この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

結局のところ、室町幕府は強かったのか?弱かったのか?

前回の記事では、「有力な守護大名の台頭や、鎌倉公方の度重なる反逆などにずっと悩まされながらも、どうして室町幕府は二百数十年も存続する事が出来たのか?」「そもそも、二百数十年も続くような長期政権は、脆弱と言えるのか?」という問題提起をし、つまり、従来の弱々しいイメージとは違い、「室町幕府って、実は結構強大な政権だったのではないか?」という可能性を示しました。
しかし、一般的には、室町幕府に対してはやはり「全国的な統一政権としては非常に脆弱」「統制力や実行力の欠けた弱々しい政権」「統率力が無かったからこそ、戦国時代を招いてしまった」というイメージが定着しています。

では、結局のところ、室町幕府は強大で強力な政権だったのでしょうか、それとも脆弱で実行力の無い政権だったのでしょうか。

室町幕府の組織図


先ず、室町幕府は弱かった、という立場から考えてみます。

江戸幕府の歴代将軍にはそのような者は一人もおりませんでしたが、室町幕府の歴代将軍の中には、家臣に暗殺されたり、家臣に追放されたりした者がおりました。そのような下克上が何度も起こってしまうという事は、当時の幕府や将軍の権威・権力は必ずしも絶対的なものではなく、かなり不安定なものであった、と考えるのが妥当でしょう。

また、実質的に「応仁の乱」を引き起こしてしまったといえる8代将軍義政のように、非常時にも拘わらず将軍としての覚悟も資質も全く無かった者さえおり、そして、その応仁の乱の結果、戦国時代の到来を許す事となり、世の中を更に混沌とさせ、室町幕府や足利将軍家の権威は完全に失墜する事になりました。
室町幕府歴代将軍の中には、初代将軍尊氏のようにカリスマ性の高い将軍や、3代将軍義満のように絶対的な権力を誇った将軍もいましたが、室町時代という時代全体を通してみると、そのような将軍はむしろ例外的な存在といえるでしょう。

それだけではありません。室町幕府は、本来は幕府の出先機関(地方の一部署)に過ぎない鎌倉府(鎌倉公方)による度重なる反乱にもずっと悩まされ続けました。そのため関東に於いては、応仁の乱勃発以前から、既に幕府の権威は失墜していたと見る事も出来ます。
室町時代末期の頃には、幕府の将軍職はもはや有名無実となっており、将軍家の領土すら他の大名達に掠め取られる有様で、幕府は自分達のお膝元である山城国一国の維持すら困難な状態になっていました。

以上のような歴史的事実を鑑みると、室町幕府に「統制力や実行力が欠けていた」「全国的な統一政権としては弱々しかった」といった側面があったのは確かです。ですから、「室町幕府が弱かった」という認識は間違いである、とは言い切れないでしょう。
では、どうして応仁の乱の勃発を防げなかったのか、どうして大名達は将軍の言う事を聞かなくなったのか、というと、それは一言で言うと「室町幕府が諸大名の統制に失敗したから」という事になります。

ではどうして、室町幕府は諸大名の統制に失敗したのでしょうか。
それにはいくつもの要因があり、よく云われるのは、形式的ではあっても一応は「御恩と奉公」という双務的・互恵的な主従関係を築いていた鎌倉時代の将軍と御家人の関係に比べると、室町時代の将軍と大名の関係はやや希薄な主従関係といえ、鎌倉幕府や江戸幕府に比べても室町幕府は“緩やかな連合政権”という性格が強かった、という事です。

しかし、それ以外にも勿論大きな要因はありました。
前述の「室町時代の将軍と大名の関係はやや希薄な主従関係であった」という点をその第一の要因とすると、第二の要因(とはいっても、これは第一の要因とも深く関わりがある事ですが)として挙げられるのは、新たな将軍家となった足利氏は確かに源氏一門の名門ではありましたが、それでも、沢山ある源氏一門の中ではそのひとつに過ぎず、足利政権下に於ける他の守護大名達と家柄に格段の差があったわけではなかった、という点です。
室町幕府の守護大名達にとっては、かつての同僚だった足利氏が将軍職に就いたのでとりあえず臣従しているだけであり、別の言い方をすると、「後醍醐天皇による建武政権の政治が武士達にとっては余りにも酷過ぎたたため、それを対抗するために、とりあえず足利氏という神輿を担いでみた」という事であり、本来ならほぼ同格だという意識がかなり強く、つまり室町幕府は、源氏の宗家が将軍職を継承した鎌倉幕府とは違い(もっとも、その宗家は鎌倉幕府が開かれてから僅か三代で滅び、その後は藤原氏や皇族が将軍職を継承しましたが)、元々、大名達の将軍への臣従意識が低かったのです。

足利氏系図

だからこそ、大名達をきちんと押さえておかないと、将軍の言う事を全く聞かないという無秩序な事態が起きてしまい、実際そうなってしまったのが応仁の乱でした。
そういった意味では、実は江戸幕府も、構造としては室町幕府に似ていました。江戸幕府を開いた徳川家康は、足利氏と同じように同僚を抜いてトップに立ったわけですから。しかし江戸幕府は、室町幕府とは違って見事な大名統制を行い、幕末の混乱期が到来するまで、二百数十年にも亘って立派に将軍の権威を維持し続けました。

戦国時代と称された、室町時代の末期は、大名同士が好き勝手に領土争いを繰り広げ、隣国や更にその先の国にまで侵攻して合戦を行うなど日常茶飯事でしたが、江戸時代には、そんな事例(領土拡張のため大名が他藩に攻め入り合戦するなど)は一度も起こりませんでした。
ちなみに、幕末から明治期にかけて勃発した戊辰戦争では、藩同士が直接戦火を交える事もありましたが、あれは領土拡張争いではありません。
そういった意味では、江戸幕府の大名統制力はやはり優れており、そして、それが出来なかったのは、室町幕府の失政なのです。

では、江戸幕府とは違って、室町幕府はなぜ将軍の権威を維持出来ない不安定な政権になってしまったのでしょうか。
先程の続きとして、第三の要因としてそれを挙げると、室町幕府を創設し初代将軍となった足利尊氏という個人の人柄にもその要因を求める事が出来ます。ちなみに、下の写真は、足利将軍家の菩提寺である「等持院」霊光殿に奉安されている、その尊氏の木像です。

