この世は夢のごとくに候

~ 太平記・鎌倉時代末期・南北朝時代・室町幕府・足利将軍家・関東公方足利家・関東管領等についての考察や雑記 ~

伝説の霊獣「麒麟」(きりん)

3回連続でまた大河ドラマの話題となり恐縮ですが、先月から放送が始まった、室町時代末期(戦国時代)を舞台とした本年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」、今のところ視聴率もかなり高いようで、結構話題になっていますね。毎週放送される度に、ネットニュースでも「麒麟がくる」の内容や登場している俳優の話題が取り上げられていますし。
現時点ではまだ4話までしか放送されていないものの、好評のため、1~3話までが連続して再放送されたりもしましたがこれも異例の事のようです。

私個人としては、第2話のラストで斎藤道三が、実態は兎も角建前としては主君であるはずの(しかも娘婿でもある)土岐頼純を毒殺するシーンが、特に印象に残りました。
毒殺した側の道三を演じた本木雅弘さんと、毒殺された側の頼純を演じた矢野聖人さん、双方の熱演・怪演は鬼気迫るものがあり、「さすがプロの役者さんだな!」と大いに感心させられました。
「麒麟がくる」序盤の現在は、主人公である光秀は特にまだ目立った活躍はしておらず、実質、道三が主人公みたいな感じですね(笑)。

本木雅弘さんが演じる斎藤道三


以下の写真2枚は、昨年8月に私が九州(福岡市・熊本市太宰府市など)を旅行した際にお参りした太宰府天満宮の境内で撮影した「麒麟(きりん)」の像です。
本年の大河ドラマ「麒麟がくる」のタイトルにもなっている、仁政を行う王の元に現れるとされる伝説の霊獣「麒麟」は、これの事です。何となく、西洋の霊獣「ユニコーン」にも似ています。

太宰府天満宮の麒麟の像_01

太宰府天満宮の麒麟の像_02

実在の動物のキリンは、この霊獣「麒麟」に似ている事から、そう呼ばれるようになったそうです。ちなみに、東洋に於ける伝説の霊獣としては、麒麟の他には、霊鳥の「鳳凰(ほうおう)」が有名です。
現在、一般に広く普及している本将棋(古式でいう小将棋)には存在しませんが、古式将棋である「中将棋」や「大将棋」には、「麒麟」や「鳳凰」などの駒も存在します。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

本年の大河ドラマには、剣豪将軍として知られる足利義輝が登場します!

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」

今月19日から放送が始まった、本年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第1話、早速見ました。

第59作となる今回の大河ドラマの主人公である明智光秀に対しては、正直なところ、個人的に特にこれといった思い入れはありませんが(光秀の事は別に好きでも嫌いでもありません)、私が昔から強い関心を抱いていた室町幕府第13代将軍 足利義輝が本年の大河に登場するらしいと知ったので、義輝が大河の中でどのように描かれるのかが楽しみで、まずは第1話を見てみました。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」 明智光秀


義輝は、少し前までは、同時代に綺羅星の如く存在する数多くの有名な戦国武将達の影に隠れて、影の薄いマイナーな存在でしたが(最後の室町幕府将軍 足利義昭よりもマイナーでした)、近年は、歴史ゲームや歴史小説などの影響なのか、「将軍としての権力は極めて脆弱だったものの、ひとりの武士としては剣技を極めた、メチャメチャ強かった剣豪将軍」「歴代の征夷大将軍の中でも、類例を見ない程の壮絶な最期を遂げた悲運の将軍」として、若い世代にも知られています。
ただ、今回の第1話には、向井理さんが演じるその義輝は登場しませんでした。第2話以降には登場するそうなので、個人的には期待しています♪

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」 足利義輝
向井理さんが演じる足利義輝_01
向井理さんが演じる足利義輝_02


足利将軍としては、今回の大河には、義輝の他に義昭も登場するそうです。というか、主人公・光秀との関係性で考えるなら、今回のドラマに於けるメインキャラは、むしろ義輝ではなく義昭のほうですよね。光秀は、信長に仕える前は義昭の家臣でしたから。
ちなみに、義昭は、個人的には昔からどうしても好きにはなれない人物です(笑)。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」 足利義昭


