっては踏みつける)なんて当然許されなかったでしょうね(笑)。

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というわけで、現在の足利市に、直接尊氏に関する史料・史跡等はほとんど残っていないものの、比較的最近になって作られた、尊氏に関するものはいろいろとあり、今回の旅行ではそういったものについても楽しみながら見てきました。
ちなみに、「足利氏宅跡」として国の史跡にも指定されている、足利市内の鑁阿寺(ばんなじ)というお寺には、足利家歴代大位牌、尊氏を含む歴代足利将軍15人の木像、尊氏直筆の書状など、直接尊氏に関わるものが現在もいろいろと保管されている事も、最後に一言補足しておきます。


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高幡不動尊の上杉堂

私は先週、2泊3日の日程で、東京・熱海・浜松方面を旅行してきました。
東京では、いつも通り区内の神社・仏閣・史跡等をいくつかまわってきましたが、今回は区外の日野市にも足を伸ばし、同市高幡にある、関東三大不動のひとつ「高幡不動尊」も参拝・見学してきました。
ちなみに、一般に広く知られている高幡不動尊という名は通称で、寺院としての正式名称は「真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺」と云います。

日野は、江戸時代末期の京都や明治時代初期の戊辰戦争などで活躍し今も人気の高い、新選組副長・土方歳三の出身地としても有名なため、高幡不動尊も、歴史好きの人にとっては新選組関係のスポットとして知られており、実際、高幡不動尊境内には隊服姿の土方歳三の像が立っています。
実は私も個人的に土方歳三は結構好きで、過去には土方所縁の地を何か所も訪ねてもいます(具体的には、京都の壬生寺・西本願寺・金戒光明寺・旧八木邸・旧前川邸・池田屋事件跡・伏見奉行所跡、会津の鶴ヶ城・旧滝沢本陣・近藤勇の墓・清水屋旅館跡・会津新選組記念館、函館の五稜郭・土方歳三最期の地碑・土方歳三凾館記念館など)。

高幡不動尊の土方歳三像


しかし、今回の高幡不動尊参拝・境内散策で、特に私の目を引いたのは、正面に「上杉憲顕公墳」という篇額が掲げられている小さなお堂でした。「上杉堂」「上杉憲顕の墳」などとも称されているこのお堂は、その名が示すように、上杉憲顕という武将の墓所です。

高幡不動尊の上杉堂_1

高幡不動尊の上杉堂_2

一般に上杉憲顕というと、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍し、初代関東管領を務めた、山内上杉家の始祖となった上杉憲顕を思い浮かべる人が多いと思いますが、この上杉堂で祀られている上杉憲顕は、その憲顕とは同名の別人で、室町時代中期の、犬懸上杉家のほうの上杉憲顕です。
はっきり言うと、初代関東管領の上杉憲顕に比べるとかなりマイナーな人物で、しかも、この人物を漢字で表記する場合、大抵は「上杉憲秋」と表記される事のほうが多いので、同名二人の混同を防ぐため、この記事でも以降は憲秋と表記します。


憲秋に関しては、現在学校で習う日本史に於いては、当人よりもその父親であり関東管領も務めた上杉氏憲、通称・上杉禅秀のほうが名前を知られています。禅秀は、俗に云う「上杉禅秀の乱」という戦乱を起こした人物であるからです。
上杉禅秀の乱とは、簡潔にまとめると、犬懸上杉家の上杉禅秀が、主君である第4代鎌倉公方の足利持氏から関東管領を更迭され、自分とは対立関係にあった山内上杉家の上杉憲基が次の関東管領に任じられた事から、それを恨んで、足利持氏に対して起した反乱です。
挙兵した禅秀の軍勢は、一時は鎌倉を制圧下に置くなど善戦しますが、足利持氏と上杉憲基らはその直前に鎌倉の脱出に成功し、持氏は駿河の今川範政の元に逃れ、そこから幕府に援助を求めました。室町幕府第4代将軍 足利義持は、その求めに応じて持氏・憲基らを支持する事を決定し、禅秀討伐の軍勢を差し向け、これにより、駿河や相模などで、幕府・鎌倉公方・関東管領の連合軍と、前関東管領(禅秀)の軍が衝突します。
結果は、禅秀が敗北し、禅秀は鎌倉雪ノ下で自害し、この敗北から犬懸上杉家は没落しました。

憲秋はその禅秀の子で、上杉禅秀の乱では父に従って一軍を率いて足利持氏と戦いましたが、病のため途中で戦線を離脱して京都へと逃れたため、この戦乱では命を落とす事はありませんでした。
しかし関東ではその後、「享徳の乱」が勃発します。この乱は、第8代将軍 足利義政の時代に起こった関東地方に於ける大規模な内乱で、第5代鎌倉公方で後に初代古河公方となる足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を暗殺した事に端を発して、幕府、鎌倉公方(古河公方)、山内上杉家、扇谷上杉家などが争い、その戦火は関東地方一円に拡大し、関東に於ける戦国時代到来の遠因ともなりました。

憲秋は、その享徳の乱の初戦に於いて、足利成氏(憲秋にとっては、父の仇である持氏の子)を討伐するため、扇谷上杉家の上杉顕房や、長尾景仲らと共に転戦し、先陣も務めたものの、成氏の猛攻の前に立川河原で破れ、最期は深手を負って高幡寺に入り、そこで自刃して果てました。
憲秋のその最期の地が、現在の高幡不動尊で、高幡不動尊境内に憲秋の墓所である上杉堂が建っているのは、そういった経緯によるものです。

高幡不動尊の上杉堂_3

上杉堂の堂内中央に安置されている自然石は、「茶灌石」(ちゃそそぎいし)、「茶湯石」などと称され、憲秋の墓標とされています。
壁に立てかけられている沢山の塔婆、あちこちから吊るされている千羽鶴、壁や柱に貼られている多くの千社札、お供えされている綺麗な花、清掃が行き届いている様子など、堂内の現況からは、ここには今も信仰が根付いているんだなという事が感じられました。ただ、その信仰は、上杉憲秋という武将個人に対してというよりは、堂内の仏像や茶灌石に対してのものなのかなとも感じましたが。


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