足利尊氏像_02

尊氏の人柄については平成28年10月12日の記事でも詳述しましたが、尊氏は一言で言うと、「出し惜しみをする事が一切無く、気前が良く、それでいて慈悲深くて優しい」という人物でした。猜疑心が強く次々と政敵を粛正していった頼朝や、常に“老練で計算高い狸親父”というイメージが付いてまわる家康に比べると、幕府を創設した初代将軍3人の中では、尊氏は間違いなく「いい人」でした。

しかし、「いい人」で「気前が良い」というのは、一個人としては長所になるのでしょうが、幕府を率いる将軍としては、かなり問題がありました。
というのも、尊氏は配下の大名達にほとんど何も考えずに気前よくどんどん領地を分け与えてしまったために、所謂「大大名」があちこちに出来る事となり、その結果として、守護大名が必要以上に強くなり過ぎ、後に幕府の言う事を聞かなくなる、という事に繋がったともみる事も出来るからです。
謀反を起こすなどして尊氏に敵対しても、降参さえすれば、尊氏には即座に過去の恨みを忘れ報賞を行う鷹揚さ(良く言えば度量が大きい、悪く言えばいいかげん)があったわけですが、それに対して家康は、大名に対して厳しい処分を行い、譜代大名にさえ広大な領地を分け与える事をせず、そのためケチとも云われました。しかし、その結果江戸時代は戦乱がほとんど無い“泰平の世”になったわけですから、家康としては、大名に権力と財産(領地)を同時に与えたらどうなるのかという事を、室町幕府の失敗からしっかりと学んでいたのかもしれません。

そして「慈悲深くて優しい」というのも、言い換えると「優柔不断で非情の決断が出来ない」という事であり、これも、幕府を創設した将軍としては、やはりかなり問題がありました。
南北朝の動乱が何十年にも及んだ要因は、勿論、南朝(後醍醐天皇の側)にもありますが、というよりも、私個人としてはその要因の半分以上はむしろ南朝側にあると思っていますが、しかし、尊氏の優柔不断さにも、確実にその要因を求める事が出来るからです。
具体的に言うと、かつて鎌倉幕府が後鳥羽上皇や後醍醐天皇を遠島に配流したように、尊氏も、後醍醐天皇の系統(大覚寺統)を配流するなどして政治の表舞台には二度と出られないようにし、更に、政敵となった実弟の直義を早めに処分しておくなどすれば、南北朝時代がああまで混沌とする事はなかったからです。

しかし尊氏は、無慈悲にも弟達を粛正した頼朝や、豊臣家を徹底的に滅ぼした家康とは違い、その「慈悲深くて優しい」性格故に、政敵を追い詰める事が出来ませんでした。
もっとも、尊氏も、政敵である護良親王を建武政権から失脚させたり、遅きに失した感はありますが最終的には直義も処分するなどしていますが(公式には直義は病気による急死ですが、太平記では尊氏による毒殺としています)、それでも、頼朝や家康に比べると尊氏の言動は間違いなく“大甘”で、その“詰めの甘さ”故の失策も多かったです。

特に大きな失策だったのは、目先の敵である直義を討つために、一時的とはいえ、南朝に降伏した事です。
所謂「正平一統」の事で、これが、辛うじて権威は維持していたものの軍事的にはほぼ壊滅状態にあった、衰退著しかった南朝を、政治勢力として復活させる事になり、結果として、幕府政治の確立を遅らせたばかりでなく、南北朝の動乱が長引く大きな要因となりました。
南朝が武家による幕府政治に対して極めて非妥協的な事は最初から分かっていた事であり、実際、その通りになって正平一統は破綻し、幕府は後に大変な苦労をして北朝を再興させる事になったわけですから、一時的とはいえ北朝を見捨てて南朝と安易な妥協をしてしまった事は、幕府にとっては明らかな失策でした。

逆にいうと、優しくはない人で、優柔不断ではなく、甘い判断を下す事なく、非情な決断が出来る人だったからこそ、頼朝や家康は、尊氏とは違って自分が存命のうちにほぼ盤石な体勢を築く事が出来たとも言えます。
尊氏の寛大さや度量の大きさとして評価される部分は、裏を返すと、武家を束ねる棟梁としてはリーダーシップに欠けており、大名達をつけあがらせる事になった、とも解釈する事が出来、それが、室町幕府の不安定さにも繋がっていった、とみる事が出来るのです。


室町幕府は弱かった、という立場からの考察はとりあえずここまでとし、次に、室町幕府は実は強かったのではないか、という逆の立場から考えてみます。

これについては、もうこの文章を紹介すればそれでほぼ全て事足りるでしょう、という文章があったので、その文章を、前回の記事で取り上げた「歴史REAL 足利将軍15代」という本から以下に転載させて頂きます。
これは、国際日本文化研究センター助教で作家の呉座勇一さんへのインタビューで、とても興味深い内容だったので、長い文章ではありますが以下にそのまま転載致します(二重鉤括弧内の緑文字)。


鎌倉幕府、江戸幕府という、前後の武家政権と比較して、力が弱かったのでしょうか?