で、とりあえず、「麒麟がくる」の第1話を見た感想ですが、私としては、面白かったです。
この第1話に対して、ネットなどでは賛否両論があったようですが、私は、大河ドラマはあくまでもフィクションであり、娯楽時代劇として楽しむものと認識していますから、厳密な時代考証や風俗考証などをも求めるのは「そもそも野暮ってものでしょう」と思っています。
厳密な考証に基づく歴史ドラマを作成するのであれば、あくまでも、幾多の議論を経て定説として完全に定着している一次資料のみに忠実なドラマを作るべきですが、そんなドラマは、多分堅苦しくてつまらないでしょうしね(笑)。

今回の大河ドラマ、フィクションの割には、
「土岐氏からの美濃奪取は、斎藤道三 一代によるものではなく、斎藤親子二代により成されたもの」
「濃姫にとって、信長との結婚は再婚で、濃姫はその前に一旦土岐家に嫁いでいた」
などの、最新の研究成果が設定やストーリーにも採り入れられていて、そういった所も興味深かったです。

あと、延暦寺の僧兵達が、関所で通行人に暴力を振るうなどのシーンもありましたが、あれは恐らく、歴史的な大事件として知られるあの「比叡山焼き討ち」への伏線なのでしょうね。
比叡山の焼き討ちを命令したのは信長ですが、現地での実働部隊としてその中心的な役割を果たしたのは光秀ですし、その事後処理も光秀が一任されていますから。

最終話まで見るかどうかはまだ分りませんが、とりあえず、義輝が壮絶な最期を遂げる「永禄の変」までは、本年の大河、毎週見てみようと思います。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

大河ドラマ新作の主人公が、鎌倉幕府第2代執権の北条義時になると発表されました

2年後の令和4年に放送される、第61作となるNHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」というタイトルの作品となる事が、先日NHKから発表されました。
作品の詳細な内容は不明ですが、主人公は、鎌倉幕府第2代の執権で北条得宗家の祖となった北条義時(下の画像は彼の肖像画)、その義時役は俳優の小栗旬さんが演じ、脚本は、「新選組!」と「真田丸」に次いで大河ドラマ3作目となる三谷幸喜さんが担当する事なども、併せて発表されました。

ちなみに、タイトル中の「13人」とは、源頼朝没後に発足した、幕府の集団指導体制「十三人の合議制」を構成した御家人達の事を指しているそうです。まぁ、結局その集団指導体制は、発足してから程なく崩壊する事になるわけですが…。

北条義時


北条義時がドラマの主人公になるという事は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての大変革期(動乱)の時代が、恐らく、ほぼ1年かけて丁寧に描かれる事になるのでしょう。
という事は、まだどうなるかは分りませんが多分、ドラマ前半のハイライトは、以仁王の挙兵から壇ノ浦で平氏が滅亡するまでの所謂「源平の合戦」、ドラマ中盤のハイライトは、幕府成立後の頼朝による独裁政治(義経が討たれる所も含めて)と、頼朝没後に幕府内で行われたドロドロの権力闘争(北条氏が他の有力御家人達を粛正して幕府の実権を完全に掌握するまで)、そして後半のハイライトは、後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げ後に “主上御謀叛” とされた「承久の乱」、という感じでしょうか。

昨年放送された大河ドラマ「いだてん」は珍しく違いましたし、過去作の一部(草燃える、太平記、北条時宗、平清盛など)にも違うものはありましたが、一部の例外を除くとNHKの大河ドラマは、時代設定が「戦国時代」もしくは「幕末」のふたつの時代にほぼずっと固定されていましたから、鎌倉時代や南北朝時代など他の時代も好きな私にとって、今回発表された新作大河「鎌倉殿の13人」の放送は、今から楽しみです!

個人的にも、北条義時という武将は、昔から「ずっと気になっていた人」です。好感の持てる人物かどうかと問われると、ちょっと微妙ではありますが(笑)。
北条政子が事実上の主人公だった、昭和54年の大河ドラマ「草燃える」(古い作品なのでさすがに私もオンエアでは見ておらず、総集編のビデオでしか見た事ありませんが)で、松平健さんの演じた北条義時が、私の中では今でも強烈に印象に残っています。
当初は、伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎず、性格も純朴で涙もろいおぼっちゃんだった義時が、権謀術数の限りを尽くして政敵を次々と追い落としていく冷徹な政治家へと変貌していき、幕府の事実上のトップに立って朝廷をも完全に制圧し、北条氏による独裁政権を築いていく様は、なかなか興味深く見応えがありました。
まぁ、一個人として性格が良かったかどうかは兎も角(笑)、義時が日本の歴史上屈指の有能な政治家・武将のひとりであった事は、間違い無いでしょうね。

義時以外にも、鎌倉幕府を支えた歴代の執権には有能な人物が多く、例えば、鎌倉幕府の基本法にして日本最初の武家法「御成敗式目」を制定し、人格的にも優れ武家・公家の双方から人望が厚かったと伝わる第3代執権の北条泰時、敵対勢力を次々と潰して執権権力を着々と強化していく一方で、民衆に対しては徹底した善政を敷いた事で後世にまで名君として伝わり、能の「鉢の木」のエピソード(廻国伝説)などでも語り継がれていった第5代執権の北条時頼、得宗権力の更なる強化を図る一方で、元寇(当時世界最大の帝国であったモンゴル帝国による日本侵略)に対峙し二度に亘る元寇を退けた事で “日本の国難を救った英雄” と評された第8代執権の北条時宗などは、現在も名執権として評価されていますが、彼らがその能力を存分に発揮出来る下地を作り上げたのは、第2代執権で得宗家の祖となった義時であったともいえます。
義時の時代に、執権が、将軍の単なる補佐役ではなく、幕府最高権力者の地位であるという事が確定し、更に、武家政権である幕府が公家政権である朝廷に対しても支配的な地位を持ち、幕府が事実上の全国統一政権となったわけですから。


ところで、朝廷と対決した人物というのは、日本の歴史上、義時以外にも何人かいます。天皇もしくは上皇から追討の勅が下されて正式に「朝敵」と認定され人物として、特に代表的な人物を挙げると、例えば義時以外では以下のような人達がいます。

藤原仲麻呂 (恵美押勝の乱を起こして孝謙上皇から政権奪取を企むも、官軍に敗れて敗死)
平将門 (朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し東国の独立を標榜した事により朝敵とされ、 討伐された)
源頼朝 (兄である頼朝と対立した義経が、後白河上皇に頼朝追討の院宣を迫り出させるが、頼朝の圧倒的な優勢により、上皇は直ぐにその院宣を取り消した)
源義経 (自分への追討の院宣を取り消させた頼朝が、逆に義経追討の院宣を出させた)
北条高時 (後醍醐天皇により朝敵とされ、一族とともに自害して果て、鎌倉幕府は滅亡するものの、後に遺児である北条時行が南朝に帰参したため、死後に朝敵を赦免された)
北条時行 (鎌倉幕府再興を掲げて「中先代の乱」を起こして建武政権と対峙したため、後醍醐天皇から朝敵とされたが、後に南朝に帰参したため、朝敵を赦免された)
楠木正成 (南北朝の戦いは北朝の勝利で終わったため、北朝や足利氏との戦いで討死した者達は正成も含め全て朝敵とされたが、永禄2年、正成の子孫を称する楠木正虎の嘆願により、正親町天皇から勅免が下され、正成は正式に朝敵から外された)
武田勝頼 (織田信長が朝廷を動かして、武田家当主の勝頼を朝敵とした)
徳川慶喜 (薩長らの倒幕勢力が朝廷を動かして慶喜追討令を出させるが、慶喜本人は朝廷への徹底恭順を示したため、後に赦免され、明治維新後、名誉を回復して従一位勲一等公爵、貴族院議員などになった)

しかし、朝廷と対決し「朝敵」という不名誉な烙印を押されてしまったこれらの人物(実際にはもっといますけど)の中で、実際に朝廷を完全に敗北させてしまった武将(実質、朝廷を倒してしまった人物)は、日本の歴史上、義時ただひとりです。
しかも追討の勅というのは、少なくとも中世以降は、朝廷の強い意思によって出される事は稀で、ほとんどの場合、時の有力な権力者が政敵を討伐する口実が必要になった時、保護下にある朝廷から引き出す形で下されたのですが、義時追討令だけは、朝廷(後鳥羽上皇)の強い意志によって出されており、それだけに、朝廷主導のその義時追討が失敗し、それによって、鎌倉幕府が京都の朝廷を出し抜いて全国的な統一政権へとなり、以後、武家政権が全国を支配するという政治体制が、建武の新政などの一時期を除いてほぼ途切れる事なくずっと、江戸幕府が崩壊するまで続く事になるわけですから、その歴史的な意味は極めて大きいものがあります。

そして、そういった事も踏まえて考えると、前述の「一個人として性格が良かったかどうか」なんてのは、歴史上の人物の偉業を論じる際には、別にどうでもよい事なのかもしれません。
そもそも性格の話なんかをしだしたら、日本史の偉人の中で絶大な知名度を誇る源頼朝、足利義満、織田信長、晩年期の豊臣秀吉なども、もし自分の身近にいたとしたら、多分あまり近づきたくはないタイプですからね(笑)。