鎌倉幕府は公家のことは朝廷に任せていますし、地域的に東国中心で守備範囲が狭く、全国政権という意識はあまりなかった。蒙古襲来の後ぐらいから徐々に全国政権化してくる動きもありますが、鎌倉幕府は基本的に東国武士のための政権です。全国政権である室町幕府の方が権力として進歩しているといえます。一方で、その後の織豊政権、江戸幕府という統一政権に比べると、そこまでの力はないのも事実です。

ただ、鎌倉幕府は最後の得宗北条高時の自害、江戸幕府は江戸城明け渡し、と終わり方が明確なのに対し、室町幕府はいつ滅んだのかよくわからないのです。一般に信長が義昭を追放したことで室町幕府は終わったと説明されますが、それは後世から見た結果論にすぎません。衰退しながらも結構しぶとく生き残り、最終的に秀吉が天下を取るまで室町幕府は続いていたとみることもできます。

というのも、室町幕府後半の将軍たちは、しょっちゅう京都からいなくなるし、むしろ京都にいるほうが珍しいくらいです。そうすると当時の人たちは「またか」くらいの感覚で、幕府が終わったとはおそらく思っていなかったでしょう。実際、信長は義昭の子どもを将軍に擁立しようと考えていた節がありますし、義昭に対し京都へ戻ってきてくれないかみたいな交渉もしています。
我われは結果を知っているから、信長が義昭を追放したから室町幕府が終わったといいますが、結果、衰退しながらも結構しぶとく生き残り、最終的に秀吉が天下をとるまで室町幕府は続いていたと見ることもできます。

鎌倉幕府が滅亡したときは建武の新政で大混乱に陥り、江戸幕府のときは明治政府が比較的うまく混乱を収拾しましたが、うまくいかなかった可能性もあった。当時の人たちにとっては、幕府が一瞬で崩壊して世の中が大混乱する事態は好ましいことではなかったはずです。ゆるゆると衰退しながら、そのなかで新しい政治秩序が徐々に形成されていったほうが、混乱がおきにくいはずで、室町幕府があっさり投げ出さないでしぶとく生き残ったことは、評価すべきだと思うんです。

これまでは、信長という革命児の登場によって室町幕府にかわる新しい政治体制がつくられたといわれていました。しかし最近の研究では、信長はどちらかというと、それまでの細川や三好とそんなに変わらず、将軍を立てつつ自分が実権を握ろうとしていた、つまり室町幕府の存在を前提としていたという理解に変わってきています。

要するに、室町幕府後半の将軍があまり力を持っていないにもかかわらず、その枠組みは結構強固だったんです。将軍個人のカリスマや権力に頼るのはある意味で非常に不安定で、現代の象徴天皇制を見ればわかるように、なんとなくみんながその存在を前提としているほうが強靱なのです。そういう意味で、室町幕府の存在をまわりが当然視したという点では、強い仕組みをつくったといえると思います。

なぜそのような仕組みをつくれたのでしょうか?

足利将軍家が源氏のなかで一番尊いのだという血統の権威を示して将軍を中心とする武家の家格秩序をつくったり、顕密・禅といった寺社勢力をおおむね支配下に置いたり、と複合的な要因があるのですが、注目すべきなのは三代義満期に将軍が公家社会に入っていって、公武の一体化がなされたことです。

以前は、義満が皇位簒奪を狙っていたという、天皇の権威を足利将軍が収奪していくイメージもありましたが、現在では、そうした公武対立という見方とはむしろ逆で、公武が一体化しているのが室町時代の特徴だといわれています。天皇と将軍がある時期に対立していたことがあったとしても、個人レベルのいざこざはどこの世界でもあるわけで、そういうレベルを超えた大きな仕組みとして公武は一体化していたのです。
これは、いままで足利将軍の人気がなかった原因とかかわってくると思うんですが、公家化していることでどこか軟弱なイメージがあったと思うんです。八代将軍義政はその典型で、東山文化に象徴される文化人で、全然武士っぽくない。

でもそれは、室町幕府が全国政権として機能するために朝廷を取り込んだ結果であって、政権として鎌倉幕府より一段上にいったということです。だから義満期以降、公家の側が積極的に武家から権力を取り戻そうとはならなかった。本能寺の変で朝廷黒幕説が一時いわれましたが、はっきりいってあり得ないです。
朝廷は武家に丸抱えの状態で経済的な支援をしてもらっているので、武家は大事なスポンサーです。ときどきカチンとくることはあったかもしれないですが、スポンサーに文句をいうなんてとんでもない話です。

じつはこうした公武対立という見方は、明治維新の影響がすごく大きいんです。明治政府はみずからを正当化するために、王政復古によって武家政権である江戸幕府を打倒したという、公武は対立していたというイメージをつくりあげました。
最近では幕末維新期の研究も進み、大政奉還で政権を返上したあとも徳川慶喜中心でやっていこうとほとんどの大名たちが思っていて、岩倉具視などなにがなんでも幕府を倒すというほうがむしろ少数派だったことがわかってきています。我われは、明治以降の公武対立という見方に、いまだに縛られているところがあるんです。

(中略)

一方で、全国政権化しながらその後の幕府は、有力守護大名の台頭に悩まされ続けます。

鎌倉幕府より守備範囲が広がったことで、将軍ひとりでなんでも決めるのは難しくなり、細川や山名や斯波といった有力大名との合議で政治を行うことになった。それは幕府の中身が発展したということから考えれば当然の流れで、避けられなかったと思います。

ただ、これは完全に私ひとりの考えなのですが、細川や山名が勢力を持ったのは結果論ではないかと思っています。
彼らがなぜ強いかというと、細川は四国、山名は山陰というように、複数の国の守護職をブロック領域として持っていたからです。それに比べると、例えば室町時代前期には三管領の筆頭だった斯波氏は尾張・遠江・越前とバラバラに持っていた。
我われは「信長の野望」の日本全国色分け地図のような、大名が一円支配を目指して勢力を拡大していくイメージを持っていますが、それは後の時代の話。ブロック的なまとまりで領地を持っていたほうが強いという意識は、尊氏や二代義詮のときは薄かったんじゃないかと思うんです。

というのも、鎌倉幕府の北条得宗家や有力御家人たちは領域的な所領を持っていたのではなく、経済的先進地域を分散的に持っていたんです。だから鎌倉時代からの流れを考えると、田舎でまとまっているよりも、バラバラでも稼ぎのいいところを点で持っていたほうが得だという考えが普通だったんじゃないかと思うんです。斯波が持っていた遠江や越前は港があってまさにいい場所です。
細川も山名も、もともとは南朝方と戦って勝ち取った場所を、実効支配の追認として与えられていただけで、幕府のほうはそれによって彼らがすごい力を持ってしまうなどとは、おそらく南北朝時代くらいまでは考えていなかったんじゃないかと私は思っているんです。