ちなみに、歴史学者の細川重男さんは、義時について、「義時の生涯は降りかかる災難に振り回され続けた一生であった。その中で自分の身と親族を守るために戦い続けた結果、最高権力者になってしまった」 「頼朝の挙兵がなければ、一介の東国武士として一生を終えたであろう」などと評しており、個人的には、こういった評価もなかなか興味深いです。
「鎌倉殿の13人」で、その義時がどのように描かれるのか、今からとても楽しみです♪


ところで、NHKからの今回の発表を受けて、鎌倉市の松尾崇市長は、以下のように喜びのコメントを発表しています。
「鎌倉幕府の礎を築いた北条義時公が主人公となった事を大変喜ばしく思っています。また、三谷幸喜氏作と聞いており、今からとても楽しみです。今後、本市としても大河ドラマの放映と連動した取り組みを進め、鎌倉が育む歴史文化の魅力発信やシティープロモーションにつなげて参りたいと考えています。」

それに対して、小田原市の加藤憲一市長は、NHKからのこの度の発表を受けて「率直に、がっくりきた」と、失望感をあらわにしたコメントを発表しています。
小田原市は、昨年までの2年間、小田原北条氏5代、所謂「後北条」の初代である伊勢宗瑞(北条早雲)の没後500年に合わせた顕彰事業を展開しており、その一環として、所縁の市町と共に後北条氏5代を大河ドラマに取り上げるよう要望活動にも取り組んできただけに、同じ県内が舞台で、しかも同じ「北条」が選ばれた事がショックだったようで、報道によると小田原市の関係者達からは、「手応えを感じ、期待していただけに残念」「同じ北条姓で、後北条は先送りになるのではないか」「落胆せずに、また粘り強く活動していく」などの声が出ているそうです。

今回の件で、鎌倉市と小田原市が示した反応は正反対で、まさに “大河ドラマ悲喜こもごも” です…。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

京都にある史跡「足利義輝邸跡」と、義輝の壮絶な最期

本年の8月下旬、所用により、2泊3日の日程で関西に行ってきました。
主に京都・大阪・神戸を回ってきたのですが、京都では私一人だけで行動する時間が少しあったので、その際に、以前から一度訪れてみたいと思っていた、地下鉄烏丸線 丸太町駅の直ぐ近くにある「足利義輝邸跡」を、サクっと一人で見学してきました。

足利義輝邸跡_01

ここは、現在は「平安女学院」という学校の京都キャンパス(同学院の大学・高校・中学校・学院本部などが置かれています)の敷地の一部で、かつて義輝邸があった事などを示す石柱がただ立っているだけで、当時の面影は微塵もありませんが(そもそも室町幕府や足利将軍家関係の史跡は、金閣・銀閣・相国寺等持院などの一部を除くと、大抵はどこも往事の面影など全くありませんが)、かつてはこの地に、室町幕府第13代将軍の足利義輝が屋敷を構え、この地で将軍として政務を執っていました。

足利義輝邸跡_02

義輝は、近年は「剣豪将軍」として知られており、実際、室町幕府に限らず我が国の歴史に登場する歴代の征夷大将軍の中では、一個人が持つ剣技としては間違い無く最強の人物であったと私も思っていますが(一説によると義輝は、剣聖と称された塚原卜伝から指導を受けた直弟子のひとりで、その卜伝から奥義「一之太刀」を伝授された、とも云われています)、ここは、その義輝が壮絶な最期を遂げた場所でもあります。

足利義輝邸跡_03

義輝の最期は、いくつかの異説はあるものの一般には、概ね以下のようであったと伝えられています。但し、これについても、江戸時代後期以降に創作された武勇伝であるという説もありますが。

松永久秀と三好三人衆らは、邪魔な存在となった将軍・義輝を弑逆すべく、約1万の軍勢で義輝の屋敷を襲撃しますが、剣豪レベルにまで鍛えまくっていた義輝は自身で直接刀や薙刀を振るい、屋敷の中に入り込んできた軍勢を次々と斬り殺し、血や脂が付いて切れ味が悪くなると、自身の周囲の畳などにぶっ刺した予備の刀を握りしめてまた戦うなどしたため、松永勢はいつまで経っても義輝一人を討ち取る事が出来ませんでした。そこで、最後は四方から一斉に畳を義輝に覆い被せ、それらの畳の上から一斉に突き刺して義輝を殺害しました。