それはなぜかというと、ブロック支配というのは守護分国が世襲されて、代を重ねきめ細やかな行政支配ができるようになって初めて効力を発揮するからです。守護が更迭されて頻繁に入れかわるような状況では、面の支配もなにもない。それに、守護職は本来世襲するものという意識はなく、直義も「守護職は幕府によって任命される役職だから世襲できる財産ではない」と言っています。実際、南北朝期は軍事的な目的で守護が置かれ、戦闘が終わると交代してということがよく行われていました。
だから守護職が世襲され、ある程度時間が経って初めて、面の支配が意味を持ちだす。それが義満期になるとそうした長期的な支配の重みがはっきり出てきて、そうした大名たちの勢力が大きくなっていくのです。

そこで義満は、十一ヵ国を有した山名や尾張、美濃、伊勢という、京都に近い東海道筋の国々をブロック的に支配していた土岐に対し、ちょっと潰さないといけないということで、干渉していくのです。
結果、そのあとの四代義持や六代義教のころには、彼らの既得権益を尊重する形でパワーバランスを保ちつつ、話し合いで進めていくしかないという方向になっていくのです。

守護配置図

そうなると幕府の安定期はどのあたりなのでしょうか?

以前は義満期がピークで、義政でガクッと落ちるという認識が強かったのですが、室町時代の研究が進んだ結果、義満と義政との間に挟まれた義持・義教期が一番の安定期ではないかという議論が一般的になってきています。

これも私の持論なんですが、ひとつのバロメーターとして、将軍がみずから兵を率いて出陣したことがあるかどうかが重要だと思っています。
義満は明徳の乱で、甲冑を着て出陣していますし。九代義尚(よしひさ)も六角氏征伐で近江に出陣しています。一方、五代義量(よしかず)と七代義勝(よしかつ)は将軍在位が短いので外しますが、義持、義教、義政は出陣していません。

義持から義政まではみずから出陣して、これ見よがしに武威を示さなくても、将軍の武威を周りが認めてくれた。だから彼らは公家化しても軟弱と軽んじられる心配はなかった。むしろ公家化することで、ほかの大名との格の違いを示すことができたのです。
それが義尚段階になると、武威という前提そのものが危うくなってくるから、出陣して見せつけないといけなくなる。義満段階もまだちょっと武威が不足していたからこそ、みずから戦わなければいけなかった。自分が陣頭に立たないとほかの大名たちがついてきてくれないからです。

そうすると、室町幕府の政治機構が確立して安定していた義持から応仁の乱が勃発するまでの義政までが、全盛期と見ていいと思います。
まとめると、初代尊氏から三代義満までが確立期、四代義持から八代義政までが安定期、応仁の乱は例外として、九代義尚以降の衰退期の三つに区分できます。

最近、明応の政変が室町幕府の分岐点としてクローズアップされていますが、その前の義尚段階、将軍がみずから兵を率いて出陣しなきゃいけなくなった時点で、すでにおかしくなっていたと思います。
徳川将軍に置き換えても、家光を最後に幕末の家茂まで二百年以上、将軍の上洛はありませんでした。家光のときはまだイベントが必要で、幕末の家茂のときは幕府の武威の衰えを象徴的に示していますし、同じことがいえるのです。

ただし、その後の室町幕府が全国政権から畿内政権下したという議論もありますが、将軍が大名たちの上にいるという前提は一応守られていて、大名間の争いを将軍が調停する仕組みは残っています。
確かに十代義材(のちの義稙)くらいから、実際に直接支配できる領域は畿内にほぼ限定されてしまうのですが、このような間接的な影響という意味では、全国政権としての体裁は存続していたといえます。


室町幕府は弱かった、という立場から考察した前出の見方・見解とは、明らかに正反対な事を述べている所もあり、しかし説得力があり、とても興味深かったです。

今日では一般に、信長が15代将軍義昭を追放した政変を以て「室町幕府は滅亡した」と理解されていますが、その当時の人達は、義昭が追放された時点では「また、将軍様が京を離れたらしいよ」という程度の感覚で「幕府が終わった」とまでは認識していなかったのではないか、という見方も新鮮でした。
確かに、鎌倉幕府の場合は、新田義貞らの軍勢により鎌倉が陥落し、それにより北条高時ら北条一族・家臣の大半が一斉に自害し果てた事などを以て「幕府が滅亡した」と言い切る事が出来、江戸幕府の場合も、大政奉還や、徳川慶喜の朝廷への恭順・自主的な謹慎、新政府への江戸城の明け渡しなど「幕府が滅亡した」と明確に実感出来る出来事がいくつもありましたが、それに対して室町幕府の場合は、いつ滅んだのかよく分りづらい、と言えます。

幕府が一瞬で崩壊して世の中が大混乱する事態は好ましいことではなかったはず」で、「室町幕府があっさり投げ出さないでしぶとく生き残ったことは、評価すべきだと思う」という見方も、私にとっては今までほとんど聞いた事の無い見方であり、新鮮でした。
そして、こういった見方に立つと、室町幕府は弱々しい政権だった、とは必ずしも言えない事になり、それを踏まえて呉座勇一さんは、「室町幕府後半の将軍があまり力を持っていないにもかかわらず、その枠組みは結構強固だった」「室町幕府の存在をまわりが当然視したという点では、強い仕組みをつくったといえる」と述べているわけです。

呉座さん曰く、応仁の乱以降の混乱期でさえ、「将軍が大名たちの上にいるという前提は一応守られていて、大名間の争いを将軍が調停する仕組みは残っています」「間接的な影響という意味では、全国政権としての体裁は存続していた」わけですから、さすがにそれを以て「鎌倉幕府や江戸幕府と比較して、室町幕府は特に強大な政権だった」とまでは言えないものの、少なくとも、一般に思われている以上は「室町幕府は意外としっかりとした全国政権だった」とは言えるのかもしれません。

また、室町幕府が京都に置かれた事から足利将軍家が朝廷が強く結びつき、ある意味融合したともいえる所謂「公武一体」についても、従来は、将軍家が公家化した事で軟弱なイメージを持たれてしまう傾向がありましたが、呉座さんは、「室町幕府が全国政権として機能するために朝廷を取り込んだ結果であって、政権として鎌倉幕府より一段上にいったということ」「これ見よがしに武威を示さなくても、将軍の武威を周りが認めてくれた。だから彼らは公家化しても軟弱と軽んじられる心配はなかった。むしろ公家化することで、ほかの大名との格の違いを示すことができた」という見解を示されており、これも私にとってはなかなか斬新な見方でした。