他にも、「大勢の槍刀によって傷ついて地面に伏せた義輝を、一斉に襲いかかって殺害した」とか、「槍で足を払われた義輝が倒れたところを、上から刺し殺した」とか、「義輝は自ら薙刀や刀で戦った後、自害した」などとも云われておりますが、兎も角、壮絶な最期だった事は間違いないようです。

ただ、義輝のこの壮絶な最期は、武勇伝として「剣豪将軍」の名を大いに高めはしましたが、一介の武士としてなら兎も角、全国の大名達を率いる征夷大将軍としては決して賞賛されるべき最期ではなく、武家の棟梁であるはずの将軍の権威が完全に失墜した事を全国に強く印象付ける事件となりました。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村

九州国立博物館で開催されていた特別展「室町将軍展」を観てきました

前々の記事で述べた通り、私は先月下旬、九州へと行き、熊本県立美術館(熊本県熊本市)と九州国立博物館(福岡県太宰府市)でそれぞれ開催中の特別展を観覧してきました。

前回の記事では、その2つの特別展のうち、旅行1日目に観てきた熊本県立美術館の特別展「日本遺産認定記念 菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」について詳述しましたが、今回の記事では、旅行2日目に観てきた九州国立博物館の特別展「室町将軍 戦乱と美の足利十五代」について、私の思った事などを記させて頂きます。

太宰府天満宮参道


旅行2日目(1泊2日の旅行なので最終日です)の朝、前夜宿泊した熊本市から九州新幹線、在来線、西鉄線などを乗り継いで太宰府市に着いた私は、先ず、京都の北野天満宮と共に全国の天満宮・天満神社・菅原神社などの総本宮として知られる「太宰府天満宮」を参拝・見学し(上の写真は、西鉄の太宰府駅からその太宰府天満宮へと伸びる参道で撮ったものです)、それから、同宮に隣接する九州国立博物館へと行って、同館で開催されていた特別展「室町将軍展」を観覧してきました。
そもそも今回の九州旅行は、九博でのこの特別展が観たくて企画したものだったので(しかもこの特別展は他都市には巡回しないので、この機を逃すともう観る事は出来ないのです)、観覧出来て良かったです!
私は、会場内では有料(500円)の音声ガイドも利用しながら、この特別展、じっくりと観てきました♪

特別展「室町将軍展」チラシ_01

特別展「室町将軍展」チラシ_02


ところで、実際に室町幕府が置かれた京都や、室町幕府と直接的な関わりは薄いものの足利氏発祥の地である栃木県の足利で、足利将軍に関する特別展が開催されたというのであれば普通に分りやすいのですが、なぜ、足利氏と特に関係が深そうではない太宰府の九州国立博物館でこの度の特別展が開催されたのかというと、それは主に、以下の2つの理由によるそうです。

後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、建武政権の発足後、後醍醐天皇に離反して九州へと逃れるが、多々良川を挟んで南朝方の菊池武敏らと対峙しその合戦に勝利した後は、太宰府原山に入って約1ヶ月間滞在し、そこで、尊氏に味方して軍忠を尽くした武士達の恩賞申請の受理や審査を行ったり、九州の反足利方の討伐指令を出すなどし、その後、尊氏は京を目指して快進撃を続け、結果、室町幕府が開かれる事となった。

九州国立博物館は「日本文化の形成をアジア的観点から捉える」という基本理念に基づいて博物館活動を行っており、室町将軍(特に第3代将軍の足利義満)が積極的に主導した東アジアとの交流や、それによって創出された新たな文化は、その後の日本に大きな影響を与えた。

…などの理由から、この度、九博ではこの特別展を開催する事にしたそうですが、前出の特別展ポスターには、「これって、義満が主人公の、義満についての特別展か?」と思える程、義満の木像顔面が際立つ形で掲載されているので、どちらかというと、②のほうが理由としては大きいのかもしれませんね。


今回の特別展では、足利将軍家の菩提寺として知られる京都の等持院が所蔵している足利歴代将軍の木像13体が、特別展に於ける “目玉” として出展・公開されましたが、現在その等持院は、耐震補強に伴う解体修理工事中のため、方丈(本堂)や、普段歴代将軍の木像が奉安されている霊光殿の拝観を停止しており、つまり、歴代将軍の木像全てを寺外に出展して貰うためには等持院が工事中の今が都合が良かった、といった事情も、もしかしたらあったのかもしれませんね。まぁ、これについてはあくまでも私の推測ですが。
ちなみに、足利歴代将軍全15人のうち等持院の将軍木像は、第5代の義量と第14代の義栄の2人を欠いているため13体で「全て」となり、その13体全てが等持院の外でこのように揃ったのは、今回が初めての事だそうです。