前出の、室町幕府は弱かった、という立場からの考察では、「尊氏は配下の大名達にほとんど何も考えずに気前よくどんどん領地を分け与えてしまったために、大大名があちこちに出来る事となり、その結果として、守護大名が必要以上に強くなり過ぎ、後に幕府の言う事を聞かなくなった」という事を述べましたが、こういった、領土の拡張が守護大名達の台頭を招いたという見方についても、呉座さんは、「細川や山名が勢力を持ったのは結果論ではないか」「ブロック的なまとまりで領地を持っていたほうが強いという意識は、尊氏や二代義詮のときは薄かったんじゃないかと思う」「細川も山名も、もともとは南朝方と戦って勝ち取った場所を、実効支配の追認として与えられていただけで、幕府のほうはそれによって彼らがすごい力を持ってしまうなどとは、おそらく南北朝時代くらいまでは考えていなかったんじゃないか」と述べており、だとすると、尊氏の気前の良さ、領土の大盤振る舞いは、必ずしも「かなり問題があった」とまでは言えない事になります。
問題があったように見えるのは、あくまでも後世からみた結果論に過ぎず、当事の人達にそこまでの先見の明を期待するのは些か酷ではないのか、という事になるからです。


全体を通してみると、室町幕府(全盛期は除く)は、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、確かに不安定な要素が多い政権であり、「全国的な統一政権としてはやや脆弱」と言う事が出来ますが、しかし、一般に思われている以上は、「意外としっかりした部分も多かったのではないか」とも言えそうです。

足利将軍15代についての入門書が刊行されました!

昨年9月19日の記事の中で私は、『一昔前だと、南北朝時代や、室町時代(但し戦国時代は除く)について書かれた本は、専門書などを除くとほとんど無かったように思いますが、最近は、南北朝時代や室町時代について解説されたこういった一般書が徐々に増えてきており、以前よりは、こういった時代を書籍で調べたり勉強したりする事について、敷居が低くなってきていると思います。良い事です』と書きましたが、本当に、いい時代になったものだなぁと、つくづく実感します。
何と、ついに足利歴代将軍についての一般書(雑誌コードが付されているムック扱い)が出版されたのです!

徳川歴代将軍についての本は、一般向け・子供向けなどでも既に沢山出版されていますが、足利将軍15代についての事実上の入門書といえるような本は、私の知る限りでは、この本が初めてです!

足利将軍15代

上の写真が、この本の表紙ですが、表紙に書かれているコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」は、室町幕府に対する世間での今までの一般的な認識を逆手にとった、“目からウロコ”的な、なかなか秀逸なコピーだなと思いました。

どういう事かというと、室町幕府は今まで、全国的な統一政権としては非常に脆弱なものであったと多くの人達から考えられてきたからです。
実際、江戸幕府では最後までそのような事は起こりませんでしたが、室町幕府では、家臣に暗殺されたり家臣に追放された将軍もおり、また、将軍自身に全国政権の統率者という当事者能力が無かった事が、あの「応仁の乱」を引き起こすきっかけにもなり、その結果、京都を廃墟にしてしまったのみならず、下克上の戦国時代を招いて世の中を混沌とさせ、幕府・将軍の権威を完全に失墜させる事にもなりました。
室町時代末期の頃には、幕府のお膝元である山城国一国の維持すら困難になるなど、室町幕府にはどうしても“統制力や実行力の欠けた弱々しい政権”というイメージが今まで付きまとってきました。

しかし、本当にそのような脆弱な政権であるのなら、逆に、なぜ室町幕府は約240年間という長きに亘って続いたのでしょうか。
室町幕府の直ぐ前の政権は、後醍醐天皇の親政による、所謂“建武政権”でしたが、その建武政権は、たった2年程しか保ちませんでした。
建武政権の前の政権は、日本で最初の幕府である、源頼朝が開いた鎌倉幕府であり、その鎌倉幕府は、道理と先例に基づいて公正な裁判を実施した北条泰時や、当時世界最大の帝国であった元が日本侵略のために派遣した大軍を撃退した北条時宗などの有能な指導者を輩出し、質実剛健な武家政権というイメージがありますが、それでも、存続出来たのは150年程度でしたから、室町幕府に比べるとやはり短命に終わりました。
鎌倉幕府直前の政権は、平清盛による平氏政権でしたが、こちらも存続期間は非常に短く、事実上、清盛による僅か一代だけの政権でした。
ちなみに、室町幕府の次の政権といえる織豊政権は、室町幕府よりもずっと強力な政権でしたが(そもそも室町幕府を倒したのは織田政権でしたし、その後を継いだ豊臣政権は、義満による最盛期の室町幕府よりも明らかに強大な全国統一政権でした)、こちらも事実上、信長と秀吉という、それぞれ一代だけの政権であり、強大な政権だった割には随分あっさりと終わった感があります。

そういった歴史的事実を鑑みると、「室町幕府はなぜ弱かったのか?」「室町幕府はどうして滅びたのか?」と考える事は確かに重要な事なのですが、全く逆の視点から、「有力な守護大名の台頭や、鎌倉公方の度重なる反逆などにずっと悩まされながらも、どうして室町幕府は二百数十年も存続する事が出来たのか?」「そもそも、二百数十年も続くような長期政権は、脆弱と言えるのか?」と考える事も、同じくらい、とても重要な事であり、前述のコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」は、まさにそういう事だと思うのです

そして、こういった観点から歴史を振り返り始めると、室町幕府に限らず、他の政権・他の国家についても、今までとは少し見方が変わってきます。
例えば、ここからいきなり世界史の話に飛びますが、あの「ローマ帝国」は、共和政から帝政へと移行した紀元前27年から、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが陥落する1453年まで、紆余曲折はあれども一応、形としては国家として存続し続けました。
ローマ帝国は、1世紀末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代に最盛期を迎えますが、それ以降は、各地で内乱が勃発したり、帝国そのものが東西に分裂するなどして混乱し、また、勃興するイスラーム勢力との抗争も起こり、国家としては明らかに衰退していきました。
現在ではそういった衰退の面ばかり強調される事が少なくないため、ローマ帝国というのは初期の頃以外はあまりパッとしないなぁ、という印象をつい持ってしまいがちですが、冷静に考えてみると、形態は変われども曲がりなりにも1400年以上も国家として存続したというのは、かなり凄い事です。
つまり、ローマ帝国についても、「どうして滅んだのか?」という従来かのら視点で考えるだけでなく、逆の視点で「なぜそれ程長く続いたのか?」と考えると、今までとは見方も変わり、新たな発見もあると思うのです。

もっとも、ローマ帝国が1400年以上も続いたと聞いてしまうと、「いくら長期政権だったとはいえ、約240年続いた程度の室町幕府って、ローマ帝国に比べると別に大した事ないんじゃね? やっぱり、外国のほうが歴史は深くて凄いんだなぁ」と感じてしまうかもしれません(笑)。
しかし、今回の記事の本題からは外れてしまうものの一応この点についても補足させて頂くと、実はこの点に於いて一番凄いのは、この日本なのです。どういう事かというと、我が国は、現在も存続し続ける「世界最古の国家」だからです。

よく、「中国三千年の歴史」とか「中国四千年の歴史」といった言葉が一人歩きしている事から、中国を世界最古の国と勘違いしている方が多いのですが、現在の中華人民共和国は、建国してからはまだ六十数年しか経っていない、とても若い国家です。
中国にはかつて様々な帝国や王国が存在していましたが、王朝が替わると、新王朝により前王朝の皇帝やその一族は処刑されたり追放されるなどし(前王朝に於ける歴代皇帝のお墓が荒らされることすらありました)、あるいは、前王朝の皇帝やその一族は新王朝の皇帝に臣下として完全に服従するなどし、そのため、その度に国家や王朝としての歴史は完全に断絶しており、中華圏という一地域としての歴史は確かに古いのですが、中国にひとつの国家としての連続性は無いのです。
それに対して日本は、政権を担う政体が、天皇から摂関家へ、朝廷から幕府へ、もしくは内閣へと変わろうとも、皇統は初代・神武天皇からただの一度も途切れる事なく現在に連綿と続いており、役職名は変われども時の政権の最高責任者(摂政、関白、征夷大将軍、内務卿、内閣総理大臣など)はいずれも天皇から任命(大命降下)される事でその正当性が保障されてきたため、ひとつの国家としての連続性が認められるのです。
これは何も日本だけが「ウチって凄いんだよ!」と勝手に主張している事ではなく、世界で共通認識されている事であり、ギネス世界記録(ギネスブック)で「世界最古の王家」として日本の皇室が認定されている事からも、それは明らかです。

話しが随分飛んでしまった感があるので、ここで一気に話を戻しますが(笑)、そういった観点を持ちながら、つまり、前述のコピー「なぜ、多くの戦乱のなか幕府を存続できたのか?」を意識しながら、これからこの本をじっくりと読んでみようと思います!


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護良親王をお祀りする鎌倉宮を参拝してきました

前回の記事で述べたように、私は昨年11月の下旬、1泊2日の日程で鎌倉方面を旅行し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参拝し、同宮境内にある鎌倉国宝館も見学してきました。
今回の記事では、その鎌倉国宝館を見た後に私が参拝・見学してきた、鎌倉市二階堂に鎮座する「鎌倉宮」という神社と、その鎌倉宮で御祭神としてお祀りされている護良親王(大塔宮)について書かせて頂きます。

護良親王(大塔宮)は、建武の新政(建武の中興)を行った事で有名な後醍醐天皇の皇子で、非常に武勇に優れていたため皇子の御身でありながら自ら指揮官として戦場で直接軍勢を率い、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げた事で知られています。
ちなみに、護良は「モリナガ」もしくは「モリヨシ」と読み、大塔宮は「オオトオノミヤ」もしくは「ダイトウノミヤ」と読みます。書物によってフリガナが異なり、現在に於いては読み方が統一されていないのです。

鎌倉宮案内看板

鎌倉幕府を倒し、非情に短い期間ではありましたが一時的に武家から天皇中心の社会へと復帰させる事(建武の新政)に貢献したその護良親王の功績を称え、明治2年2月、明治天皇が護良親王をお祀りする神社の造営を命じられ、同年7月、鎌倉宮の社号が下賜され、同月、護良親王が非業の最期を遂げられた東光寺跡の現在地に社殿が造営され、現在に至っています。

鎌倉宮_01

鎌倉宮_02

鎌倉宮_03


以下の二重鉤括弧内の緑文字は、私がこの時鎌倉宮で入手した「御祭神 護良親王御事蹟」というタイトルの冊子の、「鎌倉宮御由緒」のページに記されていた全文です。御祭神である護良親王の経歴が簡潔にまとめられています。

七百年の昔、鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮された後醍醐天皇は倒幕を志されたが叶わず、かえって隠岐島へ遠流の御身となられました。
後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮尊雲法親王は比叡山延暦寺の天台座主にましまし、幼少より英明にして勇猛をもって知られ、この危機に御自ら鎧兜に身を固め、鎌倉幕府の大軍を迎え撃たれました。

還俗して護良親王と名乗られた大塔宮は、多勢に無難、また険しい山野にあって数々の厳しい困難を、機知と豪胆をもって切り抜けつつ、各地へ鎌倉幕府追討の令旨を発し、これに応じた楠木正成、新田義貞らのめざましい働きにより幕府を打倒、見事に建武の中興を成し遂げられ、その抜群の勲功により征夷大将軍、兵部卿に任ぜられたのです。

しかし、足利尊氏が自ら将軍として幕府を開く野心を持っていることに早くから警戒心を抱かれておられた親王は、かえって尊氏の陰謀の為に無実の罪を着せられ、建武元年十一月、尊氏の弟・直義により鎌倉二階堂谷の東光寺の土牢に幽閉の御身となられました。
翌建武二年七月、北条高時の遺児・時行が鎌倉に攻めこんだ戦(中先代の乱)に敗れた直義は逃れ去る途次、親王を恐れる余り淵辺伊賀守義博に親王の暗殺を密命しました。親王は九ヶ月に幽閉されていた御身では戦うこともままならず、その苦闘の生涯を閉じられました。