足利歴代将軍一覧_01

足利歴代将軍一覧_02

以下の写真6枚は、いずれも私が特別展の会場内で撮影してきた、その足利歴代将軍木像です。原則として会場内は写真撮影禁止でしたが、例外としてこれらの木像のみ、「ストロボ発光禁止」「所定の位置からのみ撮影可」という条件付ながら、カメラでの撮影が許可されていました。
全13体の歴代将軍木像が、半円状にズラっと横一列に並んでいる景観は、圧巻でした!

足利歴代将軍木像_01

足利歴代将軍木像_02

足利歴代将軍木像_03

足利歴代将軍木像_04

足利歴代将軍木像_05

足利歴代将軍木像_06


以下の画像2枚は、今回の特別展のチラシの一部と、会場で配布されていたワークシートです。興味深い内容となっておりますので、これらの画像も、是非それぞれクリックし拡大表示させて御覧になって下さい。

特別展「室町将軍展」チラシ_03

特別展「室町将軍展」ワークシート


上の2枚の画像では、どちらも、足利義稙(第10代将軍)と足利義澄(第11代将軍)の、いとこ同士でもある二人の将軍の対立がクローズアップされていますが、その二人の対立(特に、義澄から義稙への憎悪)を特に象徴するのが、今回の特別展でも展示されていた、下の画像の「足利義澄願文(石清水八幡宮文書)」です。

足利義澄願文(石清水八幡宮文書)

国の重要文化財にも指定されているこの文書は、第10代将軍の義稙(但し1回目の将軍在職時の名は義材で、義稙という名は、2回目の将軍在職時から名乗るようになった名です)が将軍職を更迭された「明応の政変」の後、細川政元らによって第11代将軍に擁立された義澄が、源氏一門の氏神とされる石清水八幡宮に奉納した、自筆の願文です。
願意の筆頭に、憚る事なく堂々と、今出川義材(いまでがわよしき)、つまり足利義稙の死去を挙げている事に、先ず驚かされます。現将軍が前将軍の死を神仏に願うなど、鎌倉幕府や江戸幕府の歴代将軍間の関係ではまず考えられない事でもあります。

義稙の父である足利義視は、その邸宅の所在地から「今出川殿」と呼ばれ、そのため義澄はこの願文で、義稙を「足利」ではなく「今出川」と記しているのですが、そこには自分こそが足利家の正統であるという強い主張が込められており、義稙へとの強烈な敵愾心が感じられます。
ちなみに、願意の二つ目は、義稙の弟で醍醐寺三宝院の前門主・周台の死去、3つ目は自らの威勢の伸張、4つ目は諸大名が上洛し自らの政権を支える事、5つ目は無病息災を願っています。

結局、義澄の願意は叶わず、義澄が「死んでくれ!」と願う程に忌み嫌っていた義稙は、大内家の軍事力や細川家の一部の勢力に支えられて上洛を果たし、将軍職をめぐって義澄と義澄との抗争が始まりました。そして、その抗争の最中、当の義澄は病死し、義稙側は合戦にも勝利したため、義稙は見事将軍への復職を果たしたのでした。
もっとも、折角将軍に復職した義稙も、結局は政権運営を投げ出して出奔し、事実上将軍職を奪われる形となり、逃亡先の阿波で病死するんですどね…。
ちなみに、実子のいなかった義稙が養子としていた義冬(義維)は、その後、平成29年10月30日の記事で詳述した「平島公方」(阿波公方)の祖となりました。


下の写真は、九博内で限定販売されていた、足利歴代将軍(とはいっても15人全員ではないんですけどね)の花押入りトートバッグです。
私の場合、今までトートバッグを使った事はほぼ全くないのですが、「なんというマニアックなトートバッグだ!」と感心して、特別展を見終えた後、自分自身へのお土産として特別展観覧記念に買ってきました。ちなみに、お値段はお手頃な1,600円也。
花押を知らない人が見たら、梵字が書かれているようなバッグに見えるかもしれませんね(笑)。

トートバッグ


というわけで、短かったですが、とても充実した九州旅行でした♪
しかし次に九州へ行く時は、やはり、少なくとも2泊くらいはしたいですね~。


にほんブログ村 歴史ブログ 鎌倉・室町時代へ

にほんブログ村
プロフィール

たが

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