明治二年、明治天皇は維新の大業が結ばれたのは、護良親王の御先徳によるものとして、その御功業を深く追慕敬仰され、勅命によって宮号と鎌倉宮と定め、ご終焉の地であるここ鎌倉二階堂の地に御社殿を造営、永く親王の御霊を祀られたのです。


というわけで、護良親王をお祀りする神社としての立場から記され文章なので、当然の如く、護良親王は絶対的に「正義」で、親王と敵対した尊氏は「悪」、という二元論で書かれています。
勿論、現実の情勢は、そのような単純な二元論で語れるものではなく、もっと複雑だったわけですが、ただ、鎌倉幕府が倒された事については、この鎌倉宮御由緒で書かれている通り、護良親王に抜群の勲功があった事は間違い有りません。

以下の文章は、『渡部昇一の中世史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』という本(PHP研究所刊)からの抜粋で、この中でも、鎌倉幕府を倒して建武政権を樹立した最大の功労者は護良親王であると述べられています。

建武の中興に最も功績があったのは誰だろうか。先ず大塔宮護良親王である。この親王が笠置落城後も屈せずに諸国の武士に令旨を出したから武士が動きだしたのである。
次に楠木正成である。大軍を動員しながら北條方がしばしば楠木軍に破られ、しかも千剱破城をついに落とせなかったことは、武力を拠り所にする幕府の決定的イメージ・ダウンになった。ベトナム戦争の時のアメリカみたいなものである。
第三に赤松円心がいる。彼は大塔宮の令旨を受けるや直ちに挙兵し、まっしぐらに京都に攻めのぼった。そして円心の軍が名越高家を殺したのをきっかけに、足利尊氏も北條に叛く決心をするのである。
第四は新田義貞である。彼は千剱破城で楠木正成を攻めていたが、この小城がいつまでも落ちないので北條幕府を見限った。それで家臣の船田義昌に命じて、大塔宮からひそかに幕府討伐の令旨を得た。それで病気と称して本国に帰ってしまったのである。そして幕府討伐の計画をひそかに立てていた。

(中略)
足利尊氏の功績は、前に上げた四人にくらべれば断然見劣りがする。新田義貞が鎌倉を落とした上に、楠木正成が頑張り、赤松円心が奮戦し、その上に大塔宮がいたのだから、足利尊氏はぐずぐずしておれば討伐されたのである。それはすでに根を失った軍勢だったのだ。

渡部さんのこの見解には、私もほぼ納得です。鎌倉幕府倒幕の最大の功績者を護良親王と考えるか、それとも楠木正成と考えるかについては、人によって見解が分かれる所だと思いますが、兎も角、護良親王が第一もしくは第二の軍功であった事はほぼ間違いなく、その二人に果たした役割に比べると、尊氏の功績は然程大したものではなかったと言えます。
もっとも現実には、足利氏の出自の良さなどから、朝廷は尊氏を武功の第一としたわけで、そこがまた複雑な所ではありますが。まぁ、複雑というよりは、単に「建武政権の行った論功行賞が滅茶苦茶なだけだった」とも言えますが…。


ところで、前出の鎌倉宮御由緒では、鎌倉宮としての立場から護良親王を賛美しているのは当然として、親王の御父である後醍醐天皇についても、「鎌倉幕府の専横による国家国民の困窮を深く憂慮され」と書かれていて、国や民の事を深く思っていた天皇として描かれています。
物事にはいろいろな見方があるので、私としては別にそういった「後醍醐天皇は大変素晴らしい!」といった見方をここで特に否定しようとは思いませんが、しかし、護良親王が失脚し幽閉の御身となった事については、そもそもその後醍醐天皇が了解されたからこそ実行された、というのも事実です。

自分がこれから捕らわれるという事を全く知らずに参内した護良親王は、突然、御所の一画で武者所の武士数十人に囲まれその場で捕らわれてしまったわけですが、その武士達をその場で指揮していたのは、後醍醐天皇側近の武士である名和長年と結城親光であると云われており、護良親王はその二人の姿を見た時に、天皇の意思をはっきりと知って愕然とされたのではないでしょうか。

護良親王の失脚について、梅松論では以下のような見方をしています。
大塔宮の謀反は天皇の命令によるものであるが、天皇はその罪を大塔宮に着せたのである。大塔宮は鎌倉へ捕らわれの身となって送られて、二階堂の薬師堂の谷に幽閉されてからは、足利尊氏よりも天皇のなされ方がうらめしいとひとりごとをいっていたということである。

尊氏と護良親王が対立していたのは確かですから、護良親王の失脚に尊氏の思惑が深く関わっていた(尊氏側の計略により捕らえられた)事は事実でしょうが、尊氏のみならず、後醍醐天皇の意思も明確にそこに含まれていた事もまた事実でしょうから、そういった意味では、信頼していた実父にも見捨てられた護良親王は本当に気の毒過ぎる、と言えます…。


下の写真は、鎌倉宮境内の宝物殿に展示されていた、明治22年に作られたらしい「護良親王馬上像」です。甲冑を御身にまとって馬にまたがる、凛々しい護良親王の姿が表現されています。

護良親王馬上像


以下の写真は、拝殿前から鎌倉宮本殿をお参りした後に私が見学してきた、本殿後方にある岩窟です。護良親王が凡そ9ヶ月間幽閉されていたと伝わる土牢(護良親王最期の地)を復元したものです。

鎌倉宮 土牢_01

鎌倉宮 土牢_02

鎌倉宮 土牢_03

鎌倉宮 土牢_04


ちなみに、鎌倉宮は、平成26年1月20日の記事で紹介した、南朝の天皇・皇族・武将を御祭神としてお祀りする神社15社により構成されている「建武中興十五社」のうちの一社で、旧社格(明治維新の後制定され、終戦直後の神道指令によって廃止された、神社としてのランクを表わす制度)では「官幣中社」とされていました。
神社神道系の包括宗教法人としては最大規模で、現在全国の大半の神社が所属している「神社本庁」には、本庁の設立時より入っていない、単立の神社でもあります。

鎌倉国宝館で、鎌倉公方所縁の史料を見学してきました

先月2日の記事では、鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある鎌倉市立博物館「鎌倉国宝館」で、 鎌倉国宝館(鎌倉市教育委員会)の主催により「鎌倉公方 足利基氏 ―新たなる東国の王とゆかりの寺社―」と題された特別展が開催されているという事を紹介しましたが、私は先月下旬、鎌倉に行ってその特別展を観てきました!

私は鎌倉から遙か遠く離れた北海道に住んでいて、しかもこの時期は年末に向けて仕事も忙しくなってきているため、当初は、多分観に行く事は出来ないだろうと半分諦めていたのですが、幸いにも先月下旬、休みを確保する事が出来、しかも、ANAのマイレージを確認すると、札幌(新千歳空港)~東京(羽田空港)間を一往復できる分のマイルも貯まっていたので、今回はそのマイルを全部使って、実質タダで鎌倉まで行って帰って来る事が出来ました♪


鎌倉に着いた私は、先ずは、鶴岡八幡宮を参拝してきました。
鶴岡八幡宮は、言わずもがなですが、源氏一門の氏神、鎌倉武士達の守護神として、鎌倉幕府の精神的な中心地でもあり、鎌倉幕府と非常に深い関わりがあったお宮ですが、勿論、室町幕府や、鎌倉府(関東公方や関東管領)とも深い関係があったお宮です。
関東から遠く離れた京都に幕府を開いた足利氏は、関東との関係を強めるため、鎌倉幕府同様、鶴岡八幡宮を崇敬し、関東管領の下に、神社行政を取り扱う社家奉行とは別に鶴岡惣奉行も設置するなどしています。

もっとも、歴史的には室町時代の出来事よりも、鎌倉時代に起こったいくつかの出来事、具体的には、義経の一味として捕らえられた静御前が頼朝の求めに応じて舞を舞った場所である事や、鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が公暁に暗殺された現場となった事などで、一般には広く知られているお宮です。
ちなみに、鶴岡八幡宮の旧社格(神社としてのランク)は国幣中社で、全国の八幡宮や八幡神社の中では特に知名度が高い事から、近年では「三大八幡宮」のひとつに同宮を含める事もあるそうです。

鶴岡八幡宮


その鶴岡八幡宮をお参りした後、私は、今回の1泊2日の鎌倉旅行の主目的地である、同宮境内にある鎌倉国宝館に行ってきました。
ここでは、特別展「鎌倉公方 足利基氏 ―新たなる東国の王とゆかりの寺社―」と、平常展示「鎌倉の仏像」を、じっくりと観賞してきました。特別展で展示されていた史料の多くは古文書でしたが、どれも興味深い内容で面白かったです。

ちなみに、館内は写真撮影禁止だったため、館内や展示物の写真は撮っておりません。以下の2枚はいずれも、鎌倉国宝館の建物外観の写真です。

鎌倉国宝館_01

鎌倉国宝館_02


鎌倉国宝館の展示を見終えた後、館内の窓口(ミュージアムショップといえる程の規模はありませんでしたが)で、下の写真に写っている2冊の図録を買ってきました。特別展「北条時頼とその時代」は、平成25年に開催されていたそうです。

鎌倉国宝館で買った書籍

ちなみに、今回の特別展「鎌倉公方 足利基氏」の図録は、今回の特別展開催までには完成が間に合わなかったとの事ですが、年内には完成するそうなので、窓口で購入を予約してきました。完成次第、送料無料で各予約者へ郵送してくれるそうです。到着が楽しみです!
今回は、久々に鎌倉へ行けて良かったです♪

足利尊氏の顔だち、ついにこれで決まり? 肖像画の写しが発見される

先月27日にニュースとして報道された、毎日新聞や朝日新聞等の記事によると、室町幕府初代将軍・足利尊氏の没後間もない14世紀末に描かれたとみられる、尊氏の肖像画の写し(下の画像)が発見されました。

尊氏_01

今回確認された「足利尊氏像」は、個人が所有しているもので、栃木県立博物館の本田諭特別研究員や鎌倉歴史文化交流館の高橋真作学芸員などが、資料調査の際に発見しました。
大きさは縦88.5センチ、横38.5センチで、軸装された画の下側に正装して着座する人物が描かれており、上方には十数行にわたって画中の人物の来歴が文章で綴られています。
その文章の中に、尊氏を示す「長寿寺殿」という言葉があり、また、尊氏の業績として知られる国内の66州に寺や塔を建立した旨が記されている事などから、この度、尊氏の肖像画であると判断されました。
下の画像は、その尊氏の肖像画写しの、顔の部分を拡大したものです。大きな鼻と垂れ目が特徴的ですね。

尊氏_02

室町時代以前に描かれた事が確実な尊氏の肖像画は、他には広島県の浄土寺が所蔵している「絹本著色(ちゃくしょく)足利尊氏将軍画像」(下の画像)があるのみで、また肖像画以外では、室町幕府第2代将軍の足利義詮(よしあきら)が14世紀に京都の東岩蔵寺に奉納したと云われている「木造足利尊氏坐像」(大分県安国寺蔵)があるだけで、そのため尊氏の顔だちを巡っては今まで意見が分かれてきました。

しかし今回の発見により、今まで分かれていたそれらの意見がまとまる可能性も高く、専門家達は以下のようにコメントしています。
「尊氏の顔がこれではっきりした!」
「垂れ目や大きな鼻の特徴が、2つの作品(前出の、浄土寺蔵の尊氏肖像画や、安国寺蔵の木造の足利尊坐像)と似ている。尊氏はこの通りの顔つきをしていたのでは。意見が分かれる尊氏の顔立ちを伝える貴重な資料だ」
「木像の顔貌(がんぼう)と似た肖像画が出現したのは、尊氏像の議論にとっても重要な発見」

足利尊氏(浄土寺蔵)

ちなみに、今回発見されたこの肖像画の写しは、宇都宮市の栃木県立博物館で今月29日まで公開されるそうです。


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